呑気呆恬 呑気呆恬の死前公開遺書

呑気呆恬の死前公開遺書 

呑気呆恬は死ぬ前、生きているうちに、自分が死んだ後、 または死にかけて
自分の意思を表明できないときのために、「死前公開遺書」を書くことにしました
人知れず独りで勝手に書いていても、死ぬ時に周りの人が知っていてくれないと
役に立たないので、インターネット上で公開しておくことにしました
もちろん、法的実効性のある遺書は、正式な書式とか弁護士や司法書士の手続きなどが
必要ですが、一番大切なことは自分の周りのできるだけ大勢の人達が
私の考え方、生き方死に方を知っていてくれることだと思います(真面目です)

(2004年8月4日開始、2004年10月3日最終更新)  HP TopPageへ戻る  CLOSE

6.通夜

今どきは、人が死んで葬式だというと、みんな告別式でなく通夜に行きたがる。
その理由は、告別式は日中の仕事時間だし、長くて大変だ。
通夜なら仕事が終わってからさっと行って、焼香だけして帰ってくれば簡単だからいい。
という理由なんです。

私はこれが一番腹立たしい。
行きたくないなら行くなよ!
義理で行くくらいなら電報と香典だけで充分だ。
本来、通夜というのは字のごとく、夜通し故人の前にいて、生前のあれこれを語り合い、
偲んで過すためのものなんです。
だから、お酒や食事が出るのです。
客をもてなすために出すのではありません。
私は、母の葬儀の時、蝋燭の火の番ということで、まさに棺桶の前で毛布に包まり、
生前を偲んで徹夜しました。
だから本当は、ごくごく親しい友人と親族だけで執り行うべきものなのです。

ということで、たとえ葬儀をするにしても、義理通夜だけは断ってもらいたい。
本気で来てくれた人には、存分にお酒を振舞って、わいわいがやがや、呑んだくれていただきたいな。

   呑気呆恬(2004年10月3日記)

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5.死に場所

自分が病気で死ぬのか、事故で死ぬのか、はたまた行方不明になっていつの間にか死んでしまうのか、
それはそのときまで判らない。
ただ、癌のようなある程度長期療養の末死んで行くようなことであれば、ぜひとも自分の家で
最後を迎えたいですね。
残る家族にとっては、病院でベッドから墓場までセットされたコースに乗せておくのが一番楽だ
というのは判るが、まっ、最後くらいはわがまま言ってもいいだろう。
できるだけの我慢はして、できるだけさっさとバイバイし、みんなに迷惑をかけないようにするから、
家族と一緒がいいなー。
そりゃー、若くて美人の看護婦さん(今は看護師なんだけど、女性の場合はやはり看護婦さんだね)
に世話をしてもらえりゃ寿命も延びるかもしれないが、みんな忙しい上、年寄りになっちゃー
ろくに相手にしてもらえないだろう。
期待が裏切られるだけ、かえってつまんないかもしれないからね。

   呑気呆恬(2004年10月3日記)

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4.リビングウイル

「死の権利」国際会議というものがあるそうだ(下記参照)。
「安楽死や尊厳死の権利確立を目指す」ことが(も?)主旨だそうだ。

うん、確かにそうなんだけど、やっぱりちょっと違う気もする・・・。
言葉尻を捉えたような意見になりそうだが、この違和感というか、自分の考えをを明確にしておきたい。

リビングウイル」という社会システムがあります。
これは、「日本尊厳死協会」の説明によると、『自分が不治の病になったとき
そして末期になったとき、無意味な延命措置を断り、安らかな自然死を迎えたい、
「尊厳ある死」を自分で決定したい
』ということなのだそうです。
で、具体的には
1)今の医学では治せない状態になって死期が迫ってきたとき、いたずらに延命措置をしない。
2)私の苦痛を和らげるための医療は最大限におねがいします。
3)数カ月以上植物状態に陥って、回復の望みがないとき、いっさいの生命維持装置をやめる。
という内容が書かれています。

これは終末期医療に関する希望を、自分の意識がなくなる前に明らかにしておこうというものです。
こういう希望を表明しておかなければならないという医療状況(医師法)に問題があることを意味します。
すなわち、いったん人工呼吸器をつけてしまうと、脳死判定が下るまでは容易にスイッチを
切ることができない、延命し続けなければならない、状況に関わりなくうかつに止めると
殺人罪が適用されてしまう、という現状なのです。
気道挿管をする時には、おそらく緊急事態だからということでしょうが、本人の意思を確認する
わけでもなく勝手に処置されてしまうのに、いったん挿入されると外せない。
法律により、医療の方が患者の意思よりも強い立場におかれている、そういう状況に対する
抵抗を意味するのでしょうね。
そういう意味では、「リビングウイル」という考え方も判るのですが、
本来は「当たり前のこと」でわざわざ意思表示しなくても良いことだと思います。

ただし、2)の「苦痛を取除いて欲しい」というのは、「ううーーーん」どうしようか、
と考えてしまいますね。
だって、「自然死」を望むなら、死の苦痛だって受け入れるべきなのではないかと、
苦痛未経験者の私は、思うのですが・・・
それとも、苦痛にのたうちまわると、「尊厳ある死」でなくなるというのでしょうか?

社会ニュース - 9月30日(木)9時15分
「死の権利」国際会議開幕 延命拒否の意思主題に
安楽死や尊厳死の権利確立を目指す各国の団体でつくる「死の権利協会世界連合」の国際会議が
30日、4日間の日程で東京で始まった。
 会議は1976年に東京で始まって以来、2年ごとに開かれており今回で15回目。
無理な延命治療はしないよう、あらかじめ書面で意思表示しておく「リビングウイル」を
中心テーマに議論する。
 医療の進歩で延命や緩和など終末期医療の選択肢が増えた結果、自分の死にざまは自分で
決定したいという考えが各国で広がっている。現在、世界連合には日本を含む23カ国の
38団体が加盟している。
 10月1日と2日に公開で行われる分科会では、世界各国のリビングウイルをめぐる活動状況を紹介。
無理な延命治療を断り安らかな死を望む尊厳死も、議員連盟が結成されるなど国内で動きが見られて
おり、法制化について意見が交わされる。
(共同通信) - 9月30日9時15分更新

   呑気呆恬(2004年9月30日記)

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3.脳死問題

「死」とは何?
「生」と「死」は対立した概念ではない。
「生」は「誕生」と「死」によって区切られた「期間」であるのに対し、「誕生」と「死」は瞬間である。
「生きている状態」はあるが、「死んだ状態」というものは存在しない。
生きていた人間(生物)が、「死」の瞬間を越えると途端にその人(生物)の生物学的存在は消滅する
(他人が持つ想いは残り続けるかも知れないが、その人の生物学的生命とは無関係である)。
それは単に「無」であって、「生まれる前の状態」と同じである。

この様に考えると、「脳死状態」というものがたいへん不思議な存在に思える。
「体は生きているけれど脳だけは死んだ状態」という事か。

「体(あるいはその一部分)は生きている」だから臓器移殖に使えるわけで、
実際には、「臓器移殖に使うため」に、体(あるいはその一部分)が生きている間に「死」を宣告
しなければならなくなり、「脳死」という微妙な判定規準を設けなければならなくなったのです。

「脳死」とは、「臓器移殖」が目的で使り出された「死」の規準であり、「死」そのものを判定する
のであれば、昔から安心して使われていた、絶対的に再生不可能状態である「心臓死」を使えば
何の問題も起らない。
昔は、さらに万全を期して、「通夜」の間一晩中観察して甦らないことを確認したのだと思います
(勿論それは死者とのお別れの期間でもあったのですが、「もう、決して起き上がってこない」
ことを納得することでもあるのです)。

従って、「脳死」云々を考察するに当たっては、何故「臓器移殖」が必要なのかという問題を
考えなければならない。

ということで、私は脳死患者からの臓器移植を受けるなんてことは「人肉食」と同じことと思うので、
自分自身はまったくされたくはない。
同様に、自分がたとえ脳死状態になったとしてもそれは本当の「死」とは認めないので、
自分の臓器を他人に提供するつもりはまったくないことを、ここに表明する。

   呑気呆恬(2004年9月21日記)

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2.救命治療

通常、人が死ぬときには、旅行のように「んじゃ行ってくるね」などと挨拶を交わせることは
稀有である。病気で死ぬ場合でも、最初は軽症で気軽に考えているうちに次第に重症になり、
いつの間にか書いたり話したりできなくなって死んでいくのだろうし、事故などでは、ほとんど
意思表明なんかできないだろう。

そこで問題になるのが救命医療である。自分の死体を他人に臓器提供するかどうかということも
大事であるが、それよりも自分に対する救命医療をどこまで受け入れるかをはっきりさせておきたい。
簡単にいえば、チューブにつながれた植物状態で行き続けるなんて真っ平だ、ということだ。

ところが、注意しなければならないのは、現代医療は成り行きで植物化するようにできている
ということだ。医療の役割は、「命を救う」という大義名分が掲げられているが、実態は「殺さない」
ということだけに集中している。「死なない」ことと「生きている」ということは決して等価ではない。
意思があるのかないのか、意思疎通ができないだけなのか、そういったことは一切抜きにして、とにかく 心臓が脈打ち、脳波が記録でき、瞳孔反射があればよい、と思っている医者がほとんどである。
いや失礼、医療システムがいつの間にかそういう、非人間的な生命の基準を作り上げてしまったのだ。
なぜそういう基準ができてしまったかについては後日検討することにするが、何らかの目的に従って
いったんシステムが出来上がると、今度はそれに縛られてしまう。そして、意味のない延命措置が
まかり通り、今では人工呼吸器のスイッチを切ることが「殺人」として犯罪になる、
たとえ97歳の老人であっても、だ。

私は、そうはなりたくない。死ぬるときには素直に死にましょう。その代わりそれまでは
悔いのない生き方をまっとうしたい。
そう、ケジメある良い死に方が、幸せな生き方の締めくくりになるのです。

というわけで、基本的に「延命のみを目的とした医療」は一切受けたくない。
といっても、もともと「延命のみを目的とした治療」はないわけで、様々な治療の
最終段階において、いつの間にか完全な回復の見込みがない状態に陥って、「延命のための医療」
が施されているのだ。

たいへん難しいことではあるだろうが、できるだけ早い、泥沼に陥らない時点で見切りをつけて
いただきたい。

私は決して文句は言いません。

   呑気呆恬(2004年8月22日記)

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1.葬儀と墓

何といっても、人が死んだらまず最初に遺族が苦労するのは「葬儀」である。
私個人としては、一切の葬儀も墓も、関連業者を肥やすだけで、死にゆく自分自身にとって
はまったく無駄で、残る遺族にとってはまったく迷惑なものだと考えるので、
葬儀も墓も一切不要である。

ただし、反面、葬儀にしても墓にしても、こういった冠婚葬祭というものは
本人のためにするのではなく(冠婚は?)、周りの者、遺った遺族、親族のためという意味も
あるので、私が「絶対に葬式をするな」とか「マッターホルンの山頂に散骨してくれ」
などと我儘な遺言を残したりすると、却ってみんなが迷惑してしまうことになる。

私は、あくまでも「する必要はない」というだけで、どうしても何か常識的なことをしないと
社会的に後ろ指を差されるとか、余計に金が掛かってしまうなどということであれば、
できるだけ無駄にならない範囲で好きにしてもらって結構です。

なにしろ、どうせ死んでしまった(生きている現在だから、時称がややこしい)私なんだから、
なにも文句も言えないし、何をやっているのかさえ知る由もないわけで、まっ、くれぐれも
無駄使いだけはせず、生き残っている人のために有意義にお金を使ってもらいたい、
というのが主旨である。

   呑気呆恬(2004年8月22日記)

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はじめに

死んだ後のことを「死後」という。
では死ぬ前のことは何というのか?
「生前」というだろうか?

辞書によると、「生前」は「その人の生きていた時」のことだそうです。
とすると、生きている人に対して「生前」という言葉は使えませんね。
生きている人が死ぬ前に何かをしておきたい、というときに「生きている間」をさす言葉はないのだろうか?
「死後」に対応する言葉として、意味的には「死前」または「生中」が最適なんだけど、言葉としては認知されていない。
「在世」という言葉もあるけれど、辞書を調べるとやっぱり「故人が生きていた間(のこと)」だそうな。
死ぬ前の、生きている「今」なんだけど、「今」には「死ぬまでの」という意味は特別強調されていなくて、死んじゃっても「今」は今なんですね。
「葬儀を自分で予約する時代がやってきた」と、葬儀屋も顧客拡大のために生きている人間にまで手を出し始め、「生前予約」なんて売り出しているけれど、それって他に適切な言葉がない、ということなんでしょうね。
私は「死前」が自然だと思うけれど(しゃれ?)、一般の日本人は「死」という言葉を使うだけで「縁起が悪い」と忌み嫌うのだから、やっぱり「生前」になってしまうのだろうな。

よし、私は正しく、正確に「死前」を使うことにしよう。

しかし待て、本来、遺書とか遺言というものは生きているうちにしか書けない物なんだから、「死前遺書」というのもどこか気持ちが悪い。
「遺書」は生きているうちに人知れず書き遺しておいて、死んでから内容を公開するのが一般的だとすると、この違和感も何となく判る。
少なくとも、生きているうちに書いて、死後に効力を発揮するのが「遺書」ということか。
ならば、私は「死前公開遺書」と名づけよう。
自分が死んだ後はこうしてほしいという希望を、生きている間にできるだけ多くの知人友人親族に知ってもらって、「発つ鳥跡を濁さず、騒がせず」平和に消滅していく方法が「死前公開遺書」だ!

というわけで、またしても新しいコーナーを始めてしまった。
まっ、これがこのHPの本来の目的のひとつであるのだから、許していただこう。

なお、この「死前公開遺書」は、どなたが真似ていただいてもかまいません。
世の中平和になるためなら、何でもしましょうね。

というわけで、「呑気呆恬の死前公開遺書」のイントロダクションは、ただの漫談でした。

   呑気呆恬(2004年8月4日記)

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 Warning  2004年8月4日 (水)

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