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第二部 都市建設
第四章 城壁・道路・フォンテ
都市とは何か
イタリアを理解する鍵それは都市である。なせなら「イタリア史の根本問題は、少なくとも我々が英国史、あるいはフランス史というのと同じ意味でのイタリア史というものが、十九世紀以前には存在しないということにある」(デニス・ヘイ)といわれるように、イタリアは地方分割の歴史を歩んだからである。このようなイタリアの特殊性が、そもそも中世都市国家の発達に起因することは、すでに述べたとおりである。すなわち、コンタード一周辺領域一を支配して領域国家を形成していったこと、そしてそうした都市国家が群雄割拠してたがいに覇を争い、十六世紀以降そこにスペィンやオーストリアなど、諸外国の支配がおよんだことが、こうした地方分割の歴史を決定づけたのである。
したがって、イタリァは同質的な単一国家ではなく、それぞれ固有の歴史と文化をもつさまざまな都市の集合体にほかならない。だからイタリアを会得したいと思う者は、重要な都市を一つ一つ、じっくりと学んでゆくべきであろう。そうすれば都市というものがどんな意味をもち、どのような役割を果たすものか、つまり都市がいかにイタリアを解く鍵であるかが、分かるはずである。実際、都市はさまざまな働きをもつ。たとえば美術の面だけを考えても、都市は美術活動の場であり、いわば美術作品の展示場であるというにとどまらず、美術家を陶冶する不思議なカを発揮する。すなわち都市は伝統を生み、伝統は美術家を育み、美術家は都市を飾るのである。
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この連鎖が都市に強固な個性と同化カを与え、フィレンツェをフィレンツェたらしめ、ローマをローマたらしめているのだと思う。こうしたことが理解されるならば、次のように極言しても奇異には映るまい。都市こそイタリアにおける最高の美術作品だ、と。
美術作品としての都市の最高傑作は、なんといってもヴェネツィアであり、ローマであり、そしてフィレンツェである。これに今一つを加えるならば、シエナはその強力な候補といえよう。筆者はシエナに一票を投じたいと思う。なぜなら、シエナが中世都市国家の黄金時代における最高の傑作であることは疑いないと思うからだ。
美的水準の高さ、純粋さ、そして人間的共感の深さの点で、シエナに並ぶ都市はない。しかもビアンキ・バンディネッリがいうように、今日のシエナは「唯一の生ける中世都市のモデル」であり、ドゥッチョやシモーネ・マルティーニらの優れた美術遺産だけでなく、人々の生活文化に溶けこんだ都市そのものが我々を魅了してやまないからである。
こうしたシエナの都市を建設したのは、「ノーヴェ」をはじめとする市政府であった。今日見る数々の建物、そして都市の整備自体が彼らの企画になる仕事だったのである。
第二部では、この申世シエナの都市建設がどのようなものであったかを概観することにしたい。すなわち、それが市民たちの手で自発的になされ、いかに彼らの愛国心がその原動カとなったか、そして都市全体がいかに有機的にとらえられ、シエナの美が達成されたか、を略述しようというものである。
しかし、都市建設に入る前に、まず都市とは一体どのような要素によって構成されていたかを知らなければなるまい。中世の都市は城壁によって自らの形を規定し、その城壁の随所に城門があって、そこから外界との交流がなされていた。この城門を入ると、道路の両側には人々の住宅が並んでいたが、その建物の一階はしばしば店舗になっていた。また有力な豪族の館にはたいてい塔がついていた。して大聖堂を筆頭として聖堂が市のあちこちにあり、司教館や参事会員の館、あるいは修道院、ときには病院がこれに付属して建つていた。それから市庁舎やポデスタの館・ギルドの建物や関税局、さらには穀物取引所といつた公共の施設もあつた。そのうえ市が立てたり人々が集まったりする広場が要所要所にあり、それはときに屋根のかかつたロツジァ(吹き流し廊)になっていた。それから都市の立地によって異なるが、丘上都市ではフオンテ(泉)やフオンターナ(噴水)が、川沿いの都市では橋が、市民生活に重要な役割を果たした。このほか菜園や緑地も少なからず見られた。
中世のシエナもこうした諸要素からなっていたが、まず本章では、都市にとつてより本質的で、市民生活とより深い関係をもっ城壁や城門・道路、そしてシエナに特徴的なフオンテについて考察することにしよう。
城壁と城門
都市のイメージ、すなわち都市の外観は、中世人にとつて最も基本的な「原風景」であり、彼らの思考に深く根をおろしていたように思われる。たとえば、ダンテが地獄を、城壁や城門をそなえた都市として想定したのもその現れといえよう。「憂いの都市に入らんとする者は我を潜れ」云々という有名な詩句は、「憂いの都市」、すなわち地獄の城門に刻まれた銘文なのである。このように、中世の人々にとつて、城壁のない都市、つまり形をもたない都市などは存在しえなかつた。城壁が都市の内と外とを明確に区別し、都市はその中で完結した世界を形成していたのである。城壁はたんに防衛上や経済上不可欠なものであつたばかりでなく、都市そのものの尊厳の象徴であり、同時に外界との隔絶の表現でもあつた。つまり、それは文字通り都市国家の「砦」であるとともに、「自治の象徴」でもあったのである。それゆえ、都市の拡大にみあう城壁の拡張と整備は、
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市政府が他よりも優先して手がけるべき重要な事業であった。
実際、都市の発展の跡は城壁の拡張事業にはっきりと現れる。あたかもそれは、都市が成長するための脱皮のようである。十二.十三世紀のイタリアの諸都市はいずれも拡大の一途をたどったが、この点で最も印象的なのはフィレンツェであろう。フィレンツェが一一七二年に築いた城壁は二〇〇エーカーを包含するもので、これは当時のピサの面積の三分の一に過ぎなかった。しかし、ほぼ一世紀後の一二八四年に始められた拡張工事は、実に一五〇〇エーカーの土地をとり込むものであった。新しい城壁は高さ一一メートル、厚さ一・八メートルで、これが延々八キロあまりも続き、これに七三の塔と一五の城門が付属していた。この拡張工事はほぼ半世紀を要し、一三三三年に完成するが、この間市の通常の予算の四分の一がこれに投入されたといわれる。まさしく「市の偉大さの記念」(ジヨヴアンニ・ヴイツラ)こというべき大事業だったのである。このフィレンツェの城壁は一八六〇年代にその大半が打ち壊され、ヨーロッパの他の多くの都市と同様に、そのあとに環状道路が築かれた。したがって今日では丘陵地帯に一部を残すのみである(城壁を壊して環状道路を建設するというのが一十九世紀ヨーロッパの最も一般的な都市計画であった。したがって今日でも、地図を見れば旧市街、つまり旧城壁内の地域はすぐに分かる。これはヨーロッパの都市を読み解くための基本文法の一つである)。
一方、シエナの場合も城壁の拡張事業に市の成長の様をつぶさに見ることができる。すでに述べたように、中世前期のシエナは市一番の高所、今日大聖堂がたつカステルヴェッキオの丘に、要塞を中心にひろがっていた。
それが十二世紀前半になると、つまりコムーネの成立とほぼ同じ頃だが、市を貫くフランチジェナ街道にそったカモッリーア地区が市に併合され、新市街を形成する。そしてその後も、コムーネの成長につれて周囲にできた集落を吸収するために、数度の拡張工事がなされ、十三世紀の初めには都市としての一応のまとまりをみせた。
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道路の整備
次に、城壁とともに都市の最も基本的な要素である道路についてみてみよう。
ある十九世紀の歴史家は、「イタリア語ほど道という言葉の縮小辞(つまり細道、小路、路地といつた類いの言葉)をたくさん発明した言語はない。もしいろいろな方言を集めたならば、相当の数にのぼることだろう」と述べている。この事実は、イタリアにおける都市生活の伝統の長さと中世以来の道の狭さという、二つのことがらを暗示している。実際、今日でも古い都市には、車が一台通れるか通れないかといった狭い道、道というよりは建物と建物のすきまといった方が適切な路地が無数に残っている。こうした状況は中世のシエナでも同様で、道はどこも「曲がりくねり、暗かった」。それというのも、建物が無秩序に建てられていたうえに、二階三階にはたいていバルコニーがついており、それらが道路におおいかぶさったからである。おまけに、アンブロジオ・ロレンツエッティの「平和の間」の壁画に生き生きと描かれているように、織物職人や皮なめし職人は路上で仕事をするし、乾物屋や靴屋は道路に張り出したテーブルに品物をならべて商いをすなので、狭い道はますます狭くなった。フランヂェスコ会の修道士たちが葬式の行列を導くとき、十字架をまっすぐ掲げたまま通れないと苦情をいうのも当然であった。それにマルファンゴ(ひどいぬかるみ)やパンタネート(沼地のようになつた道)といった名称からも想像がつくように、あちこちの道路は雨がふると通行が困難になった。また、狭い路地は泥棒や女衒が潜むには好都合であり、そのため悪の温床になりがちであった。中でも、市の首脳がとりわけ遺憾に思ったのは、路上での暗殺や殺傷事件が絶えなかったことである。一三二四年一〇月二三日付けの「鐘の評議会」の文書は、こうした事件が多発するのは「あまりに狭く、かつ暗い路地のせい」であると述べている。イタリアの都市国家に私闘がたえたためしはなく、シエナでも「ノーヴェ」政府はカザーテイの暴力沙汰を最小限にくいとめることに腐心
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していたのである。
こうした状態であった道路を改善するために、シエナ政府は「評議会多きところに安泰あり」の原則にしたがって、一つの委員会を設置する。この委員会は毎年五月の初めに改選されたが、発足すると一、二週間のうちに、市の現状を調査してその年の建設工事計画を立案した。三人の委員は「道路監督官(ヴィアーリオ)」と呼ばれ、その主な任務は道路の整備であった。が、彼らが関与した事業はそれにとどまらなかった。たとえば、一二九七年五月一〇日に委員会は一八の条例案を提出しているが、それらのうち三つは大聖堂の建設に、二つは個人の住宅に関するものであり、他の二つは道路にまたがるアーチ、四つは井戸の建設、そして残りの七つが道路の拡張と舗装に関するものであった。またこの他に、委員会は市庁舎建設にあてる予算を要求し、新しい洗礼堂のプランについて議論し、さらには水と井戸の管理監督にあたる新しい委員会を発足させるよう要望している。このような手続きを経て制定された、一二八五年から一二九九年までの数百項目におよぶ条例を集成した『条例集(スタ
の都市建設について知る上で貴重な史料となっている。
もちろん、この種の委員会の設置はシエナに限ったこ
ト・プ一コロ通りを拡張する事業を監督したことが知ら
このようにして道路整備事業を進めたシ一ナの委一曇
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水道とフォンテ
最後に、都市が機能し、存続するための根本要件ともいうべき、水の問題をとりあげてみよう。
中部イタリアのトスカナ地方やウンブリア地方を旅する者にとって、小高い丘の頂きや山の中腹に広がる、中世の丘上都市の眺めほど印象的なものはない。たとえば、ウンブリァの古都グッビオを訪ねると、古代ローマの遺跡は平地にあるのに、中世の都市は山の中腹に広がっているのに気づく。このような丘上都市が発達したのは、まずなによりも安全のためであり、またもうひとつには、低地に多かったマラリアの病魔を避けるためだったと
いわれる。ともあれ、丘上都市は外敵から身を守るのには確かに好都合であった。しかしその反面、当然のこととして水の便が悪く、次第に都市が発展していったとき、市民たちの前に立ちはだかったのは水の問題、つまり水の供給をどうするかという問題であった。だから丘上都市の市民たちにとって、市の中心を飾るフォンターナ(噴水)や堂々とそびえる水道橋は、なににもまして充実した市の力を誇示するものであり、同時に、長く苦しかった水との戦いにおける勝利を記念するものでもあったのである。たとえば、スポレートは高さ八○メートルにもおよぶ大水道橋を築いたし、ペルージァはピザーノ父子が彫刻装飾をほどこしたフォンターナ・マッジヨーレを誇り、オルヴィエートは深さ六三メートルというサン・パトリーツィオの井戸を自慢にした。我々はシエナの都市建設のうち、城壁と城門、そして道路の整備事業を見てきたが、以下ではシエナの市民生活に重要な意義を有した水道とフォンテ(泉)の建設について見ることにしたい。
一三六〇年一〇月二二日の「鐘の評議会」の文書がいみじくも述べているように、「水は四大要素の一つであり、それなくしては何人も生きることができない」ものである。さらに、水は火災予防の上からもなくてはならないものと考えられていた。たとえば一三五六年二月に市の首脳に出された、新しいフォンテの建設を訴えるある地
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区の請願書は、水は生命のためばかりでなく、「神が中止させたもう火の悪業のためにもまた」必要だと述べている。木造家屋が密集していた中世の都市に火災が頻発したことはわが国の場合と同じであるが、それに加えてシエナは市中に種々の炉をかかえていたので、いっそう火災の危険性があったのである。さらに、水は市の主要産業である羊毛業や皮なめし業にも不可欠であった。だが、シエナの立地条件はことのほか不利だった。フィレンツェやピサといった川沿いの都市に比べられないのは当然だが、山腹にありながら市中を清流が貫くグッビオやアレッツォと比べても、シエナの条件ははるかに悪かった。だから人口が急増し、商工業が目覚ましい発展をとげたシエナにあって、必要量の水を確保することは市政府の重要な課題だったのである。このように水に苦しんでいた申世シエナの人々の問に、一つの伝説が語り継がれていた。シエナの地下を汲めども尽きない地中の大河ディアーナが流れている、という伝説である。シエナ嫌いだったダンテは、シエナのタラモーネ築港計画をあざけって、「ディアーナを見つけだすよりも徒な望みでございましょう」と、シエナ出身のサピァに語らせている(煉獄・一三)。しかし、シエナの人々は真剣だった。たとえば、一二九五年八月五日付けの「鐘の評議会」の文書は、このディアーナを掘りあてるべく、大聖堂のオペラーイオ一工事監督官一に工事の監督を命じている。もちろん、結果はダンテの言葉どおりであった。けれども、シエナの人々が信じていたこの幻の水脈ディアーナは、まったく根も葉もない伝説というわけでもなかった。つまり、古代の地下水道が、暗黒時代のいつの日かnか、神秘の河として誇張して語り伝えられたことは大いに考えられるからである。
今日我々は古代ローマの水道というと、ローマ郊外や南仏のポンニァユ・ガール、あるいはスペィンのセゴヴィアにある、延々たる二層三層のアーチの上、つまり「空申」を流れる水道を思い浮かべる。しかし、古代ローマの水道の中核は「地下」水道であった。そして中世シエナの人々が用いたのは、このシステムだったのである。
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先に述べたとおり、シエナの起源についてはエトルリア起源とも口ーマ起源ともいわれ、確かなことは分からない。しかし、ローマのヴィッラ・マッテイに、シエナの水道やフォンテを再建した男をたたえる、紀元後四世紀末の彫刻台座の銘文一彫刻は失われている一が残っており、この水道というのが地下水道だった可能性は大きいと考えられている。つまり、中世シエナの人々は、この銘文から推測できるように、一部残存していた古代ローマ(あるいはエトルリア)の地下水道を発見し、これを整備拡張していったと思われるのである。したがって、よしんば古代ローマの文献が伝えるセーナ・イウリアが中世のシエナと異なった場所にあったとしても、彼らが古代の水道を発見して、そのシステムと技術を受け継いだことは問違いあるまい。シエナのフォンテの建築様式や水槽の形などに、ギリシァやエトルリァのそれと共通するものがある、という指摘もあるが、これもあながち否定し去るわけにはゆかないであろう。
この地下水道は、シエナではボッティーノ(ラテン語ではボツティヌス)と呼ばれ、一二二六年に初めて記録に現れる。シエナ郊外の土地は、多孔質で通水性に富む「サッビア・ジャッラ(黄砂)」の層と、その下の、綴密で水を通さない淡い紺色の粘土の層からなっているが、ボツティーノはこの二つの層の性質をたくみに利用して、水を通さない粘土質の下層を床面とするように穴をうがち、床面をレンガで舗装し、壁面をしっくいでおさえたものであった。フォンテ・ガィァに関する史料によれば、このボッティーノは幅一・五ブラッチャ一約○.九メートル一、高さは三ブラッチャ(約一・八メートル)である。水の乏しかったシエナは、こうしたシステムによって近隣の水源から水を引いてくるほかなかったのである。このボッティーノをうがつ作業は、スピラーリオ(天窓)と呼ばれた竪穴をところどころに掘りながら進められた。けれども、狭く暗い地下でのこの作業は、特別の道具と熟練を必要とする辛い仕事であった。そうした職人たちの地道な努力のお陰で、貴重な水が市中にもたらされたの
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である。それにしても、こうした設備にたよりながら、四万から五万という丘上都市の限界ともいえる人口に水を供給し、産業を発達せしめたことは驚嘆に値する。十三・十四世紀の偉大な建設の時代に、シエナが築いた地下水道は延べ二五キロ以上にもおよぶといわれ、今世紀に入って近代的な水道設備にとってかわられるまで、この地下水道は市民の生活を支えてきたのである(今世紀初頭のシェナの人口は約一二万であった一。十六世紀にシェナを攻め落とした神聖ローマ皇帝カール五世は、この地下水道を見学し、「シエナは地上よりも地下の方が美し」と言ったと伝えられる。
このシエナの地下水道の施設は長い問忘れられたままになっていたが、一〇年ほど前から人々の関心を集めるようになり、一九八四年にはボッティーノの写真展が催されるほどになった。さらに一九八五年の夏には、共産党の「ウニタ祭」の一環としてこのボッティーノの見学会が企画され、たまたまシエナに居合わせた筆者は、これに参加する幸運に恵まれた。この時見たボテノの様子を、以下に少し報告しておこう。我々見学者は市の水道局員に導かれ、城壁を少し出はずれたところにある、なんの変哲もないアパートの裏にあった地下への入り口からボッティーノに入った。そしてそこから、ランタンと懐中電灯だけをたよりにニキロほどの地下の旅をしたのである。ボッティーノは幅一メートルほどで、ところどころ広くなったり、狭くなったりしていた。また壁面はうがったままになっているところもあれば、レン
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る約束で、この難工事にとりかかった。だが工事は困難を極めた。そのため市政府はまず、工事で損害を受けた市民や女子修道院に補償を与えねばならず、また問もなく資金不足に陥ったヤコポを援助してやらなければならなかった。しかし、それでもなお完成には程遠かったとみえ、市政府は一三四〇年二月に再び六〇〇〇金フィオリー二を支出してヤコポと契約を結びなわしている。ただし、このときはヤコポのほかに、新大聖堂の建設にたずさわっていた二人のマエストロ、ランド・ディ・ピエトロとアゴスティーノ・ディ・ジョヴァンニも加わっていた。この難工事に執念を燃やしたマエストロ・ヤコポは、親しみと尊敬と、そして若干のやゆをこめて「ヤコポニァツラックワ」、つまり「水のヤコポ」と渾名された。幸い、努力の甲斐あって、一三四三年にはどうにかカンポ広場まで水を引くことができたらしい。水が初めて広場に達したときには、「筆舌に尽くしがたいほどの」大祝祭が催され、市の首脳も、貴族も平民も、少年や少女も、聖職者や農夫も、皆いっしょになって「陰口をきかれる心配もなく」、心ゆくまで酒や菓子や、歌やおどりを楽しんだ、と年代記作者は伝えている。
十八世紀の著述家ジッリによれば、この歓喜の日からこのフォンテ
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は「フォンテ・ガイア」、つまり「喜びの泉」と呼ばれるようになった。しかし、このときにはフォンテの水量と水質はまだ満足のいくものではなく、この後もよりよい水を求めて市政府は努力を続けねばならなかった。筆者が見学したのは、このフォンテ・ガイアのボッティーノである。
実用第一のフォンテには、せいぜいコムーネの紋章やライオンの頭部を飾るくらいで、余分な装飾が施されることはなかったが、フォンテ・ガイアの場合は特別であった。それは、いわば市の新しい顔だったからである。そうした装飾として、まず手はじめに聖母の像が描かれた。このことは、それに灯すローソク代の記録から知ることができる。次に、マラヴォルティ家の土地から出土した古代のヴィーナスの像一真偽のほどは分からないが、リュシッポス作の銘があったという一が、盛んな祝祭のうちにフォンテに飾られた。この異教の像は一〇年問ほどフォンテを飾っていたと思われるが、市に災いが続くと、市民の間に追放の声が起こり、ついに一三五七年に打ち壊されてしまう。十五世紀フィレンツェの彫刻家ロレンツォ・ギベルティの伝えるところによれば、破壊された像の破片は、ひそかにフィレンツェ領内に運ばれ、地中に埋められたという一ギベルティはもちろん実物を見ることはできなかったわけだが、ある修道士が大切に保管してい
アンブロジオ・ロレンツェッティ筆のデッサンを見せてもらった、と述べている。また、像を破壊したという、一三五七年一一月七日付けの市の文書も残っている一。そうして十五世紀に入ると、シエナ市は巨額の費用を投じてヤコポニァッラ・クェルチャに有名な彫刻装飾を依頼することにな
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の基礎工事に進んで協力したことが知られているが、一二六○年の条例集の中にも、運搬用の家畜をもつ者はすべて年に二回、大聖堂の建設のために大理石を運ぶ作業に加わらねばならないと定めた一項がある。その労働奉仕に対して、司教は彼らに罪の赦しを与えたのであった。
以上、シエナの大聖堂建設を推進したオペラ・デル・ドゥオーモの組織と活動について見てきたが、次はいよいよ大聖堂建設の歴史に話を進めることにしよう。
大聖堂の建設
シエナの大聖堂は、数多いイタリアの聖堂のなかでも量も重要なものの一つに数えられるがへその初期の歴史については、不思議なことに、ほとんど何も知られていない。古い伝承によれば、大聖堂はローマ時代にミネルヴァの神殿があった場所に建てられたという。また別の曇承では、大聖堂が建つ丘はカステルヴェツキオという名称が示すとおり、ローマ人の居任地だったところで、大聖堂のある場所には、シエナにキリストの福音を伝えた聖アンサヌスが投獄された塔があったという。これらの伝承が正しいかどうかはともかく、遅くとも九世紀には、今日の場所に、聖母マリアに捧げられた聖堂が建っていたものと考えられている。そして一〇五八年にはこのシエナの大聖堂で、対立教皇ベネディクトゥス十世を廃し、ニコラウスニ世を選出した司教会議一皇帝やローマの貴族によらずに教皇が選ばれた最初とされる一が、開かれたことが知られている。しかし、そのときの大聖堂がどのようなものだったかは一切不明である。おそらくあまり大規模な聖堂ではなかったろうと想像されるだけである。
この古い大聖堂にかわる新しい聖堂が、十三世紀に入って建設された。だが、その起工の年代も設計者の名前もまったく知られていない。十六世紀の歴史家マラヴォルティは、「同年(一二四五年)シエナ人たちは大聖堂を大
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きくしようと考えた。当時大聖堂はさほど大きくなく、最も荘重な儀式が行われる日々に、市の住民を収容できなかったのだ。市はそのころ一万八○○○家族にも達するほど、住民であふれていたのである」と記している。
この二一四五年という起工の年代と、一万八○○○家族という当時の人口をあらわす数字がどのような資料に基づいているかは不明であり、そのまま信ずるわけにはいかないかもしれない。しかし、市が成長するにつれて、聖母の被昇天祭など市民あげての祝典ミサが行われる折に、増大した市民たちを収容できなくなったことが、新しい大聖堂建設の必要を人々に痛感させたことは確かであろう。隣国フィレンツェが十三世紀末にやはり新しい大聖堂の建設を計画したときには、少なくとも三万人の市民を収容することが要求されたのである。
この新しい大聖堂の工事が開始された年代は、すでに述べたとおり不明だが、一二二六年以降大聖堂に関する種々の支出が記録されている。また、それまで大聖堂関係の諸工事をつかさどっていた首席司教の名に代わって、
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市民精神のカテドラル
「暴行も略奪も、またいかなる不法な取り立ても搾取も、この市とコンタード、および我々の支配地域においては、何人によってもなされてはならず、完全に駆逐され根絶されなければならない」。これは、新任の「ノーヴェ」たちが着任に先立って行った宣誓の一部である。市で最も力をもっていたカザーティたちは、しばしば武器をとって私闘をおこすなど市の秩序を脅かした。こうした旧勢力の暴挙に敢然と立ち向かおうとする決意を、「ノーヴェ」たちは誓い合ったのである。
すでに述べたとおり、封建的気風を受けついだ中世イタリアの都市市民たちは、敬虔な反面粗暴で激しやすく、すぐに武器をとって、力でものごとの解決をはかろうとした。そのため、彼らはしばしば際限のない報復戦の泥沼に陥ったのである。「ノーヴェ」体制下のシエナは比較的平穏だったとはいうものの、私闘を「根絶する」ことはできなかった。とりわけサリンベー二家とトロメーイ家の争いは激烈をきわめた。たとえば、一三一五年四月にも、この宿敵同士が激しい私闘を起こしたことがあった。このときは丸二日間も市街戦が続き、そのあげくアレッツォからトロメーイ家の援軍がかけつけるという騒ぎになった。このとき、市の首脳「ノーヴェ」は決然たる態度をとった。すなわち市庁舎の窓の一つに大ローソクを掲げ、もしこのローソクが燃えつきるまでに両家がカンポ広場に出て武器を棄てなければ、市は両家の財産を没収し家人を市から追放する、と宣言したのだ。この
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ため、いきり立つ者どももやむなく武器を棄て、「ノーヴェ」は宿敵同士の両家に和睦の接吻をさせることに成功したのである。
もちろんこれは、「血生臭い中世」の、私闘と一時的な和睦のエピソードに過ぎないであろう(事実、両家は一三三二年にも私闘をくり返している)。しかしながら、「ノーヴェ」が示した市民精神のささやかな勝利は、中世末の都市国家の健全なる精神、つまりその経済的・文化的繁栄の基盤となったものを示唆していると思う。そしてまた、大ローソクが掲げられた市庁舎はこうした市民精神の産物であり、同時にその砦であったことを、このエピソードは示しているといえよう。ドゥオーモが中世都市国家の人々の宗教心と愛国心の結晶だとすれば、市庁舎は市民精神のシンボルであり、「市民精神のカテドラル」ともいうべきものだったのである。そして当然のことながら、我々が波乱に富んだシエナの歴史を思い浮かべるとき、その舞台となるのはほとんどいつもこの市庁舎と、その前にひろがるカンポ広場である。本章では、シエナの政治と市民生活の申心となった市庁舎とカンポ広場の建設整備について略述することにしたい。
市庁舎の建設
ルッカのように中世に栄えた都市を歩くと、ロマネスクの小聖堂が驚くほどたくさんあるのに気づく。このように聖堂が多数建てられたのは、一つには、当時聖堂が公共の施設として機能していたためだと思われる。シエナでもすでに述べたとおり、市議会場やポデスタの役所、そして大学など、さまざまな市の機関が市中の聖堂におかれていた。こうした事情は、どの都市でも同様であった。しかし、コムーネが成長し、市政府の業務が拡大していくにつれ、市庁舎の必要が痛感されるようになり、各地で市斤舎建設の気運が高まっていく。十三世紀の
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された左右の翼を、互いに内側によせることによって親密感をもたせている点も見逃せない。後にカンポ広場が整備されて劇場のような形になったとき、市庁舎全体がちょうど舞台の背景の役割を果たすことになるからだ。
そして右に「ノーヴエ」、左にポデスタと、ある意味で互いに拮抗しあう力を対をなすように配したのも、気が利いているといえよう。こうした大胆さと機知と調和のとれた美意識との結合は、ドウオーモの事業などにも認められる、シエナの美術活動の特徴の一つである。
こうして市庁舎の建設は一応の完成を見、今日我々が見る建物の本体ができあがる。この後しばらくは内部の装飾が主となり、次の事業を始めるまでに若干の間をおくことになる(この間に洗礼堂の建設工事が行われた)。市庁舎をめぐる次の事業は左翼部の拡張と「マンジヤの塔」の建設である。だが、これに話を進める前に、今日我々が見る市庁舎と完成当時の姿との重要な差異について一言しておきたい。その差異というのは、一六八○年に行われた、両翼部に三階を増築するという工事によって生じたものである。今日両翼部の二階と三階の間にコーニスが残っていることからも分かるとおり、当時両翼部はこの高さまでしかなく、コーニスの上に胸壁がついていたのである。この当初の姿を想像するのは必ずしも容易でないが、今日のものよりいくぶん単純ですっきりしたものだったことは確かであろう。
「マンジャの塔」
年代記作者によれば、「ノーヴエ」が仮住まいをしていたころには、市は種々の合図に用いた鐘をつける鐘塔さえ個人のものを借りており、また牢獄も同様であった。当時は、個人のパラツツォの地下などを牢獄として市やギルドが借り受けるというのは、決して珍しいことではなかったのである一たとえばフグレンッェで`ペルッッィ家
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の建物の地下が市に賃貸されていたのが知られている。ペルツツィ家のパラツツオは古代ローマの円形劇場の遺跡をとり込んで建てられており、そのため建物は曲線を描いている。牢獄に用いられたのも、元々は円形劇場の地下室であった)。だが、このように個人のものを借りていたということのほかに、市当局は増大する囚人の対策にも苦慮していたから、是非とも新しい牢獄の建設が望まれた。そこで市庁舎の左翼部を拡張するという形で、一三二五年に市は牢獄の建設に着手する。この工事は;…○年には完成し、同年七月二八日に囚人たちが新しい牢獄に移された。この市庁舎の拡張された部分は牢獄だけでなく、ポデスタの法廷と役所としても使われ、少し後(一三三〇ー四三年)には、階上に「鐘の評議会」の議場も増築された一このホールは十八世紀に劇場に変えられた。そのためそこを飾っていたリツポ.ヴアンニやバルトロニァィ・フレディの壁画は失われてしまった)。
この牢獄の建設と同時に、市が企画したのは塔の建設であった。ことわざに「シエナにあふれる四つのものは、騎士に淑女に塔に鐘」といわれたように、中世のシエナは「塔の都市」であった。市中に「藤棚のように」林立していた無数の塔が、中世人にとっては、力と高貴さの最高の表現であったことは、すでに述べたとおりである。
シエナの市民たちはすでにドゥオーモの鐘塔を建て、ドゥオーモ本体と同じく、大理石と「黒大理石」(プラトー産の暗緑色の蛇紋岩)の縞模様でこれを飾っていた。ドゥオーモの鐘塔を建てた彼らが、今度は市の自由と独立のシンボルとして、市中のいかなる塔よりも高い市の塔を建設しようと考えるに至ったのは、自然な成り行きだったといえよう。実際的な必要をひとまず充たした市庁舎をめぐる事業は、今や新しい段階に入った。それは同じ時期の他の活動にも現れる、シエナの人々の燭熟した市民精神の発露なのである。
だが、塔はたんなる装飾物ではなかった。中世にあって有力な家同士が結んだ私的な同盟、いわゆる「コンソルツェリーア(朋党)」の取り決めの中に、しばしば塔の建設や塔の使用に関する条項があったことからも分かる
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とおり、中世の塔は力のシンボルであると同時に、私闘の際には戦略上重要な役割を演じたのだ。この塔の中世的意義は次第に失われつつあった。しかし、建設される市庁舎の塔は、市中の私塔を圧する心理的かつ実際的力を有するベきであった。そして、実際にもそのとおりだったと思われ、一三六八年の年代記は次のように伝えている。「カンポの塔の上には昼夜数人の見張りがおり、有事に際して火や煙の合図を出し、召集の鐘や警鐘を打ち鳴らした。これらの人々と石弓射手たちはパラッツォ(市庁舎)におり、コムーネは彼らの飲食のために二〇〇リラ以上支出した」。
このいれゆる「マンジャの塔」の建設については、不明な点も少なくないが、牢獄の建設工事と同様、二二二五年にその礎石が置かれたことが分かっている。年代記作者は起工式の様子を次のように伝えている。「それ一塔の建設)は一〇月一二日土曜日に始まった。シエナでは盛大な祝祭が催され、ドゥオーモの参事会員や聖職者たち
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が最初の石に祝福を与えるためにやってきた。彼らは祈蒔と詩篇をとなえ、ドゥオーモのオペラーイオは塔の底にコィンを幾つか記念として置いた。そして塔の四隅には、雷や嵐に打たれないようにギリシァ、ヘブライ、そしてラテン文字の書かれた石が置かれた。そしてその後、ポデスタが礎石を置いたのである。
礎石は置かれたが、工事はすぐには始まらなかった。一三三○年に牢獄が完成してもなお塔の建設は放置され、ようやく一三三八年になって本格的な建設工事が開始されている。この塔の建設は、計画された塔の高さが並外れて高かったために、技術的困難が予想された。すでに述べたとおり、聖堂や塔が崩れることは珍しくなかったし、ピサの斜塔はあまりにも有名だが、その他にもボローニャのガリセンダの塔やパヴィァ大学構内に残る塔の例が示すとおり、塔が傾くことも稀ではなかったからである。だが、さいわい建設工事は順調に進み、七〇メートルほどの高さに達した。そこで塔の最上部をどのような形にするかという問題が生じ、一三一二九年一二月二日にドゥオーモで働いていたマェストロたち五人が意見を求められている。そしてその結果、この仕事はジヨヴアンニ・ダゴスティーノに任され、石灰岩を用いた塔の冠が作られる。そして二二四一年にこれにさらに最上部がつけ加えられ、今日見る塔が完成したのである(この最上部は、支払いの記録からシモーネ.マルティー二の義兄リツポ・メンミに帰せられている)。塔の高さは全部で八八メートルであった。
こうして完成した市庁舎の塔は貴婦人のように優雅で気品にみち、数ある申世の塔の申でも異彩を放っている。繊細さにあふれたそのシルエツトに、我々は紛れもないシエナの感覚、シエナの美唐見いだすであろう。
この市序舎の塔は今日「マンジヤの塔」として広く親しまれている。塔建設の話を終える前に、この名前の由来についてふれておこう。「マンジャ」つまり「マンジヤ・グァダーニ」(稼ぎを食う者、つまり浪費家、道楽者の意)というのは、時を告げる鐘を塔の上で打ち鳴らした最初の一人、ジヨヴァンニ・ディ・バルドゥッチヨにつけら
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れた渾名だったといわれる。塔ができた当時は鐘をついて時を告げていたのである。しかし、このころイタリアでは、一三二五年のフィレンツェを皮切りに、一三四四年にパヴィァ、一三五三年にジェノヴァ、一三五六年にボローニャと、各地で自動時計が公共の場に設置されていった。シエナでも一三六〇年に自動時計が「マンジャの塔」にとりつけられた(この自動時計の急速な普及は、フランスの歴史家ルヌアールによれぱ、都市ブルジヨワの合理精神を助長し、世界観にも重要な影響を与えたという。「マンジャの塔」に今日ついているのは円形の時計であるが、よく見ると五角形の古い時計の跡が見える)。けれども、初期の自動時計は故障が多く、たびたび修理をしなければならなかった。それはいかにも公費の無駄使いのように、市民たちには映ったのであろう。だから一四〇〇年に、ヴェネツィァのリァルト橋の自動時計を手がけたドン・ガスパロが市にやってきて、時計の仕掛けを改良したとき、市民たちは「マンジャ・グァダーニ」(浪費家)の名を今度は彼に献上したのだ。こうした経緯でもって、市庁舎の塔が「マンジャの塔」という愉快な名で呼ばれるようになったのである。この愛称がいかに親しまれたかは、シエナ出身の者が自らを「マンジャの影のもとで生まれた」と表現してきたことからも察せられよう。
カンポ広場の整備
ところで、カンポ広場にあった関税局の上に市庁舎が建設されていった事実が示すとおり、カンポ広場と市庁舎は初めからわかちがたく結びついていた。三権の府である市庁舎と、経済と市民生活の中心であるカンポ広場は、両々相まって中世都市シエナの核を形成したのである。そうした意味で、カンポ広場はまさに「シエナのへそ」であり、我々がシエナの歴史と生活を思うとき、舞台となるのはほとんどいつもカンポ広場である。毎週土曜日に市が立って近隣の人々で賑わったのも、エルモーラあるいはプーニャと呼ばれた危険な模擬戦に人々がうち興じたのも、祝祭の行列がねり歩いたのも、地震のおりに住民が避難したのも、飢麓のときに市の施しを求めて貧者が並んだのも、そしてプロヴェンツァーノ・サルヴァー二が獄中の友を救おうと裸足で喜捨を乞うたのも、聖ベルナルディーノが巧みな弁舌をふるったのも、みなこのカンポ広場であった。
市庁舎の前に半円形にひろがるこのカンポ広場は、地形的にいえば、Y字型にのびるシエナの三つの丘が出会
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う地点にある。だがそれは、ドゥオーモのように丘の頂きにあるのではなく、むしろ谷にかかる傾斜地にひろがっている。したがって、広場の上を通る道と広場との間にはかなりの落差があり、また広場自体も市庁舎に向かって傾斜しながら下降している(上の道と広場との落差は場所によりニメートルから八メートルほどで、広場自体の上と下とは約三メートルの標高差がある)。上ってドゥオーモに行くのとは対照的に、カンポ広場へは下っていくのだ。
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さて、このカンポ広場に立つと、誰しもが巨大な劇場にいるような感じを抱く。それは、周囲を建物が囲んでいるためにこの広場の空間が完結的になっているのと、いま述べたように形が半円形で、しかも申心に向かって傾斜しているためである。この傾斜した広場を受けとめるように、その底に市庁舎と「マンジャの塔」がそびえ、全体がえもいわれず調和のとれた眺めとなるのである。一五八○年にシエナを訪れたモンテーニュも、「町で一番美しい場所は、実に壮大な円形の広場である」と記している。シエナの人々がこのカンポ広場を誇りに思っていたことはいうまでもない。一三四七年に広場の整備が終わったとき、年代記作者は次のように記している。「シエナのカンポはついに完成した。それはイタリアはいうにおよばず、全キリスト教世界で最も美しい広場の一つだと思われる」。
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このカンポ広場の整備について見ていくと、まず先にも触れたように、市は一一六九年という早い時期から広場のために土地を購入している。しかし当時は、現在のカンポ広場の上部にあたるサン・パオロ広場と、下部をしめる広場(文書には「カンプス・フォーリ」とある)とに分かれていた。この二つの広場を統合して今日のような形に整備するというプランは、おそらく十三世紀末から十四世紀初頭にかけての市庁舎建設と一体となって生まれたものと思われるが、詳細は不明である。それに市庁舎を設計した人物が分からないのと同じように、シエナの都市建設の中核をなすこのプランが誰によるものかも分かっていない一これを十三世紀末にドゥオーモのカポマエストロを務めた、ジョヴァンニ・ピザーノに帰そうとするグィドーニの説は、魅力的ではあっても根拠に乏しいといえる。同様に、しばしば貝殻状、あるいは扇形と形容される広場の形を聖母のマントをかたどったものと考え、そこに図像学的意味を見いだそうとする彼の仮説も、過剰解釈といわざるをえない一。ともかく一二九七年五月に、この広場に関して注目すべき条例が出された。
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この条例は、「カンポ・デル・メルカートの周囲に新たに家をたてる際には、すべての窓に小柱をつけなければならない」こと、および「いかなる形の出窓もつけてはならない」ことを定めたものである。つまり、広場の周囲の建物は、建造中だった市庁舎の装飾様式に合わせなければならないと定めているのである。このたぐい稀な条例によって、すでにこの時点でシエナ市当局がカンポ広場に有機的な統一をもたせ、広場を市の中核たるにふさわしく整備しよう、という明確な考えを抱いていたことが分かるのである(この条例の効果を確かめるには、古画に描かれたカンポ広場を見てみる必要がある。後世に改築されてしまった建物が少なくないからだ)。
中世都市の広場は一般に不規則な形をしているが、そうした中にあって、カンポ広場のようにある程度規則的な形に整備された広場は珍しいといえる(ルツカのメルカート広場は正確な楕円形であるが、これは古代ローマの闘技場跡がそのまま広場となったためである)。あたかも円形劇場のようなこの広場の形は、レンガとピエトラ・セレーナ(青味がかった灰色の砂岩)による舗装によって、さらに印象深いものとなっている。すなわち、周囲をピエトラ・セレーナに囲まれた美しいレンガの舗装部分には、白い石灰岩による縁取りが施され、さらに放射状に八本の筋がやはり石灰岩で入れられており、ちょうど貝殻のようになっているのだ。この放射状の線条模様は広場を九つの部分に分けているが、これが「ノーヴェ(九人)」を暗示していることには誰しもが気づくであろう。その九つの部分は市庁舎の前で一つに集まり、そこに排水口が設けられて、広場の浄化が計られているのである。地形を巧みに利用したこの広場は、見た目の美しさの点でも実用性の点でも、また清潔さの点でも傑出しており、広場の理想型を示しているとさえいってもよいであろう。この広場の舗装工事は一三二七年と三三年に行われ、さらに一三四七年からは周囲がピエトラ・セレーナで舗装されていった。興味深いことに、一三三三年の舗装工事に際しては、広場に面した家をもつ市民が費用の三分の一を負担しているが、こうした市当局と市民との共同事業は中世
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末の都市建設の特徴の一つだといわれる。また一三七〇年に、新築中のウグルジェーリ家のパラッツォがカンポ広場に四分の三ブラッチャ一約四五センチ一突き出ているのが判明したとき、市の評議会は二二二対七七の賛成多数でもって、この建物をなかに引っ込めて建て直すよう求める決議をした。文書によれば、それは「カンポのより大なる美しさのため」であった。
都市計画の理念
こうして進められたカンポ広場の整備は、市庁舎前の広場の整備というにとどまらない意義を有していた。先に述べたとおり、シエナの都市はY字型にのびる三つの丘の上にひろがっており、その地形に合わせて三つのテルツォ一行政区一に区分されていた。シエナではこのテルツォがあらゆる面で基本単位をなしたのである。たとえば市の軍隊は各テルツォCとに師団を形成し、市の主要な役職は各テルツォに平等に配分された。だから市の首脳は三六人、二四人、二一人、九人と常に三の倍数であったし、また市の評議会は三〇〇人で構成されていた。公正を期待されたポデスタは、ニカ月Cとに各テルツォに住むよう定められたほどであった。
こうした三つのテルツォ、つまり三つの丘が合流する地点にカンポ広場は位置している。このようなカンポ広場、そして市庁舎の位置が、市政府の政治的申立の表明であることは容易に理解されよう。この市全体における
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位置に加えて、ドゥオーモが市の最も由緒ある丘の頂きにあるのとは対照的に、カンポ広場と市庁舎が尾根から外れた低い位置をしめているのも、理にかなった妙味があるといえる。またカンポ広場を取り巻く道路網に目を向ければ一都市を南北に貫いてシエナに計り知れない恩恵をもたらした、ローマと北ヨーロツパを結ぶ幹線道路、フランチジェナ街道が尾根づたいにのび、それがカンポ広場の上方で、シエナの重要拠点であるマレンマ(リグリァ海岸地方)へ通ずる街道と合流している。そのうえ「ノーヴェ」の時代に入って、広場とドウオーモを結ぶヴィァニァィ一ペッレグリー二(巡礼者通り)が整備され、さらにフォンテ・ブランダと広場を結ぶ道路も新しく建設された。こうした事実から見て、シエナの首脳たちがカンポ広場を文字通り都市の中核に想定していたことは明白だといえよう。
このように、カンポ広場の整備は市庁舎前の広場の整備という狭い範囲をはるかに越え、都市全体を有機的に整備してゆこうとする「都市計画」につながるものであった。それが諸条件にさからわないまことに自然なプランであった点に、シエナの人々の英知を認めないわけにはいかない。先に述べたように、中世の都市は自然発生的に発展したために、いずれも無秩序と混乱にみちていた。そうした混乱に秩序を与えるべく、各地で自覚的に都市改造が行われるようになったのは、コムーネが発展した中世末期になってからである。この時期に各地でなされた市庁舎の建設には、多かれ少なかれこの種の努カが伴っていた。しかし、シエナにおけるほどこの時期の都市整備が成功した例はないように思われる。それは一つには、近代的都市計画への覚醒ともいうべきシエナの人々の有機的な都市概念のおかげであり、また一つには、これを立案し実行する指導者たちに恵まれたことによる。つまり、シエナの都市建設の成功の鍵は、ひとえに「ノーヴェ」の優れた統治と、彼らに対する市民たちの信頼にあったのである。
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このような中世末の「都市建設の時代」を経た後、ルネッサンスの美術家たちは古代の著作に刺激されて、幾何学的秩序をもった「理想都市」を夢想した。しかし、このルネッサンスの都市計画はそのほとんどが机上の計画のまま、つまり文字通りの「ユートピア」のままで終わってしまった(その意味で「ルネッサンスの都市というものは存在しない」というマンフォードの言葉は正しい)。それでも、その都市計画の概念が後世に大きな影響を残したことは周知のとおりである。けれども、こうしたルネッサンスの都市計画の概念は、ちょうど遠近法の場合と同じように、中世末の実践と古代に範をとった理論との申し子だったように思われる。つまりそれは、中世末の都市建設の中で次第に育っていった、都市の有機性に対する自覚があってはじめて可能だった、といえるように思うのである。中世末の都市建設をこのように位置づけ名ならば、その最も先取的かつ創造的な例であるシエナの都市建設は、単に一地方都市の活動というに終わらない意義をもつといわねばならないであろう。
だが、こうした理論づけなどよりも、実際の「作品」の方がはるかに重要であることはいうまでもない。我々はもう一度カンポ広場に立ってみるべきである。そのとき我々を最も強く惹きつけるのは、広場でくりひろげられる生活そのもの、つまり今日なお広場が人々の生活の中で生き続けているという事実であろう。「我々の広場は壮大で美しいシンメトリーをもって作られているので、誰でも一目で探している人物がそこにいるかいないかを知ることができる」と、十八世紀の初めにある著述家は記したが、これが今なお真実であることは我々自身が広場に立てばすぐに納得がいく。カンポ広場は、フックの巧みな表現を借りれば、「生活の劇場」なのだ。
そうして、我々は広場と周囲の建物を見渡してみる。すると「マンジャの塔」と青空のポリフォニーが聞こえてくる。中世末のシエナは自らを一個の「美術作品」となしたが、その中でもこのカンポ広場と市庁舎こそは、「ノーヴェ」の設計に基づく共和国シエナの最高の傑作だといえよう。そればかりか、芸術とは個性の表現にほかならないという近代の概念をしばらくの間忘れるならば、このシエナ共和国の最高傑作は、またイタリアが生んだ最高の美術作品の一つだと誰しもが感ずることであろう。
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ルで背面を飾るという計画に発展し、さらにはその上部に受難伝のサイクルをしめくくる諸場面を載せ、下部にはキリストの生涯の諸場面をプレデッラ(裳画)として設置するというように、拡大の一途をたどったわけである。おもしろいことに、オペラニァル・ドゥオーモの出費がかさむのを見かねた「ノーヴェ」が、オペラに対して雇っているマエストロを一〇人に減らすとともに、諸事業を滞りなく進めよ、と求めた一三一〇年一一月付けの記録が残っている。この諸事業の中には「祝福された栄えある、とわなる処女マリアの新しい大祭壇画」、つまり〈マエスタ〉もふくまれていた。さすがのノヴエスキたちも、ドウッチョとオペラーイオの念の入った仕事ぶりには業を煮やしたのであろう。その彼らが大聖堂の主祭壇に安置された大祭壇画を目の当たりにしたのは、それから半年ほど後のことであった。
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〈マエスタ〉の運搬
一三一一年六月九日、すなわち一三〇八年一〇月に契約が結ばれてから二年半ほどで〈マエスタ〉は完成した。
完成した大祭壇画はドゥッチヨのアトリェから大聖堂に運ばれたが、年代記はその様子を次のように伝えている。
これも同じころ、前述したシニヨリーア(政府)のころのことであるが、主祭壇画の制作が完了した。そこで、今日では聖ボニファキウスの祭壇に置かれている絵が取り払われた。この絵は〈大きな目の聖母〉とも〈慈悲の聖母〉とも呼ばれている(先に述べた〈誓約の聖母〉のことだと考えられる)。ところでこの聖母は、モンテ・アベルトの戦いでフィレンツェ人が敗れたときに、シエナ市民の願いを聞きとどけてくれた聖母であった。
しかし新しい祭壇画が完成したので、この絵は今述べたように場所を変えられたのである。新しい祭壇画はそれよりもはるかに美しく、信仰心がみちあふれ、そしてはるかに大きなものである。また背面には旧約伝、および新約伝が描かれている。この祭壇画が大聖堂に運ばれた日には、店はみな表を閉ざし、司教は司祭と修道士とからなる大勢の信心深い一団を指揮して、おごそかな行列を組んだ。この行列にはノーヴェの面々や、コムーネの役員全員、そして全市民が続き、要人たちは手に手に灯のともったローソクをもって絵の近くに場所をしめた。そして行列の後尾には、女たちと子供たちが信仰心にあふれんばかりについていった。
そして人々は途中、慣例どおりに、カンポ広場をぐるりと回ってから、大聖堂までこの絵を送っていった。
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そのときには都市のすべての鐘が、かくも気高い絵に敬意をあらわして高らかに鳴り響いたのである。画家ドゥッチョニアィ・ニッコロ一ブオニンセーニャ一がこの祭壇画を描いた。彼はこれを城門の外のスタッロッレッジにあるムリャッティ家の邸宅で描いた。そしてその日中、人々は祈り、多額の喜捨をした。この喜捨は貧しい人々のためになされたのである。そして人々は神と、我々の守護者である神の母に、その限りない慈悲によってあらゆる危難と不幸から我々を守ってくれるように、そしてシエナを裏切り、敵対する者の手から、我々を保護してくれるようにと祈ったのである。
筆者はこの年代記の記事を学生時代に初めて読んだときの感動を、今も忘れることができない。都市中の鐘が鳴り響く中を、全市民が行列をなして完成した大祭壇画を大聖堂まで運んでいったとは!美術作品は市民生活にかくも深くかかわり、かくも大きな社会的意義を有していたのだ。芸術とは個性の表現にほかならない、という近代の芸術観を自明のことのように考えていた筆者にとって、この〈マエスタ〉の運搬の光景は一つの大きな衝撃となったのである。以来筆者は、年代記が伝えるこの生き生きとした光景をいつも忘れないようにしている。
それは中世やルネッサンスには美術が社会の中で生きていたのだということを思い出させてくれ、美術史を学ぶうちにともすれば陥りがちな、恣意的で独善的な解釈や理解を戒めてくれるように思うからである。よくいわれることだが、中世(そして初期ルネツサンス)の美術家は今日いう「芸術家」ではなく職人であった。というより、この時代には「芸術家」という概念がなかったから、芸術家と職人の区別もなかったのである。したがって、社会から疎外された「芸術家」も存在せず、近代の芸術家の孤独やこころの葛藤はまだ知られていなかった。中世の美術家はアトリエにこもって孤独の中で絵筆を手にしたのではなく、社会の生きた要求に応えるべく絵筆をとったのである。〈マエスタ〉の制作にたずさわったドゥツチヨも、シエナ市民の大きな期待を背に感じながら仕事をしたのだ。この期待に応えるべく潭身の力をこめて制作に当たり、ついに新しい市の守護者の像を完成した彼は、その出来栄えに心届から満足した。その満足と自負は、ドゥツチヨの作品の中でただ一つ残されているサインにあますところなく語られている。聖母がすわる玉座の台座に見事な金文字で記されたラテン語の銘文は、次のように読めるのである。「おお聖なる神の母よ、シエナに平和を、ドゥッチヨに生命を与えたまえ。私はかくのごとくあなたを描いたのですから」。
〈マエスタ〉の運命
こうして完成した〈マェスタ〉は大聖堂の主祭壇に安置され、一五〇六年にシエナの君主パンドルフォ.ペトルッチがスカーラ病院付属聖堂の主祭壇を飾っていたブロンズのチボーリオ一聖禽、一四七二年ヴエツキェツタ作一に替えるまで、そこに置かれていた。つまり、ドゥッチヨの〈マェスタ〉はほぼ二世紀にわたって、いわば市の守護者の公式の画像としてシエナ市民の礼拝を受けたのである。
このブロンズのチボーリオに席をゆずるために主祭壇をおろされた〈マエスタ〉は、左翼廊の聖セバスティァヌスの祭壇に移つされた。ところが、十八世紀の後半にこの祭壇からもおろされて、水平にいくつかに切断され、同時に前面と背面を切り離す作業も行われた。このような荒っぼい作業の結果、〈マエスタ〉の前面は左翼廊奥の聖アンサヌスの祭壇に、そして背面は右翼廊の聖ヴィクトールの祭壇にと別々に飾られたのである。こうした荒療治は、我々の目には芸術作品に対する冒涜と映る。だが、ヘンク・ファン・オスのいうとおり、祭壇画が当初のままに放置されるというのはむしろ無関心の現れであって、こうした処置もこの時代の人々なりの〈マエスタ〉に対する敬意の結果だと見ることもできるわけである。ともあれ、このようにして二つに分けて礼拝されていた
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エピローグ
アンブ一ジオニレンツ一一テーはシ一ナ絵画とフイレンツエ絵画の橋渡し役として、両者が融合した新しい絵画の可能性高いたが・この可能性は、黒死病という無慈悲な力におしつぶされて,まつた。アンブロジオだけでなく、兄弟のヒ一ト一も・孝こて他のすぐれたシ一ナの画家たちも黒死病の犠牲となり、シエナ派の黄金時代は不本意にも終わりを告げhザギペザ一一一hデHり巾一ギ_m
で、息づまるような様式が支配した二てれは、一広い意味で、人文主義と呼びうるものの最初の危機の時代一一ミ
ー三であっだ。
しかしながら、この「危機の時代」はシエナの魂が輝いた時代でもあつた。黒死病は黄金時代の夢をすつかり暗黒でおおったが、その闇の中で幾多の清らかな魂が輝いたのである。すなわち経済的繁栄と世俗的文化の隆盛の後に、振り子は俗から聖へと大きく振れ、シエナは福育一ヨヴア・二.,ロンビー二、聖女カテリーナ、そして聖ベルナルデーーノといった偉大な聖人たを生んだのだ。彼らは二一」四八年の大流行の後も、断続的にシエナを襲一た黒死病のさなか』捨て・られて絶望する病人た墓献身的に世話したと伝えられる。こうした舞の
中で一彼らの崇高な宗教精紳が育まれたのである。
このようなシ一∴皐な宗教心は・十五世紀の画家サセツタの清らかな絵画に結晶しているといえよう。た
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とえば、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある〈聖フランチェスコと清貧の結婚〉を見ていただこう。この絵は、リエートからシエナに向かっていた聖フランチェスコの前に、清貧と慈愛、そして服従をあらわす三人の乙女が現れたところ、すぐにその意味を悟った聖フランチェスコがその中の清貧に結婚の指輪を与えた、というエピソードを描いたものである。サセツタはこれを行情味りたかに描き、シエナ人の真摯な宗教心を見事に表現している。天 に帰る三人の乙女のうち、清貧が聖人の方をなごりおしげに振り返っているのが、ことに印象的である。
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だが、同じ画家が一四二三年から二六年にかけてシエナの羊毛組合のために制作した雷画には、「先人の過ちを繰り返すことなく」この絵を描いた、という意味の銘文が記されている。これはどういう意味かというと、サセッタは一般に、シエナ人らしいやさしい宗教心を抒情的に描いたと考えられているが、彼白身は、フイレンツに起こりつつあった新しい美術、すなわちルネツサンス美術に呼応する、新世代の画家という自負をもつてい…とを示しているのだ。実際、彼は一シェナにおけるルネツサンスの最初の重要な人物一一ボスコヴイツツ一だつたと考えられる。
このサセッタに始まるルネッサンス時代のシエナ派は、ジヨヴアニ・デイ.パオロやマツテオ.デイ.ジヨヴァンニ・フランチェスコニァィ・ジョルジヨ・マルテイー二、そしてベツヵフーミらを生み、つねにユニークな一派であり続けた・しかし・それはもはや新しい時代を開くような独創性と活力言っものではなく、前世紀に確固として形成された造形的伝統や独特の宗教感情など、いわば一シェナの烙印一のゆえにユ一ークであり、一派をなしえたにすぎなか一た。フィレンツェの彫刻家ギベルティが十五世紀の中葉に、シエナの画家たちはシモネ・マルティーニこそ最高の画家だったと考えている、と伝えているように、シェナの画家たちは偉大な黄金時代の遺産を糧として制作していた。たとえば、神経質で幻視的な、独特の宗教画で評価の高いジヨヴアン一.デー.パオロでさえ・アンブ已ソオ・ロレンツエツテイの〈キリストの宮参り〉を下敷きにした作品を描いている・こうした黄金時代の傑作のレプーヵのような作品は、この時期に少なからず制作された。かって偉大な創造活動の原動力となった愛国心は、もはや地方的な、いわゆる一カンパニーズモ一郷土愛.島国根性一一に変わつてしま一たのだと思わざるをえない。こうした状況に陥つたのは、画家たちのせいではなく、パトロンとなつた市民たちの保守性が第一の原因であろう。
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しかしながら、「シエナのルネッサンス」はけっして不毛だったわけではなく、それなりに豊かな実りを生んだ。
その象徴ともいうべきは、エネア・シルヴィオ・ピッコロミニ、すなわちピウスニ世である。十五世紀随一の学者教皇だった彼は、人文主義者の常として学芸を擁護し、同時に古代ローマを熱烈に信奉した。彼は彼自身と当時の杜会に関する膨大な『覚書一コンメンターリ一』を残し、生まれ故郷であるシエナ近郊の小邑一コルシニャーノ、後に彼にちなんでビエンッア、つまりビゥスの町と呼ばれるようになる一をルネッサンス風に整えた。彼の『覚書』はブルクハルトの『イタリア・ルネッサンスの文化』の「背骨となる資料」となったし、ピエンツァは小さいながらもルネッサンス都市の理想を実現した稀な例として知られる。
だが、そのピウスニ世はローマから故郷シエナを遠望し、一四五九年に次のように記している。「全市は市民の不和で分裂しており、遠からずシエナは自由を失うだろう、ということで大方の見方は一致している」というものだ。そしてそのとおり、シエナは、一四八○年から二〇年近く、複雑に入り組んだ「モンテ一党派一」による内乱を経験し、その後一四九七年から一五年問はついに君主パンドルフォ・ペトルッチに支配されることとなった。
そして一五一一四年に自由が回復されたものの、曲折を経た後、一五五四・五五年に神聖ローマ皇帝カール五世軍に包囲され、一五五九年に共和園は最終的に滅亡する。そしてこのときから、シエナはフィレンツェの支配者メディチ家の配下に入り、トスカナ大公国の一部となった。かくして、シエナは長い眠りについたのである。
このシエナの眠りはいかにも長く、黒死病以前の人口が回復されたのは、ようやく二十世紀になってからであった。だが、それと同時に、ことに第二次大戦後、シエナは活気ある地方都市として、そしてとりわけ国際的な観光都市として甦った。それは、たとえばサン・ジミニャーノのような、都市全体が博物館と化した、化石のような巾肚郁巾ではな/\午き上きとし仁上沽丈化が{〕心づき、市民たちには今なお熱い「シエナ魂」が宿る、いわば「生ける中世都市」、ビァンキバンデイネツーの言葉を借りれば「唯一の生ける中世都市のモデル」である。
シェナは訪れる者の脳髄にまでしみわたるような人間臭さのある都市であり、中世というものを実感できる稀な都市であると思う。「中世都市の女王」であるシエナを訪れずして、中世を語るなかれ、といつてもいい過ぎではあるまい。
しかし、さらに重要なことは、シエナが単に中世というものを教えてくれるだけでなく、もつと深い体験をさせてくれるということである。つまり、ローマやフィレンツエ、そしてヴェネツィァがそうであるように、シエナは我々に人間や生活、歴史や文化について瞑想させずにはおかない、いわば思索の原点となるような体験を与えてくれるのだ。これは、シエナという都市が真の意味での文化(文明)を創造し、その中心となったからだと筆者は考える。「ノーヴェ」時代に形成されたその文化を支えた杜会体制がいかなるもので、その市民たらが
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どのような考え方をもち、またそれが都市や美術作品にどのように表されたか、を本書は見てきた。その本書が、シエナの文化に、すなわちその歴史や都市、美術、そして「シエナ魂」に読者を導く門になれば、これに過ぎる幸いはない。このたぐい稀な個性をもった愛すべき「聖母の都市」をぜひ訪れて欲しいと思う。シエナは訪れる人を温かく迎えてくれるであろう。長い問フランチジエナ街道を旅する人を迎えてきたシエナの北の城門、ポルタ.カモッリーアには次のような古いラテン語の銘文が残っているからである。
「シエナは汝に対し、この門よりも広く心を開く」
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