呑気呆恬 呑気呆恬のサイエンストーク

呑気呆恬のサイエンストーク
2005年10月12日最終更新 
ぶろぐSFストーリー」は、こちらから。  「過去記事の索引」は、こちらから。
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リンク用にちょっと拝借  2005年10月12日 (水)

 いやー、本当にお久し振りです。

一年以上経っているのですね。
今回は、自作の、「プロトンジャンプパワーポイントアニメーション」のダウンロードに、
こちらのコーナーを借用、という、いんちきでした。

本名は、「ぶろぐ」でどうぞ。

      呑気呆恬


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犬の言語習得、3歳児並み  2004年6月11日 (金)

 いやー、本当にお久し振りです。
このコーナーは、本当は「のんき庵」のコアにも相当すべき部分なのに、
いざ書こうとすると気合がいるんですね。
ついつい気楽な掲示板の方に書いちゃって、気付いたら半年以上放置でした。
ということで、今回はももに因んで「犬の言語習得」をネタに、
現代の「科学界」に苦言を。

まずはYahoo Newsの記事から、
に3歳児並み言語理解力、飼い主との“会話”裏付け
 【ワシントン=笹沢教一】犬には人間の3歳児並みに言葉を覚える能力があることが、
ックスプランク研究所の動物実験でわかった。
 飼い主との間でやり取りされる“会話”を高度に理解できていることを裏付けるという。
11日付の米科学誌サイエンスに発表した。
中略(読売新聞)[6月11日11時0分更新]

詳細は
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040611-00000403-yom-int
をご覧いただくとして、さて、皆さんはこの記事を読んでどう思いましたか?

「すごい!犬にも言葉が判るんだー」なんて感心している人はどのくらいいるんでしょうね?
少なくとも犬を飼っている人、特に室内で一緒に生活するペットとして犬を飼っている人たちの
ほとんどが、「そんなの判り切ってるわよ、あったり前でしょ!」と思っているはずです。

ちなみに、ももちゃんなんて、五歳くらいはいってるよな!

さて、この記事の内容はどこがおかしいのでしょうか?

そう、科学者の世界では「きちんとした実験を行い、客観的なデーターを示して初めてものが言える」のです。
如何に世間の人が常識として判りきっているようなことでも、科学者さんが研究し、
論文に書き上げてようやく事実として認知されるのです。

いや勿論、そのこと自体はそれで良いんですが、問題は、
科学者さんたちは、その世界以外の事実を事実として認めようとしないところにあるんですね。
こういう論文が出るまでは、「動物が言葉を理解する」なんて言おうものなら、
頭から「馬鹿げている」といわれ、もっとひどい場合には「非科学的なこというな!
なんて仰る科学者さんが、よくTVにでて叫んでいらっしゃいますよね。
(TVをあまり見ないのではっきり知らないが、「大槻教授」とか言ってたような気がする!違ったらごめん)
調べもしないで「非科学的」と決めつける事の方がよほど「非科学的」であることを
理解できない科学者さんが、実に多いのです。
私はそんなこと言わないよと仰るあなた、幽霊とかUFOとかの存在をどう思いますか?
「あはは、それはまた話が違うよ」なんて、そういうことを言う人は、
「犬の言語理解能力」なんて論文が出るまではありっこないと思い込んでたはずですよ。
科学の世界では、それほど「権威」が強いのですね。

そして不幸なるかな、無知なる一般人は、科学者が使う一見威厳のありそうな、
わけの判らない言葉と、政治経済界がつぎ込む金に目を眩まされ、
いつの間にか「科学万能」という教義を信じ込まされてしまっているのです。
TVで「XXの専門家のXX大学教授の見解です」なんていわれると、本当のことを言ってると思うでしょう?
オーム真理教やその他の新興宗教というとすぐに白い目でにらむのに、
「科学的」というとその中身がどんな物かまったく知らなくても、
絶対に「正しい真理だ」と簡単に信じ込みますよねっ、あなた!
これはもう、完全に「宗教」と同じ妄信なんだけど、そんなこと言っても
信じ込んでいる本人にはまったく理解できない、そこが宗教なんだね。
(高級化粧品と同じで、理解できないほど高級な科学研究だと思っちゃうんです)

かなり横道に逸れてしまいましたが、こんな反論が聞こえてきそうです。
「一般人が何となく『こうだろう』と思っていても、それでは不十分で、
科学的に結論付けるためには『再現性のある条件下』で、きちんとした実験方法でデーターをとり、
統計的な有意差を認めないといけないのですよ」と。
うーーんかっこいい、説得力。でも、実は、これが科学者の砦なんですね。
調った実験施設や統計処理という、金のない一般人には不可能な条件を設けることによって、
自分たちの特権を確保したいんですよ(きっと本人はそんな認識は無いだろうけどね)。
でもね、「再現性ある実験条件下」なんて普通の人が聞くととても重要で、大変なことだと
思っちゃうかもしれないけれどね、実はこれってすごいいんちきなんですよ。
「特定の実験条件を設定する」というといかにも科学的っぽくて、かっこ良いんですが、
実は自然状態から多くの環境要因を切り捨てて、目的の結果を得やすい状況を設定する、
ということなんです。
ひと言でいえば、「非現実的な状況」なんです。
それでないと、「科学的実験」はできないのです。
「犬の言語」の実験で言えば、普通はいろんなおもちゃや、好きなペットフードがあったり、
テレビや車などの雑音や誘惑雑多の中で飼い主の命令をようやく聞き分けているのに、
「実験」というと、おそらくは何も無い静かな部屋で、7個や8個のおもちゃを示して、
いろいろ命令してデータを出しているんだろうと思います。
(まだ原文に当たってないので違うかもしれませんが、統計処理をするとすればそんなもんだ)
要するに実験というのは、証明したい仮説(統計学的には「帰無仮説」という)が正しいかどうかを
調べるために、それ以外の要因を可能な限り(すべて)取り除くわけです。
気が付かずに取除きそこなった要因が残っていて、
(実際には他の要因をすべて取り除くことなんて絶対に不可能なんです、判るよね)、
実は結果に大きな影響を与えていたりすると結論が曖昧になり、
それでも無理矢理白黒決着をつけなければならないので「統計」という、いんちきを使っちゃうわけです。
いんちき」なんていうと怒られそうですが、統計を知っている人は誰でもその秘密も知っているはずです。
統計の判定には必ず「危険率」という数値があります。
「危険率5%以下で有意な差があったので、この帰無仮説を棄却して、XXXと判定します」
というのが正式な統計的判定の結論の仕方なんです。
この「危険率5%以下」というのは間違う可能性が5%よりは少ないという条件で、
100回に4−5回は間違うかもしれない」といういい加減さなのです。
「危険率5%以下」というのは科学の世界では一般に認められているのですが、
一体誰が「5%なら良い」と決めたのでしょうね?
分野によって、5%では結論が出せないような世界では10%あたりが使われているという話を
聞いたような気がしますが、いずれにしても適当に決めた、あるいは習慣的に決まった基準を
当てはめて真偽を決めているのが科学者の世界なんです。
3匹のネズミにある薬を飲ませたら死んじゃった。
だからこれは毒なんです、といっても「あかんのですね」。
(世間じゃ普通だろ?)
科学の世界では、「統計的有意差」を示せといって論文を突き返されてきます。

ぐちゃぐちゃしましたが、「統計」は実験的結論を出すのに絶対的権威を持っていますが、
その割に根本基準(「危険率5%以下」)はいい加減なもんだ、ということです。

もういちど全体をまとめると、
1.一般人の世間の常識は、科学の世界では通用しない。(逆か?)
2.科学の世界で必須の「再現性ある実験条件下」というのは、目的の仮説を検証するために
その他の環境要因をすべて(できる限り)取除いた、非現実的状況である。
3.「統計的判定」というのは客観的に思えるが、実はいい加減なもんだ。

以上、三つの観点で「科学」の問題点を指摘してみました。
ご意見、反論を期待しています。

      呑気呆恬


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今冬のSARS  2003年10月16日 (木)

重症急性呼吸器症候群(SARS)とは

 2002年11月から2003年2月までに、中国広東省で305名の肺炎患者が発生し、うち5名が死亡した。 2月には香港での感染が急速に拡大し、死亡者もでた。3月15日、WHOは「重症急性呼吸器症候群」(Severe Acute Respiratory Syndrome、SARS)と命名、2003年7月5日、8カ月弱の経過で終息宣言が出された。この間の累積死者数745人、可能性例を含む感染者数8240人。死亡率9.04%。致死率は、高齢者で50%を超える一方、回復例も多い。(「東京都感染症情報センターHP」より抜粋引用)

問題はこの冬の流行

昨冬のSARS流行は、偶然にも新型インフルエンザへの国際的な備えがあったので、何とか切り抜けられました。さて、とりあえず終息宣言されたSARSですが、この冬の第二ラウンドはもっと大きな波がやってくる可能性が懸念されています。坂口厚労相も「10℃を切ると警戒必要」とSARS対策で宣言しています(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031010-00000092-kyodo-soci)。確かにコロナウイルスは、夏は野生動物などを宿主として潜んでいますが、呼吸器疾患にかかる人が増える冬に活動が活発化するとされています。インフルエンザとの鑑別が非常に困難であるため、冬には大きな混乱が予想されているわけです。

そこで私たち一般庶民としては、単にSARS感染を予防するだけでなく、BSEの際のような無用な混乱を起こさないためにも、正しいSARSの知識と予防法を知ることが必要です。予想される日本政府の対応と日本国民性を併せて考えると、今冬も相当なパニックと、不要な犠牲者の続出が推察できます。

先ずは第一ラウンドで明らかになったSARSの特徴をあげてみましょう

1.伝播様式:インフルエンザのような空気感染も否定はできないが、それほど伝播力が強くないので、中心は飛沫感染と考えられる。また、コロナウイルスは痰ばかりでなく、便、尿にも排泄されるため患者と濃厚な接触を強いられる医療従事者に感染率が高い点が特徴である。

2.潜伏期間:平均潜伏期間は平均6.4日、長いと10日に及ぶことがある。発熱もなく自覚症状もない状態であちこち移動できるため、多くの人と接触して感染を拡げる可能性が問題である。

3.軽症例も多い:また発症しても単なる風邪の症状で終わる軽症例も多いため、そういう軽症例から高齢者などのハイリスクグループに感染し、その中からsuper spreaderと呼ばれる、周囲への感染リスクの高い人が出てくることになる。それに比べると、エボラのように病気なったらとても旅行などできる状態でなければ、感染がその地域だけに留まる。

4.有効なワクチンが簡単に作れない:コロナウイルスはインフルエンザウイルスと同様、頻繁に変異を起こすと考えられているため、有効なワクチンの製造が期待できない

5.早期診断が困難:RT-PCRなどによる診断も精度が期待できないので、現時点で有効な早期診断はできない。

6.まだ有効な治療薬、治療法が見つかっていない。

以上の情報を元に、個人にできる予防法を考えると

1.中国や台湾では公共の場でのマスク着用が義務付けられたが、飛沫感染するウイルスの感染予防で最も重要なのは手洗いである。
飛沫感染の特徴は、感染者の唾液などが付着した場所に触り、その手で食事をしたり、無意識に手で目をこすったり鼻をほじったりして、粘膜にウイルスを刷り込んでうつる「間接接触感染」の危険性がもっとも高いことである。空気感染と異なり、飛沫感染の場合、マスク着用よりも手洗いが最も予防効果が高い。手洗いは石鹸や消毒薬を使うよりも流水が一番効果的である。それに加えて、やたらと目をこすったり鼻をほじったりしないことが大切。
飛沫感染の場合には、市販のマスクの予防効果は疑問が多い。むしろ口に手をやる動作がかえって増え、感染のリスクを高めることになりかねない。市販マスクの場合、感染予防というよりも、感染者によるウイルスの飛散を防止する効果の方が高そう。

2.もうひとつは、風邪やインフルエンザに罹らないことである。インフルエンザで体力を消耗した状態はSARSに感染しやすく、かつ重症化する可能性も高い。できれば予防接種を受けておくことと、日頃から充分な睡眠と休息をとり、常に体力を蓄えておくこと。無用に人混みの中へ出歩かないこと。といっても東京圏へ通勤している人はどうしようもない...

3.あとは国や医療機関によるSARS対策が正常に機能するよう、一般国民が無用なパニックを起こさないことである。BSEの時のような、無知による馬鹿げた騒動(日本に於けるBSE患者発生はゼロなのに、数名の医療、酪農関係者が自殺した)を繰り返すことのないよう、国は常に正しい知識を国民にプロパガンダし、国民は正しい判断能力を身につけて、状況に応じた適切な対応をしなければならない。

私のような一個人がこのような場で警告を発しなければならない日本の状態は、実はとても悲しむべきことであろう。
いかに経済的、科学的に先進国と自惚れても、政府や国民の言葉の信頼性が失われている民族は、きわめて文明度が低いと言わざるをえないだろう。(-_-;)

呑気呆恬


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クローンベイビー誕生  2003年1月31日 (金)

世界で三番目、日本人初のクローンベイビーが誕生したというニュースが世の中を騒がせています(記事は最後に)。
今回のクローンベイビーの真偽はともかくとして、クローン人間に関する問題点を明確にしておく必要があるでしょう。
大雑把に問題点をまとめると、

1.人道的宗教的信義の問題
2.医学生物学的技術問題
3.クローンベイビーの人権問題
4.社会的問題

などがあげられるだろう。
比較的簡単なところから1.人道的宗教的信義の問題を考察してみる。
昔、人工授精や心臓移植を始めて人間で行ったとき、人道問題や神への冒涜だと大騒ぎされた。
最初は喧々諤々でもポツリポツリと繰り返されていくうちに、いつの間にかニュースバリューがなくなってマスコミが報道しなくなると誰も問題視しなくなり、走行するうちに技術が向上して大きなトラブルが起こらなくなると当たり前の医療行為と認知されてしまう。
昔、ミニスカートやビートルズのおかっぱ頭、最近では茶髪にピアスなど、みんな初めは不良だ不謹慎だと非難していても時とともに慣れ、その当時の子供が大人になる頃にはまったく普通のことになる。
おばさんがみんなミニスカートをはき、若いお母さんは髪を染めていない人なんていないんじゃないかなー。
要するに目新しいことにはみんなが注目し、マスコミや評論家さんが倫理だ人道だと騒ぎ立てているうちはみんなそうだそうだと付和雷同しているが、すぐに飽きるんだね。
非難するのに飽きてしまえば、神聖な命の誕生に人間の手を加えるのは神への冒涜だとかいう倫理的、人道的主張も、命を助ける手段だ、子供に恵まれない可哀想な人への福音だという説得でいつの間にかうやむやにされてしまう。
きちんとした根拠を持って物事を考えていない日本人だから(いや最近は先進国の人間すべ同じだ)、善悪の理屈付けなんてどうにでもなるんです。
まっ、いずれにしても日頃神も仏も信じていない日本人が、突然神様を持ち出しても説得力はないだろう。

2.医学生物学的技術問題
クローン技術で生まれた生物は寿命が短いとか老化が早いといった危険性が動物で指摘されていることや、その他まだ確認されていない多くの危険性が残されている。
動物ですらまだ例数が少ない現時点では、確かに人間への応用はあまりにも早すぎた。
もっと多くの動物実験で予測される危険性を洗い出しておく必要がある。
しかし、比較の問題であって、(クローン人間を作るということであれば)所詮いつかは初めて人間に応用するときが出てくるのだし、どんな医療技術でも初期は多くの未知の危険を孕むことは否めない。
例数を重ねるうちに安全性が高まるのですね、何事も。
で、科学者という人種にとっては、どんなに非難されても一番がすべて。
余談だけれど、今の「科学者の評価」って論文の数とその論文を引用された回数で決まるんです。
クローンベイビーを作ったアンティノリ医師は、論文を書けば世界中の科学者から引用してもらえること請け合いですね。
信じられないかもしれないけれど、科学者の世界ってなさけないけれどそんなものなんです。

3.クローンベイビーの人権問題
これは極めて重要である。
人工授精であれクローンであれ、生まれてくる赤ちゃんは一人の人間であることには変わりがないことを認識しなければならない。
粘土や牛肉をこね回して作ったというなら人間として扱うべきかどうか真剣に考えなければならないが、人間の細胞から作った以上赤ちゃんは赤ちゃんであって、一人前の人格を持つことは普通の妊娠で生まれた赤ちゃんと同じなのである。
通常の妊娠分娩によって誕生する赤ちゃんも最初は1個の卵細胞から成長してくるのである。
皮膚の細胞であろうが何であろうが人間の細胞と人間の遺伝子で始まった生命であれば、人間であることに間違いはない。
さらに、たとえ自分の体の細胞から作ったクローン人間であっても、元になった人とまったく同じ人間が出来てくる訳ではない。
遺伝子は同じでも成長する過程で環境の影響を受け、結構大幅に異なってくるものです。
実際のところクローン技術で作った猫は、外見も性格もオリジナルとは「別の猫」になったという報告がある。
典型的な三毛猫から作ったクローン猫は、白地に灰色の縞模様だったそうです。
遺伝子がその人の体にふくまれるすべての細胞の特性や最終形態の情報をぜーーんぶコードしているというならともかく、たったあれだけのゲノムの中にそれだけ莫大な情報を組み込むことは不可能である。
もちろん蛋白質のアミノ酸配列などはきちんとコードされているだろうが、全体の形態や特性はかなり柔軟で大雑把な枠組みに入れられているだけだと思う。
いい加減だからこそさまざまな環境に適応して生きていけるのであって、完璧に決められていたら適応性を失ってしまう。
また脱線したが、生みの親より育ての親というように、元の細胞や遺伝子が誰に由来するものであれ誕生した赤ちゃんは一人前の人格であるから、誰にも所有権はない。
と、ここから次の社会的問題に関係してくる。

4.社会的問題
問題のひとつは、親が誰か。
面倒を見、育てていく権利と義務が誰に帰属するのか。
クローンベイビーを作ろうなんて人は大金持ちに決まっているのだから、まずは遺産問題で大騒ぎするだろうね。
逆にクローンベイビーに重篤な障害が発生した場合に、きちんと面倒見るだろうか。
まっ、こういう問題は適当にルールが作られ解決されていくだろう。
(ルールが作られる前にクローンベイビーを作ってしまったことは問題だ)

重要な問題は、クローンベイビーを作った人、金を払った人がこの赤ちゃんの人権を認めず、自分の所有物と勘違いする可能性である。
何故か。
それは自分のクローンを作り、その臓器を自分に移植すればまったく拒絶反応を起こさない完璧な臓器移植が可能になるからだ。
自分の臓器移植用にクローンベイビーを作るとすると、これは明らかな殺人である。
たとえ自分の細胞由来であっても、赤ちゃんは一人前の人格を持つことを忘れてはいけないし、無視してもいけない。

ところが抜け道はいくらでも出てくる。
死産、流産すればよい。
生きて産まれてこなければ殺人ではないし、脳死による臓器移植の適用も可能になるかもしれない。
欧米諸国では堕胎は認められていないが、日本は母体を守るという名目で堕胎天国なんだそうです。
堕胎で殺された赤ちゃんは生まれていないのだから死ぬこともないし、殺人にもならない、というわけですね。

このような技術のためにクローン人間を利用しようとすれば、当然人々は猛反対するでしょう。
でも、たとえ社会が否定しても、今回のように強引に、あるいは隠れて実行する人は必ず出てくるものです。
技術的に可能であることが判れば、何やかや理由付けをして、莫大な金を支払ってでも手に入れたくなる人が必ず出てくる。
そしてその金目当てに、たとえ法律を犯してでも実行する人が必ず現れる。
今回のクローンベイビーにも、費用として20万ドル(約2400万円)が支払われたという。
技術的には簡単なことである。
細胞分裂が始まれば代理母の子宮へ移せば後は出産を待つだけなんだから。

ここでもうひとつ別の問題が浮上してきたわけです。
先端医療のすべてが、人間の止むこと無き欲望と名誉と金目当てで行われている。
現在は合法的に行われている臓器移植もまさにその一例である。
一回の臓器移植で何千萬もの金が動く。
一人の肝臓移植手術で健康保険が2−3千万円支払われるのだそうです。
貧乏人、いやなみ程度の金持ちさんでは臓器移植は受けられない。
逆にみんなが受けたら健康保険制度はあっという間に破綻もいい所ですね、河野太朗さん。
「我が子の命を救ってください」などとキャンペーンを張って、多くの人から募金を募り、5千万、6千万円もの金を使ってアメリカまで行って臓器移植をする人がいる。
おれっちゃそんな大それた活動をする時間も金もないよ。
キャンペーン張って騒いでいたら自分の食い物がなくなって家族共倒れだわさ。
ありがたいことに、世の中には他人のことをお世話してくれるボランティアなんて暇人が結構いるんですね。
こっちは自分の家族の健康を守るので精一杯なのに、他人の贅沢な臓器移植にカンパなんてしていられるかってんだ。
「あなたには子供を愛する気持ちがわからないのですか、人間としての心がないのですか」なんて声が聞こえてきそう。
「わたしゃ他人の肉を喰らってまで生きるつもりは毛頭ないし、子供にもそんな恐ろしいことはさせたくありません」というしかないですね。

話が臓器移植のほうへ逸れてしまったが、ここでまたもや別の方向から声が聞こえる。
「でしょう、臓器移植は解決困難な多くの問題が残されている。だから、これからはクローン臓器の時代なんですよ」
クローン技術で赤ちゃんを作らずに、組織増殖で直接必要な臓器だけができればすべての問題が解決される。
技術が進めば費用もぐんと安くなり、誰にでも、貧乏人の私にでも出来るようになる(かな?)。
当分はいきなり臓器だけを培養増殖させることは出来ないが、まだ人間の形になる前の胎児、胚の状態のときに将来目的の臓器になる部分だけを切り取って増殖すると、臓器培養が出来る可能性はある。
クローン技術で作った人間の胚を使って必要な臓器を培養し、自分に移植する。
のんびりと自己修復機能なんて待っていないで、駄目になった部品はどんどん新品と取り替えてしまう。
完璧な未来医療ですね。
金持ちは緊急時に備えて自分用の各種臓器を培養して貯蔵しておく。
一式揃えば一人前の人間として扱わねばならないが、それぞればらばらに作った臓器なんだから人間ではない、なんて理屈が可能になる。

さあ、ここまで来るとわけがわからなくなるでしょう。
さて、あなたはクローン医療をどう評価しますか?

私の答えは、もう少しおあずけにしておいて、皆さん自身でも考えてみてください。

呑気呆恬

参考記事

<クローン人間>日本人の間に男児誕生 クローンエイド社発表

 【ワシントン斗ケ沢秀俊】新興宗教団体「ラエリアン・ムーブメント」の関連会社「クローンエイド」は22日、「日本人カップルの間に男児のクローン赤ちゃんが生まれた」ことを明らかにした。AP通信が報じた。同社は23日にカナダで記者会見を開き、正式発表する。
 同社は、米国人とオランダ人のクローンをすでに誕生させたとしており、今回が3例目になる。しかし、いずれもクローンである証拠は全く示されておらず、真偽は不明のままだ。
(毎日新聞)[1月23日13時30分更新]


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インフルエンザ・パンデミック  2003年1月13日 (月)

今冬はインフルエンザが大変流行っていますね。
インフルエンザかどうか判りませんが、私自身昨年末からずーっと咳で寝られない毎日がいまだに続いています。

すでにインフルエンザがはやっているだけでなく、大流行が予想されています。

ちなみにももは風邪でなく、ご機嫌で寝ているだけです ==>

さて、昨年三月に国立仙台病院ウイルスセンターを訪問しセンター長の西村先生から「インフルエンザ・パンデミック」のお話を聞いてきた時のことを、呑気呆恬の館(旧館)でご紹介しました。
インフルエンザと狂牛病、どっちが怖い?
「インフルエンザ・パンデミック」すなわちインフルエンザの大流行によっておこる大勢の人々の罹患、致死と社会パニックのことです。
いまどきそんな大流行は起こらない、インフルエンザで死ぬことはないとたかをくくっているととんでもないことになる可能性が現代でもあり、それに備えた予防措置、パンデミックプランニングの認識と必要性を唱えておられます。
詳細については前掲記事をご覧ください。

このときに感じたもうひとつの問題点は、こうした予防的活動、危機管理行動は非常に理解されにくいということです。
予防措置が外れたとき、あるいは予防措置をしないと大きな社会問題になり、後で評論家といわれる人々によって責任の云々が問い沙汰されます。
ところが危機管理が功を奏したときは重大な危機状況自体が起こりませんので、社会的関心がもたれることなく、むしろ無駄な予算措置などと非難すら起こりえます。

これはあらゆる場面での危機管理で認識しておかなければならない問題点です。
危機が起こる確率とその重大性、そしてそれを回避するための予防措置の負担の大きさ、これらをできるだけ正しく予測して天秤に掛け、最も効率のよい管理方法を選択していくことが大人の社会の条件でしょう。
みんな賢くならないと、本当の意味で安心できる社会を作っていくことはとても難しいことですね。

風邪を理由に更新をサボり、古い記事の流用で誤魔化した今回でした。

呑気呆恬

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時間を含まない「普通名詞」  2002年12月7日 (月)

ちょっとご無沙汰していましたので、簡単に復習します。
固有名詞で示される存在は、時々刻々変化していきます。
時間の経過とともに変わっていくにもかかわらず、同じものを指し示すことができる、それをアイデンティティとよびます。 十年前のあなたと今のあなたを考えれば判りやすいですね。 そして、同一のものが変化していくということは時間を生み出しているということでした。
では,固有名詞がアイデンティティをもち時間を生成するのなら,一般名詞,普通名詞はどうでしょう、というところで止まっていました。

というところから再開します。
まず、普通名詞の特徴を考えてみましょう。
固有名詞が特定の、ひとつの個物を示すのに対して、普通名詞は物自体を指し示さず,あるグループに分類される物が共通して持っている性質を示ます。
「犬」という普通名詞は,「身体に毛が生えていて四足で歩き,ワンとなく」という特徴をもつものすべてを指します。
一般の会話で使われるとき、その普通名詞が指定している特徴はきちんと定義されているわけではありません。
子供の頃からの経験の中で、それぞれの人が自分なりの定義のようなものを作り上げています。
一般的には共通了解ということで殆どの普通名詞が成り立っていて、それで問題は起こりません。
だから、絵でも、漫画でも、ぬいぐるみでも「いぬ」と判ってしまうのですね。

ところで、「もも」は「犬」ですが「犬」は「もも」ではありません。
ポチもシロもジャスもニキもみんな「犬」です。
でも「犬」はポチでもシロでもジャスでもニキでもありません。
これが普通名詞の特徴なんです。
普通名詞「犬」は世界中のすべての犬を含み,さらに既に死んだ犬もこれから生まれてくるであろう犬も全部含みます。
普通名詞「犬」はあなたが漠然と頭の中に描いている、身体に毛が生えていて四足で歩き,ワンとなく動物のことです。
だから「犬」という普通名詞の内容、指し示す意味が成長したり生まれたり死んだり変化することはありません。
あるとき突然、これからはにゃあと鳴くものを「犬」と呼ぶことにしようといっても,それはもともと犬ではなくて猫なんですね。
普通名詞と内容の対応関係についての約束が変わっただけで、あなたの頭の中にある「犬」という概念の集合は変わっていません。

むしろ変化してしまうと困るのです。
「犬がいる」といったらあるときは「それは猫です」といわれたり、別の時には「豚です」と言われたのでは話しになりませんね。
変わらないからみんなで使える言語になるのです。
そして変わらないということは、普通名詞は時間を含まないという結論になります。

今回は一般の普通名詞について考えましたが、次回は科学の世界で使う用語について、考えを進めようと思います。
いよいよサイエンストークらしくなってくる予定ですが、脱線、お休みするかもしれません。


呑気呆恬

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ただいま準備中!  2002年12月3日 (火)

もう少し待ってちょうだい、ワン。

あっ、誰かいま「でぶいぬっ」て言ったな!

これはふわふわのファーコートなんです。
撫でるととっても気持ちいいのよ、夏は暑くて死にそうだけどね。

そういうこと言うやつにはさわらしてあげないもんね!

ももちゃんコーナーで横姿を見てごらん、ウエストきゅっん、だワン。


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落語「縁起担ぎ」 2002年11月23日 (土)

突然ですが、思いっきり雰囲気を変えて、今回は上方落語風で迫ってみます。
出演は、ワン遊亭ももやっこ ===>

ええー、世の中には縁起をかつぐひとがいますな。

「おっ、茶柱が立ってる。こりゃなんぞええことがおこるぞっ!」とかいうて喜んでます。京都では、左手で箸をつこうてその茶柱をつかみ、左の袖口に入れるとええことが起こるいいましてな。一所懸命にやってるうちに茶碗をひっくり返して親に殴られたりして、ほんまにええことが起こるのかどうか分からんですな。

反対に縁起の悪いということもいっぱいありますな。歩いていて黒猫に出会うと不吉だ、なんちゅうのはヨーロッパの方でいうらしいですな。私が子供の頃は、葬式に出会うと縁起が悪いいうて、なんでか知りまへんけども親指をかくして走って通りすぎたりしてました。
こういうのはいわれも理由もさっぱり見当がつきませんが,罪のないかわいい縁起担ぎですな。

それにくらべると、もうちょっと難しいのもあります。こう、台風なんかが近づいてて、友達や上司なんかが飛行機に乗ってどっか出張にでも行こうなんていう時に、心配して「台風が来てまっせ、飛行機が落ちなんだらええねんけど」なんてなことを言いますと、「何を縁起でもないことを言うのや、よけいなお世話や!」と滅茶苦茶怒られます。こっちは心配して言うてるのやし、別に「落ちたらええ」と言うてるわけでもないのに日本ではあきませんのや。「台風が来てるけど、ちゃんと着くといいですね」といえば「うん、心配してくれてありがとう」なんて安心します。

よー考えたら、どっちも同じことや。ただ、「飛行機が落ちる」という言葉が入ってるかはいってないかの違いだけなんですな。「ちゃんと着くといい」という言葉は裏に「飛行機が落ちて着かへんかもしらん」という可能性を意味してるわけです。日本の人は、意味はおんなじでも口に出していう言葉そのものに捉われます。

その点向こうの人は、スパッとはっきり表現しはりますな。「この台風はものすごく大きいさかい飛行機は危ないけど、私が落ちないように神様に祈っといたげるさかい安心して行っときなはれ」なんて、ホントは英語で言うたはるんですけど。まあ考えてみたら結構無責任なこと平気で言うてます。言われた方も、「ありがとう、よろしゅうお祈りしといとくんなはれや」なんて、あほちゃうかいうようなことですけど、これが文化の違いというもんですな。

日本には「言霊」いうもんがあると主張してる人が居はります。「言葉のたましい、霊」ですな。言葉そのものが霊をもっていて、神様みたいな力を発揮すると思っている。そやから言葉にして、口でいうとそのことが実現するというわけです。今の人は、みんな自分はそんなことを思っているなんちゅう意識はぜんぜんないし、そう指摘されると、「何を馬鹿言うてんねん、いうただけで起こるんやったらわしはなんぼでも儲かりまっせ。総理大臣なったろ」てなことで馬鹿にされてしまいます。それでも心の奥底、そう深層心理ちゅうとこには残ってるんですな。それが日本人の文化のひとつというもんでっしゃろね。

ほな、なんでそんなもんができてきたか、それが問題でんな。ずーーっと昔の天皇さんは、お公家さんらと歌ばっかり詠んではったといいますな。毎日、宮廷へ上がってあさぼらけーー、なんて気楽なもんや、百姓から年貢をとりたてて(この辺の年代考証は突っ込まんといてや!)贅沢三昧、なんて思うとまちごうてまんねん。天皇さんやお公家さんは真剣に国をようしよう思て、いっしょうけんめい考えて、ええ歌を詠んではったんやな。雨よふれー、ていうたら雨が降る。国よ良くなれー、て歌を吟じたら国がようなる。そういう思想やったわけですな。だから政(まつりごと)というんだそうですわ。

そら、わたしら現代人からすりゃ、うたで世の中変わるわけないと思うけど、昔の人は占いで世の中を分析して、歌を作って言霊の力で世直しする、これが当時の科学的政治手段やったんやね。あほや、うそやて言うたって、それが歴史なんやから、現代人が文句つけてもしゃーない。当時の人の気持ちになって考えんと歴史の意味は判らん。

百年ほど前のヨーロッパでは、病気になると腕の血管を切って汚い血をいっぱい抜き取るのが先進医学やった。今は癌になったら手術でどんどん切り取ってるけど、あと百年もしたら瀉血と同じレベルになってるかもしれんのですわ。要するに、歴史を考えるときは、その時代の人になりきって物を見なあかんちゅうこってす。

ぼつぼつお時間が参りましたので、このへんで。
えっ、落語のくせに落ちがない?
なにいうてまんねん、ちゃんと飛行機落ちてます。
飛行機は落ちてへんやて?
あっそうか、こりゃ私が地に落ちた、というところでご勘弁を!

もも奴でした、ワン

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時間を生み出す固有名詞 2002年11月22日 (金)

ももです. ====>
ヘアーバンドでお飾りしてるわけではありません.
首輪を外しかけたままなんです.複雑な表情ですが,いじめているわけでも,嫌がっているわけでもありません.
でも,かわいいでしょ?

さて,前回は固有名詞で示されるものにはアイデンティティが宿るというところで終わりました.
時間が経過してもこれはこれだ,私は私だと特定されている何か,アイデンティティが存在するということでした.

もうお気づきの方がおられるかもしれませんね.
アイデンティティを持った,固有名詞で指し示すことのできるもの,それが時間を生み出しているのです.
私は同じ私である,にもかかわらず物体としての私は変化した.
だから変化する間の時間の経過が判るのです.
時間が経過する前とあとで,本体の私が別の物では変化したといえません.
同じであるはずの物が変わるからこそ,「変化」であって,そこに「時間の経過」が含まれるのです.
昔きれいだった東京タワーが,錆びて煤けて以前と変わったなーと思うから,そこに年月という時間の経過を感じるのですね.
昔の東京タワーと今のサンシャインビルを見比べても時間の経過は含まれません.

万物流転し変化するものであり,そのなかで同じアイデンティティを持つもののが時間の流れを生み出しています.

思うのですが,人間は神経活動や生化学的反応の多さで一定の精神的,心理的時間経過を生み出しているのではないでしょうか?
若い間は,一定の物理的時間が経過する間に非常に多くの神経活動や生化学反応が進行します.
一方,歳をとるほどにいろいろな生理的活動性が低下し,一定時間に進行する反応量が減少すると思います.
ということは、地球が太陽の周りを一周する間(一時間や一日でなく、一年という単位を持ち出すところに年齢が現れている!)に私たち年寄りの身体で起こる生化学的反応が、若い人の身体では一月、二月で起こっているということですね、きっと。
同じ物理時間の間に起こった反応が多いと長い時間が経過したように感じ,少ないとあっという間に時間が過ぎたように感じてしまうのでしょう.

時間感覚というのはそういうものではないかと考えます.

変化しないアイデンティティと、変化する実体をもった固有名詞で示される存在は,その差によって時間を生み出すというお話でした.

次回は,時間を含まない普通名詞について考える予定です.
でも,ちょっと重い話に嵌り込んでしまったので,書くのも大変だなー.
息抜きしようかなー

呑気呆恬

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時間(その1,アイデンティティ) 2002年11月19日 (火)

[夜明け前五時半頃の富士山]===>

人は時間(の経過)をどうして感じるのでしょう.
時計を見れば判る.
そうなんです.
さっきは1時だったのに今は2時だから1時間が経過したと,判る.

でも,時計が遅かったり,途中で止まっていたりしたら,変だぞ,もっと時間が経っているはずだと思うでしょう?
自分の中にそれなりの時計を持っているはずですよね.

自分の中の時間は機械の時計と比べると遅かったり早かったりします.
楽しいことをしているときはあっという間に時間が過ぎるけれど面白くないときはいつまで経っても時間が進まない.
子供の頃の一年はとっても長かったのに歳をとると一ヶ月くらいで一年経ってしまう,なんて時間の進み方は人や場合によって違うのではないだろうかと思ってしまいます.
これは物理的な時計の進行(太陽も含む)と自分の体内で自覚する時間の進行にずれがあることを意味するわけです.
どっちが正しいのだろう,どっちが本当の時間なんだろうなんて考えたりもしますね.

私たちがどうやって時間を感じるのかを考えてみましょう.
昨晩寝たときの私と,今朝起きた時の私が別人であれば,その間の時間経過を感じることはできません.
嘘か本当か,そして何故だかは判りませんが,今朝の私は昨夜の私と同一人物であるという自覚を持っています.
(あったり前じゃん,なにを寝ぼけたことを言ってるの,なんて言わずに我慢してもう少し読んでくださいね)
単なる物質(主に蛋白質)の塊である私が,時間の経過と共に少しずつその組成が変化しているにも拘らず,同じ自分であると意識できる,それがアイデンティティです.
言い換えると,私というものは物質的には決して安定的に固定しているわけではないのに,それでも何かしら私は私という認識を持っているわけで,それがアイデンティティなのです.
一晩という時間では何を言っているのか判りにくいですが,十年,二十年という長い年月を考えてみれば判りやすいでしょう.
身長も体重も,顔かたちも考え方も変わり,そして身体を構成している元素のすべてがすっかり入れ変わってしまっているというのに,やはり私は私と言い当てることができる,少なくともほとんどすべての人が疑いを持つことなくそう思い込んでいます.
それは,アイデンティティと呼ばれる何か,実体を伴うのかどうか判りませんが,そういう何かが取り付いているからこそ何年経っても,如何に変貌しようとも,私は私でいられるのです.
前回の,固有名詞,固有の名前をつけた物体はすべてアイデンティティを与えられ,その実体自体が変化しても元の何かが存在し続ける,一般的にはそういうことになっています.
例えば東京タワーは一旦名前がつけられると,さびてぼろぼろになっても,極端な場合には壊れて新しいものに立て替えられても東京タワーとして存在し続けます.
それが、アイデンティティというものです.
ただし,固有の名前をつけるときの共通認識が曖昧であったり,定義が不明確なときには混乱を生じますが,原則はそんなことです.

「時間」の問題には行き着けませんでしたが,今回はこの辺でおしまい.

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固有名詞で示されるものの実在は?(その1,2は下へ続く) 2002年11月18日 (月)

今日は湘南ビーチマラソンだったのに,私は風邪を引いて寝込んでしまいました.
急に寒くなって風邪が流行っていますので,皆さんもうつらないようにご注意ください.

前回は一般名詞で示されるものの実在について考えてみました.
では,固有名詞で示されるもの,例えば私が愛するももちゃんとか小泉首相,ブッシュ大統領などは実在するのでしょうか?

小泉首相だってブッシュ大統領だって存在するに決まっているじゃーん!なにを阿呆なこといってるの,と思うでしょ?
ももなんて知らないけれど,小泉首相やブッシュ大統領は毎日テレビや新聞に出ているし,世界中の誰だって知ってるじゃん,あんた,馬っ鹿じゃないのーぉ?と言われそうですね.

私は小泉首相もブッシュ大統領も,まだ会ったことも触ったことも,舐めてみたこともないので本当にいるのかどうか,本当のところは知らないとしかいえません.
もちろんテレビや新聞ラジオで毎日のように登場しているから,常識的には存在するには違いないと思うけれども確信はない.
私が知っているのは,一度電波になって飛んできて,我が家のテレビの中で映像に変換されて写っている,すなわちあのマスコミによって作られた小泉首相やブッシュ大統領でしかない.
ようするにクレヨン新ちゃんやサザエさんと変わらないわけです.
とりあえずは周りの人と話が矛盾することなく,つじつまが合っているから真実だろうと思うけれど,例えば周りの人たち全員が口裏を合わせて騙していたら,きっと嘘でも信じてしまうでしょう.
余談ですが,昔のテレビドラマ,スパイ大作戦というのを思い出します.
(知らない人には意味がわからないと思うけれど,長くなるので説明しません,ごめんなさい)

子供の科学図鑑などに出ている銀河系の絵,本当にあんな姿形の星雲が実在しているのでしょうか?
あれは完全に当たり前の常識になっていますね.
でも,誰が見てきたのでしょうね.
土星は,天体望遠鏡を通して私自身が,自分の目で見たことがあるので,あの輪っかがついた形は本当だと思っています.
でも,銀河系の形を外から見た人はいないんじゃないの?

恐竜だって,化石しか出てないのだからどんな色をしていたのかなんて判らないわけでしょ?
全身の骨格が揃っている恐竜なんてほとんどいないんじゃないの?
誰かが(きっと科学者と自称している人に違いないのだけれど)適当に想像して書いたものが勝手に一人歩きし始めて,いつの間にか誰もが信じるようになり,そのうちに疑問を差し挟むと気違い扱いされる「実在」となってしまっているのですね.

宇宙にしろ古代にしろ,その姿形まで含めて完全に実在する(した)真実として誰もが信じ込んでしまっています.
よくよく考えてみると,世の中にはそういう怪しげな実在はいっぱいあるのです.
ちょっと極端かもしれないけれどそういう流れでいくと,小泉首相もブッシュ大統領も,少なくとも本当の人となりが正しく伝わっているのかという意味では,我々が知っているつもりの物は真実かどうか疑わしいのです.

(下に続く)

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固有名詞で示されるものの実在は?(その2) 2002年11月18日 (月)

(上からの続きです)

では,視点を変えます.
ウサマ・ビン・ラディンという人がいますね.
誰もが知っている世界的超悪人,ということになっていますが,では彼が「今この時点」で存在するかどうか,判りますか?
アメリカのCIAですら,その生死も居場所も判らないということです(本当かどうか知らないけれど).
ウサマ・ビン・ラディンは,今,実在するのでしょうか?
ではそういう意味で,ブッシュ大統領は,今,実在するのでしょうか?
まだこの瞬間にはニュースにはなっていないでしょうが,一分前に殺されてしまったかもしれませんよ.
知っていて実在が判かっていても,今この瞬間の存在は,離れていると誰にも答えられない.
すなわち,場所と時間が離れていれば実在の根拠が薄くなるのです.

いやそれは違う,存在してもお前が知らないだけだ,とおっしゃるかもしれませんが,死ぬまで知らなかったものは存在しないのと一緒ですよね.
自分の目で見て,手で触ってみたものでないと,本当に実在するなんていえませんよね.

では,自分の目で見て,手で触ってみたものは本当に実在するのでしょうか?
もっと言っちゃいましょう.
私自身,そうあなた自身は本当に実在するの?
確信を持っているようですが本当ですか?

今寝るときの私と,明日の朝起きたときの私は本当に同じ人間なの?
身体を構成している蛋白質は,10年も経てばほとんどすべて入れ替わってしまいます.
物質的にも別物になるのです.
自分自身が本当に存在するという根拠,すなわちアイデンティティというやつ,それは一体何なのでしょうね?

ここで止めるのはちょっと罪な気もしますが,長くなったので次回にします.

呑気呆恬

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2002年11月14日 (木)

唐突ですが,「犬」は実在するのでしょうか?

私の愛犬,ポメラニアンのももちゃんは犬で,実在します.ねっ!==>
(ももが幻なら,私は気違いだ!)
お向かいのゴールデンレトリバーのニキも犬で,なおかつ実在します.
(今朝はじゃれつかれて腕を噛まれた!)
ジャスもポテもトチもマルもモカもチコちゃんもみんなももの仲良しで,犬で,実在します.

固有名詞で指し示すことのできる犬は確かに実在するように思えます(とりあえずね).
では,だから一般名詞で示される「犬」が実在すると言えるのでしょうか?
地球上のすべての犬を全部引っくるめて指し示せば,一般名詞の「犬」が実在することの証明になるでしょうか.
「犬」はどんどん死に,どんどん産まれてくるので実際的にすべての犬を指し示すことは不可能でしょうね.
さらに,では狼と犬の間の子は犬でしょうか狼でしょうか?

これはなにを言いたいのかというと,「犬」の定義が不明瞭だということです.
道端を四足で歩いていて全身に毛が生えていて,ワンとほえる動物を「犬」と呼んでいますが,DNA鑑定すればジャッカルかもしれない.
こういう点が言葉の曖昧さなんですね.
それにもかかわらず,日常の会話では概ね支障なく話が通じてしまう.
そこで科学者や法律家が出てくるとまた問題がややこしくなります.
それはさておき,まっ,いずれにしても一般言語における名詞のあり方というのは,いかにも自明で当然実在していそうでありながら,実はとても曖昧なままみんな納得したような気になって使っている,そういうものなんです.

今は一般名詞「犬」を例にとって考えて見ましたが,実は牛でも石でも木でも山でもすべて同じです.
犬が自然のものだから判りにくいのだというなら,椅子や家や橋などの人工のものを考えてみましょう.
やはり同じでしょう?
ものの名前というのはとってもいい加減で,それが指し示すものの範囲,すなわち集合はもともと曖昧なんです.
だから,一般名詞が指し示すものは実在するとは言えないようである,これが今日の結論です.

さらにこの曖昧さが,「言語」の特徴のひとつでもあるのですね.
それは,言語が意図的,計画的に作られたものではなく,極めて自然発生的に成立した,ただの共通了解でしかない,ということを意味します.

今回は「犬」に登場願って,一般名詞が指し示すものが,本当は実在しないということを示してみました.
次回はきっと,固有名詞で示される「私」すら実在しないのではないかということを考えてみるのではないかと思っています.

「私」ってなに?

呑気呆恬

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宇宙の果ては? 2002年11月13日 (水)

   朝日に映えて薄紅色に染まる富士山===>
 
「宇宙には果てがあるのだろうか?もしもあるとすればその先には何があるのか」「その先も宇宙さ」「じゃ,さらにその先は?」
子供の頃,よく考えた問題ですね.でも答えが出ないまま「判らないからもういいや」と放置してきたのではないでしょうか.

これは集合と名前(命名,分類)の問題が絡んでいます.

今の私たち人類にとって,「宇宙」とは実空間のすべてを指す言葉です.すなわち集合として考えれば全体集合,母集団と呼ばれるものに相当し,無限大の大きさを持ちます.この時点で「宇宙」には果てがないという答えが決まってしまうのですが,なぜかしっくりこない.人間の感覚にとって「無限」というのは受け入れにくいのですね(後述).

そこで,人間にとって物に名前をつける,命名ということが問題になってきます.物に名前をつけるという行為は,その名前で指定されるものをそれ以外の存在と区別する,境界線を決めて切り分けるということなんです.日本というとき,地理的な意味では国際協定によって国土の境界線を取り決め,それを境に内側を指すわけですね.地球という面積から,日本という部分を切り分けて名前をつけたのです.
だから,ものに名前をつけたときには必ずそれを含む内側とそれ以外の全体部分とに分けることができるのです.名前をつけるという行為自体が境界線を決めて世界からそれを切り分けるという行為なのです.従って,通常名前を持つものにはすべて境界があり,境界があるということはそれ以外の部分,すなわちその先が存在するのです.

さて,「宇宙」という言葉についてはどうでしょうか?最初にも書いたように「宇宙」というのは全体集合を指す言葉です.全体集合に名前をつけるということは本来命名という行為と相容れないのです.ここに矛盾が存在します.漠然と名前をつけてしまったのは良いが,実は境界線が決まっていません.だから「宇宙の果て」は存在するの?ときかれると答えがないのです.当然その先になにがあるのかは言えません.
例えば「銀河系宇宙」という言いかたをするときは,あの誰かが見てきたような渦巻きの塊の部分を,それ以外の星や星雲を含む暗黒の宇宙全体から切り分けて,自分が住んでいる地球や太陽系が含まれている側の部位を指すんだなと納得しているのです.だから「銀河系宇宙」には果てがあり,その先は「銀河系外宇宙」あるいは「そと宇宙」などと呼ぶことができるのです.
単純に「宇宙」といったときは境界が決められていないので,「宇宙には果てがない」と答えるのが正解ですね.

人間の普通の(ナイーブな)感覚にとって,「果てがない」という状態は受け入れることが難しいのです.数学者の頭の中でしか存在できない状態だと思います.なぜなら人間が住んでいる世界では,自分自身を含め存在するすべてのものがとりあえず境界をもち,個別の物体として存在しているのです.無限大というのは自分自身も,自分以外の世界もすべてをごっちゃにまとめてしまった状態を指すのですから,境界を持って個別の存在としての意識を持っている自分にとっては受け入れがたい概念なんですね.だから「果てがない」という答えも嫌なんでしょう.

さて,なんだかパラドックスの謎解きのようになりましたが,実はこの問題はとても重要な意味を含んでいます.人が何気なく物の名前を呼ぶとき,いつも実は世界から部分集合を切り分けるという操作をしているのです.これが言葉あるいは言語のもつ重要な意味なのです.逆に言えば,物に名前をつけることによって,その物の存在を引き起こしているともいえます.名前がないとものは存在していないということなんです.この点はとてもややこしいので,後日ゆっくりと解説します.
もうひとつの重要な問題点は,そうした状況にもかかわらず,物に命名するときの境界線が実は極めてあいまいだということです.きちんと境界線を決めてから名前をつけるのは科学の世界だけだと思います.我々が「犬」と呼ぶときなにをもって「犬」としているのかは結構人それぞれ異なります.それでも大まかには成り立っていて日常生活にはさほど困ることはありません.
それが言葉の持つ別の側面であり,このことが人生に大きな影響を与えていることも別項にしたいと思います.

とりあえず今日は「宇宙」に登場してもらって,イントロダクションとします.

呑気呆恬

PS.書きなぐりでほとんど校正もしていませんが,まっ「日記」だから許してくださいね.

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 Warning  2002年1月1日 (火)
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