新野左馬助公のお話し

(1) 今から400年以上前の、戦国時代のお話です。
新野村に、新野左馬助親矩という武将がいました。左馬助様は、新野村など三千石の土地を治め、舟ヶ谷城というお城の城主でした。左馬助様の生きた時代は、戦国の時代でしたが、様々な戦いで勇敢に立ち向かう勇敢な武将である一方、大変情け深いお方でした。


(2) 新野左馬助様の家は、戦国大名として有名な今川氏の一族でした。
 また、左馬助様は、浜名湖の北側一帯を長く治めてきた名族井伊家とも親戚となり、井伊家の家老となって新野村を離れ、井伊谷に移り住みました。
 左馬助様の妹は、井伊家の直盛様と結婚しました。また、左馬助公は、井伊家の一族奥山家の因幡守(いなばのかみ)の妹と結婚しました。


(3) 左馬助様が井伊谷に住み始めたころ、直盛様の叔父さん直満様が、今川義元に殺されるという事件が起こりました。
直満様には、亀之丞という男の子がいました。直盛様には、娘が一人いましたが、家を継ぐ男の子がなかったため、この亀之丞を養子にして娘と結婚させる約束でした。
そのような時に直満様が殺され、子の亀之丞も殺されそうになったため、今の長野県高森町にある松源寺というお寺に逃げました。
直盛様の一人娘は、亀之丞と結婚する約束をしていましたので、亀之丞が松源寺に逃げている間に、生きて帰らないと悲しんで、お寺に入り次郎法師と名乗って、結婚をあきらめました。

(4) およそ10年後、亀之丞は安全になったことから、井伊谷に帰って来ました。このとき、亀之丞は、奥山家の娘と結婚していました。亀之丞は、約束どおり直盛様の養子になり、直親と名乗りました。
その5年後のことです。今川義元が、今の愛知県にある桶狭間という所で織田信長と戦って戦死しました。この時、直盛様も戦死しました。
 この後、直親様には、男の子が生まれます。名前を虎松といい、後に、井伊直政と名乗り、徳川家康の家臣となります。
 
(5)虎松が生まれた翌年、父親の直親様は、今川氏真から疑いをかけられます。今川氏真は、自分を裏切る家臣が多いため、直親様が、敵の徳川家康と仲良くするのではないかと疑います。
 左馬助様は、今川家の一族であったので、氏真の疑いを晴らそうと一生懸命弁明します。直親は、疑いを晴らすため氏真の住む駿府に向かいますが、その途中、掛川で、城主の朝比奈泰朝によって、18人の家臣とともに殺されてしまいます。

(6)このとき、直親様の子供、虎松はわずか2歳でした。この虎松にも危険が迫ってきました。
 左馬助様は、自分の命を懸けて虎松の命を助けるようお願いし、左馬助様の屋敷で育てる許しを得て、虎松とその母を保護しました。
 この虎松こそ、後に徳川四天王の筆頭にまで昇り、見事井伊家を再興させた井伊直政です。

(7)その後、左馬助様は、今川氏真の命令で、浜松の引馬城の飯尾連竜(いのお つらたつ)を攻めましたが、戦いに敗れ、引馬城の東にある安間橋(天間橋)で戦死しました。これは、永禄7年(1564)9月15日のことでした。左馬助様が亡くなった後、奥様は夫である左馬助様の気持ちを忠実に守り、たいへん困難な中で虎松を守り育てました。

(8)翌年、直盛様の一人娘次郎法師は、虎松の後見として井伊家の当主となり、直虎と名乗ります。ここに、「おんな城主 直虎」が誕生しました。
その後、永禄11年(1568)になり、虎松の命が狙われ、危機が迫ってきたため、井伊谷にある龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚(なんけいおしょう)は、現在の愛知県にある鳳来寺(ほうらいじ)に虎松を逃がします。この時、虎松は8歳でした。

(9)15歳になった虎松は、直虎様、直虎様の母親である祐椿尼(ゆうしゅんに)、そして、松下源太郎に再婚していた実の母親によって、浜松城主であった徳川家康が鷹狩りに来たときに会うことができました。
 家康は、虎松の父親である直親様が、家康に味方することを疑われて今川氏真によって殺されたことを覚えていたため、罪滅ぼしになろうかと虎松を家来にしました。虎松は、家康から万千代という名前と300石をいただきました。

(10)万千代(虎松)は、天正10年(1582)に23歳になり、4万石の士大将(さむらいたいしょう)となって元服し、井伊兵部少輔直政(いいひょうぶしょうゆうなおまさ)と名乗りました。また、武田家の旧臣の赤備勢を家臣にしたので、この後、「井伊の赤備」(いいのあかぞなえ)と呼ばれます。

(11)万千代(虎松)が元服し、直政と名乗る少し前、8月26日に直虎(次郎法師)様が亡くなり、直政様は涙を流し悲しみました。
 このように、井伊家と左馬助様は、深いつながり、ご縁があったことをお分かりいただけたと思います。

(12)左馬助様が亡くなった後、300年近い年月が過ぎた江戸時代の末期、井伊家ではなお左馬助様のご恩を忘れてはいませんでした。井伊親良様は、新野左馬助の名跡を相続し、祖先の地新野村を訪ねて来られ、左馬助様のお墓を探されました。そして、やっとのことで間蔵(まぐら)の山の中腹にお墓を見つけました。そこには、立派な石棺があり、中には五輪塔がありました。石棺には、新野家の家紋があったので、左馬助様のお墓と確信し、左馬武神社としてお祀りしました。
 乱世の日本に生きた新野左馬助親矩様の情けに篤く、義を尊ぶ遺徳は、450年以上たった現在においても、私たちの心の中にやさしく入り込み、人としての生き方を示されておられるように思われます。