のの心の広場

 

性倫理に関するコラム

 

  同性結婚を認めるかどうか

 

性倫理を語るのは非常に難しいように思います。しかし、見た目が、一見、同性同士である恋愛は公の場では認めないというのが僕の立場です。

 

その理由として、

1.日本では同性同士の結婚は認められていない。
2.公的に良いとすれば、社会的インパクトが強すぎる。

この 2 点があげられます。


聖書でいうならば、 例えば、 男性仮性半陰陽※ のような、一見、同性同士の恋愛をどのように解釈していけば良いのか解りかねます。
しかし、確実な同性同士の結婚は認められないというのが、僕の見解です。ジェンダー理解で参考になるように思うので、以下の論文を抜粋させて頂きます。

※  [ 性器は精巣のみであり,表現型は 46,XY である。外性器は通常,性の区別がし難いが,これにはばらつきがあり,完全な形の睾丸性女性化症候群(アンドロゲン非感受性症候群)では女性表現型がみられる。病因は複雑であるが,一般には,アンドロゲン産生量の不足,アンドロゲンに対する不十分な反応,ミュラー管の遺残などに原因がある。 ]

 

「ひとくちに「性」といっても、その意味は多義的である。私たちが「性差」ということでまっさきに思い浮かべるのは、男女の身体上の違いのことだ。生物学者や医師や心理学者は、身体性の様態としての性を「セックス」( sex )と呼ぶ。この意味でのセックスについては、3つのレベルでこれを問題にすることができるだろう。

第一に、染色体のレベルにおける性がある。染色体はすべての細胞の核の中にあって、細胞が分裂するときに姿を現すが、人間ではふつう四十六個、23対の染色体があり、互いに対をなす22個の染色体(これを「常染色体」という)と二個の性染色体( X ないし Y )で構成される。

性染色体が XX 型ならこの個体は女性であり、 XY 型なら男性である。しかし事実はもっと複雑で、 XO という型をもつ女性もいるし( O は染色体の欠如をあらわす)、 XYY という型の男性もいる。染色体レベルにおける性の変異がいかに多様であることを忘れないようにしよう。

 次に、セックスの第二のレベル、すなわち性腺や生殖器によって規定される性がある。つまり、女は卵巣が発達し子宮や膣をそなえ、男は精巣が発達し前立腺やペニスをそなえるといった、生物学的違いのことである。こうした性差とホルモンの働きのせいで、男だけが射精し妊娠させることができ、女だけが妊娠し、月経、授乳といった機能をいとなむことが可能となる。

 さて、人間以外の動物では、セックスの差異が身体の大きさ、形態、移動率、利他行動、攻撃性などの面でさまざまな違いをもたらすことが観察されている。

こうした違いを「性的二型」という。これがセックスの第三のレベルである。人間にも性差に基づく性的二型があるのだろうか。からだつきの特徴といえば、男性のほうが概して身長が大きく、胴が短く、身長の割に胸囲が大きく脚が長い。女性は身長では小さめで、胴長で腰幅が大きい。骨格、筋肉、皮膚、毛髪、血液などの指標で比較してもやはり性差が認められる。
生理的機能(呼吸、代謝など)、体力や運動能力などの面でもやはり性による差が明らかである。このかぎりで、人間に身体的な性的二型があることは否定できない。かなりの数のスポーツ種目が男女別で競われるのはこの事実を考慮したためである。」

菅野盾樹『人間学とは何か』(産業図書)

 

 中絶は聖書的に良いのか

 

結論からいえば、僕は 基本的に 中絶に賛同出来ないという立場です。

しかし、中絶に関しても難しい問題があるのではないかと僕は思っています。どうしても夫の精子の数が少なく、子供が出来にくいなどの理由で、試験管赤ちゃん(体外受精)などの手法を使ったりするようです。その際、いくつかの受精卵を作り、その受精卵を母親の体内にいくつか戻し、やがて順調に育ってきたら、1つ以外は、全部排除するようです。また、誘発剤を使用するケースでは、 5 つ子6つ子など出来やすく、経済的負担などを理由に、いくつかの卵を排除する方もいるそうです。

中絶して苦しむ方、自分の本当の子供が出来なくて苦しむ方がいます。聖書的に言えば、生まれてきた生命には必ず意味があるのです。しかし、簡単に良い悪いといえる問題ではないように僕には思えます。なるべく、中絶を避ける方法を、クリスチャンとして、僕個人の意見としては、模索したいものです。

 

 婚前交渉をどのように捉えるか

 

僕は、手を繋ぐ以外は止めておいたほうがよいという立場です。

とはいっても、個人感情として、絶対によくないと僕が言いきりたいのは、最後の一線を越えることだけであるということです。最後の一線は、男性と女性の聖餐であるという聖書理解に僕は立っているのです。おそらく牧師の方々は、僕のこの個人感情は「甘い!!」と思われるかもしれません。

 

しかし、あえて僕は、この個人感情にいたった理由を、此処で論じたいと思います。

 

僕の神学校時代、ユースカウンセリングのクリスチャンの婚前交渉問題に関する学びの中で、非常に考えさせられました。

カナダの神学校の多くは「ブライダルカレッジ」という別名がひそかについている程です。どういう意味かといえば、「結婚相手探しの大学」という意味です。多くのクリスチャンが神学を学べる場所であると同時に、クリスチャンの結婚相手を探す場であるということです。そして、カナダのクリスチャンの結婚平均年齢が、22〜23歳であるのに対し、ノンクリスチャンの結婚平均年齢は、27〜28歳ぐらいなのです。また、カナダでの離婚は、クリスチャン家庭のほうがノンクリスチャン家庭よりも若干多いらしいのです。

また、クリスチャン家庭の約 25 %が、子供に対する虐待を行っているデーターが、カナダクリスチャンカウンセリングアソシエーションでは報告されています。(一般家庭では、どれくらいの割合かは解りませんが。)

何故、このような結果が生まれているのでしょうか?

ある教授は、抑圧された性願望が、早期結婚をクリスチャンの若者に促し、まだ精神的、経済的未成熟なうちに結婚をするため、問題もかなり大きいという指摘をしています。

このことは非常に興味深いことのように僕には思えるのです。聖書の時代では、大体 10 代後半には結婚するのが一般的だったらしいのですが、現在の社会状況では、 20 代後半に結婚するのが一般的です。そうでなければ、経済的、精神的にかなり厳しい状況である今現在の世の中なのです。しかも、皮肉な事に、女性や男性の体の発育は、現在社会は昔よりも早まっています。

 

性願望が発生してから結婚するまでの時間ギャップは、聖書時代であればほんの数年だったものが、現在では十年以上になっているのです。これは、現在の若者クリスチャンには非常に過酷であるといえます。

現に、神学校時代、若者クリスチャンの集まりで、性に関する本音の話し合いの場を持った時、一線を越えていないものの、(越えてしまっている人々もいましたが)やはりある程度のスキンシップを持ってしまい、罪悪感に悩まされ、「教会では絶対に言えない!!」という若者が多くいました。

 

しかし、僕の個人感情がどうであれ、できるものであれば、やはり手を繋ぐ以外は止めておいたた方が良いと思っています。柿谷先生のコラムが参考になるように思うので、以下に抜粋させて頂きます。

自制 ( コントロール ) の必要性
夫婦の性関係について、「熱があって私 ( 妻 ) の具合が悪くても、夫は性関係を求めてくるのです」というような訴えを妻の側から聞くこともあります。性関係がなくても困るし、こんなあり方でも困ります。これは自制 ( コントロール ) の問題です。未婚であれ、既婚であれ、性欲のコントロールができないまま、幸せになることは難しいことです。

 

 信頼という問題

仮にナンパされて、その日のうちに肉体関係を持ったとします。相手は自分を信頼してくれるかどうか。また、相手は信頼できるかどうか。ある調査では、相手を信頼できない、とはっきり答えが出ています。好きだからと言ってすぐに性関係にまで進展するお互いは、お互いを信頼できないという問題を一生かかえることになるようです。ある男性は、結婚式を数カ月後に控えた状況で、彼女に複数の男性関係があったことを知りました。信頼が揺らぐとしても当然です。この人と結婚すると決めていても、相手が破談させるかもしれません。壊れる婚約は半数にものぼると言われています。

  聖書では男女のセックスについて、「寝る」という言葉と「知る」という言葉が使われています。
夫婦関係では「知る」で、結婚の絆なしの性関係は「寝る」が使われています。デズモンド・モリスは 12 の触れ合いについて述べています。

@ 目から体、 A 目から目、 B 声から声、 C 手から手、 D 手から肩、 E 手から腰、 F 顔から顔、 G 手から髪、 H 手から体、 I 口から胸、 J 手から下半身、 K 性器から性器。最後の 3 段階 ( I から K ) は通常夫婦間のみの触れ合いです。

@ から H までのどの段階が交際中に適切かは、二人の問題です。
@ はあの人ステキだな、と一方的なもので、 A になってはじめて相手も反応して、 B で二人は話し合うことになります。交際の開始と見てよいでしょう。
B から H の間のどこまでが適切かは、二人のコミットメント ( 決断 ) のレベルにもよるでしょう。コミットメントのレベルが相違していると、どんな段階の触れ合いにも問題が起こります。注意したいのは、 D まで行った人は次に会ったときには D まで進みたいし、できれば D を越えたいと思うことです。
E まで行った人が B だけで満足することは困難になります。いつも触れ合いを深めたいという誘惑があるからです。自制の大切さがここにあります。若い人たちと関わっていて思うことは、 K は避けようと思っていても、 I まで進んで後戻りができなくなって、とうとう K まで進んでしまったということがあることです。

 

自分は大丈夫と思っている人は危ない。自分は危ないと思っている人はもっと危ないと言えるでしょう。この領域で絶対に大丈夫な人はだれもいません。」
        柿谷正期先生のM係ホームページの「幸せをもたらす性の倫理

 

僕が思うことは、婚前交渉問題を考える時、正論は勿論大切ですが、婚前交渉をしたくなる若者の立場に立ち、若者の気持ち理解をする心掛けも非常に大切なのではないでしょうか。その手始めとして、まずは日本の若者の婚前交渉の実態を知るためにも、日本の教会も、クリスチャン結婚平均年齢と、一般結婚平均年齢の比較、クリスチャン家族の離婚率と、一般家庭の離婚率、クリスチャン家庭での後天性心的障害率と、一般家庭での後天性心的障害率などを調査するとよいのかもしれません。現状がどういう状況なのかが、客観的に見えてくることと思います。

 

カナダでは、僕が勉強していた学校のユースカウンセリングを教えていた教授が言うには、「婚前交渉における問題が明確に聖書から説明出来て、現代若者クリスチャンの 性的 悩みが解消 され、 主観的、客観的 に明確に神の前において性に清く生きられるような指導方法が見つかれば、あなたは博士号が取れる。」とのことでした。

まず、人間業では難しいというのが、僕の正直な感想です。

 

 

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