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編集後記

2005年05月18日

瀋陽薬科大学で野呂先生から最後に日本語を教わった68期生の王旭君の中国語の文章を、同じ68期生の王毅楠君が日本語にして、それを山形貞子さんが少し修正した。

野呂先生のよく眺めておられたスミレは早春に咲きだして、まだ植え込みの下で咲いている。

2005年04月18日

瀋陽薬科大学で野呂先生から最後に日本語を教わった68期生の学生である劉楊くんから投稿があった。これは第9回瀋陽日本語弁論大会の応募原稿として書かれ、最終審査に出ることが決まっていた41作品の中のひとつであった。

4月17日予定の最終審査会が突然前日になって中止された。

4月18日に山形達也の教えている分子生物学の講義のときにこの事情を知って、受講している劉楊くんに、受講者87名の前で話をしてもらった。とてもよい話だった。涙をぬぐっている学生も多かった。

2005年04月01日

瀋陽薬科大学で野呂先生に日本語を教わった学生諸君から投稿があった。そのひとつの陳 巍さんの「煙草に火を点けましょう」(原文は中国語)を胡丹くんが日本語にし、それを山形貞子さんが日本語の詩らしく修正した。

2005年03月09日

大阪大学の修士課程を終わろうとしている王静さんから山形宛にメールがあった。このホームページに載せることを意図していないメールだったけれど、写真も添付されていたので、ここに載せることにした。王静さんが野呂先生の想い出の記をきちんと書くまでのつなぎと思って欲しい。

2005年03月08日

今井啓子さんからメイルがあった。2月13日に野呂先生を偲ぶ会を主催したあと、過労と精神的ストレスで体調を崩して仕舞われたとのことだった。

戴いたメイルにはこのようなことが書いてあった。

妹が死去いたしました当時ケニアサイカにおられた杉村辰郎氏が妹に残した荷物を宝塚の自宅へ持ってきてくださいましたので当時の事情をお聞きしましたところ、彼はその当時スラムの学校で泊まっていて妹のいたサイカの家にはいなかったとのこと(カマウ氏の証言では、夕方5時から翌日9時まではサイカでエミさんと二人寝泊りする体制をとっていたとのことですが)、妹の死去したときの具体的状況を聞き出すことは出来ませんでした。

 妹を偲ぶ会は2月13日宝塚ホテルで総数61名で開かれ、貴志先生、川西先生、川村先生、窪田先生ご夫妻と留学生8名が参加してくださいました。ところがその翌朝今度は私が過労で倒れてしまいました。

 これは今井が病気療養中のため、偲ぶ会へも参加できず私が一人で全ての準備をせざるをえなかった肉体的な疲労によるのですが、より根本的には私自身の内部矛盾に起因すると思われます。

 カマウ氏 杉村氏 エミさんを傷つけたくない、法的処置をとりたくないという思いと、真実を知りたいという欲求そしてどうしようもない無念さと怒りが私に内部でせめぎあい、その力が自分自身を破壊する方向へ向かったのだと思われます。

 当分の間静養に専念するつもりです。】

野呂先生の亡くなったときの状況は曖昧であり、私たちですら彼女の死に無念と怒りを抑えようがない。

しかし、野呂先生の死は大局的に見れば、自分のやりたいことに自分を懸けて飛び込み、そして現場でなくなったのだからもって瞑すべし、と思うしかいらだちを鎮めるようがない。

2005年03月07日

野呂先生の姉上の今井啓子さんが日本の宝塚に住んでいらっしゃって、2月13日に宝塚で野呂先生を偲ぶ会が開かれた。この会には五十数名の参加者があったと言うことで、参加した貴志先生、教え子の65期の薛蓮さんと朱性宇くん、66期の沈慧蓮さんからそれぞれ写真が送られてきた。

貴志先生からは文章も送られてきて、それを写真とともに「野呂先生の想い出」のところに載せた。

2005年02月12日

貴志先生から野呂先生の想い出2の原稿が届いた

野呂先生の日本における追悼会は、明日2月13日神戸で開かれる。貴志先生、川西先生、窪田先生、川村先生が出席されるとのことである。

2005年01月28日

客員教授を長くやっておいでの貴志先生から原稿が届いた。写真付きで、一部は最上先生から届いた写真と重複するがそのまま載せた。

2005年01月20日

胡丹くん経由で64期の先さんの原稿が届いたが、先さんのフルネームがわからない。

2005年01月11日

2000年〜2001年に瀋陽薬科大学で日本語を教えた最上久美子先生から追悼文(その一)が送られてきた。

1月10日のアクセス数は、16だった。

2005年01月10日

2000年〜2001年に瀋陽薬科大学で3年生になった65期1班の日本語の先生だった最上久美子先生から写真が送られてきて、これをアップロードした。この時期は、野呂先生が65期2班の担当で、薬科大学には二人の日本語教師が在籍していた。

2005年01月10日

2005年1月になってからの、このサイトへのアクセス数。

1日:
2日:
3日:18
4日:
5日:12
6日:21
7日:21
8日:21
9日:11

2005年01月09日

野呂先生の教え子ではないけれど隣のクラスだった65期の薛蓮さんと、66期の沈慧蓮さんから野呂先生の追悼文が届いた。

2005年01月05日

野呂先生の姉上の今井さんから、野呂先生が友人に宛てた手紙のコピーが送られてきた。恐らくこれが野呂先生の最後の手紙だろうと思われる。内容からは、野呂先生はケニアを近いうちに去るつもりだったらしいことが読み取れる。

実に無念である。

山形達也が「想い出」に書いた三番目の文章はそこから移して、「ケニアの野呂先生」と題して独立させた。ケニアの野呂先生の様子を伝えるものはこれしかないからである。

2005年01月03日

65期日語2班出身(現在・山形研究室・修士2年生)の胡丹くんから追悼文のその一が届いたので収録した。

年末、野呂先生の実姉である上海在住の今井啓子さんから野呂先生の略歴が届いた。

「妹の経歴、細かい年月を調べてお答えしようと思ったのですが、重要ではないと考え、彼女の思想と活動に重点をおいて答えさせていただきます。」ということだった。略歴に収録した。

2004年12月30日

65期日語2班の出身で今慶応大学大学院に在学している朱性宇くんから追悼文が届いたので収録した。

朱くんからは、野呂先生のビデオもE-mailで届いた。目下編集中である。

2004年12月29日

アクセスする人が気軽に書けるように、掲示板を設置した。レス付きのかわいい掲示板がこのごろはやっているが、ここではふさわしくないと思い、いろいろ探したが、今の時期はたいていのところが年末休暇で申し込めない。それで今アクセスできるTeacupの無料掲示板に申し込んだ。

2004年12月28日

上海で開かれた追悼の会で預かったアフリカの写真19枚を載せた。アフリカの野呂先生の写真は2枚しかない。どうして他に写真がないのだろう。たった二枚の写真は11月18日のボランティアの一人のタクロウの誕生日の時に腕をふるっている野呂先生の写真である。彼らの話によれば翌日から野呂先生は食事もせず部屋に引きこもったままだったという。

カウンターを表紙につけた。日本語、および中国語の連絡先メールアドレスを載せた。

2004年12月25日

王麗さんから写真が3枚届いたので、載せた。

2004年12月23日

野呂先生が亡くなったという知らせを受けてから早くも4週間が経とうとしている。驚きと悲しみに心萎えた私たちも、野呂先生の死を現実のものと受け止めて、自分たちの日常の生を歩み続けている。

野呂先生は内に情熱を秘めた静かな、そして他人に対して心暖かな先生だった。薬科大学で教えを受けた学生にとっては、野呂先生は母のような存在だった。

私にとって瀋陽薬科大学でのお付き合いはわずか一年のものだったけれど、野呂先生は隣人として貴重な存在だった。亡くなっても、野呂先生の姿は私たちの心の中に生きている。想い出に生き続けるかぎり、野呂先生は消えないけれど、やがて悲しみが何時しか消えるように想い出も薄れていくだろう。

学生にとっては母だった、そして私たちにとっては貴重な隣人だった野呂先生の姿が消えていくことはつらい。出来るかぎり野呂先生の業績、足跡、写真を集め、かつ友人、学生達の記憶も集めて保存したいと、ホームページの作成を思い立った。 

先ずは手元の写真だけで始めるけれど、教え子達に連絡して資料が増えることを願っている。

(山形 達也)

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