対人関係における不満感について

〜「どっちでもいい」はいやがられる〜

はじめに

今日、日本は本格的な民主政治を始めて約50年が経った。しかし、投票率が増加するどころか、平成15119日に執行された第43回衆議院議員総選挙での投票率は50.3%とかろうじて50%を上回ったに過ぎず、平成1226日に執行された大阪府知事選挙での投票率は50%をはるかに下回る41%となっている。国民の教育レベルが高い民主主義国家でも、このような状況で私たちの代表者は正しくえらばれているのだろうか。またそのような国は民主主義の発達した国といえるのだろうか。

 また、日本国憲法の3つの基本原理は、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」であり、「国民主権とは、すなわち民主政治である」ということは中学校の教科書にはっきり記述してあることで、一般人の常識でさえある。民主政治を行うには民主主義という立場に立つ必要がある。このとき、国民全員が直接話し合いに参加することが理想だが、現実問題として不可能である。そこで、国民の中から選挙で代表者を選び、その代表者(=国会議員)が国会で話し合って決めるという「間接民主主義」がとられている。ここで、問題となるのが「間接民主主義」である。

内閣府大臣官房政府広報室が行った世論調査によると、国の政策に国民の考えや意見がどの程度反映されていると思うか聞いたところ、「反映されている」とする者の割合が17.5%(「かなり反映されている」1.3% +「ある程度反映されている」16.2%)、「反映されていない」とする者の割合が77.4%(「あまり反映されていない」54.0% +「ほとんど反映されていない」23.3%)となっている。この報告書から、現在の「間接民主主義」の形では、国民はあまり意見や考えが国の政策に反映されていないと考えていることがわかる。

さらに調査の続きに、国の政策に国民の考えや意見が「ある程度反映されている」、「あまり反映されていない」、「ほとんど反映されていない」と答えた者にどうすればよりよく反映されるようになると思うか聞いたところ、「政治家が国民の声をよく聞く」と答えた者の割合が27.7%と最も高く、以下、「国民が国の政策に関心を持つ」(19.9%)、「国民が参加できる場をひろげる」(17.0%)、「国民が選挙のときに自覚して投票する」(15.3%)、「政府が世論をよく聞く」(12.1%)、「マスコミが国民の意見をよく伝える」(4.8%)の順となっている。つまり、民意を反映させ不満を取り除くためには、国民一人一人が積極的に政治により深く関わっていく必要があるという結論である。

民主主義の発達した国と言い切れない理由として、国民の考えや意見が反映されないため、政治に関心を持たず投票に行かない。意見が聞こえないため、代表者は勝手に決めざるをえない。そこで、勝手な政策に国民は不満をもつ。この悪循環が起きているためではないだろうか。真の民主主義が機能する方法を考えると、問題を解決するには声を出しあわねば、黙っていては解決に向かわないということになる。「似たような政策で誰に投票しても同じだから」、「投票したい人がいないから」といって、問題に触れずに社会的決定が行われることは、代表者−国民相互、社会全体にとって不満がたまる原因となるのである。

ここで、岡田憲治が民主主義について述べている文章をいくつか引用・参照しておきたい。

民主主義の平等、効力、不満感についてのポイント

   (1) 決めたことは「全員」を拘束する、という意味で平等であるということ。

   (2) 個々人は、各人それぞれの考えに基づいて「これがよいことだ」と思っているのだということを認めあわなければならない。

(3) メンバーの個々人は、何が自分自身の本当の利益になるかを最終的に決める資格を持っている。しかしながら「自分の本当の欲求」であるかないかは疑わしい。 

   (4) 決定を欲する個々人には、決めるということと自分が「かかわっている」と思えることが必要。そうすることにより、不満を抱きにくくなる。

(5) 個々人が「かかわっている」かどうかを判断するためには、以下のような基準がある。

        @(何が決められるかを)知っている。     (knowledge)

A(自分の判断を下すための)時間がある。   (times)

B(決める前に)声や文字で表すチャンスがある。(voices & words)

   C(決め事のある場に)居合わせる。      (meeting)

   D(自分の考えが決定に)現れる。       (presenting)

 (1)(2)について、民主主義においては、「物事が決定したとき、みんなで決めたことだから、お互いに公正である」と理解しようという最低限のルールである。(3)について、社会全体の作用を考えると、今の自分の欲求を満たすよりも社会の利益を考えた方が、あとあと個人の結論を優先した場合よりも自分にとって有利な状況になるということである。(4)(5)について、民主主義を実感するには、決定への自分の発言機会と影響力が

ある必要があるということである。

 また、佐伯胖は次のように述べている。「みんなの意見が“きめるべきこと”に何らかの形で反映する」といえば、誰しもが考える問題は民主主義ということであろう。「みんなの意見が最大限平等に反映するように物事をきめる」というのは、まさに民主的決定ということになる。

しかしながら、今すぐに国の政策や自治体の方針に民意を反映させることは困難である。アメリカでは世論調査の結果が政治に大きく影響を与えているという。これは、アメリカ国民の発言できる機会にできる限り声を発しようする体質にかかわっていると考えられる。個々人が声を出すことの重要性を無意識に認識しているのだ。アメリカでは普段からしっかりと自分の意見を言い、じっくりと相手の意見を聞く習慣がある。少し大げさに言えば、反対に声を出さないと意見を持たないフラフラ生活をしている人であるというレッテルも貼られかねないのだ。日本人もこのように相手のことを気遣わないところまではいかなくても、声を出す習慣は見習って良いのではないだろうか。

以上のことを踏まえて、普段の生活で普通に起きうる小さな問題から、声を出す大切さを学び、相互にコミュニケーションがとれた人間関係・社会づくりのきっかけを考えていく。そこで、身近でよくあり得る社会的決定にテーマをおいて、この民主的発言の問題を解決していく。

問題 

 

電車よりバスの待ち時間の方がイライラするという話を聞いたことがある。これは、バスの方が正確な到着時刻がわからないからであるらしい。つまり、これから何をするかが決まっていなくて自分ができる行動に対して統制感がないためにイライラと不満がたまるのである。ここから、相手次第で先の状況が掴めないあいまいな予定や決断は先に対する統制感がつかめずに、不満やストレスがたまるのではないかと考えた。以上のことから、未知状況への不満を社会的決定に置き換えると、発言のないあいまいな決定は不満が積もるということになる。普段の生活でも食事場所を決める時などに「○○と△△のどっちがいい?」という質問に対して「どっちでもいい」という言葉はよく耳にする言葉であるが、この言葉は相手にあいまいな状況を与えてしまうことになり、不満を抱かせているのではないかと考えた。

研究目的

政治のような大多数の人による決定を問題にするのではなく、身の周りの人と決めるような小さな問題から、声を出す大切さを学び、相互にコミュニケーションがとれた人間関係・社会づくりのきっかけを考えていく。そのために、今回の研究では、身近でよくあり得る社会的決定にテーマをおいて、民主的発言の問題を解決していくことを目的とする。

仮説

 

「どっちがいい?」という質問に対して、「どっちでもいい」と答えることは、相手にとって逃避・放棄・責任転嫁と受け取られ、相手にストレスを与えることになり、不満感を抱かせることになる。また、あいまいな予定や決断は先に対する統制感がつかめないため、不満感を抱くことになるとも考えられる。「どっちがいい?」と聞かれたときは、どちらか迷っていたり相手が好みではない方が良かったりする場合、相手が好まない方でもどちらか言ってしまった方が、不満を抱かせずに済むと考えられる。

 よって、仮説として、「どちらかを選択された方が「どっちでもいい」と言われるより、不満感が少ない。」となる。

 また、集団主義的傾向のある人は不満感を抱きにくく、個人主義的傾向がある人は、不満感を抱きやすいと考えられる。その理由は次の通りである。集団主義といえども個人個人では特定の意思は存在する。自分とは違う、周囲の様々な意思が見えると、その影響で、決定方向があいまいとなる。すなわち、相互間の意思を気にし合う対人関係においては、当初明確な意思を持って動こうとしたとしても、周囲の他者からの相互間による介入・調整の繰り返しにより、いつしか決定方向があいまい、不明瞭となる。このことから、集団主義的傾向がある人は、そういった社会的決定があいまいである状況が普段の日常であり、ストレスを感じないと考えられる。一方、個人主義的傾向の人は、あいまいへの耐性が集団主義的傾向のある人よりも少ないと考えられる。そのため、相手の意思が読めないあいまいな返答に対して不満感が大きくなると考えられる。


質問紙

本調査での社会的決定の状況に用いたのは、特定の相手とお昼ご飯の食べ物を決める場面を想定した。条件としては自分が好きな物を和食とし、相手が好きな物を洋食とした。「洋食と和食どっちがいい?」という質問に対して、実験群に、相手が「どっちでもいい」と返答されると想定した質問紙を用意し、統制群に、相手が「洋食がいい」と「和食がいい」と返答される質問紙を用意し、合計3バージョンの質問紙を用意した。また、対象相手によって、不満感が変化するかについても調査するために、それぞれの質問紙で、対象相手を「とても親しい友人(親友)」・「母親」・「昨日知り合った友達(カジュアルフレンド)」と想定した。回答法は、不満感の原因と思われる項目に5件法で回答してもらい、返答に対する総合的不満度については被験者の繊細な感情を捉えるために7件法で回答してもらった。

さらに、集団・個人主義を測るために、既存の「相互独立的―相互協調的自己観」尺度(高田、2000)と「独自性欲求」尺度(岡本、1985)の2つの尺度からそれぞれ12項目ずつ選出したものを付け加え、それぞれについて不満感との関連性があるかを調べた。

「相互独立的―相互協調的自己観」尺度:西欧の人々は、個人は他者とは分離・独立している存在で、独自性を主張することが必要であるという「相互独立的自己観」をもち、日本を含む東洋では、人は個別的ではなく、さまざまな人間関係の一部になりきることが重要であるという「相互協調的自己観」をもつといわれている。

「独自性欲求」尺度:「自己がポジティブな面で他者との間に差をもちたいという欲求」であるこの欲求は自己アイデンティティーにもとづく欲求であり、人間の社会的欲求の中でも基本的なものである。



考察

 相手のことを思って、選択機会の決定を相手に譲ろうとする時「どっちでもいい」という言葉がよく使われる。しかし、今回の調査により、食事場所を決める時、この「どっちでもいい」という言葉を使用すると相手に不満感を抱かせてしまうことがわかった。 以下では、相手との関係、集団主義、きめ方に焦点を当ててこの問題を考察していく。

相手との関係について

 相手の返答のタイプと性別で分散分析をした結果、性別では女性が男性よりも不満度が高くなっている。対人関係では「親友」「カジュアルフレンド」において不満度が高くなっている。

性別に関して、男性よりも女性の不満度が高くなったのは、女性の依存性が影響している。女性が人から注目を浴びようとして、人前を気にし、人前を取りつくろうような仕草をする傾向があるのは、人を頼りにしているためである。これに対し、経済的に自立をしている男性では、もてたいために人前を気にし、気取った行動をとることがあるが、基本的には人からどう思われようとも、それにふり回されることが少ないので、人前で特に取りつくろうとすることが少ない。

依存性の高い人は、自主的に判断することや自信をもって決断することに躊躇するので、広い視野に立って思慮判断するというよりも、即座に結論を下すというような直線的、断定的な傾向を示す。また、女性は依存性が高い傾向があるので、自信を欠いた臆病な行動を取りがちである。男性は真と偽とを考え分けて、自己の本心に触れない口先だけの自己表現ができるし、冗談でも、自己そのものが傷つけられない限りは冗談として受け流すことができる。一方、女性が冗談を言うのが不得意であるし、冗談を真に受けて怒りやすい特徴がある。これは、あいまいなことに不安定を感じ、真実による安定性を求めるからである。

つまり、依存性の高い傾向がある女性は、自主的に判断することや自信をもって決断することが苦手で、あいまいなことに不安定を感じるために、「どっちでもいい」というあいまいな返答に対して、不満感を抱きやすくなるのである。

次に、対人関係に関して、「洋食がいい」「和食がいい」よりも「どっちでもいい」で、「親友」「カジュアルフレンド」への不満度が高くなっている。

このことは、親密化の初期段階である「カジュアルフレンド」の場合、人は相手が関係に関心があるかないかに着目しているということに影響している。「どっちでもいい」という言葉には、関係から離れたいという敬遠のニュアンスを含む意味が含まれているので、「どっちでもいい」と言われると、相手が自分との関係に関心がないと感じとってしまう。お互いの関係に関心がないと感じているにもかかわらず、一緒に行動することは、精神的な苦痛となりうる。たとえ、自分が行きたくない場所でも相手が行きたい場所を言われると、これから行くところに興味があるということが理解でき、お互いの付き合いにも関心があるということにつながり、関係が活性化され雰囲気もかなり向上する。

 親密化の段階が深化している「親友」の場合、自己開示の問題が影響している。この段階になると、相手に対して偏見や先入観は消え去っており、お互いに個人として見ることができ、考えていることや思っていること、長所や短所をありのまま受け入れることができるようになっている。にもかかわらず、自分が好きなところがあるのに、それを言ってくれないと、なぜ好きなところを言ってくれないのかとお互いの関係に距離を感じてしまう。

 つまり、「カジュアルフレンド」関係では関係への無関心が、「親友」関係では自己開示の欠如がそれぞれ不満の原因となっていると考えられる。

 一方、「母親」への不満度の場合、「和食がいい」よりも「洋食がいい」で不満度が高くなっている。これは子どもの養育に大きく関わる母親の言動は、子どもの価値観にも大きく影響を与えるからである。親という養育の立場でありながら、相手のことを考えない母親の自分勝手な行動に対しては、強く反発し、不満感を感じるのである。友人と違い、お互いの発言を理解し合うのではなく、手本となるお互いに思いやる考え方が母親には要求されるのである。

集団主義について

 各因子得点の平均を境に集団主義的傾向と個人主義的傾向に分けた結果、「評価放念」因子、「自己主張」因子、「独自性」因子、「反規則主義」因子で個人主義的傾向がある人の方が相手の返答に対して、不満を抱きやすいことがわかった。それならば、集団主義的傾向のある人は不満を抱きにくいと言えるのだが、先ほどの性別の話で述べられた「依存性の高い傾向がある」女性は、不満を感じやすいということと矛盾が生じる。集団主義には「相手に依存する」という特徴があるからだ。しかしながら、日本の集団主義でいう依存とは、自主的に判断することや自信をもって決断することが苦手という意味は含まれていないのだ。

集団主義を問題にする場合、日本人は集団主義であるとよく言われ、そのことについて書かれた文献は多く存在する。中でもルース・ベネディクトによって書かれた『菊と刀』は日本人の文化の型を鋭く捉え、深く言及していると書評されている。この『菊と刀』のタイトルにある、「菊」および「刀」がそれぞれ何を象徴するのかについて考えることは、日本人の集団主義の型を考える上で非常に重要である。

『「菊と刀」再発見』で森貞彦は、「菊」とは「偽装された意志の自由」を象徴するものであると述べている。その説明にベネディクトは『菊と刀』の第12章「子どもは学ぶ」で杉本鉞子の自伝『武士の娘』から、厳しいしつけを詳しく論じ、ミッションスクールでの「自由」の経験について述べた。鉞子はそこで肯定の一隅に少しばかりの地面をあてがわれて、そこに「何を植えてもよい」と言われた。彼女はそのとき、生まれて初めて「自由」を得た喜びを強く感じ、「自由の精神が私の門戸をノックした」と表現した。ベネディクトは、さらに『武士の娘』から引用を交えて次のように書いた。

 

    私の家には、庭の一部分に、自然のままに放置されているように見える場所があった。(中略)。ところが、いつも誰かが松ノ木の手入れをしたり、生垣を刈り込んだりしていた。また毎朝爺やが飛石を掃き清め、松ノ木を掃除した後で、林の中から集めてきた松葉を注意深く撒き散らした。

  この偽装された自然は、彼女にとっては、彼女がそれまでしつけられてきた、偽装された意志の自由の象徴であった。しかも日本のいたるところにそのような偽装が充ち満ちていた。日本の庭園の半ば地中に埋めてある巨石は、いずれも慎重に選択し、運搬してきたものであって、地下に小石を敷きつめ、その上に据えられる。石の配置は、泉水、建物、植込、立木などとの関係を慎重に考慮して定められる。菊もまた同じように、鉢植にされ、毎年日本のいたるところで催される品評会に出品するために手入れをされるのであるが、その見事な花弁は一枚一枚、栽培者の手で整えられ、またしばしば、生きている花の中に、小さな、目につかない針金の輪をはめこんで、正しい位置に保たれる。

 これは、一見自然のままのように見えるが、実は人の手による管理が行き届いた庭園の例によって、「偽装された自由」の説明をしているのである。

 また、森貞彦は、「刀」とは、「自己責任の態度」を象徴するものであると述べている。この説明も『菊と刀』の第12章「子どもは学ぶ」で次のように述べられている。

   

この精神的自由の増大への過渡期に当たって、日本人は二、三の古い伝統的な徳を頼りとして、平衡を失わず、無事荒浪を乗り切ることができるであろう。その一つは、彼らが、「身から出たさび」は自分で始末するという言葉で言い表わしている自己責任の態度である。この比喩は、自分の身体と刀とを同表している。刀を帯びる人間に、刀の坦々たる輝きを保つ責任があると同様に、人はおのおの自己の行為の結果に対して、責任を取らなければならない。人は自分の弱点、持続性の欠如、失敗などから来る当然の結果を承認し、受け容れなければならない。(中略)。個人の自由を尊重する時代において、この徳は最もすぐれた平衡輪の役目を果たす。しかもこの徳は、日本の子供の訓育と行為の哲学とが、日本精神の一部として、日本人の心に植えつけてきた徳である。今日、日本人は、西欧的な意味において、「刀を棄てる」〔降伏する〕ことを申し出た。ところが日本的な意味においては、日本人は依然として、ややもすればさびを生じがちな心の中の刀を、さびさせないようにすることに意を用いるという点に強みをもっている。彼らの道徳的語法によれば、刀は、より自由な、より平和な世界においても、なお彼らの保存しうる象徴である。

 また、集団主義社会には、身近な周囲の人たちに対して、他の集団との関係を損なわないようにしなければならないという責任をもっているが、その社会の人は身近な周囲の人から尊敬されることに重点を置くため、この責任が果たされる仕組みがあることを次のように述べている。集団主義的傾向のある人にとって、身近な周囲の人から尊敬されることは非常に重要なことなのである。

この地位の変化は、あの幼児期のからかいの型を、新たに、しかも真剣な形で、拡張してゆくことによって、成長期の少年に教えられる。子供は八、九歳にもなると、家族の者から本当に排斥をくうことがある。先生が、彼が不従順もしくは不遜なふるまいをしたことを報告し、操行に落第点をつけると、家中の者が彼に背を向ける。

(中略)。

ジェフリ・ゴアラが論じているように、「特筆に値することは、以上のことが、社会学的に見て極めて稀有な程度にまで、徹底して行なわれているということである。大家族制、もしくはその他の部分的社会集団が活動している社会の大多数においては、ある集団の成員の一人が、他の集団の成員から非難や攻撃を受けた場合には、その集団は一致団結して保護に当たるのが常である。引きつづき自己の集団の是認が与えられている限り、万一の場合、もしくは襲撃を受けた場合には、全面的な支持を得られるに相違ないという確信をもって、自己の集団以外のすべての人びとに対抗することができる。ところが日本では、ちょうどその逆になっているように思われる。すなわち、自己の集団の支持を得ることができるという確信をもちうるのは、他の集団から是認が与えられている間に限られるのであって、もし外部の人びとが不可とし、非難したならば、当人が他の集団にその非難を撤回させることができるまでは、あるいは、撤回させることができない限りは、彼の属する集団は彼に背を向け、彼に懲罰を加える。こういう仕組みになっているために、『外部の世間』 の是認ということが、おそらく他のいかなる社会においても比類を見ないほどの重要性をおびている」。

上記の「菊」と「刀」を象徴するものから、『自らを尊重する人間は、「善」か「悪」かではなくて、「期待どおりの人間」になるか、「期待はずれの人間」になるか、ということを目安としてその進路を定め、世人一般の「期待」にそうために、自己の個人的要求を棄てる。』という体質が言えるのである。これこそ日本の恥の文化の精髄である。

 恥の文化とは、「大いに『恥』を信頼する文化」であり、他人と同じようにすることが何となく良いことと感じる心情が恥の文化の基本である。

 ベネディクトも言うように、「彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推論しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして、自己の行動の方針を定める」のが当たり前で、他人の判断に関係なく自分の内心の命ずるままに、行動の方針を定めるのは、異常と見られるようになる。

 この「恥の文化」が人格の中で成立している集団主義的体質の人は、「どっちでもいい」という相手に依存する言葉に対して、不満を抱きにくいと考えられる。反対に、相手がどのように思おうと関係なく、自分の考えていることを重視する個人主義的体質の人は「どっちでもいい」という意思がないように感じられてしまう返答に苛立ちを感じるのである。「菊」が象徴する「恥の文化」で管理された自由の中で、最大限意見を持っているので、個人主義でもそうであるが集団主義である人も、「意見主張」因子で有意な差がでなかったと考えられる。

 

きめ方について

 一見ただの選択決定にみえるが、選好の背後にある理由づけや根拠として実に多様なものがある。選択場面において、多くの場合に明らかに対象を選ぶのではなく、むしろ根拠を選んでいるとしか考えられないケースがあるのだ。

対話例

   ふたりの兄弟が大きいリンゴを小さいリンゴをおやつにもらって話し合っているとしよう。兄はいきなり大きいリンゴの方をとった。

  弟「お兄ちゃん。ずるいよ。自分だけ大きい方をとっちゃって!」

  兄「どうしてオレがずるいのだ。オマエならどっちをとる?」

  弟「ボクなら小さい方をとるな。」

  兄「じゃあいいじゃないか。オマエはちゃんとそこにある小さい方をとっていいようになっているよ。」

   弟「・・・・・。」

 この場合、弟が問題にしているのは、明らかに兄が自分勝手に態度でリンゴを取ったという兄の選考動機である。どっちのリンゴを先に取ったかという情報を通して、弟はこのような兄の身勝手な選好動機が気に入らないのである。「ボクなら小さい方をとるよ」と言ったのは、別に小さいリンゴが好きなのではなく、「謙譲の精神」という選好動機を「自己本位」という選好よりも優先して考えているのである。

わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で、要求している内容の即時的満足ではないのである。選好したものを欲しているわけではないのである。わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が善いと思うコトを、他人の正しいと思っているコト、善いと思っているコトを主張しようとしているのである。

望ましい社会的決定というのは、そのようなコトができるだけ表明されるようにし、相互に主張し合うことを盛んに行うことができるようになされるべきである。

しかし、そのようなこと実現するためには、人々が本当に望んでいるコトが何かを診断するために最もふさわしいモノの選択を人々に求め、問うていることは「そのモノの好き嫌いではなく、そのモノの選択の背後にいだくコトである」ことを少しでも理解させる必要がある。これはモノの選択をせまる場合の枠組設定、人々の選択から結論をひき出すプロセスに、十分な配慮がなされるべきであることを意味している.

 わたしたちがやらねばならないことは、人々が望ましいと思うコトをかれらの選択を通して診断し、相互吟味を容易にし、その上で、みんなが本当に望ましいと考えるコトを実現することなのである。

 以上のことから、選択の場を通して選ばれたコトによって、相互理解を深めお互いに望ましいコトを実現するためには、何らかの選好なされることが大前提となる。「どっちでもいい」という自分の考えを放棄するような、または、選択の場が設けられているにもかかわらず自分で考えもしないような、相手に決定を任せてしまう言葉を発してしまうことは、相互関係が発展しないばかりか、不満の原因となってしまうだろう。

 本調査において、「どっちでもいい」と返答された場合に不満の原因に最も大きく影響していると考えられることは、項目で「Bさんに決めるのを押し付けられた」であり、この結果から否定的な「譲り合い」が原因になっているといえる。この「譲り合い」が起きると相互のコミュニケーションが途絶えてしまうため、選択を通してお互いに望ましいと思うコトを診断できなくなり、相互吟味を困難になり、お互いにとって本当に望ましいと考えられるコトが実現できなくなってしまう。

また、「洋食がいい」「和食がいい」と返答された場合に不満の原因に最も大きく影響している項目は「Bさんに決められたことに不快を感じる」「私の意見も聞いてほしいと思う」である。このことは兄弟のリンゴの話と通じている。選択機会を譲ったのは自分だが、意見も聞かずに決めた選考動機に不満を感じているのである。このことにより、望ましい社会的決定を行うためには決定へのプロセスを重視する必要があるが証明された。「私はこの方がいいと思うけど、あなたはどう考えてる?」というような返答方法が相互にコミュニケーションが取れ、相互吟味が容易になり、お互いにとって本当に望ましいコトを実現できるようになるのはないだろうか。望ましい社会的決定が行われるには、相互に正しいと思うコトをできるだけ表明されるようにし、相互に主張し合うことができるようになされる必要があるのだ。

 このような結論に至ると、まるで意見が主張されにくい集団主義では、相互に望ましい社会的決定がなされずに本当に望ましいコトを実現できないようになってしまう。集団主義について述べてきたことがここで重要な役割を果たす。集団主義的体質を持つ日本がここまで国として成長してきたのは、「どっちでもいい」と言いながら自己主張されないように思えるが、「恥の文化」でいう相手の出方を探っているのだ。ただ、さらに社会がよりよくなるためには受けるだけではいけない。また、個人主義の特徴である自分を出せばよいと言うだけでもコミュニケーションが取れない。本当に望ましいコトを実現できる社会には、相手に依存するだけでなく一つ一つの個性を磨きあげ表出し、自己中心的にならず個性を認め合うことが必要になってきているのではないだろうか。