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野呂章子先生の略歴

 

 

1938年7月6日 大阪市靱北通二丁目に生まれる

 

1954年4月大阪府立茨木高等学校入学

1957年3月同校卒業

父の書斎へ入り文学、歴史、哲学書及びマルクス・エンゲルス全集を乱読。

文学ではヘルマンヘッセとトルストイ、哲学ではバートランドラッセルを特に愛読。

歴史上の人物で江戸時代の高野長英の不屈の闘いに感動。

1959年4月京都学芸大学国文科入学

 中学時代から僻地の学校教師になる夢をかなえるため(現在、京都教育大学になっていると思います)

 在学中 日米安全保障条約、狭山差別裁判反対闘争に参加

(一方、日本舞踊山村流名取りとなる)

1963年3月同校卒業

 

1964年4月〜1967年3月大阪市立高倉中学校にて国語教師として勤務

 この時代に児童文学者と結婚するも、彼の思想性に疑問を感じ、後離婚。

 

1967年4月〜1981年3月高槻市立第四中学校にて国語教師として勤務

 この第四中学時代こそ彼女にとって最も重要な時代であった。

 被差別部落を校区に持つこの学校で彼女は差別を受ける子供達から決定的な影響を受ける。

 一見乱暴なツッパリたちの中に最も人間らしい美しい心を見出し、彼等こそ最も魅力的な人間であることに気付き、それまでの作家志願を捨てる。

 「この差別に苦しむ子供達こそ13才にして既に人間の何たるかを知っている。私などよりはるかに人間の本質を見抜く目をもっている。彼等によって私の人間認識の浅さ、甘さを痛撃された。いったい作家とは何であるのか」と。

 特にT君という教え子に深い感銘を受け「彼こそ私の師である」とよく話していた。

 彼は九州遠賀川流域の炭坑地帯に生まれ育った少年で(父は炭坑夫)、この地域

の炭坑夫たちの素朴で美しい魂、日本労働者階級の深部に尽きることなく存在する無垢の共同性を体現する義侠心に富んだ魅力的な少年であった。

 このように、世間知らずの若く未熟な一人の教師は被差別部落、そして在日朝鮮人の子供達に教えられ鍛えられ、ときに糾弾されながら重い現実と格闘することにより、ようやく一人前の教師に育てられていったのだと思われる。

その後高槻市立如是中学校へ転勤第四中学校、如是中学校時代を通じ狭山差別裁判、三里塚国際空港反対闘争に参加。

 三里塚,北富士の農民、そして佐世保(反基地闘争)の漁民たちの不屈の戦いの息吹に触れ限りなく勇気付けられる。

 「もし三里塚の闘いに参加しなかったら私は自殺したかもしれない」とよく話していた。

1981年4月〜1991年3月高槻市立如是中学校にて国語教師として勤務

同校を定年前に退職後、大阪の被差別部落に住み込み中学生の学習指導に当たる。

 1988年から姉夫婦が商社の北京駐在員として中国に在住していたので中国での教師を希望(もともと亡くなった父も妹も中国革命を熱烈支持)。

 

瀋陽の建築工程学院で日本語教師(1年間)。

2年後の1997年から2002年7月までと、次の1年間を除いて、2003年8月から2004年7月まで瀋陽薬科大学で日本語教師。

この地で中国人の優しさ暖かさに包まれて幸福な日々を過ごす。

 

2003年1月、2月、3月  日本でアメリカのイラク侵略戦争反対闘争に参加

 大阪のアメリカ領事館前で3日断食闘争,この間48日間断食をした浅田嘉一氏(カマウ氏)に感動し彼のケニアのスラムでの子供達の救援運動に参加する。

2004年

8月11日〜9月末 ケニア滞在。

9月末〜10月25日 スラムの子供達のために「マイリサバ子供の治療基金」を作るために帰国。

10月25日    再度ケニアへ。

11月4日〜10日 ウガンダへ。

11月26日    サイカにて死去。

 

(実姉である今井啓子さんによって書かれた年表による)

 

 

野呂章子先生の最後の手紙

ケニアの野呂章子先生

写真

想い出

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