直虎と左馬助公

1. 新野氏と新野左馬助親矩公
新野氏は、鎌倉御家人新野太郎に始まり、『吾妻鑑』には建久元年(1190)に、新野太郎の名前が登場し、東遠地域の名族として横地氏、勝間田氏とともに活躍します。その後、鎌倉末期、南北朝期において衰退したところ、今川氏の祖国氏の三男俊氏の子俊国が、新野氏の名跡を継いだものと考えられています。                   
この今川系新野氏は、現在の御前崎市新野を本貫の地とし、「嘉吉の乱」や「応仁の乱」、また今川義忠が塩買坂で不慮の死を遂げたあとの相続争いにおいて、今川一族として登場してきます。

新野左馬助公は、正式には新野左馬助親矩(ちかのり)といい、今川一族新野氏です。
 新野村三千石の地頭でありながら、左馬助公が井伊谷に住み、井伊家と関係を持った経緯は、『井伊家伝記』では、次のように記述しています。
 
 新野左馬助ことは、遠州城東郡新野村三千石の地頭、今川義元の親族。左馬助妻は、奥山因幡守妹。又左馬助妹は、井伊信濃守直盛公の妻也。右の重縁故、城東郡新野郷を隠居、井伊谷へ引越し居住。居住の屋敷今以て新野と申し之れ有り。

左馬助公の井伊谷入りの時期は、今川家と井伊家の和睦が成立した天文5年(1536)から天文10年(1541)ころと推測されます。和睦の条件として、今川一族の左馬助公を目付役家老として井伊家に付属したものと考えられています。
左馬助公は、目付役でありながら、この重縁により、妹婿である井伊直盛公の桶狭間戦死後の井伊家の危機を、今川家との間を懸命にとりまとめ井伊家を支えますが、永禄7年(1564)引馬城攻めで無念の死を遂げます。
(遠江井伊家物語シリーズ「新野左馬助 ―直政命の恩人―」)
2.井伊直虎公(次郎法師)と左馬助公
 井伊直虎公(次郎法師)は、井伊家22代当主・直盛公の一人娘で、左馬助公の姪になります。直盛公には男子がないため、早くから従兄弟の井伊直親(亀之丞)を許嫁(いいなずけ)として家督を継がせる予定でしたが、亀之丞の父(直満公)が今川氏に殺され、亀之丞自身も命を狙われたため、能仲和尚の計らいで信州高森の松源寺に身を隠します。
 次郎法師は、悲観し龍潭寺で出家します。後年、亀之丞は井伊谷に戻り、奥山氏の娘と結婚し一児をもうけます。この子(虎松)が後の直政公です。
 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで次郎法師の父・直盛公が戦死します。
永禄5年(1562)「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」という事件が起こります。12月、井伊家筆頭家老小野但馬は、「直親公が家康と内通し、近日信長、家康の軍勢が遠州に発向する風説あり」と今川氏真に讒言(ざんげん)します。井伊家は、今川一族である新野左馬助公を駿河に遣わし、直親に異心なきことの申し開きをします。さらに、直親公自身駿河に行き陳謝しようと、僅か19名の供を従え掛川城下を通過するとき、朝比奈備中守の兵に取り囲まれ合戦に及びますが、主従すべて討たれてしまいます。
この時、虎松は僅か2歳。氏真より虎松誅殺の命が出されますが、駿河にあった左馬助公が身命に替えて虎松の助命を嘆願し、許されて虎松は左馬助公宅に保護されます。
ついに井伊の名を継ぐ男子は、直親公の遺児虎松(後の直政公)ただ一人になり、龍潭寺南渓和尚の計らいで次郎法師はその後見人として井伊直虎と名乗り、女領主として井伊家を支えました。

 新野左馬助公は、今川一族でありながら、直盛公内室(松岳院:左馬助公妹)の子である直虎(次郎法師)を助け、直親公の遺児虎松(後の直政公)を新野屋敷で養育し、井伊家最大の危機を救ったことは、後々まで伝えられます。

 左馬助公は、永禄7年(1564)年9月、天馬橋(安間橋)で討死し、その後、虎松は龍潭寺境内松岳院において、松岳院(左馬助公妹)、次郎法師、虎松実母に8歳まで養育されます。
(遠江井伊家物語シリーズ「新野左馬助 ―直政命の恩人―」)
3.井伊直虎公(次郎法師)の最後
 女性地頭・井伊直虎の在任期間は、永禄8年(1565)から永禄11年(1568)秋までの4年間です。その後、次郎法師は井伊城から出て、龍潭寺境内松岳院で母(松岳院:左馬助妹)と共にひっそりと暮らしていたと想像されます。
 天正2年(1574)、14歳に成長した虎松が鳳来寺より戻り、次郎法師、松岳院、虎松実母は、虎松を徳川家康に出勤させ、井伊家再興を目指します。家康公にお目見えした衣装、御小袖二つは、次郎法師母子より御仕立遣わされたものと『井伊家伝記』は記しています。
 天正6年(1578)7月、次郎法師の母(松岳院:左馬助公妹)が逝去。
 天正10年(1582)8月、次郎法師は、松岳院で逝去します。
『遠江井伊氏物語』
4.その後の新野家と左馬武神社
 井伊直政公(虎松)は、関ケ原合戦後彦根18万石城主に出世します。直政公は、命の恩人である新野左馬助公に報いるため、左馬助息女を直政公の重臣に婚礼させています。また、井伊家においては、新野左馬助公の忠節を歴代語り伝えてきたものと思われ、幕末になり34代・井伊直中公は、その子・井伊中守公(親良)に新野左馬助親矩公の名跡を相続させ、新野家を再興します。
 井伊中守公は、大老直弼の兄で、江戸時代末に新野左馬助家を再興した事実の中に、左馬助公の忠節によせる井伊家の篤き報恩の念を知ることができます。
                   『遠江井伊氏物語』
 名跡相続後、新野村に左馬助公の墳墓調査を行い、間蔵に墓石を発見しますが、この地が現在の左馬武神社です。新野左馬助公顕彰会では、毎年、新茶を献上する「献茶祭」を行い、左馬助公の遺徳を偲んでおります。
5.能仲和尚について
 亀之丞(後の井伊直親)を信州松源寺に逃がしたのは、今村藤七郎と能仲和尚です。この能仲和尚は、東光院住職であり、「当寺能仲和尚新野産、俗縁有故ニ山ノ後ニ新野場トアリ」と「渋川村古跡事」にあります。
 新野左馬助公は、同郷の師である能仲和尚と懇意であったことから、遺命により死後のことを能仲和尚の寺・東光院に託しています。
                 『新野左馬助公の御人格を偲びて』追補

 ※本文の記述については、主に『遠江井伊氏物語』、『新野左馬助公』、『新野左馬助公の御人格を偲びて』などから引用、参照しています。