名古屋近代文学史研究会

研究紹介




若き日の富沢有爲男(十一)「山上の火事」 三田聰子

『名古屋近代文学史研究』第一五八号(連載四回目)に於いて、『芥川全集 第五巻』に付記されている「富沢有爲男作品年表」に、大正十年一月、『新愛知』の懸賞小説に「帰る道」が一等当選。更に、翌大正十一年一月にも『新愛知』の懸賞小説に「山上の火事」が一等当選と記載されているにもかかわらず、『新愛知』にそれらしい記事も作品も見当たらない、と述べた。

ところが、当会員のKさんから『新愛知』の大正十二年(一九二三)一月一日付けの一面に富沢有爲男の「山上の火事」の(一)が掲載されていたとコピーを送って戴いた。

調べてみると、同年一月三日に(二)、四日に(三)、六日に(四)、七日に(五)と全五回にわたって掲載されている。

更に、一月一日付けの一面には、応募総数三六二編の中から富沢有爲男の「山上の火事」が一等当選、賞金は五十円、住所は名古屋市東区黒門町と記されており、私が見落としていたことを知った。ちなみに大正十五年の一等当選者は後の流行作家、大泉黒石である。

さて、当時の有爲男は、大正十年秋、帝展の洋画の部に「白畫夢林」を初出品し入選、続いて翌十一年秋に「題卵圖」入選。作家としても既に佐藤春夫の知遇も得、大正十二年『趣味の婦人』の七、八月号に戲曲「南男爵の予審」を発表している。ここに至つてようやく生活にゆとりが出來青年にしては少し贅澤すぎる生活をなせし様に思はると後に述懐しているように、全てが順風に展開し始めたころ。有爲男にとって幸せな一時期であった。

こうした時期に書かれた「山上の火事」は、三十五枚余の短編。後の芥川賞作品『地中海』を思わせる絵画的な描写である。

物語は、若い男爵が許嫁に会いに行く途中、かねてから知り合いのメンデルのような伯爵夫人に出会う。彼女とは、汽車の中でも行動を共にし、その思わせぶりな行動を迎えに来た許嫁に見られてしまう。その時、汽車の進行方向に山火事が見えるという情感豊かな作品である。

主人公南男爵と伯爵夫人との再会は、主人公が軽い午食を摂るために入った駅の精養軒であるが、その時の様子は次のように表現されている。

男爵は、煙つた蒼白い月や、夜光蟲の海、とそうしたお定まりの背景を前にして去年の夏の種々んな事を思ひ出す毎に夫人と會ふ事が恐れられた。

ばかりで無く伯爵夫人と知遇を得た若い公達は、例へばMにしろKにしろ何時か皆、それは可哀想な程、酷く夫人を怖れて居る様に見ゑる。

「まるでメンデルだ」

男爵はそう思つた。そしてその女魔の事について長々しく書かれた大英辭典の説明を思ひ出した。

静岡で待っている許嫁、彰子と新春の旅に出るために汽車に乗った男爵は、ここでも黒狐の襟巻に首を埋めた伯爵夫人と同席することになる。

夫人は行き先も言わず、思わせぶりに振る舞う。「あの海の事覚えていて?」等ととろかすように甘く見つめる夫人を男爵は次第に愛しいもののように思い始め、「もう妾との間もこれ切りでせうせめて御一所にサンパンなりとも……」という誘いに乗って夫人と食堂車へ。そこでも夫人は華やかに振る舞い、注目を浴びる。

そして、先に席を立った男爵が、食堂車に置き忘れた手袋をとりに戻ったくだりでは、若い男爵をもてあそぶ夫人の世なれた行為が鮮やかに描かれている。

「お忘れ物?手袋でせう。」

さうして一言も男爵に云はせず彼の女は懐中から温ままつた男爵の手袋を取り出した。

その伯爵夫人の言葉が少し利き過ぎる位艶かしかつたので食卓の人達が一斉に見返つた時、それを正面に受けた男爵は少し参つて了つた。しかし夫人はそれには少しも構ひ付けず大ぴらに手袋を男爵の手に渡した。

しかも渡した上句ギュツと云ふ程男爵の指を握つて、男爵とそうして旅客の顔を蒼白く變へさして了つた。

客車に帰ると、夫人は彰子が食堂車にいたことを男爵に告げる。青ざめ、狼狽する彼に「ね、妾と旅行しない?」と誘い、男爵から切符を受取ると、口元に笑みを浮かべ、帯の胸板に押し込む。 ちょうどそうした時、行く手に山火事が見え、車内は総立になる。物語は、そこで終焉に向かうのだが、許嫁をも巻き込んで主人公を翻弄する夫人と、若さゆえになすすべもなく戸惑う彼の姿が、見事に描写されている。

森の中に赤い火がユラゝゝと動く、寧ろ紅蓮の中に森が埋まつてゐるのである、何かしら物凄じい音がその騒がしい車内の人々にも聞かれた。(中略)その間も汽車は休みなしにひつきりなく山をめぐつて走り續けた。

その薄暗くなつた車内の人混みに交つて物哀れに立ちすくんだ彰子の姿を認めると夫人は一つ鋭い微笑を南男爵に浴びせた。そしても一度涙に泣き腫れた彰子の瞳を覗き京都行の自分の切符を改めるとそれを男爵に渡してかう云つた。

「南さん、妾はね、唯だこれを見に來たゝけの事よ、山火事をね……」



初出

『名古屋近代文学史研究』第167号掲載 /2009年(平成21年)3月10日発行
サイト掲載にあたり、加筆しました。

名古屋近代文学史研究会 URL http://www.geocities.jp/nkbk1970/ メール nkbk1970@yahoo.co.jp

最終更新 2010年3月22日 ページ開設 2010年3月22日 サイト開設 2007年8月5日