■地獄谷の溶岩流出による累層
■頂上から見た水蒸気爆発の痕跡
■大きな石も含まれる




■硫黄の流出
■噴気口の様子
■夕日に染まる火口跡


■硫黄の結晶
■粘土質の火山灰が堆積する
■月面のような小さなクレーター



御嶽山が現在のような登山の形態(信者、修験者、一般登山者)になった理由として以下の3人が挙げられます。
1:役小角
2:高根道基
3:W.ウェストン
このうち、みなさんが知っているのは誰ですか?
私は学生時代、歴史を勉強していたので@は知っていましたが、それ以外は「???」でした。
今回、このホームページを制作するため手元にある資料やネットで情報収集した結果、自分自身も知らなかった事実がたくさん見つかったので、ここではそれらをわかりやすく説明したいと思います。
まず、個々の人物について見て行きましょう。
【役小角】
役小角(えんのおずぬ、又は、えんのおずの)は大和の国葛木の茅原に生まれた。通称、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ、修験道や密教の開祖と言われている。飛鳥時代から奈良時代まで(634−706年)の実在した人物である。
役小角には数々の伝説が残されてり、幼少から梵字を書き、15歳では登山を日課としていたという。修験道の守護神「金剛蔵王権現」を祈り出したといわれる彼は密教の「孔雀の呪術」を修得、道教の秘法「飛天の術」を駆使して雲に乗って仙人と遊び、鬼神を自在に操ったと言われている(葛飾北斎によって描かれた役小角の絵画には左右に前鬼と後鬼を従えている)。
『続日本紀』や『日本霊異記』には実際に役小角の記述が見られるが、それによると天武天皇3年(699年)讒言により伊豆へ流刑となる。しかしながら、彼は夜になると海上を歩いて富士山まで行き修行したという。
その後、日本各地で天変地異が頻発して心を痛めた文武天皇による大赦があり、2年後に故郷へ戻った。701年、68歳の頃、箕面にある天井ヶ岳で仙人になったという(一説には唐に渡ったとも言われている)。
【高根道基】
信濃国の国司であった人物。国司とは律令時代の地方官であり、守(かみ)、介(すけ)など4等官からなる。
中央から派遣され、一国の民政、裁判を司る。
【W.ウェストン】
本名はウォルター・ウェストン。牧師であり、登山家。イギリス山岳会会員で日本山岳会名誉会員でもある。
25歳の頃からスイス・アルプスで本格的な登山を開始、マッターホルンなどの登頂、アイガー、ユングフラウにも挑んだ。
日本には宣教師として1888年(明治21年)より3度来日、熊本、神戸、横浜に住居を構えて、その間、精力的に登山活動を行った。
日本の山を広く海外に紹介しながら、日本山岳会の設立を提唱するなど、日本の近代登山発展に大きく貢献した。上高地の開山で有名で「日本アルプス」の名付け親でもある。
それでは、これらの人物が御嶽山にどのように関係していくか見て行きましょう。
まず、最初に名前を挙げた役小角は全国各地に修行の場を求めて飛び回り(修験道の霊場である大峰山は役小角を開祖としており、また近畿を中心とした大阪、奈良、滋賀、京都、和歌山には役行者ゆかりの36寺社が存在します)、42代・文武天皇の大宝年間(701〜704年)には御嶽山にも登拝したと言われています。
文献資料が残っているわけではなく、なにぶん伝説の域を出ませんが、このことはのちに大きな影響を及ぼします。つまり、これが50代・桓武天皇の延喜年間(782〜806年)に高野山の開祖である弘法大師、空海の御嶽山登拝につながって行くのです。この時期、御嶽山と修験道(密教)との繋がりが出来たものと考えられます。
信濃国司である高根道基は大宝2(702)年、奥社(王滝頂上)を開きました。これが御嶽神社の創祀であると言われます。
その後、49代・光仁天皇の宝亀5(774)年、同じく信濃国司の石川朝臣望足が、当時国内に流行した疫病の平癒と退散を祈願するため、黒澤口から登山して神殿を創建、大己貴名命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の奉祀を行いまいた。
さらに60代・醍醐天皇の延喜年間(901〜923年)には、京都北白川の住人、宿衛少将重頼卿が、神恩報謝のために遠路はるばる登拝して神殿を再建しました。80代・高倉天皇の治承年間(1177〜1181年)には、国司である木曽権頭兼遠が、その子、今井四郎兼平、樋口次郎兼光などと共に、預かり子である駒王丸(後の木曽義仲)を伴って登山して一族の武運長久を祈ったという史実が残されています。
現在、御嶽神社では国常立命(くにとこたちのみこと)を加えた3つの神様が祀られており、御嶽山全体を御神体とする見方が一般的です。
このようにして御嶽山は神道との結びつきを深めていきました。
最後に、W・ウェストンですが、彼は上高地の開拓者として知られる通り、日本にある数多の山に登ってその魅力を国内外へ紹介してきました。一説には宣教師としての仕事よりも登山に夢中だったため、教会から反感を買ったとも言われています。そんな彼が御嶽山に訪れたのは1894年のことでした。そして、これを契機に一般の登山者が増えはじめ、今日では家族連れや初心者で賑わう山となったのです。
以上のようにして仏教(修験道)、神社、一般登山が共存することになった御嶽山では、7月下旬から8月初旬までの夏山シーズン最盛期、法螺貝を吹き鳴らす山伏の姿や「六根清浄」を大合唱しながら集団登拝する信者、ツアーで訪れる中高年のグループや家族連れの歓声が入り混じり、たいへん賑やかになります。
【火山編】
ここでは有史以前の御嶽山について説明します。
2007年1月19日、海外にいた私はインターネットでニュースを見て驚愕しました。それは、御嶽山で火山性微動が頻繁に観測されるようになったという内容のものでした。それにより御嶽山の火山活動レベルは「静穏な状況」から「やや活発な状況」に引き上げられました。その後、5月25日に再び「静穏な状況」へ戻りましたが、同月29日の現地調査では3月下旬に小規模な噴火があったことが確認されました。
御嶽山の山小屋では地元自治体から支給されたヘルメットと懐中電灯を装備して、万が一の場合を想定した避難ルートの確認という作業に追われました。また、山頂付近の噴火口近くには濃度が20ppm以上になると「ピーピー」と警報音が鳴る硫化水素ガス警報器が設置されました。2007年の夏山シーズンは、このようなやや不安な状態の中で始まりましたが、再び火山活動が活性化することなく、天候にも恵まれて無事にシーズンを終えることが出来ました。
さて、御嶽山の誕生は今から10数万年前に現在の御嶽山の位置で始まりました。当時の火山活動では主に玄武岩や安山岩質の噴出物が大きな成層火山を成型して高さは3600メートル以上に達したと推測されます。その後、長い期間、噴火は休止状態に入って山全体が侵食されました。この時期を古期御嶽火山と呼びます。
次に新期御嶽火山として活動が始まるのは8万年ほど前からです。このときの噴火は噴出物の性質などから前期、後期に区分することが出来ます。前期は大量の降下軽石を放出して古期御嶽火山の中心部にカルデラを形成、次に流紋岩質の溶岩などが噴出してカルデラを埋め、そこに新しい山が出現しました。この時に出来た山体は継母岳と三浦山の平らな尾根として現在でも残っています。後期はそれ以前に形成された山体を覆って安山岩質の溶岩を噴出しました。そして約2万7000年前には木曽川泥流と呼ばれる大泥流を起こして木曽川を下り、今でも木曽川の段丘堆積物として残っています。山頂部に見られる一の池、二の池、三の池などの火口はこの時期に出来たものです。その後、火山活動は衰退して水蒸気爆発によって小火口を作る程度になって現在に至ります。
私が初めてアルバイトに来た当時は八丁タルミと王滝頂上付近で2、3ヶ所ほど水蒸気が吹き上げていましたが、今では1ヶ所を残すのみとなりました。
【御嶽山で見られる噴火の名残り】