新 月 〜殷の最後の夜〜
すでに夜半を過ぎて喧噪は去り、しかしいまだ人々の気配の絶えない城内。
ふと立ち入った部屋はその主があわただしく立ち去ったことを如実に表していた。衝立は倒れ椅子は転がり、書棚には不自然な空間が目立つ。もっとも明かりを持たない彼にそこまで詳しく見て取れはしなかったのだが。
彼は転がった椅子をそっと起こすと―――しばらく手をかけたままぼんやりそれを眺めていたが、やがてドサリと腰を下ろした。
「ふはあぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」
やけに長いため息は同時に十分な重みを持った物。
暗闇の中、彼はその後しばらく膝にひじ突き顔を俯けその静寂の満ちる部屋の中に佇んでいた。
時折扉の外から廊下を走り抜ける誰かの足音が通り過ぎる。
パタパタパタパタパタパタ……………。
さわさわ、さわさわ。
……………。
すぐ近くにいるのに今はひどく遠く感じる、それら人々の作り出す音に聴くとはなしに聴き入っていると、軽い風切音が耳に届いた。
この部屋の中から。
はじかれたように顔を上げると少し離れたこれは無事だった机の上に灯火が一つ揺れていた。その傍らには人影が一つ。
明かりに照らし出されたその顔は―――
「なんでェ、お前かよ…」
「あいにくと わしだな」
目を伏せてニヤリと笑うのは彼の軍師。
「誰だと思うた」
問われて、
「さあな?」
と返す。
誰だと思ったのだろう。
いや、思いたかったのか。
自らの内側をのぞき込めば答えはすぐそこにあり。しかし、それは新たな問いかけを生む。
もう一度顔を俯け―――迷って、すごく迷って、迷ったけれどやっぱり聞いてみたくて、だけど顔を上げる勇気は出なかったからそのままで。
「……なぁ、太公望よ」
「うん?」
「俺はちゃんとやってけると思うか」
……言った。
「 ? ちゃんとやっておるぞ?」
「ちげーよッ! だから、そーじゃなくて…」
「おぬしが心配しておるのは、武王としてのこれからではないのか? それならば充分、大丈夫で」
「大丈夫なわけねーだろ?」
おうさま。
国を統べるもの。
この広い国の民全てに責任を持たなければならない者。
たった独りの、にんげん。
「俺は、オヤジの跡を継ぐのは伯邑考兄ちゃんだとずっと思ってた。けど兄ちゃんは死んじまった。なら次は旦の奴だと思ったよ。あいつはしっかりしてっからな。だけど、結局たまたま先に生まれたからってだけで俺が跡継ぎになった。信じらんなかった―――全然嬉しくなかったかって言ったら、ウソだけどな。頼りにされてんだぜ、この俺が。そんなのやんなきゃ男じゃねェよな。だから、これまで頑張ってきたよ。遊びも控えて、嫌いな勉強だってして、軍を引っ張って……やるしかなかった。ちょっとはやれてるかな、って思えるようになったのはやっと最近で……」
戦いが進むにつれて、様々なことを知った。そして初めてこの国を変えたいと―――そう、この自分の手で変えたいと思うようになった。そうだ、紂王ような昏君にはまかせておけないと…。
自らの民を踏みつぶして省みない、紂王のような者には。
「だから、今だって本当ならこんなトコにいちゃいけねェんだって事はわかってる。俺が思うイイ王様ってのは、こんなトコでコソコソしてるもんじゃねぇ。けど、わかんなくなっちまった。俺は本当に正しいのか。あいつは本当に間違ってたのか―――」
再会した彼はほんの一日二日ですっかり様変わりしていた。先日の化け物そのものであった姿とは一転、血にまみれ、老け込み、しかし静かな瞳の中に深い知性とあきらめとを抱えた殷王朝最後の王。
一瞬しか見ることの無かった最期の表情が自らの父親のそれとあまりにも似ていたのが、目に焼き付いて離れない。
「―――紂王は、妲己に操られてたから昏君になっちまったんだ。そうでなけりゃ、今だって殷はイイ感じに続いてたさ。俺は間違ったことはしてねぇと思う。こんな戦争はとっとと終わらせなきゃなんねぇから。けど、あいつも正しくなかったわけじゃ、ない」
彼に責任が全く無いとは言わない。けれど圧倒的な力を持つ他者によってねじ曲げられた人生の結果を彼だけの責任として考えることはできなかった。ましてや、その当人は最後に取り戻した正気を手放すことなく、王としての責務を全うしようとしたのだ。
「俺は本当に、あいつ以上の王になれんのかなぁ……」
室内に沈黙が降りた。
答えが欲しかったわけではない。聞いてみずにはいられなくても、否定も肯定も今はむなしい。ただ自らの迷いを、弱さを、誰かに―――今ここにいる彼に、知って欲しかった。
今日殺したもう一人の自分。そこにいたる道に自分を引き込んだ彼に。
沈黙はそう長くはなかった。
「……参考になるかはわからんが、ひとつ体験談をしてやろう」
「……は?」
返った答えは否定でも肯定でもない予想外のもの。顔を上げると軍師は机に腰掛け片膝を立てた状態でこちらを見つめている。
「わしもまぁ、王ほどではないが幾分責任のある立場っつーもんをやっとるわけでな。そこで知ったことを。―――人の頭に立つのに必要なのは、おおむね度胸と演技力!」
微笑んで、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。ふざけた口調に込められた彼の真意は……。
「何をすればよいかは皆と考えればよい。せねばならん事は皆と共にすればよい。頭に立つ者がしなければならないのは、最終的な決定を下すことと、皆を不安がらせないことだ」
『最終的な決定』をするのはわかる。しかし、この軍師ときたらひどくいい加減な性格で、出鱈目でメチャクチャで、当然『皆を不安がらせない』なんて―――そう言えば、彼といて不安になったことはあまりない。
なんでだろう。
この軍師は自分より背が低く、ずいぶん年若く見える(実際はジジイだが)。情勢が穏やかな時は一緒にふざけあったりもする間柄で、自分の中では友人、いや悪友というのが一番近いイメージだと思っていたのだが……。
「行く方を示すこととその責任を持つこと。…決定することには、度胸が必要だ。そしてたとえ悪手とわかっていてもすると決めたなら……それが本当にせねばならぬ事なら、堂々とする。自信がある振りをする。ここに必要なのが演技力なわけだ」
ダマしの名手はニヤリと笑う。いつもの人の悪い笑み。それがかげって見えるのは明かりを背にしたせいなのか。
「それから、その結果がどういうものであろうと、それが下の者たちにとって一番良い物になるように努力する」
淡々と語る彼が、誰かとダブる。
「辛いことも、苦しいこともあるだろう。それでも、信じてついてきてくれる者がいる限り、頭に立つ者は―――わしらは、自分にできる限りのことをすればよいのだ。それが支えてくれる者たちに報いる唯一の道だと思う」
知っている、この瞳を自分は知っている。
「悩むこともまた必要な歩みよ。おぬしは、自分で思っとるより託されるに足る者だ」
この瞳は、この邪気のないあまりにも透明な微笑みは。
青い空に飛んだ 彼ら と同じ。
わかってしまった。
頼っていた。甘えていた。だから弱音を吐いたりした。
だけど彼も自分と同じだった。
悩んで、傷ついて。そうだ、今日だって大切な人を亡くしたばかりなのに。
それでもこうやって見守ってくれる。
恥ずかしくて、申し訳なくて。だけどそれから全身にどうしようもないほどの安心感が広がる。
今はあまりにも先を歩くこの友人にいつか追いつくために、王という道を行くのもいいかもしれない。
もう一度ため息を、今度は軽くついた。
「ま、お眼鏡違いでないことを祈るとすっかね」
背もたれに身体を預け目を閉じ放心したように動かない彼に、軍師はしばし同様の様子でいたが、やがてツイと近づくと
「おわっ!? なっなな何すんだよ!?」
「くかかかかかかーーー〜っ♪」
ぐわっしゃわしゃわしゃわっしゃわしゃわしゃ
ヘッドロックを仕掛けた上でターバン頭を引っかき回す。
「あーっ、ほどけるじゃねェかよっ。離せ〜」
「発よ、ひとまずはおつかれさん」
「へ?」
身動きを封じられた頭の上から降ってくるのはねぎらいの言葉。
抱え込まれた腕の中でその表情は見えないけれど、その手が声があたたかい。
「今日は立派だったぞ、うむ!」
楽しそうに言うとパッと跳び退り懐から何か小さな物を取り出して
「おい、今なんてった? っつーか、何が? ちょっとも一回」
取り出して、それを思いっきり吹いた。
ピルルルルルルルル――――ッ!!!
「ぐわぁっ!?」
最大音量で吹き鳴らされるホイッスル!
とたん、遠くから聞こえていた足音が一斉に近づいてきて、
ド ド ド ド ド ド ド ド 、ドカッ バアンッ!!
兵士の一団が室内になだれ込む! そして叫ぶ!
「ちいにぃさまぁぁあっ! こんなトコロにいらっしゃったんですか!!」
「た、旦……? なんだよ、そんなに息せき切らせて」
「探しましたよ、全くあなたという人は! 自分が王だと言う自覚を持ってください!! ましてやあなたは怪我人なのですよ!!!!」
仰天して座っていた椅子ごと後ろにひっくり返った彼…武王に、乱入者たちの先頭に立って説教をぶっぱなしたのは『西周』随一の政治家と呼ばれた人物、周公旦。
しかし今は怒れる身内(弟)であった。
彼が手をひとふりすると武王は腰掛けた椅子ごと兵士たちによってたかって担ぎ上げられ、気がつけばなんだかお神輿状態。
「どーすんだよ、祭かよ!? 俺ァ本尊なのかよ!」」
「医務室へ!」
「「「「「はっ!」」」」」
「たっしゃでな〜」
ボケだかツッコミだかわからない叫びは完全に無視され勢い良く運び出される武王。白い手巾をヒラヒラさせる見送り軍師はどんどん小さくなってゆく。
「ちょっ、オイ、降ろせって、っ痛〜!?」
「ああっ、興奮しては傷に障ります」
「どうぞご自愛下さいっ」
「違…ゆら、揺らすなぁっ!」
ガタゴトガタゴト、ピーポーピーポー
◆
翌朝。
医務室の寝台の上で。
「……俺、静養しろって言われたよーな気ィすんだけどよ」
何故か書類の山につぶされかけて目が覚める。
「静養しつつ政務もこなすのが正しき王の姿というものだ。昏君と呼ばれたくなくば、せいぜい頑張れ」
「た〜い〜こぉ〜ぶぉ〜?」
枕元で見舞い品の果物籠を次々空にしていく軍師は締め上げようと伸ばした手をスルリとかわし、その動作の流れですぱーんと開いた引き戸の向こうには。
「武王、こちらの書類にも判をお願いします」
マジメ一辺倒の彼の弟が『また』、かなり重そうな紙の束を抱えて立っていたりする。
「おい、ちっとは手伝ってくれんだろ、な……ぁあ!?」
うさ耳宇宙人はいつの間にかオランかった。
「まじか―――っ!?」
「小兄様、往生際の悪い」
「っが〜〜っ! 俺はまだそこまで『王様』じゃねーんだよ! 当分往生する気はねーし!!」
ひとしきり叫んでゼーゼー息を整えていると
「落ち着かれたようならそろそろ仕事に手をつけていただかないと」
「てめーら鬼だぁーーっ!」
もう一度会ってみたい人がいる。
会って聞いてみたかったことがある。
その願いはもう叶うことはないけれど。
きっと彼には必要ない。
だって答えはもう、手の中に。
「あーくそやるよやりますよそーだよ俺は王サマだぁっ!!」
「その通りですわ、自覚はしてらしたんですね」
「今度はお前かよ、邑姜…」
「追加分持ってきました」
「てめーも鬼か〜〜っ!!」
新しい国家としての『周』第一日目はこうして始まったのだった。
2002/10月 初出
●駄文な気分●
発ちゃんはこの時点ではもっとしっかりしてるかなー、でもあれだけの事があったらこんなのもアリかなー、という感じでつらつらと。この辺から発ちゃんをよく書くようになったのでした。発ちゃんと太公望の悪友のような親子のような、そんな微妙な関係が好き。