歩 あるく
風が吹く。
立ち上がる。
右足を前方に、左足を前方に。
歩く。
次に踏み出した足は地に着くことなく。
宙を----飛ぶ。
それは、
とても簡単なコト。
◆
「太公望、菓子のおかわりはいるか?」
「かたじけない、頼む。公主」
「望ちゃん、よく太らないねぇ。そんなに食べてしょっちゅう昼寝してるのに」
竜吉公主の洞府。いつものお使いとその余録。
卓から離れた竜吉公主はスイ、と宙を滑るように部屋を出ていく。いや、『滑るように』と言うのは間違いだ。彼女は実際に宙空に在る者なのだから。
知り合ってずいぶん経つが、太公望も普賢も彼女が地に足をつけている場面を目にしたことはほとんど無い。先刻からのこの席においても彼女だけは椅子を使うことなく『座って』いる。
「しっかし、いつ見てもおぬしは空を飛んでおるワケだが、疲れんのか?」
空中浮遊は今やほとんど使われることのない『仙術』に属する。そのうえ結構レベルが高くならないと出来ないもので、道士である太公望などが自力で浮かぼうなどとすれば、疲労困憊の挙げ句ちょっと浮いて…一秒保たずに墜落するだろう。
「いや、私にとっては歩くことと同様、さほど疲れるものではない」
「そりゃもう、僕らの大・大・大先輩だもんね」
「年期が違うのだな」
「………そうじゃな」
それはその通りだが、そう強調されると女性としてはあんまり嬉しくない。
しかし太公望にしろ普賢にしろ他意があって言っているわけではない。もっとも普賢は途中で気が付いたようで少し済まなそうな顔をして微笑んだが。
「しかし、空を飛べると便利であろうな。高いところで手が届かんということもなかろうし、下に落ちると言うこともなかろうし」
「霊獣とか黄巾力士じゃ目立つしね〜」
「おぬしら、何を考えておるのじゃ」
目を輝かせる二人に苦笑する公主。どうもこの道士コンビは空を飛ぶことを少々誉められないことに使いたいようだ。実際のところ崑崙山自体地上から遙か高くに浮かんでいるので自力で飛べるなら色々移動が楽なのは確かだが。
しかし、彼女が常に空に在るのには理由がある。
「私は飛ばずに済む方が良いのじゃがな」
「『飛ばずに済む』?
飛ぶのは嫌いなのか?」
まだ若い道士達はきょとんとして顔を見合わせた。空を飛ぶことは道士達の憧れの一つ。そして目の前の人物は今も浮かんでいるというのに、どうやらそれを好んでしているわけではないらしい。
「公主は身体が弱いし、体力がないから仙気を使った方が楽だとか?」
「なるほど、公主にとっては歩く方が大変っちゅうワケか。わしは空を飛べる方がイイが、ひとそれぞれだのう」
「……二人とも、私は確かに余人と比べれば体力はなかろうが、歩くのに苦労するほどではないぞ」
確かに仙気を使った方がむしろ楽だというのは本当で、そのこと自体が自らのゆがみだと思っている公主はかすかに声を翳らせた。
「けれど、私が『歩くこと』に対して、おぬしらの『空を飛ぶこと』同様の憧れを持っているのは確かじゃろうな。私はもちろん歩くことは出来る。しかし、それはひどく限られた場所だけでじゃ。自らの洞府の中といえど、外気の入る場所では、その様なことは出来ぬ」
「外気……?」
「うわ、公主……!」
不意に竜吉公主の姿がゆれた様に見えて普賢は一瞬あわてたが、それは杞憂だった。ゆれたのは彼女ではなく。
「これは、水か?」
「そうじゃ。私は常に水で障壁を張っておる。故に、地に足をつけることは叶わぬ…」
「地面に触れるとこの膜が敗れてしまうから?」
「それもある。しかし、正確に言えば土に接することが私にとっては禁忌なのじゃ」
普段より僅かに厚くした水の膜の向こうで彼女ははかなく笑う。そこまで聞けば彼らにも解った。
「細菌や微生物か---!」
「あなたは清浄な空気の中にしかいられないとは聞いていたけれど、つまり免疫系が弱いんだね……」
「そういうことじゃ」
崑崙ほどの高みの空気には虫などいないし雑菌もほとんどいない。自然の無菌室のような物だ。しかし住まう者が仙道であるとはいえ生活の場であれば動植物などを育てている場所もあり、そういった場所の土には菌類や微生物がいる。それが彼女にとっては致命的となるのだ。
「昔は浄化の得意な者が身近におったので庭いじりも出来たのじゃがな。今となってはごく短い時間しか許されぬ故、花を育てるのもままならん。ましてや地上に降りるなどもっての他じゃ。流れる気の質も幾分濁っておるし……おぬしらは地上で生を受けた者じゃ。いや、私以外は皆そうじゃな。おぬしらの故郷を私も見てみたいと思う。歩いて、触れてもみたい。しかし、決して出来ぬとは言わぬが、私には難しいじゃろう。おぬしらにならば、こうして触れることも出来るが---」
そっと伸ばされた手は、二人の頬に軽く触れる。
「---おぬしらの親族には直接触れるわけにはいくまいな」
◆
「竜吉公主ってなんでも出来そうに思ってたけど、彼女には彼女の苦労があるんだね」
「うむ。しかし、やはりわしは飛びたいと思うが」
帰り道をてくてくと辿りながら話す二人。どうしてか、崑崙山脈のそれぞれの洞府を繋ぐルートは曲がりくねった物が多い。すぐ右手に玉虚宮を見ながら、しかし道は一旦左へとそれる。真っ直ぐに動ければ、おそらく三倍は早い。
「でも僕は、空を飛べてもどこにも行けないより、歩いて好きなところに行ける方がいいけどな」
「…公主には悪いが、わしらなら空を飛ぶ術を得ても行動が制限されるわけでもあるまい」
「そのかわり、そもそもそんな術おぼえられるかどうか分からないけどね」
「そういや公主以外で飛んでる奴を見たことはないのう」
「元始天尊様は出来るんだろうけど。道行は…アレ、跳んでるんだもんね」
空の高みにあってなお重力に縛られる身に、不満を持っていたわけではなかったけれど。ただ、憧れていた。
だけど本当は知っていたのかもしれない。
自分が心から望んでいるのは、飛ぶことなどではなく------
◆
そして、今。
なんの制約もなく。
空を飛べるようになった彼は、手の届かないところの物を取るときや、段差から落ちそうになったときなど、有効にその術を使っている。
しかし、大概は大地の上にいる。
「ねえ、申公豹。あのヒトいつ見ても歩いてるよね。なんでぴゅーって飛んでっちゃわないのかなぁ。飛んだら次の街まで5分もかからないのに」
「それは多分、私がアナタに乗せてもらっているのと同じ理由じゃないですか?」
「えーっ、それ、どういう意味?」
「分からないんですか、黒点虎。私だって空は飛べるんですよ?
でも大抵はアナタに運んでもらっていますよね」
「うーん、うーん、うーん、う〜ん……」
「簡単なコトですよ?」
子供の頃思い描いていた未来。
彼女が憧れていた場所。
昔の自分が辿り着いた楽園。
血を分けた者たちが眠る。
この地を歩くこと。
とても簡単なコト。
2002/10月頃
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