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イタリアはパデュアの資産家の娘カタリーナとビアンカ・・・おしとやかで従順な妹のビアンカには沢山の求婚者がいるのに、姉のカタリーナは手に負えないじゃじゃ馬娘。困り果てた父親は、カタリーナが片付くまではビアンカも嫁には出さないと宣言。そこに現れたのが、金持ちの娘なら「じゃじゃ馬」カタリーナを妻にしても構わないと豪語するペトルーチオという男。ビアンカの求婚者たちに頼まれたペトルーチオは早速、手荒で奇想天外なじゃじゃ馬馴らしを開始します・・・。 16世紀末に書かれたこの戯曲の「じゃじゃ馬馴らし」というテーマに困惑を禁じ得ないのは、現代のフェミニストだけに限らないのかもしれません。歴史をひも解いてみても、英国のノーベル賞作家バーナード・ショーは1897年に、「まともな感覚を持った男なら誰しも、すっかり馴らされてしまったカタリーナの最後のセリフを女性の観客と一緒に聞くことに困惑しない筈はない」(要約)と書き記しています。近年では、「じゃじゃ馬馴らし」に観客が感じる居心地の悪さを解決するため、1)全て男性が演じる2)全て女性が演じる3)ペトルーチオとカタリーナのロマンスを強調する4)フェミニズム的視点から敢えて問題作として描く、など様々な解釈や演出が試みられてきました。しかし英国で演じられた『じゃじゃ馬馴らし』の批評史を見ても、じゃじゃ馬娘とそれを馴らそうとする男性の間のロマンスに説得力を感じないとする批評、反対にフェミニズム的な演出については原作との隔たりを指摘する意見などもあり、まさに今の時代に上演することが最も難しいシェイクスピア作品の一つと言っても過言ではないかもしれません。
しかし、そもそも喜劇『じゃじゃ馬馴らし』のペトルーチオ&カタリーナの物語は、酔っ払って居酒屋の女主人に叩き出された鋳掛職人スライが居眠りしながら見る(?)「劇中劇」。シェイクスピアの時代にグローブ座に集う男性観客たちが、女主人に罵倒されるスライに同情し、じゃじゃ馬カタリーナを見事に馴らしてしまうペトルーチオの活躍に溜飲を下げていたとしたら・・・?『じゃじゃ馬馴らし』はまさに「男たちのためのファンタジー」だったのかもしれません・・・。 |
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そして、『じゃじゃ馬馴らし』の続編とも言えるのが、ジョン・フレッチャーによる『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』。『じゃじゃ馬馴らし』でペトルーチオに飼い馴らされたカタリーナは、哀れなことに間もなく死んでしまいます。ペトルーチオは性懲りも無く、後妻を探してイタリアからロンドンに進出、再び金持ちの娘に目をつけます。今度のお相手は「従順な娘」マライア。しかし新婚の夜にマライアは、「じゃじゃ馬馴らし」でその名を馳せたペトルーチオに飼い馴らされてしまっては大変と、寝室に立て籠もりペトルーチオに宣戦布告します。しかも、この戦いの「参謀」としてマライアと共に男たちに反旗を翻すのは、亡きカタリーナの従順な妹と同じビアンカという名の従姉妹。さらにマライアの妹リビアにも、ビアンカの時と同様に父親公認の金持ちの年寄りが求婚中。父親と求婚者を欺いて、ちょっと頼りないけれど愛する恋人と結ばれるため、リビアもまた女たちの「反乱軍」に加わります・・・。
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シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』”The Taming of The
Shrew”(原題)が書かれた時期については明確にはわかっていませんが、1594年までには既に上演されていたというのが定説です。一方、『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』”The Woman's Prize, or The Tamer
Tamed”(原題)は、ジョン・フレッチャーの初期の作品で1647年出版のファースト・フォリオに収められていますが、恐らく1611年に上演されていたのではないかと考えられています。シェイクスピアがフレッチャーと組んで手がけた『二人のいとこの貴公子』"The Two Noble
Kinsmen"が初演されたと言われているのが1613年頃。つまり、フレッチャーが『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』を書いた後に、シェイクスピアがフレッチャーと共に『二人のいとこの貴公子』を執筆していることを考えると、シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』の結末に異議を唱えているとも受け取ることのできるこの大胆な続編、実はシェイクスピア自身も認めていた・・・と推測することも可能ではないでしょうか。
そして・・・『じゃじゃ馬馴らし』と『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』が一緒に上演されたとされる1633年から実に370年の時を経た2003年、再びこの2作品は英国のRSC(Royal Shakespeare
Company)によって同時上演されました。日本では本プロダクションが、『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』の初演(オリジナル邦訳)、『じゃじゃ馬馴らし』と『じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』初の同時上演となります。 |
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シェイクスピアが生まれたとされる1564年から15年後の1579年、ジョン・フレッチャーは英国サセックス州に生を受け、ケンブリッジ大学に学びました。フレッチャーはシェイクスピアやマッシンジャーを始めとする数多くの劇作家たちとの合作を手がけていますが、中でも『乙女の悲劇』”The Maid's
Tragedy”(1611)など、50本以上の戯曲を共に手がけたフランシス・ボーモント(Francis
Beaumont)とのコンビで一世を風靡しました。シェイクスピアとは『二人のいとこの貴公子』のほかに『ヘンリー八世』”Henry VIII or All Is
True”(1613)を手がけ、1616年にシェイクスピアが亡くなった後、その後を引き継いで国王一座(King's
Men
)におけるメインの座付劇作家として活躍しました。1625年、フレッチャーは仕立師に注文していた新しい服を受け取るために疫病の蔓延するロンドンに留まり、ペストで亡くなったと言われています。
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