表紙

ケニアの野呂章子先生

 

 

12月19日に上海に住んでおられる姉上の手により野呂先生の追悼の会が開かれた。そこには、ケニアの現地でチルドレンズホームを主宰している浅田嘉一(現地名カマウ)さんも来ていて、彼から野呂先生の現地での生活と最後の様子を聞くことが出来た。

野呂先生は1960年代の安保闘争のころ大学の学生だった。当時の学生は純真であればあるほど、政治の腐敗とアメリカ一辺倒の政治に憤りを抱き、次々と左翼の運動に身を投じていった時代である。私は安保反対のデモには参加したけれど、機動隊と対決してまで反対を叫ぶなどは思いも寄らないノンポリ日和見の学生だったし、興味は科学の研究にあったから政治活動もそこまでだった。

でも、野呂先生はそのあと部落問題にも関わったとのことだから、その気持ちが脈々と生き続けていたのだと思う。野呂先生と話をすると、決して言葉は激しくなかったけれど、今の日本の政治だけでなく、力を持つものがすべてを自由に出来る今の世界のあり方に強い批判を持っておられたことが明らかであった。

野呂先生は2002年夏に薬科大学を一旦辞して日本に戻った時、2003年のイラク戦争の時期に大阪のアメリカ領事館の前で「イラクの子供たちを殺すな」と訴えて3月20日(米軍によるイラク侵攻の日)から48日間ハンストを続けていたカマウさんを見てその運動に共感し、3日間同じテントに泊まってハンストに参加したとのことである。

カマウさんは1980年以来アフリカに暮らし、ケニアと西隣のウガンダでチルドレンズホームや職業訓練所を作って、現地の飢餓や貧困に苦しむ子供たちを助けてきた人だという。

野呂先生はアメリカ領事館前のハンストに参加しただけでなく、カマウさんの生き方に全面的に共感を覚えたに違いない。中国の学生をあれだけ愛していたにもかかわらず、彼らに日本語を教えるためにあと一回、一年だけ瀋陽に戻って、そのあとはケニアに行って子供たちを自らの手で支援すると決意したのだから。

野呂先生は今年の6月30日に瀋陽の私たちに別れを告げ、8月10日には日本を発ってケニアに向かった。300万人のナイロビ市民のうち半数が市を取り巻くスラムに暮らしているがそのスラムにも段階があって、市から離れるほど程度が低くなると言う。野呂先生の目指したホームはナイロビから12 km離れたマイリサバというスラムだったが、彼女はそこから歩いて20分の一応電気も水も来る宿舎にほかの日本人ボランティアと一緒に住むことになった。

チルドレンズホームでは野呂先生は3〜4才の子供を受け持って、工夫を凝らしながら絵や工作などを教え、さらに5という概念をどうしたら子供に教えられるかと算数の領域に踏み込んで教え方に考えを巡らしていたと言うことだった。子供たちがすぐ野呂先生に懐いて、「のろシューシュー(おばあさん)」と言いながら子供たちが彼女のあとをついて廻ったという。

野呂先生は最初の滞在を45日で切り上げて一度日本に戻ったけれど、それは一つには自分の身体の具合が悪いのを日本で治療するためであり、もう一つは現地の子供たちが貧しいために医療を受けられずに死ななくてはならないことに心を痛め、日本で寄付を募って「ケニア子供治療基金」を立ち上げるためだった。3週間日本にいて募金に駆け回り、再度ケニアに戻った野呂先生はカマウさんと一緒に11月4日にナイロビを発って、ウガンダのカマウさんが以前作った職業訓練所で今は小学校になっている施設を4日間の予定で訪ねた。そこではケニアと違って、学校は緑豊かな広い敷地に建っていて、人情も気候も良く、何時も忙しかった野呂先生はとても心が和んだという話である。

さらにタンザニアに用事のあるカマウさんと別れて、11月10日に野呂先生はナイロビに一人で戻って来た。旅の疲れを休めたあと、「ケニア子供治療基金」へのレポートを書き、ナイロビの美術館も見に行き、大使館でNGOの活動データを調べたりしていたという。

11月18日には日本人ボランティアの一人であるタクロウの誕生日で、その為の料理は野呂先生が作ったという。翌日の19日は野呂先生の具合が良くなくて、もう一人の日本人ボランティアのエミが粥を作ったけれど、野呂先生は手を付けなかったという。

ずっと部屋に引きこもっていた野呂先生は、21日にはエミの用意した果物を食べたということだが、そのあと分かっているのは11月26日朝、鍵の掛かっている扉を外から破ってタクロウが中に入り、野呂先生がベッドの中で亡くなっているのが見つかったことだけだ。カマウさんはこの間現地に不在で、その翌日知らせを受けて旅先から戻ってきたということだ。

野呂先生がどのような事情で身体が不調だったのか、医者の手当てを受けなかったから、今となっては分からない。死後の検案で死因は肺炎と報告されているが、大体人の死の8割は最後は肺炎である。肺炎が本質的な死因ではなかろう。

19日以降、食事をした形跡のない野呂先生を同じ宿舎に住む日本人ボランティアがどのように世話したのか、カマウさんの説明は不十分、かつ不明瞭である。突っ込んで聞いても、カマウさんはずっと不在でその場にいなかったというから、返事は曖昧である。それ以上は、こちらには問いただす資格がないから、野呂先生の死に至る経過は不得要領のままだ。野呂先生は誰からも十分看取られることなく、数日間放置されたままで亡くなったことだけは、確かなことだ。

刑法が専門だという野呂先生の姉上は、しかし、これを司直に訴えて刑事問題にする気はないとのことだった。第一に飢えと貧困で死んでいく子供たちを少しでも救おうとしているホームは、言ってみれば戦場みたいなところで、若く頑丈な兵士が必要なところに、身体の弱い老人が参加したのが間違いであった。第二にボランティアをしている日本人二人に手落ちがあったと思われるが、彼らを訴えて二人の将来を傷つけたくない。第三に彼らの責任を問うことを妹は望まないであろう。

 

野呂先生はあれほど愛していた中国の仕事を捨ててまでも、ケニアのチルドレンズホームで子供たちを救うために自分を懸けた。さらに彼女は「ケニア子供治療基金」の設立のための募金に疲れた身体で日本を駈け回った。その報いがあまりにも非情だったことが悲しい。それでも、野呂先生だったら「それでも良いじゃないですか」と静かにおっしゃるだろう。そう思うこともまた悲しい。

山形 達也(瀋陽薬科大学)

 

 

野呂先生の最後の手紙

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