ウィリアム・シェイクスピア&ジョン・フレッチャー原作
『二人のいとこの貴公子』 (The Two Noble Kinsmen)
2003年5月 横浜・山手ゲーテ座公演 (横浜山手ヘフト祭記念作品/ブリティッシュ・カウンシル後援)
シェイクスピア最後の戯曲「二人のいとこの貴公子」
日本初のシェイクスピア作品を、日本で初めてシェイクスピアが演じられた舞台で!

2004年5月 東京・両国 シアターX(カイ)提携公演(ブリティッシュ・カウンシル後援)
日本語初演から一年・・・ 新たなるキャストとスタッフを迎えて―「二人のいとこの貴公子」
(あらすじ) 舞台はアテネ。結婚式に向かおうとするアテネの支配者テーシアスとアマゾンの女王ヒポーリタの前に、夫である王たちをテーベ王クレオンに殺された三人の女王が現れ、テーシアスに式を延期して仇打ちして欲しいと哀願する。心動かされたヒポーリタやその妹エミーリアらの説得に、テーシアスはクレオン征伐に向かう。一方テーベでは、叔父である暴君クレオンの支配する荒んだ国から脱出することを話し合う王子パーラモンとアーカイテのもとに、テーシアス宣戦布告の知らせが届く。パーラモンとアーカイテはいとこ同士であり、無二の親友同士でもある。二人はクレオンへの反感を胸に収め、故国テーベを守るために闘うことを決意する。 クレオンを倒したテーシアスは、負傷したパーラモンとアーカイテを捕虜として塔に幽閉。一生牢獄から出ることができないことを悟った二人は、互いを妻、夫、親友として牢獄の中で過ごす方が、荒みきったテーベで生きるよりも幸せであると、変らぬ固い友情を誓い合う。しかしその時、牢獄の窓の下を通りかかったエミーリアに二人は同時に恋をしてしまう。一瞬だけ先にエミーリアを見たことから、パーラモンはその恋の権利が自分にあることを主張、エミーリアへの恋心を宣言するアーカイテの貴公子らしからぬ態度を激しく責め、二人の友情に深い亀裂が生じる。折しもアーカイテを昔から知るテーシアスの腹心の友ペリソス王子のとりなしにより、アーカイテは許され、一生アテネに戻らないことを条件に釈放される。しかし、エミーリアに恋するアーカイテは、アテネに留まることを決意。変装して身分を偽り、エミーリアの誕生日を祝う競技で優勝したアーカイテは、その褒美にエミーリアの従者として取りたてられる。 一方パーラモンは彼に恋する看守の娘によって牢獄から助け出されて森に逃れる。しかしパーラモンに愛されることを期待して牢獄破りの罪をおかした看守の娘は、実らぬ恋に気が狂ってしまう。身をひそめる森の中でパーラモンはアーカイテと偶然再会。パーラモンは再びアーカイテを激しく罵るが、アーカイテはパーラモンに食べ物や衣服を提供し、武器を用いて決着をつけることを提案する。しかしその決闘の最中に二人は、狩りをしていたテーシアスに発見されてしまう。激怒して即刻処刑を言い渡すテーシアス。しかし、ヒポーリタとエミーリアらの説得にテーシアスは、勝者はエミーリアと結婚、敗者は処刑されることを条件に改めて決闘を命じる。 決闘を前に、アーカイテは戦の神マーズに、パーラモンは愛の女神ヴィーナスに、エミーリアは貞節を司るダイアナにそれぞれ祈りを捧げる。一方、正気を失ってしまった娘を救おうと、父親である看守、そして娘の求婚者が医者に相談。医者は、奇想天外な治療法を提案する。 そして、いよいよパーラモンとアーカイテの決闘の日―。 |
| 『二人のいとこの貴公子』(原題The Two Noble Kinsmen) はウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)が、当時の新進気鋭の劇作家ジョン・フレッチャー(John Fletcher)と組んで『ヘンリー八世』(King Henry ?)に続いて手がけた最後の戯曲で、初演はおそらく1613年頃であると考えられています。この作品の初版本である1634年クオート(四折版)のタイトル・ページには、作者としてシェイクスピアとフレッチャーの名前、そしてブラックフライアーズ劇場にて国王一座によって演じられたことが記されています。シェイクスピアが亡くなる三年前に執筆されたこの戯曲では、『ハムレット』(Hamlet)、『真夏の夜の夢』(A Midsummer Nightユs Dream)、『ヴェローナの二紳士』(The Two Gentleman of Verona)などの過去の作品を彷彿させる登場人物やテーマがより深い洞察によって描き直されると同時に、シェイクスピアの死生観や晩年の心境をも伺い知ることのできる、まさにシェイクスピアの劇作家人生の集大成とも言える作品です。しかし前述の通り、この戯曲が初めて出版されたのがシェイクスピアの死後30年も後の1634年であり、しかも最初のシェイクスピア全集である1623年出版のファースト・フォリオ(二折版)には収められておらず、その後は圧倒的人気を誇ったフレッチャーとフランシス・ボーモンド(二人は数多くの作品を共同で執筆)の作品集に収められた経緯などもあり、17世紀以降は上演の記録もなく、1928年にロンドンのオールド・ヴィック劇場で演じられるまで、ほとんど顧みられることのない存在でした。しかし近年、この作品がシェイクスピアとフレッチャーの合作であることは数多くの研究・分析によって認められることとなり、本国英国では1977年にペンギンのシェイクスピア・シリーズに収められ、以後オックスフォード(1989)、アーデン(1997)などの主要なシェイクスピア・シリーズもこれに続いています。また、1974年にはリージェント・パークの野外劇場で上演され、1986年にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)が、2000年にはロンドンのグローブ座が上演して話題を呼んだのも記憶に新しいところです。 |