<その3 耐乏生活>


Q:耐乏生活が修行になるという?
A:そうなんです。だから借家を全部売り払うんですけどね。その前に
「時計屋をやめなさい」と言われるんですよ。時計屋で順調にいってた
のにね。店を朝の5時ごろ開けて、出勤の人のために午前中にできるよ
うにしてたのね。だから日に10個ぐらいの修理があったのね。それでお
金ができて借家も買ったりして。ところが、時計屋をやめなさいという命
令が下ると、その日から時計の修理に持って来る人が一人もいないん
ですよ。その日からね。そのうちに収入ないでしょ。まず家を売るでしょ。
家を売ってもお金がもらえないんです。踏み倒しですね。何ぼもらいに
行ってもくれんですね。逆に脅されるだけよね。これも神はからいかもし
れんですね。それから家財道具全部売るでしょ。質屋に入れては流し、
全部売ってしまうでしょ。それで売るもんなくなっていくよね。あと時計が
たくさん置いてあるのね。柱時計にしても目覚し時計にしても、それを時
計として売れへんのね。買ってくれる人が一人もいないのね。それでく
ず鉄に分解するのね。真鍮と鉄を分けるのを、私も一生懸命しました
よ。それもやっぱり、その神様の働きの怖さというんですかね。身にしみ
るほど味わっているんだと思いますけど。もう絶対、修理なんぼ頼みに
行ってもあかんのですよ。それで一切の財産を一年くらいで全部なくす
んですよ。

Q:それは何歳ぐらいのときですか?
A:小学校に上がったときくらいですね。幼稚園には、ネクタイを締めて
制服を着て行ってるわけですよ。贅沢三昧。だから苦労がわかる時期と
いうのを選んでたんだと思います。あまり小さいと苦労に負けるかもし
れないけど、ある程度耐える力というのも必要なんでしょうね。生活の
中で、何かを見出さなければだめだったんだと思います。最初から親戚
を全部なくして頼るとこも何もないでしょ。その上に家財道具全部失っ
て、そのあと借金しに回るんですよ。食べ物ないからね。50円借して、
100円借してとね。知り合いのお世話した人を回っていくんですね。最
初は貨してくれるんですよ。2回3回とはね。そのうちにとまるんですよ。
何回行っても貨してくれなくなりますね。もう一切貨してくれなくなるんで
すよ。で、そこからなんですよ。十数年間の耐乏生活が始まるんです。

Q:最初の頃はどんな生活だったんですか?
A:何もない状態で、トタン張りの物置で六人家族で、一人一畳でした。
着替えは六人で二枚を順番に回しました。食べ物は二食質素なものが
食べられればいい状態でした。最初は神様が「仕事をしてはだめ」と言
うので収入はゼロだから、畑の野菜のくずを拾って良いところを持って
帰ったり、野草を摘んできて食べたり、川の魚を取りに行ったり、ただで
手に入るものを何でも食べていました。都会の中だから薪がないので探
すのが大変でした。色んな木屑を探しては薪にして、野菜を水炊きにし
て食べてました。味付けなしです。必要なお金が払えません。小学校に
行ってても、PTAの会費、給食代とか要るんだけど絶対払えないです。
給食なんか食べられません。その当時は教科書代はタダではなかった
んですが、神様から見てもそれは必要だったので教科書は与えて貰い
ました。教科書代ピッタリの金額が教科書代を払う期日直前に入りまし
た。もし前日なら食べ物に変わります。そこまで神様が示し続けました。
それが10数年続くのです。1、2年では身に付かないみたいです。神様
はしつこいです。神様は初めは2、3年と励まします。もう1年、もう1年と
10年越えるのです。それが感謝を深める大きい助けになっています。
何が何でも有り難いです。何も食べられないでも、水を飲めるだけで有
り難いと思えます。どんな服着ても有り難いです。手袋なんてありませ
ん。素足に拾ってきた破れたズック靴を履いてました。学校で使う鉛筆
は買えません。捨てられた鉛筆を拾ってきて、竹の棒で長くして使って
ました。ノートも絶対買えませんでした。

Q:食べ物がないときはどんな精神状態だったんですか?
A:冬などに食べ物が何もないときがあります。ある時神様から「なかっ
たら、粘土を掘って食べろ」と言われました。粘土を食べたら生きられる
らしいです。粘土は栄養分が一杯らしいんです。石ころはいけないんで
すが、粘土は食べられるんでしょうね。「心配するな」と言われたら何で
も食べられます。粘土を食べるぐらいだったら何でもおいしく食べられま
す。神様の感覚と人間の感覚はだいぶずれるんです。だから、絶対に
心配はしません。一週間ぐらい食べ物がなくても、心地よい断食の期間
を与えてもらった、というような感じです。

Q:小さいときから、あれこれ思わなかったんですか?
A:私も小さいときはちょっとは思いました。でもあまり思わなかったで
す。思いが少なかったと思います。目標や目的はあって、あれこれ考え
たこともあるんですが、自分が「あれが欲しい、これが欲しい」というの
はないんです。無欲です。そういう意味では思いがなくなっていたのか
もしれません。「ありがとうございます」を小さいときから唱えさせていた
だいていたというのが、思いを消して軽くしてもらったんです。思いに生
きる人のいろんな体験例というのは、周りからたくさん見せてもらってい
ます。自分の体験だけじゃなく、周りの人の体験も勉強材料にしていけ
たら、自分が思いを出して苦しんで、体験を積まなくても済みます。

Q:贅沢な生活から一転して耐乏生活になって、どんな心境だったんで
すか?
A:最初は、人と違ったことをするのは、のけ者にされたように思うんで
す。誰でも同じかもしれません。人と異なることをすることを恐れるという
気持ちは、最初は誰でも持っています。小学生の最初の頃はそうでし
た。幼稚園の頃は贅沢にしてもらっています。そういうのに慣れていると
虚栄心があります。自分だけみすぼらしい服を着て恥ずかしいという気
持ちは、最初はあるんです。それがだんだんとはぎ取られていきます。
何から何までみんなと同じことができなくなります。そうなると、人と比較
することをやめてしまいます。比較しようがなくなります、人は人、自分
は自分とスパッと切るようになってきます。人と比較してどうのこうのと
いう考えが消えてしまいました。神様から命令されたらどうしようもない
です。逆らえません。最初は仕方なしに受けていたんでしょうね。親の
立場、特に母親の対場からしたら、子供に何も食べさせられないのが
一番苦しいんです。自分が食べなくても、子供の方へと思います。子供
の方もそれを感じます。自分が食べずに子供にくれていると思います。
そうすると、子供の方も、自分が食べずに親の方へと思います。上手に
「今お腹が大きいから」と逃げて回るんです。でも母親の方が無理をし
ていたんでしょうね。それで、病気にもなりやすかったろうと思います。
お金にもならないのに、頼まれた仕事を一生懸命に働いているから、か
なり無理があって食べずにがんばっているから、栄養失調からくるいろ
んな病気が出てきたようです。それも神様の計画だったようです。

Q:神様が子供のしつけもするんですか?
A:母親が病気で困ったときは、子供にいろいろ家事手伝いをさせようと
します。「何でもできる子に育てなければだめなんだ」と。だから「子供に
全部させよ」と命令してきます。それを母親が仕事が早いものだから、
自分でさっさとすると、「だめだ」と怒ってきます。「いうことを聞かなかっ
たら動けなくするぞ」と。そうしたら病気になって動けなくなります。そうす
ると子供の方は、母親を大事に思うから「代わりにしますから」という感
じでするようになるんです。私も、小学三年の時はご飯炊きが上手でし
た。薪で上手に炊けるんです。そういう奉仕活動は神様ごとだから逃げ
られません。させてもらっています。だから、父も出かけていってもお金
は絶対に受け取りません。お供え物の残りなどはもらってきて、それが
子供のおやつに時々なります。でも、たくさんはもらって帰りませんでし
た。ミカン一個でももらったら、みんなで分けて食べました。神様の方
が、その量まで加減してくれていたようです。何でも有り難いという気持
ちを、一生懸命に起こさせようとしてくれているんです。

Q:お姉さんや妹さんはどうだったんですか?
A:姉もかなり栄養失調的な状態になっていました。中学生の時に中耳
炎から脳膜炎を併発してしまった。たぶん栄養失調からでしょうね。体
力がなかったんです。ちょっとした中耳炎から炎症を起こして、お医者さ
んへ連れて行ったら「もうだめ」と言う。夏の暑いときでした。でも神様は
「手術はしてもらえ」と言いました。でもお医者さんは怖がってしないん
です。「絶対死ぬから、こんなものはできない」と言います。あの頃は、ノ
ミと金槌で骨を割って取り出すんです。今みたいに進んでいないんで
す。そこで医者の友達を呼んで、三人で立ち会いを置いて、一応手術し
て取り除いてくれて、「絶対に死ぬから、入院させません」と言うんです。
それで自宅へ連れて帰って氷で冷やし続けるんです。そして「般若心経
を唱えさせよ」と言うんです。それも全部じゃなくて「羯諦 羯諦 波羅羯
諦」こう言わせよというんです。やっぱりそれが必要だったんです。それ
で不思議と治ったんです。お医者さんが「絶対死ぬ」と言ったのが治っ
てしまったんです。いろんないい体験をさせてくれます。下は三つと五つ
下です。栄養失調的というより、やっぱり妹の方はちょっと与えてもらう
んです。下の子の方がどうしても甘やかされます。私だったら「お腹一
杯」と逃げて回って食べずにおれるんだけど、小さい子はそこまでいか
ないですね。あったら食べてしまいます。それで良いんです。

Q:その耐乏生活の間に、お父さんは神様について感想を述べたことは
ないんですか?
A:ないですね。もう、それを受けるしかないというのがあるんですね。時
計屋をやめろと言われたらどうしようもないですね。その代わり安い内
職はみんなさせてくれたんです。私ら子供は安い内職を一生懸命して、
それでも一食分買えないんですよ。家族六人ね。一生懸命内職するん
ですけどね、一番安いのを選ばれてするみたいですね。高いのは飛び
込んでこないですね。それも一生懸命してもね、これだめだと返品食ら
うとね、よけい損害賠償取られるような感じでしょ。お金にならんかった
りね。だから、あの当時お米なんか絶対買えなかったのね。小麦粉が
一番安かったんで、それを団子にして鍋の中に入れて食べるという、そ
れも一食分もなかったんです。あの当時でも6人家族だったら少なくとも
2万円ぐらいいると思うんですよ。それが月の収入が2千円です。それも
ね、家がないんですよ。だから6畳の小屋を、物置を借りたんです。トタ
ン張りの穴のあいてる、冬は雪が舞い込むような、雨の漏りそうなとこを
ね。そこを借りて生活が始まってるんですね。

Q:そういう生活が10年ですか?
A:いや、そこが出発点ですけどね。布団もないんですよね。だからその
ときはワラ布団をね。ワラを拾ってきて、ごつい布を拾ってきて、それを
包んでそれを敷布団ならいいんですけど、掛け布団にしてね。だからそ
のときには着たきりスズメなんですね。着替えのシャツ一枚なかったで
す。繕いの糸ひとつなかったですよ。石鹸はないしね。水はもらい水で
しょ。電気もないんですよ。そのときは私が小学校の6年でしたけど。
で、畑を貸してあげるというとこがあって、そこへ自分たちで家を立てて
引っ越して住むんですけど、六畳と四畳半を作ったんです。六畳の方へ
六人入って、四畳半を人に貸して、病気で困っている三人家族の人に
貸していました。狭いところに入っているんです。中学校ぐらいまでで
す。ちょっと建て増しして小さい部屋を作りました。そこでの生活でも電
気を引くお金がないんで、ランプ生活ですね。水道もないから自分で井
戸を掘って、その水を使うんです。そんな生活をしていても、別に苦しみ
でもなんでもないんでね。一生懸命生きることに喜びを感じていたんで、
楽しいですね。部屋は狭い方が良いんです。それで、時間があったらお
祈りしていました。


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