■入口に立つ案内の石碑
■ギザギザの一の池外輪山を歩く
■最初の石碑



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三十六童子の名前を唱えると悪鬼は退散し、三十六童子を崇拝する者には背後から離れず、長寿をもたらすと言われています。
今でも一円、五円という小銭を順にお供えしていく信者がおり、数年前には一つの童子に一本ずつ180mlのミニサイズの缶ビールがお供えしてあったと言います。
様々な方々の気持ちや念が込められている石碑に直接手を触れるということで、修復作業をする前には頂上の祈祷所で神主によるお祓いを受けました。
■烏婆計童子
■波利迦童子
■善爾師童子
■普光王童子




■戒光慧童子
■妙空蔵童子
■吉祥妙童子
■宝蔵護童子




■虚空護童子
■虚空蔵童子
■金剛護童子
■僧守護童子




■仏守護童子
■法守護羅童子
■小光明童子
■大光明童子




■法挟護童子
■因陀羅童子
■利車毘童子
■持堅婆童子




■獅子慧童子
■阿婆羅底童子
■獅子光童子
■伊啓羅童子




■羅多羅童子
■波羅波羅童子
■不思議童子
■召請光童子




■智慧幢童子
■質多羅童子
■計子爾童子
■無垢光童子




■不動恵童子
■光網勝童子
■制叱迦童子
■矜迦羅童子




■立派な摩利支天像
■三笠山神社の石像
■剣の透かし彫り
■重厚な石祠




■王滝口の旧登山道にある大岩に刻まれた
摩利支天像
■二の池新館と摩利支天山(左上)
■摩利支天に奉納された剣



■こんな銅版に刻まれている
■小さな祠
■二の池にある道祖神




■「女人堂」 新版 現存
■「御嶽山 三の池」
二の池本館にて現存
■「御嶽山九合目 石室山荘」(上)
「覚明堂 登山記念」(下)
どちらも現存
■「三十六童子」「摩利支天」
「高天の原」
どちらも現存




■「御造営記念」(上)
「三笠山三宝大荒神
昭和六十二年八月」 消滅
■「海抜一万二百十八尺
御嶽山頂上本社
昭和十二年八月廿三日」
消滅
■「平成十年 御嶽山王滝頂上」
消滅
■「奉祝皇孫御誕生記念 奥之院」
消滅
■「黒沢口(表山) 頂上奥社
式年御造営記念 昭和六十二年
夏山」 消滅
■「御嶽山頂上剣ヶ峰 3067米」
現存
■「二の池本館 平成十八年」(上)
「日本一高地の湖 海抜2905米
二の池 平成十九年」(下)」
どちらも現存



■「八合目 海抜2515米
御嶽山中社社務所」 消滅
■「御嶽山」(上) 元々ある焼印
「御嶽山 七合目覚明行場跡」
現存






■「黒沢口 八合目 女人堂」
旧版により消滅
■「黒沢口 八海山 恵比須
大黒天 神」 現存
■「御嶽山頂上奥社社務所」
現存
■「高湖一 御嶽山 二の池」
消滅

■「地獄谷 噴火口」 消滅

■6合目「中の湯」及び「中興開山
覚明参籠め遺跡 元祖展望露天
風呂九合目石室」 いずれも消滅


■王滝頂上社務所「奥の院」(上)
頂上奥社社務所「御嶽山頂上
奥社社務所」(下) いずれも現存

■「大東亞戦必勝祈願
木曾御嶽山頂上
昭和十七年登山」 消滅

■「地獄谷 噴火口」 消滅


■「御嶽山参拝二十周年記念」
消滅

■「御嶽山石室 一万尺風呂」
消滅

■「昭和五十四年十月二十八日
有史以来噴火記念
昭和五十六年登拝再開」
消滅

■「御嶽山頂上登拝記念
改元記念 平成元年」 消滅


■「木曽御嶽山 頂上登拝記念
祈 諸願成就」 消滅

■「三十六童子」 消滅

■清滝の脱衣所にある禁止事項
を書いた貼り紙
■滝に打たれる筆者
■拡大部分
■松尾滝入口には鳥居が立つ





■松尾滝にあった人形
■原生林
■新滝を裏側から見る


■新滝の聖域
■不易の滝周辺(三岳村)
■脱衣所に置かれた草鞋







■様々なタイプがある
■立派な霊神碑
■可愛らしい霊神碑
■木曽川産の黒石を加工して
造られるため、三岳村には石
材店が多い。



■覚明行者が入寂した場所
■霊神碑の裏面
■王滝口の霊神場



■二の池にある霊神場の風景
■黒沢口の霊神場
■二の池本館の裏側にある霊神場




■標高2910メートル
■「霊神」の文字
■夕日に文字が染まる
■台風の倒木被害
【霊神碑】
車やバスで登山口へ向かう途中、道路の両側に林立する無数の石碑を目にすると思いますが、これは霊神碑と呼ばれるものです。霊神碑は亡くなった行者の魂が御嶽山へ戻る「我々の霊魂は聖なる御嶽から生を受け、それぞれの家へ神のご縁によって生まれたものである。そのため死後は再び御嶽の幽世へお引取り頂き、かたじけなくも御嶽の神に帰る」という宗教的な世界観を表現したものです。
霊神の名前は戒名の如きもので、神主や先達によって名付けられます。御嶽山の登山道の開拓者である覚明行者や普寛行者にちなんで「覚」や「明」「寛」という文字と生前の本名から取った一字を組み合わせることが多いようです。また、女性の場合は○○姫霊神という名前も見られます。
霊神碑の多くは苔が生えていますが、石碑の裏側に刻まれた年月を読むと「昭和」や「平成」など、新しいものがあります。現在、2万以上あると言われている霊神碑ですが、中世から江戸時代初期までは一般の登山が厳しく禁止されていたため、その始まりは江戸中期以降と考えられます。
霊神碑が並ぶ区画、すなわち霊神場はとても神聖な場所とされており、入口には鳥居が立ち、注連縄が張られています。
霊神場の規模では王滝口より黒沢口の方が大きいようです。
また、黒沢口八合目(女人堂周辺)には四国の信者によって建立された霊神碑が犇いており、通称「阿波が岳」と呼ばれています。
なお、山腹などに建つ霊神場及び霊神碑がある場所は永代借地で、二の池本館のすぐ裏側にある、東京の講社のそれは御嶽山の中で最も標高が高い場所にある霊神場です。
■ちょっと一服
■六根清浄
■二の池で祈祷する信者たち
■家族で登拝する
■神奈川県・川崎市から
■四国から来た信者
■長野県・諏訪大社から
■信者の母娘
■東京都・浅草から
■愛知県の信者










大学3年生の夏休み、「民俗学演習」という講義の課題で身近な民俗信仰をテーマにしたレポートを書くことになりました。当時の私は夏休みのほぼ全部の日程を御嶽山でのアルバイトに費やしていたため、他のテーマを選ぶ選択肢などはなく、御嶽山の信仰について書くことにしました。山小屋アルバイト2年目だった私はその時、初めて御嶽信仰に来ている信者さんと話をすることになりました。
民俗学の基本は聞き取り調査であると言われています。そこで快晴の日の午前中、王滝口から登ってきて山小屋で休憩している白装束のグループに声を掛けました。どうせなら詳しく聴きたい、という思いから、その中で特に威厳ある先達と呼ばれる代表者に声を掛けました。その時のドキドキ感は今でも忘れられません。
乏しい知識から頓狂な質問をする私に対して、先達さんは非常に親切、丁寧に答えて下さいました。
群馬県から来た講社でしたが(もちろん、名前も覚えています)、その時の体験があったからこそ、今でもこうして御嶽山で働いているのかも知れません。
御嶽信仰は非常に奥が深く、文章だけで説明すると難しくなるため、写真を混ぜながら説明していきます。
【御嶽信仰】
御嶽信仰の構成要素として、次のようなものがあります。まず、御嶽山に祀る大神、諸神仏、霊神の三元的構造からなる神観念。そして、これらを象徴化した山や講社の祭壇、霊神場、そこに祀られた神像や図像、霊神碑などの施設。更に信仰を共有する行者(前座、中座)と信者(講元、世話人、信者)の人的組織、加えて信仰を具体的に表象した御嶽登拝、御座、護摩祈祷などの儀礼。以上のような諸要素の全体が相互に補完しながら独自の信仰体系を形成していると言えるでしょう。
【講社】
一言で言えば、信者が組織する集団のことです。主管者を先達、または講元と呼び、他に役員、教師、信徒総代、会計、世話人などで組織されています。「教会」と呼ばれるものも同じで、関東大巴講社、百間滝木曽教会など、名前は地域の地名などを冠する場合が多いです。
【夏山登拝】
私たちが神社や寺社へ参詣したりするのと同じように、御嶽信仰も一年を通じて行われますが、夏山登拝は聖地巡礼の旅であり、最も重要な行事です。7月最終土日、それから8月最初の土日は全国各地から白装束の信者が小集団や大集団となって御嶽山を目指してやって来ます。
登拝の際、どのコースを選択するかは講社によって異なりますが、大神を祀る頂上や遥拝所にはほとんど全ての講社が登拝します。また、諸神仏(大江権現、金剛童子、奥の院など)を祀る中腹では講社で祀る崇拝対象を選択して巡り、霊神を祀る山麓では講社に関係する霊神場のみ、個別的な巡礼が行われます。
御嶽山は簡単に日帰り登山できる山になりましたが、講社による登拝はこれらの信仰対象をお祈りをしながらじっくりと巡礼するため、山小屋での宿泊を含めた1泊2日乃至、2泊3日の日程で行われます。
講社は大きなものになると数百人以上にもなり、かつては山頂から麓まで信者が連なって白い帯が出来たといわれています。現在でも大きな講社になると一つの山小屋に納まり切らず、もう一つ別の山小屋へ分散して宿泊することがあります(例えば愛知県の講社で、石室山荘や覚明堂と二の池本館へ別れて宿泊するところがあります)。
しかし、近年の高齢化と共に信者人口は年々減少傾向にあり、中には山小屋まで登って来られなくなったり、いつの間にか消滅してしまうものも見られます。また、先達は世襲制である場合が多く、父から子、子から孫へ、受け継がれていくものですが、信者は先達の人徳(先達は加持祈祷、人生相談なども引き受けます)を慕って集まってくるため、代替わりを機会に分裂するケースも多数見られます。
最小単位は家族や身内、師弟関係であり、2〜5人で登拝に訪れます。山小屋の電話予約で「○○教会ですが、2人お願いします」と言われた時は(二人なのに教会なの?)と内心で思ったりもしましたが、今ではわずか二人でも毎年お参りに来るという信仰心に感銘するようになりました。米寿(88歳)のおばあさんが身内に手を取られながら8時間以上かけて頂上まで登拝した姿は感動的でした。
また、曜日に関係なく、毎年同じ日にちに登拝を行う講社もあり、それには「一年の始まり」という意味も込められているそうです。山小屋に宿泊した翌朝、チェックアウトする前に来年の予約を入れていかれる講社もしばしば見られます。御嶽山の山小屋に長く勤めといるとこのような顔見知りがいくつも出来るため、「また来年もお待ちしております」という言葉が自然に口から出るようになります。
【水垢離と滝行】
御嶽山は日本でも有数の滝の多い山です。これは森林に覆われて水が豊富なこと、山全体が火山溶岩に覆われていることが理由です。木曽御嶽山絵図を見るだけでも清滝、新滝、日の出滝、大祓滝、松尾滝、大正滝、百間滝など、無数の滝が描かれています。
これら多くの滝は宗教的体験を行う聖なる場所として利用されており、その代表的なものに水垢離あります。これは白衣に着替えて滝に打たれ心身の穢れを取り去るというものです。夏山登拝に訪れる信者はまず、前日(又は当日)にこのような滝行を行ってくるのです。
特に新滝と清滝(いずれも王滝村)が滝行の場として知られています。新滝には「新滝不動明王」、清滝には「清滝不動尊」が祀られており、流れの中に不動様が浮かび上がると言われています。
夏季、清滝には岐阜から来たおばさん(お札やお守を取り扱っている)が駐在しており、許可をもらえば一般者でも脱衣所の壁に掛かっている白衣を着用後、草鞋を履いて滝に打たれることが出来ます。下山後、私も体験したことがありますが、想像していたよりもずっと水圧が強く、飛沫を浴びるだけで痛かったうえ、滝の中心部では20秒も立っていられなかったのを覚えています。水量が少ない8月下旬ですらこのような状況だったので、信者が修行する時期など、本当に凄いと思います。
王滝村から田の原へ向かう途中、左手にまず清滝が、続いて新滝の入口が見えてきます。清滝は道路(駐車場あり)からすぐ、新滝(こちらも駐車場あり)は徒歩10分くらいです。個人的に雰囲気が良いと感じたのは新滝でした。
【御座】
御座(おざ)は講活動の中心をなすもので、御嶽を信仰する人々にとって共有化されたコスモロジーの上に具現化された儀式です。その儀礼は神霊を統御する力能を技術を獲得した前座と深いトランス状態になる訓練と高神との接触、交流の技術を獲得した中座という役割の異なる二人の行者が一組となって行われます。前座は御嶽の神霊を降臨させて、トランス状態になった中座の身体にそれを憑依させます。そして神霊自身に変化した中座が信者の依頼に応えて病気治癒や占いなどを行うという呪術的な儀礼です。
前座と中座ではその役割が全く異なるため、当然、修行方法も違います。どちらの修行も最低3年かかると言われ大変厳しいものですが、とくに中座修行は意図的で非自発的な憑霊の訓練を積極的に繰り返すことによって無意識の深い忘我状態と高神の降臨、長期に渡る御座の儀礼を行うことが出来るよう訓練するもので、修得したのちも厳しい修行が継続されます。
前座と中座を比較した場合、中座の方が特殊な座法を会得しなければならず、講社によっては中座としての行者の立場が前座のそれよりも優位であるケースが多く見られます。
さて、中座に降臨する神霊の順序ですが、それぞれの講社によって多少の違いが見られるものの、概ね階級が高い神霊から順番に降臨するようです。御嶽大神、諸神仏は比較的短い託宣や全員に対する祓いを行い、霊神は個人祓いの儀式を行うとされています。中座に御嶽より優れた神霊が憑依すればするほど手に持つ御幣(幣柱・へいしん)は呪力を発揮すると信じられており、これを依頼者に向けたり身体に触れて占い、種々の対処方法を示します。依頼内容で多いのは病気であり、飲むべき薬の指示や札、符を作成して治癒を行います。医者に見離された瀕死の病人が生き返った話や託宣通り農作物が不作だった話、卜占によって株の売買を行い巨利をあげたというような話も残されています。
このように御座は行者を媒介とした神霊との交流儀礼であり、神霊は託宣や祓いの儀礼を通じて人々と交わり、神霊が一層超自然的な権威の所有者であることを示すとされています。また、御座によって組織のあらゆる関係の調整や統合化が図られており、行者や先達の任命なども行われるようです。
しかし、覚明行者や普寛行者が活躍していた初期の頃はまだ二人一組の座法が確立しておらず、一人で行う独座(前座=中座)だったと言われています。それが現在のような形式になったのは、それまでの修行方法に多くの外来者によって持ち込まれた修験の行法や民間の行法などが加わったためだと考えられます。以下、抜粋しますが、W.ウェストンが観察した明治期の御座は行者の役割にやや流動性が見られるものの、現在の御座がほぼ成立していたと思われます。
【W.ウェストンが観察した御座】
上高地の開山で有名なウォルター・ウェストンは著書「日本アルプス−登山と探検−」の中で御嶽山で見た御座について次のように紹介しています。近世における御座の形態を知るうえで大変興味深い内容となっていますので、ここに抜粋して掲載します。
「・・・一行の一人が、伸ばした手の掌のあいだに御幣を高く持ち、残りの人々は前の岩の上に坐っていた。その残りの人々は彼と向き合いに坐って(その狭苦しい所で坐れるだけ近寄って)一列に坐っていた。その彼の足は、日本人の坐る作法のように体の後に置かないで、ヒンズー人などのように前に組んでいた。彼は、彼の友人たちと、その友人たちが神託を乞いに来た山の神々のあいだの、心霊交流の霊媒(日本の中座「中の座」)のような役をしていた。目を閉じながら、この中座は静かに黙って坐っていた。彼の仲間は急に押しつぶしたような声で祈りの合唱をやりかけた。
まもなくこの霊媒の顔は青ざめた色に変わり始めた。この世のものとも思われないあえぎがのどを漏れ、御幣が手のなかで激しくふるえ動いた。彼の目は、眼窩のなかで黒目が半分くらいしか見えなくなるまで、上のほうへあがってしまった。痙攣的な激動が一わたりすむと、ついに御幣が彼の額の上で止った。これは神様が降臨した印だった。すると、このあいだじゅう、残りの人に対し音頭取りをしていた一人の巡礼者つまり前座(前の座)が、この霊媒の方に向ってうやうやしく平伏した。
彼の額を二人のあいだにあった岩の上に低くさげて、親しく降臨してこの霊媒に憑って来た神様の『お名前』を尋ねた。するとしわがれた小さな声で、『我は普寛霊神なり』という答えがあった。これは王滝側から、ちょうど一世紀前、御嶽へ最初にのぼって神に祀られた人のその死後の諡号なのである。前座がその名を聞いた時、彼は5、6人の巡礼者たちの願い事を述べ出した。それは皆ごく単純なものだった。ある人は彼らの旅行中どんな天気に出会うかときいた。あるいはまた家にいる家族の健康とか翌年のあいだの事業の予想についてきいた。
低い声で中座は神の答えを述べた。これらの答えは、神託の場合にも通例であるように、都合のよいように、ぼんやりしたものだが、私はこの人がその日の午後は曇りだと予言したのを覚えている。実際、私がこの予言を想い起したのにはもっともな理由があった。というのは、このことがあって二、三時間ののち、私たちは無情な激しい雷雨を突いて、森の滑りがちな傾斜を急いで進んでいたからである。
尋ねた質問全部を断言するように答えてしまった時、霊媒の手にある御幣は、神霊が立ち去りその人がふたたび我に還った印に、下げられた。すると前座は立ち上った。そして彼は、全身昏睡状態だったあいだ非常に硬くこわばっていた中座の体を必要なだけ激しくさすり、手足を打ち始めた。まもなくその人は正気づき、そのパーティは立ち去った。彼らは、私がいることにまるでまわりの木立や石と同じように、なんの注意も払わなかった」
■一歩一歩、頂上を目指す
■頂上で行われる大規模な御座


【神仏像・図像】
御嶽山の中腹には仏教系の諸神仏が多く祀られています。これは役小角、弘法大師が御嶽山を登拝したという伝説の影響だと考えられます。登山道の脇や巨大な岩の近くには祠や鳥居が立っており、そこには連綿と受け継がれる信仰の面影を見ることが出来ます。また、そうした宗教施設のある地表からは古銭が出土することがあります。黒沢口から頂上を目指す最後の急な登り斜面の右手(登山道から少し離れていますが)にある木製鳥居周辺にはかつての祭祀遺構が残っており、開元通報(621年、唐)や淳化元宝(990年、北宋)など中国から渡ってきた古銭(渡来銭)が見つかっています。
なお、御嶽山には至る所に摩利支天像が祀られています。摩利支天は元来、インドの庶民に崇拝されており、マリシテンの名前の由来はインドの古語であるサンスクリット語で陽炎を意味する「marici(マリーチ)」であるとされています。それが仏教に取り入れられた後、中国へ伝わり、唐の時代に入って経典の漢訳や尊像の造立が始められました。日本には平安時代になってから、唐に留学した密教僧によって摩利支天に関係ある多くの経典や図像がもたらされました。中世以降は特に武士の間で信仰が広がり、楠正成や戦国武将、前田利家が兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したという話が伝わるように武士の守護神として崇拝されました。
摩利支天像は天女や猪に乗る女神、三面六臂や三面八臂(3つの顔と6つまたは8つの肘という意味)など様々な姿で表現されます。臂に針と糸を持っているのは悪人の口や眼を縫うことを意味しています。また、猪に乗っている理由は明確ではありませんが、日本の独創ではなく、チベットにもその作例があります。
摩利支天は古来、修験道や密教の行者によって信仰されており、乗鞍岳や八海山(新潟県)、甲斐駒ケ岳には摩利支天岳と呼ばれる山があります(甲斐駒ケ岳の摩利支天には奉納された鉄剣や鉾が立っています)。御嶽山の摩利支天山は賽の河原を渡って三の池へ向かう左手の尾根上にあり、標高2959メートルです。そこには三面六臂で猪に乗る摩利支天の石像があり、他にも王滝口、金剛童子の右上にある祠の中や王滝頂上から剣ヶ峰へ向かう旧登山道(左側)の大岩に刻まれた図像、黒沢口八合目女人堂まで残り600mという標識の近くにある銅版に描かれた図像などにその姿を見ることが出来ます。
■歴史を感じる仏像
■図像の一種
■黒沢口の木製鳥居



■祠に灯る小さな火
■祝詞が響く
■熱狂する信者たち



【大御神火祭】
毎年8月7日・夜から8日・未明にかけて6合目にある八海山駐車場(王滝村)で行われる御嶽教の祭礼です。当日、広い駐車場に全国の信者から届いた数万本もの護摩木を円形に積み上げた巨大な輪が3つ出現して、松明行列、玉串奉奠、神楽奉舞などが行われた後、午前1時に一斉に点火されます。あらかじめ灯油を掛けた杉の葉が仕込んであるため、大人の背丈以上ある巨大な護摩木の輪は天を焦がさんばかりに燃え上がり、周囲は白昼のように明るくなります。40分以上、火の勢いは衰えず、その間、集まった大勢の信者たちは3つの輪を遠巻きにぐるぐる回ります。
2001年、私はどうしても大御神火祭が見たいという思いが高じて、夜中、こっそりと頂上の山小屋を抜け出して見学へ行きました。アルバイトの女の子にだけ伝えて、主人には内緒で懐中電灯を片手に小雨が降る暗い登山道を下山しました。10回くらい転倒しながら、それでも1時間で田の原へ到着、そこから6合目まで1時間かけて歩きました。
当時の日記には、
「10本の長松明が3基の護摩木に近づき、「エイエイオー!」というひどく的外れな掛け声と共に火が点じられた。高さ2メートルばかりの護摩木は勢い良く燃え上がり、その脇では白装束に赤い脚絆を着用した、ひときわ派手な出立ちの花火師、眼長講の連中が火の粉が噴き出す大筒のようなもの(手筒花火だと思われる)を抱えて祭りを盛り上げていた。
点火されると見物の輪は一気に縮まり、カメラマンや外国人の観光客はシャッターを切り、寺社の線香でするように信者は火の熱を手で焙ってから自分の身体を撫でていた。私は燃え上がる護摩木はもとより、熱狂する信者の様子をカメラに収めた。
積み上げられた護摩木は炎に包まれボロボロと崩れ落ち、3つの巨大な火球は冷えた身体をあっという間に元に戻し、近づき過ぎると熱いくらいだった。
大御神火祭は天を焦がすが如く、火事の如く、迫力があった。
「3周回るとよい」と教えてくれた信者と一緒に1周だけ回ったが、時刻は午前1時40分、ギリギリである。最後まで見届けたいという気持ちが強かったが、思い切って踵を廻らし帰途に就いた」
と書いてあります。
大御神火祭に参加した信者はそのまま田の原へ向かい頂上で御来光を拝むため夜行登山を決行します。
私はその中の一台をヒッチハイクして田の原まで戻り、1時間半で登山して午前4時30分からの仕事に何食わぬ顔で加わりました。今思えば随分と無茶なことをしたものですが、強力さんなどから話を聞いていた通り、大御神火祭はやはり素晴らしいものでした。
なお、以前は王滝頂上より少し上にある八丁タルミの周辺で開催されていましたが、昭和54年の噴火で入山が禁止されたため、現在の場所に移転しました。2002年からは往年の雲上大御神火祭が青年部有志によって復活させられ、6合目・八海山と呼応するように同時点火が行われています。
六根が清らかになるという意味の「六根清浄」とは人間の身体に具わった感覚知覚の器官が清らかになるというだけではなく、心身と心は深く関わっており、その根源は心の奥底にあるということを表現しているのです。
また、これは余談ですが、「どっこいしょ」という掛け声の語源が「六根清浄」だったということをご存知でしたか?
「六根清浄」は「六根浄」とも言い、それが訛って「どっこいしょ」になったと言われています。
【六根清浄】
夏山登拝のとき、先達が「六根清浄、御山は快晴、登らせ給え、懺悔々々・・・。」と唱えながら信者を導く姿がよく見られます。もともと仏教の言葉で「六根」とは眼・耳・鼻・舌・身・意を示しています。
ここで言う「根」とは本来、能力を意味する言葉でしたが、転じてその能力を持つ器官を指すようになりました。つまり、眼根は視覚器官、耳根は聴覚器官のことで、以下、嗅覚、味覚、触覚となります。最後の意根は知覚器官で、前の5つの感覚器官から得られる情報によって得られる思い(意)だとされています。
人間の感覚器官は外界の対象物を受け止めるためにあり、それは更に認識作用へと進んでいきます。例えば眼は物の色彩や形を受け止める器官ですが、それを認識するのは心です。このように六根にはそれぞれの対象と認識があります。そして外界の対象のことを六境(または六塵)と言い、六根を通じて認識する心を六識と呼びます。
以上のことを整理してみると、このようになります。
【六識】
眼識
耳識
鼻識
舌識
意識
身識
→
→
→
→
→
→
【六根】
眼根
舌根
意根
身根
鼻根
耳根
→
→
→
→
→
→
法(知覚概念)
触(堅さ・温度)
味(味わい)
香(匂い)
声(音声)
色(色彩)
【六境 】
【三十六童子】
御嶽山で人気があるコースの一つにお鉢巡りコースがあります。これは別名、三十六童子巡りとも呼ばれ、一の池の外輪山に配置された36基の石碑を辿るものです。一つひとつの石碑には三十六童子の名前が刻まれており、時計回りに配されています。
三十六童子とは不動明王の眷属で制多迦童子、矜迦羅童子は八大童子にも数えられていますしかし、それ以外の童子は役目が明確ではなく、中世以降の創作によるものと考えられています。
不動明王の眷属で衆生救済に活躍する童子たちにはそれぞれ一千万人の従者がいると言われており、数が増えると共に役割も重複していくようです。
御嶽山の三十六童子は四国の信者によって奉納されたと言われており、2007年には倒れた石碑を修復する作業が行われました。御嶽山案内人組合の強力さんに声を掛けられ私も作業に参加しましたが、中には真ん中から二つに折れている石碑もあり、大変痛々しいものでした。しかし、石膏ボンドを使って元通り修復して土台が不安定な場所に立つものは新しく石を敷くなどして往時の姿を取り戻すことが出来ました。
山小屋業務に携わる側ら、このような作業を経験できたことは幸せであり、今後も御嶽信仰が連綿と受け継がれていくことを願ってやみません。
【三十六童子の石碑全部公開】