優しい兄    (中島 節) 
                         -2017. 1.15-


 私は十三歳の時(尋常高等小学校 高等科1年)、地区大会相撲大会に代表選 手(私の地区には男性はチビの私一人だけ)として出場し、 体格の良い相手と対戦した。取り組むが早いか相手に押しつぶされ、右大腿部複雑骨折をしてしまった。隣町の整骨医院に二ヶ月余入院し、 十二月に退院した。そしてその後は通院治療となったが、当時、自動車は無く、汽車で通院することになった。でも未だ自力での歩行は 出来ず、誰かの手助けが絶対必要であった。長兄は秋の穫り入れで超多忙、次兄は家を離れ就職していた。

 幸運にもその時、三歳年上の兄は隣町の商業学校に汽車通学をしていた。面倒見の良い兄は、最初の頃は私をおんぶし汽車で通院して くれた。わが家には既におんぶ帯はなく、腰に巻く三尺帯を探しだし、これで私を何とかおんぶしての通院でした。おんぶされている私 ですら多少の恥じらいを感じたのだから、兄は恥じも外聞もかなぐり捨て、必死になって弟の私を看護してくれたのであろう。本当に 優しい親切な兄でした。思い出すと、今でも目頭が熱くなってくる。

 また私は師範学校に入学し、一時期、遠距離汽車通をしたことがあった。当然、朝飯を食べ弁当を持って、始発の汽車(水戸線新治駅 6時前、そしてこの時期は有蓋貨物車で明かり無し)に乗らねばならなかった。寒く日の出の遅い冬期の早起きは、母にとっても当人に とっても辛いことであった。この時期、母は更年期障害にかかっていたようだが、ぼんぼんの私はなにも知らなかった。こんな時、清兄は 母に代わって早起きし、ご飯を炊いてくれた。お陰さまで私は無事三年間の師範学校を卒業することが出来た。

 これらの温かい兄の尽力に特別感謝したことはなかった。ただひたすら、兄に従順するだけであった。また幸いなことに住宅はお互い 近い、歩いて五分のところに、そして墓は歩いて二〇分足らずのところに、隣り合わせで求めることが出来た。残念なことに兄は七十一歳で 亡くなったが、墓地は私の散歩道圏内に有り、毎月二、三度、空手ではあるが(時には線香を持参し)墓参し、往時を偲んだり、少年時代を 回想できるのは老後の私にとり最高の贈り物であります。


Topへ戻る