新野左馬助公顕彰会は、左馬助公の正しいお姿を後世に伝え、以って地域振興と発展に寄与したいと努力しています。
組織・役員
| 役職 | 名前 | その他 |
|---|---|---|
| 会長 | 1名 | 相談役2名 |
| 副会長 | 2名 | 監事2名 |
| 事務・会計 | 核名 | 委員9名 |
新野左馬助公顕彰会設立趣意書
ときまさに下克上の乱世の日本にあって新野左馬助公の示された業績は、人の心と心のふれあいや、人情のうすらぎつつある現今にあって、大いに学ぶべきことであります。
すでに識られているとおり、件の新野左馬助は正式には新野左馬助親矩と言い、その出自は東海の名族今川氏であります。即ち、国氏(1283年卒)より発しているとされております。しかし、それをさかのぼる建久元年(1190)『吾妻鏡』に新野太郎の名前もみられ、前述の左馬助公の新野氏との関係、異同については色々の説があり、いますぐその結論を出すことは不可能でありますが、われわれがいま間蔵の山の中腹にみることができる永い時代を経た墓石は、新野左馬助親矩公のものであることは間違いありません。その様なことから、わが新野の地頭(中世の職名領主)であった新野氏の御墓所として唯一のものであり、400年以上の間、新野を見守っておられたのであります。
さて新野左馬助親矩公とは如何なる事をなされた方か『新野村誌』を中心にして書いてみると次の如くであります。
即ち、井伊信濃守直盛公は今川義元に従って永禄3年(1560)5月19日、尾張の桶狭間の合戦にて織田信長に敗れ、あるじ義元と共に討死しました。又その子直親公は同年12月14日、小野但馬守の讒言により今川氏の怒りをかい、井伊を討つべしとの軍勢を催された時、新野左馬助公、氏真を諌めて云々、直親公自ら駿府におもむき陳謝せんと主従20騎にて馳せかける途中、掛川城下を通過の際、ことごとく氏真の家臣、朝比奈備中守泰朝に討たれ、直親公の首は駿府の今川のもとに送られ、従った家人19名の首はそこに梟首にされたとのことであります(十九首の地名となる)。この時、直親公に男子があり僅か2歳であったが殺されるべきところを助け出し、後の徳川四天王の一人である井伊直政公(彦根藩藩租)をこの世にあらしめたのは他でもない新野左馬助親矩公であります。その後、永禄7年9月15日(1564)今川氏真の命により引馬城(浜松市にある)飯尾連竜を攻めて、利あらずして討死しました。そしてその後、直政公の実母が松下源太郎清景のもとに再嫁する以前は左馬助公の寡婦の因苦の中に撫育成長されたのであります。即ち左馬助公の義心、そしてまた、彼の妻が夫の心情に忠実であたった。その夫婦の心の強く、かたい結びつきは現代の我々の大いに学ぶべき鑑ではないでしょうか。
時代は下って明治以後になって行われた日清、日露、また第一次、第二次世界大戦(大東亜戦争)等、それが示す意義は別の問題として、戦いに従軍した我々の先祖や同胞の多くは左馬助公を祀る新野左馬武神社に武運長久を祈願、御守符を肌身につけ心の拠りどころとして銃弾下、護国の名のもとに戦ったのであります。
このような左馬助公に対して私達はこれまであまりにも無関心に過ぎたのではないでしょうか。たまたま昭和48年頃土地開発や種々の事情のため御墓所の荒廃ぶりを嘆き、何とかしなければ、と言った声が聞かれる様になり、また左馬助公の御子孫も明らかになり、御遺跡保存の運動が盛り上がってまいりました。そして同年『新野左馬助公遺跡保存会』を設立し、事業を円滑に推進して参りました。その後、16年前より手揉み保存会とも合体、また新野未来塾の協力参加を戴き、活性化につとめるも年月の経過と共に会員の高齢化も目立ち、その気運も衰退して参りました。
そこで新野左馬助公をもう一度見直し、その正しい公のお姿を後世に伝えることこそが現代に生きる我々の責務であることを痛感し、またそれが地域振興と産業の発展に連なればと願い、名称も新しくここに『新野左馬助公顕彰会』の設立を思い立った次第であります。
是非、郷土新野のため、この趣旨に御賛同頂きたく、そして大勢の方々の御入会を希望してやみません。
記
1. 新野左馬助公の遺徳顕彰のための事蹟並びに資料の調査・研究・刊行物の発行及び勉強会。
2. 御墓所の整備。
3. その他必要とみとめること。
平成16年1月吉日