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| 「彼ら」 野呂先生に捧げる一篇の詩 | 馬 博 | 瀋陽薬科大学薬学部5年 | 68期日語 | |||
| 師匠及び友人のように尊敬される野呂先生 | 郭俊嘉 | 東京工業大学大学院1年 | 65期日語2班 | |||
| 明日 | 王 旭 | 瀋陽薬科大学薬学部4年 | 68期日語1班 | |||
| 劉 楊 | 瀋陽薬科大学薬学部4年 | 68期日語1班 | ||||
| 煙草に火を点けましょう | 陳 巍 | 瀋陽薬科大学薬学部4年 | 68期日語1班 | |||
| よき先輩、よき同僚、よき友だちの野呂先生 | 最上久美子 | 元瀋陽薬科大学・日本語教師 | 友人 | |||
| 山形先生への返信 | 王 静 | 大阪大学大学院・蛋白質研究所 | 64期日語2班 | |||
| 野呂章子先生 (異境で死んだ日本人教師) |
貴志 豊和 | 瀋陽薬科大学・客員教授 | 友人 | |||
| 野呂章子先生の思い出(2) | 貴志 豊和 | 瀋陽薬科大学・客員教授 | 友人 | |||
| 野呂先生への思い | 先 宇飛 | 瀋陽薬科大学 | 64期日語2班 | |||
| 野呂章子先生の思い出(1) | 貴志 豊和 | 瀋陽薬科大学・客員教授 | 友人 | |||
| 天国への手紙 | 沈 慧蓮 | 京都大学大学院研究生 | 66期日語2班 | |||
| 野呂章子先生 | 薛 蓮 | 名古屋大学大学院農学研究科1年 | 65期日語1班 | |||
| 私と野呂先生の付き合い(第一) | 胡 丹 | 瀋陽薬科大学大学院製薬工程研究科2年 | 65期日語2班 | |||
| われわれの野呂先生(1) | 朱 性宇 | 慶応大学大学院生命理工学科1年 | 65期日語2班 | |||
| 野呂章子先生 その1 | 山形 達也 | 瀋陽薬科大学教授 | 友人 | |||
| 野呂章子先生 その2 | 山形 達也 | 瀋陽薬科大学教授 | 友人 | |||
馬 博(薬科大学68期生)
彼らが国際主義を嘲笑する時
あなたは氷のように凝り固まった民族主義が溶けて
世界が一家になれると何時も信じていた
彼らがもっとも説得力を持つのは武力だと言う時
あなたは愛を信じていた
彼らが貧困と落伍と病気の恐ろしさに目を背ける時
あなたはそれらに対して関心を持ち手助けしようと目を向けた
彼らはあなたが幾度も故郷を遠く離れることを驚くが
私はあなたの度重なる旅が離別ではなく
また戻るものであることを信じていた
夢は成長するに従ってだんだん消えると彼らは言うが
夢は成長するに従って翼を広げるのだとあなたは話して呉れた
彼らは自分のために凡庸を記念するだけの銅像を建てるが
あなたは大地に抱かれ大地に帰して偉大になる
彼らは凡庸なまま死んでいくが
あなたは平凡だけれど不朽だ
彼らはあなたの人生を遊技だと言うけれど
本当に人生に対してまっすぐに真剣に取り組んだのはあなただった
私は彼らに左右されることなく心を奮い立たせて人生の小道を進んでいこう
先生は単に路傍の道しるべではなく
野の花となって
私の成長に伴い芳香を私に呉れる野の花になったのだ
馬 博
王麗・山形貞子共訳
郭俊嘉(65期日語2班)
東京工業大学大学院1年
時間が矢の如く、私が野呂先生と出会った日から計算すると、もう五年経った。でも、出会いの場面を今でもはっきり覚えっている。先生が私に与える最初の印象は、背が低くて、帽子をかぶっている平凡な日本のお婆さんだった。この見た目で平凡なお婆さんは、私達のクラスの日本語先生だった。
大学の基礎日本語課程は授業時間が短いので、授業を早く進めなければならない。そこで、野呂先生はこの短い時間で基礎日本語の内容を全部で私達に教えるために、いろいろ苦労した。
春、夏、秋、冬を問わず、野呂先生は授業遅れが一度もなく、親切に日本語会話を教
えてくれて、休日も時々私達に日本語会話を練習するチャンスを与えるため、自分の家でお菓子を用意し、接待してくれた。従って、私達はよく先生のお宅に訪ね、日本語教科書にない日常の言葉表現も分かって、日本語レベルがどんどん上がってきた。
時間の流れに連れて、私達は野呂先生との関係は、師弟だけではなく、段々年齢のギャップを越えて、友人になった。自然が大好きの先生は、いつも旅行に戻った後、私達に旅行した時に撮った大自然の写真を見せながら、旅行の見聞を教えてくれた。
大学卒業した後、私は故郷に戻って、野呂先生と再会することは一度もなかったが、先生への思い出が今でも続いていく。最近、語学教師を体験していた私は、時々野呂先生の授業中の場面を浮かび、先生への思い出は一層に強くなっている。今から考えてみると、日本語国語教師としての仕事経験が三十年を超えた野呂先生が、いつも内容が充実して面白い授業を私達に提供するのは、けして簡単なことではないことがわかる。私達の日本語クラスの学生にとって、野呂先生と会えたのは、人生の中の一番幸せなことだと感じている。
そろそろ野呂先生の忌日を迎える。生徒としての敬意を表すため、この文章を作った。天国にいる野呂先生は、自分の学生がみんな元気で、社会で活躍していることを知って、うれしくて、安心するだろう。
2005年11月22日
王 旭(薬科大学68期生)
この一年実現できる明日があった。
先生の講義をしっかり聴いて、一生懸命予習をして、下らないパソコンゲームをやりに行かずに迎える明日。
先生が急いで教室にいらっしゃる姿を見るために、朝早く外に出て迎える明日。
先生から配られた作文を書き上げるために辞書を調べ、資料を集め、深夜まで書き続けて迎える明日。
先生を見送るために幸運にも空港に向かう車に乗って、先生の出発の後ろ姿を飛行場で見送ることのできる明日。
この一年やればできたのにやらなかった明日があった。
ゲームに溺れて授業をさぼってしまった明日。
目覚まし時計をならないようにしてしまったために朝寝坊をしてしまった明日。
勉強を怠けたために先生が配ってくださった作文が出せなかった明日。
座席が足りなかったので、だんだん遠ざかる車を見送るだけで、さようならの言葉さえ届かなかった明日。
実現できた明日は本当に懐かしいけれど、できなかった明日は永久に後悔するものになってしまった。自分の心を刺し続ける痛みとなってしまった。
望ましい明日に憧れているうちに先生は去ってしまった。
これは私の無知と傲慢への報いなのか?
それとも、愚かな怠慢に対する嘲笑なのか?
もし先生の明日を取り戻すことができるなら、私はすべてを捨てて悔い改めよう。でも、もうすべてが遅すぎるのだ。
野呂先生。
私たちはもう昨日とは違う今日を過ごしています。私たちは今も同じように競争する人生を生きています。そして先生は私を励ますために高いところから見守ってくださいます。
私たちにはもう同じ明日は持てないけれど、先生の足跡に従って先生が敷いて下さった天国への道を、私は友達と一緒に歩んでいくでしょう。
(王 毅楠・山形貞子 共訳)
劉 楊(68期 学生)
今日の雪は今年の冬になって一番多く降りました。僕は自習室の窓を通して綿のように空から舞い降りる無限の雪を見ています。何だか懐かしい気がして思わず野呂先生の笑顔が僕の前に浮かんできました。
野呂先生は僕の学校の中で神秘的な色彩に富んでいる先生だったということが出来ます。1996年から去年までずっとこの学校の日本語教師の仕事をしていらっしゃいました。一年上の先輩から聞いた話によると野呂先生は60歳代くらいで日本の大阪からいらっしゃった親切なお婆さんです。その上に何かの魔力があるようで、学生の中で一番人気がありました。その親切なお婆さんが僕たちの日本語の先生になりました。先生が僕に教えて下さった第一回の授業を今でも覚えています。
初めて先生を見たとき、中国の普通のお婆さんとの違いはないと思いました。普通のお婆さんと同様に頭には白髪があり、顔にはしわがいっぱいです。でも特に人を注目させたのは先生の何時も人に元気を与える笑顔です。先生は先ず仮名を教えて、それから基本の生活用語を勉強させました。その時僕は自分が言語を習う天分がないと思いました。文章を読むとき緊張しすぎて、簡単な単語も特に発音できませんでした。先生は根気よく何時も笑顔で、発音の間違いを指摘して、僕に何回も繰り返し読ませたものでした。その時は九月の中旬で残暑の厳しさのせいで豆のように大きな汗が先生の顔から一滴二滴と絶えずしたたり落ちるのがはっきり見えました。それを見ると心から何も言えない感激が湧き出て「先生の希望に絶対に背かないで日本語が上手になりたいものだ」という決心をしました。
ちなみに僕が身につけた最初の日本語の言葉は「もう一度話して下さい」というものでした。その後、僕たちは良く先生の部屋へ伺って先生が下さった美味しい食べ物を食べながら先生と日本語で自由に雑談しました。だから学生の中には「日本語が上手になりたければ野呂先生の部屋へ食べにいこう」という話がありました。
僕が一生忘れられない先生の話は次の話です。その日も、今日と同じように大きな雪が降っていました。先生と一緒に雪景色を鑑賞していたときのことでした。「きれいな雪ですね。先生。」「そうですね。劉さんは日本語の進歩が早いですね。」「おかげさまで、先生の励ましがなければ、そんなことはありえません。」「劉さん、次の一言を覚えて貰いたいです:やる気があればできないことはありません。」といいながら僕に微笑まれました。このとき、先生の笑顔とその言葉が僕の心に深く刻まれました。
その日以来、困難に遭ったとき、諦めたいとき、先生の話と笑顔がずっと僕を励ましています。去年の夏、先生はボランティアでケニアへ教育の支援に赴きました。不幸なことに、去年の11月先生は病気のためその国でなくなりました、僕にとってはこんな悲しいことはありません。今日はまた雪が降っています。そして先生と一緒に見た雪と同じように綺麗です。このとき、先生に一言聞きたいです「先生、天国でも雪が降っていますか?」
(これは、第9回瀋陽日本語弁論大会に提出されて最終審査に残りましたが、大会が中止されて口頭発表の機会がありませんでした。)
陳 巍(68期 学生)
煙草に火を点けましょう、
先生のために、私自身のために。
先生は煙草の煙の向こうにいらっしゃる、いつものように静かな微笑を浮かべて。
先生の一生はこの煙草の煙のように、静かで淡い。
先生の一生は天を動かし地を揺るがせるほどのことはなかった。
でも、周囲の人々、周りの物事に対して、黙々と静かで慈愛に満ちたものだった。
先生の一生はこの煙草の煙のように、率直で自由だった。
煙草を吸い、酒を飲んで、アメリカ帝国主義を批判した。
そして、アフリカに去ってしまった。
すべて、自分のやりたいことを貫いたのだ。
先生の一生は煙草の煙の彼方に霞んでしまった。
先生の子どものような微笑の向こうに隠された悲しみや、痛みを分かる人がいるだろうか。
そして、あのとき、すべての一切が消えてしまったのだ。
私たちの心の中に永遠の記憶を刻んで、崇高な魂の一つが天に昇ってしまった。
「先生、もう一本いかがですか?」
煙草に火を点ける、煙草が燻る。
言葉もなく、胸が塞ぐ。
(日本語訳:胡丹、山形貞子)
最上久美子(元瀋陽薬科大学・日本語教師)
私が野呂先生と一緒に暮らしたのは、2000年8月からのたったの一年です。しかしその一年、とても親しく、ご一緒にいろいろなことをしたり、助けていただいたり、教えていただいたりしました。隣の部屋に先生がおられたからこそ、私の薬科大学での生活や、日本語教育が充実した楽しいものになったのです。先生とは、ものの考え方も、学生たちへの取り組み方も、とても相通じる所があり、よく意気投合して遅くまでしゃべり合ったものです。
先生は、先輩だからといって、ご自分のほうからしゃしゃり出てこられる方ではありません。しかし、こちらからお聞きすると、とてもよく教えてくださいました。中国の大学は、日本のように、教務課などがしっかりしておらず、何も教えてくれずに学期が始まってしまいます。私は11年前に、こういう中国での日本語教師職は、経験していましたので、とにかく先輩である先生の所に質問に行くことから始めました。
学校のこと、授業のこと、生活のこと、何でも先生に教わりました。薬大では、生活用品のほとんどを自分で揃えねばなりません。台所用品、掃除道具、などなど、まるで新婚家庭の始めのようだと笑いながら、野呂先生に連れられて、近くのスーパーや市場で買い物をしました。日記を見ると、この頃は毎日のように、何か、先生とご一緒しています。
日本語教材は、滞在の長い先生はたくさん持っておられ、色々よくお借りし、本当に助かりました。授業で使う、学生たちへのプリント類のコピーや印刷の方法なども教わりました。大学からの給料は、自分の生活に必要なもの以外は学生に還元するという考え方が、先生と合致し、とても嬉しく気兼ねなくできました。65期の1班と2班は、学生同士も仲が良く、行事の時などよく一緒に参加したものです。国慶節の東稜遠足や、大学の行事、部屋での交流など、クラスの枠を超えてできたのは幸せなことでした。
先生は、恥ずかしがりというか、人見知りをされる面があって、学生たちにはオープンなのに、学校の教師たちや日本人の会などはお嫌いでした。そのため、日本人教師会にも参加されませんでした。
先生の学生たちとの交わりは、本当に深いものでした。先生は、常日頃、「外事処に面倒を頼むより、学生に頼むほうがずっと気が楽」と言われ、何でも学生たちと一緒になさいました。食事、買い物、郵便局への荷物取り、病院行き。すべて学生たちが先生の身の回りを見ているという感じでした。学生たちも、頼まれてするだけではなく、先生を大事にする気持ちから自発的にしていたのです。
64期の班長の王欣さんは、先生とは本当に親子のようでした。彼は、先生の生活の状態、健康のことなどいつも気にかけて、毎日先生の部屋に来、先生に中国語を教え、先生を“叱咤激励”(?)していました。先生もそれがとても嬉しくて、私にいつも「王欣にこう言われた、ああ言われた」と、楽しそうに笑っておられました。彼も先生のことには真剣でした。
彼の真剣さで感心したことの一つは、先生のタバコをやめさせたことです。先生は本当にタバコがお好きで、それもかなりなヘビースモーカーでした。キャンパスの公園のベンチで先生が一服しておられる姿は有名でした。王欣さんは、いつもかなりの語調で、止めるように勧めていましたが、ある時自分で、200元もする貼り薬を買ってきました。それを毎日手首のつぼに貼ると、タバコが嫌いになるというものでした。先生は彼の気持ちに応えるために、ちゃんと貼っておられました。すると、しばらくたってから、「この頃、タバコが美味しくないのよ。」と言い出されるようになりました。習慣で火を付けるけれど、味が変わって飲めないと、消してしまわれるのです。先生の部屋の灰皿には、長い吸殻が山のようになっていました。やがて先生がタバコをお止めになった姿を見て、私も王欣さんに頼んで、日本の息子のためにその貼り薬を買って帰ったものです。
王欣さんと他の二人の学生と4人で、先生は休みの度に、中国内のそれこそあらゆる所に旅をされていました。私が赴任する前の夏休みは、世界遺産の九塞溝でした。よく素晴らしかったその話を聞かせてくださり、いつかそこに行くことが、今に至るまでの私の夢になりました。また、先生に習って帰国前の休みに、私も学生たちと東北部の旅行をしましたが、何よりの良い思い出になりました。
先生とは、本当にいろいろなことを語り合いました。先生の生い立ち、経歴などもよくお聞きしました。先生は、権力的なことが一番お嫌いで、中国の大学が学生から搾取する体質であり、指導者たちも学生たちを軽んじていると、いつも嘆かれていました。日本国の姿勢や世界情勢のことも、先生とは考える方向が同じで、ついつい熱が入った話し合いになりました。私が帰国して一年後、先生も一年だけ帰国されました。その時イラク戦争突入の問題があり、私は東京の反対デモや、アメリカ大使館前の座り込みに行きましたが、後に、先生も大阪で頑張っておられたことを聞き、先生とは本当に考えが合うのだと、嬉しくまた励まされたのを覚えています。
先生に大きく感謝していることの一つに、私の娘のことがあります。12月頃、娘は私を訪ねてきてくれ、10日間ほど、大学に滞在しました。その時先生は、娘を大変気に入ってくださり、食事などのご馳走や、先生お薦めの中国薬などをいろいろプレゼントしてくださいました。その後、日本に帰った娘に大変な問題が持ち上がり、私は心配で、食事や他のことも手につかず、毎日身の震える思いで案じていました。もちろん大学にも何も言えず、先生にだけ相談しました。先生は自分の娘のことのように心配してくださり、幸い冬休みの前でしたので、よいアドバイスをくださり、そのおかげで私は、事務的なことや手続きを早めて急いで帰国することができました。その時先生は、娘から連絡が入るかもしれないと、2日間私の部屋で過ごしてくださったのです。胡丹さんもその時手伝ってくださったと聞いています。
先生はお酒もお好きでしたね。夜遅く先生のお部屋を訪ねると、よくコップを持ったまま、楽しそうに迎えてくださいました。ある時、私が健康のために葡萄酒を飲んでいることを知った学生のお父さまが、吉林省からわざわざ、たくさん抱えて持ってきてくださったことがありました。私はあまりたくさん飲めないのと、こんなに頂いていいのかと恐縮する思いで、先生に「山分けしましょう!」と持ちかけると、「それは、それは。こういうことならいつでも!」とニコニコして応じてくださいましたが、その時の嬉しそうな優しいお顔が今でも目に浮かびます。
先生には借金もしました。私は、大学からのお金だけで暮らしていましたから、普段は十分足りるのですが、特別なことがあると、間に合わなくなるのです。日本の家族からの送金は面倒で、手数料も高かったものですから、先生によくお借りしました。先生がいらしたから、私はケチにならずに生活できたと思います。特に、帰国前の東北旅行のときは大金をお借りして、日本でお返ししたのです。
帰国前の6月ごろ、先生は急に具合が悪くなられて、入院されることになりました。その入院までのいきさつも皆、学生たちが一生懸命調べて、病院を決めることまでやりました。先生は「私は何も知らないのよ。彼らが全部事を運ぶんだから」と、嬉しそうに笑っておられました。入院中も、学生たちはかわるがわる先生の部屋に寝泊りして、面倒を見、学年を越えていろいろな学生たちが先生の所に通いました。私もそのおかげで、大きな学年の人たちとも知り合いになれました。先生が亡くなられたことを聞いた時、この病気のことがすぐ頭に浮かびました。
>先生は、新たにご自分で課せられた道を歩み始められ、そこで召されました。先生のご生涯の締めくくりは本当に“ご立派”の一言に尽きると思います。ご家族や、学生たちや、先生を知る多くの人々に、大きな印象を残されて、天に召されていかれました。一人一人の心に、先生への思いがいろいろあることでしょう。私もまた、その一人です。先生のことを思い出す度に、心が温かくなるのです。この追悼文を書くために先生のことを思い出す作業が出来て、幸せでした。きっと、一人一人が思っていることでしょうが、私もまた、「これから少しでも、先生に習って生きて行ければ、」と思っています。
王 静
今日と2月19日に二回メールをいただいて、どうもありがとうございます。
ずっと野呂先生について文章を書きたいです。でもなかなか書けなくて、返信が遅れてしまって、ごめんなさい。
野呂先生は私に対して、とても大きな存在です。先生でもあり、友達でもあり、母親、お姉さんのような存在です。私の大学5年間のうち、3年は野呂先生と一緒に過ごしたのです。その3年間に、言い切れないぐらいの物語があります。先生の笑い声はいつまでも耳のそばに響いています。野呂先生、王欣さん、先宇飛さんと私四人の姿は中国のあちこちに残っています。野呂先生の名前はいつまでも、私の記憶に消えないものです。
そのために、文書を書くのは難しいです。辛い気持ちを見せられないです。
もっと野呂先生が生きている時の楽しいことを皆さんに伝いたいです。旅行の時、一杯貴重な写真を取りました。しかし、それは電子写真ではなく、フィルム型のです。しかも、中国においています。中国へ戻ってから、整理して、山形先生に送ります。少し時間はかかると思います。よろしいでしょうか。
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今年4月から、上海に戻ります。専門と合わない就職ですが、働きながら、チャンスを待つつもりです。日本にいる私は中国の就職情報が少ないので、選択範囲も狭い。中国へ戻ったら、就職情報を集めようと思っております。
2月3日、修士論文の発表が終わりました。3月15日まで、研究室残るつもりです。その後、九州や富士山に観光に行きたいと思っております。
日本に行った2年間半、山形先生御夫婦から、いろいろお世話になりまして、本当にありがとうございました。またいつか山形先生と会いに行きたいと考えております。もし、先生たちが上海に来たら、ぜひ私のところへ遊びに来てください。
では、ご健康お祈りいたします。
とりあえず、2003年3月、孫さんが大阪へ来たとき、野呂先生が私たちを京都へ連れていって、清水寺で取った写真二枚を送ります。
貴志 豊和
瀋陽薬科大学日語班
私は1998年から中国瀋陽薬科大学とハルピン医科大学の客員教授として現在まで、中国人学生に先端的医薬品の研究開発の講演会や薬学専門用語の講義を行って来ています。ここでは日本語で薬学教育を受けた卒業生の教授達が、戦後まもなく日本語による薬学教育を開始していました。3年生に進学するとき成績上位学生を日本語クラスに入れ、1年間日本語を「いろは」から教え4年生からは薬学専門科目も日本語で行います。日本語教育は中国人教師と日本人教師が協力して行って行います。「いろは」から日本語を教えている日本人は日本語専門家と呼ばれ、大学構内に居住しています。野呂章子先生は1997年から日本語専門家として2003年まで勤務されました。多くの学生に愛され楽しい中国滞在を過ごされました。
NGO奉仕 ケニアでの死
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野呂先生は一時中国に永住しようかとさえ考えたのですが、この中国での幸福な教師生活を捨てようと考える事件がありました。2003年冬イラク侵攻反対運動でアメリカ大使館前ハンガーストライキ中、臨席の日本人からアフリカの子供達が沢山餓死、貧困、病気に直面していることを聞き、アフリカにNGOの一員として行くべきだと決心したのです。そして2004年8月ケニアに向かいました。その時お姉さんや我々友人はアフリカ行きに反対しましたが、彼女は耳を貸しませんでした。出発前日電話があり、ケニアの子供が私を必要としていると言って出掛けました。ケニアの貧民窟に日本のNGOが作ったユートピア学校は治安も衛生状態も劣悪で、学校にも行けない、裸足で幼い幼児を背負った子供達で一杯でした。野呂先生はスワヒリ語を知らず、苦労されたようです。この学校は日本人教師3名で運営されていたそうです。彼女はエイズの子供を助けようと、病院を駆け回ったりし、「マリサイバ子供の治療基金」を立ち上げ、募金のため昨年10月一時日本に帰国しました。エイズについては、薬とお金を送って欲しいとの手紙を貰いましたが、私は丁度「エイズと治療薬」の講演を中国の5大学でした後でしたので、薬を送って治る病気ではないからケニアと日本の医療団が協力しなければ出来ない。組織化が先だと伝えました。彼女がケニアに着いて1ヶ月後、瀋陽薬科大学の教授から野呂先生死亡の連絡が入ってびっくりしました。ケニアは衛生状態が悪いので病弱な野呂先生は行くなと言った私の忠告が現実のものとなってしまったのです。
追悼会
2004年12月お姉さんの今井啓子さんのおられる上海で追悼会が開かれ、瀋陽薬科大学から日本人教授の山形達也先生と25名の教え子、教え子の両親が参加したそうです。
日本では2月13日宝塚ホテルで今井啓子さん主催の「野呂先生を偲ぶ会」が開かれ、約50名が参加しました。野呂先生が愛情を込めて教えた学生で日本の大学院に留学中の院生8名
孫茜、朱性宇、薛蓮、馬慎豊、赫新宇、沈慧蓮、王静、李文浩が札幌、東京、名古屋、京都、大阪、徳島から集まりました。瀋陽薬科大学客員日本人教授3名、川西康博先生、川村邦夫先生、私、日本語専門家窪田英夫先生も参列しました。そこにケニアにNGOメンバーとして一緒にユートピア学校で働き、野呂先生の死去に立ち会われた若い日本人青年も来て、当時の状況を報告されました。死因は肺炎と診断されたましたが、本当のことは誰も分からないそうです。彼女の死に顔は本当に安らかだった、しかし、自分たちの不注意で亡くなられてと自責の念に苦しんでいました。
私の隣席に障害児と両親がおられ、母親は涙ながらに中学時代野呂先生がこの子のために、インターネット受験を一人で
留学生達は野呂先生の御陰で日本語のみならず日本文化、歴史、習慣を学び、御陰で今日日本の大学院で学ぶ事が出来た、先生から人生の生き方を学んだので、将来先生のように他人のために働く人になりたい。との決意が告げられました。彼らの日本語は誠に素晴らしく、野呂先生の教育が如何に素晴らしかったかを実証するものでした。彼らの何人かは途中で涙を抑え切れず、声も途絶えがちでした。
日本と中国との政治的関係が難しい現在、野呂先生の果たされた日中友好の働きは彼らの心の中に何時までも生き続けることでしょう。
有名な聖書の言葉 ガラテヤの信徒への手紙 5章13節 「愛によって互いに仕えなさい」14節 「隣人を自分のように愛しなさい」 をもって終わりと致します。
貴志 豊和
野呂章子先生との思い出で最も印象深いのは、他人の幸福のために全力を尽くして働かれたことです。先生が瀋陽で腎臓病が悪化して入院された時、日本語クラスの学生が交代で病室に泊まって先生の看病をした話はあまりにも有名です。日頃の先生の愛情に答えた学生の人間性には感激したものです。
私は残留孤児の肉親探しでも野呂先生の人間性豊かな働きを共有させていただきました。
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| 野呂先生と李林昊 (王さんの義理の甥)。 2001年 |
57年ぶりに再会した 石沢、王兄弟夫妻。2002年 |
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| 前列左から李夫人、王夫人、王さん、野呂先生、貴志。後列左から李さん、張寧(院生)、李林(昊李さんの息子)2003年 | 笑顔の野呂先生。2001年 |
1998年野呂先生は「学生李君の親族の王さんが1980年から日本厚生省に肉親調査を依頼していますが18年間も回答がありません。中国人の親戚が親身になって残留孤児の王さんの肉親探しに一生懸命になっているのに、日本側は何もしなくてよいのでしょうか?」と私に協力を頼まれました。残留孤児の王さんは日本敗戦当時3才でした。黒龍江省依蘭で日本人生母から中国人曹さんに預けられ、養母の曹さんと一緒に厚生省に肉親調査を依頼していたのです。野呂先生は学生をハルピンの養母のもとに派遣して、当時の状況や母親の事を調べられました。しかし、手がかりになるような人名や住所、開拓団名などは分かりませんでした。しかし我々の厚生省への問い合わせや再度の養母、本人の調査依頼により2001年になってやっと厚生省調査官の現地面接が行われ、訪日調査が認められ、日本の各全国紙に写真と簡単な経歴、年齢、保護された依蘭県の地名が記載されました。訪日は王さんの体調不良から実現しませんでしたが、「私の弟ではないか?」と名のりをあげた方がいて、DNA鑑定の結果兄弟であることが判明し、2002年5月東京で57年ぶりに実兄弟の再会が感激のうちに行われました。
私も資料調査や厚生省との交渉でお手伝いしましたが、もしも野呂先生が熱心に肉親探しを始められなかったら、この兄弟の再会はあり得なかったでしょう。1999年野呂先生は帰国時熊本県庁を尋ねて開拓団情報を調べたり、孤軍奮闘されていたことを思い出します。ただ残念だったのは養母曹さんが王さんとお兄さんとの再会を知ることなく亡くなったことです
先 宇飛(瀋陽薬科大学薬学院教師・64期日語2班)
一番好きな花は菫、一番好きなものは大自然, 静かな見掛けの下には熱情を持っている心、それは私たちの野呂先生です。
1999年の9月始めて先生に会ったとき「先生はこれからどんな影響を私に来たすのか」という問題は全然頭の中にかんがえたことがありませんでした。
私はもともと自信のない人でした。先生は私の先生になってから、だんだん自分の人生に自信を見つけました。この中にいろいろなことがあって多分野呂先生でもわかっていないかもしれません。先生は私に教えたいろいろな人生の意義、大自然への感じ、私に大変影響を来たしました。私は深く吸引しているの先生の人格の魅力です。
森の中に大きな木に向かって先生は静かに眼を閉じ「ちょっと理解できないね」と思っている際に 先生は「気が感じますよ」。「気」、 人間の人体と一緒にあったものと信じています。北京で一緒に旅行した時、また先生と「気」の問題を討論しました。先生、信じられますか?今の私は古い気の前に立って目を閉じ先生の「気」が感じられますよ。そうですか、先生はいつも大自然の中に「気」で生活しています。
菫が好きですから、私は先生に思えない喜びを上げたい。学校のキャンパスの芝生の中によく生きている菫を無理に盆の中に植えて花が咲いているとき先生に上げたいと思っていたが菫が萎みました.その後、先生がこのことがわかって私に「菫は盆の中に成長できないものですよ、ただ自然の中にいきていられます」と言いました。先生、今の私はもうこんな馬鹿なことをやりませんよ、よく理解しました、「自然のものはただ自然の中に成長できるものです」。
弱い見掛けの下に先生は私よりずっと熱情を持っています。アメリカがほかの国を侵略すること、八呂軍、チェゲバラ名と革命に間する事については、私よりずっと熱情を持っています。先生はどんな先生でしょうね、そうですか、「正義感」を持っている先生です。わたしのような平和な環境で生活していう人にもっと広い領域を見せました。この世界にはまだ苦しい条件で生活している人がいっぱいいます。ただ自分の前の利益を守ってほかの苦しい人を援助しない人生は意義があるのですか?ほんとに心からもう一度考え始めました。
ほんとに思わなかったことは事実になりました、悲しさとか、後悔する気持ちとか、今の時期に何を言ってももう遅かったですね。先生のことを心の中深く埋めていて先生が私に教えた人生の意義を思いながら、この人生を続きたいです。先生、来世にまたお会いしましょう。
貴志 豊和(瀋陽薬科大学・客員教授)
私は1998年瀋陽薬科大学で講義を始めてから毎年のようにお目にかかって、本当にいろいろとお世話になりましたし、学生の相談にものって頂きました。野呂先生は人間性豊かな純粋な方でした。自然を愛し、窓を閉めては息苦しくて生活出来ないと、いつも窓を開けていましたね。学生達と植物園に行くことを楽しみにしていました。本当に中国と中国人を愛し通された方だと思います。
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1998年のアルバムから瀋陽中山広場の写真を見つけました。(写真1.尊敬する毛沢東)広場の中央に建つ毛沢東像の前で撮ったものです。野呂先生は毛沢東主席を尊敬していました。農工兵に囲まれたこの像は先生のお気に入りでした。毛主席なくして中国の革命、解放は行われなかった。と熱心に語りました。
1999年国慶節の休日、野呂先生が海を見たいと言われたので、丸山和子先生と3人で大連に列車で向かいました。車中野呂先生は隣に座った中国人に「毛沢東の長征を知っているか?」と話しかけました。「勿論」との答えに、毛主席は如何に戦ったかと彼女は喋りだし、たちまち黒山のような人だかりとなりました。話が通じないと、ノートを取りだして漢字で書いていました。「八路軍の兵士は素晴らしかった」との話をした時、中年の男が「俺は八路軍の兵士だった」と名乗りを上げ、一緒に前方の座席に行ってしまいました。
瀋陽に帰った後、「彼から手紙が来た」と野呂先生は嬉しそうに報告していました。大連では野呂先生の希望に従って、大連海韻広場、棒?島海水浴場、老虎灘を周り、次の日は40キロ郊外の「金石灘」リゾートの海岸に行きました。(写真2.自然を愛した野呂先生)。野呂先生は大連の自然がすっかり気に入って、中国語勉強のため、大連の理工大学、外国語学院または遼寧師範大学に留学したいと言い出しました。幸い3校とも私の老朋友がいたので、紹介し、本気でしたが、残念なことに実現しませんでした。(写真3.大連老虎灘で丸山先生と)。
野呂先生の部屋には夜も学生がよく来ていました。一緒に食事を作ったり、歌ったりにぎやかでした。1999年には国際交流処も寛大で、1階で学生が料理を作り、入口にテーブルを置いて会食することがありました。この写真(4.
料理パーティー)では左が野呂先生、次が私の老朋友の内科医関玉梅さん、私、最上先生、65回生です。校門近くの安い食堂で良く学生達と食事される時の野呂先生は本当に楽しそうでした。
自然食を愛し、中薬の愛用者でした。野呂先生に頼まれて、日本語クラスの授業で、「中薬と西洋薬」と題して話をしたことがあります。学生に中薬、西洋薬の特色、優れた点、欠点など自由に発言してもらい、私が黒板にそれらを書いた後、KJ法でまとめて見せました。野呂先生は大変喜んでくださいました。野呂先生が雲南から入手された、田七や人参の花を頂いたのも懐かしい思い出となってしまいました。
沈 慧蓮 (京都大学大学院研究生・66期日語2班)
野呂先生
こんにちは。相変わらず、お元気ですか。
先生は天国に毎日沢山の可愛い天使に囲まれて、楽しく暮らしているでしょうか。そうね、先生はよく子供たちが好きだと言いますからさ。
先生、今は雪国の瀋陽がメッチャ寒いですやね。またマイナス30度です。先生が9年間瀋陽薬大におられる時には、学生たちは外のマイナス30度の冷凍庫から、先生のお部屋に上がると、すぐ家に帰るように暖かく感じたものですやね。先生が先生のお部屋はいつも美味しい日本料理やフルーツやお菓子いっぱい、いっぱい用意してくれたから、野呂先生のお部屋はいつも超人気でしたわ。それではなくて、学生たちは先生と楽しくしゃべったうちに、日本語の会話のレベルは物凄いスピードで上手になりました。学生たちはずっと先生に申し訳ないのは、9年間中国におられた野呂先生の中国語はまだまだですよね。小さい姿の野呂先生が凍りの道路に自転車で遠いスーパーマーケットに行って、学生たちにお菓子を買いに行くことを何度も浮かんできました。野呂先生の手作りの日本料理が懐かしいですやね。
「私は仏教もキリスト教も信じないで、自然教に信じるよ」と野呂先生が笑いながら言うてはりましたけれども、1月1日うちは八坂神社に初詣に行ったときに、「野呂先生が天国で毎日元気で暮らせるよう、中国語が上手になるようにお祈りいたします」と神様にお願いしました。
>慧蓮はこれからも野呂先生に手紙しますわ。よくメールボックスをチェックしてくださいなあ。
天国にも冬がありますか?風邪を引かないよう、お体にお気をつけてください。
慧蓮 2005年1月8日
薛 蓮 (名古屋大学大学院農学研究科1年・65期日語1班)
山形先生の沈陽だよりを見に行きました。野呂先生のことを読みました。
クラスのHPから、野呂先生がなくなったということを読んだとたん、呆然としました。私は野呂先生とは深く交流したことはなかったですが、印象の中でなかなかいい先生でした。
私の覚えの中では、いつでも、どこでも、元気な野呂先生です。自転車に乗って、自由に走っていた姿。道沿いに生えてる野生の小さな花や草も可愛がっていて、生きることに楽しみがいっぱいあふれていました。大学にいた時、野呂先生は膵炎で入院したと聞きましたが、そのときの野呂先生は、それでも全然苦しくは見えませんでした。病気にかかってしまって、痛かったはずですけれど、野呂先生は自分の痛みを隠してみんなに見させたくなくて、人に心配を掛けさせたくなかったのでしょう。
2005年のお正月は最上先生の所で過ごしました。野呂先生の話も懐かしかったです。1日は朱さんを誘って、横浜のみなとみらいや中華街を観光しました。その後朱さんの寮で、65期2組の野呂先生と一緒のpicnicのビデオを見ました。なくなった野呂先生はいつも笑顔でみんなの心に生きています。
先生が沈陽だよりで書いてくださった文章を読んで、私も思わず涙が出てきました。いろいろと感じます。言おうとする気持ちは複雑ですけど、言えません。野呂先生は永遠に私達の心に生きてます。
せつ
胡 丹(瀋陽薬科大学大学院製薬工程研究科2年・65期日語2班)
野呂先生との付き合いは今から振り返ってみると本当に不思議だなと思わずにはいられないです。最初、クラスメートから今度私たちに日本語を教える先生は60歳以上のお婆さんですよと聞いたとき、なんだかがっかりした気持ちでした。なぜかというとこんなおばあさんが面白くて教えられるもんか、きっとつまらないでしょうと思ったのです。
しかし、一回目の授業を受けたあと、このお婆さん、ぜんぜんおばあさんには見えないし授業中にずいぶん活発で、難しいことでもわかりやすく説明してくださいました。わたしも好奇心が湧いて来て日本語の勉強もだんだん好きになってきました。でも、私は南地方の方言でなかなか上手になれませんでした。それでもそのまま三か月がたつと私の日本語もすこし進歩してきました。
しかし誰にも思いがけないことは隣のクラスの陳昴君が野呂先生とわたしの関係を変えたことです。そのとき陳君は隣のクラスの班長さんでした。彼はすごく優秀で今までちっとも挫折にあったことがありませんでした。しかし、班長になってからいろいろなことで勉強はなかなかうまくいきませんでした。しかも期末試験が迫ってきて彼はますますプレシャーをかけられ、心理的に落ち込んでしまいました。
彼が初めて自分の様子を私に告げたとき、私はびっくりしました。なぜかというと、私と彼は実際にお互いによく知っていません、ただ学習について何回か話したことがあるだけです。でも初めて人に信頼された私は彼がもう一回立ち上がるまで助けようと決心しました。ですから彼の様子によって私は何度も授業に出られませんでした。そうするとある日野呂先生から「あなたはよく授業をサボっているけれど、大丈夫ですか」と聞かれました。わたしは陳君のことを隠さずぜんぶん話しました。
今から考えてみるとなぜそのとき私は陳君のことを野呂先生に教えたのかな。多分、私も野呂先生のことを信頼して野呂先生からの助けが欲しかったのではないでしょうか。それから私と野呂先生はよく陳君のことで話しあったりして、お互いをだんだん理解し始めました。
朱 性宇 (慶応大学大学院生命理工学科1年、薬科大学65期日語2班)
その日、より悲しく大ショックでした。その日私の歳月に対する見方が変えられ、無情と残酷な歳月を憎むようになった。その日、われわれが尊敬する野呂はケニアで世を去る便りが届き、二度と先生に会えなくなった。野呂先生の速やかな身影、野呂先生の部屋で一緒に料理を作ったり、何でも話したりする楽しさなどの野呂先生と一緒に過ごした大学の生活や学習場面はまだ生き生きと覚えているが、ただの記憶になってしまった。
2000年の前半の三年生になった前に、皆秋学期の日本語の授業にドキドキしていた。その時、日本人のおばあさんみたいな先生がいることが聞き、かなり優しい、まじめな先生だと先輩たちに言われた。そして、皆その先生に日本語を教わることを期待していた。これが野呂先生への初めての印象だった。その後、本当に野呂先生がわれわれの二組の先生になった。
初めの野呂先生の授業がどういうふうにやったのか、もうはっきり覚えていませんが、優しく親しい印象が残った。その直後、先生が私たちの名前と誕生日と趣味を書いてあるカードを集めて、名前を覚えるとともに、誰かの誕生日の日には授業をやる前に、きれいな日本風の紙で折った折り鶴等をプレゼントしてくれた。もらったクラスメイトは幸せな表情をして、すごく楽しかった。
野呂先生は、1997年に日本語の授業を教え始めてて以来、在籍の院生、3、4、5年の学部生等約100人の学生がいるから、平日でも、週末でも、混んでいる野呂先生の部屋で、美味しいお菓子を置いてある机を先生と数人の学生が囲んで座るのが一番よく見た場面だと思う。大自然が大好きな野呂先生は沢山の風景写真を持っているため、毎度、それらの写真を見せながら、当時の場面や気持ちを話してくれた。中国の風俗、習慣や、自分の趣味や、日本に対する好奇心など広い話題をおしゃべりすることが、日本語の会話能力の上昇にすごく役に立った。一方、野呂先生はかなり疲れるみたいだったけれどちっとも文句は言わなかった。最初は文法とか日本語の問題が質問の中心だったが、段々つまらない時や、気持ち悪い時も野呂先生のところに相談に行くようになった。先生というよりも仲良しの友達になった。
2001年の夏休みに、私達のクラスメイト何人かが帰省せずに、学校に残って勉強したり遊んだりした。寝室では料理が禁止されているので食堂のまずい休假期の料理に我慢できない私たちは、日本に帰省した野呂先生がここに戻ってくることを首を長くして待っていた。その予定の日、私たちは大学の前門でずっと待っていて、なんでまだ着いていないかを心配している際、後ろから、よく知っている私達を呼びかける声が聞こえた。振り返って、面の前の鞄や袋に囲まれた野呂先生にびっくりした。いつもの帽子をかぶって、青色の服を着て、沢山の荷物を背負ったり、ネックや肩にかけたり、両手で持ったりしていて、本当に私たちの野呂先生ですかと何秒間か迷ってしまった。いつも精一杯、全然おばあさんではないと感嘆した。その後、ずっと野呂先生と食事したり、しゃべったりして、楽しく一週間過ごした。
2001年の秋学期、年末の日本語国際一級試験に合格するために班の全員が頑張っているとともに、野呂先生も全力を挙げ、毎日、新聞や日本の読み物から選んだ文章を紹介したり、聴き取り等の聴力練習をしたりする試験対策を行った。風邪を引いても、重い鼻音で、授業をやった野呂先生はわれわれの自信を深め、最後には全員22人のうち21人が合格したという優れた成績が取れた。
かなり重い負担を負った野呂先生が何回も病気になった。最悪の際には入院したこともある。班の仲間はすごく心配したから、退院後は、平日に野呂先生の部屋に邪魔することを少し減らした。2002年野呂先生は薬科大学の日本語の先生を辞め、帰国することに決まった。涙ばかりの送別だった。帰国したら、よく休養することができると思ったのに、やがてケニアに行く予定があるという便りが来た。皆びっくりした。全員反対に一致して、メールや電話でわれわれの気持ちを伝えたけど、固い信念を持つ野呂先生は行くことを決意した。還暦を越えた先生にとって、持病が再発する恐れもあるし、ケニアの厳しい環境に慣れるかどうか、さらには新たな病気に掛かる可能性もあると皆いろいろ心配した。その後野呂先生の無事な便りを待ちながら、平安や健康を祈っていた。
だれも信じられないのは、ケニアで逝去という知らせが届いたときだ。悲しい、懐かしい気持ちでいっぱいになった。中国では「飲水思源」と言う諺がある。自分の子供を育てるように、われわれを世話した野呂先生は日本語だけではなく、人生の道理まで教えてくれた。先生が帰国してから、今後自分の事業を立てれば、先生を誘って、友達と一緒に野呂先生の部屋を訪ねたときのように得意な料理を作って、酒を飲んだり、なんでもしゃべったりすることをやろうと友達と約束した。でも、もう今はちっとも野呂先生になにひとつ返すことができなくなった。残酷な歳月に、われわれの尊敬する野呂先生が奪われてしまったけれど、野呂先生における四年間の思いを消すことは永遠にできないと思っている。
山形 達也 (瀋陽薬科大学)
11月最後の日曜日の昼ごろ、うちの電話が鳴った。電話は研究室の学生の胡丹くんだった。なにか声がおかしい。「どうしたの?」「野呂先生がケニアでなくなりました」と、もう嗚咽混じりになった声でとぎれとぎれに言う。「えっ?いつ、どうして?どこから聞いたの?」
「野呂先生のお姉さんから、アモイの呉くんに電話があって、昨日病気でなくなったと言うことです。ケニアに行って三ヶ月たたないのに。」終わりはもう声になっていない。これ以上の詳しい事情はよくわからないが、たちまち暗然と気持ちが沈み込んだ。野呂先生にはケニアの生活は無理だったに違いない。
連絡を受けたのが日曜日で、私達は野呂先生のご家族のことを知らないし、この日は野呂先生が亡くなったと言うことだけでそれ以上何もわからないし、何もできないことが分かっただけだった。
野呂先生はこの7月までは薬科大学の日本語教師だった。この大学には日本語コースがあり、学生は最初から希望するか成績がトップクラスだと選ばれて入学時に日語班に入れられる。1?2年は通常の中国語による授業があるけれど英語の勉強にも重点が置かれていて、英語4級に通らないと日語3年生に進学できない。また一科目でも75点以下をとると、これも日語班から放り出されてしまう。こうやって無事に日語班の3年生になると初めて日本語の勉強が始まる。
3年生になると週30時間のうち24時間が日本語の授業で、このうちの半分の12時間が日本語会話の勉強に当てられ、1クラスの日本語会話すべては日本人の日本語教師が一人で担当する。胡丹くん、王麗さんにとっての日本語の先生は野呂先生だった。
野呂先生は足掛け7年間に亘り薬科大学の日本語教師を勤めた。最初二年のつもりで来たのに大学から懇望されてこの大学の日本語教師の職を毎年延長し続けて来た。4年目に入るときは、きっぱりやめて中国語と中国文学を勉強することにして大連の大学に入学を申請して許可されていたのに、大学の懇請もだし難く、大連で学生になる夢をあきらめて日本語を教え続けた。
5年経った2002年の夏、教師を辞めて日本に戻ったけれど、なにか物淋しいということで大学から再度要請されたのを機に、1年の休養をおいた昨年秋に再度薬科大学に戻って来られた。
このときは私たちが薬科大学に正式に招聘を受けて赴任した時期と重なる。私達はそれまでも毎年瀋陽にきていたから野呂先生とは顔見知りだった。「久しぶりですね、いよいよ本気でここに来ましたからどうかよろしく」と挨拶すると野呂先生は、「一年だけご一緒ですね。日本にいると落ち着かないからきたけれど、今度が最後ですよ。」とおっしゃる。
「どうしてです?大学でこんなに評判がよいのに?野呂先生が教えないと、薬科大学の日本語の学生の学力が落ちたと聞いていますよ。」「でもね、今度は一年したらケニアに行くんです。ここの大学で日本語を教えられる人は他にいるけれど、ケニアに行けるのは私しかいませんもの。」
「ケニア?」唖然として、以前テレビで見た「赤道直下で上総堀りの井戸を掘る」という情景を思い浮かべた。赤茶けて枯れた茫漠と広がる大地。水瓶を頭に乗せて一日がかりで水汲みに行く痩せて骨と皮の少年少女たち。
「ケニアで日本語を教えるのですか?」「いえいえ。この間日本にいるとき、イラク戦争反対の座り込みデモに行ったときにね。ケニアの貧しくて学校にも行けない子供たちがいるところに出かけている人と出会ったんですよ。それでそこにお手伝いにいくんです。」
これを聞いて「うーん、そこまでしなくても」と私は思った。何よりも野呂先生は身体が弱い。中国にいる間中、始終病気をしていた。一度は胆石で学生に病院に担ぎ込まれたという。私がここでお腹を壊したときも、そういうときはこれが効くといって持薬の「梅肉エキス」を勧めてくださった。これは昔の「赤本家庭の医学」に載っていた家庭の万能常備薬である。
私が膵臓を悪くしたときは、「バナナをチンして黒くなったのを食べるとよいですよ。私は1週間食べ続けました」ということだし、風邪の引きはじめには香港の何とかいう甘い漢方薬が絶対よいといって勧められた。野呂先生は瀋陽で針灸にも通っていて「山形先生は西洋薬学をここで教えるために来ておられるけれど、私は中国五千年の中医を本気で勉強して日本に持って帰ってみたいですよ。すごく効きますもの。」というほど、始終足腰に痛みがあったようだ。
小柄でこのように身体の弱い野呂先生はおまけにご老体である。彼女のケニア行きには誰もが賛成していなかったけれど、野呂先生の決意は固かった。この飽食の時代にアフリカでは1日3万人の子供が飢えと貧困が原因で死ぬという。「私には放って置けません」と静かにおっしゃった。
後で聞くところによると野呂章子先生は1938年まれで、関西で28年間国語の先生をしていたけれど、思うところあって定年前に職を辞して中国の旅をしたところ中国が大変気に入って1993年からは瀋陽の建築学院で、1997年からは瀋陽薬科大学で日本語教師をやって来られたのだった。
私達が最初に薬科大学を訪れたのは2000年の夏で、そのとき会った野呂先生は甚平姿で「えっ、これが先生?」というほど小さく頼りなかった。しかし、胡丹くんは彼女の4番目の学年の教え子だけれど「野呂先生のおかげでクラスが一つにまとまったのです」と言うほど、日本語教師として学生から絶大な信頼を受けて慕われて来た先生だった。
学生に配る日本語の教材のコピー代を教務に言うと教務は学生から徴収するからといって、黙って自分の給料をすべてコピー代に投じていた野呂先生。それでも足りなくて、午前8時から始まる授業なのに7時過ぎには教室に行ってその日に使う教材を黒板にびっしりと書き込んでいた野呂先生。
次々と甦る彼女の想い出で胸が塞がれそうだ。しかしいくら望んでも野呂先生の姿を二度と目にすることはできない。出来ることは、中国の学生を育てるために自分たちの時間を更に有効に使いたいと、改めて決意することだけである。
(2004年12月11日ホームページhttp://mypage.odn.ne.jp/home/tcyamagataに初出)
山形 達也 (瀋陽薬科大学)
野呂先生がケニアで亡くなったと聞いてからもう2週間経った。野呂先生はこの間に、ケニアでチルドレンズホームページを運営している人の手で現地で荼毘に付されたという。
研究室でコンピュータを使っていた胡丹くんが、ふと手を休めて近くにいた私達に涙声で語りかけてきた。「野呂先生が死んでしまって、僕たち、どうしたらよいか分からない。野呂先生は日本語をわたしたちに教えただけでなく、あらたに異質のものを学ぶというのはどういうことなのかを教えて下さったんです。日本という国や日本人を、言葉を学んだ上で知ることの面白さを先生から教わったのだと思います。私達は寮の4人で先を争って何時も日本語を勉強していました。」
私達の研究室に半年いて4月から慶応大学大学院に留学した朱くん、ここに1年いてこの秋からは韓国に留学した魯くん、アモイで就職した呉くん、そして胡丹くん、寮で一緒だった彼らの誰一人をとっても見事な日本語遣いである。私達が中国語を知らずにここで暮らし始めても、何一つ不自由ないどころか、ホームシックにかからないのは、彼らに加えて王麗さんたちが研究室にいて日常的な日本語環境を作り出しているおかげである。
「野呂先生の想い出がまるで昨日のように新鮮に心に積み重なってきて、ゆうべは寝られませんでした。僕たちのクラスの心を一つにまとめて日本語の学習に立ち向かわせた野呂先生に、もう会えないなんて信じられない。8月にケニアに行ってから9月にいちど日本に戻って1ヶ月日本にいた間、先生とメイルのやりとりをしてこの次には会おうと約束したのに。」胡丹くんが涙を流しながらもしっかりと僕たちに話をする。
同じクラスの出身である王麗さんは傍のソファで目を真っ赤に泣きはらしていて、聞こえるのは泣き声だけだ。涙混じりの声ながらも話を続けるのは胡丹くんだった。「僕たち野呂先生に育てて貰って、ちっとも恩返しをすることが出来ませんでした。まさか、こんなに早く死んでしまうなんて、ちっとも思いませんでした。もっとして上げたいことがあったのに。」
「でも死んだ人には後からは何もしてあげることは出来ません。」胡丹くんはしっかりと話を続けた。「死んだ野呂先生をいくら今から思っても、気持ちはもう野呂先生には届きません。お互い誰もが生きているときだけです。だから、僕たちは先生たちの恩にきちんと報いなくてはいけません。」
話が急にこちらに振られたので面食らったけれど、これは親しい人に突然先立たれたときの整理のつかない気持ち、やり場のない怒りと嘆きを経て誰もが到達する真理なのだ。胡丹くんは野呂先生に恩返しできなかった分、今から心がけて先に逝くはずの私達に尽くしたいと言っている。
私も野呂先生には世話になった。その分私が先生に何か報いることが出来たかというと何もないような気がする。私は野呂先生に隣人としてにこやかに付き合っていただけだった。
「そりゃあ、バカですよ。大バカですよ。山形先生は本当にバカですねえ。」ニコニコして野呂先生はおっしゃった。「こんな偉い先生にバカなんて言ったらとても失礼ですけれどね。でもバカですよねえ。ちっとも懲りないんだから」という野呂先生の言葉が私の耳にはまだ焼き付いている。
大バカ呼ばわりのことの顛末はこうである。昨年秋に中国に来て、白酒という米と高梁から作った蒸留酒の存在を知った私は、そのおいしさに白酒を飲むのが止められなくなっていた。
私は実はむかし一年の間をおいて二度も急性膵炎という病気をしたことがあり、酒を飲んではいけないと医者にきつく言われていた。膵炎にかかる主要な原因はストレスとアルコールだという。大学にいた頃は研究費獲得のために何時もストレスにさらされていて、この説はもっとも至極と頷けるものだった。中国に来てからは、だいたい研究費が申請することができないのだからそのことでストレスが溜まることはない。
膵炎を起こす主要原因が一つ減ったのだから、ほどほどに酒を飲むのなら大丈夫だろう。というわけで、酒を飲む雰囲気の誘惑に何時しか負けて、つい自分においしい酒を飲むことを許してしまったのだ。
飲み始めても一回目、二回目は大丈夫だ。それで安心して毎日飲むようになると、何時か突然前触れもなく膵臓が暴れ出すことになる。まずひどい腹下しをするのである。中国ではそうでなくてもよくお腹を壊すことが多いから、久しぶりだと膵臓が原因だとはわからないけれど、中国で白酒を飲み出してからついに続けて二回ひどい下痢をして、自分の診断ではどうひいき目に見ても膵臓炎だった。
そのようなわけで、自分の症状を白状してその週末に一緒にと約束した食事を断りに野呂先生に会いに行った。日本の掛かり付けの病院から遠く離れた瀋陽では、こういうときはひたすら絶食することが最良の方法なのだ。
このとき野呂先生から「バカですねえ」と頭から浴びせられたのだった。そして「こういうときは黒焼きバナナですよ」といって作り方を教わったし、2月の春節の休み明けには「肝臓と膵臓にいいから」との口上で、シジミの佃煮をおみやげに戴いた。
野呂先生から言われた叱責が身に応えて、その昨年の12月1日以来、私は1年の間、酒の一滴も口にしていない。中国のパーティーでは酒を飲まないことほど不粋で失礼なことはないのだけれど、ことは命に関わることなので何時も鄭重にお断りをしている。私にはこの大学と交わした契約があるのだ。契約の5年間を全う出来なかったら、大学にも学生にも申し訳ないことになる。
野呂先生は道を歩きながらも、スミレがひっそりと咲いているのに目をとめて、ちょっと恥ずかしげにこちらの注意を引くことがあった。すべてのいのちを慈しんだ野呂先生は、ケニアの短い滞在でも、きっと皆が見落とす小さな花を見つけて愛でておられたに違いない。生き残ったことで、私は野呂先生に少しでも恩返しをしたことになるだろうか。
(2004年12月18日ホームページhttp://mypage.odn.ne.jp/home/tcyamagataに初出)