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Montaigne 旅日記 |
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1580年 |
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9月5日 |
ボーモン発 |
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9月29日 |
バーゼル着 |
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10月1日 |
バーゼル発 |
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10月28日 |
トレント着 |
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11月1日 |
ヴエローナ着 |
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11月3日 |
バドヴァ着 |
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11月5日 |
ヴェネェチア着 |
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11月15日 |
フェラーラ着 |
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11月17日 |
ボローニャ着 |
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11月22日 |
フィレンツェ着 |
フィレンツェFIRENZE(十七マイル)に来た。フェラーラよりやや小さい都市。平野の中にあり、耕作のよく行き届いた幾多の丘に囲まれている。アルノArno川が市中を流れ、いくつも橋がかかっている。郭壁のまわりにはお堀がまったく見えなかった。 |
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同じ日、我々は大公の厩舎を拝見した。非常に大きく、円天井になっていたが、名馬はそれほど多くはいなかった。大公がこの日は御不在であったからだ。我々はそこで、とても変わった形の羊を見た。それから賂駝一頭、また獅子や熊も見た。猫のような形をした、全身に白黒の斑のある、馬鹿でかい番犬みたいな大きさの動物も見たが、これは虎だということである。我々は聖ロレンツォSan
Lorenzo教会を見たが、わが軍がストロッツィ元帥の指揮下にトスカーナにおいて失った軍旗が今もかかっている。この教会には、いくつかの壁画やミケランジェロの手になる実に美しく優れた彫像がある。我々はそこでドゥオーモ(花の聖母教会 Santa
Maria del Fiore)を見たが、とても大きな教会で、鐘楼全体が黒と白の大理石で覆われている。これは世界で最も美しい豪著なものの一つである。 |
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モンテーニュ殿は、イタリアくらい美人の少ない国は今まで見たことがないと語られた。宿も、フランスやドイツよりずっとよくないとお感じになった。まったく、食物もそんなに豊富でなく、ドイツに比べたら半分もないし、その調理もそんなにうまくないのである。ここではどこへ行っても脂肉を差し込まずに肉を出すが、ドイツでは味つけがずっとよく、ソースやシチューも変化に富んでいる。イタリアの宿屋はずっとおちる。広間が全くないし、窓は大きくて開けっぱなし。日差しや風をよけようとしてもただ人きな木の鎧戸があるだけである。これには旦那様も、ドイツでカーテンがなかったことよりも堪え難くやり切れないと言われた。それに、哀れな天幕のついた小さな寝台があるばかりだった。それも一室にせいぜい一つで、ただその下に小さな引き出し寝台がついているだけである。だから硬い寝床の嫌いな人間、ここでは非常に困るであろう。シーツについても同じ、いやもっとひどい。ぶどう酒も大体はまずく、その甘ったるいのが嫌な人たちは、この季節にはとても飲めたものではない。物価は、正直のところ幾分か安い。フィレンツェはイタリアで一番物価の高い町だと言われているので、私は旦那様が「天使亭(アンジュ)」にご到着になる前に、人と馬とで一日七レアール、従者については四レアールということにかけ合っておいた。 |
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同じ日に我々は公の宮殿[サン・マルコの別邸Casa di San
Marco]を拝見したが、公はそこで東洋石の模造をしたり、水晶を切ったりして独り楽しんでおられた。公は錬金術や機械類に少々お詳しく、とりわけ大建築家であらせられる。 |
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翌日モンテーニュ殿は、先頭に立ってドゥオーモのてっぺんにお登りになった。そこには金めっきした真鍮の球がある。下から見ると毬くらいの大きさのようだが、そばに来て見ると、中に人が四十人(おそらく四人の誤り)くらい入れそうである。この教会に象嵌してある大理石が、黒いのまで、既に方々剥げかけていて、霜や日に当たつてひびが入つていた。まったくこの象嵌には多様な色の変化と紬工とが施されているので、且那様は、この大理石を本物ではなく人工のものなのではないかとお疑いになった程である。彼は、ストロッツィ家Strzziやゴンディ家Gondiのお邸を見ようと思われたが、そこには一族の人たちが今なお住んでおられた。我々はまた公の御殿[ヴェッキォ宮Palazzo
Vecchio]を拝見に行つたが、そこには先代コジモ[トスカーナ大公コジモ一世]が、シェナの奪取や我我の敗戦の図を描かせている。けれども当市のいろいろな場所には、とりわけこの御殿の古い壁には、百合の花[フランス王室の紋章]が最も栄誉ある位置に置かれている。 |
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デスティサック殿とモンテーニユ殿は、大公の―当地ではそう呼ばれている―正餐にお出かけになった。夫人が正座につかれ、公はその次に坐られた。公の次には公の夫人の妹が、その次にはその夫君、すなわち公の夫人の弟御がお坐りになった。この公爵夫人は、イタリア人の趣味から言うと美人である。お顔は愛嬌もあり気品もあり、胸は厚く、お乳は望み通り盛り上がっている。成程これは公を惑わし、長くその崇拝を保っているだけのことはある、と旦那様はお思いになった。公の方は肥つた色の黒い男で丈は私[モンテーニュのことであろう]くらい、手足は太く、顔や態度はすこぶる慇懃、常に無帽で、なかなか立派な御家来衆の間をお通りになった。いかにも健康そうな、四十男の恰幅をしている。テーブルの反対側には枢機卿ともうひとり十八歳のお若い方がいらしたが、両方とも公の弟御である。公および夫人に対しては、それぞれ飲物をお盆にのせてすすめる。お盆の上には、酒を充たした蓋のないグラスが一つ、水の入った水差しが一つのっている。お二人はぶどう酒のグラスを取り上げ、ほしくない分はお盆の中にこぽし、そのあとにお好きなだけ水をつぎ入れられる。それからグラスをお酌取りが捧げ持っているお盆にお返しになる。公はかなり水をお入れになったが、夫人の方はほとんどお入れにならなかった。ドイツ人は馬鹿げて大きなグラスを用いる悪い癖があるが、ここではあべこべにひどく小さなグラスを用いる。 |
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どうして当市が特別に美しいと言いはやされるのか、私にはわからない。美しいには美しいが、ボローニャより優れたところは少しもないし、フェラーラより優れたところもほとんどない。ヴェネチアとは比べものにならぬほど劣っている。本当にすばらしいのは、あの鐘楼の上から、周囲二、三里に余る幾多の丘陵と、当市を囲む幅二里もあろうかと思われる平野の上に建てられた無数の家々とを見渡す景色である。まるで家々が互いにくっつき合って見えるほど、たくさんの家が所狭しと立ち並んでいるのである。市中は平たい、小で無雑作に舗装されている。 |
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昼食後、旦那様方四人は案内人を一人つれて駅馬を雇われ、カステッロCastelloと呼ばれる公の別荘を見にゆかれた。別荘そのものは見るに足りなかったが、いろいろなお庭があり、いずれも丘の斜面に作られていた。だから縦の道はどこも坂道になっていたが、なだらかで楽な坂道で、横の道はまっすぐで平坦であった。そこには、杉・糸杉・オレンジ・レモン・オリーヴの木といった香りのよい樹木だけで編まれたこんもりとしたトンネルがいくつもあった。枝次が密に絡まっているから、太陽がかんかん照っても、きっと中まで差し込むようなことはあるまい。散歩道も糸杉やその他の樹木が整然とほとんど隙間なく植え込まれているから、せいぜい三、囚人しか通れない。中でも面白いのは大きな養魚池で、その真ん中に自然を模した岩がある。それは、公がプラトリノの洞窟に用いたのと同じ物質で塗り固められているようだ。その岩の上には大きなブロンズ像がある。年老いて白髪の男が腕を組んで腰をかけている形だが、その髭や額や髪の毛からは絶えず水が滴りおち、さながら汗し涙しているかのようだ。そのほかには泉水の出口はない。皆様はさらに歩を移されると、私がさきに[アウグスブルクで]書きとめた、ことを経験なされ、大いに楽しまれた。皆様が庭の中を散歩されながらいろいろ珍しいものを見ておられると、園丁はわざとお傍を離れ、皆様がある場所に立って大理石の像をながめておられるところを見はからい、皆様の足もとや脚の間のごく小さな孔から、ほとんど目に見えぬくらいの細かい水を噴き出させ、いかにも小雨そぼふる様を表わしてお見せした。そのため皆様はしたたかにお濡れになったが、それは園丁が二百歩以上も離れた所から地下のある仕掛けを操作したためである。しかもそれがきわめて巧みなもので、園丁は遠くの方から、思うままにその噴水を高く上げたり低くしたり、方向を曲げたり動かしたりした。ここにはこういう仕掛けが方次にあった。皆様はまた、二つの大きなブロンズ像から送り出る大噴水をもご覧になった。下の方の像はもう一方の像を抱えて力一杯締めつけている。抱かれた方は半ば気絶したように頭をのけぞらせ、口からその水を吐き出しているように見える。その噴水の勢いは非常に強く、少なくとも二十歩はあろうかと思われるこれらのブロンズ像の高さを超えて、それよりもさらに三十七尋(一ブラスは両手を広げた長さ)も高い水柱を上げている。また一本の常緑樹の枝の間に小さな部屋が一つあつて、それは皆様がご覧になった他のどの部屋よりも贅沢なものであった。青々とした枝葉がこの部屋の四方の壁を作つており、しかもこの部屋は緑の葉ですっかり閉ざされているので、枝をあつちへ寄せこつちに曲げして隙間をあけない限り、中を覗いて見ることはできない。そしてその真ん中には噴水が見えない一本の管を通って、小さな大理石のテーブルの中央から湧き出ているのである。この庭には水の音楽もあつたが、皆様はお聞きになれなかった。その日のうちに町に戻るには、時間が大分過ぎていたからである。また門の高い所に公の盾形の紋章がかかっているのを、ご覧になつたが、それは、眼に見えない髭根によってその自然の生気を保っている樹木の枝で、実に見事に飾りつけられている。皆様は、庭をご覧になるには一番悪い季節にここにお出でになったので、それだけ一層感心なさった。ここにもまた美しい洞窟があって、その中にあらゆる動物が本物とそつくりに模造されており、口ばしや翼、あるいは爪、耳、鼻面からそれぞれ泉水を噴き出している。 |
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申し忘れたが、公の御殿(ヴェッキオ宮)の大広間の一つには、ある四足獣の形が、一本の柱の上に、まるで生けるが如くブロンズで浮き彫りにされていた。それは実に異様な形の動物で、前面は鱗だらけ、背骨の上には何か角のよう言のが生えている。人々の話では、この地方の山のある洞窟から発見されて、数年前生きたままここに引かれて来たのだとのことである。我々はまた王太后様(フランス王アンリ三世の母カトリーヌ・ド・メディシス]のお生まれになつた宮殿(ピッティ宮Palazzo
Pitti]も見た。 |
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旦那様はこの町の暮らしの便をいろいろお調べになろうと、他の町々でもなされたように、貸室や下宿の状態までご覧になったが、とりたててこれと言うものもなかつた。貸室は旅館以外にはないという話で、しかもご覧になった部屋は不潔である上にパリよりはずっと高く、ヴェネチァに比べても高かった。下宿の方も、みすぼらしいのでも、主人の分として一日十ニエキュ以上とる。またここでは、剣術についても馬術についても、また文学についても、これと言う塾は見当たらない。この地方一帯は錫が非常に少ないので、あの色模様のついた、かなり不潔な陶器で食物を出す。 |
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11月24日 |
シエナ着 |
シエナSIENA(三十ニマイルすなわち四ポスト丁場)に着いた。ここでは、一丁場が八マイルであるから、普通わが国で言う一丁場より長い。 |
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金曜日、旦那様は市中をつぶさに見て回られた。とくに我々の合戦に関して。ここは起伏のある都市で丘陵に跨がっており、市の中心部はその高い所にある。その両斜面は段々になっていくつもの道に分かれ、ある道はまた高くなつて別の丘へとつながっている。当市もまたイタリアの美しい町の一つではあるが、一流のものの中には数えられないし、フィレンツェほどの大きさもない。けれども、一見してこの町がきわめて古いことがわかる。泉水が豊富にあって大部分の家がそこから水を引いて自由に使つている。家には立派な涼しい穴倉(カーヴ)がある。ドゥオーモは、ほとんどフィレンツェのそれに匹敵するような立派なもので、内側も外側もほとんどいたるところあの例の大理石で覆われている。いずれも方形の大理石片で、中には厚さ一フィートあるのもあり、それほどでないのもあるが、それらが、ちようど羽目板を張ったように、煉瓦づくりの建物を覆っている。煉瓦はこの国の普通の建築材なのである。町で一番美しい場所は、実に壮大な円形の広場(カンポ広場Piazza
del Campo)で、どの部分も宮殿(プッブリコ宮殿Palazzo Pubblico)に向かっており、宮殿はその円形の一面をなしているが、ただこの部分は他の部分ほどに彎曲していない。宮殿と向かい合って、広場の一番上の所に、とても美しい噴水があり、たくさんの管によって大きな水槽を一杯にしているから、皆はそこで清水を汲むことができる。たくさんの通りが、段々をなした敷石道によって、この広場に集まってくる。いたるところに通りがあり、古い住居がたくさんある。その主なものは、ピッコローミニPiccolomini、チアイアCiaia、トロメイTolomei、コロンビニColombini、チェルレターiCerretaniの邸。見たところ三、四百年くらいは経っている。たくさんの柱の上に見られる当市の紋章は雌の狼で、その乳房にはロムルスRoulusとレムスRemusとがぶらさがっている。 |
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フィレンツェ公は我々の側にくみする親仏派の貴族たちを丁重に扱っている。側近のシルヴィオ・ピッコローミニは、あらゆる種類の学問および剣術において当代で最もすぐれた貴族である。公は、とくに自分自身の臣下に気を許さぬ人のように、諸都市にその防衛の手配一切を任せながら、なおかつあらゆる注意と可能な隈りの費用を注いで、都市の要塞に武器・食料を補給し、警備を強化している。そのきわめて用心深いことは、ごく僅かな人たちにしか要塞に近寄ることを許さないことでもわかる。 |
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婦人たちは大半が帽子をかぶっているが、ミサの聖体奉挙のときには、男子と同様に帽子を脱いでいるのを、我々は見た。我々は「王冠亭(クウロヌ)」に泊まった。まあよい方であるが、相変わらずガラス窓もなければ窓枠もない。 |
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モンテーニュ殿はプラトリノの別荘番から、当地の美しさには驚かれたかと尋ねられると、まずいろいろと誉めそやした後、口を極めて扉や窓の醜いことを非難なさった。「それはただ大きいばかりの樅の板で、格好も悪いし飾りもない。錠前も武骨で不釣り合いだし、まるで我々の田舎で見られるものとそっくりだ」と。それから窪んだ屋根瓦について、「スレートや鉛や青銅が手に入らないにしても、せめて建て方を工夫してこのような瓦は隠すべきだ」と言われた。別荘番はこれを聞いて、主人にその旨申し伝えましょうと言った。 |
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公はいまなお、当市の古跡や標語をそのままに残しているが、それらはいたるところで「自由」の余韻を聞かせている。けれどもここで死んだフランス人の墓や碑銘は、教会の改築改修を理由に、そのもとあった場所から取り除かせ、市中のどこかに隠している。 |
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11月26日 |
シエナ発 |
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11月30日 |
ローマ着 |
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1581年 |
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4月19日 |
ローマ発 |
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5月2日 |
フィレンツェ着 |
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5月3日 |
フィレンツェ発 |
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5月4日 |
ルッカ着 |
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5月7日 |
ルッカ発 |
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6月22日 |
フィレンツェ着 |
この日わたしはメロンの初物を食べた。フィレンツェでは、六月の始めから、もう南瓜(かぼちゃ)や巴且杏などを食べていた。 |
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二十三時頃[午後七時頃]、四方に美しい建物が立ち並んだ、奥行きの深い、方形の、美しい広場[サンタ.マリァ.ノヴエッラSanta
Maria
Novella広場で、馬車の競走が行なわれた。長い辺の両端に先のとがつた四角い木の杭がたてられていて、その間に長い綱が張られ、広場を横切ることができないようになつていた。さらに所々に人が立っていて、群集がその綱を乗り越えないように番をしていた。バルコニーは貴婦人で一杯、大公はその夫人および廷臣とともに宮殿に陣取っていた。群集は広場に沿った一種の桟敷のようなところにおり、わたしもその中にいた。皆は五台の空の車が競争するのを見物した。彼らはくじをひいてから、一方の尖塔の脇に並んだ。多くの人たちは、一番遠くの車が得だ、回るのが楽だから得だ、と言った。車はらつぱの音でスタートした。出発点になった方の尖塔を三度回って勝者を決めるのである。大公の車が三周目までは優勢を保つていたが、常にその後ろに追つていたストロッツイの車が、急にスビードをあげ、全速力で走り出したので、いずれが勝つかと手に汗を握らせた。気がつくと群集は、ストロツツイのぐんぐん追って来るのを見るや、沈黙を破り、大公の御前にいることも忘れ、精一杯の声をふりしぽつてストロツツィに声援した。つづいて、何人かの貴族によつて物言いが裁かれる段になり、ストロヅツイ側のものがその審判を一般見物人に訴えると、たちまち群集の間には異口同音、ストロヅツイを支持する叫びがあがり、ついに勝利はこの人のものとなつた。だが、わたしが見たところでは、それは間違いだった。賞金は百エキェだった。この日の光景は、いかにも古代の競技によく似ていて、わたしがイタリアで見た何よりも面白かった。 |
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この日はちょうど聖ヨハネ祭の前夜であったので、ドゥォーモの屋根には獅火が二段三段にめぐらされ、そこからは火矢が空にはじけ飛んでいた。けれども、フランスのように聖ヨハネの火を焚くという習慣はイタリアにはないということである。 |
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土曜日は聖ヨハネ祭。フィレンツェにおける最も盛大な祭の日であるから、この日は若い娘たちまでが街頭に姿を見せる。その中には大した美人もいなかつた。朝から大公は、宮殿前の広場の、宮殿の外壁に沿ってしつらえられた、きわめて豪著な絨緞の敷きつめられている、壇の上にお出ましになった。彼は(天蓋の下に)法王大使を左にして並んでお立ちになり、フェラーラの公使はずつと離れて立っていた。その前を、伝令使が呼び上げる順に、彼のあらゆる領地あらゆるヵステツロが通って行った。例えばシエナの番が来たときには、白と黒のビロードの服を着て、手には銀の大きな器とシエナの雌狼の像を捧げ持った若者が進み出た。彼はそうやつて公に捧げ物をすると共に言葉少なに祝辞を述べた。それがすむと、名前を呼ばれる順に列をなして、みすぼらしい服装をしてひどく悪い馬ないし騾馬に乗った少年たちが、ある者は銀の盃を、ある者は破れた旗などを持つて現われた。それは大勢であったが、いずれも黙って、あたりを気にせず、少しも勿体ぶらずに練り歩いた。それはまじめな儀式というよりはむしろ戯れのように行なわれた。これらの人たちはそれぞれシエナ政府所属のカステヅロや土地の代表者であった。この儀式は単なる形式であるが毎年繰り返される。 |
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その次に、木製の大きな尖塔をひいた車が通つた。その四方の階段には、ぐるりと子供たちが並んで乗っており、それぞれ思い思いに天使や聖者の姿をしている。最も高い家ほどの高さのあるその尖塔のてっぺんには、聖ヨハネが、すなわちヨハネに扮した男が、鉄の棒に結わえ付けられて乗つている。役人たち、とくに造幣所の役人がこの車の後に従った。 |
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行列の最後にまたもう一つ車が行った。その上には、いろいろな競争で三つの賞をとつた若者たちが乗つていた。彼らの脇には、今日の競馬に出る駿馬と、いずれも同内有数の貴族であるその主人の旗を持つてそれらの馬に乗る若者たちとがついて行った。その旭は小さかったが美しかった。 |
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暑さはフランスより厳しくは思われなかつた。けれどもこのような宿屋の寝室では、暑さを避けるために、夜は食堂の広間のテーブルの上に、夜具布団を敷かせて眠らざるを得なかった。ここでは快適な貸室を求めることができないからである。まつたくこの町は外国人には不向きなのである。南京虫を避けるためにもわたしはこの方法を採らざるを得なかった。どの寝台も皆この虫に侵されている。 |
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フイレンッエには魚があまりない。ここで食べられる鱒その他の魚はよそから来る。しかもそれが酢漬けである。わたしは大公か同宿のミラノ人ジヨヴァンニ・マルリァニの許に、ぶどう酒、パン、果物、魚などの贈物が届くのを見た。それらの魚は小さかったが、陶製の冷した器の中でぴちぴちしていた。 |
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わたしは一日じゆう口の中がからからに渇いていた。それはのどの渇きではなく、むしろ体内の熱から来るものので、以前にも暑い季節にはよくそれを感じた。わたしは果物と廿くしたサラダばかり食べていた。とにかく体の調子はよくなかった。 |
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夕涼みと言えばフランスでは夕食後であるが、ここでは夕食前である。最も日の長い頃は、しばしば夜に入ってから夕食をとる。朝は七時と八時の間に明るくなる。 |
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昼食後に競馬(パリオ)が行なわれた。メデイチ枢機卿の馬が賞をえた。賞は二百エキュであった。この見物はあまり面白くはない。街路からは、ただ馬が恐ろしい勢いで走り過ぎるのが見えるだけだから。 |
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日曜日にピツテイ宮を見た。中に今なお生きている騾馬をかたどった騾馬の大理石像があったが、それはこの宮殿造営に必要な資材の運搬のために長年奉仕した功を称えるためで、そこに読まれるラテン語の詩句にそう書いてある。 |
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土曜日には大公の宮殿(ヴエツキオ宮)が公開されて、どこにでも入つてゆくことができたため、田舎の人たちで賑わっていた。人々は大広間のあちらこちらで踊つていた。これはこの種の人々にとつては失われた自由の回想なので、こうして毎年、市の主なる祭の日に、その回想を新たにするのであろうと思う。わたしは、この宮殿の中で、両肩の間に頭が出て(角と耳をもった)体は小さな獅子の形をした、あの古代の怪獣を見た。 |
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月曜日、私はシルヴィォ・ピヅコローミニ殿の許に正餐に行つた。彼はすぐれた人物で、とくに剣術の腕前にかけて有名であつた。席上お歴々も集まつてさまざまな話題が語り合われたが、ピッコローミニ殿は、イタリァ諸家の、ヴニネチア派、ボローニャ派、バティノストラーロ[ローマの剣術家]などの諸流儀を、ほとんど無視していた。この道にかけては、ブレーシァ団に道場をもち幾人かの貴族に教授している、自分の弟子の一人だけしか認めなかった。彼に言わせれば、普通の剣術教授の仕方には規則も技術もないのである。とくに、剣を前に突き出してそれを敵の手に委ねるやり方、突きを受け止めてから一歩攻めてまたとどまるやり方を非とした。そして、実戦の場合はこれと全然ちがうと主張された。彼はこの問題について一冊の書物を公にしようとしている。戦争のことでは、砲術を非常に蔑視している。その点、大いにわたしを喜ばせた。彼はマキアヴェリの著わした『戦争論』をほめ、彼の諸意見を採用している。築城術に関しては、最も優秀な技師がフィレンツェにいて大公殿下に仕えていると称している。 |
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ここではグラスの中にぶどう酒と一緒に雪を入れるのが習慣である。わたしはほんの少ししか入れなかった。あまり体の調子がよくなく、しばしば腎臓が痛み、やはり信じ難いほどに多量の砂を出していたからである。それに、頭をなおし、それをもとの状態に復することができずにいた。よく目まいを感じ、目の上や額や頬や歯や鼻や顔全体に、何かしら重たいものを感じた。これらの痛みはこの地方の甘くて頭へ来る白ブドウ酒のせいではないか、という気がした。というのは、始めて偏頭痛が再発したその日は、旅や季節のせいで既に相当のぼせてはいたのたが、わたしはトレッビアーノ酒をたくさん飲んでいたからである。その酒は甘くて、いくら飲んでもわたしの渇きを癒してはくれなかった。 |
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とにかくわたしは、フィレンツェが「美しい都」と呼ばれることを当然であると認めた。 |
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この日わたしは、一人で、気晴らしのつもりで、望めば誰とでも会ってくれる女たちの許に行った。最も有名な女たちに会つたが、何もめずらしいところはなかつた。彼女たちの住居は町の特別な区域内に集まつていた。それだけにその住居はわびしくみじめで、ローマやヴェネチァの娼婦たちの家とは比べものにならないし、女たちそのものも、顔だちにせよ愛嬌にせよ物腰にせよ、とても比べものにならない。もし彼女たちの誰か一人がこういう界隈の外に住もうとすれば、ほとんど誰にも相手にされず、何か他の職業に身をかくすしかあるまい。 |
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ある種の糸繰り車を使つて絹糸を作る仕事場を見たが、たつた一人の女がそれを回転して、一遍に五百巻の糸を巻き上げてしまう。 |
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火曜日の朝、小さな赤褐色の石が一つ出た。 |
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水曜日、大公の別荘(たぶん前出のサン.マルコの別邸)を見た。そこで一番感心したのは、あらゆる種類の自然の鉱石を一つ一つ集めつないで作り上げたピラミツド型の岩であった。この岩は水を吹いて園内のいろいろなもの、水車や風車や、小さな教会の鐘や歩崎の兵隊や動物や猟師などを動かしている。 |
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木曜日、わたしはここでまたもう一つ別の競馬を見る気にはならず、昼食後プラトリノ宮に行って、もう一度くわしく見物した。宮殿の門番は、当所の美しさとティヴォリ(エステ宮)の美しさについて感想を求めたので、わたしは全体としてでなく部分部分について両方を比較し、それぞれの長所を挙げて、ある点はこっちがよい、ある点では向こうがよいというふうに、思うがままを話してやった。 |
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金曜日には、ジウンティ書店に行って、喜劇十一篇と若千の書物を一包み買った。わたしはここで、ボツカチオBoccacioの遺言が『デカメロン』に関する論説と共に印刷されたものを見た。 |
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この遺言を見ると、この偉人がいかに驚くべき貧窮と薄幸の内にあったかがよくわかる。彼が身内の者や姉妹に残したものは、毛布のほか夜具の幾枚かだけである。蔵書は、それらを見せて欲しいと言う者には見せるという約束で、ある僧に委ねている。彼は最もつまらぬ家財道具まで数えあげ、最後にミサのこと墓のことを指図している。この遺言は、それが発見された時のまま、ぼろぼろになった古い羊皮紙の上に印刷されている。 |
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ローマやヴェネチァの娼婦たちは窓に寄って男たちを引き寄せるが、フィレンツェの娼婦たちは、よい頃合いを見て家の戸口に現われ、客を待つ。そこへゆけば、彼女たちが何人かの仲間と共におしゃべりをしたり路地で輪を作って歌ったりしているのが見られる。 |
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七月二日、日曜日、昼食後フィレンツェを立って、アルノ川の橋を渡り、川を右手に残しながら、なおその流れについて行った。美しい豊かな平野を横ぎったが、そこにはトスヵ-ナで最も有名なメロン畑がある。うまいメロンは七月十五日頃にならなければ熟さない。最も上等なのができる名産地はレニャイアと言い、フィレンツェから三マイルのところにある。 |
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それから我々が進んだ道は、大体は平坦で肥沃で、いたるところ人家が多く、小さなカステッロや村落などが点々とつづいていた。その途中、我々はエンポリEmpoliという美しい土地を通りすぎた。この地名には何かしら古代の響きを感ずる。大そう景色がよい。古代の遺跡は何もなかったが、ただ街道近くの崩れた橋などに、何か古風な趣があった。 |
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わたしはここで三つのことに感心した。第一は、この地方の人々はみな、日曜日でも麦を打ったり束ねたり、あるいは縫ったり紡いだりして働いていること。第二は、これらの百姓たちが手に弦楽器(リュート)を持ち、羊飼いの娘たちまでがアリオストを口ずさんでいること。もっともこれはイタリア中どこでも見られる。第三は、彼らが十日も十五日もそれ以上も、刈った穀物を畑にほおり出したままにしておき、隣人を少しも疑わないことである。 |
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7月2日 |
フィレンツェ発 |
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7月3日 |
ピサ着 |
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7月27日 |
ピサ発、ルッカ着 |
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9月20日 |
ルッカ発 |
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9月21日 |
シエナ着 |
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9月24日 |
シエナ発 |
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10月1日 |
ローマ着 |
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10月15日 |
ローマ発 |
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10月17日 |
シエナ着 |
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10月19日 |
シエナ発 |
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10月26日 |
ミラノ着 |
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10月28日 |
ミラノ発 |
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10月30日 |
トリーノ着 |
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10月31日 |
トリーノ発 |
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11月7日 |
リヨン着 |
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11月15日 |
リヨン発 |
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11月30日 |
モンターニュ着 |
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