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9月23日から12月31日までの分は整理中です。

最近の気まま日記 ダニエルさんちでおしゃべり NOZOMIの関心事
 2006年08月 フランスの写真大公開
フランスで再会を果たした従兄が、個人のブログで、旅行中の写真を公開しています。
従兄は今回の旅行中に、1000枚ほどの写真を撮ったそうです。
映像もきれいで、なかなか面白いアングルもたくさん。
これからもどんどん公開してくれるそうですので見てください。

トップページの『漂い人』をクリックするだけでも、従兄のブログに行けます。
アドレスは
http://imasami.mo-blog.jp/tadayoi/
右の『フランス紀行』です。
日本では滅多に見ることのない、アルビやカーモーの写真もあります。

       乞うご期待 !!
 2006年09月25日 やる気はあるんです。
 今年の始めに、訳したいなーと思う本があった。知人を通してその本が日本語に訳されているか、どこの出版社の取り扱いか、問い合わせてもらった。
 訳したいと思ったその本は、実はすでに契約済で、翻訳中とのことでがっかりしたのだが、問い合わせを行なった大阪の出版社の人から、
「あなたが前に訳された『サトウキビ畑のカニア』を読ませていただいております。良い本でした」と言っていただけた。それで、フランスで面白い本を見つけたら《レジュメ》を書いて紹介してください、との「社交辞令」を真に受けて、ひたすら素直に、いい本探しに努めたつもり。

 あらすじと、感想と作者の紹介など、まとめたものを《レジュメ》という。
《レジュメ》の中でも《あらすじ》は訳そうと思っている本の雰囲気がよくわかるよう《試訳》のつもりで、とのアドバイスをくれる友人もいて、彼が何度も読んでは意見を述べてくれた。結局5度以上も書き直した。どんなものでも書いたものを読み直すと、必ず書き直したくなる部分が出てくる。
 何度も書き直して、あまり代わり映えがしなくなったので、そろそろ提出しようか、ということになった。そして、本日、大阪の出版社に送らせていただいた。

 友人が間に入り、その出版社と関わりのある人を通して、《紹介》していただいた形ではある。とはいえ、メールだけのやり取りで、いきなりフランスに住んでいる、見ず知らずの者が送りつけたものに、「確かにお受け取りしました。検討させていただきます」と丁寧なお返事をくださる。日本に住んでいたら、出版社に何度も脚を運び、ちゃんとお会いして頭を下げ、世間話をしながら相手を探り、わたしは「検査」されるところではないか。
 こんなに簡単に(当人に取っては長い道のりだったのですが)企画を読んでもらった上に、いい返事が来たら、それはもう本当にすごいことだと思う。
 「この本はよい。子どもたちの読ませたい。そして売れるに違いない」と判断できるものであったか。。。企画を出してからまた悩む。もっともっといい本はたくさんある。読ませたい本もある。でも老舗の本屋さんが倒産する時代だ。

 時差と、ファイルが開けないなどの事情で「ちゃんと読めました。熱意を感じました。検討させてください」とのお返事いただけるまでにずいぶん時間が掛かってしまった。こんなことで信頼していただけるのだろうか。

 祈る気持ち。
 2006年9月24日 日曜日 馬祭り
 馬から落ちた本人は、あまり懲りていない。
秋の日曜日ともなれば、各地で催しがあるが、どこに行きたいかと言えば
「やっぱり、馬祭りでしょ」
この前《ロバ祭り》のあった、もネスティエという小さな町へ。

 JPの同僚のご主人で、馬車を持っている人がいる。二頭立ての馬車で、六人ぐらいを乗せることができる。速く走る、美しくは知る、障害物を除けながら走る。乗ってる人が馬車の上からものを取ったり、片付けたりする競技などなど。。。いろいろやっているスポーツマンだ。馬車を農業で使っている、というようなわけではなく、ただ、天気のよい日曜日の昼下がりに、奥さんを馬車に乗せて自然を走ることを生き甲斐としている人だ。
 
 彼のおくさん、つまりJPの同僚のジュヌヴィエーブは、JPと同じ年代の息子が約二人いる。でもなかなか結婚しないし、なかなか孫を連れて来ない。だからジュヌヴィエーヴはゾエとノエミに、なにかと言えばプレゼントをくれる。子どもたちが馬が好きだと分かった時には大喜びだった。催しがあるたびに、「馬車に乗せてあげる」と言って誘ってくれる。

 馬祭りは馬のコンクールなどもあり、発表までの待ち時間に観客に遊んでもらうために、馬車を持っている人たちはボランティアで集まって来た。子どもたちは先を争って、その馬車の席を取る。でも、ノエミとゾエ(わたしも)はジュヌヴィエーヴのおかげで優先してもらえた。子どもたちは5台の馬車に全部で7回も乗った。

 古い石畳の町を、馬車で走り回るのは、とてもお尻が痛い。石橋や林の中を通り抜けるのが、とても気持ちよかった。でも、普段こんな町中を馬車で走り回れるわけがない。けれども、馬車のおじさんは、
「たまに、道路も走ってるよ」と言っていて、ノエミがやっぱり車を売って馬車を買おうよ、と目を輝かせた。馬に乗って障害物競走で落馬されるよりは、馬車を買ってお買い物にも便利。。。という方がいいかなあ、とちらりと思ってしまった。

 それにしても、あの《クロタン(糞)》がねえ。。。わたしたちが毎日どこを通って通勤しているとか、どこで何をやってるか、町中の人にバレてしまう。それに匂いとか。。。町の人から苦情が出るだろうねえ。。。
 2006年9月20日 ギプスを半分にしてもらう
 ノエミが怪我をしてから一週間が経った。
予定どおり病院に行き、先週とは違う先生が、先週撮ったレントゲン写真を見て、
「このくらいの骨折だったら、今週からはもうひじからの固定は必要ない」
と判断した。

 ギプスを半分切ってもらうことになった。
あの、のこぎりというのは凄まじい音がする。
男性二人掛かりで、始まった。
わたしが逃げ腰でいるので、「このノコギリ波柔らかいものは切らないから」と言って歯を触って見せる。
いや、知ってます。わたしもやったことあるんで。。。
でも、やっぱり恐い。
のこぎりが今日に限って柔らかいものも切ろうと決心していたら???

ノエミのひじが自由に動かせるようになった。
一週間で腕がやけに細くなっている。
ひじは楽になり、脱ぎ着がちょっとは楽になったが、それでもシャワーも宿題も、お皿の上の物をナイフで切ることなども自分ではできないので、私にとってはたいした変化はなし。

 今日は商工会議所で、インターネットをいかにして授業で活用するか、なるテーマの研修があったのだが、行くことができなかった。仕方がないから自分で研究する。
(でも生徒が集まらないので、レッスンが開始されない。余裕ある。)
 2006年09月16日 音楽の日
 ノエミ、新学期はじめてのヴァイオリンのレッスン日。
夏休みもできるかぎり練習をした。
先週の会議では、去年同時期に始めたマリオンが「今年はヴァイオリンはやらない。夏休みもぜんぜんやらなかったから、すっかり忘れてしまった」と言っていて、半分がっかり、けれども生き残ったという《勝利》の笑みもちらり。
 「もっとやる気ある子かと思ったけど。。。」などと言っている。おいおい

 やる気があっても腕がギプスにおおわれていては証明できない。
先生もきっとがっかりするだろう。
会議の時に、ゾエにも試しにやらせてみたい、と申し出て、ちゃんと時間をとってくれたので、あさ2人を連れて音楽学校に向かった。

 ノエミがまたもや怪我をしてしまったので、先生もあきれていた。でも「乗馬をやめればいいのに」などとは言わないのがさすがだ。
 さて、ゾエちゃん。
わたしのお尻に張り付いている。
朝からあんなに張り切っていたし、なにより、去年度一年間、ずっと「わたしもヴァイオリンをやる!」と言い続けていたのに。。。
ぐずぐずしている間に、先生にお客さんがあった。ちょっとお話をして戻って来た先生はかなり不機嫌だった。ぐずぐずしているゾエにもいらだちを見せ始めた。
 先生はきっと、「こんな小さい子。お母さんがやれと言ったに違いない」と思っただろう。

フランスでは三歳ごろから音楽をやらせたりするのは一般的ではない。ゾエのクラスでなにか習い事をやってる子はほんとうに少ないと思う。ノエミがヴァイオリンをやってるといっても、「小さいのに、たいへんじゃないの?」と言われる。
 でも、この先生は「小さい時から始めたらいい」と言ってくれていたのだ。
結局ゾエは泣き出して、楽器に触ろうともしなかった。残念。
「ノエミが治ったら、いっしょに連れて来たらいい。ヴァイオリンに触らせてあげるから」と言ってもらえた。そうですかあ。

 あとでゾエは、「知らないおじちゃんだった。恐かった」と言っていたが、前にも会ったことはある。でも、たしかにちょっと不機嫌ではあった。子どもはそういう雰囲気を敏感に感じるものだろうか。

 その晩、近所の田舎の小さな教会で、フルートとヴァイオリンのコンサートがあったので、家族で出掛けていった。
 ヴァイオリンはノエミの先生、フルートも顔は見たことのある、音楽学校の先生だった。
息のあったコンビ。マイナーな作曲家を中心に、どんどん新しい曲に移っていく。とても楽しいコンサートだった。わたしは小学校の四年生から高校生ごろまでフルートをやっていた。

 この週末はヨーロッパ中で「文化遺産の日」というのが催されていて、普段開放されない文化財が無料で観覧できたり、博物館、コンサートなどが無料だった。このミニコンサートもその行事のひとつで、無料だった。でも田舎の小さい教会なのでお年寄りばかり30人ほどのコンサート。

 最後に、《文化財》のマリア像に捧げられた『アヴェ・マリア』がとても素晴らしく心に響いた。子どもたちも大喜び。ゾエも、ヴァイオリンの先生が面白いおじちゃんだというのが分かって、よかった。
 2006年09月15日 滑る
 午前中、婦人科の検診。
行っている婦人科は女医さん。とてもよい人で、よく話を聞いてくれる。

 数週間前に「いやらしいジェラシー」のタイトルで書いた日記に、JPの同僚のシルビーのことを書いた。金髪で痩せてて、できるキャリアウーマンだ。彼女が、夏休みの最後の金曜日に、乳がんが見つかって、緊急入院のあと、直ちに摘出手術を行なった。現在化学薬品を使った治療を行なっているそうだ。それはとっても厳しい治療で、髪の毛が束で落ちたり、食べてないのに吐いたりする、とても体力を消耗する治療だそうだ。離婚して、引っ越したばかりで、子どもたちは新学期から新しい学校に通う。一体どうしているんだろうと思う。

 シルビーのことを考えたら、わたしも胸が痛んで来て、いきなり癌のことが不安になったので、婦人科での検診でも訊いてみた。40歳からは、乳がんの検診を勧めていると言って、レントゲン技師への紹介状を書いてくれた。あなたは大丈夫だと思うので、年が明けてからでもいいと思うけどと言ってくれた。

 帰りがけに、スーパーによろうと思って、高速を途中で降りた。市道に繋がるカーブをおりている途中に、一瞬《目玉》を忘れて来たような気分になった。
《目玉》はその場所に止まって、脳みそだけがぐらっと左に動いた気がした。
車が滑っているんだということはわかった。
車がくるくる回った。後ろから来る緑色の車がよく見え、「気をつけてー」と声にならない声を掛けていた。運転手が口を半開きにして急ブレーキを掛けたが、スリップはせずに、わずかなところで止まった。中央分離帯にも乗り上げなかった。
 
 後ろからあと5台ぐらい続いているのも、よく見えた。カーブだから、誰かがどこかに追突するんじゃないかと思って、滑りながら遠くまで、後ろの方を見ていた。(ような気がする)
追突も対向車への被害もなく、車が止まった。
 急いで発進させようと思ったが、方向感覚がなくなっていた。ハンドブレーキを掛けていないので、車がずるずると滑っていく。誰もクラクションを鳴らさない。後ろの人たちが、自分のことを心配して見守っているのがわかった。両手で顔をぬぐって、大きく息をして、そのまま進んだ。

 スーパーの駐車場で休んで、落ちついて来たのでスーパーを歩き、夕食用の魚を2尾手にとったら、ぐずぐずしないで帰りたくなった。

 駐車場で車をバックさせていたら、窓を叩く女性がいた。
「さっきの車、あなただったでしょ?」と言われた。はじめ、なんのことかわからずにぼっとしていたら、指でぐるぐると円を描くので、カーブで滑って車をぐるぐる滑らせた、自分のことだと気づいた。
 その人はすぐ後ろではなくて、数台先の車に乗っていたらしい。古いプジョーに乗っていたのがアジア人だったから、わたしのことがわかったのだろう。
 「危ないところだったねー。大丈夫?恐かったでしょう?」
というので、当時の状況がよみがえリ、頭がくらくらして来た。
「あら、なにやってんの?と思っていたら、その瞬間ぐるぐるってまわったわよ。道路に油でもあったのかな?スピードも出してなかったのにね」と言われた。

 いや、それにしても、事故に至らずよかった。追突事故でわたしの後ろにいた人たちが怪我でもしていたら、どうしようもないところだった。それにしてもいま考えると、気分が悪くなってハンドルを切り損なったのか、滑ったから方向感覚だか、平衡感覚だかがなくなって頭がふらふらしたのか、よくわからない。とにかく、事故というのはあっという間に起こるのだ。

 そのカーブには、黒い人型のパネルが立っている。その場所で、少なくとも一人の人が亡くなっているという意味だ。実はいつもこのパネルがカーブから見えて来るその瞬間に「どきっ」としてしまうのだ。気をつけていたはずなのに。。。これからはもっと自覚しよう。
 2006年09月17日 09時12分45秒 突っ走る
 さてさて、まだまだ突っ走るのである。

9月11日 音楽学校の会議。新年度のプログラム発表。ノエミは水曜日の夕方、音楽の理論とコーラスの授業。土曜日の午後3時からヴァイオリン。夏休みもキャンプに行った3週間以外は毎日練習したので、今度の土曜日が楽しみ。ゾエもヴァイオリンをやりたがっているので、土曜日の10時半に予約を取った。先生が小さい子用の小さなヴァイオリンに触らせてくださるそうだ。

9月12日 幼稚園の会議。担任との顔合わせと、教室の案内。幼稚園で今年習うことの簡単な説明が行なわれた。

9月13日 午後、ノエミを乗馬に連れて行く。午前中にアントワンを預かっていたので、午後はモーガンがゾエを預かってくれることになった。アルビへ買い物に行く。乗馬クラブにノエミを迎えに行くと、ノエミが額から血を流して、手首を包むようにしている。「また、落ちた」
見学の父兄と、クラブの先生から「痛み止めのクリームをぬって、大事にしなさい」と言われて帰る。あまり痛がってはいないけれども、「見た目より痛い」と本人が言うので、夜か明日になっていたくなったら困るので、一応医者に連れて行った。受付で「また来たの?」と言われる。
 結局、右手首骨折にて、二の腕から指までの豪勢なギプスをされてしまった。今年二月にひじを怪我してギプス経験ありの我が子は、「慣れているから」と、着替えも食事も手助け不要などという。こーんなことで慣れても困るんだよなあ。右利きで、ただでさえミミズの這ったような字なのに。あーあ

9月14日 大雨。いきなり最悪。急に寒くなってしまい、前日まで来ていた半袖が着れなくなった。ギプスが通る袖の服を探して大わらわ。雨合羽には腕が通らない。前が閉められない。風が強くて片手では傘がさせない。ゾエは雨靴を履いているので、水たまりを選んで歩く。わたしはノエミの重いかばんを肩代わりである。子どもたち学食の日。ゾエは大喜び。ノエミは不機嫌。

 午後商工会議所の体験授業へ。大雨で、最強にしたワイパーの効き目がないような午後だったので、体験入学者の数も例年に比べると大幅に少なかった。去年の学生2人が来てくれていたが、あとはスペイン語の先生と中国語の先生が、サクラで来てくれたのと、スペイン語の体験を終えた人が、お情けで日本語に残ってくれたので、頭数が揃って、レッスン開始。今年も2クラスもらえるかどうか、際どいところ。商工会議所では、少々レベルが違おうとも、できるかぎりひとつのクラスにまとめて、わたしのレッスン料を抑えたいのだ。毎年「少々」とは言えないレベルを混ぜてくれるので、たいへん苦労している。
 2006年09月17日 08時44分41秒 矢の如し
 先週は31度だったのに、本日は日中16度だった。寒い。

ここのところやけに忙しかったので、さあ、まとめて日記でも書こうと思ったが、時計を見たらもう2時だ。

新学期だったので忙しかったのだ。
9月4日 新しい学年度始まる。ノエミ仲良しの子といっしょになれて幸せそう。ゾエは全部で24人の大きい組に6人だけ入れられてしまった《中ぐらい組み》の一人。前のクラスから顔見知りは2人セシルとイネスのみ。どちらとも仲良しなのでよかった。イネスは教室の入り口で大泣きして、お母さんが困っていた。
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9月5日 前日人が多すぎて支払えなかった、給食の費用を払うために、再び市役所へ。給食代金は親の納税状況によって異なるので、納税を証明する書類を持って行かなければならなかった。そーんなことすっかり忘れていたので、手ぶらで行ってしまった。「ご主人様の税金は?」と訊かれたがJPの給料がいくらかも知らないのに、税金払っているかどうかも知る由もなし。出直してください、と言われた。

9月6日 野菜を購入している農場で、月一回のピクニックがある日。ベジタリアンな人たちのために、野菜だけのちらし寿司を作って準備した。夕方からアントワンくんを預かっていたが、モーガンが遅刻したために、ピクニックに出掛ける時間を過ぎてしまった。仕方ないから、私とノエミだけで農場に野菜を取りに行く。

9月7日 商工会議所での、新学期会議
来週一日体験日というのがあるので、その話し合い。新しい中国語の先生が加わっていた。
英語、スペイン語は顔見知り。イタリア語やロシア語は数年前から交代。アラブ語の先生とは顔見知り。わたしは一番古株。(そして一番よいお給料をもらっている。。。だろうかねえ)
子どもたちは学校の食堂に行かせる。ゾエは大喜び。ノエミは不機嫌。

9月8日 午前中の早い時間に、JPの両親到着。3人で朝市へ。両親も買い物に参加。義父が荷物を持ってくれた。夜、義母の65歳の誕生日をとりおこなう。
ノエミは木箱に金色のペンキを塗り、おはじきやビーズ、ボタンなどで飾ったきらびやかな宝石箱をプレゼント。JPは竹で作った洗濯物干をプレゼント。木製の洗濯バサミがぶら下がっている。
あまりにも美しい洗濯物干なので、義母はシャンデリアのようにお部屋に飾ると言っている。
 この人にしては上出来な褒め言葉であった。

9月9日 ノエミ、友達のお誕生会に招待されている。前に住んでいたところの友達で、かなり遠い。仕方ないので、義父母とわたしたちは、ノエミを送って行ったついでに、そのそばのレストランで食事することになった。その近辺を散策。パステル博物館に行って、パステルと呼ばれる《藍》のような染料についての講義を聴いた。面白かった。

9月10日 近所で行なわれていた、ローカルな蚤の市に行った。昔小学校で使われていた、木と鉄でできた小さな机が出ていた。机の表面にインクつぼをはめ込む穴のついた、机の部分とイスの部分がくっついてセットになっているものだ。15ユーロとは安い。その村の学校に寄付されるそうだ。欲しかったのだが、車に積めないし、家のどこに置こうかということになって、結局買わなかった。わたしは正時ごとに12羽の異なる鳥の声で時を刻む時計というのを1ユーロで買った。電池式のちゃちなもの。それに正時の五分前に鳴るし、7.8.16時以外の鳥は啼かない。

 義父母が帰る直前になって、ノエミのわがままから、嫁と姑の争いとなった。いつものことながらわたしがキレて、姑を追い出すわけにも参らず、嫁のわたしが自宅を飛び出した。夕方遅くなって、義父母がナルボンヌに帰ったころに、わたしものんびり帰宅した。

矢のように過ぎ去った一週間。丸く終わらずツンツンで、こりゃあいかん。
 不平の大地に花が散る。。。。
 2006年09月04日 新年度スタート
 今日から新学期。新しい学年のスタートだ。
先週になってやっと学用品を買い揃えた。6月に学級編成の表が張り出されるので、9月の新学期の担任とクラスメートの顔ぶりは知らされていた。まいとし、学年が変わるごとにお買い物リストが配られ、買いそろえるべき学用品が指示される。みんなだいたい同じものを揃えることになる。子どもたちは連絡帳や、バインダー、ペンケースなどで、おしゃれに差をつけようとがんばる。

 数年前までは学生のかばんが重いことがずいぶん問題になった。10年ぐらい前の小学生は、みんなハードカバーの重い教科書を、リュックサックに詰め込んでいて、体重の半分以上もあるものすごいかばんを背負っているような子どもも居た。最近の小学生のかばんには教科書はごく少なく、宿題も、教室でも、コピーが多く出回っている。教科書や参考書、副読本などは学校に置いてあって、みんなで貸し借りをしながら読むことも多い。

 2年ぐらい前にノエミは、かばんが重すぎて立ち上がれないことや、後ろにひくり換えるというようなことがあった。それで、JPの母がキャリーのついた旅行ケースみたいな、いま流行のかばんを買ってくれた。まっすぐな道路や、平らな廊下を転がすには都合がよくて、ノエミはかばんになんでも詰め込むようになった。石ころも、ゴミも。。。

 けれども、自宅は2階建てで子供部屋は2階であるし、歩道にはいつも路上駐車の車が半分乗り上げているために、学校にたどり着くまでに何度も歩道から道路に下りたり、道路から歩道に戻ったりしなくてはならないので、転がすというよりも、持ち歩くことになる。
 学校は2階建てで、エレベーターもエスカレーターも当然なく、母も居ないので、子どもは自分のかばんは自分で持たなくてはならない。だから、キャリー付きの超重量リュックは、危険だ。
キャリーがあるという安心感から、リュックサックよりもたくさん詰めてしまっているので、そんなかばんを階段の途中で転がしたり、仲間の脚の上を轢いたり、その巨大なスーツケースが教室で邪魔になったりするのがいやで、私はそのかばんを学校に持って行くことを禁じてきた。一年間毎日注意して、どんな時にも替わりに持ってやることはせず、邪魔になったりすると叱ってきたが、だめだった。ころころ転がして歩くスタイルが、スチュワーデスみたいでかっこいいのだ。

 学用品を揃えたら、かばんがパンパンになった。JPが何を言って説明したのかわからないが、ノエミは前に使っていた肩掛け用のリュックを出してきて、膨らんだかばんを背負って出掛けた。今日持って行く学用品のほとんどは、先生が確認したあと、教室の棚に保管されるので、帰りはだいぶ減っている予定だ。
 
 ゾエの持ち物は、私用のものはほとんどなく、名前を付けずにクラスみんなで分け合って使うことになる、紙のティッシュと濡れティッシュのケース、サインペンのセットなど。お絵描き用のエプロンは去年の使い古しだから汚いまま持たせた。室内履きはお隣のメリオッサンのお下がりをもらったので、ちょっと拭いて持たせた。お昼寝用の大きなバスタオルはうちにあったものだけど新しいものにした。連絡用に使われるとおぼしき、真っ白な封筒5枚も、リストにあったので持たせた。

 新学期はきれいな服を着ている子どもが多い。でもうちの子たちは夏の名残、日本の友人などのお下がりなどで出て行った。朝涼しかったので、長袖で出て行ったのだが、お昼に帰ってきて、靴下も長袖もズボンも脱いだ。まだまだ夏の名残で大丈夫そうだ。

 新しい学年が始まって、私もやる気が出てきたが、とりあえずはこの静けさを味わう。。。
(といいつつ大掃除が待っているのだあ) 

 
 
 2006年09月01日 夏の終わり
 隣家に挟まれた壁のすきまの、我が家の小さな中庭から、真っ青な空が見上げられる。
《中庭》と称されている小さなスペースの、更に小さな地面の土に、緑が映えてきている。
トマトはそろそろ終わりだ。オシロイバナが満開で、その他にも『日本の芝生セット』という種の袋をばらまいたあたりに、日本の河原の土手に咲いているような小さな草花がにょきにょき生えてきて、雑草化している。しめしめ

 ああ、9月になってしまった。
夏休みが終わる。夏はとっくに終わってしまった気配だ。

 ゾエが蚊に刺されたらしい。夏も終わって、今年初めて蚊に刺された。
右目のまぶたなんか、刺されちゃって痛々しい。
あまりにもお岩さんを連想させるので、朝食のテーブルで、いきなり『番町皿屋敷』の物語を語ってきかせてしまった。朝っぱらから。。。

 夕べちょっと膨れていたので、うちにあったクリームを塗ってやったら、今朝は《お岩さん》で、まぶたが開かないので、午前中にマスリ先生の診療所に連れて行った。
待合室で、なにやらせっせと書いていると思ったら、マスリ先生にプレゼントする絵だった。
いつも出掛ける時にはペンと紙と、雑誌などを持ち歩く。

 どんなヤブ医者でも間違えようのない、ただの虫さされでしかなかったので、虫さされの薬を処方してもらい、薬屋に直行した。朝市にはJPとノエミに行ってもらった。

 JPは屋根裏部屋に天窓を取り付ける作業で一週間が過ぎた。
わたしは、サロンの残っていたペンキはがしをやったりしている。
子どもたちは学校が始まるのが待ち遠しそうだ。退屈している。
 2006年8月19日 - 23日 メリーゴーランド
 去年日記をつけ始めた頃に、カーモーの《サン・プリヴァ》のお祭りについて書いた。ノエミはゴーカート、ゾエはメリーゴーランドに明け暮れた。
花で飾った山車も出て、ミス・カーモーの乗った車や、ハラダンス、フラダンス、ポンポン・ガールやウエスタン・ダンス、フラメンコや器楽合奏隊が、町中を練り歩く。

 今年はノエミがいなかったので、しつこく「行こう、行こう」という者がおらずに助かった。
《か》さんたちや、従兄たち、ソフィーたちも帰ってしまって、本当に残念だった。カーモーがこんなににぎやかな姿を見たらびっくりしたことだろう。全国では《春を呼ぶカーニバル》というものが3月や4月に行なわれるが、カーモーは初秋。夜にメリーゴーランドの順番待ちをするのはけっこう寒い。特にこの期間は例年よりずっと気温が低くて、お祭りに来ていた人たちはみんな厚着をしていた。そういえば去年の写真でも、ノエミが雨合羽を着ていた。

 ゾエは、去年と同じ自動車の形をしたメリーゴーランド(?っていうのかな)、ゴーカートみたいにいろんな方向には走らないが、ちゃんとハンドルのついている自動車の列になっているものに乗りたがった。そして、去年と変わらず《アヒル釣り》去年と趣味が変わったのは《アヒル釣り》の景品で、去年までなにかもらえると言えば《自動車》とお願いしていたゾエが、今年は《お姫様変装セット》だった。

 ノエミは親戚も、お祭りも、全部のがしてしまった。ああ、残念だ。
 2006年8月15日 大雨
 曇り空で、お客さんには申し分けない。
本日は祝日にて、JPが自宅にいるので、ナジャックというところに出掛けた。
古い崩れかけたお城があるところだ。
大雨で寒くて、走り回った記憶しか残らなかった。
カルカッソンヌやビストさんのお城に比べたら、手入れが悪くてとても危なかった。
わたしとソフィーのお目当ては、大きな蚤の市だったのだが、結局大雨が降り出してからは店じまいしたスタンドばかりで、何も見れなかった。赤ちゃん連れで行く所ではなかった。

 残念
 2006年08月14日 ゆく人たち、来る人たち
 朝早く起きて、車二台でトゥールーズへ向かう。ガソリンがほとんど入っておらず、不安だったが、なんとか駅にちょうどよい時間についた。30分しか駐車できない路上パーキングでも大丈夫だろう。

 ホームで写真を撮ったり、自動販売機のお菓子を買ってあげたりしていたら、もう駅員さんの笛が鳴っていた。
最後のお別れもろくすっぽ、子どもたちは電車に飛び乗るようなかっこうとなってしまった。従兄と奥さんの《の》さんが手を振るのを見ていたら、涙が出て来た。《の》さんが「お母さんのことも任せなさいねー」というので、ドーッと涙が出て来た。

 ホームでプレゼントをもらった。わたしは荷物になるのが気の毒で、お土産はほとんど持たせなかった。あんなにたくさんあった荷物を、上手にスーツケースに詰め込んでいた。確かに来る時にはわたしへのお土産で重くして来てくれていたのだろう。その分今晩泊まるパリで、フランスのお土産を買えるだろうか?

 電車が去って、わたしたちの夏が終わった。急に寂しい秋が来た。
でも、みんなを無事に電車に乗せたから、めでたし、めでたし。

 さて、レンタカーを返しに行かねばならない。午後から、今度はJPの弟一家がやって来る。
ガソリンを満タンにして返す。借りた時の契約で1750キロまでは230ユーロと決まっていて、《か》さんと従兄がほぼ半分ずつ、お金を出してくれていた。本当はレンタカー代なんかいいんだよと言ってあげたかったのだが、実は契約以上走って、超過料金を取られることは予想できていたので、従兄たちが出してくれるのが有り難かった。

 案の定、2400キロ以上走っていたので、超過料金の額も大きかった。JPが全部払ってくれたが、ちょっと月末は大変になるだろう。

 お昼ご飯を食べて、掃除や片付けをしていたら、もう弟たちが来てしまった。
甥のコランは一歳になったばかり。笑顔がかわいらしい、金髪で青い目の男の子だ。なんでもよく食べ、あまりぐずらない。赤ちゃんの見本のような幼児だ。
義妹のソフィーは、一歳年下だが、わたしよりもずっとしっかりした女性だ。とても優しい。ナルボンヌで従兄たちに紹介できて本当によかった。この妹がとても力強い味方となってくれているのだ。

 本日はみーんな疲れているので、お家でゆっくり。
コランとゾエが寝て、やっと静かな夜がやってきた。JPも楽しそうにしている。

 パリの従兄たちから、電話が掛かって来た。まさか本当にやるとは思っていなかったが、ルーブル博物館で、見るべきものは全部見る1時間コースというのがガイドブックに出ていて、それを親子5人でやり遂げたらしい。一番下のしゅん君がパリでナポレオンのお土産を買ったと言って喜んでいた。出発前日に疲れからか、豪勢な鼻血を出した中学生のなっちゃんも、元気そうだった。よくお母さんのお手伝いをするいい子だ。クールなお兄ちゃんも興奮している様子。親子水入らずになって、羽を延ばしているようだ。このお兄ちゃんが一番よくゾエと遊んでくれた。

 気をつけて、また会う日まで。
 2006年08月13日 一日中遊ぶ
 最後の一日となる。おもいっきり楽しむつもり。
夕方はほとんどいつもうちで食べて、シャワーのあと民宿に送っている。
明日の出発の時間なども考えて、本日は自宅に泊まってもらった方がみんなのためではないか、ということになったので、朝のうち民宿の清算を終わらせた。一日分は泊まらないのに払うことにはなったが、民宿のおばさんの方が申しわけないと言って、洗濯機をレンタルした費用は精算されなかった。「子どもたちもみんないい子たちで、親切な従兄一家だったね」と言われた。

 家財道具一式を持って自宅に戻ったあと、荷物を家に残して、ピクニック用品に取り替え、一路ジルッサンへ。
 ジルッサンの朝市で、おいしい物を沢山買って、川のほとりでピクニックをした。
午後は、文化財に指定されている蒸気機関車に乗った。子どもたちも大喜びだ。
 機関車の終点は植物園。広大な植物園で、珍しい植物のほかに、「あ、これ、フランスでも咲くんだねえ」と従兄の奥さんが日本名を教えてくれたはながたくさんあった。

 ジルッサンという町は、陶磁器が盛んなところで、市が運営している博物館では、販売展示を行なっている。当時のテーマは、「食」に関する陶磁器だったので、台所用品や、食器などが沢山出ていた。
 従兄たちとは日本に帰った時に《美山の釜元市》で会った。わたしの両親がそこの市に例年どおり参加していたので、両親とともに、わたしの子どもたちとJPと出掛けた。その年、父と母にとって最後の市になってしまった。従兄たちは毎年ちょうど結婚記念日にあたることもあって、その釜元市で陶磁器を買うことに決めているぐらい、焼き物が大好きだ。従兄の奥さんが、いくつか焼き物を買っていた。なかなかよい趣味だった。わたしは従兄のお母さんのために、焼き物のフクロウを買った。

 早めに帰宅して、明るいうちにテラスで食事をした。今晩はいよいよスーツケースを整理しなければならない。でも、夕食のあと、大人たちはおしゃべりが弾み、男どもは食後のコニャックまで出して、ずいぶんにぎやかになった。
 子どもたちはほとんど雑魚寝状態ながらも、ノエミとゾエの部屋に寝て、従兄夫婦は。できたてのサロンに、荷物の山に埋もれるようにして夜を過ごした。
「ほんとうに、明日の朝までにスーツケースの準備ができるのかな?」と心配した。

もうちょっと続く
 2006年08月12日 地中海へ
 《か》さんたちには申し分けなかったが、リムジンバスに自宅前まで来てもらって、空港までわたし抜きで行ってもらうことになった。リムジンバスと言っても、個人タクシーみたいなもので、ほかに乗り合いの人がいなければ、一人で90ユーロも払うことになる。

 《か》さんにはこの日は電車でトゥールーズまで、そこからタクシーで空港まで行ってもらうことになっていたので、従兄たちをナルボンヌの義父母の家に案内することは、ずっと前から決めていた。義父母の家にはパリから帰郷している弟たちも揃っていて、お昼ご飯を一緒に食べることになっている。

 従兄たちと一緒にトゥールーズ経由で《か》さんを空港まで送るというてもあったのだが、ものすごい遠回りになるのと、遠回りするのに高速で行くから、3日間放ったらかしにした従兄たちに、何も観光させてあげられないことになる。ひとりで電車で行くのは不安という《か》さんに頼み込んで、わたし抜きで空港に行ってもらった。ちょっと心残りなお別れ。

 朝《か》さんを自宅前で送り出してすぐに、従兄一家を民宿へ迎えに行った。みんなは朝早くにもかかわらず準備万端、玄関前で待っていた。 

 高速は使いたくない。小さな山路や、村や商店街を抜け、写真撮影のための休憩もしながらゆっくり行きたい。子どもたちもおトイレや、おやつ休憩が必要だ。車の中で従兄の奥さんとたくさんおしゃべりできた。ゾエは後ろの席で、お兄ちゃんと仲良く遊んでいる。

 ナルボンヌには11時ごろ到着。久しぶりの感動的な再会(義父母と従兄は、11年前のわたしの結婚披露宴で会っている)のあと、義父母の家でアペリティフ。そのあと近くのレストランのテラスでお食事をすることになった。子どもたちには大型の遊具のある、とても広い松林をテラスにしたレストランだった。

 食後、従兄の念願だった地中海を見るために、海岸へ向かう。風が強く、水は冷たかったが、みんな大喜びだった。びしょ濡れになって水に入っている。指宿の者には、長い間海を見れないということはとても淋しいものだ。そして、海の向こうに大隅半島のない、こんなに広い海を見るというのは、あこがれだ。これほど遠くまで来て、この海が指宿まで繋がっていると思うと感動する。
この海の水に脚を浸して、はしゃいでいる従兄の気持ちがよくわかった。

 夕方義父母宅に戻って、みんなはプールで泳いだ。風よけのカバーがついているプールなので、温水プールみたいに暖かい水だ。みんながはしゃいでいる間、わたしは昼寝をした。

 夕日とミディ運河を左手に見ながら、帰途につく。オレンジの光がどこまでもまっすぐ続く、プラタナスの並木道に見え隠れする。夏休みの終わりが近づいている。
 夕食は、出発前に支度してあったカレーライス。子どもも大人も大喜び。日本の食事がもう恋しくなっているらしい。わたしの《カレーもどき》にも歓声が上がる。

 こーんなにいい日はないというぐらい、楽しい一日であった。 つづく
 2006年08月11日 アヴィニョンの橋で行き詰まり、アルルで座り込んだ女
 夕べから、もうお金が一銭もない。JPがお小遣いをくれていたのだが、食事・いろんな場所の入場料・メリーゴーランドのエサ代・食事代・ガソリン代・高速道路・コーヒーやトイレ使用料など、財布に穴が開いてるようだ。「ずっと運転するのはみのりさんだから」と、《か》さんが本当にずいぶん加勢をしてくれた。ホテル代も出していただいたし、高速道路でもずっとカードを手渡してくれた。でも家を一歩出ると、お金が出て行くものなんだなあ。家でじっとしていて、ただ寝て暮らし、息をしているだけでも、電気代やら水道代も出て行くのだから、《観光》なんかしようと思ったら、何ヶ月も前からお金を貯めて、予定を立てていなければならなかったのだ。

 従兄が実家の母に《餞別》を預かってきてくれた。母が汗水たらして働き、貯めたお金が祝儀袋に入っていた。母は《従兄》にも餞別をあげていて、2人分できっと母の一ヶ月の給料全部ぐらい出したのではないだろうか。

 もしものためにと、JPがくれたお小遣いのほかにその《円》を持って来ていた。悩んだ末に、アヴィヨンで少しユーロに換えた。アヴョンはフランスだから、スペインに行った時のように珍しい物はない。ただ、こーんな遠くまで来た以上は見ずには帰れない場所というものはある。世界中から人が集まる街。見どころはいっぱい、博物館もたくさんある。商店街はカーモーとは比較にならない派手さだが、物を買う余裕はない。

 たくさん歩いた。法王の宮殿はものすごく広くて、石の階段や、細い廊下が迷路のようだ。日本語の解説テープもあったが、ゾエがそれで遊んでいたので、私は解説は聞かずに、書いてある表示を読んだり、ただ見るだけだったが、タイルや建築が素晴らしく、高い入場料を払っても中に入って本当によかった。

 街を一周し《アヴィニョンの橋》に行った。橋の上を渡ることもできた。(有料)
 「橋のー上でー踊るよ、おーどるよ。橋のー上でー輪になって踊ろー」という歌詞は、フランス語もまったく同じ。子どもみんな好きな歌だ。でも《ゆ》ちゃんも《か》さんも知らないというのでびっくりした。私は子どものころからこの歌を知っていた。ピアノを習っていた時に《メトードローズ》という本を使っていて、実はそれがフランスの本だったというのを近年知った。その本で習った曲は今でもよく覚えているのだが、実はその中にフランスの童謡がたくさんあったらしい。そーんな昔から、フランスの音楽とは知らずに学んでいたとは奇遇だ。

 本物のアヴィニョンの橋というのは、途中で切れている。ぷっつり見事に切れている。上で踊るようなスペースはあまりないし、石畳でコケそうになる、とっても危ない橋だ。
ゾエも「えー、これがアヴィニョンの橋?」と驚いていた。

 お昼はサンドイッチで済ませることにして、一気にアルルへ向かうことになった。換金したのでガソリンも入れることができた。本当はアヴィニョンは10時ごろに出て、アルルには午後ちょっと行くだけにしたかったのだが、《か》さんはアルルをとても楽しみにしていた。

 アルルに着いた時には、ゾエが寝ていて、《か》さんたちには「わたしも車で昼寝するから遊んでおいで」と言って行かせた。みんなは車の中でサンドイッチを食べたけど、私は昼食もとらずに運転していたので、不機嫌だったせいもある。狭くて蒸し暑い車内でサンドイッチを食べていたら、ゾエが目を覚ました。

 ローマ時代から建っている円形競技場車のそばに車を止めていたのだが、そこから機関車の形をした観光バスが出ることになっていて、30分のコースがあるというので、それに飛び乗った。《か》さんに電話して30分後に車の前で待ち合わせた。

 アルルの名所を30分、歩くこともなく、子どもは大喜びで見て廻ることができて、本当によかった。アヴィニョンに比べたら寂れていて、建物は改修されておらず小さい町だが、なんといっても、いまだに昔ながらの闘牛が行なわれているような、石づくりの円形競技場をアップで見たのは感動的だった。私とゾエは中に入る時間はなかった。約束だったアイスを食べさせた。

 カーモーまで高速道路を使って5時間以上掛かった。トゥールーズ辺りで、《ゆ》ちゃんが喋り始め、カーモーまで約1時間ずっと東京の小学校のことを話してくれたでの居眠りしなかった。

 この3日で一応920.81km走ったことになっているが、道に迷ったり、駐車場やガソリンスタンド、スーパーや高速の入り口を探して行ったり来たりしたこともあったので、軽く1000キロは走っていただろう。

 従兄たちは《か》さんに最後のお別れを言うために待っていてくれた。義従姉が夕飯を作っていてくれた。甘い卵焼きがおいしかったあああ。

    無事到着にてめでたし。
 2006年08月10日 アヴィニョンの橋の上で踊る、アルルの女たち
 午前中は、スーパー開店と同時に突進して、スペインの日用品を見て歩いた。私はスペイン産のワインとフラメンコのCDと、土鍋を買った。《か》さんもスペインのお茶などを大量に買っていた。そのあとジローナの町でまだ見ていない東側の観光。《か》さんは観光土産のお店を見たいと言った。そしてちょうどお昼ごろ別なスーパーへ、昼食用の買い出し。
 高速の入り口はわかったのだが、方向を間違えてしまった。結局太陽の方角と、線路の位置などで、わたしたちはフランス国境から離れつつあることを確信した。Uターン、そしてまた自信をなくしてUターン。その辺りでUターンの連続、つまり3回ぐらいOの字を書いて、ガソリンスタンドに到着。おばさんが身振り手振りで、フランス国境への入り口を教えてくれた。

 本日は、アヴィニョンに泊まる予定。夕方暗くなってからようやくたどり着いた。ジローナからアヴィニョンまでは距離にして340キロぐらい。途中渋滞などもあったので、ずいぶん遅くなってしまった。アヴィニョンは観光客で溢れていた。シテ内には駐車する場所がなくて、ホテルで《か》さんたちを降ろしたあと、はるか彼方の郊外にやっと車を止め、私とゾエはまたしてもひたすら歩いた。ぜーぜー
 携帯で連絡を取り合って、レストランが軒を連ねている地区で待ち合わせることができた。

 《か》さんのお誕生日なので、私がごちそうすることにした。でもちゃんとしたフランス料理を食べさせようと思ったら、3時間も4時間も掛かりそうだったので、《か》さんもその辺の空いている所でいいよ、と言ってくれたので、手頃なテラスに腰をおろした。

 ゾエがメリーゴーランドに乗りたいと言っている。きらびやかにライトアップされた夜のメリーゴーランド。《か》さんは「明日また遠くに行くんだから、早く帰って寝よう」と言い、《ゆ》ちゃんには夜遊びを許さなかった。もう10時ごろなので、そりゃあ当然だ。でもわたしは、ひたすら振り回されているこの小さな我が子が不憫で、「じゃ、食べ終わってからね」と約束してしまっていたのだ。《ゆ》ちゃんには気の毒、《か》さんには申し分けなかったが、「ちょっと車に忘れ物をしてしまって」とかなんとか言い、ホテルには別々に戻ることにしてもらって、2人の姿が見えなくなってから、ゾエをメリーゴーランドに乗せてあげた。

 今晩は一部屋に4人で泊まることができなかったので、2人部屋を2つとってあった。ゾエはママンと2人だけで、しかもゆっくりホテルのお風呂に入れると言ってとても喜んでいた。

 ゾエのお風呂を溜めている間に自宅に電話したが、10時半を過ぎているというのに誰も出ない。
11時過ぎに掛け直すと、JPが「従兄が気の毒だったので、昨日はフランス料理のレストランに連れて行き、今日はうちでいっしょに食事して、さっき車に5人乗せて民宿まで送ってきたところ」と言った。5人乗りの車に6人乗せたとは。JPがそーんな法律違反のできる男だとは思っていなかったので、ちょっとびくりしたが、従兄の面倒をちゃんと見てくれたようなのでほっとした。

 ゾエと2人で、お風呂に2時間ぐらい入っていた。今晩は部屋が別々で、これまでのように行かないので、夜中となりの部屋の《か》さんから電話が掛かってきて、明日とあさっての打ち合わせを電話で行なった。

 あさって《か》さんたちはパリへ向かうのだが、トゥールーズの空港までどうやって行ってもらうか。。。ちょっと問題になっている。明日はアルルへ向かう。ホテルに着く手前で要ガソリン補給のランプが点滅して、ものすごいアラーム音が響き渡った。翌日ガソリンスタンドまでたどり着けるのか。。。不安。。。    続く
 2006年08月09日 スペインへ
 さあ、スペインに向けて出発だ。
パリまで《か》さんを迎えに行くのは経済的にも肉体的にも、時間的なことやいろんなことを考えて、とても難しいことだった。それでパリでは乗り換えるだけにして、一気にトゥールーズまで来ていただいた。子連れでさぞ大変なことだったろう

 でも、せっかく日本から来るのに、パリも見ないフランスの旅なんて。。。パリに行けないならスペインかイタリアか、どこか行きたいなー、ということだったので、最初はイタリア方面を予定し、あとで変更してスペインへとなった。こうやって書くと簡単にそうなったみたいだが、いっやあー「ジローナに行く」ことが決まるまでには、なにかと大変なことがいっぱいあった。車、飛行機、電車で行ける場所を比較、ホテルを比較、見る場所の内容を比較などなど、パソコンと電話の前で大忙しだった。「予定立てるのはお任せ」ということだったのに、予定を立てるとクレームがついた。その代わり、「お任せ」ではない《か》さんも参加しての予定づくりとなって、とてもよいことだった。《か》さん慣れないながらも自分でどうにかやって東京に居ながらにしてスペインのホテルを予約、支払いまでしていた。えらいッ!

 とにかく、わたしが運転手とガイドをやるなら、ホテル代も交通費も出すと言ってくれてるし、従兄は勝手にやってくれるというので、スペインまで行ってしまうことにした。
カーモーからトゥールーズに向けて高速に乗り、途中カルカッソンヌのお城を見に行った。カーモーから約180キロ、2時間ぐらいの所で、二重の城壁に取り囲まれた中世のお城がある。

 まずここは駐車場を探すのでひと苦労した。《か》さんたちをお城の前で降ろして、お城からはるか遠い場所にやっと駐車場を探した。はるか遠いので、ゾエを連れてたいへんだった。
 お城はものすごい人で、ゾエを歩かせると、人に紛れて子どもが窒息しそうになる。わたしも背が低いので窒息しそうだ。《か》さんたちはお土産物屋さんなども見たいということだったので、またもやガイドにはあるまじきことだったが「勝手に行ってちょうだい」と言って、待ち合わせ場所を決めて、わたしとゾエはメリーゴーランドの所で待つことにした。昼間らこんなに疲れていて、スペインまでたどり着けるのか、すごく不安だった。

 そこからいよいよスペイン国境に向けて、再出発した。さらに一時間半ぐらいで国境を越えた。《国境》と言っても何もない。高速の料金所よりも簡単で、パスポートも見せなかった。ちょっとがっかりした。ピレネー山脈の山間に入って行くので、カーモーやトゥールーズとは風景がまったく違う。国境に入る直前、フランスの最後の町ペルピニャンに掛かる頃に、地中海がちょっとだけ見えていた。

 《フランス最後の休憩所、次の出口はスペイン》という標識が見えたので、そこでトイレに行くことにした。実はその標識が見えるしばらく前に、車に装備されているコンピュータ仕掛けの表示盤が、なにやら怪しげなランプを点滅していたのだ。「今すぐ整備をしてください」とのこと。レンタカーなので整備は整っている、はずなのに。《か》さんには心配させたくなかったので、一人不安で走り続けた。このまま夜になってからスペインについて、故障だったら大変だ。休憩所の人に話して、そのあとレンタカーの事務所に電話をした。《整備》というのは《定期検診の時期ですよ》という合図だった。急ぎじゃないらしい。レンタカー屋さんの言葉を信じて、そのまま続けることにした。
 ほかのみんなはトイレもすませ、おやつを買ったり、飲み物を飲んだりしていた。自動販売機のまずいコーヒーを一気飲みした。

 国境のそばだからフランス語が通じると思ったのに、ホテルの受付嬢以外は、フランス語がまったく通じなかった。でも、お金はフランスと同じユーロが使えるからたいへん便利。こんな風に自分で車を運転して国境を越えたのは初めてだったので、わくわくしたが、町の全体の雰囲気や、商店で売られているものは、南フランスとあまり変わらないので、ちょっと残念だった。やはりバルセロナ辺りまで行かねばだめだったか。。。

 ジローナという町には古いユダヤ人街があって、ユダヤ人の歴史に関する博物館があったのだが、それはゾエが疲れていたので、友達だけ行かせてわたしたちは外で待った。そのかわりカテドラル(大聖堂)には入った。11世紀から建設の始まったローマ建築のカテドラルは巨大で、12世紀に織られた国宝のタペストリーを見た。

 ユダヤ人街の細い路地で、レストランに入った。パエリヤを食べたのだが量がありすぎて食べ切れなかった。パエリヤはおいしかった。でもゾエが頼んだパスタはまずくて食べられなかった。パスタはやっぱりイタリアか。

三ツ星のわりに寝心地は悪く。やれやれ続く

 
 2006年08月08日 予定が狂う
 友達と従兄が来ることになってから「着いてからのことは任せる」と言われたので、はりきって予定を立てた。「今晩の夕食は何がいい?」と訊ねて「なんでも。。。」の返事が一番困るのと同じで、主張がない人の「なんでも」に応えるのは本当に大変だ。

 ただ、現地の事情を知らない人たちに「何が見たい?」と訊いたって「そこにはエッフェル塔は、ないよね?」などと言われるのが関の山なので、一応うちから半径100キロぐらいで一体何ができるのかを考えることから始めた。

 8月7日と8日は、とくに頭が痛かった。とりあえず、モーガンの車と、JPの助けと従兄一家の根性で、7日の夜中に無事カーモーの民宿に送り届けたので、第一のハードルは越えた。
 第2の8日は本当はミニバスを借りて、ジルッサンという町まで行き、そこから蒸気機関車で植物園に行ったあと、陶芸美術館を訪問する予定だった。でもミニバスは借りれず。わたしがうちの車で2往復して近場に行く案も考えたが、従兄の一家5人は疲れているので、お昼までそうっとしておくことにした。遠くまで行かずとも。
 民宿は《ラ・ファーゲット》というカーモー市内から北に車で5分の田舎にある。2往復して、お昼前に従兄たちを自宅に連れて来た。

 《ゆ》ちゃんと《か》さんは犬が苦手でボボが恐いので、テラスで食事したり、いっしょに犬の散歩をしたりすることができずにいたのだが、従兄の一家はみんな犬好きで、ボボとよく遊んでくれた。お昼はよそではなく《ダニエル家の庭》と呼んでいる《ジャン・ジョレス公園》でピクニックをしましょう、ということにした。手分けして食べる物を運び、ボボまで連れて、公園でピクニックをした。誰も来ない広い公園なので、みんな喜んでくれた。

 そのあと、歩いてカーモーの町を案内した。実は明日から3日間、わたしは《か》さんと県外へ行く。それでせっかく私に会いに来てくれた従兄には申し分けないのだが、3日間自分たちだけで生き延びてもらわなければならない。駅を見せ、バス停まで案内した。時刻表と地図を渡して、「悪いけど、どうにかやってよね」本当に悪い従妹だ。従兄は「電車もバスも好きだから、どうにかなるよー」と言い、けっこう心強いお父さんしてる。昔から口は達者な人であった。うちの家系の《知識人》でならした彼であったので、地図ぐらい読めるんだろう。英語も大丈夫そう?たしかに数学は強い、先生もやってたしね。ユーロのお買い物は大丈夫だろう。

 夕方、明日からの《か》さんとの県外旅行のために、やっと借りれたレンタカーを取りに行く。
JPにクレジット・カードを提出してもらう。すまないねえ。レンタカー屋さんには従兄が着いてきて、面白がっている。レンタカー屋さんに行く途中でJPが道を迷ったので、アルビの観光ルート以外の場所も通れた。帰りはレンタカーを運転しているわたしと来たので、遠回りをして、高速は使わずに田舎道を走った。車の中で従兄とたくさん話をした。
 
 従兄は今は、起業を考えている人たちを助ける仕事をしている。実はわたしだって、曲がりなりにもSOHOしている若き起業家であるからして、専門家のお話がただで聞けて、たいへんお勉強になった。そして、人とのつながりを大切にしようとか、いろんなことに関心を持って、自分を信じていこうとか。。。従兄がそういうことを言って、将来の起業家たちを励ましているという話を聞き自分がこれまで心がけてきたことが間違っていなかったんだと思えた。

 従兄のブログは《漂い人》というタイトルがついている。カーモーまで漂ってきちゃったお人。
フランス出発直前まで東京や広島を歩いていたらしい。ストップオーバーの韓国でも冒険してきている。ずっと調子よく喋っていたのに、ふっと声が聴こえなくなったと思ったら、グーグー寝ていた。あまりの突然さに、心臓発作かと思ったが、寝息が聴こえていたので安心した。忙しい人は、こうやって眠りにつくのもうまいんだろうか。やっぱり疲れていたんだろうなあ。
 「着きましたよー」というのが申し分けなかった。

 《か》さんと従兄のおくさんの《の》お姉さんは、すっかり意気投合している。農場から届けられた野菜も、ちゃんと受け取ってくれていた。子どもたちも和気あいあい、ボボもうれしそう。テラスでボボも揃って、テーブル二つでにぎやかな食事をした。暗くなり始めていたが今後連れて行けないかもしれないので、カーモーが誇るキャップデクベート(炭坑あとの穴)へ。
 「明日は満月だね」という、大きなほぼ丸い月がどーんと華やかに出ていた。

 騒がしく落ちつかないけど、にぎやかでとってもいい感じ。

 明日から3日間従兄たちとは別行動。
申しわけないけど、こっちもけっこう楽しみ。へへへ
                     まだまだ続く
 2006年08月07日 いよいよ、従兄たちが到着
 午前中、コルドへ。Corde sur ciel 《空の上のコルド》と呼ばれる町で、山の上に栄えた中世の建物が残る美しい町だ。その町に行くには、地上の有料駐車場に車を置いて、30分ばかり、急な坂道を歩いて上らなければならない。駐車料金はよそよりも高く、山の上の町のお土産屋さんでは、葉書が地上よりも30サンチーム・ユーロほど高い。土産物は高価なものばかりで、レストランもとってもシックだ。
 清水寺に向かう、あの雰囲気を味わえる。またしても、ぜーぜー

 風が強く、テラスには蜂が群れていたので、レストランの中で食べたいと頼んだのに、「働く人の便宜を考えて、他の人といっしょにテラスで食べてください」と言われた。フランスではこういうことが多い。でも客が多くてサービスは遅く、テラスには蜂がいて、子どもたちが騒ぐから余計に蜂が集まってきた模様。《か》さんはむっとしていた。ゾエは眠い時にお昼寝ができず、歩き回ってばかり居る今日この頃。ご機嫌をとり、おんぶしてやり、エサ(おかしやお土産屋の小物など)を与えてどうにか移動している。けれども、わたくしもそろそろ体力と気力の限界。《か》さんには町と博物館、土産物屋を勝手に歩いてきてよと薄情なことを言って、わたしたちは道ばたに座り込んだ。

 午後は、従兄たちが泊まる民宿へ、部屋のカギを取りに行き、自然派化粧品を買いたいという《か》さんを、自然派雑貨のお店に連れて行った。店長さんを貸し切りして、時間を掛けて化粧品を選んだ《か》さんは、ご機嫌になってきた。(そしてゾエは不機嫌である)
 そのあとすぐ隣のフランス雑貨のお店へ。一周するのにとんでもない時間が掛かったが、日本からのお客様は、フランスのおしゃれな雑貨が見られて喜んでいた。《か》さんはお皿を買うという、冒険に走った。本当に大丈夫なんだろうか。
 「今晩従兄が来るので、6時までにはうちに帰りたいんですけど。。。」と言ってみたのだが、もう一軒スーパーを廻りたいという意見が出て、帰り道のスーパーにご案内。当然6時までに帰宅できなかった。

 うちに着くとJPが「19時55分発のトゥールーズ行きに乗らないと、従兄の電車に間に合わないよ」と言って焦っている。わたしは10分で家族の食事の支度をしてから、そのまま出掛けることに。実は従兄は家族5人で来るので、うちの5人乗りの車では迎えに行けない。ミニバスは借りれなかった。タクシーは高くつく。(往復150-180ユーロ)そこで、わたしがアルビに車を置いて電車でトゥールーズに行き、従兄を迎えてのち、最終電車でアルビまで揃って戻って来る。JPがモーガンの車を借りてアルビで待つ、という計画を立てた。スーパーでうろうろしていたので、モーガンの家まで車を取りに行く時間がなくなってしまった。JPはモーガンの車を歩いて取りに行かなければならず、申しわけないことだった。

 残す家族とお客樣方の夕食を用意して、猛スピードでアルビに向かったが、2分遅れてしまった。もう電車は出た時間だったが、フランスの電車は時間どおりに来ることはないので、本日も遅れているかも。駅に走り込んだら、やっぱり遅れていて、ちゃんと切符を買って乗ることができた。駅員さんに「あなた、ついてますね」と言われた。そうなんだあ。

 トゥールーズ駅には21時ごろ到着。でも従兄の電車は22時22分に着く。従兄たちの家族のために、アルビまでの片道切符を買う。わたしの後ろで《本日の窓口での切符販売は終了》という札が出た。ぎりぎりセーフだった。ついてる。
 マクドで寂しい食事をして一休みしたあと、駅前のパン屋さんで、従兄たちの朝食用のクロワッサンとジュースを買った。民宿で朝食は出る予定だが、食べ盛りの子どもたちに足りなかったらかわいそうなので。都会の大きな駅前の風景を、一人で見るのはとっても寂しかった。

 従兄たちは時間より2分ぐらい早く着いた。(確かについてる)一日の疲れが溜まった顔には、化粧ものってないし、、、ああ恥ずかしい。乗り場を換えて、今度はアルビへ。子どもたちも長い旅で、さぞ疲れていることだろう。わたしも。駅の物音や、ちょっとした緊張に包まれて、たどたどしいおしゃべりが始まった。

 アルビ到着は23時59分。JPが待っていた。そこから更に民宿まで20分。昼間にもらっておいたカギで勝手に入った。小さな部屋で申し分けなかった。そのあとモーガンのうちに車を返しに行き、ポストにカギを放り投げて、JPといっしょに暗い家に戻ってきた。JPは明日仕事だからさっさとベッドに入った。わたしはまだごそごそ動く。

 もう《明日》になっているので、このままいっきに続く。。。
 
 2006年08月06日 中世のお祭り
 日曜日でJPもいるので、《か》さんたちをちょっと遠くに案内しようと考えた。
カルモーから車で約45分、マザメという町の山の上、オットプールという小さい町に『木とおもちゃの博物館』がある。

 博物館の半分は森林の利用、保護の仕方、切り出された木がどのような手順で製品になるか、森の植物や動物の展示など、触れたり、音を聞いたりできる面白い博物館だ。たまに学校の遠足バスなども見かける。
 あとの半分は古いおもちゃ、現代のおもちゃのコレクションで、中心となっているのは木、紙、布で作ったおもちゃ。親子で楽しめる。

 この博物館の二つのコーナーを繋いでいるのは、巨大木製滑り台だ。
実は2003年に、この滑り台をやって、着地失敗して、左足首を骨折した、苦い経験を持つわたし。『か』さんが心配する中、《ゆ》ちゃんとゾエは滑り台を楽しんだ。
そのあと、一階に戻って来ると、おとなと子どもが一緒に楽しめる大型の木製遊具が並ぶ。
30種類ぐらいの木のおもちゃで、親子揃って楽しめる。ここに来ると子どもたちよりもお父さんたちが楽しんでいるシーンをよく見かける。

 午後、ちょっと山の上の町に行ってみようか?と話していたら、博物館の駐車場を、美しい衣装に身を包んだ、中世のお姫様のような人が、ドレスを風になびかせながら、幽霊のように草むらのほうに去って行った。

 山の上の町に続く道路を進んで行くと、路上駐車の車が増えてきた。
「何かやってるみたいだね」とJPがつぶやいた時に、『ここから先は進めません』という看板が見えた。山の上から音楽が聴こえている。《か》さんが「えー、あーんな所まで登るの?」と言って目を丸くしている。わたしはJPといっしょに出歩くと「あーんな所」まで歩かされるのには慣れているので、またか、やれやれと思った。

 ちょっと歩いて行くと、何かを待っているような人の塊にぶつかった。《中世の騎士》の服を来た人が、交通整理をしている。そこへ《中世の農民》が小型バスを運転して、山路を降りてきた。完全に超過状態で、小型バスに詰め込まれた《現代一般市民》のわたしたちが、地上はるか彼方の《中世の町》に到着した。そこでは《中世の乳母》と、《中世の踊り子》たちが、チケット販売と、チケット切りをやっていて、わたしたちは《中世の門》通貨券をもらった。
 すぐ後ろの人が「はい、あなたは無料です」と言われているのに敏感に反応したJPが「無料になるには、どんな資格があるんですか?」と訊ねた。「中世の衣装で仮装してたら、ただです」と言われているので、後ろを見たら、そこにはイモ袋を切って、腰にロープを巻いた《中世のみなしご》ふうの子どもが、《中世の金持ち》ふうの母親に連れられて立っていた。父親は、木で作った騎士の剣を腰に差している。

 さて、《中世の町》では、手かせ足かせをつけられた魔女が、首切り男に連れられて、町を練歩いたり、ロバの背中にまたがった農民や、鉄かぶとにじゃらじゃら鎖をつけ、鉄の剣を振り回しながら闊歩する戦士たちが、そこら中を歩き回っている。その辺で拳闘を始める戦士たちも居る。
 鉄の剣と鉄製の盾がぶつかる音や、物売りの声が響く。石畳の路上で革製品づくりの屋台や、鍛冶屋、パン屋が出店している。町の一番上まで来た時に、ロバ飼いにぶち当たり、ゾエがロバに乗ると言ってきかないので、乗せたはよかったのだが、ロバ隊は町の玄関口まで降りたあと、今度は入れ替わりでそこから別な人を乗せると言われた。わたしはまたゾエを連れて、町の上の方で待つJPたちの所へ戻らねばならなかった。ぜーぜー
 《ゆ》ちゃんは革製品工場で、手作りの革のバッグを作った。なかなかのできだった。
子どもたちはその他、木やヒモで作られた遊具で遊んだ。
 
 いよいよメインイベントである、パレード。
衣装を着て、町に集まった人たち全員が、中世の時代の楽器だけを使った楽隊の音楽に乗って、町を行進する。お姫様と王子様も黒い馬に乗って登場。かっこよかった。なんといっても中世のままに残っている町並みにとてもよく似合っていて、来年のお祭りには必ず中世の衣装で来るゾーと思った。(でも中世のこの町にアジア人なんて居なかっただろうから、ちょっとへんかな?)

 帰りは地上に向かうバスを待つ人々で溢れていたので、先ほど《中世の姫君》が歩いていた山路を、自力で降りることにした。と、いうか、か弱い女性たちの意見を待たずに、マッチョなJPが勝手にそう決めて、路をどんどん降り始めた。その山道はけっこう危なく、こんなつもりではなかったためにサンダルで来ていた《か》さんが、おそるおそる時間を掛けて降りて来る。申し分けなかった。

 でも、けっこう楽しかった?いちおうめでたしで、明日へと続く。
 2006年08月05日 ビストさんのお城
 午前中、《か》さんたちを郵便局や、近所の商店街に連れて行った。
肉屋などは日本人にはたいへん面白い場所ではないかと思ったので寄ってみた。
フランスの肉屋は切り身ではなくて、どーんと大きい塊で売られている。目の前で切ってもらう。
《ゆ》ちゃんが豚足や、ぶら下がっているドライソーセージを見てびっくりしている。
鴨のパテ、フォアグラ、各種ソーセージ、生ハム、巨大ステーキなど食べてみないかなあ、と思って勧めたが、2人とも苦手そうだ。ちょっとでも食べてみたら、鴨のパテなどは子どもに受けると思ったのだが、残念。フランスの子どもたちはドライソーセージが大好きだ。

 せっかく日本から来てもらって、私の日本料理もどきを披露することになろうとは、もったいないことだ。鶏肉だったら。。。というので唐揚げにしよう。でも鶏肉はいつもいつも好きな時に手に入るお肉ではない。仕方ないから《か》さんには内緒で、七面鳥のお肉にした。唐揚げにすればバレるまい。ほほ

お昼、キャップデクベートでピクニックをしてから、午後はアルビの中心街とガヤック郊外のビストさんのお城に行くことにした。

 アルビの街は観光客で溢れていた。2人がトゥールーズ・ロートレックの美術館を歩いているうちに、わたしたちは友人が経営しているジュエリーショップに、梨をもらいに行った。JPがジャムかアイスクリームを作る予定。
ジュエリーショップにも連れて行きたかったのだが、《か》さんは装飾品には興味なさそうなので、行ってもしょうがなかった。

 そのあとはビストさんのお城。
http://www.bistes.com/
ビストさんは60代ぐらいの画家で、30年ぐらい前から中世のお城を改装して暮らしている。夏の二ヶ月間はお城を開放している。

 庭園で結婚式のガーデンパーティーの準備が行なわれていた。
ビストさんのサイトを日本語にしたことがあるご縁で、このお城のことを知った。
誰かが来ると連れて行くので、ひと夏に2、3度行くようなこともあって、もうすでに10回以上は行っている。お城の隅々までよく知っているので、そのうち日本人旅行者が増えたら専属ガイドだってできる。(ので、みなさん来てください)
数年前よりも観光客が増えているようだし、ビストさんの絵も売れ始めているようだ。お城の至る所にビストさんの絵が掛かっていて、気に入ったら買うこともできるが、私には手が届かない。ビストさんの小さめの絵を一枚買うお金で、親子三人日本に里帰りができる。コピーをもらったので、家にはそれを飾っている。ビストさんはいつも「俺が死んだらもっと値段が上がるから、今のうちに買いなさいよ」と言うけれども、そういうわけにもいかない。
 ビストさんの百合や菖蒲のお花の絵が好きだ。

 このお城は彼の絵を見ることができるだけではなくて、30年間改装を続けてきた、きれいな内装が素晴らしい。手描きの繊細な天井画や、だまし絵などが面白いお城だ。
《か》さんもとても喜んでいた。

                    めでたしで、明日へ続く。
 ?2006年08月04日 ノエミ出発
 せっかく《か》さんと《ゆ》ちゃんが着いたというのに、本日はノエミの出発だ。
ドードーニュDordogneという地方で、3週間の乗馬付きキャンプだ。
わたしったら、この数日間『超』忙しくて、そのキャンプ施設がどんな所なのか、写真も見ていないし、正確な場所も確認していない。JPが大丈夫だと言ったから大丈夫だろう。
それにしても3週間なんて長過ぎる。

 疲れ切ってる《か》さんたちには申し分けないが、そろそろ出掛けなくてはならない。
トゥールーズの駅で集合して、ほかの地方から来る子どもたちと合流しなければならないのだ。
集合時間に遅れて来る子、続出。ホームに行ってみると今度は電車が遅れて、そのうえ、到着のホームの番号変更となった。ゾロゾロと移動する。ノエミは自分よりも大きなスポーツバッグを用意したので、バッグが持てなくて私が持ってあげる。到着先ではいったい誰が持つんだろう。。。
3週間のうちに2回は洗濯できることになっていて、一週間分の服その他を詰めた。

 ノエミを送り出してから、レストランを探し歩き、食べるのに時間が掛かって、そのあとよく知らないトゥールーズの街を歩き回った。目当てのサン・セルナン大聖堂だと思って訪ねたのは、結局サンテティエン教会だった。ガイド失格。

 友達が『ロキシタン』という化粧メーカーを探していて、「そんなの知らないよ」と思っていたら、トゥールーズをさまよっているうちに店の前を通った。探さずに済んで助かった。
帰りは巨大スーパーに連れて行った。

 カーモーの水は大丈夫と言っても、歯磨きさえボトルの水を使っている2人。
姉たちが来た時も、水道の水を飲みたがらないのが不思議だったけど、海外に来て病気になったら。。。と思うものなんだろう。赤ちゃんでも水道の水を飲んでいる地域なんですけどねえ。

 《か》さんはお茶の匂いのするトイレットペーパーなるものと、楕円形の化粧落とし用コットンを珍しがってを買っていた。

 ゾエは、《ユ》ちゃんにもらったアポロチョコと、マーブルチョコと、チョコベビーのセットに酔いしれて、「まーぶるぶるぶる」の歌まで習っている。

面白い文化交流が始まった。
 2006年08月3日 ご到着
 待ちに待った日が来た。友達の《か》さんと娘さんの《ゆ》ちゃんが着く日。午前中にやっとサロンにテレビが入った。わたしたちの部屋を空けて、お客様用の寝室に仕立てた。わたしたちはサロンに寝るつもり。

 子どもたちが大喜びでビデオを見ている。実はアンテナが調子悪くて、テレビを見ることができないまま。一年半ぶりのテレビ。一番に何が見たいかと訊くと『キャッツ・アンド・ドッグス』という映画を選んでいた。この映画の主役のピーグル犬が《ボボ》みたいで、この映画はすごく好きだ。フランス語版は、人気スターが吹き替えをしていて、とっても面白い。

 夕方、子どもたちと3人で、トゥールーズのブラニャック空港へ向かった。お天気は涼しく、冷房付きでなくても、お客さんをカーモーまで連れて戻れそうだ。夜の8時ごろ着くというので、家を出る時に夕食用のサンドイッチを持った。

 空港の出発ロビーで、飛行機を眺めながらサンドイッチを食べた。
「置き去りの荷物は、直ちに処分されます」という放送が、何度も流れていた。
レンタカー屋の前には列ができていた。ここ数週間友達のためのレンタカーを探していて、車なんかもう数週間前から1台もないと言われたわたしなので、並んでいる人たちが気の毒だった。
ドイツやイタリアに向かう飛行機の受付ロビーで、大きなスーツケースを持っている人たちがうらやましかった。
到着して抱き合っている人たちを見て、涙が出そうだった。
出発前の待合室で、一人静かに空中を見つめながら、ぼんやりアイスクリームをなめているサラリーマン風の男性がいて、ゾエが物欲しそうに見ていた。その人の前を通り過ぎてから、「大人のくせに子どもみたいなアイスクリーム食べてた」と言った。

 友達がパリで乗り換えた飛行機は、20分ぐらい遅れて到着した。
ドキドキして待っていたわりに、すぐにわかった。
その日日本からトゥールーズまでの直行で到着した人は数人だけで、再会を果たして、ちょっと言葉を交わしたらすぐに、パリから乗った人たちとは異なる荷物の受取所へ流されていってしまった。
税関の検査で引っかかっていないかしらとか、出て来れるかしらと、心配した。

 自宅まで1時間ちょっと、トゥールーズの夕暮れをバックに、カーモーへ向かった。
到着するとすぐに、《か》さんはスーツケースの中から、溢れるほどのお土産を取り出した。
ご主人のご実家が沖縄なので、沖縄の物が沢山入っていて、もの珍しかった。
それから子どもの文房具や、服、お菓子など。。。。うれしい。
自分たちの持ち物はほんのちょっとだった。
《ユ》ちゃんが
「お父さんが声の吹き替えに参加してるの」
と言って、日本語版の『キャッツ・アンド・ドッグス』のDVDをくれた。
ほほお、奇遇。友達は今やほぼ空っぽとなったスーツケースに目を落としながら、
「たくさん買い物して帰るつもり」
と宣言した。

                           続く
 ?2006年08月02日 フリップ・H
 曇り空、今朝の気温は25度ぐらい。
コートダジュールのニースという所では、38度などと言っている。恐ろしい。

 そろそろ日本からみなさんがやって来るので、我が家の女三人揃って美容院へ行った。

 ゾエも、ノエミも、わたしも、いまは髪をとっても短く切っている。
そして、私は短く切りすぎて、モーガンに『へん』と言われた。
JPにも『ふむ』と唸られた。
ダーリンがシルビーみたいなロングヘアー好みだということを、すっかり忘れていた。。。
でもこの年でロングヘアーなんて、やっぱりちょっと『へん』じゃないだろうか。

 行きつけの美容院はうちから2分、近いというだけで行くことにした『フィリップ・H』というお店で、はげ頭で、ビーチサンダルの、マンガとアニメが大好きなフィリップ・Hという名前の青年がやっているお店だ。この前も『日本語習って日本にサロンを開きたい』とか言っていたぐらいの日本マニアなので、わたしたちが行くと喜んでくれる。

 わたしたち三人の髪は、《日本人》のイメージぶちこわしの猫っ毛で、ひょろっと薄い。日本人の太くしっかりした黒髪を、見たことのある美容師さんや、そういううわさをきいていて「一度この手にしてみたい」と考えていたような人には、いつもがっかりされてしまう。
「ご主人は、あんなに光沢のある髪なのに。。。」

 「うちの母と姉たちは、黒々とした強い髪をしている。」といっても誰も信じてくれない。
私の髪の毛は父ゆずり。剥げてはないけど、短く切ったら透けてるタイプ。
 父が寝込んでいた時に、もうずっと外に行けなくて、この人の一生のうちでこんなに長い時間、海風に当っていないのは、あとにも先にもこんな時ぐらいだろうなあと思ったら不憫だった。

 それで、「ほら錦江湾の風だよー」と言って、おでこのあたりに息を吹きかけてやったら、ずいぶん短く切った髪の毛がふわふわ揺れていて、わたしの髪の毛みたいだなあ、とうれしくなった。
 父も目を細くして、気持ちよさそうに《錦江湾の風》に吹かれていた。面白くて、何度も何度も、それをやってあげた。「東シナ海だよー」とか「台風13号だよー」などと言って、そばに行っては、おでこに風を当ててあげた。

 わたし、34歳の誕生日から、いきなり白髪が生え始めた。白髪の増える早さを悩んでいるとその心労のせいでもっと白髪が増えた、ような気がする。恐ろしいぐらい生えた。JPまでもが「苦労掛けてるねえ」と言った。

 母は、私が中学生や高校生の時に、黒くて長い髪に椿油を塗って、きつく三つ編みにした髪を、おだんごに揺っていた。時間を掛けてブラッシングする姿を見るのが好きだった。この頃は短く切ってパーマをあてている。私が21歳で実家を出るころまで、多分白髪なんかなかったと思う。あの頃は両親はどちらも老眼鏡さえ掛けていなかった。両親に白髪が生えて、老眼鏡を買った日を、私は知らない。この前わたしが白髪頭で日本に帰ったから、みんなきっとびっくりしたに違いない。
 同級生の中には、独身の子がまだたくさんいる。みんなきれいにしていて、スマートで、髪をヨーロッパ人みたいな色に染めて、まつげにまでカールを掛けていた。肌はどこまでも白く、きめ細やかだ。わたしは20歳ぐらい歳とっている。(なのになぜか「変わんないねー」と言われた。)

 《フィリップ・H》がわたしに「そろそろ染めたら?」と訊いた。
 いや、染めるつもりはまったくない。もうちょっと待って、銀髪に染めたいとは、密かに思っているけど。参考までにフィリップ・Hが私の頭をどんな色に染めたいのか、訊いてみる。

 「赤」よどみなく応える。

白髪頭で里帰りするほうが、よっぽどマトモかなあ。
 ?2006年07月30日 いやらしいジェラシー
 昨日はJPの同僚で、仕事のパートナーであるシルビーの引っ越しだった。
シルビーは虫の博士で、うちの大黒柱(JP)と同額の給料をもらっているキャリアウーマンで、カッコいい。
しかも痩せてて、背が高くて、金髪だ。
(これはけっこうポイントが高い。)

 離婚することになったので、2人の子どもと一緒にアルビ近郊に引っ越して来ることになった。
 私は前からこの『できる女』には《できる》ということでかすかなジェラシーを抱いていたので、JPが引っ越しの加勢を頼まれて、ちょおっと不機嫌だった。JPには、『輝くように、よくできた女』などにはあまり近寄って欲しくないのだ。こっちの輝きのなさが浮き彫りになって、目移りしたら困るじゃあないの。ううう

 前にシルビーの一家と2回か3回食事したことがあって、そのたびに悪夢にうなされている。
しかも、実際にはシルビーはとっても控えめで優しい人なので、悪口にするネタがない。

 当日、ノエミが「ママン、私がパパについて行って、2人を見張っておくから」などと言ってついて行った。が、しかし、虫のことなら何でも知ってて、馬を持ってるシルビーが一番好きなのは、何を隠そうこのノエミだ。ノエミも『できる女』に弱い。シルビーの家には男の子が2人いて、ノエミはその子たちにも会いたいのだから、このスパイはあんまりあてにできない。

 前より近い所に引っ越してきて、そのうえ新しい家で男手がないとなると、JPはこれからたびたび「ちょっとうちに来て手伝ってえ」と言われるんじゃあないのかしらんと、不安に胸が震えていたら、引っ越しには前のご主人が、新しい彼女といっしょに加勢に来ていたらしい。棚を付けるのも、コンセントを繋ぐのも、前のご主人がやっていて、JPはただひたすらに冷蔵庫やら、洗濯機を運んで帰ってきたらしい。ちなみに、職場の人たちが大勢来ていて、JPだけが手伝いに行ったわけではなかった。ま、そうだろうね。

 私がまた悪夢を見たと暗い顔をしているので、JPが、励ますためにこんなことを言ってみる。
「でもね、シルビーはピュレはフレークで牛乳で膨らますやつだし、なんといってもクノールの粉スープなんだよ。」
だからなによ。クノールの粉スープなんか食べたことないくせに。
そりゃあ、私はピュレはジャガイモから、スープだって本物の野菜で作ってますよ。
でも、そーいうセリフはとっても危険な罠のような気がする。
「いい奥さんでいられるうちは、捨てないからさー」と言われているような気が、した。
そして
「家事に手間をかける妻こそ、いい妻である」と聞こえた。実は。
私だってキャリアウーマンをやって、バリバリ男性と同じように働いて、家事は手を抜きたいんです。はっきり言って。
 罠にはまって、家事しかできない主婦のまま歳をとり、『できない女』で一生を終わるのはとても悲しいなあ、と思ったりする。(家事が立派にできれば、それはそれで『できる女』なんだけど、何が悪いんだろ?)

 今日、モーガンに夕食に誘われて、そういう話をしたら、モーガンがバーベキューの肉をほお張りながら、
「みのりにもいいところがたくさんあるよ」と言ってくれたので、安心した。
持つべきは友である。友達を裏切らないように、期待に応えたいものだなあ。


 さて、ピッションさんから新しい本が届いた。
『嵐の中のアメランディアン』(日本語版 仮題)という本だ。
アメランディアンというのは、アメリカのインディアンのことで、ヨーロッパ人がアメリカ大陸荷足を踏み入れてから、どんどん迫害され、追われていった人々だ。
ずっと前に原作の原稿のコピーはもらっていたのだが、いよいよフランスで販売される本が出来上がった。ピションさんのおくさんが描いた表紙絵が美しい。早くこの本を翻訳できたらいいなあ、と思っている。私も、「仕事で忙しいからスープはクノールね」といちおう言えるように、がんばろう。

 でも、ブーイングは必至だから、スープは忙しくても野菜で作るだろう。
仕事ができて、そのうえ上手な野菜スープもできたら、例の『できる女』を越えられるかもしれない。
よし、とりあえず、がんばっていこー。
 2006年07月29日 レンタカーで悩む
 友達の娘さんは車に非常に弱くて、『快適な冷房付きを借りておいて』と頼まれたので、友達のためと、それから従兄たちが来たら10人家族になってしまうことも考えて、ミニバスの予約先を探している。

先日インターネットで予約して、『お客様番号』までもらって安心していたAVISのアルビの事務所が電話してきて、「インターネット予約されたようですが、ご予約のこの日、うちには車がないんですよねえ。どういうことなんでしょうかねえ」と言われた。

そんなことを言われても知らない。インターネット予約はあてにできないから電話しようと考えていた矢先で、「やっぱりそんなことか。。。」とがっかりしてしまった。

 雨のおかげで、数日前に比べると10度も低い。午前中は「寒い」なんて言っている。この調子だと、冷房のない車でも大丈夫かもしれない。わたしたちは冷房なんか使ったことがないので、なくてもいいんだけどなあ。。。でも車はボロだからねえ。。。

 レンタカーは受け取りの場所や、日付け、時間を買え、車種、値段を換え、電話や、実際に窓口を訊ねるなど、あらゆる手段を使ったのにもうぜんぜん取れない。

 友達からはスペインとアルルのホテルの予約も頼まれているけど、そっちは日本で友達にやってもらうことにした。運転とガイドは私で、ホテルと交通費は出すって言うことだったので、ホテルの予約もお願いした。でも一日中レンタカーのことで悩んでいて、電話やメールに振り回されていて、けっこう疲れてきた。

大丈夫なんだろうか。
 2006年07月28日 観光案内
 もうすぐ日本から友達とその娘さん、そして、従兄が家族五人でやって来るので、準備で忙しい。友達はあちこち行きたい場所があって、わたしは連れて行きたいところがまた別にあったりもして、「到着まであと数日」となってからの、ホテルやレンタカーの予約、観光案内所への問い合わせなどなど。。。なかなか忙しい。

 連絡くれた早い者勝ちで、従兄の家族ではなく友達を家に泊めることになり、従兄一家には民宿を予約した。お金も使わせるし、不便だし、申しわけない。

ヒントブックスさんから、あかね書房の『こんにちは アグネス先生』の紹介を受ける。
ついでだったので、前から読みたいと思っていた 文研出版の
『ロボママ』 エミリー・スミス 著
『嵐の中のシリウス』 J・H ハーロウ 著
『魔女になんかなりたくない』 マリー・デプルシャン 著
も取り寄せてもらうことにした。
そのほかに
『バイリンガル教育の方法』という本をお願いした。子どもたちの言語習得に関して、少々悩んでいる。従兄たちも来るのに、うちの子どもたちとコミュニケーションが取れないのは、もったいないので、いまちょっと日本語会話を特訓している。
 2006年07月27日 い草で ものぐさ
 一年以上掛けて、サロン(居間)にする部屋をきれいにして来た。
この家は築100年以上で、外壁は80センチの厚さのある石の家だ。
玄関を入って真っ正面に1.5メートル掛ける7メートルほどの長ーい廊下がある。
一階には台所と物置が二つと居間にするスペース。
木のらせん階段を上がって、二階は全部木の床。
寝室が二つと風呂場と、事務所というか書斎というか、パソコンのある部屋。

 居間は、中庭に面していて、入居当時この中庭は一面のセメントでおおわれていた。
セメントを半分はがして、地面がむき出しの庭をもうけた。花壇を作ってトマトも植えた。
セメントの下の地面は湿っぽくて、この湿気は全部居間の壁を這い上り、湿っぽい居間になっていたのだ。家の湿気のせいで、ペンキの状態も、壁の状態も非常に悪い。湿っぽい匂いもあって、大変だった。

 100年も住み継がれた家では、ペンキは4回ぐらいは塗り替えられている。
古いペンキを落とすのに、臭くて強い化学薬品を使ったが、臭さと危険度などから、1時間に30センチ四方ずつしかはがせなかった。冬は窓を開けられないので、中断した。
ペンキはがしと中庭のセメントはがしは同時進行で、気が向いた時に気が向いたほうをやった。
 
 今週新しいペンキを塗り直したが、科学的なペンキはやめて、しっくいに自然派の色素を混ぜたものを塗るだけにした。簡単で匂いもなく、お金は掛からず、なんといってもナチュラルだ。湿気予防対策でもある。

 床に敷き詰められていたプラスティック製の敷物は、全部取り除いた。かわりに、い草の敷物を買った。カーペットみたいに一枚の広ーい敷物で、部屋の角に合わせて、はさみでジョリジョリ切りそろえた。日本のござの匂いがする。
JPが過度を切りそろえている間、わたしたちは子どもたちと、い草のシートの上で寝っ転がった。

 ああ、やっと居間が出来上がった。。。

 子どもたちは早くテレビを箱から出してくれと言っている。さて、どうしようか。
 ?2006年07月26日 (一句) 雨が降り、地固まらず、ぐっちゃぐちゃ 
 昨日のこと、
 ケーキを食べ終わって、誕生日当日の朝に買ったばかりのプレゼントを、ゾエにあげたところで、雷が鳴り始めた。
「ああ、今度こそ降ってくれたらいいねえ」
 フランス中の願い。

 雷が近所に落ちた気配。
風が吹き始めてから、もうボボはびくとも動かない。
ゾエがぎゃあぎゃあ泣く。ノエミがきゃあきゃあ飛び跳ねる。
JPが家じゅうを走り回って、戸締まりや雨漏りを確かめる。
わたしはドアの郵便受けにタオルを突っ込む。この前の時には雨が吹き込んだ。
台所の窓を叩く激しい粒。
直径1センチぐらいのあられが激しく降り始めて、道路は見る見るうちに、大河のようになった。
下水道の水が噴水みたいに穴から吹き上がる。
家の前に止めてある車の窓が、明けっ放しだった。道路の人通りは完全に絶える。

 中庭のわたしの小さな花壇が、プールになっている。
あられはどんどん打ち振り、花壇のプールにガラス玉のようなあられが浮いている。
電灯が心細げに、ちらちらしはじめる。ラジオの音が途切れる。
雷はまだ頭の上にいる。ゾエがおへそを隠す。ノエミも、わたしもおへそを隠す。

 隣の家の桜が大きく揺れている。
道路を走る四輪駆動車は、台所の窓に水しぶきを飛ばして走る。
ゾエが泣きながら、おそるおそる台所のカーテンを持ち上げる。光る。
1、2、3。。。ノエミが数える。そして、
「ちょっと遠のいたよー」と叫びながら、ボボを見に行く。
ボボの小屋が、ノアの方舟みたいに浮きそうだった。
「パパー、どうにかしてよおー」
父親は何でもできると信じている。
裏口の扉とボボの家の間に、大きな池ができていて、下水が逆流している。
「大丈夫、奥のほうに隠れているみたいだから。」
父親だって濡れたくない。彼が造った小屋は大人四人掛かりでも持てない重さだから、そう簡単には水に浮かない。

 空が明るくなって来て、道路に車が行き交い始める。
気がつくと、途切れていたラジオが何ごともなかったかのようにニュースの続きをやっていた。アナウンサーはイスラエルの爆弾の話をして、保険省の大臣が《猛暑の日のご注意》を読み上げていた。

1)水をたくさん飲むこと。
2)顔や腕を濡らすこと。
3)日中は窓も雨戸も閉め切って、家に光を入れず、夕方から夜に掛けて家の中の換気を行なうこと。
4)暑い時間に労働やスポーツなどを行なわず、陰に入って休むこと。炎天の海水浴場には日中行かないこと。

「そして一番大切なことは」と大臣は言う。

「これらの注意を、ご近所や身体の悪い人に伝えてあげてください。そのような人たちのことを気遣ってあげてください。お隣の人に声を掛けてください。」
 
 2003年の猛暑では1万5千人が亡くなった。今年はまだ8月にもなっていないのに、この一週間で40人ぐらい亡くなっている。
 雨が降ったら気温が下がるかと思っていたのに、そうでもなかった。
降ったはよいが激しいあられとは。せっかく生え揃って来ていた、わたしの花壇や芝生が全滅した。トマトも傷だらけになり、2個地面に落ちた。

 このまま水浸しになって、街も何もかも流されるかもしれない、と一瞬思ったその時に、家族がみんな揃っていてよかった。子どもたちが祖父母に連れられて、うちに戻って来ていた。
みんなでいっしょに居たから、ちっとも恐くなかった。
 花壇ぐらいはまた造ればよい。

それにしても、このお天気って一体。。。
 ?2006年07月25日 生き延びること、はや4年、、、
 ゾエが4歳になった。
 お誕生日はやはり母と過ごしたいというので、ナルボンヌのJPの両親宅へ迎えに行くか、それともカーモーに連れて帰ってもらうか、ずうっと悩んでいた。でも、JPの休み中にサロンの改修を終わらせたかったし、うちのクーラーのない車では高速道路の移動はちょおっと辛かったので、渋っていたら、両親がクーラーのある車で、子どもたちを送ってくれた。2週間もうるさい孫たちの世話をして、疲れていて、早く送り返したかったのかもたのかもしれない。
 
 ナルボンヌから戻ると、いつものごとく、子どもたちの持ち物が増えている。ずいぶん楽しく過ごしたようだ。持ち物は増えているのに、肝心なものを忘れて来た、と言って、ゾエが泣いている。

 おもちゃ屋に一緒に行って、自分で選んだ誕生日のプレゼントを、祖父母のミスで玄関に忘れて来たのだった。ノエミはお小遣いで買ったプレゼントもいっしょに置き忘れたらしい。夏休み中に買ってもらったおもちゃも数点忘れた。
 「全部まとめてあったのに、出掛けに子どもたちが興奮してうるさくしていたので。」
わかります。わかります。
 夏休に入り子どもたちが消えると、わたしはさっそく《隔離病棟(=物置)》から古くなったおもちゃなどを出した。段ボール箱二箱分くらいになったので、早いとこ赤十字に持って行くつもり。小鬼の居ぬ間にと思って掃除した我が家に、これ以上物が増えたら困るので、忘れて来ていただいて、助かった。

 親からのゾエへのプレゼントはずっと決まらず、当日の午前中にJPと買いに行った。
 ノエミが4歳の時には自転車なんぞを買ってあげたものだったが、ゾエにはノエミのお下がりで我慢してもらっている。ゾエはほとんどお下がりだけで生きている。でも、ノエミはものを大事にするほうだから、あまり不自由はしていない、と思う。
 わたしだって三人娘の一番下だったから、お下がりが多かった。小さい頃には文句を言ったのかもしれないが、大人になってからはお下がりをもらって不自由をしたとか、恥をかいたとかいうようなことは思い出さない。
 はじめての子どもは、せっかく女の子だったから、きれいな服をたくさん買ってあげたり、手作りしてあげたこともあるが、お下がりをもらうのはいつでもとてもうれしいものだ。フランスにはお下がりをくれるような親戚もいないから、くれるという人がいたら真っ赤な他人でも喜んでもらう。経済的に助かるから、というだけではなくて、親しい人が、大切に使ったものを「これ好きだったけど、あげる」と言われると、とてもうれしくなる。

 自分で選んで買ってもらったプレゼントを、大人のミスでもらえず、ゾエはどんなに悔しかっただろうと思う。でも本人は「もう一度お祝いしてもらう」と言って泣くのをやめた。
よし、よし。

 前日の夜に作ったイチゴのケーキは、スポンジケーキがうまくできずに、薄っぺらのペラペラになってしまった。わたしのやることにはあまり文句を言わないJPが、ケーキをじっと見て考えている。
「もしかして、おいしそうじゃない?これ?」
「うむ。。。暑いし。。。アイスクリームケーキを買って来てあげよう」
作り直そうと思っていたところに、アイスクリームケーキを買ってくれるとは有り難い。
「パパがおいしいケーキを買ってくれるってー」と喜んでいたら、ゾエが、
「ママンのケーキじゃないといやだ」と言う。
うっ。暑いゾー
材料常備、いつでもOKのチョコレートケーキを作り直した。
オーブンに火を入れて、家の中の温度が上がってしまったが、主役は大喜び。
ろうそくを4本立てた。台所は熱気でムンムンだ。

 怪我もせず、大きな病気もせず、すくすくと育っている。
学年末の評価では、「この子は幼稚園で教えることは、すでに何でもできる」と言われた。それで来年度は大きいこのクラスに加えてもらう。小さい子がぐずぐずしていると腹を立てるらしく、気難しいとも言われた。機械的にみんなと同じことをやろうとはしないらしい。孤独を愛する女。父親に似たか?危ないぞ。
 2歳ぐらいの時に、幼稚園で撮ったビデオを見せてもらった。子どもたちがおもちゃの自動車を巡って喧嘩を始めたシーンがあった。沢山の中の《その》1台を争って喧嘩をしている。クラスみんながその渦中に呑まれている。泣いたり喚いたり、クラスメートの服を引っぱる子、殴る子もいる。そこに、ゾエがいなかった。カメラは渦中のクラスメートから離れて、ずっと後ろに突っ立ち、難しい顔をして腕組みするゾエにズームを当てる。
「バッカじゃないの」とでも言いたそうな、冷たい薄笑いをしている。

 こんな人間が家の中の人口の半分を占めるとなると、先が思いやられる。
 2006年07月21日 新学期の問い合わせ
 新学期は9月、フランスでは気分下り坂の秋に新しい年度が始まる。
夏休みが2ヶ月もあって、たるんでしまった根性を、すがすかしい秋にスパーっと切り替える、ことになっている。

 もう、5年以上ずっとお世話になっている商工会議所から、はがきが来た。
「9月の13日と14日に、例年どおりのただレッスンがありますので、参加してください」
毎年9月に商工会議所の語学センターでは、新聞などでも大きく報道して《お試し無料レッスン》が行なわれる。ここで募集の目安を立てて、10月から新しいクラスが始まるのが通例だ。
 来年度も雇ってもらうことにはなっている。生徒が集まれば、のはなし。

 生徒が3人以上集まらないと、モトが取れないからクラスが設けられないと、10月には始められなかった年度もあった。だが、この前生徒に支払いの小切手を預かって、判明した事実を考えると、個人で人を集めて《ブラック(闇屋?)》で働いたほうがよさそう?という気もして来る。
 ちょっとそんな気がしただけ。

 ちゃんとした教室や、視聴覚教室もあり、ホワイトボードも教壇もある場所で《センセイ》やるのと、お茶飲みながらだらだら《友達付き合い》でやるのとでは、内容にも結果にも大きく差が出るものだ。グループレッスン、しかもほぼプライベートとかわらない4ー5人のクラスで勉強するメリットはたくさんある。

 一度、個人レッスンを電話で申し込んで来た女性があって、その人の仕事が終わって、夜の時間に会う約束をして、アパートを訪ねて行ったことがある。約束の時間にドアを叩き、名前を呼んでいたら、隣の人が出て来て「そこに住んでいるのは、どちらも男性のカップルですよ」と言われてしまった。
 次の日に同じ女性から「どうして来てくれなかったの?待っていたのに」と言われて、「どうしてうそをついたの?あそこには住んでいないでしょう?」と言ったら、「絶対に住んでいる。ずっと待っていた」と怒ったように言われた。

 気持ち悪かったので、もう二度と夜のプライベートレッスンは引き受けないことにした。プライベートレッスンは、ちゃんと約束どおり毎週忘れずにお金をくれる親がバックに控えている、中・高校生だけにしている。

 個人レッスンでしばらく勉強して、高校卒業試験で日本語を受けたポリーヌさんから連絡があった。バカロレアの試験は20点満点の17.5点だった。なかなかの成績だった。8月に福岡に留学することになったので、その節はどうぞよろしく。

 アルビの商工会議所に続き、トゥールーズの商工会議所からも連絡があった。24日から宣伝を出し、人が集まれば来てくれとのこと。交通費も出すし、お給料もアルビに劣らない歓迎をするから、トゥールーズまで来て欲しいと言われた。(片道2時間ぐらいなので、週に2時間の授業程度だったら行きたくない)ロデーズの商工会議所からの紹介とのこと。いちおう形式的なことで、履歴書を出して欲しいと言われて、すぐに送った。返事待ち。

 本当は翻訳のほうをもっともっとやりたいのに。まあ、来るものは拒まず。仕事がもらえるんだったらやる。《初級日本語》ならもう18年ぐらいはやっている。嫌いじゃないからやれているんだろう。呼ばれるうちが、華。そろそろ新学期の準備もしなければならない。
地道にやっていれば実もなるでしょう。損得なしで今学期やって評判を得たら、次回からは特に繋がるかもしれないじゃあないの。でも夢が遠のくのは辛いので程々にしたい。人生はそーんなに甘くない。(って、このわたしが言うんだから、これはホントーです)
 ?2006年07月19日 ミストラル、吹く
 海軍 地中海基地のある、トゥーロンという軍港の町に住んでいたことがある。町は港と切り立つ山に挟まれたところで、《ミストラル》という地中海沿岸特有の突風が吹きはじめると数日は治まらない。フランスでは風速は時速で報道されるが、時速100キロとか120キロという風が吹く。

 昨日、トゥーロンから《ミストラル》という船がベイルートに向かって出て行った。ベイルートにはフランス国籍を持った人や、その家族、約4000人以上が居住あるいは、長期・短期の滞在をしているらしい。フランス資本の企業が何百も進出している。この軍艦は一度に2000人を乗せることができるらしい。人々はキプロスなどに運ばれて、そこからフランス本国へ飛行機で連れ戻されるのだ。今朝たくさんの人がパリに着いたと報道された。軍艦は現地に残り、まだまだその辺で難民を救助する。

 フランスにはイスラエル人やレバノン人が沢山住んでいる。夏休みは子連れで里帰りする人も多く、里帰りの間に戦争に巻き込まれた人たちが、ラジオのニュースで状況を語っていた。フランスから里帰りしている人は、結婚や政治的な亡命、移住の事情でフランス大使館の管轄下にある人たちでも、お里の家族はイスラエルやレバノンから一歩も出たことのない人だったりする。血縁関係はないが《大好きな隣のおじさん》を置き去りにして船に乗ることになった男性が、悲痛な声でインタヴューに応えている。あの人はフランスに戻って来て生き延びても、きっと一生後悔し続けるのだろう。

 朝日コムの新聞を読もうと思って開いたら、日本の新聞では、ヒスボラの悲惨な映像が報道され、イスラエルの激しい攻撃を批判するようなことが書かれていて、ちょっとびっくりした。フランスの大統領はエスボッラ(ヒスボラ)がイスラエルの兵士を人質にした事実を「プロヴォカシヨン(挑戦行為か?)」と言って激しく批判している。総理大臣は救助船で自ら出掛けて行き「フランスはイスラエルのお友達です」と言って援助を行なっているので、わたしは悪いのはすべてエスボラという、ひとにぎりのテロリストのせいかと思っていた。

 国境近くの人たちが、「わたしたちは国境の向こうの人たちと、仲良くやっていたんですよ。同じ人間ですよ。ひとにぎりの人が勝手に戦争してるだけなんですよ」と言っていた。そしてイスラエル人の男性は「イスラエルは自分の力ではもうどうにもできないから(助けはいらないと言ってるが)アメリカ人やフランス人に助けてもらった方がいいと思う」などと言っている。
 まーた、アメリカ人がやって来るんじゃあないかねえ。。。。
シャリシャリ、デシャバリ、バリバリ。。。と建物や町を壊しながら。

 せっかくの夏休みが台無しで、気の毒、どころじゃあない。
わたしは毎日ラジオを聴いて泣いているのである。
 大戦争が始まるなら、8月に従兄と友達が来て、去って、ノエミがキャンプから戻って、からにしてもらいたい。こういうとき、わたしはちゃあんとフランスの船にも、日本の船にも乗せてもらえる(と思う)ので、日本のみなさん心配しないでください。

 フランスの大地は平和。トゥールドフランスの自転車レースで湧いている。
でも、猛暑のせいで今日までに3人亡くなってしまった。自転車やってる人って、大丈夫なんだろうか?
戦争なんかやらなくても、地球はかなり煮えたぎっている。ましてやこのくそ暑い時に自転車なんて、こんなこと言ってるから、体重が減らないんだろうーかね。
 2006年07月18日 涼を求めて
 カルモーは最高気温が36度の予報。なのに、こんなに暑いのに。。。
食欲がありすぎる!過食症ではなかろうか。
ちょっと動いただけで、息切れがする。ビョーキだろうか?
体重計にのると、めまいがする。重症では!?
タンスの中に、着れる服がない。どこ?服はどこ?どこ、どこ。。。記憶喪失。

 ちょっと遠出してアルビの巨大スーパーまで出掛けた。
友達が泊まりに来るので、まずは枕を物色。いろいろありすぎて困る。
お客様用のスリッパを買おうと思ったが、友達のサイズがわからず断念。
彼女がコートダジュールに行こうよー、と言っているので、ガイドブックを立ち読み。
ついでに、ノエミがキャンプに持って行けそうな本も、スーパーで探してみる。ノエミは今、新聞より小さな文字で、1000ページ以上ある本に凝っている。図書館でぼろぼろのハリーポターを借りて来た。わたしは夏休み前に『ナルニア物語』全章が一冊になっている、1キロ以上ある本を買ってあげた。映画は見ていない。
 従兄が来たとき、料理の腕前も披露したいので、フライパン売り場に行った。よさそうなのは手の届かないところにあり、飛び跳ねて捕まえようとしていたら、売り場のフライパンが全部頭から降ってきそうになったので、後ろ歩きでそっとその場をはなれる。
どうせ、あの値段では手が届かない。。。
 魚売り場で水槽を観察。エビはマダガスカルから来ていた。魚を買いたかったのだが、クーラーを積んで来なかったので、帰り着くまでに腐ってしまうなあ。
 野菜売り場は素通り、明日農場の野菜が届くから。

 服売り場でバーゲンの売れ残りを見ていたら、新学期に着れそうなシャツが3ユーロだったので、さっさと腕に巻き付けた。JPの半ズボンをずっと探していたのだが、あった、あった。でも、洋服なんか買ってあげたことがなく、彼のサイズを知らないので、いちかばちかでそれを持ってレジへ向かった。レジの人が「それはバーゲン対象外だから、レシートがあれば交換できますよ」と教えてくれた。なんと、対象外であったか。。。
 遅かれし、すでにレジの外。。。

 涼しいスーパーでは、3時間ぐらいは時間が潰せる。が、しかし、お財布を連れて行ってはいけないのだった。ああ、わたしとしたことが。

 おひる時だったので、巨大スーパーの超大型駐車場に、車は少なかった。その殺伐とした駐車場で、わたしは「ああ、人間さまも、動物でありもうしたか」とつぶやく。
 吹き抜ける蒸し暑い風が、わたしをセネガルに運んだ。ひゅう

 ダカール郊外のステップで、ラクダやヤギの群れが、丈の低い木々の、わずかな木陰に寄り添って、涼を求めて休んでいたなあ。

 巨大スーパーの超大型駐車場では、いまや、スーパー入り口への距離だとか、キャリー置き場の脇で少々危ないってことなどは、もうこの際どうでもよい!と言っているような、クーラーを消された車たちが、白線も角度も完全無視状態で、建物や、ゴミ用のコンテナーや、キャリー置き場の屋根や、キャンピングカーの陰など、わずかな陰の下で、静かに待機している。

 アスファルト砂漠にできたミラージュ(かげろう)を前に、ぬちゃぬちゃとサンダルにくっつくアスファルトを踏みつけながら、暖房完備のルノーに乗り込んだ。
生きて自宅に戻れるのか?溶けそう。。。ふらあああ

 我が家は冷蔵庫だ。雨戸まで閉め切って出掛けたので、家の中はわりと涼しかった。なんといっても家の壁の厚さは80センチだということだし。外よりは涼しい。暑いところから帰って来たら、すうっと涼しい。ただし家の気温に慣れるのも時間の問題。

 路上駐車の車に容赦なく太陽が降り注ぐ、おひる時である。
やっぱりお腹が空く。わたしに夏バテという言葉はない!?
 2006年07月17日 点字の本
 ちょっと宣伝すると、2004年の夏に、はじめて『サトウキビ畑のカニア』という翻訳の本を出した。親戚や友人知人が、沢山買ってくれて第二版までできた。印刷されたのは全部で6200冊ぐらい。子供の本だ。まだ残ってますのでよろしく。
 
 インターネットで《売り切れ》という文字が見れないものかねえ。。。と思って、検索していたら、某《視覚障害者福祉センター》というところで、『サトウキビ畑のカニア、点訳本』というのを発見した!!

 点字に訳されているとは、それは知らなかった。ぜひ触れてみたいものだと思った。
挿絵はやっぱりないんだろうか?あの本は、ぜひ、内海さんの絵も見て欲しいのだけど。
目に見えない子どもたちって、どのぐらいいるんだろうか?本好きな子は多いのだろうか?ほかにもっとどんな本を読むんだろうか?興味津々、興奮気味で福祉センターにメールを書く。
 
 手に入れたいと思って、知り合いの本屋さん(ヒントブックス、トップページにリンクあります)に問い合わせた。
 点訳の本は取り扱っていないとのことだった。
ただ、ヒントさんがびっくりしていたのは、わたしがその点字の本の出版について、何も知らされていなかったことだ。何ごとにも《著作権》があって、法律に守られている。
 この件については、調べてみるつもり。でも、点字出版というのはボランティアでやっている人も多いし、わたしたちの本が目の見えない人にまで読んでもらえるなんて、こんなにうれしいことはない。とりあえず、原作者のピッションさんと、挿絵の内海さんに相談しなければならない。

 この頃DVDや音楽CDをインターネットでコピーする人が増えていて、罰金をたくさん払わされている人もいる。インターネットで漫画や小説も読めるから、出版業界も大変だ。点字を勉強して、海外書物の点字翻訳出版業界に進出しようかねえ、と、ふと思った。

 その前に、自分の新しい翻訳の本を出したいところなんだけどねえ。
《ま》くんにも買ってもらわないといけないし(売ってもらうほう?)
日々、何かと努力はしております。そのうちねー。
 2006年07月15日 同級生
 昨日母に電話したら、姉の家に行っていて電話が転送された。便利な世の中だ。
おかげで子どもたちとも話ができてラッキーだった。だけど、子どもたちが小さい時には交流を持たなかったもので、この頃ではすっかり大きくなった子が「進路で悩んでいる」などと言うと、ぎくっとしてしまう。おばちゃんは子どもたちの扱いというものを知らなくって、申しわけない。ただただ「もうそんな歳かー」とため息が出る。姉たちの子どもは5人とも、わたしが日本を離れてから生まれた。だれも抱っこしてあげていない。

 母によると、同級生の《ま》くんのお父上が亡くなった。別々の高校に進学してから一切付き合いがなかったので、彼が同級生だったことさえ、すうっかり忘れていたほどだが、一昨年の秋に帰った時に再会を果たした。高校の同窓会に、同じ高校でもないのに《ま》くんが来ていた。
「エンドーさんに会いに来たー」ほほお、よしよし。

 《ま》くんはわたしが幼稚園の時になりたいと思っていた、あこがれの《歯医者さん》になっていた。曲がりなりにも歯学部出身とは、一本とられた。《ま》くんでもなれるんだったら、わたしもそうそうに夢を捨てるべきではなかったねえーとバカを言った。

 そうこうしているうちに、ほかの同級生諸氏からも連絡メールが入る。同級生との会話で、《ま》くんは中学のとき、わたしと同じ剣道部であったことが判明した。
 えー忘れてたよー。

 更に母からの情報によると、彼は同じ地区内でただ一人の同級生で、七五三の時にもいっしょに写真を撮ったし、小学校の時には同じクラスになったこともあるし、遠足の前の晩などに「エンドーさん、明日何時に集まるんだったけ?」とか夕方遅くに「今日の宿題なんだったけ?」などとよく電話をかけて来ていたらしい。いっしょにソフトボールをやったり、温泉祭りでは地区の公民館に集まって、いっしょにお神輿をかついだりもした。それは覚えている。
 なんだ、幼なじみ?

《ま》くんのおばあちゃんは地主で、アンタたちの勉強部屋にしていた、裏の家を借りていて、よくいっしょにお家賃を払いに行っていたじゃあないの?
 えー、そうなのー?
 おまけに、アンタが本を出した時に沢山買ってくれたし、同級生の名前でお葬式に花輪を届けてくれたし、なんといっても、アンタの代わりにお父さんのお葬式にも出てくれたじゃないの。
 わたしの代わりに参列してくれた同級生はたくさんいました。。。。すみません

 まさかと思いきや、けっこう深い仲(?)だったらしい。

 お母さんがアンタの代わりにお葬式に行って挨拶して来たから、アンタは《ま》くんに電話して励ましてやりなさいよ。。。と言われた。
えー、別に昔のオトコってわけでもないのにー?
同級生諸氏に知られたら、なんと言われると思ってんのー?
 
 「アンタの代わりにお父さんの葬儀にも来てくれたんだよ」
そこまで言われるともうなにも言えないのであった。勢いに乗って電話してみた。
「きっとこの人は若くてかわいいに違いないっ」というような声の看護婦(歯科助手?)さんが、「喪中につきお休みさせていただきます」との留守電だった。
《ま》くんが出なくてちょっとほっとしたが、「喪中なんだ」と思ったらやけにしんみり実感が襲って来た。

 彼はもう立派なおじさんであることだし(この前見てわかりました)、昔のようにメソメソなんかしていないだろう。
 近年、親を失う同級生が急激に増えていて、子供会でお世話になったり、道路で挨拶していたころのことを懐かしく思い出す。わたしもそういう歳になったんだなあ。
 しんみり
 
ーーーーーーーー
 後日、おばちゃんの家に電話したら、なつかしの弟くんが出て「うわさの、エンドーさん!!」と感激され、自宅に電話がまわさた。《ま》くんはせっかくわたしが国際電話をかけてるっていうのに、飲ん方(飲み会)に出ており、《ま》くんの妻と世間話をして、彼のうわさをし、妻が「元気ですよー」というので、まあ安心した。
 2006年07月14日 どんぱち
 フランス人の宇宙飛行士は、地球の外で仕事をするなら、7月14日に働きたいそうである。
7月14日に、宇宙から地球を見ると、フランスの各地でどんぱちと花火があがって、きれいなんだそうだ。7月14日は革命の記念日で、日本語ではなぜか《パリ祭》と呼ばれている。
 7月14日には全国各地で、午前中はパレード、午後はガーデン・パーティー、夜は花火大会と決まっている。一年の予算の大半を、この日に捧げている市町村も多い。
 カルモーは8月の終わりに《サン・ブノワ》という聖人のお祭りがあって、その時に一年の予算の大半を掛けているので、14日に花火大会はない。

 従兄と友達がほぼ同時にフランスにやって来るので、8月の前半10人の大所帯になる。子どもが全部で5人になる。毎日泊まるところ、移動、見たいもの、連れて行きたいところ。。。頭を悩ませている。家は指宿の実家よりも大きいのだが、畳がないからベッドが必要。タイル張りのところにゴザなんか敷いて眠れない。友達はうちに、従兄の家族は民宿へ行ってもらうことにした。
 義父母が泊まった民宿は、うるさく、ちょっと見た目より不潔で、従兄を泊まらせない方がいいとアドバイスを受けたので、改めてインターネットと電話帳とガイドブックで探し直す。

 うちから車で10分の田舎に、民宿を見つけた。訪ねて行って部屋も見た。普通のおばさんがやっている、普通の家の一部屋だ。ちょっとせまッ苦しいかも。子どもたち大きくなりすぎていたら、どうしよう。

 家族でフランス旅行ができるなんて、うらやましいかぎり。いい所をいっぱい見て、お土産をたくさんもって帰って欲しい。この夏はどこにも行かないと思っていたけど、みんなのおかげで観光できるので、ラッキーだ。
10人家族っていうものを想像できないので、ちょっと恐い。
 2006年07月11日 お迎えを、お出迎え
 JPの両親がやって来た。
ノエミの歯医者も終わったので、いよいよナルボンヌに連れて行ってもらうのだ。すでに三日前から旅行かばんは準備が整っている。最後のかばんにおもちゃを積めていると、2人が現れた。
 いつも泊まっていただいているサロン(居間)は工事現場なので、キャップデクベートのホテルをとった。新しいホテルなので、興味も手伝い、ここに従兄を泊まらせようかと思っていた。両親がホテルに行くときついて行ってみた。

 なかなか良い眺め。
清潔そうで新しい。
でも、ちょっと合宿所みたいな雰囲気で、飾りも何もなく、殺風景だ。
実際、若い学生たちの合宿が行なわれているらしく、窓枠にバスタオルなどがブラさがっている。ろうかを若い人たちが通り過ぎて行く。
両親は学生たちから離れた棟の二階なので、大丈夫だろう。

 キャップデクベートを案内した。
ずっと前に学校の遠足で来た場所だ。炭坑あとの土地に、総合スポーツ施設が整っている。
炭坑の空中写真を見ているところに、JPとノエミが自転車で合流した。
ノエミは暑さのため真っ赤っ赤になっていた。自転車でここまで約30分。

 みんなでしばらくぶらぶらして、ホテルをあとにした。食事は自宅で。
暑くてみんなは食欲ないので、サラダ・ニソワーズ(ニース風サラダ?)にした。

 子どもたちは興奮している。ナルボンヌの両親の家にはプールもあるし、海岸まで車で30分ぐらいだ。海岸のそばだから、夏休みの間毎日移動遊園地が来ている。花火大会もある。おもちゃを全部かばんに積めたら、さっさとベッドに入った。うそみたいにオリコウさんである。
 2006年07月10日 強制てき矯正で嬌声をあげる
 ユッピー!
ノエミうれしそうだ。
うれしくもない歯の矯正の器具をつける日だから、と言って、アルビの病院内の歯科に連れて行った。変なところから一本剥き出していた歯を、先日抜いた。
「これがすんだら今度は器具のほうね」といわれていたので、本日《連行》した。
ちょっと恐かったので、親子四人で出向いた。

 ノエミは数日前から緊張していた。キャンプにも矯正器具でいくのかと思うと、ちょっと気の毒。少々歯並びが悪くても性格が良かったら。。。と言ってやりたいが、少々の性格では補えないような歯並びの危うさだし、その性格もいいとは言えないので、歯並びぐらいはよくしてあげないと、っというのが親心だといわれているのだが、わたしは《日本人だから》出っ歯でも構わないんだけど。でも自分は出っ歯じゃないから、出っ歯ちゃんの気持ちもわからないし、本当は本人は「ああ、出っ歯じゃなかったら幸せだったのに」と親を恨むかもしれない。恨まないかもしれないけど、やっぱり親のせいか?親族会議の多数決で、強制的に歯の矯正を行なってあげるのは、親の役目であるということになった。

 矯正の器具というのを間近で見たことがないので、わたしだって心配しているのだ。
膝にニセモノのお椀が入ってる人とか、心臓に機械を入れてる人というのは知っている。そういう人はやっぱり病院にも縁があって、痛い目にもあっていて、どうも不便そうで、ずいぶん気の毒だ。歯の矯正器具というのも、やっぱり《器具》を身体の一部にはめ込むんだから、やっぱり不快なこともあるに違いない。ううーん気の毒だ。

 「マドモワゼル ダニエル」と呼ばれて、マダム・ダニエルもムッシュ・ダニエルも立ち上がった。診察室にはちゃんと、患者用のほかに見学者のためのイスも用意されているので、ただの付き添いも入っていいことになっているのだ。日本みたいにひとつの部屋で、いっぺんに何人も見たりしない。(あれは指宿だけでしょうか?)

 「口を開けてー。この前抜いたところ、きれいに塞がってますねー。はい、三週間後にまた来てください。」
ユッピーなのである。
今日はこの前の治療状態を見るためだけで、器具は三週間後なのだった。
チャンチャン。
ノエミ喜んだのも束の間。
あと三週間のストレスが果てしなく続くのであった。。。。
 2006年07月09日 やあっと、夏休みの予定が立つ。
 8月は大忙しになりそうだ。
 従兄と友達とJPの弟がほぼ同じ時期にやって来てしまう。
こりゃあ困ったぞ。いや、うれしいぞ。
連絡して来たのは友達が一番乗りだったので、うちに泊まっていただくのは友達、となった。
従兄には民宿かホテルに泊まってもらうしかない。
JP弟一家は従兄が帰ったあとだから、うちに泊められる。でも去年工事現場で寝てもらったので、今年はその工事現場をどうにかしておかねば恥ずかしい。
 JPが、せっせ、せっせと働いている。
 従兄と友達が揃って、JPが仕事に行かない週末は、10人の大所帯となってしまう。車がないから車も借りなければならないが、「貸してー」と言える親戚も親友もないので、レンタカーにする。
ミニバスも借りることにしたが、ミニバスには9人しか乗れないので、JPが仕事の日だけ借りることができる。

 フランスではクーラーのある家庭は少ないし、クーラーのない車に乗っている人も沢山いる。特に自然派を目指すJPは、今年の夏は自家用車を使わずにバスや電車を利用しようと考えていた。
でも東京生まれの東京育ちの友達に、クーラーのない小さい車で迎えに行くと言ったら「クーラーのあるレンタカー借りてください」と言われてしまった。やっぱり。
 従兄たちはへんぴな田舎の民宿だから、車がないと大変だ。エコロな田舎暮らしというのは、なかなか難しい。でもおいしいものを食べさせてあげようとはりきっている。

 私が行っている民宿というのは、普通の人が自分の家を解放して、旅行者を泊めてあげる、イギリス式でいうと、ベッドアンドブレックファーストなるもので、料金の中に朝食とベッドの代金が含まれている。でも今から予約できるかは腕の見せ所だ。そういう所にはクーラがあるわけがないし、大丈夫だろうか。

 従兄が後悔しないように、がんばろうと思っている。
ので、私の従兄と、その辺ですれ違った場合には、お餞別を弾んでやってください。
よろしくお願いいたします。

サッカーでフランスが負けたので、花火大会も、勝利記念セールもお預けとなった。ちっ。
 2006年07月07日 空から落ちて来るもの
 ドッカーンと大雨が降った。
 わたしたちの農場の人工湖が、溢れるぐらい降らないかなあ、と思いながら、空に向かって応援した。今年は折り紙の腕にも磨きをかけたことであるし、祭り気分も盛り上がっているので、いっちょ七夕祭りでもやったろうかねえ、と思って張り切っていたのだが、雨となってしまった。

 午前中に図書館で本を借り、ついでに図書館のパソコンでゲームをやった。図書館は来週夏休みとのこと。
 午後はいつものように乗馬。普段いっしょの子どもたちではなくて、キャンプつきで乗馬をやろうという子どもたちが、全国各地から集まっている。乗馬クラブで寝泊まりする。
あれえー?ここでもそんなことやってるんだあ。
 ノエミは高いお金を払って、ドルドーニュという山のほうで、同じことをやる。払うのは彼女の父だからいいけど。所かわれば品かわるっていうから。
なんといっても親の目の届かないところで三週間というのが、ものすごいあこがれであるらしい。
 
 フランスはまだまだサッカー熱。町行く人々もちょいと浮かれ気味。

その合間にテポドンの話題もちょっとだけ。
10発ぐらい落ちて、日本も反撃に出るとか言ってるので、恐いなあ。
(実際には7発だったみたいね)
「練習だから」ってあなた、空からそんなものがいきなり降って来たら、やっぱり恐ろしい。
日本海沿岸の人々は気が気ではなかろう。

 うちとこはミサイルじゃなくて、待ちに待った雨だから、幸せだ。
 2006年07月06日 麦って、パンの味
 5日に引き続き、雨。しとしと降っているが、もっと降ってもらわないと困る。
 雨だったので何もしなかった。4日の夜のことでも書こう。

 4日は今月最初の火曜日で、お約束の農家でのピクニックだった。
 メリオッサンのお母さんに紹介された農場だ。
 広大な農地をフランス政府や、ヨーロッパ基金の援助を受けて開拓している。そこでは、学校を出たばかりの若い人や、長期失業者などを雇って、できるだけ大型機械を使わずに、無農薬の野菜を作っている。
 経営者は30代ぐらいの若いカップルで、農場にはパンを焼く手作りの釜や、JPが憧れている《水を使わない便所》などがあった。建設中の自宅は、なんと、わらの束で作ったブロックを木枠にはめ込んで建てているという。
 人の援助と、農作物の見直し、新しい経営の形、流通と販売の方法など、説明を受け、紹介された時にいいと思った通りだったので、その日のうちにこの農場の会員になった。

 フランスの大都市では、市営の小さな農場を借りて、月々の土地代を払い、自分たちの手で好きなように野菜や花を育てることのできるミニ農場がはやっているが、わたしたちのこの農場は、自分たちでは畑を耕したりしない。長期失業者、犯罪やアルコール依存症などから更生中の人など、社会復帰を目指す人たちが、広大な畑でありとあらゆる野菜を育て、それを町の広場で売るのだ。

 農場で働いていない会員は、広場で市が開かれる時に、テーブルを出すのを手伝ったり、市が終わったあとのお掃除をしたりする。なによりもわたしたちがやらなければならないことは、このような活動が行われていることを宣伝することと、農場で働かない代わりに、農場でできた野菜を買って食べること。

 7月から、毎週水曜日に野菜がいっぱいつまったカゴが,自宅に届けられる。今回ははじめてだったので、説明を受けて、ピクニックに参加したあと、その場で野菜を渡された。

第一回目は、
 さやいんげん 500グラム
 クルジェット 大きいのが4本
 タマネギ(白いタマネギで、青い葉っぱがついてる)5個
 シュー・ラヴ(日本では英語から訳してコール・ラビというらしい)2個
 巨大なサラダ菜 1個

 農場を案内してもらった。3月に、自分たちだけで掘った人工湖があったが、乾いていた。湖を掘った3月から、まとまった雨は降っていないから仕方ない。
 見渡すかぎりの麦畑をかき分けながら歩いた。農場の子どもが麦の穂を引っこ抜いて口に入れている。麦の殻を割って、中に入っている固い麦をかじっている。
 「おいしいの?」ときいたら、「パンの味がするよ」って言われた。
麦をかじったら、本当にパンの味がして、びっくりした。

 ゾエとわたしは麦をかじりながら、時々立ち止まって、足元に転がっている野生動物の糞を観察したり、足を踏み出すたびに一斉に飛び跳ねるバッタを追っ払ったりして遊んだ。ノエミは農場の男の子たちと走り回っている。JPは農場の女の人に熱心に説明をきいていた。 

 わらの束でできたピクニックテーブルを囲んでピクニックが始まった。《地球を守ろう》とか《差別をなくそう》とか、《遺伝子組み換え反対》などのTシャツを着ている人たちが何人もいて、サッカー応援の青いシャツに見慣れた目に、とても新鮮だった。持ち寄りのサラダやピザもベジタリアンだった。不健康に太っているのはわたしぐらいで、ちょっと反省した。わらのベンチは夏の薄いワンピースにはちくちくして痛かったので、次回からは、普段着のTシャツとズボンにする。気どらなくていいなんてうれしい。

 JPは、いきいきしている。となりに座った《差別をなくそう》のTシャツの人と、会話が弾んでいる。この前のPTAのピクニックがいかに場違いだったのかわかった。

 帰る時に積まれたタマゴパックを指差して、JPが訊ねる。
「うちのカゴには、タマゴが入ってなかったようだけど?」会員の一人が応える。
「タマゴは《野菜カゴ》には含まれないんですよ。XXさんのところでニワトリを買って、農場においとけば、毎週1パックもらえるの。XXさんのところに行って、よさそうなのを自分たちで選んで、農場においておけば、養ってもらえるよ。」
 ゾエとノエミが歓声を上げる。
「わたしたちのニワトリ!!名前をつけよう」
自分ちのニワトリが生んだタマゴを食べられるなんて。。。夢みたいだ。

風が激しく吹いて、空が暗くなってきた。遠くで雷が鳴り始め、だんだん近づいて来る。遠くの畑で雨が降り始めた様子だ。
 「いよいよ雨が降りそうなので、お開きね」
たいへんエコロジカルなピクニックだった。たくさん降りますようにと願いながら帰ってきた。

 それから二日間降った。まだ足りない。
 2006年07月05日 いっ度、ソルドに行っど!
 「ソルド」というのは、フランス語でバーゲンセールのこと。
「いっど」というのは鹿児島弁で、「いっ度」だったら共通語の「一度」のことで、「行っど」だったら「行くよ」のこと。

 バーゲンセールなんかにはあまり行ったことがない。一度は本格的に行ってみたいと思っていたが、ついに下着やらTシャツやら、ベースのものがよれよれになってきているので、バーゲンセールだろうがなかろうが、『店』に出て行く決心をしなければならなくなった。バーゲンセールが終わる頃には、夏に必要なものは手に入らなくなるらしい。
 
 わたしは年中赤字人間だし、既製品の合わない体格だから『洋服屋さん』などには入らない。
JPは店の人にいろいろ訊かれるのと、鏡を見るのが嫌いだから『店』は一般的に嫌いで、「JPってアフロヘアーにしたの?」と言われるぐらいにならないと『散髪屋さん』にも行かない。
『ブティック』や『ヘアーサロン』などというカタカナが嫌いなので、ついこんな平和初期生まれみたいな単語を使ってしまう。

 商店街はバーゲンで混雑していると思いきや、思いのほかシンと静まり返っていた。
夏休に入って、みんな旅行に出掛けてしまったのだろうか。
数週間ぶりに雨も降った。
 わたしたちに必要な下着や、ベーシックなTシャツなんかは、バーゲンセールの対象外だということも、店に行ってからわかった。
 50%引きなどになっているのは、流行のお腹が見えるシャツとか、スケスケで下着が見えるシャツなど。子供服はたくさん安売り対象になっていて助かる。学校のクラスメートのお母さんたちにすれちがう。髪振り乱し、子どもを捜したり叫んだりしながら、苦労しているのはわたしだけではなかった。子どもと『わたしだけ』で来た。

 JPは、カードを貸してくれて「やっぱり行かない」と言った。こんなにいいダーリンは、滅多にいないだろう。「カードなんか貸しちゃって。。。恐くないの?」と言ったら、おびえた顔をしていた。

 けっきょく、サイズや好みの関係で、お店に行く前に作っていったリストは半分しか揃わなかったが、もうすぐ義父母も来る予定なので、そんなに焦らなくてもよいのだ。

 子どもたちを両親の家に預ける時には、汚いかっこうで送り出している。
「まー、こんなに汚い靴履いちゃって!」と義母は叫び声をあげて、すぐに靴屋に連れて行く。
靴と、コートと、流行の服はほとんど義母に買っていただいている。(買わせている?)
 男の子にしか恵まれなかったおばあちゃんというのは、女の子の服を買うのが夢だったなんてよく言っている。

 わたしは16歳用のシャツを2枚買った。何年ぶりだろう。。。JPのカードをお預かりいたしているのが恐ろしくて、居心地悪く、店に長居できなかった。
ちぇっ、せっかくのチャンスだったのに貧乏性が出てしまった。。。
 2006年07月04日 引率
 学校は本日まで。すでに子どもの数は急激に減っている。
フランスでは結婚した人の半分は離婚しているらしい。
多くの子どもは母親と暮らしていて、週末にお父さんと過ごしているので、金曜日や土曜日に遊ぶ約束を取り付けるのは、非常に難しい。
「週末はお父さんのところに行くから」と言われる。
父親が遠くに住んでいる場合は、長い休みの時に半分ずつ、ということになっている家庭も多い。
だから、2ヶ月の夏休みは1ヶ月父親の所に行ってしまう子どももいっぱいいる。

 学校の人口は減っているし、先生たちはすでに2週間前から授業らしきものをやっていないが、いちおう残っている行事は消化せねばならない。
ボート実習があと一回終わっていない。

 数日前「すみません、誰もいないので、マダム・ダニエル 引率お願いします」っと、校門の前で先生にとっ捕まってしまった。ご近所に住んでいる担任のミゲレーズ先生は、わたしのことをすでにわかっているので、まずお願いする前に「誰もいないので」と前置きしてから、ちゃんと頭を下げるあたりが、かわいらしい。
 そういえばこの先生だけだった。教師陣で、招待を受けて、律儀にピクニックにも参加したのは。ちゃんとサッカーに参加して、汗をかいてから、さっさと引き揚げて行くという常識も心得ておられた。

 「。。。ハイ いいですよ」
「じゃ、すみませんけど、大人はみんなで持ち寄りのピクニックにするので、デザートをお願いします」
 チーズやワインやソーセージは高くつくので、《デザート》係にしといてくれるあたりが、ご親切である。この前も持って行って好評だった、いまはまっている《リンゴのクランブル》に決めた。
 
 JPは週末から2週間ものバカンスをとっている。有給休暇を溜めておいたので、休みは8月にもある。こんなふうに公務員が長ーいこと休むから、7月と8月は、公共機関で事が進まないんだ。

 「ねえ、わたしはリンゴのクランブルで参加するから、JPは身体で参加してよ。」
休みのいっぱいある公務員に対して、夏休みとなったら一挙に忙しくなってしまう主婦は、多少の悪意を込めて言うのだ。
 JPが応える前にノエミが「わーい、パパが来てくれるー。お父さんが行事に参加してくれることってないから、みんなびっくりするよ」素直に喜んでいる。

 JPがわたしのクランブルを下げて、ボート研修の引率に行ってくれた。
いつも話している《ペストみたいなクロエちゃん》や《素直でかわいいクレモン》など、みんなの名前を覚えて帰ってきた。これで食卓の話題が増える。
 ノエミによると、きかない子どもを、まるで教師みたいに怒鳴り散らして、娘は恥をかいたが、担任には感謝されたらしい。ちゃんと指導員といっしょにモーターボートに乗って、子どもの小型ヨットを応援したそうだ。船乗りの血が騒いだ?

 ノエミが「更衣室で靴を間違えてきちゃったあー」と言って泣き叫んでいる。
「誰の靴と間違えたんだろう。持って帰ってきてしまたこのピンクの靴は、誰のだろう?覚えてる?覚えてないなんて役立たず!」
まるでわたしを叱るみたいに、恐れ多くもJPを怒鳴りつけて、いつもわたしに怒鳴り返されるのの倍ぐらい、JPに叱られている。ふとどきな娘である。

 リュックサックの底に、ちゃんと自分の靴はあったので、ゾエから「ノエミはドロボー」っとレッテルを貼られた。
学校は今日で終わりだから、担任は今日の午後以降には、もう絶対に学校には出て来ない。職員室の電話をとるような人はいない。クラスには名簿とか、連絡網なるものはない。

 これは誰の靴なんだろうねえー

 仕方ないから、捨てないで新学期までキープしておく。
夏の二ヶ月の間に、子どもの足はどんどん大きくなるから、新学期に持ち主がわかっても、もう履けないだろう。新しい靴なのに。。。
 ノエミのせいで親に叱られているクラスメートが居ると思うと、胸が痛いけど。。。明日からバーゲンセールだし。。。夏のサンダルでも買ってもらえることだろう。
運動靴とはおさらば。

    恐怖の夏休みに突入。。。
 2006年07月01日 ピクニック
 PTA役員の年度末ピクニック当日。約40名参加の予定。
金曜日の午後には、会長のパトリシアといっしょに買い物をした。土曜日には教職員とのお別れ会もあったので、そのための買い物もした。

 私たちの行ったことのないセレナックという森のピクニック場で行なわれるので、数家族ずつ集まって車を連ねて出掛けた。市役所からテーブルとイスも借りていた。すぐそばにトイレとサッカー場とバーベキューセットもあったので、本格的な食事会が予想された。

 参加する人たちは皆、サラダかデザートを持参することになっており、私は前もって《まき寿司》を持って行くことに決まっていた。土曜日の午後から準備した。
PTAの会で、チーズ、飲み物、バーベキュー用のソーセージを買って、現地でお金を出し合った。
女性たちは母親の会で顔見知りだが、その連れ合いたちははじめて、という人も何人かいた。
 JPはロトにも、先日のお祭りにも参加したから、数人の顔見知りはできていたけれども、男性たちの中には、いっしょに仕事している人や、同級生、数年前から会に参加している人たちもいて、みんなけっこう知り合いみたいだ。それで、出だしからJPは孤立気味だった。
 たまに、母親の会の人たちが近寄って来て、当たり障りのない会話をして行ってくれるのだが、JPのノリが悪いので、なかなか盛り上がらない。
いつの間にかダニエル家は孤立していた。

 食事の時に、よく喋る3人のグループのそばに席を取ったので、そのひとたちがJPを盛り上げてくれるかなーと期待していたのだが、3人で、3人にしかわからない会話を始めたので、また孤立してしまった。話しかけられないから話さないでいると、話さない人間だと思われて、もっと話しかけづらくなるものだ。誰も話しかけて来なくなってしまった。

 食事の後、なんだか酔っぱらいかけてる男性が、その辺にいる人たちにボトルで水を掛けるというイタヅラをはじめて、キャーキャーうるさくなった。追いかけっこなどしている。エコロなJPは、そういう人たちを冷たいまなざしで見ている。だから誰も私たちには水を掛けない。

 その騒ぎで陽気になった人々は、みんな立ち上がってサッカー場に向かった。ほとんどの男性が出て行って、サッカーを始めた。「あと2人ー」と言われて、一人出て行った。「もう1人ー」と言われて、最後の1人が出て行った。そのあと残ったのはサッカー大嫌いなJPだけになった。
JPは子守りをしている。子どもたちに飛行機や鶴を折ってあげている。人気だ。

 子どもたちと遊んでいるところにサッカーボールが飛び込んで来て、ゾエがぎゃあぎゃあ泣いたものだから、JPはすごい剣幕でサッカーボールをとりに来た高校生のお兄ちゃんを叱った。
ちょっとその場がシンとなるぐらい叱ったので、私は「まあまあ」となだめた。

 こんなダンナを、こーんなピクニックに連れて行ったのは、大失敗であった。

 帰ろうとしていたら、一日中ゾエといっしょに遊んでいたバランティンのお母さんが「帰りにうちに来てプールに入りませんか」と誘ってくれた。こーんなやつでも誘いたいんだろうか、とちょっと疑わしい目で見たのだが、バランティンとよく遊んでくれた、優しいゾエちゃんのお父さんであるJPを見込んだらしい。
 プールを持っているような、スノッブな人はあまり好きではないJPだが、押しに押されて断れなくなった。でも私は、前からその人がとてもいい人で、JPとも話の通じるタイプだと思っていたので、バランティンのうちに行けることになってけっこう嬉しかったのだ。

 ちょっと大きめのゴムプールで子どもたちを遊ばせ、私たちはアペリチフと簡単な夕食をごちそうになって、楽しい会話に花を咲かせ、「年中工事中」であるバランティンのお宅の工事現場を見学し、改装工事について意見を交わし、夜遅くに帰って来た。

 終わりよければすべてよし。
来年も行けるかなー。
子どもたちと私は楽しんでいるんだから、オトーさんにもがんばってもらおー。
 2006年07月01日 サッカー
 フランスのチームが、サッカーの世界大会でがんばっているらしいので、日本からたくさんメールがやって来る。みんな『フランス』ときいて、私のことを思い出してくれるとは、うれしいかぎり。ついでに、私がフランスにいるから、フランスを応援してくれているとは、ありがたや。

 テレビがなくても、状況はわかる。
いちおうラジオで「今晩はサッカーの試合」と盛んに言うから、「今晩サッカーがある」と言うことはわかる。今年の世界大会はドイツだから、時差もなくラッキー。でも日本ではきっとものすごい早起きだろう。

 サッカーのある日は、サッカーチームと同じブルーのシャツを着た人たちが、町を練り歩いている。そういう人たちが出くわすと、知り合いでもないのに抱き合ったりしている。
 試合が始まる数時間前から、町をクラクションを鳴らした車が走り回る。
たまに、車よりも大きな国旗をはためかせ、叫びながら猛スピードで走り抜ける人たちも居る。
 町が静かになるので「あ、サッカーが始まったな」と知れる。
しばらく、静かにごはんを食べたり、片付けたりできる。

 試合終了のころ、ご近所から一斉に喝采が上がるので「あ、勝ったんだ」とわかる。
 数分後に昼よりもうるさいクラクションやら、歓声やらが路上を行き交う。更に数分後には、ご近所の庭で花火まで上がっている。こーんなに乾燥してるのに大丈夫なんだろうか、といきなり不安になる。

 7月1日は猛暑の熱帯夜で、窓を開け放って寝たかったのに、、クラクションと歓声がうるさくて、窓を閉めずにはいられなかった。

 そして翌朝には、路上でサッカー準決勝進出を祝う若者が、エキサイトして商店街で暴れ回って、商店や路上の車に被害が出たことや、喧嘩で100人近く警察に保護されたことや、川に飛び込んで死人が出たことなんかが報道されることとなったのである。
 
 世界中には戦争やテロで死んでる若者や、飢えや自然災害で死んでるも子どもたちも居るって言うのに、フランスは平和だ。普段はみんな「フランスなんて国は。。。」とフランスには希望がないようなことばかり言っているのに、サッカーの試合の一日は、急にみんなが『愛国者』になる。いつもはいじめられてる移民たちも、みんなフランスのために喜んでいて、興味深い。そして、政治家はだれもかれもがサッカー好きになり、大統領までもがドイツまで応援に行っちゃうんだから、おもしろい。

 でもサッカー選手たちは、きっと自分たちのためにゲームを楽しんでいるんだろうなあ、と思って、ちょっとうらやましい。フランスという国を背負っているとは思っていないんじゃないだろうか。応援してくれている人たちに応えたいというよりも、自分たちにとっていい試合をしたい、精一杯やりたいということではないのだろうか。そんな選手たちが素敵だから、応援するんだろう。きっとずっと練習して来たのだから、自分のベストを尽くしたいと思うに決まっている。闘志というのだろうか。闘志のある人は瞳に星や炎が輝いていてきらびやかなものだ。
 普段は相撲ファンの母も、いまごろきっとフランスを応援しているに違いない。
 2006年06月30日 希望の星
 この前、高校卒業資格試験で、日本語のテストを受けたリュドヴィックさんからメールが来た。日本語試験の結果はまだ出ていない。

 リュドヴィックさんは、在仏日本大使館のホームページで、独立行政法人科学技術振興機構(JST)公募というのに応募した。《戦略的創造研究推進事業》というものらしい。

 その公募に採用されたら、日本へ7年間の留学が約束される。留学の費用は免除される。リュドヴィックさんの夢は、アルツハイマー病や老人性痴呆症に関する研究と治療で、日本はその方面の学問が大変進んでいるという。海外からの学生を受け入れて、英語での授業を行なう大学もあり、世界で通用する免許がもらえるシステムもあるらしいので、日本で勉強したいのだそうだ。
 なんといっても日本が大好きだし。

 パリでの面接試験への案内が届いたので、7月上旬に試験を受けなければならない。
試験は、日本の高校卒業程度の化学と生物の試験で、英語で行なわれる。もちろん日本語の試験もあるが、初級程度で構わないとのこと。どうしてそのような公募に応募したのか、日本で何をしたいのか、将来どんなことに役立てたいのか、それをちゃんと発表できなければならない。

 将来の希望を持って高校を卒業しようとしている若者に、本当に久しぶりに出逢った。

 日本語は自分一人で勉強していた。美術も、文学も得意だ。彼の家に招待された時、きっと高いお金を払って買った、とても偉い画家の絵おぼしき素晴らしい絵が飾ってあって、「素敵ですね」と感想を述べたら、お母さんが「この絵は息子が描いてプレゼントしてくれた」と言ったので、JPと2人でうなるほかなかった。
 「息子はこんなに素敵な絵も描けるんですよ」と自慢げに言われたからというよりも、「自分で描いた絵を、お母さんにプレゼントする」という、その青年の優しさに感銘したと言ったほうが正しい。自慢の息子に違いない。

 バカロレアの試験を受けるために準備していたテキストは、夏目漱石の『我が輩は猫である』だった。翻訳ではなく、日本語で書かれた本だ。今どき日本の高校生でも夏目漱石を漢字とひらがなで読む学生は少ないのじゃないだろうか。びっくりする。

 こういう若者が、日本文化を大切にして、わざわざ海を渡って勉強してくれて、フランスで紹介してくれるなら、どんどん応援したい。刺激されて、私も勉強するしかない。

 リュドヴィックさんのお母さんは幼稚園の先生だ。この幼稚園では今年一年「日本」をテーマにした様々な活動が行われていた。日本から派遣されて来た保母さんが毎週幼稚園児に日本語を教えて、日本の踊りや折り紙も教え、発表した。日本年を締めくくる最後のお祭りに、招待していただいたが、ちょうど私たちも学校のお祭りの日だったので、行くことができなかった。リュドヴィックさんは、私の代わりに書道のデモンストレーションを行なった。きっと私より上手なお習字を披露できたに違いない。
 2006年06月29日 ディスカヴァリー・メニュー
 暑かったので、後回しにしていたが、じつは、仕事が入っていた。

 この一年ぐらい毎月定期でもらっている、メニューの翻訳だ。
春はイチゴやアスパラガスをテーマにしたメニューだったが、夏となって、冷たい料理が増えた。
食べてもいないのに、メニューを訳すのは大変だ。

 インターネットで食通やレストランのサイトを検索すると、フランス料理のほとんどがカタカナ表記だ。仕事でもらっているメニューにはなかったのだが、インターネットで検索中に《グルニュイ》という単語がでて来て、「なんだこれ?」と思ってフランス語を見たら《カエル》だった。

 カエルのモモの肉というのは、チキンみたいな感じで、「カエルだ!」と思わなければ、日本人でも食べられると思う。ぜんぜん臭くないし、クセがない。でも日本人は《カエル》ときいたらやっぱり食べたがらない。《カエル》ときいたら、脳裏に理科実験で腹を割いたカエルの、股を開いた様子が目に浮かぶのだろうか。

 六年生のカエルの実験の時には、朝念じて熱を出し、学校を休んだので、理科実験でカエルのお腹を切ったりはしなかった。カエル嫌いで有名な「ト」さんは、しっかり学校にでて来て、しっかり気絶しかけていたらしい。私は絶対にカエルのはらわたなんか見たくなかったので、念じていたら熱が出た。それぐらい嫌わなきゃカエル嫌いとは言えないのだ。

 《グルニュイ》は一回食べさせられたけど、それきり食べようとは思わない。一回味見したから嫌いと言える。《サーヴェル (たぶん羊の)脳みそ》も食べたことがある。《エスカルゴ》も食べたことがあるが、私はミナが好きだから、貝類には強い。「これは貝なんだ」と念じたらエスカルゴも食べられた。でも一回食べたからもう食べないと思う。

 コックさんのお得意料理、季節の珍味、レストランお勧めの料理を集めたメニューがあって、こういうのは昔だったら《料理長お勧めのメニュー》などとやっていた。でもインターネットでいろいろ調べたら《ムニュ・デクべールト》とか《ディスカヴァリー・メニュー》となっていて、腹が立って来た。
 《ムニュ・デクベールト》だったら、日本に住んでいる日本人の耳で聞いたフランス語をカタカナにしただけだ。こーんなふうには発音しないし、書き換えたとはいえフランス語のままなら、翻訳者の名が廃る。いちおう訳した風で、しかもこのほうが日本人には感覚としてとらえやすそう、と妥協して《ディスカヴァリー・メニュー》としておいた。ちょっと悲しい。誇りを傷つけられた気分だ。でも、いまの日本人はどんなものにも簡単にカタカナを使うし、時には、カタカナで現した外来語のほうが感覚的にわかりやすかったりもするので、柔軟にならなければいけないのだと思う。

 インターネットで見たら《ミトネ》という単語が料理用語としてよく使われているのだと理解できたが、誰もがそう表記しているわけではなかったので、私は私のかすかに残っているプライドとともに《レギューム・ミトネ》とせずに《とろ煮の野菜》とした。
《イチゴ》とか《サーモン》はカタカナにしたが、《桃》や《鴨》は漢字のほうが素敵じゃないかと思った。
 だいたい《カモ》と書いたら、まるで、デートに連れて行ってよと言われて、彼女を三ツ星に招待したのに、車で送ってじゃあまた明日と言われてドアの内側には入れてもらえず、あげくの果てに翌日には捨てられた男、みたいじゃないの?

 《ミトネ》は、来月以降どうするか、コメントが来てから考える。
 2006年06月28日 お誕生会
 ノエミがクラスメートのテオ君の誕生会に呼ばれた。連れて行ったら、「コーヒーでもどうぞ」と誘われて、ノエミ以外に招待されていたママ連たちと、お茶することになった。
 知らない人のいっぱいいるところでお茶するのは、かなり苦手だ。そこで、興味ありげに、いろいろ質問されるのもいやだが、いかにも興味ありませんというふうに、無視されるのはもっと居心地が悪い。
 本日はお誕生会に呼ばれて来たのだから、ホスト役のご両親がいろいろ気を遣ってくれて、そこに居た人たちに私を紹介してくれたり、失礼にならない程度との思いやりがわかる態度で、程よく私のことを訊いてくれたり、ノエミのことを誉めてくれたりした。

 テオのお家は、丘の上の高台にあって、塀も壁もない代わりに、ご近所の目もない。庭に立って360度見渡せる家にお邪魔したのは、久しぶりだった。お家の人は庭を、裸で走り回っても、きっと大丈夫だろう。プールがあって、20人ぐらい招待していた。

 招待されると招待仕返すのがしきたりだが、「招待するのが申し分けない」ということもたびたびある。おまけにテオの弟のユーゴーとゾエが同じくらいの年齢なので、「ユーゴーのお誕生日にはゾエちゃんを呼ばせて」と言われてしまった。2人とも呼ばれたら、ご両親さまを夕食にご招待とか。。。そういうことまで、普通だったら考えねばならない。

 「ゾエは夏休み中だし、ノエミは冬休み中なので、誕生会はしないんですけど、いつかお茶でも飲みに来てください」などと言って、とりあえず逃げた。まずい、これではできかけたお茶友を失う。

 テオのお父さんは町で眼鏡屋さんをやっている。お母さんもたぶん仕事していると思う。いつも仕事に行くような化粧をして、キャリアウーマンみたいな服を着ているけど、じつは専業主婦かもしれない。おとなしい女の子が2人居て、私はこーんなにやつれているのに、学校でも一番という暴れ者の男の子が2人も居るお母さんがあんなにきれいなのは、絶対なにか、ある。お家もあーんなにきれいだった。どういうことだ!?

 テオのお父さんとお母さんは、雑誌から抜け出て来たようなカップルだ。
 お父さんは、バービーの恋人のケンみたいに、笑うときらっと輝く白い歯に、最先端のスーツなんか来ている。プールサイドで身につけていた水着も、今年人気の柄で、色も褪せていなかったから、去年は履いていなかったに違いない。
 お母さんは、こめかみにシャネルのロゴがどーんと入ったかっこいいサングラスを、スターみたいに頭の上に載せている。「ケン」の横に立っていると、本当にバービーみたいだが、身長が足りない。私よりも背が高いけれども、私と同じで「16歳用の服が入るから安上がり」と言っている。

 敗北感にまみれて帰宅したが、じつは思っていたよりもとても感じのよい人たちで、おしゃべりは楽しく、もしかしたら相手に合わせてくれるという、優しさを持った人たちなのかなーと期待できた。ユーゴーのお誕生日で、また会えるのが、じつは楽しみだ。
 2006年06月27日 ざジズーぜぞー
 サッカーをやっている。うちにはテレビもないし、サッカー好きもいないので、あまり関心ない。でも、日本から「フランス勝ったね、おめでとう」などのメールが入る。ちょうどその頃、ウィンブルドンのテニスで、日本人の女性が健闘中のニュースはラジオで聞いていたけど、わざわざ「日本人がんばってますね、おめでとう。応援しています」などのメールは誰も書かずにいた。けっこう薄情だ。

 親の家で暮らしている時には、《青梅マラソン》も《オリンピックゲーム》も《甲子園》も、盛んに見ていた。親がつけていたから。《大相撲 秋場所》なども必ずついていたけど、私はあれだけはどーも嫌いだ。
 私はなぜかアイスダンスだけは好きだ。
 そういえば海外でも衛星放送で日本の番組が見られるよと、よく人に言われる。
「で?何が見れるの?」と訊ねると《SUMO》と返事が来るので《ちっ》と舌打ちしてしまう。

 余談だが、両親が日本人でフランスで育ったかずし君という少年が、「ちぇっ」と舌打ちするさまが、かなり印象的だった。「ちぇっ」と言うのだ。はっきり声に出して言うのだ。
「ちぇっ」というのは、確かに《舌打ち》の表現だけど、これは漫画などで《音》を表現する時の文字ではないか?擬態語って、書くことは多いけど、あまり声に出して言う人はいないのではないか?マンガで日本語を勉強する若者の落とし穴だ。
 《ちぇっ》というのは《ごっくん》とか《しくしく》みたいなものではないだろうか?《しくしく》とか《さめざめ》と言いながら泣く人なんていない。ちなみに《ちぇっ》は広辞苑に載っていなかった。擬態語なんだろうか?それとも擬音語?(問題提起、宿題とする)

 本題に戻る。
日本の芸術家やスポーツ選手の活躍を、テレビやラジオで訊くことはほとんどない。
音楽方面での日本人の活躍は目覚ましいと思う。ラジオで音楽番組を聞いているからだろうか?
でもスポーツ界の日本人の活躍は、ほとんどきかない。アイススケートと、スキーのジャンプはとても優秀よと、誰かにきいた覚えもある。そういう公式の試合で日本人を応援しないのは、わたしって薄情なんだろうか?《相撲》を見ないのは、よくない日本人の証なんだろうか?

 この前インターネットのラジオ(http://www.nhk.or.jp/nhkworld/japanese/index.html)で相撲の中継を聞いてみたら、一番強い関取は韓国人だった。相撲界はハワイ人だけではなくて韓国人にまで乗っ取られているとは、知らなかったのでびっくり、ちょっとがっかりした。
 《がっかり》の瞬間に、ささやかな愛国心が生まれた。(?)

 フランスサッカー界のホープ《ジズー》は、私でも知っている。とても控えめな彼は、あまりマスコミでも口を開かないし、口を開くとみんながほろりと涙を流すようなことを言う。ボランティアとか、チェリティーとか、そういうことにもたくさん参加しているみたいだ。一度彼がプレーしているのをテレビで見た。
 あれよあれよと敵のゴールへ向かい、ひらひらと飛ぶように芝生の波間を泳いでいた。いつも真剣で、厳しい顔をしているのに、ボールにはとっても優しいんだろうねえーと思った。ボールのほうが彼を好きみたいだった。もうすぐ現役をやめるらしい。惜しまれてやめられるのが潔くてよい、と私は思うけど、ちょっと勿体ない。

 サッカーの試合の日は、テレビやラジオをつけなくてもわかる。試合前に、トリコロールの国旗を翻しながら、若者たちが車で走り回る。
 試合が終わると、ご近所から一斉に声が上がる。
勝った場合には、試合終了の数分後に、クラクションを鳴らしながら、(たぶん国旗も翻しながら)走り回る車の数が増える。
 決勝に近づくに連れて、走り回る車の数や、路上での騒ぎが増える。

 みんなにとっての、眠れぬ夜。
時差があるから、日本のみんなには大変だ。
 2006年06月25日 旅行計画
 友達のために、インターネットで調べものをしていたのだった。

 夏休みに日本から友達が来る。せっかく日本から来るのだから、パリには行きたいと思うけど、パリに行きたいといわれたら、ちょおっと困る。遠いので。
「パリの土産は空港か飛行機の中で買うとして、地図で見たら、スペインとかって近そう?行ける?」などと言ってきた。

 うちを拠点にして、10日の全滞在期間にこの辺を案内して、残った3-4日もあれば行ける『すぐそこの外国』が4カ国ある。
 イタリアとモナコと、スペインとアンドラだ。車ですすーっと行ける。

 モナコのそばにJPの親戚が住んでいて、モナコで冠婚葬祭をやったから、行ったことがある。モナコというのは、映画祭のあるカンヌや、マティスの美術館のあるニースに向かって行くと、いきなり現れる『ロッシェ(岩)』の上に、美しく聳えるお城が見えて来る。そこには、歳取った髪の薄い王子様やら、おてんばで浮気者で、おしゃれで派手なお姫様が、ゴシップ紙に狙われながら住んでいる。水族館と植物館が素晴らしい、金持ちしか住んでいない国だ。イギリスのバッキンガム宮殿みたいに、宮殿の入り口におもちゃみたいな兵隊さんが立っていて、むすっとした顔のまま一直線に地平を見ている。(宮殿は見ていない)ちょっと笑わしたろ、と思って、兵隊さんの周囲でおちゃらけたことをやってみたけど、笑わなかった。あれは、面白い。

 アンドラというのは、フランスとスペインの国境になっているピレネーの山頂にある、小さな小さな国で、冬に行くのはけっこう大変だ。ここには10年前の里帰りの直前に『お土産』を買いに行った。ここはいちおう『外国』なので、お土産が免税で買えるのだ。この頃ではフランスではタバコにかけられる税金がものすごく高いらしいので、バスツアーが出て、タバコやお酒を買いに訪れる人たちでにぎわっているらしい。タバコを外国に行ってまで買うなんて、ちょっとあほらしい。はっきり言って、タバコを吸う人は嫌いだ。

 イタリアもスペインも自動車や電車だけでなく、自転車やヒッチハイクや徒歩でも行ける。ふと思ったが、馬でも行けるんだろうか?馬はパスポートもないだろうし?どうだろう?今度調べてみよう。

 うちからだとスペインまでバスで旅行するのが一番簡単で、安上がりだと、JPの意見。
ただし、マドリッドやバルセロナまでだとかなり遠いし、大都市のホテルに泊まったりするのは高くつくので、私にはとんでもない旅行になってしまう。できない。
 お金がないから今年は旅行をせずに、来る者は拒まずでお友達を歓迎しようと思っていたのだから、スペインまで旅行することになるのは、かなりまずい。

 とりあえず、友達がお金を出してくれるというので、『冷房も車もないエコロな夏』を目指していたJPにむっとされながら、子連れでも安心、冷房完備の快適なレンタカーを借りることにした。それで行けるところまで行く、ということになった。モナコはフランス語が通じるし、コートダジュールは前に住んでいて、懐かしくもあるので、モナコまでは行ってみたいと思っている。フランスの終わりにちょっと侵入しているようなモナコを出ると、JPのおばあさんが住んでいた、フランス領のマントンという町があって、そこを過ぎるとイタリア国境の税関にたどり着き、イタリア領バンティミーという小さな町まで15分も掛からない。

 友達が10日しか滞在できないというのは、実に淋しい。フランスの私が見て気に入っている場所だけでも、全部案内している時間はないし、私が行ったことがないけど、ぜひ観光してみたい場所というのもある。
 「また来たい。来て別なとこ廻ろう」と言わせるしかない。
 2006年06月24日 宴会
 アントワンくんの具合も良くなったので、予定どおり、モーガンたち家族を夕食に招待した。

 モーガンはカンボジアで生まれた。
 生まれた頃にカンボジアでは戦争をやっていて、母親を亡くしたあと、祖父母と父親と一緒にフランスに亡命した。父親はモーガンが3歳以上の時に、フランスで同じカンボジア出身の女性と再婚した。モーガンには三人の妹と弟が生まれたけれども、その時にはモーガンはすでにフランス人の家庭に預けられて、フランス人と同じ生活をし、カンボジア語も全く話せなくなってしまっていたので、カンボジア人の新しい家族とはうまく生きていけなかった。

 そのため、養子に引き取られたり、施設に送られたり、たまに家族と会ってけんかしたり、などなどしながら大きくなった人だ。彼女は口が悪くて、声が大きい。開けっぴろげでけっこう図々しいが、遠慮と親切はよく知っている。さりげない繊細な心遣いのできる人だ。彼女の口から親兄弟の話が出るまで、苦労ばかりで大きくなったような人だとは思いもしなかった。暗さのみじんも感じさせない。知らない人まであっというまに明るくしてしまう人だ。

 私は彼女といると、わがままを言うことや、やきもちを焼くことや、不満を言うことや、努力しないということの醜さを感じる。自分たちは裕福とは言えなくても幸福で、私にとっては不自由のない少女時代を過ごせたこと。毎日は会えないし、よく行き違ってもいるが、「そこ」に居て助けてくれる家族が、いまだに「そこ」にいるという幸せを感じる。助けてもらってばかりで、助けてあげられない、というあたりの一方通行だけれども。

 彼女は「みのりはフランスでたった1人でがんばっている偉い」と言ってくれる。「私たち似ているから助け合おう」と言う。ちっとも似ていないのに。母や姉たちが日本から送ってくれる小包みをみて、うらやましがる。中をのぞいて、「うらやましい」と言う。

 彼女が「うらやましい」と言うとき、私は素直に「じゃあいっしょに食べよう」と分けたくなる。彼女が居ない時に小包が届いたら、電話して小包みの山分けをとりに来るように言う。
 モーガンはカンボジアで生まれて、しっかりアジア人の顔をしているから、フランス人は「アジア人だ」と思って声を掛けてくれないこともある。フランス人からは「アジア人だ」と言って区別されることもある。でも彼女にはフランス人の文化しかない。
 アントワンくんとゾエは「ふたごですか?」と言われることがあるし、私とモーガンは「姉妹ですか」と訊かれることもある。(似てなくてもアジア系はみんないちおう兄弟?と言われる)

 モーガンは、私と居ると「アジア」の雰囲気を感じることができるようなのだ。私は「カンボジアの文化」というものは知らないけれども、モーガンは「アジア系」でいっしょくたにしている《フランス人》だから、日本もカンボジアもたいしてかわらないらしいのだ。ほかのどんなフランス人とも同じ考え方だ。

 うちに来て、漆塗りのお椀でみそ汁を食べたり、お箸でお寿司をつまんだりするのが、たまらなく好きだ。日本のものは何でも好きだ。アジア的な装飾品のような「物」は好きでも、「刺身」のような特殊な食べ物を「口に入れることはできない」という《アジア好き》はいっぱいいる。でも、モーガンは何でも好きだ。料理だったら、すぐにレシピを書き留めるし、写真だったらコピーして行く。私がなにか「あげるよ」というと何でももらって行く。

 食の細いアントワンくんが《ふりかけご飯》だったら何杯でもいけるということが判明したので、私もモーガンもアントワンくんに、せっせとふりかけご飯を食べさせている。

 夕食では、ブタ唐揚げの南蛮漬けと、まき寿司、カリフラワーとアスパラガスの酢みそ和え、グ沢山、豆腐とわかめ入りみそ汁(赤だし)、などなどを出した。普段は押し入れに入ったままの、お祝いの日のためだけのきれいなお椀や小皿を大放出した。

 とても楽しい夕食会だった。今度いっしょにアジア雑貨の店に行って、《日本人の台所に必要な物》をモーガンと2人で物色する予定。
 2006年06月23日 連休
 昨日の夕方、小学校の門の前で「幼稚園のゾエの担任は明日もおやすみだが、代行の先生が来る予定」と伝えられていた。でも、うちで遊んで帰る時のアントワンくんが熱っぽかったので、担任の先生が居ないなら、明日もまた預かろうと思っていた。どうせ年度末で、教室では大したことはやっていない。
 
 モーガンはアントワンくんを幼稚園に預けるつもりだったのだが、やっぱり熱があるので、私が預かることにした。モーガンはもしものことを考えて、ちゃんと薬のかばんを持って来ていた。
アントワンくんは《おたふく豆》に含まれるなんとかいう成分のアレルギーで、赤ちゃんの時におたふく豆を食べたとき、白血球と赤血球に異常が起きて、死にそうになったことがある。身体中の血液を取り替えることになった。おたふく豆と同じ成分を含む薬や、おたふく豆以外の食品も危ないので、モーガンは子どもを人に預ける時には必ずそのことに注意してくださいと頼む。もちろん勝手に薬はあげられない。熱があるからうちにある薬を飲ませようなんて親切心を出したら、子どもを殺すことにもなりかねない。こんな子を預かるのはちょっと恐い。

 前日よりも具合が悪いのか、アントワンくんは少々ぐずりやで、全体的におとなしかった。
相棒がおとなしいせいか、ゾエもけっこう静かにしていた。
また昼間に川の字になってベッドに寝転がっていたら、2人はすぐに寝入った。
1時半から4時過ぎまで、「ぐーすか」いびきをかいてよく寝た。
子どもたちも年度末で疲れているのかなあ。
おかげで私はいろんなことができた。
ただし朝市には行けなかった。

 4時過ぎまで寝かせていたら、今度は夜に困るだろうと思い直して、まだよく寝ている子どもたちのベッド脇で「おやつだよー。おやつの時間だよー」と繰り返して言ったら、一人、また一人と起きて来た。

 モーガンが戻って来て、「アントワン、昼寝好きじゃないのよ。どうやって3時間以上も昼寝させられたの?」というので、必殺の《アイスノン》を見せた。
1時半に熱っぽかったので《アイスノン》を出して来て、頭にのせてあげたら、すごく気持ちよいと言った。ベルトでおでこに貼付けるミニ・アイスノンもある。

 夜に熱を出したら困るから、と言って、我が家の大小アイスノンを二つ貸してあげた。
帰るときやっぱり熱があって、ちょっと心配。

うちの子たちは健康で丈夫で、親は幸せだなあ、と思った。
 2006年06月22日 逆行
 あさ学校の方に歩いていたら、この頃とっても仲良くしているモーガンが、蒼白な顔をして、息子のアントワンくんを引きずりながら、逆行してこちらに向かっていた。
「どうしたの?なにか事故でも?」こちらも焦る。
「担任の先生がおやすみ。理由は不明。子どもは自宅待機との貼り紙。わたし仕事に遅れそう。子どもたち家で見れる?」

 モーガンが言ってる間に、ノエミは勝手に学校に向かってしまった。
「いってらっしゃーい、ノエミー。ひとりも2人も同じだよ。仕事に行きなさい」
モーガンは行ってしまった。お年寄りが待っているのだから。

 じつはこの朝にはガレージに予約を入れていた。
数ヶ月前から、フロントガラスにヒビが入っていたので、ようやくそれを取り替えてもらうことになった。保険も降りる。仕方ないから、子どもを2人とも連れて行くことにした。

 JPが「駅を過ぎたら一番目を左に折れて、踏切を渡ったらすぐの道を左に」と言ったので、その通りに左に折れたら、一方通行だった。
人の子どもを車に載せて、一方通行を逆行してしまった。あーあ

 ガレージというところには子どもの好きな車がたくさんあって、しかもそこにある自動車は、修理のために窓が外されていたり、おじさんが車の下に寝っ転がっていたり、ボンネットが開いていたりするので、子どもたちは大喜びだった。おまけに通された事務所の時計は、ブリジストンタイヤの宣伝の入った、ブリジストンタイヤ型をした時計で、子どもたちにかなりうけていた。
《ようこそ》の足拭きマットも自動車の形だった。

 窓の外で、いよいよ私のフロントガラスの取り外しが始まったので、窓の内側にイスを持って来て、2人はひとつのイスを取り合いながら、仲良く窓の外で行なわれている修理を眺めた。

 1時間も掛からなかった。21ユーロしか掛からなかった。本当は200ユーロもするそうだ。保険というのは有り難いものだなあ。

 家に帰って、子どもたちはミニカーで遊んでいた。私は鳥の唐揚げと、みそ汁を作り、白いご飯を炊いて、モーガンが帰って来るのを待った。モーガンは、お年寄りの家を廻って、書類書きを手伝ったり、ご飯を食べさせたり、病院に連れて行ってあげたりするヘルパーさんだ。木曜日は8時半から11時半まで、午後は1時半から6時までの予定だった。

 モーガンが帰って来た。お昼ご飯をいっしょに食べようよと言ったら、始めは遠慮していたが、子どもたちがすでに食べはじめていたので、ノエミが一人で学校から戻って来てから、いっしょに食べた。

 モーガンはカンボジアで生まれて、3歳の時にフランスに来た。アジアのものに憧れているけれども、3歳から過ごしているのはフランス式の生活で、顔は私みたいなアジア系なのに、生活様式も、考え方もすっかりフランスの女性と同じだ。カンボジアの料理などもよく知らない。

 前にもみそ汁を食べさせたら、とても喜んでいたので、今日も食べさせようと思って作って待っていたのだ。豆腐とわかめも入れた。3杯おかわりしていた。
アントワンくんはいつも食が細いのに、ふりかけを掛けたご飯と、みそ汁ならいくらでも食べるのでびっくりした。

 モーガンは「ごめんね、ごめんね」と言いながら、子どもを置いて仕事に出て行った。私たちは3人で川の字を作って、昼寝をしようと試みたけれども、子どもたちはすっかり興奮していて、遊びたくて仕方がないようだったので、ちょっと横になって休んで、あとは勝手に遊ばせた。

 2回はけんかして、どうなることやらと思った。一日はあっという間だった。
夕方モーガンが迎えに来たとき、アントワンくんがちょっと熱っぽくて、心配。
興奮しすぎたんだろうか?
 2006年06月21日 体験入学
   ノエミは、お友達のニナのうちへご招待。お昼までいただくらしい。

 午後の音楽学校はお休み。

 今週は音楽学校で「体験」ができる。ゾエがもうここのところずうっと「ヴァイオリンとクラリネットをやる」とはりきっているので、体験させてあげられるかもしれないと思って、連れて行った。でも、ヴァイオリンとクラリネットのクラスは、体験できなかった。

 「代わりにトランペットのクラスを見学したら?」って言われて、この先生、ゾエを馬鹿にしてんの?と思ってむっとしたが、「ジャズをやってるよ」と言われてゾエの目が輝いたので、連れて行った。

 ゾエはジャズが好きなのだ。

よく「わーっちゅーせー!!」と叫んでいる。

これはアームストロングの歌のリフレインで、What do you say ? かなんかだと思う。

英語は苦手。本人もわかっていない。

 ちなみにノエミはボビー・ラポワントが好きで、この前「あ」さんが来た時にいっしょに歌った

「タカチタキテ」も新しいレパートリーとなり、ゾエと2人でよく歌っている。

「タカチタキテ」というのは ta cathy t'a quitte 「いとしのカティーちゃんが、おまえを捨てた(いとしのカティーに捨てられたかな。)」というような意味、だとおもう。

 どれも子どもらしくない選曲。JPの趣味。「ママン・デ・プワッソン」は私も大好き。

個人的にはアフリカやらメキシコやら、アイルランドやらコルシカ島の歌が好き。

 トランペットとピアノのジャズを見て、子どものための音楽教室をのぞいた。

5歳からのクラスで、ゾエは入れないけど、5歳以上らしきそのクラスのメンバーはというと、先生の言うことは聞けないし、じっとしていられないし、音楽はどうでもよいという感じの子どもたちで、ただ騒がしいだけだった。楽器には触れずに走り回っている。5歳からでも楽しそうなクラスだったら、新学期には4歳になるゾエも入れてもらおうと思ったが、私のほうがよっぽど面白いレッスンができるわっ、と思ってしまったので、申し訳ないけど、ゾエには音楽学校は諦めてもらうか、ほかを探そうと思った。

 「柔道やってみる?」と言ってみたけど、やりたくないそうだ。「剣道ならやる」とは言っているが、カーモーには剣道のクラブがないし、ドレイ先生は子どもには教えないので。

「小さい子のヴァイオリンのクラスはないんだってさ」と言っているのに、「いーや、ヴァイオリンかクラリネットをやる」と言ってきかない。

母は、もう少し考えることにする。

習い事もけっこう出費なのよねー。
 2006年06月20日 反省会
  午前は幼稚園の映画鑑賞会の引率。

子どもたちの手を引いて、町の映画館まで中国の映画を見に行った。

お昼は、幼稚園の前の公園で、ピクニック。

 夜は8時半から母親の会。主に先日の祭りの集計と反省会。

全体的に「よかった、という うわさ」

 細かくは、祭りの時間帯についての不満や、予定どおりに進まなかった事柄の結果報告。うまく切り抜けた人の自慢話や、パスポートや夕食会、飲み物スタンド、お菓子売り場の売り上げ発表。

 折り紙スタンドはだれからも好評を得た。特に、母親の会に参加している人たちの子どもたちが、ずいぶん私のことを誉めてくれたらしく、そのおかげで、今まで母親の会で口をきいてくれたこともなかった人たちからも、「うちの娘がまたやって欲しいと言っていた」などと話しかけられた。

 折り紙スタンドで用意していた、作り方のコピーを、パニックの中で全員配布出来なかった。用意した紙もたくさん残ったので、家に帰ってから自分で試してみられるように、折らない紙もあげればよかったと思った。紙がたくさん残った、と話したら、「来年も、再来年もあるから、自宅に保管するように」と言われた。来年はもっとうまく準備できると思う。折り紙は大好きだから、ほとんど一人で切り盛りした時間も、あまり負担ではなかった。暑くなかったのもよかった。

 係を決めたんだから、と言って、自分の仕事の時間が来なければ、立ち上がらないという役員もたくさんいた。私は、自分の役割が一体なんだったのか忘れたので、とにかくいろんな所に出しゃばって「やることある?」と声を掛けてみた。どこに行っても人手は多い方がいいと、喜んで遣ってもらえた。

 でも「自分の役割でもないのに出しゃばって、私の出る幕はなかった」との不満を述べる人がいた。そういう人は、「いや、別に人がやってくれるならやらせておけばいいと思った。。。」というのが本音。私がなにか言う前に会長さんから「やりたいなら出て来て、すすんでやったらいいんですよ。手伝いは多ければ多いほどいいんだから」と反撃を受けていた。まさにそのとおり。

 その代わり、出しゃばってたくさん働いた人は、こーんなに働いた、と言ってはいけない。わたしはJPに「ちょっと座っていたら?」と言われながらも、身体がうずいてしょうがなかったので、たぶんお祭りが楽しくて仕方なかったのだと思う。やることはあとからあとから出て来た。疲れはあまり感じなかった。

 反省会のあと、年度末のピクニックの計画が話し合われた。

母親の会と、祭り委員会のみんなで、家族ぐるみのピクニックがある。12月には忘年会もあって、JPは行きたくないと言ったのだが、ピクニックには喜んで行くそうだ。彼もまた、祭りの間に、いろんな人と知り合いになれたみたい。来年はJPに役員をさせようかなあ。
 2006年06月19日 スイミング・プール
   降るぞー降るぞーと言われているのに、ぜーんぜん降らない。

ラジオのニュースによると、各地のダムや貯水池の水位が、7月後半並みらしい。

この辺でどどーと降ってくれないと、7月も8月も完璧に水不足だ。

それにしても暑くて、子どもたちがぐったりしている。

 前から気になっていたビニール製のスイミングプールを見に行った。

見てしまったら、やっぱり欲しくなった。

 高さ30センチ、直径が150センチのカラフルなプールを買った。

ゾエが昼寝している間に、空気入れ用のポンプを探すのが面倒くさくて、廊下に座って自力でプールを膨らまし始めた。全部で4段膨らまさなければならない。

 2段目まで膨らましたら、汗が流れて来た。3段まで膨らましたら過呼吸で気分が悪くなって来た。死にそうーと言いながら4段目まで行った。執念だ。

 プールを中庭に置いたら、中庭がぐっと小さくなってしまった。さて、水を入れねば。

はっ!世間様は水不足を警戒して、節水が呼びかけられている。。。どうしよう。。。

 よっしゃ、母はやるぞ。

 庭にまわって汲み上げ式の井戸ポンプのとってをつかむ。バケツには10リットルのラインが入っている。とりあえず5杯を目安に、汲んでは運び、汲んでは運んだ。水はこぼしていないのに、私はびしょ濡れだ。でもバケツ5杯ではプールはただの水溜まりでしかなかった。

 よし、あと5杯ね。でも先は長いねーと思いながらも、せっせと井戸の水を汲んだ。早くしないとゾエが昼寝から覚めてしまう。

 10リットルのバケツを10回運んだが、いまいちプールらしくならなかった。ゾエはまだまだぐっすり眠っているが、ノエミが帰って来る時間が近づいて来たので、15回を目安に、妥協することにした。

 「ゾエちゃーん、あんまりたくさん寝ると、今晩も夜遅くまで寝付けないよー」無視された。「プール膨らましたよー」と耳元でささやいたら、がばっと起きて素っ裸になって出ていった。

井戸水プールは20度しかなくて、ゾエはブルブル震えていたが、いちおう遊んでいる。

 ノエミは今日一日またボート実習で、帰って来たら顔がひやけで真っ赤になっていた。ブルブル震えながら、顔をつけて喜んでいた。

「でも、これじゃあ、あんまりプールって感じじゃないよね」

親の苦労も知らずに、水が少ないと訴える子どもたち。

「うちには井戸がある」と太っ腹になっていたために、じゃああと5杯ねと言って水を運んだ。子どもたちは大喜びしている。

 先日、JPはテラスにブランコを下げたので、ノエミはブランコで身体を温め、プールで冷やすという遊びを考え出し、夕方遅くまで仲良く遊んだ。

 その夜、ものすごい風が吹き荒れて、雷が鳴っていた。ずっと稲光で空が明るく、なかなか眠れなかったので、夜中に部屋を暗くして、窓のそばに1時間くらいいて、空を見ていた。夜の間に気温がぐっと下がり、湿り気も感じたが、雨は3ミリしか降らなかった。

 翌日、3ミリの雨で汚れたプールの温度はぐっと下がり、子どもたちはプールに近づかなかった。ボボがプールの外に縄張りを貼ったので、臭い。JPはプールの水を、トマトとヒマワリとトウモロコシと、芝生に撒いた。

200リットルの汚れた水は、これからしばらく放置されて、水まき用の貯水池となるだろう。

ああ、悲しい。
 2006年06月18日 父の日
   キャップ・デクベートの大きな広場で、《風祭り》が催されていた。

凧上げや、ハンググライダーなどのお祭りだ。

去年も行きたかったのに、行けなかったので、学校のお祭りあとで疲れていたのだが、どうしても行きたかった。

 セネガルに住んでいた時に、JPは広げた羽の長さが3メートルぐらいにもなる、大きな三角の凧を持っていた。その凧には操縦用のヒモがふたつついていて、両方の取っ手を操って、空に《八の字》を描いたり、自由に円を描いたりすることができた。真っ白い砂浜の海岸に座って、何時間でも凧上げを楽しむJPを眺めて過ごした。大きな凧だから、私には操作できなかったのだ。風にあおられて、空に飛ばされることもあったぐらい。腕の力がなくて八の字なんかは絶対に無理だった。

「今日は父の日だから、パパの好きな催しに参加しようねー」と言って、凧を見に行くことにした。セネガルで遊んでいた大凧は、遊びすぎて壊れてしまった。でもしっかりモトはとったと思う。

 会場では、凧上げがすでに始まっていた。昔《インド人の黒んぼ》というゲームをよくやったものだが、フランスでは全く同じ遊びで「アン・ドゥー・トろワ・ソレイユ」という。「1.2.3」で動き回って、「ソレイユ」と言われたらぴたりと止まらなければならない。それを、空高くに飛んでいる凧でやっていた。八の字や円を描いて、暴れ回っていた凧が、マイクの「ソレイユ」でぴたりと止まるのは面白かった。

 その他にも、様々なタイプの風車や、風鈴みたいなもの、庭の飾り、テント、リボン、ありとあらゆる風にまつわるオブジェがところ狭しと並んでいた。本物の鯉のぼりも風にはためいていた。放送を聞いていたら、「世界の凧」の解説があって、日本の「紙製の凧」という言葉も出て来た。

そして、ふと、昔のことを思い出した。

 子どものころ、お正月に、父は畳一畳分ぐらいの紙製の凧を作った。ある年の大凧のことは特によく覚えている。じつはその凧のことしか覚えていない。数人で抱えて海岸に持って行ったのではなかったかと思う。

 母などが昔話をする時に「毎年、あげていた」というので、きっと毎年大きな凧をあげていたのだろう。姉たちにはもっと鮮明な思い出があるかもしれない。私が覚えているのは、自分よりも大きな紙の凧で、父が自分で描いた、なにか恐い絵が風に吹かれて、正月の冷たい空に高くあがっていったことだ。どんなふうにそれが地上に戻って来たのか、覚えていない。落ちて壊れたのか、壊れないまま持って帰ったのか、覚えていない。覚えているのは、空高くに飛んでる巨大な凧だけ。

 子どもたちを連れて日本に帰った時にも、同じようなお祭りがあって、子どもたちは会場でゴミ袋を利用した凧を作った。魚見岳の麓の、昔と変わらない風が吹き荒れる広場で、ゴミ袋の凧はよくあがった。ノエミが「日本で作った凧、どこにやったかな?今日持ってくればよかったね」と言っていたが、じつはその凧は日本に置いて来た。あの時に父と凧上げをすればよかったなあ、と思った。

 子どもたちに無料で凧を貸し出しているコーナーがあり、ノエミはJPと、ゾエは私と凧上げをした。遠くの空に入道雲がモクモクとあがっていて、真っ青な空をバックに気持ちよかった。鯉のぼりも元気よく泳いでいた。そういえば《空に泳ぐ本物の鯉のぼり》を見たのは、18年ぶりぐらいだ。

 ノエミとゾエの父も喜んでいた、と思う。

私の父じゃあないので、プレゼントはなし。
 2006年06月17日 Kermesse ケアメス 学校のお祭り当日
   大雨の予報だ。風が吹き荒れているし、空は不運な雲が流れている。風に流される雲の加減で、日がガンガン照りつけるかと思ったら、数分後には真っ暗になり、夕方ごろには大雨だなーと思いながら、10時半に我が家の冷凍庫を学校に運んだ

 うちにはJPの祖母からもらった冷凍庫がある。お祭りでアイスクリームを販売するので、冷凍庫を持っている人は貸してと言われた。薪を運ぶ「ディアブル(悪魔)」という名前のキャリーを利用して、JPに運んでもらった。

 お祭りでは母親たちが作ったケーキやクレープも販売されるので、私はリンゴとアプリコットのケーキを作って持参した。(好評だったので、今度レシピを紹介します。)

 折り紙スタンド用のテーブルを、木陰に確保して、貸してもらったホワイトボードに、折り紙のモデルを貼った。一応幼稚園生には簡単なのを三つ用意して、あとは人の流れと、生徒のやる気と、こちらの対応能力に合わせて、臨機応変に生徒の要望に応えられるよう、動物の顔や、箱、船、飛行機などなどを用意した。

 アシスタントを申し出てくれていた「ナ」さんは、予行演習したはずの《かぶと》と《セミ》と《ネコ》をすううっかり忘れてしまっていて、スタンドをオープンした時点で「もうやめたい」と言い出した。ノエミとJPが来て手伝ってくれたので、暇な時に「ナ」さんはどこかに行ってしまって、そのあとは、消えた。

こいつううう

 風が吹き荒れていたので、折り紙スタンドはハプニング続きだった。声を張り上げたのでノドもからからになったが、風と雲のせいであまり暑くなかったので助かった。あのJPがコーラを買って来てくれた。

 この日、ヴァイオリンの発表会もあったので、JPとノエミは予行演習と、本番のために抜け出した。ノエミの演奏は大変よかったといううわさで、ほっとしたが、行けなくてとても残念だった。

 子どもたちは入り口で《パスポート》を買うことになっていた。幼稚園児向けと小学生向けに別れた、それぞれ5つのスタンドを廻って、スタンプを押してもらう。スタンプが5個そろったらプレゼントがもらえる。スタンドによっては景品付きのゲームをやっているところもあって、子どもたちはいろんなものを獲得していた。

 折り紙スタンドは、このスタンプを押してもらえる《有料》のスタンドとは別で、《メーキャップ》スタンドと、《コラージュ》スタンドと並んで無料参加できる《アトリエ》と言われるもので、ここではクリエイティブなことをやって持ち帰ることになっていた。ノエミの担任のミゲレーズ先生も飛び入り参加していった。先生にはノエミが《ネコ》を折らせていた。折り紙に来てくれた人には、私が前の夜に200個用意した《金魚》の飾りをプレゼントした。

 ゾエは友達の家で昼寝をさせてもらって、夕方遅くに出て来たが、大好きな《アヒル釣り》で馬のぬいぐるみをもらっていた。それから《メーキャップ》のスタンドで、自分で選んでチョウチョの模様を顔いっぱいに描いてもらっていた。

 ノエミは「目隠しで絵を描こう」に参加してフラフープを獲得。馬の絵を描いたらしいのだが、目隠しが透けてるんじゃないの?というぐらい、ちゃんとした馬の絵を描いて、周囲をあっと驚かせたらしい。馬の似顔絵は家じゅう至る所にある。あーんなに毎日練習していたら、目隠ししていても描けるだろう。もらったものがフラフープでひと安心。子どもによっては《たて笛》をもらった子もいた。祭りの間中どこかでピーヒャラ鳴っていて、その横では親が「うるさい、笛を片付けろ」と叫んでいるのが聞こえていた。

 夜には市役所からのプレゼントで、祭りに来ていた人全員に、キールとジュースとチップスのアペリチフが振る舞われた。そのあとのお食事会では、事前に申し込むことになっていた、大人一人12ユーロ、子どもは無料のフルコースで、メニューはサラダ・エリヤ・チーズ・コーヒー・ワイン・デザート(アイスクリーム)・コーヒーだった。パエリアは、校庭に大きな専用のフライパンが出されて、みんなの目の前で料理された。エビが入っていたので、JPにとり肉をあげる代わりに、山盛りのエビをもらった。おいしかったあああ

 母親の会の役員は、家族や親戚まで動員して準備から配膳、後片付けまでを受け持った。見るに見かねて臨時ボランティアも、何人か加わってくれた。

 朝の10時半にテーブル出しなどの準備に始まり、片付けが終わったのは午前2時ごろだったと思う。参加者たちは口を揃えて「よいお祭りだった。楽しかった」と言って帰って行った。批判と反省は、あとから出てくるだろう。

 疲れを忘れるぐらい楽しかった。 

このお祭りを境にたくさんの人と親しくなれた。

雨は全然ふらなかった。
 2006年06月16日 雨の予報
   週間予報によると金曜日から崩れて、土曜日は大雨といううわさ。近所のおばさんが「リュウマチが痛むから、お祭りは雨よ」と予言されてしまった。

 久しぶりに「ダニエルさんちでおしゃべりする」に参加してくださった「あきこさん」の素朴な疑問で、「ゴトウさんちのお布団」ってのは一体なぜ?の疑問にちょっとだけ応える。

 ごとうふとん店は高校の同級生のみゆきちゃんのお嫁入り先。「ごとうふとん店」のサイトを覗いて、訪ねた人はちゃんと買ってください、よろしく頼むよ。

 それにしても、最近のおしゃれなお店は「喫茶店」と言わずに「ティールーム」。「散髪屋」と言わずに「カットショップ」や「ヘアーサロン」などと呼ばれていて、どーも馴染めない。みゆきちゃんのお店が「ごとうふとん店」という名前でいささかほっとしている。そういえば、フランス語の辞書でもsushi、nori、tofu、bonsai、はそのままだから、futonにも訳語はないのだろう。うちにも布団があるが、床が板敷きだから背中が痛くなる。早く和室を完成させ、畳を入れて、ごとうふとん店の布団を購入するのが、今の私の夢だ。

 金曜日、空が真っ暗。朝市でも雨に降られるかと思って、大急ぎで買い物した。

ニュースによると、貯水池やダムなどで、はやくも7月後半の水位。すでに各地で山火事が発生しているとのこと。普段あまり水を飲まない私も、よく水が欲しくなる。これはよほどの暑さを現す。 

 私は1.5リットルの水ボトルを、2週間以上掛けても一人では飲み終われない人間だ。昔から、トイレに行くのが嫌いなのと、おねしょをするのが恐いので、水はあまり飲まない。

 隣のお年寄りが「暑いねー」と言っているので、「水を飲まないといけませんよー」と声を掛けた。その足で台所に行って、水を飲んだ。

 祭りはやりたいけど、雨が降ってくれるなら、中止になってもがまんできる。

かんかん照りのもとで、三時間も折り紙をやるよりは、ましかも。。。。

雨あめ、降れ、降れ。。。土曜日までに降ってくれえーーーーい
 2006年06月15日 ばっしばしの抜歯
   ノエミの犬歯が抜かれる。犬のような歯というよりは、鬼ばばあのような歯だ。しかも外に向かっているのではなくて、歯茎の内側に生えている。もちろんほかの歯と並ばずに、両隣の歯に比べたら45度ぐらい曲がっている。その歯はなくてもいいと歯医者に言われた。矯正器具をつけるのに邪魔らしい。

 三週間後には矯正の器具をつけることになっているので、今からその歯を抜く。歯医者は数週間前から予約してあって、普通の歯医者ではなくて病院内の特別治療室で「手術」並のものものしさ。親は「子どもに麻酔をすることを認めます」とサインさせられた。

 その医者に予約を入れてから、JPが同僚から「その医者は肉屋だ」と言われた。同僚は娘の治療のためにその医者にかかって、娘は治療の最中に痛みで大暴れし、口を血だらけにして、治療室から泣き叫びながら出て来たと語った。

 私は、どうしよう、どうしようと思いながら出掛けた。(カーモーのかかりつけ医の紹介だったから、信じることにして。)

 その医者にはこれまでにも、矯正器具の見積もりのために二回ほど会った。子どもにはけっこう優しいし、ギャグなど飛ばして、ノエミを笑わせている。けれども、アシスタントの看護婦さんたちを怒鳴り散らす様子や、《命令》の仕方を見ていて、腕が良くなかったら絶対に挨拶したくないなあ。。。と思うような医者だった。自分と《客》以外はみんな敵!みたいな雰囲気があった。

でも歯医者は、神経質に細かいことを気にするぐらいでないと勤まらないと、じつは思っている。なにしろ細かい作業だから。

 昔わたしは(なぜか)歯医者になりたかったのだが、私のようなおおざっぱな人間には、絶対に無理だっただろう。

 緊張して、朝も早くから支度し、遅刻だけはしないように余裕を持って出掛けた。あの神経質な医者をイライラさせてはまずかろう。病院での待ち時間を予想して、雑誌や本も大量に持って行った。抜歯してから数時間は食べられないのではないかと思ったので、出掛ける前に「無理してでも食べろ」とノエミに無理を言った。

 治療は5分。書類を作って、お金を払って、次回の予約をして。。。病院を出るまでに15分しか掛からなかった。駐車場に来てから、ノエミが「抜いた歯をもらうの忘れた。歯がないとネズミが来てくれない」と言うので、歯をもらうためにUターンした。

 抜歯後の歯はすぐにゴミ箱に捨てられたらしい。もうどれがノエミのかわからない。看護婦さんは、病院内で患者の体内から出たものは、すべて消却されることになっていると説明してくれた。

「ノエミはとっても強かったから、ネズミの代わりに、ママンがプレゼントをあげるよ」となぐさめたら、ちょっとは安心したみたいだ。

 夜少し痛みはあったものの、熱を出したり、ひどく痛がることはなかったので、ちょっと安心した。

矯正の器具なんか、つけなくてもいいのになあー、かわいそうになあーと思う。

「女の子だから、きれいにしてあげなさい」とみんな言うけれども、今現在は自分の歯並びの美しさなんかどーでもいいと思っているので、そんな子に矯正器具を強制するのは心苦しい。でも、義母などはきれいにしてあげないとあとで恨まれるよ、と言っている。

 そんなものだろうかねえ。

健康な子どもに生んであげたんだから、あとは死ぬまで感謝されると思っていたけどねえ。
 2006年06月14日 折る紙
   学校のお祭りが近づいているので、準備に追われている。

私は校内にもうけられる15のスタンドのうちの、折り紙スタンド担当。

 祭り委員会会計係が小切手をくれたので、折り紙用の紙を買いに行った。

普通のプリンター用の紙は1平方メートルにつき80gだそうだ。お店に行って紙を触って「これじゃあ固すぎる」と思った。

 最近はフランスでもORIGAMIが人気で、フランス語の本も沢山出ているし、専用の紙も売られているのだが、大量に買って小学生に配るには少々高価。パックになっていた折り紙セットを見つけたが、10枚で6ユーロもした。

 祭り委員会からお金はもらえるけれども、あまり無駄遣いはできないし、小学生が家に帰って、専門の折り紙ではなくても、どんな紙でも《折り紙》は楽しめると知ってもらいたいので、高価な紙をわざわざ買いたいとは思わなかった。ちなみに新聞紙も用意する予定。私たちは新聞を買わないので、JPが職場から束でもらって来た。

 プレゼントを包むつるつるの包装紙もなかなかよいのだが、これは大きな一枚の包装紙が、クルクル巻かれて売られているので、20センチ四方ぐらいにいちいち切ることを考えたら骨の折れる作業だ。

 造花を作ったり、工作に利用する《絹の紙》という名前の紙もあるが、書道はんしのような透き通った紙で、折り紙に使うには薄すぎる。

 文房具店を歩き回っているうちに、《スー・シュミーズ》なる代物が目に止まった。数枚の書類をバインダーや箱に納める時に、色分けする紙で、A3サイズが二つ折りになって売られている。これにA4サイズの書類を挟んで片付けることができる。厚紙になっているものや、見出し用の窓がついたものもあるが、その中に1平方メートルあたり60gという薄い素材のものを見つけた。ひとパックに150枚入っていて7ユーロだった。1色につき10枚の束が3つずつ、5色ある。これを折り紙用に、21センチかける21センチに切ったら300枚。子どもは200人集まる見込みだから、1束で足りそうだが、多めに買うように言われているので、2束買うことにした。

 基本的には「どんな紙でも楽しめるのが折り紙。役に立つものも作れる」とアピールしたかったので、正方形の紙のほかに、新聞紙と、普段学校で使うA4の用紙(長方形の紙)を用意した。新聞紙では《シャッポ(本当はカブト)》、長方形の紙では《シャツ》や《ゴミ箱》も作ることにした。

 上手に折れないけど、作品は欲しいという子どもも絶対に居ると思うので、自宅にあったきれいな千代紙で200匹の金魚を作り、糸を通してぶら下げられるようにした。子どもたちにプレゼントするつもり。

 私といっしょに折った作品を、自宅でも家族と楽しめるように、作品のモデルをコピーした。

準備ができた。

当日、ちゃんと教えてあげられるように、せっせと練習に励む私であった。
 2006年06月11日 ロバ祭り
   カーモーから約13キロほどに位置する、モネスティエという町で《ロバ祭り》が開かれた。

モネスティエは、カーモーからコルド・シュル・シエルという町に向かう途中にある、森の中の小さな町だ。コルドにチェロを習いに行く途中、毎週この町を通過するが、数週間前から「ロバ祭り」を知らせる垂幕が、町の一番目立つところに掛かっていた。

 《ロバ祭り》で子どもたちが楽しみにしていたのは、ロバの背中に乗ってのお散歩と、ロバに引かせる馬車ならぬ《ろ・ば車》でのドライブ(?)、そして、なによりこの祭りの目玉は《ギネスブックにもでている、世界で一番小さいロバ》に出逢えることだ。なーんでこんなところに《世界一小さいロバ》が居るんだろう。指宿の池田湖にいる《世界一大きいうなぎ》を思い出して、ププッと笑ってしまった。この双方に共通するのは「だから、何?」と言ってしまうほど、本来の役割を果たせない、ただ見て楽しい動物、ということだろうか?

 ボボサイズのロバには荷物は運べないし、背中にも乗れない。

直径30センチのウナギは、蒲焼きにしたってまずそう。

 でも小型犬ぐらいの小さなロバは、おとなしくて、とてもかわいかった。

 お祭りでは子どもたちにロバの絵を描いてもらう、絵画コンクールが行なわれていた。ノエミは馬を描くのが得意だから、青一色でささっと二枚の馬を描いて、長い耳を付け足していた。スタンドのおばさんを唸らせていた。

 ゾエはロバを引く自分まで描いた。ロバは鞍を背負っている。朝からずっと「ロバの背中に乗るんだ」と言い続けていたので、思わず鞍も描いてしまったらしい。

 ロバの背中に乗ろうとする子どもたちは、チケットを買って順番待ちしていた。イギリス人観光客がいっぱい並んでいた。小さな子どもが流暢な英語を話すのを聞いて、ノエミがえらく感心していた。15分以上待って、いよいよゾエとノエミの順番が来た。JPはゾエのロバの隣を歩いて、ノエミのほうの大きいロバには、農場のおじさんがついてくれていた。《農場のおじさん》と言っても、ロバを使って畑を耕す農家なんてないし、乗馬みたいにスポーツとして楽しむわけでもないだろう。ロバを飼うのはたいてい草刈りが嫌いな人だ。日がな一日その辺を歩き回って、草を食べているのが、フランスのロバの最近のお仕事だ。ヤギやヒツジも草刈り業を専門としている場合が多いが、ヤギやヒツジは草刈りのほかにもいろんな勤め先がある。《ロバ祭り》には生後三日の仔羊も来ていて、ゾエは哺乳瓶でミルクをあげた。この羊は毛糸を作るための毛むくじゃらのヒツジとなる。その他にヤギ・チーズも売られていた。

 子どもたちがロバの背中に治まったので、私は写真を撮ろうと思って、カメラを構えて参加したものの、ロバの足の速さに着いて行けず、ロバのお尻ばかり撮るハメになった。二度ぐらいはダッシュでロバを追い越して、前から撮ろうと思ったのだが、ロバがあっという間に追いつくので、なかなかいい写真が撮れなかった。見るに見かねて農場のおじさんがロバを駐車してくれたのだが、JPのほうはロバをコントロールできずに、ポーズをとっているおじさんの前を通過して行ってしまった。

 《ろ・ば車》に子どもを乗せると、JPと私はちょっと暇ができたので、カフェの木陰に座ってコーヒーを飲んだ。あんまりゆっくりしすぎて《ろ・ば車》が戻って来ていることに気づかず《迷子のお知らせ》で呼ばれてしまった。

 JPとノエミは自転車で来ていた。私とゾエは車にピクニック用品一式を積めて先回りした。お昼には食事のできるスタンドも出ていたが、私たちは《セルー川》のほとりでピクニックをした。

 絵画コンクールの発表があり、参加者全員が優秀賞を受賞された。商品は大きなボンボンの袋だった。子どもたちは大喜び。

 とてもよい一日だった。
 2006年06月09日 文藝の春秋
   クレルモンフェランというところに住んでいる、日本人の友達が、ご主人の『文藝春秋』を束で送ってくれた。日本に居る時には買ったことも読んだこともなかった、分厚い雑誌だが、読むものがいっぱいあって、今の日本のこともわかるような記事があるので、もらえるならもらう。

 『文藝春秋』で『蹴りたい背中』などの芥川賞作品も読んだ。

 この週は、もう一人本を送ってくれた友達があった。

トゥーロンに住んでいる人で、彼女のご主人はフランス人だけれども、彼女は一年に何度も日本に帰るので、家の中には日本のものが溢れている。彼女は大変な読書家で、彼女の超乱読な友達から送られて来たり、自分で日本で買った本などを、読み終わったあとに私に送ってくれる。私と違って読み終わった本はすぐに処分したい性格。

 一年に1回か2回、毎回文庫本が100冊ぐらい入った大きな段ボール箱を送ってくれる。以前は渡辺淳一や、田辺聖子、遠藤周作が多かったのだが、この頃は藤沢周平や大沢在昌も入っている。青木玉とか、なだいなだもある。人がくれる本だと、自分では絶対に買わないだろうと思うようなものもあるので、なかなか読む気になれないものも、確かにある。でも、味見をして、意外にも好きになったり、偏見を持っていたことに気づかされることもあって、友達からもらう本には、よく驚かされる。

 天堂荒太の『永遠の仔』を貸してくれた人がいた。上下二段のページで、上下巻。とても長い小説だった。夜中にドキドキさせられるのが刺激的で、昔私は血みどろのホラーや、やくざの殺し合いの小説をよく読んでいた。『永遠の仔』はホラーじゃないのに、心の奥深くをちくちく刺されるような、陰険で、不安をかられる物語だった。夜中にドキドキして眠れなかったこともある。

 幼い頃に親から受けたせっかんや強姦が、大人になっても一生つきまとう、悲しい物語。一見して成功したように見える昔の少年少女の人生は、秘密で溢れている。誰も本気では愛せなくなってしまっている。誰にも心の中をのぞかせず、心を閉ざして暮らしている。

   登場人物の中に、親にこんな言葉を言って欲しかった、と後悔したまま死んで行く人がいる。

また、自分の親のようになってしまうことに恐怖を感じながら、自分など死んだ方がいいと思いつつも、生きて同じ間違いを繰り返さない努力をすること、生きて、死んだものたちのことを覚えていてあげること、生きていることに意味があるんだと、自分を励ます人がいる。小説の中で語られている数ヶ月は、登場人物たちにとって凄まじい日々だった。普通に暮らしていると思っていた隣人の、人生の節目を「目をそらさずに見てください」と突きつけられたような小説だった。

 読んだあと、子どもの育て方に気をつけようと思う反面、もう遅いような気もした。小さい時分の親の発する言葉や、体罰の影響を深く反省しなければならなかった。親の心子知らずで、子どもは勝手に大きくなっていると思っているのだが、まだまだうちの子たちは小さいから、「こんな私だって、子どもたちには必要なんだよなあ」と思った。親の背中を見て大きくなるのではなくて、正面からぶつかりながらも、心を割って話し合えたらいいなあ、と思う。

 ガミガミ叱りすぎ。

 反省、反省。
 2006年06月08日 学校のお祭りが近づいているので、また、会議。
 ?  学校のお祭りが近づいているので、また、会議。 友達から折り紙サイトを教えてもらったので、大いに利用するつもり。

 ヌメアの大親友の「よ」さんが、「身体ちょっと壊してる」みたいなメールをくれてから、続きが来ないので、ずいぶん気になっている。そのことを「あ」さんに話したら、同じ町に住んでいるので、すぐに電話をかけてくれたらしい。「あ」さんが「電話したよ、元気そうだったよ」とすぐにメールをくれたので、ちょっと安心した。

 ほとんどいつもメールで遠くの人とやり取りをしているから、メールが途絶えると不安になる。メールでしか知らない人も居るので、いつか歳をとったり、病気で入院したりして、こちらからのメールに返事が来なくなったら、私はきっと孤立してしまうんじゃないかなあ、と思って心配。

 のどの弱い母が、「声が出なくなったら、アンタとも電話で話せなくなるし」というので、そうなったら辛いなあ、と思った。父が病気で寝ていた時にも、電話に出てもらえなくなって、その日が近づいていることを感じた。

 いつか私がメールを書けなくなり、電話を掛けられなくなった時のために、JPには日本語とフランス語の、遺言と知らせて欲しい友人知人の連絡先リストを作っておかなければならない、と、いつも考えているのに、まさかそんな日が明日にでも来ようとは思っていないあたりが、人間らしくて情けない。地震も台風もないところに住んでいる人間というのは、こんなものだろうか。親父もいないし。。。でも、火事と事故はありそう?

 身近なところで不幸が起こらないと、自分にも同じようなことが降り掛かる可能性なんか、考えられもしない。でも、毎日ラジオから流れている事故や事件を思ったら、今までこうやって生き延びていることこそ、奇蹟のようなものなのかもしれない。

 友達にも、家族にも「気をつけてね」と言いつつ、「気をつけててもどうしようもないこと、あるよね」と思ってしまう。毎日、できるだけ大切にしたいねえ。

 言える時に、「ありがとう」は言っておいたほうがよいに違いない。不満を言ってる暇があったら、やりたいことをやってしまおう。

例えば日記を書くとか。残してなんになる?という気もしないでもない。
 2006年06月07日 遠方よりの便り
   つい先日、カーモーで会ったばかりの「あ」さんが、もう南の島に着いたという知らせが届いた。フランスから飛行機で24時間以上飛ばなければ行けない島だ。時差は7時間もある。日本からだったら9時間で行け、時差はたったの1時間。

「あ」さんはニューカレドニアという、フランス海外領土の島に住んでいて、フランスの公立学校で正式に日本語を教えている、フランス共和国の公務員だ。

 わたしはニューカレドニアという島の、ヌメアという町に5年半住んでいた。

 ちょうど「あ」さんから「帰り着きました」という知らせがあった頃に、ニューカレドニアでいっしょに剣道をしていた「リタさん」からもメールが来た。クラブの近況や、彼の家族のこと、島の友人たちの近況を訊くことができた。

 「リタさん」は、ヌメアでもっとも長く、親しくつきあっていた大切な友人の一人で、私がヌメアに到着してから、旅立つまでの毎日の出来事を、事細かに覚えている。ヌメアを出てからは音信の途絶えてしまっていた、昔の下宿先のことを聞いたら、私の下宿先をわざわざ訪ねてくれた。下宿させてもらったいた家族の近況を知らせてもらえた。

 私は下宿の息子さんに、日本語を教えていた。出逢った時にはその子はまだ9歳で、私よりも小さかったが、とても頭の良い子で、五カ国語ぐらいをペラペラ話すことができた。日本語なんかすぐに話せるようになった。その子といっしょに日本に行ったことも何回かあるし、彼は一人で指宿の両親の家に滞在したこともある。両親はその子のことが大好きで、去年と一昨年に帰った時にも、その子の話が出た。

   グアドループからも久しぶりにメールが来た。グアドループというのはカリブ海に浮かぶフランス海外県の島だ。2004年に翻訳した『サトウキビ畑のカニア』という本の著者であるピションさんという方は、その島に住んでいて、島の子どもたちの身近な話題をテーマに、小学生ぐらいの子どもたちを対象にした小説を書いている。

この6月に新しく《アメリカ・インディアン》に関する本を出版するので、そのご報告をいただいた。できればまたその本も訳したいと思っていて、すでに下書き原稿はいただいている。いよいよフランスで出版されるので、新しい本を送ってもらうのを楽しみにしている。

   南の島々が懐かしくよみがえった一日だった。
 2006年06月06日 絵描き歌
   歌いながら、お絵描きをした少女時代がある。 

たしか「6月6日に 雨ザーザー降って来て」という歌詞もあった。

 とおい昔、6月6日生まれの少年が好きで、毎年毎年、6月6日が近づくと緊張してプレゼントを選び、6月6日の放課後が来るたびにふられていた。いまも日本語の教室で、絵描き歌を歌いながら、いつも「6月6日という日付けは、一生忘れられない」と思う。少年の顔は忘れた。

 今年はタイミングよく、大きくなったその少年から『同窓会の報告』がきた。彼が企画した同窓会は、8人しか集まらなかったという悲しい結果とともに報告された。がっかりしている様子だったので、なぐさめの言葉の代わりに「お誕生日おめでとう」とメールを書いた。

 「覚えていてくれたんだね!」という感動の言葉ぐらいあったらかわいかったのに、当然覚えていただろう的な返事だったのでむっとした。

これだから梅雨どき生まれの男は。。。

 教室ではよく、こんな絵描き歌も歌っている。

「てーる子さんにつーる子さん、ハチミツ飲んで叱られて、ヘーキでヘーキで、のんきでのんきで、試験は0点、縦タテ横ヨコ、丸描いてちょん、縦タテ横ヨコ、丸描いてちょん」

 これを考えた人は天才だと思う。
 2006年06月5日 やる気
   婦人雑誌を買わなくなって、ずいぶん経つ。

前は手芸ようのパトロンなどが出ているのが好きで、『プリマ』や『モード・エ・トラヴォー』(モッゼトラヴォーのように読む)を買っていた。そういう雑誌には季節ごとのレシピなども出ていたので。

 でも、レシピを読みながら料理している余裕がなくなった。手芸の材料を手に入れるのが難しい。手芸なんかやってる暇がない。。。などなどの理由のほかに、雑誌本体の中味が軽すぎるし、雑誌の中味の大半は宣伝なので、買うのがばかばかしくなった。

 日本から「フランスのきれいな雑誌を送って」と言われたので、とりあえずうちに眠っていた、手芸専門雑誌や婦人雑誌を送ることにした。

その人は絵を描く人だから、色のセンスなんかも素敵で、ちょっとした手芸にも光るものがある。彼女の好きなパッチワークやレース編みは、私は全然興味ないので、手元にもそれらを扱ったものはなかったけれども、ほかにも引っ越したばかりで、まだまだインテリアにプラスしたいものがあるに違いないと思って、家庭に役立つアイディアが載っている、きれいな雑誌があったらいいなあと思って探した。

 最新号も見たかったので、新聞屋さんにも行った。

《新聞屋さん》というのは、『マッシャン・デ・ジャーノー』といって、直訳すると《新聞屋さん》になるから、私が勝手に《新聞屋さん》と言っているだけのことで、じつは『ジャーノー』というのは、「新聞」に限らず、情報誌、雑誌のこと。そういう店ではたいてい、ロトくじや、タバコや、簡単な雑貨や、切手や、絵はがき、おかしなども売っている。

 ちなみに、フランスでは「新聞配達」というのは一般的ではない。もちろん定期購読で郵便箱に届く新聞を取っている人はいるけれども、『新聞配達の少年』というのは存在しないとおもう。

新聞というのは、毎日毎日お店に買いに行くものだ。私とJPは好きな時に、読みたい新聞を買いに行っている。

地方紙はほとんど読まない。

 うちから一番近いところでは、大したものは置いていなかった。『ル・モンド紙』を買う時には、どうせそこには置いていないと思うので、立ち寄りさえしないで、町の中心街にあるお店に行く。その店はタバコの代わりに、文庫本や写真集を売っていて、ロトくじはないけど、ノートやボールペンが買える。

 近所の「新聞屋さん」の少ない在庫の中から、前によく買っていた婦人雑誌を見つけた。そうか、ここでも売っているたぐいの婦人雑誌であったか。。。まあ、仕方ないから、手芸のページを見て、不満でもなかったので、これを買って日本に送ることにした。

 人がやる気出してるのを感じると、自分もやる気が出る。

先日町の生地屋さんが店じまいセールをしていたので、コットンや麻の生地を少し買った。

せっせと夏の服を縫った。あっという間に二着できた。

 今度の学校のお祭りにこれを着て行くのだ。
 2006年06月04日 ビオシベル
   去年も一昨年も行った『ビオシベル』に今年も行くことにした。

会場が大きくなって、新しい市や催しが増えているのではないかという期待とともに、ガヤックという町に出掛けた。

 健康食品、自然食品、無農薬食品の試食販売、説明会。

自然に優しい、身体に優しい衣類や、生地の紹介。(布製の生理用品や、最近見直されている赤ちゃんの布おむつ。おんぶヒモ、抱っこヒモ、綿入れや布団の紹介。毛糸やオーガニックコットン、革製品の販売など)

自然素材を利用した建築素材の実演販売、説明会。

節電・節水のアイディア紹介。

太陽熱、風力の利用についての討論会、説明会、実演。(太陽熱を利用して煮物を作る。)

石臼で挽いた、無農薬の小麦で作るパンの実演、研修。

無農薬野菜の育て方、無料体験。

コンポストや、水無しトイレの紹介。

竹やロープで組み立てた、遊具で遊べるコーナー。

竹、ロープ、石、木の実などを使った楽器の紹介。自由に手にとって鳴らせる。

 癒し系ミュージシャンによる演奏会。

珍しい食品が味わえる、レストラン・スタンド。

出店では、地域のハチミツ、無農薬フルーツや、ジュース、ハム、チーズなどなど。。。ありとあらゆるものを買ってその場で食べることもできる。

 いっやあー、楽しい一日だった。

 でも、JPとノエミが急に居なくなって、勝手なところに行ってしまうので、私は待ち合わせ場所近辺でみんなが集まるのを待ちながら、荷物の管理で、少々疲れた。

オーガニック・コットンの生地を切り売りしているお店があったので、訪ねたかったのに、みんなの荷物を管理している間に、午後遅くにやっと私だけの自由時間が来て、行ったらもう反物屋さんは店じまいをしていた。

 アンゴラの素敵なセーターも売っていたが、さすがにこのくそ暑いのにセーターなんぞを買う気にはなれず、買っても、アンゴラアレルギーでくしゃみをするものが、約1名居るので、(JPです)セーターは、なし。《一生もの》と言ってもいいぐらいの、品もお値段も頑丈な皮靴を買って、ニコニコ帰って来たJPを、怒鳴りつけようと思ったら、おいしいサクランボを一袋と、ゼラチンを使わないハチミツ・キャンディーや、ジャムを渡されて、思わず許してしまった。。。

 来年こそは、荷物持ちはJPにゆずる!

《のぞみの関心事》にて写真を公開中。
 2006年06月2日 レジで
   県外に住んでいる友達が、カルモー近辺の家賃の安さに興味を持っている。

「こんど引っ越す時はその辺りにしようかなー」と言い始めたので、ぜひともこの辺に決めてもらいたいと思って、この辺りのよさをアピールしている。

 売ります、買います情報誌というのがあって、不動産屋さんの店先で無料配布されているので、そういうのももらって来て、情報集めをしている。

 スーパーのレジで、私の前に通過した人が、レジを打っている人と知り合いらしく、おしゃべりに花が咲いていた。聴くとはなしに聞いていたら、「こんどうちを売るからよろしく」と言っている。「スーパーに勤めている人の中に、誰かいい人がいたら」と言っている。

 隣のレジを打っていた人が、「え?家を売るんですって!?どんな家?」と客をほっぽり出して身体を乗り出して来る。

 2台のレジのベルトコンベアーが停止してしまったが、客の少ない時間帯でもあったので、なんとなくのんびりしている。私も、私の後ろの人たちも、「どんな家?」の続きに耳を立てていた。

 改築したばかりで、部屋は三つあり、庭はX平方メートルで。。。湖のそば。

 ほお、湖といえば昨日行った《ルーカイエ湖》だろう。あの辺の田舎道を思い浮かべた。

 これは友達に知らせねばならぬと思って、レジを離れていこうとしている大家さんを取っ捕まえて、住所と電話番号をいただいた。友達にさっそくメールを書いた。

「でも、今すぐ見に行けないし、今すぐ買えないし」と言われて、ちょっとがっかり。でも自分のおっちょこちょいが丸出しで恥ずかしい。

 その友達、この夏休みに、遊びに来てくれる。

 いい所をたくさん見せて、絶対この辺に住みたくなるように、せっせとアピールしなければ、と鼻息を荒くしている。

 一昨年私たちが家を探していたころよりも、土地も家も安くなっているような気がする。《情報誌》を眺めていると、今住んでいる家よりもいい家がいっぱいあったように思えて来る。

 友達は「今住んでいる家を高く売って、田舎で広大な土地を買う」と言っているのだが、彼女はコートダジュールに住んでいるし、雑誌から抜け出したようなすてきな家に住んでいるので、きっと高くで売れるに違いない。

  うちの庭にだって、ちょっとずつ草が生え始めているのだ。。。

 《住めば都》の言葉も、わかり始めたところ。

やはり友達に、ぜひ引っ越して来てもらいましょう。ふふふ
 2006年06月01日 フランスだけど日本晴れ
  サイクリング大会当日。

 お母さんボランティア3人、担任と合わせて大人4人で、24人の小学生を引率することになった。

 4年生と5年生のひとクラスずつで、ノエミは4年生、午前中に出発した。5年生の24人は10時ごろ出発して、昼ごろ目的地で合流の予定。

 目的地は5-6キロぐらい離れた、人工湖《ルーカイエ》まで。

 私は自転車を持っていないので、車に子どもたちの荷物を積んで出発。数週間前に回されて来た担任の先生からの手紙では、車2台の募集があった。1台は空っぽ状態で走り、事故の場合に、事故を起こした子とその自転車を載せられるようにしたいというのが、先生の希望だった。けれども応じた人が少なく、車はうちのおんぼろプジョー1台。誰かが怪我をしたら子供は載せて走れるように、チャイルドシートを用意。でも、事故車は放置するしかないだろう。

 大人の自転車引率も希望より少なく2人だけ。担任の先生がちょっと不安げだった。

 地図を見せられたが、私はまだこの辺の地理に詳しくないので、後ろから静かに着いて行くしかない。

 そのかわり2人のママさんボランティアは、よく慣れている様子。

走る姿がなんとも頼もしい。

グループから遅れがちな子供の、背中を押しながらいっしょに走るというような技も持っていた。

 ノエミは数週間前に買った新しい自転車で、ここのところ毎日練習して来たが、こんなに遠くまで行ったことはなかったので、不安のようだった。子どもはダムのある人工湖までの、のぼりの多い田舎道を、とてもよく走った。金色に輝く波が、風にあおられてうねっているような、広大な麦畑を突っ切り、その向こうに広がる澄み渡った空に向かって、色とりどりのヘルメットが光りながら坂を上って行くのを、後ろから追いかけた。

 沿道で声援するお年寄りが多かった。普段は人通りがないのだろう。

まるでツールドフランス並みの声援を送る人も居た。

 到着地のルーカイエ湖では、小型の帆付きボートの研修が待っていた。

子どもたちはすでに教室で、帆付きボートの操縦の仕方を、すでに勉強している。多くの子どもが去年も研修をうけている。去年ノエミは転校したばかりで研修を受けられなかったが、なにせ風向きとか、方角とか、そういうのを読むことは普段から元船乗りの父に習っているので、なかなか呑み込みがよろしい。こんな小さな子どもたちにヨットが操れるなんてびっくりした。

 母親ボランティアの三人で、船着き場の日だまりに座って世間話をした。

そのうちの一人は、顔だけ見て憧れていたロランスさんだったのだが、たくさん話ができた。

とても美しい人で、いつもきれいな服を来て、かっこいい車に乗っている。優雅な物腰からどこぞのお嬢様で、きっと大金持ちのご主人なんだろうなあ。。。と思っていたのだが、苦労ばかりの人生だったんだねえ。。。という打ち明け話だった。人は見かけによらないのだ。

 そして私のほうも、中国人じゃなくて日本人だったという事実や、まあ、いろんなことやってるんだねえ。。。ということを理解していただけた。こんどロランスさんのお宅にお茶飲みにおいでと言われた。どきどき

 合流した5年生のボランティアグループ、ヨットクラブの指導員約三名、教師陣。大人は全部で10名ぐらいになった。大人だけで集まって、テーブルを出しての食事会となった。子どもは湖のほとりでピクニック。私はデザート係で、ロランスさんはソーセージ係。ほかにチーズ係、サラダ係、パン係、飲み物係、ワイン係。。。みんなで分担したのですごい昼食になった。

 教師陣が昼間の遠足で、ワインを飲むというあたりがいかにもフランス。

 帰りは下りが多くて、あっという間だった。

一度、大通りを横切る時に、担任に言われて、道路をふさごうとしたが、道路に立ちふさがるタイミングを外して、1台こすりそうになり、もう1台は後ろからぶつけそうになり、もう1台にはクラクションを鳴らされて、大恥をかいた。

 来年はぜひとも自転車で参加したい。

今からいい子にして、サンタさんに自転車をお願いしようっと。
 2006年05月24日 − 28日 休みが連なる
? 24日は水曜日でいつも通り学校はお休み。

25日はキリスト昇天の記念日だとかで、信者でもないのに祝日だから、休み。

26日は金曜日だけど、休み。4月と5月の始めに振り分けて、普段休みの水曜日に半日出たので、そこで溜めてあったお休みを丸一日分にして、何でもない普通の日なんだけど、休みになった。

27日は土曜日だから休み、でも朝はヴァイオリンのレッスンがあった。

28日は日曜日だから、ユダヤ人じゃあなくたって、お休み。

 JPなんか、5月は12日も休んでいる。こんなことでちゃあんとお給料がもらえるんだろうか。

勝手にずる休みしたのではなくて、役所がお休みなんだから、行っても閉まっているのだし。

 大したことは何も。。。あ、そうそう、27日は馬車のコンクールがあったので、JPの同僚の家族といっしょに馬を見に行った。暑くて死ぬかと思った。

 それから、28日はフランスでは母の日だった。

 JPとノエミがサクランボウ入りのケーキを作ってくれた。

JPからはアフリカの音楽のCDと、ノエミからは、カマルグ湿地帯の特製壁掛けをプレゼントされた。ゾエは学校で作らされたポプリを持って帰り、ずっと私の目の届くところに隠してあったが、母の日が来たら、それを自分の目の高さまで降ろし届けに来て、幼稚園で覚えさせられた『母に捧げるポエム』を暗唱してくれた。

 プティ・ビズー(小さなキッス)というポエム。

 で、ほかには何をやっていたかというとじっとして過ごした。

日本に向かって手を合わせていた。いろんな人にメールを書いていた。

たくさんの人と、思い出を語って、生死について考え合った。

 お天気がいいのでノエミとゾエとJPは、せっせと自転車の練習に励み、私は昼は庭仕事などをして、夜は剣道に励んだ。

「あ」さんの置き土産の『太宰治』を読んだ。面白い作品もいくつかあって、新しい発見だった。

『文学アルバム』という本で、太宰治というペンネームで本を書いていた『修治さん』という人の歴史についてちょっと読んでから、彼の全集の作品をいくつか読んでみた。彼の人生や環境や、人間関係が、作品にもよおく現れているのがわかって、けっこう面白いのもあり、また、お先真っ暗になりそうな作品もあり、辛くなったり、腹を抱えて大笑いのもあったりして、人の人生というのは不思議よのお、と思った。

 JPが中庭にロープと板切れで作った、ブランコをぶら下げてくれた。

ノエミはブランコばっかりやっている。

先週は縄跳びばっかりやってけっこううるさかったので、ブランコになってちょっとほっとしている。子供の目を盗んで、私もブランコに揺られている。

ふふふ
 ?2006年05月24日 助かった
   朝から晩まで、同じことを少なくとも5回ずつ繰り返し言わなければ、ノエミは動かない。

このチャンスに、日本語の同じ単語を5回ずつ繰り返せば、日本語の単語を一日に何10個と覚えるに違いない。

どうして今までそれに気づかなかったのだろう。

 たとえば

 起きてー着替えてーフトン畳んで(ノエミは床にふとんを敷いて寝ている)ー下に降りてー朝ご飯食べてー片付けてー洗面所に行ってー歯を磨いてー髪をどうにかしてー上着を着てーティッシュ持ったの?ー気をつけて。。。

 その間に

 本を読むな(朝起きたら、まず本を開くので)ーふとんをきれいに畳めーパジャマを片付けろーさっさと動けー階段で飛び跳ねるなースリッパを履けー残さず食べろーこぼすなー散らすなー喋るなー時間だよー時間がないよー歯をもっとよく磨けー泡を飛ばすなー順番を待てーはやくウンチしてー髪がぐちゃぐちゃー寒くないのー暑くないのー靴下がちぐはぐーそのスカート短すぎるーシャツにジャムがくっついてるーウンチしたら流してー遅れるよー忘れ物はないのー靴ひもちゃんと結べー車に気をつけろーほらほらーケンカするなー時間ないーきゃあーぎゃあ。。。

 一応これだけでも44のセリフができた。その日によって44以上になることはあっても、44以下になることは滅多にないだろう。30分の間に44のセリフを5回ずつ、365日聞いたら、いくら何でもうちの子たちだって、少なくとも44のセリフが丸暗記できないわけがない。

 よし、がんばろう

 水曜日は音楽に、図書館に、乗馬があって、とても忙しい。

朝から「遅れるよ」「急いで」をさんざん繰り返した私は、夕方になると雑巾のようになってしまっていた。イライラしながら、のろのろする娘を待っていた。「このままだと遅刻する」という時間になってやっと準備できた我が子は、ブーツを履いて、ヘルメットを被ったそのかっこうで、腰に手をあてて、怒ったようにこう言った。

「ママン、急いでよ、遅れるじゃないの」

よくもまあ、言えたものよ。恥を知れ。

 ドカーンと切れた私は、「今出たら遅れるから、もう連れて行かない」と言って靴を脱いだ。

9歳の娘に「連れて行かないと、自殺してやる」とか言われたが、死なせたくないのに死なれてばかりの私に、よくもそんな脅しができたものよと思って、トーゼンいかり狂った。

 こんなにかわいくて、頭が良くて、夢がいっぱいある子が、親に負けたぐらいで自殺することの無駄を、おまえに理解できないとは驚きだ。死んで欲しくない人に先立たれた家族の気持ちの、何がわかるというのだ。そういうことをわかろうという優しさがないとは、私は不幸な母親だ。などなどと言っていたら、ノエミがおとなしくなった。

 脅す人間と脅し方を間違った。とーんでもない子じゃ。根性叩き直してやる。

 娘にまで馬鹿にされてなるか、と思ってやっと見つけた手段が「連れて行かない」とは情けない。いつか自転車に乗って、自分で家出をするのかもしれない。親のこーんな権力がどこまで役に立つんだろう。

 夜になって、ノエミのほうが謝って来た。あまりにも頭に来ていたので、もうガミガミ叱る気もしなくて、ずっと黙り込んでいたので、これはまずいと思ったのだろう。

 この子たちのほうが私よりも素直で、ずいぶん助かっている。
 2006年05月23日 婦徳富家 おんなの徳は家を富ましむ
   《悲しいお知らせ》というタイトルのメールが入って来た。誰からのメールか確認する前に、誰の何のことかわかった。

 「ついに、逝ってしまいました」の一文を見たとき、左手で頭を抱えて、右手では左胸をおさえたけれども、もう涙を拭う手は残っていなかった。

 「淋しくなるなあ」という気持ちよりも、「淋しかったんだなあ」と思った。そして、「もう淋しくないですね」と天に向かってつぶやいていた。

 秋に佐藤彦四郎先生を見送った、歌子さまは、寒く長い冬にどんなに淋しい思いをしていらしたことだろう。

毎年《桜堤》という町から桜の写真を送ってくださった。結婚式で長いスピーチをしていただいた。居合の足を指導していただいた。日本からのお土産をいつもたくさん持って来てくださった。

 どこに案内しても興味を持ち、自然の美しさや、人の表情に敏感で、すぐに写真を撮っていらした。誰に紹介しても、すぐに皆の心を惹き付ける方だった。そして、誰もがいつまでも歌子さまのことを覚えていて、「あの方は、かわいらしい方だったね」と言う。

 私がまだ独身で、今よりももっと勝手気ままに暮らしていた時に、佐藤先生はこの言葉を色紙に書いてくださった。

「剣徳興国 婦徳富家」

裏には日本語でこう記されている。

 剣の徳は国を興し

 婦(おんな)の徳は家を富ましむ

 佐藤先生が一人でフランスにいらした時に、ちょっとした用事で、先生のスーツケースを開けるように頼まれた。そこには《鈍い》男子でもすぐに探し物が見つけられるように、無駄のない、整然とした空間があり、妻の心遣いがあった。

 先生はどこに行かれても尊敬されていて、誰よりも優れた技を持っていたけれども、このご婦人の前ではただの小さな剣士に違いなかろうと思って、嬉しくなった。

 そしてその時、初めて会った年にいただいた『婦徳富家』の言葉を思い出したものだ。

 見送って、これで安心したというように、歌子さんも逝かれてしまった。

 じつは、ちょっと、ほっとしている。

もうつらくない。きっとそうに違いないから。

前みたいに、お2人で漫才をやっているかもしれない。

 涙が出る時には「あの時のうれし涙」や「あの時の笑い涙」を思い出せそうな気がする。振り返ると、ずいぶんいろんなことを教えていただいていたものだ。

ありがたや。ありがたや。

 我が家では自分のスツケースは自分で準備する。私はJPの持ち物を選んだり買ったりしない。彼の服のサイズも知らないし、下着や靴下を買ってあげたこともない。

自分のことは自分ですることになっている。

 まだまだ修行が足りない。
 ?2006年05月21日 馬に馬鹿にされる
   JPが軍人や、肉体労働者だった時には、職場の同僚と顔を合わせたことがなかった。JPにとっては同僚は同僚でしかなく、いっしょに働いている人のことを「友達」と呼んだことはなかった。家に連れて来たこともない。

 公務員になってからは、職場でゾエの出産祝いももらったし、会議室で出産記念パーティーもしてもらったし、クリスマスには毎年農業高校の講堂を借りての、盛大なパーティーに呼ばれるし、定期的に遠足もある。職場の人とお稽古ごともできるサークルがある。

ノエミはこの夏休みに、職場で働く人たちの子どもといっしょに、グループで乗馬キャンプに出掛ける。親元を離れ、県外の山奥で三週間。

 今年の《遠足》は、乗馬付きピクニックだった。

うちから北西に60キロほどの、すごい田舎のほうに出掛けた。県外に出て、建物や町の風景もずいぶん変わった。森がたくさんあって、道路脇に鹿の親子が飛び出して来た。

 乗馬のクラブは《エルフブラン》という名前で、巨大な建物群だった。全体的に木造建築。清潔で設備の行き届いた、ノエミのポニークラブとは規模が違っていた。

そこでは、乗馬チャンピオンを育てたり、企業研修で馬の世話をさせたりもする宿泊設備も整えていた。馬を使った曲芸や、踊りなどのできるステージもあった。

 数年前にも乗馬付きのピクニックがあって、その時は、一日中馬に乗っていた。午前中は馬に乗って、馬場をぐるぐると走る練習。午後は、練習した馬に乗って、森や林を歩いて、とても楽しかった。

 今回は、趣向が変わっていて、馬に乗らずに調教する技を習ったり、馬車に乗って猛スピードで走ったりもした。

 馬を鞭で打たず、ただ馬のそばに立つだけで、左右自在に向きを変えさせたり、走らせたり、止まらせたり。。。とっても難しいのだが、この私でもできるようになった。

 私は馬が恐いので馬はすぐにキャッチして、そういう人間を《馬鹿》にする。馬は頭が悪くて、教えたことを決められた通りにしかできないので、こちらも決まりを守って動けば何でも言うことをききます、と言われたが、こっちが怖れていることを見抜けるとは、これは頭が悪かったらできないことではないだろうか。勘がよいということ?

 午後は、馬に《馬乗り》になって、手を放したり、馬上で身体の向きを変えたり、馬の背で四つん這いになって、片足をあげたり。。。そーんなすごいことまでやらされた。

馬が賢いおかげと、調教師が上手なおかげで、素人が背中に立ち上がっても、振り落としたりしない。「なんで馬の背中でこんなことやってるんじゃあー」と思いつつも、けっこう面白かった。

 最後は、身体の向きを変えて、馬のお尻のほうを向いた格好になった。

「ハイ、そこから跳び箱の上でやるみたいに、両手を馬のお尻に付けて、滑り台みたいに飛び降りてくださーい」

馬の背は1メートル60センチぐらいの高さ。

「滑り台」がちょっと恐い私。(滑り台で骨折した経験あり)

馬のお尻(バケツ?)は、熱くて、汗をかいている。

お尻に手をおいて、勢いを付けて飛び降りた。

カーボーイハットを被ってくればよかった。私ってかっこ良かった。

 ゾエとノエミも子供だけのクラスで、曲芸を楽しんでいた。

この日の写真を載せます。
 2006年05月20日 腹を出して昼寝
   ダンスクラブと共有している剣道場で、今日は「ハラダンス」の講習会がある。 「フラダンス」じゃないよ「ハラダンス」だよ。 アラブ系の、腰の太いおばちゃん達が、お腹の部分が大きく開いた、そして、じゃらじゃらとビーズをぶら下げた派手な衣装で、腹踊りをする。

 道場横の物置で暮らしているドレイ先生は、「ああ、うッとおしいなあ」と言っていたが、使用料無しで、先生の顔だけで借りている道場だから、使用料を払ってダンスをしている人たちには、素直に明け渡さねばならない。

 私は、みんなに「えー?また、朝っぱらからアスパラ?」と言われながらも、先日買い占めたアスパラガスをグラタンやらサラダにして、残った時間で、ちょっとだけアイロン掛けをして、そのあとは腹を出して昼寝した。

 夜があっという間に訪れて、「いい一日だったねえー、今日なにしたっけ?」と言ったら、みんなが「アンタは何もやってない」と言った。

 JPは、井戸にポンプをつけた。

家を買った時から井戸があると言われていたのだが、完全にセメントで塞がれて、そのうえに土を入れて花壇になっていた。

その花壇を全部壊して(何も生えていなかったから)、井戸のふたに穴をあけ、おもりをつけたヒモを降ろしてみたら、なんとその井戸は30メートルもあって、しかも、井戸の一番上から2メートル付近まで水が来ているという。ラッキー。

 井戸に水が入っているかどうかさえわからなかったこの冬に、JPのお母さんが衝動買いして持って来た、井戸ポンプがいよいよ日の目を見た。これで枯れ井戸だったら、また私にぶーぶー言われていたところだが、水がたっぷり入っている井戸だから、ポンプがあるのはよいことだ。たまには感謝してみる。

 ポンプと言っても、今どきの電気式ではない。

「トトロ」の「サツキとメイの家」にもある、あの、手押しポンプだ。

ハンドルを、キーコーキーコと上下に動かして、水を汲み上げる仕組み。

いつもレタスを洗った水や、濯ぎの水と雨水はできるだけキープして、それを庭にまいていたが、これからは井戸のお水があるから楽だ。

 節水にうるさいJPが、私が庭中にまいた《日本の芝生》の種に、せっせと水を掛けている。

《日本の芝生》というのはこういう名前でスーパーで売っていた、野の草花の種を20種類ぐらい混ぜた種のセットだった。前の家でも撒いたことがあるが、ぺんぺん草とか、かすみ草、ポピーなどが生えて来る。そしてしばらくすると「その辺雑草で手に負えない」状態になる予定。

今はまだ不毛地帯なので、まずは雑草にがんばってもらおうと思って、この種を二袋も撒いた。

 雑草が一番しぶとい。
 2006年05月19日 ようこそ、ここへ
 朝早く、トゥールーズから「あ」さんがやって来た。「あ」さんはパリから5時間ぐらい電車に揺られて、トゥールーズの娘さんの所にやって来た。パリではこの冬から下宿生活をしていた。
 普段の「あ」さんは、フランスから飛行機で24時間以上掛かる南の島に住んでいて、この陰気な冬を、寒いパリで過ごしていた。パリでの滞在期間が終わったので、もうすぐ南の島に帰ってしまう。

 カーモーの朝市をぜひ見たいと、トゥールーズから足を伸ばしてくれた「あ」さんを、我が家に案内する。もちろん朝市を通過して。町に突入する前に、銀行からお金をおろしてしまった時の「あ」さんは、そこから我が家まで食べ物屋さんが果てしなく続くことを、まだ現実視できていなかっただろう。

 今週でアスパラガスが終わりなので、私は友達の分も含めて6キロのアスパラガスを予約してから、駅に向かった。「あ」さんを連れて、朝市を一周する間に、両手に持ちきれないほどの食べ物を買ってしまった。「あ」さんは歩きながら新鮮なグリンピースを生で食べ始めている。私もお裾分けさせてもらったけれども、はじめて食べた生のグリンピースはとても甘くておいしかった。

 評判のパスタと、今週から並び始めたサクランボウは、トゥールーズの娘さんへのお土産にした。お昼のデザート用にも別に買ってもらった。うんちのこびりついている、生まれたての玉子と、しそみたいなすっぱい味の葉っぱ(オゼイユという)をかったので、お昼はオムレツにした。
 その他にも、「あ」さんはデザートが足りないかもしれないと言って、我が家の子どもたちのために、クルミのケーキを買ってくれた。

 日曜日のピクニックのために、チーズを15人分買わなければならず、それでずいぶん重くなってしまったが、お金を払って預けてある6キロのアスパラガスも、取りにいかなければならない。肉屋でハムを買うために並んでいたら、ある人が肉屋さんに「時差が9時間もあるところ」と言っていたので、「あ」さんが「おたくも、あっちから来たの?」と話しかけている。その人は、「あ」さんがこれから帰ろうとしている南の島に、遊びに行って戻って来たばかりだった。

 「いい所ですよねー。こんな暗いお空じゃなくてー」
「そうでしょう?」
「あ」さんも、はやく帰りたそうだった。

 久しぶりにあったお友達と、いろんな話をして、おいしいものを食べて、ちょっとお散歩して、駅で2人は黙りこくった。
「今、話したいことが浮かんで来たけど、話しはじめると電車に乗れなくなるから。。。またメール書くね」とお互いそれぐらいしか言えなかった。
 
 インターネットと飛行機のおかげで、世界は狭くなったけれども、やっぱりお友達の顔を見てやっと、本当に距離が縮まったような気がする。

 名残惜しいけれども、「あ」さんがはやく自分のベッドで深い眠りにつける日を、願っている。
実際に会えた友だちが「どうせまた会えるし」と言ってくれると、ほっとする。
 2006年05月18日 エイ・エイ・オーの母親会
 先日の母親会議で、ボランティアを募っていたのに、役員以外は誰も来てくれなかった。
だから、会議やり直し。

「ボランティアが居なければ、学校行事が成り立たない。子どもたちが楽しみにしている、学年末のお祭りを、成功させましょう」
という内容のビラが配り直され、門の前にも貼り出された。

 さあ、折り紙スタンドのアシスタントも募らなければ、私一人でスタンドを切り盛りしなければならなくなる。でも、この前の会議でコブシを振り上げたものの、満月の下で興奮していた時に「とっつかまえて、むりやり手伝わせる」などと言っていたのに、朝の眩しい光のもとでは、そのような勝ち気はしぼんでしまった。
 それに、この会議で、誰かアシスタントを申し出てくれる人が居るかもしれない。

 今回は役員以外に、5人の父親・母親と、役員でも前回来なかった人たちが、新たに数名加わった。前回話し合われたことの解説が繰り返され、今回新たに会議に参加してくれた人たちが、一体何をやってくれるかのリストが作られた。

 折り紙のスタンドは、幼稚園に子供が居る、若くてきれいなモロッコ人のナディアさんが手伝いたいと申し出てくれた。すぐ横に座っていたので、ほかのスタンドにとられる前に「私といっしょに折り紙やりませんか?」と訊いたのだ。ちゃっかりしてる。
 ナディアさんは折り紙を知らなかったけれども、お祭りの前にレッスンしてくれるなら手伝うと言った。もともとアシスタント・マターネルといって、子供を預かる仕事をしている人だった。折り紙を習って、預かっている子どもたちを喜ばせたいと言ってくれた。

 ナディアさんは、うちと同じ通りに住んでいるそうだ。うちはカルビニャック通りの62番地で、ナディアさんのお宅は33番地。肉屋さんの隣。ちょうど同じ日に、このごろ親しくなりかけていた26番地に住んでいるカロルさんが「じつは来週引っ越すのよお」と打ち明けてくれて、ちょっと淋しい気分だったので、ナディアさんの登場でパアッと明るい気分が戻って来た。

 ナディアさんは女の子が1人なので、うちの子たちに遊んでもらいたい、と嬉しいことを言ってくれた。(でもうちの子たちまだ見てないからねえ。申しわけないけど、今は期待させておこう)
 ちょうど私とナディアさんの間に、役員の中で一番陽気でおしゃべり、とても親切なバレリーさんがいてくれたので、ナディアさんは「この母親の会は、とっても楽しそうなグループ」と思ってくれたようだった。(みんなバレリーさんみたいと思ったら大間違いなんだけど、今は期待させておこう)

 ナディアさんが手伝ってくれたら、お祭りのとき、交代でトイレにも行ける。助かったあ。
ノエミも手伝ってくれると言っていることだし、どうにかなりそうだ。

 どんな紙でも折り紙できると、繰り返し言っているのに、「みのりが使ってるようなきれいな折り紙を、どこかで手に入れなければ」とか、「薄い紙じゃなきゃだめだ、普通折り紙の紙は何グラムなの?」などしつこく訊かれた。新聞紙でも、ノートの切れ端でもいいんだけどって言ってるんだけど、私を無視して「トゥールーズのお店まで行かなきゃ、残ったら来年使えばいいし。」と話し合いが進んで行く。

 修行を積む前に道具にこだわる。料理が下手なやつは、道具のせいにする。
フランス人の縮図をここに見た。

 私は新聞紙で作る等身大カブトと、チラシで作るゴミ箱と、それからノートを破って、校庭で遊べる、嬉しなつかし紙ヒコーキを考えていたんですけど。

「来年も、私がやるんですか?」
アンタしか居ないでしょー。
 ノエミは最終学年だけど、ゾエは幼稚園と小学校、合わせてあと7年あるので、あと7年はやってもらうと言われた。え?うそ。

 PTAの会議で、図々しくも《日本文化センター(私が勝手に言ってる仮称)》のチラシを配った。すでに評判を聞いている人、知らなかったけれども日本に興味ある人などが、そこに来ていた人たちの中にも、数人居ることがわかった。
 「日本語に興味あるのよお」と言ってる人もいて、「日本語教えてるんですけど」と言ったのはよかったけれども、「じゃあ、ちょっと教えてー」などと言われた。むっ
プロに「ちょっと教えてー」と言ったらいけないのだ。

 私は、ボランティアでは日本語は教えないんだから!
プライド高い分、お月謝も高いのよー。
私の授業料は高いので、JPはもう習のをやめた。
結婚したら日本語が上手になれると思ったら大間違いだった。
 高い月謝を払って、宿題をもらって、叱られて。。。そういう覚悟がなけりゃあ、上手になれないのであるからして。ほほ

 剣道はただで習ってる。そうか。。。だから上手になれないのかねえ。
 
 2006年05月14日 母の日
 日本は母の日だった。でも、日本の母に電話しなかった。何も送らなかった。どうしてと言われても困る。母の日に送りたいものは、店にもどこにも置いていない。週末には子どもたちが居てゆっくり話ができないので、週末には電話しないことにしている。

 ゾエが、幼稚園で習った、《母に捧げるポエム》を暗唱している。こんな長い詩を暗唱したのは初めてだったので、感動した。ノエミもよく幼稚園や学校で《母に捧げるなんとか》を作って持って来たものだ。でもこの頃は小銭を貯めているので、「母の日には何かを買ってやる」と言っている。

「ありがとう。でもね、母の日じゃなくても、ママンの手伝いしてくれたっていいのよ。それにね、私の欲しいものは、お店には売っていないよ」
「何が欲しいの?」
「思いやりのある、いい子」

 よく、こんなことが言えるものだ。
 
 フランスの母の日は5月28日なので、それまでには電話ぐらいしよう。



 金曜日の朝市で、アスパラガスとホウレンソウを大量に買った。アスパラガスは生で、ホウレンソウは固ゆでして、冷凍庫に入れた。アスパラガスの販売は来週辺りまでらしいので、こんどの朝市では、アスパラガスの買い占めをする予定。

 庭のイチゴとヒマワリが大きくなりはじめた。
セメントをはがして、処理場からもらったコンポストを散らした中庭に、《日本の芝生》という種をばらまいたら、足の踏み場がなくなった。

 時が移りゆく
 2006年05月13日 闇討ち
 JPが試験勉強をしているので、お弁当を二つ持ち、子どもたちを連れて剣道に行った。

 お弁当は道霊先生と、後輩のフレデリックにあげるため。道霊先生は道場の物置で暮らしているので、小さな部屋でカン詰などを食べて暮らしている。ネクトーさんの話では、毎週日曜日には、ネクトーさんの家で食事や、庭仕事をしているらしい。
 道霊先生は、ジャングルで自給自足ができるほどの、狩猟の腕を持ち、食べてよいものと、食べたら死んでしまう植物を見分ける技があり、料理の腕前はプロ級だ。この前ドレイ先生お手製の、《タンポポのジャム》を食べた。こんなの作るのはこの人ぐらい。逸品だった。

 この前ネクトーさんにまき寿司を持って行ったら、「フランソワ(ドレイ先生の名前)が来るから、残しておいてやろう」と言っていた。ドレイ先生にお弁当を持って行ったら、「ピエール(ネクトーさんの名前)と食べよう」と言っていた。
 そう言うと思って、しっかり2人分作ってある。

 一度お弁当持参で道場に行ったら、先生が留守だったので、独身のフレデリックに「まき寿司は好き?食べる?」と訊いた。まき寿司を知らなかったので、むりやり食べろと言って持たせた。
そうしたら、あとで好きだったと言ってくれたので、今回もお弁当を作ってあげた。

 今回はまき寿司ではなくて、ゆかりご飯のおにぎりに、きんぴらごぼうと、ホウレンソウのおひたしと、大豆とひじきの佃煮にした。肉も魚もなし。思いつきだったから、あり合わせで我慢してもらおう。ドレイ先生とネクトーさんはダイエットをしているというし。ははは。。。

 数年前、道場にノエミを連れて行ったことがある。ドレイ先生にも、ノエミという名前の孫がいると言われて、何かのご縁を感じた。ゾエを見て「この子はノエミだったね」というので、「いいえ、ノエミはこーんなに大きくなりましたよ。そっちはゾエです」と言ったら、ビッックリしていた。自分の孫のノエミちゃんには、ずいぶん長いこと会っていないのかなーと思って、切なくなった。

 以前は「子供は嫌いだから、剣道も教えない」と言っていたのに、ノエミに「そろそろ、剣道を始めなさいよ」などと言っている。ニコニコして嬉しそう。
 この人も数年で丸くなったんだろうか?

 「そうそう、エマニュエルがみのりの居合刀を返すって言っているよ」
こんどは、私がびっくりした。
 じつは、先日《日本文化センター》の会長さんにお会いしてからというもの、居合道を再開したいという、血が騒ぎはじめていたのだ。今年は剣道も居合道もしないと、ちょっとそっち方面は避けたいと、思っていたものだから、クラブの新人に、私の居合刀を貸してあげたのだ。じつは剣道より居合道の方が好き。

 赤い鞘(さや)で、鶴が羽ばたく形の鍔(つば)は、佐藤先生と奥様が、私のために選んで買ってくださったのだ。中味は模擬刀、全然切れない。ちゃんと長さも佐藤先生が測ってくださったので、身体にフィットしている。
 海外に居て、日本のものといえば通信販売を利用する。いつも身体に合わないものが届いてしまう。だからこの居合刀は、私にとって貴重な特注品だ。お金は自分で払ったけれども、佐藤先生に贈っていただいたと思って大事にしていた。

 でも、いくら大事にしていても、佐藤先生は喜ばない。わかっていたけどスランプ。宝の持ち腐れは勿体ないから、熱心にがんばっているエマニュエルさんに貸したのだ。そして、いざ、「またやりたいなあ」と思った時には、「返してよ」と言いづらくなっていた。
 
 そんな時に、彼女が返してくれるというので、びっくりした。
「どうして?やめたんですか?自分の刀を買ったの?」
「いや、やめてない。まだ買っていない。でも、そろそろ返したいって。」
テレパシーが通じたんだろうか。
闇の中から、刀がひゅっと出て来た感じだ。
 むむーん。修行が足りないので、よけられない。《鯉口》を切られたからには、こっちも《受け流し》のしたくをせねば、《袈裟切り》で、まっぷたつにされてしまうゾオ。

 来週、居合刀を返してもらったら、《切りつけ》と《抜きつけ》と《血ぶり》と《納刀》
(のうとう)を、毎日20回ずつやろう。ああ、宣言してしまった。やらねばなるまい。
 模擬刀なれども、真剣勝負なのだああああ。
 2006年05月10日 運命の出逢い!?
 80年代後半に、渋谷のある本屋さんでレジを打っていたとき、「エンドーさん?」とびっくりした声で呼ばれた。顔を上げるとそこには指宿の同級生が立っていた。大都会の真ん中の、地下1階から地上8階まである本屋さんだった。

 95年にフランスで結婚して、トゥーロンという地方の町に住んでいた。子供はまだなく、JPは船に乗っていた。巨大デパートの、上下に交錯するエスカレーターで、向かいを降りて来る人が「あ」ッと叫んだ。お互いに首をぐるっと回して行方を追った。彼は、一度下まで降りたエスカレーターをもう一度上り直して、私のいる所まで来てくれた。90年ぐらいに、ニューカレドニアの自動車学校でお世話になった先生だった。

 剣道の恩師、佐藤先生にはアヴィニョンでばったり遭い、引っ越して来てまたトゥールーズでばったり遭った。

 鹿児島出身で、ひとつ年上で、誕生日が同じで、彼女のお兄さんは私の同級生とつきあっていたという、そんな友達も居る。結婚相手はお互いに船乗りだった。彼女と知り合った時に、こんな運命の出逢いはもう二度とないだろうと思っていた。

 ところがどっこい。このカーモーで、すてきな日本人に出逢った。ただの日本人ではなくて、書道家で、禅や俳句にも通じた方で、茶の湯や生け花などと、様々な武道との繋がりについて学び、修行を積まれた方だった。その方が、カーモーに、日仏交流の場を開こうとしているのだ。

 剣道や居合道にも関心があって、とおっしゃるので、私がそれをやっていると話すと、お弟子さんが最近「鹿児島で示現流を学んで戻ったばかり。鹿児島が気に入り、指宿がとても好きだった」とおっしゃる。
「わたし、指宿出身なんですけど」お互い驚く。
なにかの縁だねえ。。。
 その方と、同席していた娘さんと、私たち三人同じ未年だったので、かなりうけた。

 「指宿の秋元さんって、知ってる?」
不思議な質問だが、外国で知り合った日本人同士というのは、こーんなとんでもない会話をするものだ。ちなみに指宿には「秋元」という地名があるので、秋元さんという人はいっぱい知っている。指宿の「アキモト」さんはみんな「元」の字を書く。学校にも何人も居た。

 でも「秋元さんって知ってる?」と訊かれた時に、私には一人しか思い浮かばなかった。
「秋元塾のかおる先生じゃあないですよねえ」
そうだった!!ちょっとぞっとした。

 去年帰った時には、区画整理のためになくなってしまっていたけれども、父が眠っている乗船寺の目の前にあった、塾の先生だ。初めて「ロブスター」という英単語を教えてくれた人だ。毎日学校の行き帰りにあいさつしていた先生だ。

 剣道と居合道を稽古しながら、武士の教養であった茶の湯や、書画や俳句について、もっと知りたいと思っていた矢先だった。歴史や文化を勉強するために通信教育を探していたところだった。何かもっと日本のことを学ばせていただけそうで、これからとても楽しみだ。
 2006年05月08日 サンピエール海岸で
 地中海に面した、サンピエール海岸に行った。
(秋の休みの時、海岸の写真を公開しました)
 お天気がよいので、海岸通りで開かれている朝市も、ものすごいにぎわいだった。
 カーモーの朝市ではまだ見られない、麦わら帽子や、パレオや、水着のお店も出ていて、華やかだった。「南仏」という雰囲気の、オリーブ屋さんや、石けん屋さんも出ている。

 海辺には、泳いでいる人はいないが、犬を連れて走っている人はいる。何キロも続く長い砂浜をゴマ粒ぐらい小さくなるまで、ずうっと眺め続けることができる。
釣り人も、釣り船も出ていた。

 子どもたちとJPは、砂遊びを始め、私は砂浜に寝っ転がった。
ああ、気持ちいい。
 シートもタオルも敷かずに、そのままそこにごろんと転がったら、そのままぐーすか寝てしまいそうだった。
 何か怪し気な物体が前を横切って行った、と思ったら、鎖につながれた猫だった。
海岸沿いに立ち並ぶ、ヴァカンスだけの貸家に来ている、都会の人だろう。
ヴァカンスにも猫を連れて来たのに、居なくなるのを用心して、鎖に繋いでいるとみた。
猫を鎖に繋いで、散歩させる人が居るなんて始めて見た。
 都会のアパートでは、きっと閉め切って飼っているに違いないのに、ヴァカンスに来てなお、「逃げられない。盗まれない」ように警戒を厳しくしなければならないとは、かわいそうなのはいったい誰なんだろう。
 ボボも海岸に連れてきたかったなあ、と思った。

午後にはカーモーに帰る。
 2006年05月6日 来ないでというが、行ってやります!!
 JPの両親の家に預けっぱなしだった子どもたちを、そろそろ迎えに行かねば、学校が始まってしまう。電話してゾエに「明日迎えに行くよ」と言ったら、「いやー、来ないでー」と叫ばれてしまった。電話まで切られてしまった。なんて奴。

 車で2時間半ぐらい掛かるし、家の片付けも残っているから、本当は私だって行きたくないのよー。
ボボもいるしねえ。

 ボボは、土曜日の朝、JPがはるか彼方まで散歩に連れて行き、へとへとに疲れきって戻って来たところへ、山盛りの乾燥ペットフードを放り込まれた。さっき、大好きな犬まんまをいただいたばかりだから、山盛りのペットフードには見向きもしないで、小屋の奥に入ってしまった。
 これならば土曜日の夕食と、日曜日の朝食は、どうにかなりそう。日曜日の午後帰って来る。
天気予報によれば、雷を伴う大雨だそうなので、ボボはきっと小屋から出て来もしないだろう。

 さて、一泊二日の里帰りである。

 地中海まで車で30分ぐらいのところなのに、お庭いっぱいのプールがある。プールの水は26度ぐらいで、まだ冷たいのだが、子どもたちとJPは、プールのお掃除と称して水遊びをした。
私は太陽にはもううんざりするぐらい当たって、この若さでしみそばかすだらけなので、プールは大嫌いだ。木陰で『子供の本とは』という小冊子を読んだ。

 夕方、昔ダニエル一家が住んでいた、古くて大きな家に行った。わけあって、この家を手放すことになったのだが、すでに7年間も、物置き状態だ。家を売りに出す前に、中の家財道具も処分しなければならないから、居るものがあったら持って行きなさいと言われて、ちょっと訪ねてみることにした。

 私たちの結婚式のパーティーをした、思い出の詰まった家だ。JPが船に乗っている時には、ノエミを連れて、ここへ《里帰り》をしたのだ。家の引き出しや、扉の後ろに何があるか、隅々までよく知った家だった。今は物の場所が変わったり、傾いていたり、埃だらけだったり、なくなっていたり。。。ずいぶん淋しくなってしまった。

 小さな家具をいくつか《予約》して、台所用品を少しもらった。
JPの部屋から私のラブレターや、JPの子供のころの写真や、ダニエル家の子どもたちが遊んだおもちゃが出て来て、段ボール箱に詰めて戻って来た。

 子どもたちは大喜びで、パパやおじちゃんたちが親しんだおもちゃで、なかよく遊んでいる。 
 2006年05月04日と05日 コンポスト
 お天気がよい。さわやかな初夏のようだ。去年の誕生日に義父からもらったジャスミンが花盛りで、中庭に出るといい香りを放っている。JPがジャスミンティーにすると言って、毎朝ジャスミンの花を摘む。前に住んでいた人が植えたバラも、壁を這い上ってたくさんの花をつけている。桜島の火山灰で造った花瓶にとてもよく似合う。

 中庭一面にへばりついていた、セメントの床を、去年からちまちまと壊して来た。庭にセメントを張るなんて一体どういう了見だろう。湿気が溜まって、家の壁を上って来るようだ。セメントの床を壊し始めた時に、いろんなアドバイスを受けた。レンタルで大型機械を借りて一気に壊せという人も数人いたが、粉々にすると処分が大変なので、50センチ四方ずつの塊になるようにして捨てた。

 3分の1はがした段階で、義父がセメントを切る機械を貸してくれた。今度はそれでタイルのようにます目に切り、セメントの下を掘りながら、はがして行った。

 この春休みに、いよいよそのます目が《あと6枚》という所に来た。隅の方がグラグラしているので、そこに鉄の棒を突っ込んで、テコの要領で持ち上げたら、私の力だけで一気に6枚分が持ち上がった。丁寧なJPが、危なくない方法、物音や埃を立てない方法で一ヶ月以上掛かかる分量だ。
だから、その部分もあと一ヶ月ぐらいは要する予定だったのに、私がミナを取る要領でやったら、5分で持ち上がった。

 《ミナ》というのは、本当の名前はわからないけれども、花瀬公園辺りの海岸で、大きめの岩をテコの要領で転がすと、ごろごろ出て来る巻き貝だ。私たちはよく家族で《ミナ取り》に行った。東シナ海に向かってしぶきを上げる岩場で水を汲み、海水だけを入れたお鍋にとったばかりのミナを入れて、その場で茹でていただいた。母の塩辛いおにぎりといっしょに。
 花瀬公園という所には、太平洋戦争で、日本のために亡くなった人々の慰霊塔と、機関銃と穴の開いた鉄かぶとがある。一昨年帰った時には、10年前よりも整備されてはいたけれども、昔と同じ姿で、慰霊塔も鉄かぶともそこにあった。父は昔からその慰霊塔の前で頭を下げるのが好きで、よその人が来るとそこに連れて行く。
 私はそこから旅立った日本人たちが、太平洋の島々で本当はどんなことをしていたのか?日本を出てから、フランス人の口から学んだ。そして、インドシナで日本人にひどい目にあった家族の、その子孫と結婚したのだ。

 自分の家族をその海岸に連れて行ったのは、慰霊塔を見せるためではなくて「ここでミナ取りをやったんだよ」と見せたかったからだ。海岸に下りる階段は台風で崩れてしまって、降りることができなかった。私は岩場をピョンピョンと自由に駆け回るのが得意だった。今でも、岩場に行くと飛び跳ねるし、岩をひっくり返して《ミナ》を探してしまう。

 大きな岩を持ち上げるのは得意だ。だから、JPのセメントも一気に持ち上げた。この一年間うだうだやっていたセメントはがしが、あっけなく終了した。

 セメントは市営のゴミ処理場に運んだ。そこでは回収した草木を、コンポストにするために数年前から処理していたのだが、いよいよこの春から、一般に配布できるよいコンポストができたらしい。無料配布だったので私たちももらって来た。自家用車一台につき200リットル、スコップで15杯分もらうことができた。

 JPはミントティーも好きなので、もらったばかりのコンポストを撒いた小さな花壇に、ミントを植えた。シソも植える予定。

 アイスミントティーがおいしい季節がやってくる。
 2006年05月03日 デートに誘われる
 鯉のぼりが優雅にはためくような一日だった。

 ネクトーさんと、デートのお約束である。ネクトーさんはフランス剣道界の最年長者で、なんといっても現役だ。私が洞穴でくすぶっていたこの冬、年賀状に「道場での対決を楽しみにしております」と書いてくれた。83歳だそうだ。
 暖かくなって、ネクトーさんが毎週日曜日に出て来ているというので、私も毎週日曜日を目安に再開することにしたのだ。

 肩が上がらないので、剣道着や防具の脱ぎ着も、一人ではできないのだが、みんなで手伝ってあげる。口は達者、記憶力も抜群で、この人とおしゃべりをしていると楽しくってしょうがない。

 前から誘われていたので、ネクトーさんのお宅にお邪魔した。ダンナは抜きだよとウィンクをされたので、ダンナは抜きで伺った。

 約束どおりまき寿司を持って、ネクトーさんが好きそうな重箱に風呂敷で行った。

 ネクトーさんのお宅には石灯籠も、畳の部屋も、仏壇も、布袋さまの彫刻も、浮世絵も、広重の版画もある。台所には日本食と、日本の食器しかない。
至る所に17世紀の刀や短刀がある。刀を仕込んだステッキや雨傘もある。14世紀のお椀とか、16世紀の彫刻もある。
 仏壇のそばに壺が並んでいて、何かと思ったら、奥さんと、息子さんと、その他にも今までに飼っていた動物たちの《灰》だった。2人でお線香を上げて、お経を詠んだ。

 よくわからないけど、「ハンニャーハラミター」というのと「ナンミョーホーレンゲッキョー」というのだった。ネクトーさんは「仏教」を学ぶために日本に留学したこともあるそうだ。
 池田氏の写真があって、「これは私が写した」というので、ほほおと思った。

 6人の美女が季節の着物を着たカレンダーを着物屋でもらっていたので、それをお土産に持って行ったら、とても喜んでいた。アジア系女性が大好きだ。

 たくさんおしゃべりをして、いっしょに剣道の形までやって、この前2人で見た試合のコメントをして、お互いの知り合いの悪口を言って、お互いの知り合いを誉めて、すれ違ったり、教わったりした先生方の思い出話をして、お茶を飲んで、まき寿司を食べて、盆栽について習って、あっという間に時間が経ってしまっていた。

 帰りに手作りのジャムをもらった。大変珍しい木の実のジャムで、味見をしてから、JPに食べさせたいと言ったら、快く一瓶分けてくれた。そして
「もし腐ってて、ダンナが倒れたら、私が嫁にもらってやる」と言った。

 シワシワの男性は、なかなかに魅力的だ。
 2006年05月02日 消えた過去がよみがえる 
 猛烈に働いて、六ヶ月片付かずに居たサロンのペンキはがしと、庭の整備がついに終わった。あとははがしたペンキの上から新しいペンキを塗って、整備した庭に草花が生えて来るのを待つだけだ。いったい今までなーにをやっていたんだろうと思うぐらい、この数日間で片がついた。

 ノエミの部屋を片付けていたら、幼稚園時代に描いたものの紙や、クリスマスに食べたキャンディーの包みや、一昨年の冬に拾った石も、去年の夏に拾った貝殻も、至る所から出てくる。ちびた鉛筆も、折り紙で作ったウサギやツルの山も、欠けた物差しも、ネジがゆるくなったコンパスも、捨てられない。

 それで、はっとして、日本に電話した。

 操作ミスで、これまでこのサイトで公表した、11月と12月の日記が、先日あと片もなく消えてしまった。途方に暮れて腰を抜かしたのも束の間、実家の向かいに住んでいる従兄が、母に毎日の日記を運んで行って、仏壇に線香を上げて帰るのが日課になっているという話を思い出し、従兄と母なら、私の日記を残しておいてくれているかもしれないと思ったのだ。

 あった、あった。
実家には全部あった。

 当然パソコンには残していないけれども、従兄がプリントアウトして母に届けたものは、何から何まで残っていた。

   お兄様、アリガトオオオオ

 従兄は私のメールを読んで、私が母に電話する前に、すでに母の所に日記が残っていないか訊きに行ってくれていた。何ともまあ、ありがたいことだ。

 こんど山川漬けやら、かつお節やら、エビせんとともに、11月と12月分の日記も送ってもらうつもり。

 希望は捨てるものではない。
母も、すてたものではない。

  かあちゃん、ありがとよーーー

 教えを守って、ものを捨てない主義を実践するべきだろうか。。。
 2006年04月29日 いよいよである
 先日から誕生日をすでに二回も祝ってもらったので、当日の本日は41歳を超えた計算だ。

日本ではみどりの日だけれども、今日はみのりの日だ。

朝から家を片付けて、ペンキはがしをやり、庭を掃除して、黙々とよく働いた。

夕方おやつを食べながら、JPがにやっと笑いながら映画の案内を見せる。

「映画を観に行こう。なにがいい?」
「ホラー」

子供が居たら見れない映画に決まっている。この頃はアニメと子供向けの、短い映画しか見ていないので、ぼろぼろ泣いて泣きまくるロマンスか、悪夢を見るほどのホラーを見たいと、ずうっと思っていた。

「でもこの映画、上映時間が遅いよ」
「じゃ、その前にレストランに行こう」

ほほお。

「じゃあ、シシカバブ。」

 シシカバブというのは北アフリカのファーストフードだが、カーモーにはそんな物を食べさせるレストランがないというので、仕方ないから中華にしてもらった。

 中華料理のレストランは二つあって、いつも行くのは教会のそば。ノエミのクラスメート、トマの両親の店だ。
本日は趣向を変えて、映画館のすぐそばの、知らないレストランに入った。
中国人じゃなかったけけど、中華料理だった。

 そういえば、日本に帰った時に、友達が連れて行ってくれたお店も「中華」がおいしいというお店で、料理人さんの奥さんは高校の同級生だったので、「まみちゃんのご主人って、中国人なの?」と訊いて笑われた。

 中国人じゃなくても中華作るんだよ。日本人だってフランス料理作るでしょ。
ま、たしかにね。
でもフランスでは、日本人じゃない料理人が作った日本料理はすぐにわかる。その店が日本人じゃなかったら、日本料理店に入らない方が身のためだと思っている。
JPがよく「これならみのりでもレストランが開けるね」と言っている。

 中華料理はタイ料理みたいだった。料理人はタイ人かもしれないと思いながら、時間がなかったので、感想を述べる間もなく、映画館に走って向かった。

 今回のホラーは、久しぶりに大満足のホラーだった。わけわかんないシナリオも、まさに、アメリカホラー映画の醍醐味というか、期待していなかった期待どおりに、いかにもホラーだった。
 カンヌ映画祭では賞をとれないと確信できるシナリオだったが、「悪夢を見れるような恐ろしいホラーが見たい」という、私の希望は叶えられ、お誕生日の夜には、朝までたっぷり悪夢を見た。

お誕生日のプレゼントは、念願のお鍋にしてもらった。
 家庭用必需品をプレゼントにしないという、JPの信念を曲げていただいて、自分の欲しい物を、いっしょに店に行って、いっしょに選んで買っていただくという。。。念願かなってばかりでうれしいお誕生日であった。うひひ
 2006年04月28日 歳をとったけど若返る
 朝起きて、コーヒーの香りの立つ台所に入ると、JPがいきなり「お誕生日おめでとう」と言った。絶句する。約30秒、自分が何月何日生まれだったのか、考える。
 「今日は28日だよね。」
 「そう」
 「じゃ、29日は明日だよね」
 「そう」
 「じゃ、誕生日も明日だよ」
 「へ」

 自分の誕生日も覚えていない彼だから、こんなことはよくある。
 結婚記念日とか、母の日などは一ヶ月前から警告を発して、一週間を切ったら、毎日警報を鳴らさねばならない。

 32歳を過ぎてから、自分が何歳だったのか時々わからなくなる。
 34歳で白髪がニョキニョキ生えだしてからは、何歳だったのか考えないことにした。
 35歳の誕生日からは、誰かがそのことを言うまで、自分ではいっさい言わなくなった。

 はじめて教壇に立ったとき私は21歳で、42人の学生の80%は40代以上の中国と韓国からの、労働者だった。当時の日本語学校という所は、中国人で溢れていて、先生と生徒の顔が見分けがつかないので、「教師はきちんとしたスーツを身に着け、女性はきれいにお化粧をすること」などという決まりがあった。中国から単身で来て、昼間は肉体労働やサービス業で働き、夜は半分寝ぼけた顔で仕方なく授業に出てくる、疲れた中国人みたいな顔をしていてはいけなかった。
 でも、自分の子供ぐらいの、こぎれいに着飾った、世間知らずな小娘を、「先生」と呼ぶことは精神的に難しいんじゃあなかろうかと思って、学生たちとの歳の差に、私は敏感だった。
 なかなか敬語をうまく使えない学生の、本当の問題点は、前に立っている自分ではなかろうかと思った。

 だから、クラスでは20代後半ということにしてもらっていた。それでも40代以上の学生から比べたら、見た目で「小娘」だったに違いない。

 今は、学生のほとんどは中学生とか高校生で、社会人でも年下のことが多い。だから38歳ですと言ったら、世間をよく知った、もののわかった教師のようなフリができる。
 そして、今どきの漫画好きの学生たちが持って来る、今どきの日本の話題や、流行言葉や、流行歌手の名前がわからなくても、「世代が違うねえ」と言って笑ってごまかすことができる。

 男性はシワの数だけ魅力が増えるけれども、女性はシワが増えたら振り向いてももらえなくなるような気がして、ちょっとさびしい。
でも、眉間じゃなくて目尻に笑い皺のできるおばさんになりたいと思う。

 ラジオで、103歳の女性と結婚した33歳の男性のインタビューがあり、男性は幸せそうに「彼女のシワに刻まれた歴史に惹かれました」と言っていた。テレビじゃないので彼女の皺が一体どんなに魅力的な皺なのか、見ることはできなかったけれども、103歳だったら、かなりシワシワだろう。誉められるようなシワができて、うらやましいかぎりだ。

 シワを増やして、なおかつ魅力的に若返えることができたら素敵だ。

 
 
 2006年04月27日 出発
 子どもたちは、祖父母に連れられて、朝早くに出て行ってしまった。
祖父母の住むナルボンヌによってから、コートダジュールのニースという所に行く予定だ。
コートダジュールだけでもかなり豪勢なのに、ニースなんていうリッチしか住んでいないんじゃあないの?と思うような街に行くとは、華やかなヴァカンス。

 実はJPの祖父母はニースの出身で、ニースの内陸の方に、先祖代々のアパルトマンがある。一度いったことがあるが、その時には廃屋と化していた。うわさによると今はきれいにして、寝泊まりできるらしい。きれいになってからは行ったことがない。

 JPは、観光地も、コートダジュールも好きじゃあないので、一生行くことはないと思う。
 ノエミはトゥーロンという街で生まれた。マルセイユからニースに行く時に通るところだ。その頃に日本から友達が来たりもしたので、ニースにもモナコにも行ったことがある。
ニースにはシャガールの美術館があって、そこはとても好きだった。
ニースは映画祭のあるカンヌのすぐそば。ニースもカンヌもモナコもきいただけで《派手そう》と思ってしまう。

 子どもたちが居なくなったので、私は前から楽しみにしていたウィンドーショッピングをすることにした。と、言っても、ウィンドーのない店。
 家具屋をたくさん歩き回った。家具を買うためではない。そんなお金はないので、自分で何か作ろうかなーと思っている。それで、今どきの家具がどんなものか、見てみたかったのだ。仕組みとか、作り方を丁寧に観察してメモした。面白いアイディアがたくさん湧いてきた。
日本風、中国風の家具が人気らしい。

 家に帰って、JPのお母さんが持って来た大量の婦人雑誌や、室内装飾の雑誌を眺めた。そして、台所の脇に置きたいと思っている電話台の設計図を描いた。
うまく描けた。でも、うまく描きすぎて、とっても豪華な家具になってしまった。
そして結果的には「こんなにすごい家具作れなーーーい」という羽目に陥った。

 とりあえずは、子供部屋の要らない物を片付けよう。物がありすぎるから家具が欲しくなるが、片付けたら家具なんか要らなくなるかもしれない。

要らなくなった物という物は、ノエミと私の世界には存在しない。
もらった物、買った物、使った物、気に入っているもの、拾った物、集めた物。。。そういった物は「要らなくなる」ということがない。一度手にとったら、それがとっても好きなら特に、愛着がわいてしまう。腹を痛めて生んだ子供のような気がして来る。捨てられない。まだそこにいて欲しい、要らなくなるまで。。。。

 とりあえずはその辺一体に散らかっている、本とペンと紙の山を片付ける。私の机の上と全く同じスタイル。ノエミの紙の山の下からは、石ころや古くぎが出てくる。
「なかなかきれいな石を拾ったね」と思ったら捨てられなかった。
捨てない代わりに、私の机の引き出しに片付けた。一応ここで数週間隔離して、思い出さないようだったら捨てることにする。
 2006年04月26日 山のようなイチゴ
 イチゴを2キロも買った。近所の八百屋に買い出しに行って、ケース入りの山のようなイチゴを見ていたら、よだれが出て来た。JPの両親もやって来ることであるし、イチゴでも出そう。スプレーじゃない、自分で泡立てた生クリームを出してさしあげよう。

 同じ日には鳥カゼ菌を恐れた小市民たちが、買わずに避けたとり肉売り場で、いちばん大きい2キロ近くもあるニワトリを買った。私の10年選手のオーブンには鳥を丸焼きにする串がついている。ニワトリは1キロにつき1時間ぐらいオーブンに入れて、勝手にぐるぐる回しておけば、すてきにこんがり、小麦色に焼けたプレ・ロティさま(ローストチキンと言うやつか)が出来上がる。手間いらずだ。2キロ近くもあるので、2時間近くも回しておかねばならない。

 いよいよ義父母到着。お泊まり支度も万全に、土産を抱えてやって来る。
翌日には子どもたちを旅行に連れて行くと言っている。
お昼はレストランで食べて来たから、夜は軽くでいいわと言うので、
「鳥の丸焼きです」と言ったら嫌われた。
夜にお肉はいただかない主義。

 「ちょっと早いけど、あなたのお誕生会をしましょう」と言って、子どもたちを連れてケーキを買いに出掛けていった。うれしいけど、2キロのイチゴはどうなる?

 丸焼きの一部をほぐして、とり肉がほんのちょっと入った野菜サラダを作った。
そして、子どもたちが選んだ、パイナップルのケーキに、ろうそくを数本立てていただいた。
ノエミが39本立てると言ってろうそく入れを荒らしているが、JPが「足りるわけがないだろう」と言って、ノエミの年齢ぐらいでよいということになった。9歳ね、はいはい。
ありがとう、ありがとう。ちょっと早めに歳取っちゃった。ううう

 ノエミは自分のお小遣いで《プレイ・モビル》を買ってくれた。小さなひと形をしたおもちゃで、ゾエの小さな手に握れるぐらいの、小さなものだ。家具や、馬車などいろんな部品を買いそろえて行くと、楽しい町が出来上がる。私たち3人は今これにはまっている。
《プレイ・モビル》のファンパークというのがパリにあって、そこに行くのが私たち三人の夢だ。
http://www.playmobil.com/index.html

 子どもたちにそれぞれ違ったおもちゃを買ってあげると、貸し借りができなくてよく喧嘩になる。だから、最近は物を買う時には「お母さんのお金で買った、お母さんの物で、アンタたちには貸してあげるだけ」ということにしている。だから喧嘩が始まったら「ハイ私のだから返してね」と言って、取り上げる。実際、私はいまだにままごとやらお医者さんごっこや、学校ごっこや、プレイ・モビルなどを、子どもたちといっしょにやっている。人形の服も作るし、ままごとをすると言えば台所用品を惜しみなく貸す。本物で遊ぶのがいちばん楽しい。
 その代わり、まず私が遊んでから貸してあげることにしている。
 ノエミが買ったプレイ・モビルは「ネコとネズミを飼っている農家のおばさんという」セットで、箱の中には、エプロンを着ている農家のおばさんと、親猫2匹、子猫2匹、ネズミ2匹、魚の骨ひとつ、猫のお皿ひとつが入っていた。ネズミは大豆の粒ぐらいの大きさしかない。
 遊ぼうと思ったら夕飯の後片付けが待っていたのであった。
ケーキを食べ終わったとたんに、お誕生会が終わってしまった。

 山のようなイチゴは、明日にでも、ジャムにせねばなるまい。
 2006年04月24日 春休み
 4月22日から5月8日まで春休みだ。子どもたちが家にいる。
4月24日と25日はノエミが乗馬の講習会があるというので、静かだった。
ゾエと公園を散歩したり、植物や動物を売っているスーパーに行って、植物園と動物園に遊びに行ったような気分になれた。

 屋外にある、家畜のコーナーは、門が閉まっていた。
中国から来るカゼ菌のせいで、鳥や家畜が危ないといううわさなので、動物を飼っているような公園は閉鎖されている。

 ノエミとゾエはネズミやハムスターに憧れていて、このスーパーに行くのが好きだ。行ったら欲しがるが、買ったらボボのエサとなり得るので、買ってあげられないし、籠の中で飼う動物は好きじゃない。

 だいたい三歳の子供が鳥かごの掃除とか、毎日の餌やりとかできるわけがないので、そんなペットを飼ってしまったら、私がイケニエとなるに決まってる。

 ボボを連れて幼稚園の前を通ったら、共働き家庭の子どもたちが、幼稚園に預けられていた。
子どもたちがフェンスに集まって来て、ボボとゾエに話しかけて来る。
ボボを触りたい子供もいたので、しばらくフェンスの前に居た。

 「ゾエはママとお散歩できていいねー」と言われながら、名残惜しそうにフェンスの向こうから手を振る子どもたちをあとに、家に戻った。

 お天気はまずまず。水曜日にはJPの両親がやって来る。そして子どもたちを旅行に連れて行ってもらうことになっている。

春休みが来た。
一年でいちばんすてきなお休みだ。

カーニバルの写真を載せます。
 2006年04月20日 消えた過去と、待っている未来
 いきなり気づいたが、操作の手違いで、11月と12月の日記を消してしまった。
ショックで腰が抜けた。
もしも、もしも、もしも、どこかに、私の日記を保存しているような人がいたら。。。いないだろうけど。。。私にお知らせください。プリントアウトしたものでもいいですので。

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4月20日に戻る。
 木曜日だが、学校の役員の会議が開かれることになっていた。
夜の8時半から11時半ごろまで、出歩ける主婦はそうはいない。
だからいったい何人来れるんだろうか。
と思ったのだが、こういうことに決まっているんだから仕方がない。

 夏休み直前に開かれる、学校のお祭りの話し合いだ。今回に限り、役員でない母親たちも来てください、手伝ってくださいというチラシが回されていた。
なのに、集まったのは20人にも満たず、しかも、いつも来ている役員のメンバーだけだった。
役員には役員の仕事がすでにあるので、今回は、一般からボランティアを募って、仕事を手伝ってもらう予定だった。

ということは、つまり、役員以外のボランティアは一人もなし。
ということは、つまり、お祭りが開けない。

 このお祭りはロトくじの時のように、持ち寄りのケーキなどを販売したり、ゲームをして子どもたちにプレゼントをあげたり、バザーで物を売ったり。。。まあ、お金が要るお祭りなので、全員参加というわけにはいかない。経済的に無理な家庭もあるかもしれない。

 学校は公立だが、お祭りをやったりするお金は、教育委員会からはもらえない。
だいたい、教職員不足で、遠足も、文化祭も、発表会もないのだから、母親の力でこのようなお祭りぐらいはやって、小銭を稼いで学校に寄付するしか方法がない。ロトくじで上げた収益金で、幼稚園ではサーカスのピコチーユ一座を招待することができた。
子どもたちは歌や踊りを習い、曲芸も習い、締めくくりにはサーカスに招待され、とても楽しい一週間だった。ロトくじ収益金のおかげだ。

ボランティアがいなければ祭りは運営できない。
ボランティアがいなければ学校の運営が滞る。
なんてことだ。

 春休みが明けてから、また新しくチラシを配り、校門の前で個人的に知っている人を《とっつかまえて》泣き落としで手伝わせるしかない。嫌われるの大覚悟だ。

 私は折り紙のスタンドをすることになっている。成功させる自信がある。すでにこのような折り紙のスタンドは何度もやったことがある経験者だから。
 ゾエの友達のアントワンくんのお母さん、モーガンが、私のスタンドを手伝ってもいいと言ってくれているが、大変な仕事だから、大好きな友達にはあまり手伝わせたくない気もする。

 それにしても、どうしてみんな会議に出て来ないんだろう。
 自分ひとりでは力になれない、と思っている人たちがたくさん集まったら、きっと何かができると、私は信じている。

 こういう時にフランス人は「ヌ・パ・ベッセー・レ・ブラ」と言う。「ブラ」は腕のことで、直訳すると「両腕をおろさない」つまり、一度きつく握った拳を振り上げたら、簡単に下ろしてしまわずに、闘い続けるということだ。
 エイエイオーのあのコブシだ。

 私の一人の姉は、人に優しすぎて自分には厳しいために苦労している。
もう一人の姉は、人にとっても厳しいかわりに、自分にはもっと厳しいから苦労している。
私は人にも優しく、自分にはもっと優しいので、何かと苦労している。
あまり拳を握って振り上げたことがない。平和がなによりな日だまり人間ながら、ちょっと祭りごとには気合いが入ってしまう。
 
 子供のため(だけ)にがんばっているんじゃなくて、自分が(も)折り紙スタンドのスターになる日を夢見てがんばっている。
自分のためになると思えなければ、くじける。
算数はとんと弱いくせに、これでもけっこう計算高いんだろうか?

 子供のためだけに生きることや、学校のやり方に絶望している母親たちが、お祭りでどんちゃん騒ぎをやるゾーという軽い気持ちで来てくれたら、どんなに楽しかろうと思う。
義務感だけでお祭りに行っても面白くない。
 2006年04月16日 ボボにタマゴを盗まれる
 日曜日。剣道の講習会は引き続き行われていたのだが、命を張ってまで剣道に行ってもしょうがない。。。というぐらい、足の裏がまめだらけ。ひっさしぶりに行って苦労するのは、筋肉痛ばかりではない。ちなみに筋肉痛は、初日にお酢を一気呑みしたおかげか、ほとんど感じられない。

 普段はどんなにまめができても、稽古をしている時には気にならないし、少々痛くてもやる。わたしは、マメぐらいでは愚痴を言わないのだ。でも今回は両足で合計五つもできたうえに、1個は半径4センチもあって、元立ち(といって、自分より下の人たちに掛かって来ていただく。そして稽古を付けてあげることになっている)に立ちながら、大した動きができないので、申し分けないやら恥ずかしいやら。。。だから、最終日は車のせいにして行かなかった。
へへへ

 車はたしかにものすごい音を立てていた。夕べも帰って来れないんじゃないかと思った。
結局週明けにガレージに持って行ったら、車輪の辺りに異常があって、部品交換をしなければならず、360ユーロも払った。JPがガレージの人に「これでトゥールーズまで往復したとは、危なかった。」と言われたらしい。じつはJPには秘密だけど、車がものすごい音を立てていたのは「一往復」ではなくて「二往復」
へへへ。ないしょ。

 「二往復」もして音には慣れてきていたから、あと一往復ぐらいはできるかなーと思わなかったわけじゃないが、そういう気持ちにはなんとか歯止めがかかった。
実はこの日曜日はタマゴを拾う日だったのだ。

 イースター(フランスではパックという)のお祭りで、タマゴやウサギやニワトリの形をした、チョコレートを庭の草むらに隠して、それを子どもたちと拾うのが習慣だ。JPが売り切れるずいぶん前から、買ってきていて「日曜日にはママは剣道に行っちゃうから、パパとチョコレートを探そうね」と楽しそうに話していたので、どうにかしてタマゴ拾いを延期できないものかと、
歯ぎしりをしていたのだ。

 チョコレートのタマゴは、この私が子どもたちと競い合いながら拾って、JPは写真を撮る、というのがおきまりだ。そうでなければ、私の分のチョコレートまで拾われてしまう。それはこまる。何が何でもこの日は家に居て、子どもたちよりも早起きをしなければならない。

 数日前からの疲労で、ノエミに先を越された。
「早く起きないと、全部拾っちゃうよー」と庭から叫んでいる。
きゃあああああ。
ゾエと競って階段を駆け下りる。
ノエミはちゃっかり買い物かごをぶら下げている。
「ゾエの分のかごもあるよ」と言って待っていた。

 タマゴやニワトリの形をしたチョコレートが、全部で1キロばかり庭に隠されていた。
もう拾い残しはないよねー。
あれ?ボボ、鼻先に銀紙ついてるよ。
「ボボにチョコレートのタマゴ、横取りされたよー」

トリュフという高価なキノコは、ブタか犬が匂いで探し当てる。それを探させようと思って森に連れて行ったボボは、やはり役立たずであった。
しかし、トリュフというチョコレートだったら、探し当てたうえに食べ尽くすんだろうか。

 ボボもチョコレートが好きだとは思いもしないことだった。
ボボがサクランボウが好きなことは知っていたけど。
これからはチョコレートの隠し場所に気をつけなければ。
庭には探し残しはないだろう。
 
 剣道にも行かず、チョコレートでエネルギー回復。
ま、いいか。
 2006年04月15日 冗談ぬきで上段に構える
 火曜日からトゥールーズに滞在されていた佐藤先生は、金曜日の飲み会のあと、次の講習会場所であるモンペリエに向かわれた。
 金曜日には、佐藤先生のほかに、この週末の別な講習会の指導者であるラヴィーニュ先生と、トゥールーズの別な会場で行なわれる居合道の講習のためにいらした、三人の範士の先生方、パリからの高段者の方など、それらの講習のためにわざわざ全国から集まった勇士たちが一同に介して、親善地稽古のあと、持ち寄り大宴会が行われた。道場にござを敷いて。

 トゥールーズのクラブの若者たち6人が、去年の秋に日本に武者修行に出掛けた。京都に行くというので、だったら滋賀県の彦根にも行きなさいよといって、姉の所に行かせた。私だってまだやったことがないのに、姉と姪と稽古をして帰って来た。旅行から帰って初めて会ったので、写真をたくさん見せてもらった。

 木曜日と金曜日は夜遅く帰ってきた。でも帰って来たおかげで家のことだって、子どもたちのことだってできた。興奮しているから、ぜんぜん疲れていなかった。金曜日の朝は朝市にも行った。

 土曜日は日本に長く住んでいらっしゃる、フランス人のラヴィーニュさんという方による、上段の講習会だった。普通剣道は中段に構える。向かい合った竹刀の先(剣先)を相手と交えて、距離と気持ちを測る。
 
 「上段をやりたい」と彦四郎先生に言ったら「冗談言ってる間に中段もっとやんなさいよ」と本気で叱られたものだ。日本人の先生は上段があまり好きではない。中段を極めていない者が上段なんかやっちゃいけないのだ。でも、実はいつかこの技をコッソリ極めて、スポットライトの当る試合場でほほーと唸る声をきいてみたいものだと思っている。
上段は冗談抜きでかっこいい。

 中段の構えの時、右足が前で左足が後ろになる。でも、いろいろ形のある上段の構えのうち、今回の講習会で稽古をした「左上段」というのは中段の構えから左足を一歩踏み込んで、左の拳が左の眉毛辺りに来る。左足が前にあって、相手に打ち込む時には左足を前に出す。打つ瞬間、片手打ちとなる。左手だけでしないを握って相手を打つ。

 普段は左足が右足より前に出てはいけないと、そればっかりうるさくやっているので、左足が右足よりも早く前に出るというような動作は、とっても難しい。左足で踏み込むなんてとんでもない。調子が狂う。(歩み足とか、まあいろいろあるんですが、面倒くさいので説明を省きます)それに肩よりも高く振りかぶっている竹刀というのは、とっても重い。

 ラビーニュさんは普段日本の道場で稽古している方だから、素振りも切り返しもたくさんさせられた。腕立て伏せと腹筋までやらされた。フランスでは準備体操もろくにやらないので、いっやあーきつかった。この歳になって高校生みたいな運動をしているなんて、私も逞しいおばさんになってしまった。腹筋を続けたら脂肪が減るだろうか?と期待して、講習会以来毎日やっている。
 でも腕は三日連続の剣道三昧で、もりもりになってしまった。
半袖の季節が来てしまう。恐い。

 アルビの道場に帰って、ドレイ先生に「上段をたくさん習いました」と言ったら、「冗談じゃない。私は上段なんか嫌い。ハイいつも通り面打って!」と言われた。お年寄りだから、やっぱりねえ。そしてほかの剣道仲間にも「上段なんか難しくってやれないよ」などと、みんなに合わせて上段の悪口を言っている。

 が、しかし、じつは、密かに上段を練習し続けている。
上段はかっこ良すぎる。(上手にできたらね)
ふっふっふ。。。
 2006年04月13日 - 14日 佐藤先生を求めて
 カーモーの出口と、アルビの出口で、大きな道路工事をしている。だからトゥールーズまで車で片道2時間以上掛かってしまった。90キロぐらいの距離だ。トゥールーズまでずっと、夕方の眩しい光を真っ正面に浴びて、しょぼしょぼする目で道路の白線を頼りに走る。高速道路は最低90km/hから最高120km/hまで出してもいい。高速に乗ってから、ガソリンが足りるかどうか心配になって来たので、ゆっくり走って行った。
 車はなんだか変な音を立てているし、先日左のバックミラーを当て逃げされて、ミラーはないし、そのうえフロントガラスは半年前からヒビが入ったままだし、おまけにトゥールーズ市内のことはよく知らない。なんで剣道なんぞのために、こんな命まで張って?と思いながらも、真っ赤な夕日が見渡すかぎりの菜の花畑に沈んで行くのを見るのは、とても気持ちよかった。

 木曜日の稽古は夜の9時から、金曜日は8時15分からだった。
 フランスに指導に来られる剣道の先生としては、とってもお若い40歳になったばかりの、佐藤先生という方が、トゥールーズのクラブの招待で、火曜日からいらしている。「センダイ出身です」とおっしゃるので、「北の?」と訊いたら「あなた鹿児島の人?」とバレてしまった。鹿児島県には『川内(せんだい)』という町がある。

 「福之上里美さんの時代です」と言ったら「じゃあ僕より一つ下だね」と歳までバレた。福之上里美さんという人は、私と同級生で、当時鹿児島県でいちばん強かった人だ。姉妹で全国チャンピオンだった人なので私の年代で剣道をしている人だったらみんな知っている。その福之上さんと、高校最後の県大会の三回戦で試合をしたことがある。私は一回戦でまぐれで勝って、二回戦で相手が欠席のため不戦勝、三回戦で偶然福之上さんに当った。すらりと背の高い人だったのを覚えている。ブンッと体当たりされて、ぽーんと飛ばされ、床に大の字に寝た覚えもある。福之上さんが走りよってその手を貸して起こしてくれた。本当は倒れた相手を打ってもいいのに。
 
 この試合はたぶん一生忘れない。福之上さんと対戦して一本勝ちに抑えたからだけではない。この試合には、私にとってはじめての応援団が来ていたのだ。

 高三の始業式当日に大怪我をした父が、高校最後の年には入院したり、リハビリをしたりしていた。高三の一年間は、家族にとってはある意味で思い出に残る年となった。父がある日突然家に帰って来れなくなることについて、家族みんながはっとさせられた。いろんなことがあった。でも高校にも通い続けることができたし、クラブ活動も続けることができた。

 その高校最後の試合を、父が応援に来た。当時はまだとても仲良しだった、種子島のおじさんと一緒に。すらりと細い身体に柔道衣を着て、黒帯をきりりと締めた父の写真に「兄貴、いかすじゃないか」と墨で書いて残した、父の弟だ。
 父はまだふらふらする身体で、弟に支えられながら見に来た。県警の古い道場の、二階スタンドのまん中あたりで手を振っていた。そして三回戦まで行った娘が、チャンピオンと闘って、一本勝ちに抑えたのをおじに自慢していた。

 もう覚えていないと思っていたのに、病気で弱った細い声で父が、「あの試合は面白かったな」と懐かしそうに言ったのでびっくりした。

 今年は剣道の方はまじめにやっていなかったから、いきなり講習会なんかに行っても、筋肉痛で苦しむだけだろうとは思ったのだが、日本からいらっしゃる先生が《佐藤先生》というお名前だと知ってから、落ちつかなくなった。どうしても行かなければならないような気がした。今年はほかにも日本から先生方がいらしたのに、どの講習会にも行かなかったくせに。

 去年亡くなった恩師の佐藤先生が、私を呼んでいるような気がした。大好きな佐藤先生と稽古をしたトゥールーズの道場で、懐かしい仲間に会った。佐藤先生が弟と呼んでいた先輩も来ていて、「ああ、やっと洞穴から出て来たね」と言って私のことを抱きしめてくれた。みんな私を待っていてくれた。そのうえ《佐藤》という垂れを着けた先生が、正面で私を待ち構えていた。佐藤彦四郎先生に習ったことだけを考えて稽古をした。

 見学にいらしていた、居合の先生に「あなたきれいな面を打つね」と誉めていただいた。「佐藤先生に教えていただきました」と言った私の顔は、さぞ誇らしげだったろう。道場に、ちゃんと《わたしの佐藤先生》も戻って来てくださっていたのだろう。
そして「よしよし、みのりちゃん」と頭を振っていらしたに違いない。
 2006年03月30日 ノエミ 入院 
 朝から学校に行きたくなさそうにぐずっていた。それもそのはず、火曜日はストで、水曜日は通常どおり学校はお休み、木曜日はそりゃあさぼりたくもなりましょうぞ。気持ちはわかるが、私は忙しい。さっさと学校に送りつけてしまいたい。

 ノエミは学校のトイレに入るのが嫌いなので、家で済ませてから出掛けたいほう。でも、今朝はなかなか出ないと言ってうろうろしている。学校に着いてから行きたくなったら困るのだ。

 「時間がないでしょ、急いで急いで」いつもの調子で走らせた。今度はお腹痛いと言っているが、もう学校の前だから仕方ない。行かせた。
さあ、仕事、仕事。

 お昼迎えに行くと、不愉快そうな顔をしている。「盲腸かもしれない」と言っているが、先日友達が盲腸をしてからというもの、ノエミは『盲腸』に憧れていて、盲腸の本ばかり読んでいる。そして「私も盲腸かもしれない」とはこれまでに何度も何度も聞いたセリフだ。どこが痛いのというと、肋骨辺りを指したので無視した。

 午後の学校の時間が来たので、ぐずぐずしている娘を校門まで連れて行くと、はらはらと涙をこぼし始めた。困る。私は仕事もあるし。「こういう時に限ってのわがままは許せない!」と言って怒鳴り散らした。そんなに行きたくないなら、かばんをとって来い、というのだが、一人では行きたがらない。「だって仮病なんでしょ?だから先生に言えないんでしょ」といって、むりやり行かせた。私はもう完全に腹を立てていた。ノエミがかばんを取りに行って、先生とやり取りをして、戻って来ると校門が閉まっていたので、また先生にカギをもらいに行って、カギを開けてもらって、出て来るまで私はずっと校門の前で腕組みをし、イライラしながら待った。もう泣きたくなるぐらい腹が立っていた。この忙しい時に!!

 夕方JPが帰って来て、「またわがままを聞くのか?」と言われながらも、結局医者に連れて行った。そうしたら、昔は外科医だったというマスリ先生が「盲腸だ!すぐ救急病院へ運ばないと危険」と青い顔をして、手術設備のある病院の友人外科医の携帯に電話した。
 もっと早く連れてくればよかったのに。もうラボが閉まっているから、検査に時間が掛かる、と言われた。

 後悔先に立たず

JPが病院に連れて行き、検査をして、入れ替わりで私が病院に行き、検査結果が11時ごろ出るまでうろうろした。本人はレンタルしたテレビを見ている。夜遅い時間だから何も面白いものはやっていなかったが、中国のおかしな映画をやっていて、笑っている。お腹痛くなさそう。

 結局、強度(?)急性の便秘で、翌朝もう一度検査するというので一晩入院して、翌日は家に戻った。病院に入った時点で、痛みは盲腸のそれとは全然違ったようなので、本人は入院してテレビを見て、退屈しただけだった。盲腸になるのも面白くないということがわかったらしくて、あれ以来盲腸かも、という冗談は言わなくなった。

 そしてあれ以来、食べる物にはこれまで以上に注意している。バランスが悪いから便秘になると言われて、心外だったが、考えてみると3月は私があまりにも忙しすぎて、手間がかからず子どもたちの好きなものに集中していた。偏ってしまっていたのだろうか。野菜スープを毎日食べて、デザートは毎日毎回果物なのに。母の罪悪感。自信喪失。

 家族全員が健康のありがたみを知った。そして、あれ以来子どもたちが、私の出すものに文句を言わずに、無理をしてでも食べる努力を見せるようになった。

 「たまには痛い目にも遭わないと」と言える範囲でよかった。
 2006年 3月の最後の週 サーカス
 3月はあちこちで春を呼ぶカーニバルが開かれている。
先日はアルビのカーニバルにも行った。移動遊園地が来ていて、子どもたちはジェットコースターも体験した。

 余談だがフランスでは『ジェットコースター』のことを『モンタ−ニュ・リュッス』と言う。モンターニュ』というのは『山』のことで、『リュッス』は『ロシア』のこと。『ジェットコースター』は『ロシアの山』というフランス語で、いつも不思議に思う。

 3月25日土曜日には、幼稚園でカーニバルが開かれた。子どもたちが変装をして、歌ったり踊ったりした。紙吹雪を投げあって、おやつが食べ放題だった。実に楽しいお祭りだった。

 3月の最後の一週間、学校の門のすぐ脇に、キャラバン隊が横づけした。サーカスの『ピコチーユ』一座だ。ピコチーユ一座のリーダーは『ゼ』という名前のお父さんで、この人はNHKの『できるかな?』の『のっぽさん』に似た面白い帽子を被っているピエロだ。
 踊りは10歳の『ユミ』、チェロは13歳の『ノエ』、空中ブランコはお姉ちゃんの『チェッツェ』、ヴァイオリンと歌はいちばん上のお姉ちゃんで『シュシュ』、ギターは『チェッツェ』の恋人の『ヨコ』でピエロも演じる。手回しのオルガンは『シュシュ』の恋人のX(名前を忘れた)、そしてお話上手なお母さんのYさん。

 家族揃ってテントのないサーカスを運営している。各地の幼稚園などの要望をうけて巡回する。一週間のプログラムで、歌や踊り、ゲーム、ピエロの曲芸、ピエロのお化粧などを教えるのだ。面白い楽器をたくさん持っているので、幼稚園では楽器についても勉強できたし、キャラバン隊の生活を覗かせてもらえた。私も『引率』と称して、積極的に催しに参加して、キャラバン隊にキャンピングカーにも乗せてもらった。
 ピコチーユ一座は幼稚園とキャンプを行ったり来たりして、毎日私たちと顔を合わせた。私も『シュシュ』に声を掛けられた。ゾエがヴァイオリンやチェロのことをよく知っているので、びっくりして訊ねたら、お姉ちゃんとお母さんが楽器を持っていると話したそうだ。『シュシュ』がヴァイオリンを習った先生は、またもやノエミの先生だった。お母さんが「あの先生はこの地方でいちばん面白い先生よ」と話していた。

 4月31日、いよいよサーカスの本番。昼間は子どもたちが招待されて、小さな音楽会に参加し、一緒に歌ったり踊ったりした。夜は有料で、大人もたくさん集まった。ピコチーユさんたちはみんなお化粧を施して、おもしろおかしい衣装を身に着けていた。音楽のほかにいよいよ空中ブランコも見ることができた。『シュシュ』は真っ赤なドレスに大きなリボンをつけて、へんなお化粧をしていた。甲高い声で、とんちんかんなことを言って、みんなを笑わせながら、時々ヴァイオリンを弾いた。最後には、今までの甲高い声から一転して、素晴らしいアルトでエディット・ピアフをお腹の底から歌った。大人たちの大喝采が巻き起こった。

 とても楽しい一週間だった。ピコチーユ一座はまた別な町に行ってしまったが、かわりに春を置いて行ってくれた。
 
 2006年03月16日 新しいメル友 岩本綾さん
 指宿の従兄の一人から、久しぶりにメールが来た。

『先日鹿児島のNHKで、ニュースを見ていたら、霧島の岩元綾さんと、いう人が、「フランス語の童話を日本語に翻訳して、紹介したい。」と言っていたので、みのりに連絡します。』

 霧島屋久国立公園は鹿児島県と宮崎県にまたがっている。有名な高千穂峰(タカチホノミネ)や韓国岳(カラクニダケ)そして温泉の出るえびの高原のある霧島連山だ。綾さんはその鹿児島県でもいちばん寒い辺りに住んでいるらしい。

 翻訳仲間は沢山いるが、鹿児島出身の翻訳家にはまだ出逢ったことがなく、しかも、鹿児島県に住んでいるフランス語の翻訳者は、世界で私一人だけ!?と思っていたところだったので(冗談ですって)その人にとても興味を持った。

 彼女はすでに英語の本を訳されていて、ご両親と一緒に、たくさんの日本語の本を出版されている、出版界では大先輩であった。しかも、テレビ出演や、海外での講演会でスピーチなどもされている。なんだかとってもすごい人だったのだ。
私よりもずうっと若いのに。

 彼女のホームページをご紹介する
http://www.mct.ne.jp/users/ayaiwamo7/jpindex.htm
メールを書いたらすぐに返事をいただけた。
ゆっくり時間を掛けて、言葉を選んで書いてくださっている。

 彼女の元気なスピーチは世界中を駆け回っている。
彼女と同じ病気の人たちや、彼らを支える家族の、大きな夢と憧れに繋がっている。勇気を与えている。彼女と知り合ってはじめて『ダウン症』という病気の名前をかみしめた。『どんな病気なんだろう』と考えた。その病名にどんな意味があるのか知らなかった。
 ただ、知ったからといって、メールを交換するおつきあいに、何の不自由も、ほかの人との違いも、不便も、感じていない。書いたメールには真摯な態度で書かれた返事をくださる。
私の長ったらしいくだらないメールには、返事をくれない人の方が多いというのに。
 とてもいいメル友ができたと喜んでいる。

 何ごとも、まず知ろうとすることから、始まるのではないか。
輝くすてきなメル友ができた。うれしい
 2006年04月12日 メリオッサン
 三軒となりのメリオッサンが火曜日の夜から泊まっている。
曲芸師のお父さんと、舞台照明係のお母さんの、それぞれの仕事の都合で、家に大人が居ないので、数日間預かることになった。中学生のお兄ちゃんは、別な友達の家に行ってしまった。

 メリオッサンは火曜日の夕方、我が家にやって来た。でも、私はレッスンのために出掛けたので、夕食から就寝までの子どもたちの世話はJPがした。私が夜遅くに帰って来たら、みんなもう寝てしまっていた。

 私は日本語レッスンのあと、大急ぎで学校の会議に出席したので、帰って来たのは23時半ごろだった。6月の学年末に行われるお祭りの話し合いで、私は折り紙のスタンドを引き受けることになっている。

 別なスタンドでは、リサイクルや、分別ゴミの講義などをゲーム仕立てにしたものを考えた人も居て、母親たちに大うけだった。

 その祭りの別な催しで、カードのついた風船をいくらかで子どもたちに売って、一斉に空に飛ばし、何か特別な仕掛けで、その風船たちがたどり着いた場所をキャッチできるというゲームを提案した人が居た。数年前にそれをやって、県外のどこか遠くの街で発見された風船があったらしい。 
 今回は、いちばん遠くまで飛んだ風船のカードに名前を残していた子供に、すごいものをプレゼントするというアイディアだ。なんと夢の広がること。

 景品がMP3だというので「私の方が欲しいわ」とか叫んでいる母親も居て、私はなんだか落ちつかなくなってしまった。この案に賛成の人は手を挙げてと言われ、みんなはおしゃべりしながらいい加減に手を挙げていたが、私がためらっているのを見て、会長さんに意見を求められた。

 「ほかのスタンドではゴムや紙を自然に捨ててはいけません、と講義を受けた子どもたちが、隣のスタンドに行って、こんどは大人に風船を買わされた上に、母親の手でそれを一斉に自然に放すんですか?そんなことしていいんですか?ノエミだったら絶対にひとこと言います。」

と言ってしまった。つい、言ってしまった。。。

 わいわい楽しくしていた母親会議が、一瞬にして凍りついてしまった。
すぐに「それはそうね」と言ってフォローしてくれた人が2.3人居たので、ちょっとは救われたが、そのアイディアを出しみんなに喜ばれて、胸を張っていた人に、一気に嫌われたのが肌で感じられた。隣同士でこそこそ話している人もいる。

 会長さんの「いずれにしても、そういうことをするには市役所の許可がいるから、できるかどうかわからないし。ハハハ。。。」という引きつった笑いとともに、別な話題に移った。

 次の日のお昼、メリオッサンとノエミに、学校のお祭りで風船を放すんだってと話した。実はメリオッサンの家庭はエコロジーな生活をしている上に、うちよりももっと厳しくって、動物を殺すの反対とかで、ベジタリアンだ。食堂でも、友達の家でも、出されるものに文句を言わないで何でも食べるので、うちに来たらメリオッサンはベジタリアンではなくなる。別に親もそこまでうるさく言わないが、今回泊まりに来て、この子供がフランス製の自然素材の服や靴下、安心マークの入った靴を履いているのを見た。ゴミ箱も「別けてるんでしょ?」と訊いて紙を捨てるゴミ箱を探してうろうろしている。与えられるおやつにも注意をしている様子が伺われた。表示を読んでいるのが、ノエミと全く同じだ。ノエミはいい友達を持ったなあ、と思った。

 メリオッサンとノエミは風船の話を聞いて、お互いに顔を合わせた。そして2人の小学生は「自然に優しいトイレットペーパーなどは聞いたことがあるけど、風船はゴムだから自然に捨てたらいけないよね」と言った。
 ノエミが「自然に捨てるための風船に、お金払うのなんか勿体ない」などと言っている。

 今のところ私たちは少数派で、うんちくばかり述べる「可愛げない」側だと思うが、ノエミ一人じゃないことがわかったので、この子たちの未来も捨てたもんじゃないと思った。
探したらあの学校にも、話せばわかる子供(とその親)がもっといるかもしれない。
 2006年04月11日 2005年度 終了
 2005年の10月から受け持っていた、商工会議所での日本語レッスン(初心者のクラス)が終了した。6人のうち5人が学生で、一人社会人の女性は、レッスン4.5回目の頃に脚を怪我して、治療が長引き、ついに戻って来ることができなかった。戻って来ることが前提だったので、休むたびにコピーを送ったり、メールで解説したりして、戻って来た時に遅れが出ないようにフォローし続けたが、結局彼女が家でちゃんと続けたかどうかもわからないままに終わってしまった。一人でも続けて、来年度に戻って来てくれたら、私のやったことも無駄にはならないと思う。

 6人のうち2人は中学生で、一人は最終学年のために試験に追われながらの出席となった。彼女はピアノも空手も学級委員もしていたので、学校が定休日である水曜日の前日、火曜日には、発表会や会議が重なって来れないことも多かった。

 もう1人の中学生は兄弟5人居て、それぞれが別々な学校に通って、いろんな習い事をしていたために、お母さんの送り迎えの都合などが大変そうだった。夜6時半から8時半までのレッスンに、街の向こう側から通うのは、大変なことだったと思う。そんな思いをしてまで娘の大好きな日本語にお金と時間と情熱を傾けてくれた、お母さんに深くお礼を言いたい。自分だったら、どんな先生が教えているのか知りたいと思うので、商工会議所では個人的に生徒と繋がることは許されていないのだが、内緒で電話番号を聞き出して、お母さんに直接電話をしておしゃべりをした。見えなかった家庭の事情や、娘さんがどんなに日本語が大好きで、家でどんな教材を使って勉強しているのか、いつか日本に行かせてあげたいと思っているという、お母さんの秘密も聞くことができてよかった。

 6人のうち3人は同じ大学の別々なクラスの男女で、そのうち2人は恋人同士となってしまった。クラスではうるさいことが多く、腹を立てたりもしたのだが、彼ら3人とお互いの友人同士が集まって、大学内で仲良しのクラブができたようだ。学生時代の友達は、とても貴重。日本語科のない大学内で、日本語好きの若者が集まっていると思うと、楽しくてしょうがない。彼ら「日本語をならった」3人を中心に、友だち同士7.8人で来年の夏休みに日本に行くという計画を立てている。日本の大学に留学しようか、と考えている人も居る。頼もしいことだ。

 私も、なんだかんだ言いながら、週に2回、若いエネルギーを吸収できて、とてもよかった。大学などはっきりしたプログラムのあるクラスではないから、楽しくできたと思う。それでも予定どおり「みんなの日本語」の8課まで終わった。始まる時に商工会議所に提出した「授業計画」と「目標」もちゃんと達成できた。形容詞の「みのりさんの授業は面白かったです」も言えるようになったし、カタカナも全部読めるようになったので、まずまずだった。
 商工会議所に提出する「評価表」にも、生徒側からいい評価をもらえたのでよかった。

これから火曜日の夜には、もっと剣道の稽古に顔を出せるかもしれない。
そろそろこちらの方が恋しくなっていたところ。
 2006年03月16日 お友達
 子どもたちを学校に送ってから、靴を脱がないで今度はボボを公園に連れて行くのが、私の朝の定番だ。でもその時間帯は、まだ校門前でママ連がおしゃべりをしていることも多いので、ボボと一緒にママ連の前を通り過ぎるのは、ちょっと恥ずかしい。

 ボボは、一刻も早く用を足したい。でも、アスファルトが嫌いなので、家から公園までの200メートルを、まっしぐらに走る。そして私はよく「犬に散歩してもらっているの?」と冷やかされるほど、ボボに勢いよく引っぱられて、ぜーぜー喉を鳴らしながら走らされる。

 公園の入り口で「も」さんに会った。「今朝は仕事が11時からだから余裕なの。一緒に散歩してもいいかな?」と言ってついて来た。
 私はあの苦しい納品あとの、久々のさわやかな朝で、ちょっと遠くまで歩こうかしらと思っていた時だった。暖かく日差しが気持ちいいから、公園を一緒に歩きましょうよっと言われた。

 「も」さんとは、誘いあって図書館の読み聴かせに参加したことがあるし、朝市で一緒になって買い物かごを車に積んでもらったこともある。ゾエのクラスメート、アントワンくんのお母さん。見かけはカンボジア人(ほとんど中国人の顔)で、身長は155センチだから私よりも大きいながらも、私と目線がほぼ同じ、というこの辺ではかなり珍しい存在だ。

 公園を一周して、コーヒーを飲みに来ないかと誘ってみた。そうしたら喜んで遊びに来た。そのあと「も」さんの家にも来て欲しいというので、コーヒーを飲んだら今度は「も」さんの家に行った。わりと近くなので、歩いて行けないこともなさそうだ。「も」さんは車で子供の送り迎えをしているので、道路ではあまりすれ違うことがなかったのだ。

 「も」さんは、室内装飾や絵画、日曜大工や台所まわりの仕事(ジャムを作ったり、その他の保存食を作ること)が大好きだというだけあって、彼女の家は手作りのアイデア作品で溢れていた。彼女が自分で描いた絵や、彫刻などもいっぱいあって、どれも素晴らしく、その才能にほれぼれ、たちまち一目置く存在となった。今は臨時の仕事で、お年寄りの世話をしている。口は悪いけどきっと優しい人に違いない。

 この日以来、彼女とはしょっちゅう会っている。子供を預かりあったりもする。近いうちに秘密のレシピを交換しあうことや、一緒に日曜大工をすることも計画している。

 アントワンくんは今やゾエのダーリンとなり、とっても大事な親友となった。いつも他人とは居心地悪そうなJPも、「も」さんの口の悪さや、態度の大きさや、冗談のタイミングは、けっこう気に入ったようだ。「も」さんのご主人もJPに負けず劣らず控えめで、かなり無口な方だ。JPとは体つきも目つきも違う。頭は丸刈り。背が低くて、横にどーんと広い。でも太っているのではなくて筋肉もりもり。巨大スーパーの入り口に居そうなガードマン風の目つき。実は彼も元軍人、JPとは違う硬派な陸軍。今はトラック野郎。ディズニーランドや、幼児向けのコンサートなどに行くと、必ず数名のガードマンに取り囲まれて、身分証明を求められ、時には身体検査までされてしまう。見かけはそんなだが、「飛行機が恐い」と言いながら、汗をかいている辺りが、やけにかわいい。奥さんの「も」さんに「うちの人悪役みたいな顔してるし」と平気で言われて赤くなっている。JPとは軍人時代の話で盛り上がっていた。(二人ともアフリカ勤務経験あり)

 家族ぐるみでおつきあいできそうな友達ができたかもしれない。
 2006年04月8日 一年経った
 父の一周忌だった。
 朝からお線香を炊いて、湯気の上がるご飯をあげた。だからと言って、何もない。日本の実家では人がたくさん集まることになっていて、長姉が「頭がおかしくなりそー」と言いながら走り回っていたに違いない。

 奈良から里帰りしていたおじがメールをくれて、母の誕生日のプレゼントと一緒に子どもたちの写真が届いたよとあった。ぎりぎりセーフだったらしい。親戚が集まっているところに郵便屋さんがおフランスからの小包なんか運んで来たら、さぞかし派手なコトだろう。なんだか親孝行な娘みたいで、トレビアンであった。

 滋賀の姉が帰れないと連絡したら「誰が帰って来てもお父さんは帰って来ないから」と言われたらしくて、かなりショックを受けていた。わたしは、その通りだから代わりに私ぐらいは帰ってあげたかったなあ、と思ったけど、たしかに誰も代わりにはなれない。

 夕食に呼ばれていた。「も」さんの家はうちと同じぐらい古い家で、うちと同じ一年ばかり前に引っ越して来て、うちのように自分たちで改修しながら、年中工事現場みたいなごちゃごちゃした家で暮らしているので、とっても気軽に寛げた。普段のうちの夕食よりも、3キロぐらい重い夕食だったが、おしゃべりの気軽さと一緒に、フォークも軽かった。

 JPは「も」さんとは数回あいさつした程度の付き合いだったので、大丈夫かしらと心配していたのだが、普段は人見知りをするJPに向かって、ジジ臭いとか、むっつりスケベとか。。。まあ、そんなことを平気で言える「も」さんなので、JPも面白がっていた。とっても楽しかった。

 テーブルの真ん中に、水に浮かぶ仕掛けのろうそくが四つ浮かんでいた。帰りがけに「も」さんが「みのりのお父さんのために、ろうそく灯したよ」というので、とても感動した。
 奈良のおじが「みんなでにぎやかにやっているよ」というメールをくれたお昼は、ちょっと淋しかったのだが、「も」さんのおかげで私もにぎやかに過ごせた。

 生きている時には遠くに居て、私のことなどは忘れているだろうと思って知らん顔していたが、今はどこから父に見られてるかと思って、気が気ではない。一年は早すぎて、成長はできなかったけれども、一応どこかで見られている気がして、過ぎた年よりはましになろうと思って暮らして来た。
 ここに、この場所に、私のやってることを見に来てまで、叱ったりはできないだろうと思うと、なんとでも言えるけど。ほんとうは、一年の間ずっと左肩の後ろ辺りから、父が怒鳴っている気配を感じていた。

 叱られてばかりというのはうっとうしいが、叱られなくなると淋しいものだ。
 2006年03月15日 ごろ 忙しかった
 2月の終わりに、「ち」さんから一緒に仕事をしないかと誘われた。彼女はまだおっぱいをあげているような子供が居るのだが、《そろそろ何かしたい病》にかかっているらしい。
わかる、わかる。
 彼女も私と同じで、子供が生まれるまで結構バリバリやっていた人だから、家事や育児だけでこもっている生活に、不満足ではないまでも、ふと《何かしたい病》の発作に見回れるのだ。

 《何かしたい病》にはいろいろあるが、私たちの症状は。自分の力を試したい。能力を磨きたい。人に認められたい。何か誰か(家族以外の誰か)の役に立ちたい。誉められたい(イコール報酬あり)そんなところ。

 街に繰り出してショッピングで気晴らしする、お友達とお茶を飲みながらおしゃべりする、テレビの前に座って好きなビデオを見続ける、それでは気休め育児休暇にはなっても、自分個人のじっとしていられない性格が許さない。

 彼女が分担させてくれた仕事は、200ページの政令の誤訳探しと、文章をチェックする校正のような作業。すでに出来ている訳の1ページを修正するのに15分ぐらい掛けるとして、分担してチェックしたあと、それを交換しお互いの受け持ち部分をチェックし直すには、10日で充分だろうということだったので、私にもできるかもと思った。もらった訳文は難しくてよくわからない文章だったが、もっともらしく書かれている。政令など読んだこともないので、文体に慣れるのに時間が掛かりそうだ。

 15日の記録に「仕事が終わった」とある。13.14日はほとんど徹夜した。でもその数日後に、一度出した仕事を訂正することになって、結局三月いっぱいやった。15日に納品した時に、じつは不安がいっぱいあった。日本のクライアントから「何か修正したい所があったら言って」と言われて「それじゃあいちからやり直したい」と申し出ることになった。
 私たちの仕事はすでに訳された日本文を修正するだけだったはずなのに、いちいちフランス語と読み比べると、もとの訳文に誤訳がいっぱい見つかった。すべてのページをいちから訳し直した方が安全だということに気づいた。そして分担作業の危険(文体を揃えるなど)も出て来たので、後半私は「ち」さんから指示される調べものを中心に、全体は「ち」さんが訳しなおした。もとの文とははるかに異なる、大変読みやすくわかりやすい政令に生まれ変わった。
 最初に読んだ訳は政令だから難しかったのではなく、訳した人が理解していなかったせいで、正確に訳出できていなかった部分がとても多かったために読みにくかったのだ。

 子どもたちが学校に行く9時から、お昼ご飯に戻って来る11時半まで。子どもたちが出て行く1時半から帰って来る4時半まで。そのあとも夕食準備の6時まで。夜の部は9時か10時に始めて、夜中の2時から4時ごろまでやった。「ち」さんは赤ちゃんが夜泣きをしたり、もう一人の子供はうちよりも小さいのに、毎朝5時ごろまで仕事していた。

 結局、一ヶ月丸ごとつきっきりで、毎日ふらふらしていた。私は大したことができなかったので、「ち」さんはもっと大変だっただろう。彼女とこの仕事の件で交換したメールの数は870通にも上っている。
 夜中の仕事中、送ったメールにすぐに返事が来なければ「眠ってるの?」などというメッセージを送って起こしたこともある。「今イスから落ちそうになった」と書いたことも何度もあった。単発のおしゃべりメールを飛ばしながら、こんな夜中に働いているのは自分一人じゃないと思うと元気が出た。

 この一ヶ月の間にも、子どもたちと自分のために数週間前から予約して待っていた通院の約束や、人との約束、そしてノエミが入院するというハプニングもあった。家族はみんなイライラし始め、家は片付かず、アイロンがけを待つ洗濯ものは山積みになってしまった。しばらくこんなことはやりたくない気もするが、「ち」さんと二人、密かに「私たちもやればできるんだよね」と喜んでいる。

 もっと余裕を持って、家人に迷惑がかからないようにできたら面白い仕事だ。報酬は、15日に最初に出した仕事の時、100時間で5万円ぐらい?といっていたが、そのあと話し合っていない。結局一ヶ月で少なく見積もって250時間以上働いたとしても、10万円にも届かないだろう。200ページというページ数は、始めから終わりまで変わらない。それに費やした時間が増えたのは、翻訳者の腕の悪さと仕事のまずさということになるのだろう。

 「でも今回とっても勉強になったよね」
期待して我慢してくれた家族には申し訳ないが、この快感がわかるのは「ち」さんと私だけだ。
 2006年03月04日 サーカス
 3月4日、バカンス期間中最後の土曜日。

 宮崎駿監督企画、高畑功監督の「ぽんぽこ」というアニメを見に行った。
日本では「平成狸合戦」というタイトルらしい。
住宅地拡大のために林を追い出された狸たちが、人間に化けて人間の生活に溶け込もうとする、面白い映画だった。たくさん笑った。でも、やけにリアルな物語だった。
  
 フランスではジブリの映画が大人気だ。うちの子どもたちも『ちひろ』や『トトロ』が大好きでのえみは図書館で『ナウシカ』を借りて読んでいる。

 映画館を出て、町の広場まで来たら、広場に小さなテントが見えた。
「何があるんだろうねえ」と言いながら、テントのまわりを散歩していると、お隣のメリオッサンとアナエルがやって来た。メリオッサンとアナエルの両親は、カーモーで唯一の《私立劇場》を経営している。お父さんは曲芸師で、お母さんは照明係だが、それぞれよその舞台に出ていることが多く、子供はうちで預かることもしばしばだ。そこではジャズのライブや漫才などもあって、メリオッサンが遊びに来るついでに、招待券を持って来てくれる。

 そのテントでは、今晩限りのサーカスが催されることになっているらしい。子どもたちとしゃべっていたら、メリオッサンの両親がやって来て、テントの中に案内してくれた。
簡易のベンチが五・六段、真ん中に曲芸などが行なわれる小さなステージがある。
 夜のサーカスを観においで、というので、一旦帰って、食事してから出直すことになった。

 8時半からの予定だったが、あとからあとからやって来る観客の対応に追われて、始まったのは9時過ぎていた。三人組のピエロで、たくさんの小物を使っての楽しいサーカスだった。
ゾエがゲラゲラ大声で笑っていたので、人々は振り返って、ゾエの笑うのを観て笑っていた。
 
 サーカスのあとにはジャズ風な、ブルース風な、ロック風な、よくわからないバンドが来て、歌ったり踊ったりした。とても楽しい夜だった。

 親子で夜の催しに出掛けることは滅多にないので、なかなか興奮した。
冬休みもあっという間に終わってしまった。
 2006年04月06日 久々に汗
 久しぶりに剣道に行った。
ドレイ先生は赤ら顔でぜーぜー言いながらも、わりと元気そうだった。
7時半に始まると思って余裕を持って出掛けたのに、もう始まっていて恥ずかしい思いをした。

 今年はチェロをやりたかったので、剣道のクラブには正式に申し込んでいない。生きたい時にふらっと行っている幽霊部員だ。
全フランス剣道協会。。。とかなんとかいうのがあって(正式名は知らない)そこに年会費を払って《スポーツパスポート》をもらう。(剣道はスポーツか?)保険だとか、試合出場資格だとか、全部パックになっている。
 私は試合には出ない。そのパスポートを持っていたら団体戦には出場する権利があるけれども、うちのクラブには5人の選手をチーム編成するには弱小すぎるので、団体戦には出ることができない。それに、みんな趣味で剣道やっている人たちだから、試合に出るとか、昇段試験を受けるといったことには、あまり関心なさそうだ。

 私は(何度も言うけど)税金を払おうが、年会費を払おうが、日本人だから、個人戦には出れない。日本人の私がフランス・インターナショナルチームや、フランス・チェンピオンになってはまずいのだろう。(まさか そんな。。。)
そしてまた、わたしも、試合はどうでもいいのだ。

 何か習い事をしている人は、どこかで発表の場が持てるのはいいことだと思う。目標ができるし、参加して誉められたり、失敗したりして、得るものはいっぱいあるから。この歳になって誉められることは、だんだん少なくなった。叱られることもあまりなくなった。目標を持って、コツコツやることも減ったような気がする。この歳になってもまだまだ何かを教えてくれる先生が居て、叱られたあとにちゃんと誉めてもらえたりするのはとても幸せだ。叱る分はちゃんと誉める段階まで育てなきゃならないので、先生も大変だ。

 4月の13日から18日にかけてトゥールーズに剣道をしに行く。日本から先生方がいらっしゃるし、パリからも先輩や友達がやって来る。剣道のあとには、道場にシートを敷いて飲み会もある。みんなが持ち寄ったもので小さなパーティーをする。私は以前は毎年焼き鳥とまき寿司を持って行っていたのだが、引っ越してからはトゥールーズの道場まで片道2時間以上は掛かるので、お店で買ったチップスを持参するつもり。剣道クラブの友達にまき寿司の作り方を教えてあげたので、彼が私の分まで作って来てくれるだろう。

 出掛ける前に家のことをやって、子どもたちに「お母さんは私たちを見捨てて剣道なんぞをしに出掛けた」と思わせない手だてをいろいろ考え、ぎりぎりまでうちに居てあげて、さっさと帰って来なければならない。往復4時間も掛かる。トゥールーズに泊まり込むというてもあるが、そうすると家族を見捨てて剣道なんぞにはまり込んでしまうことになってしまいそうなので、それはちょっとまずい。朝ぐらいは家族の顔を見たい。

 実はフランスには、剣道なんぞのせいで家族を犠牲にしたり、離婚したりする人がいっぱい居る。見ていると多くの人が「剣道いのち」だから「これじゃあ、船乗りや山男をダンナに持つのと同じだなあ」と思うことがある。でも、うちのダンナがもっと「剣道いのち」で、子供もみんな剣道をやっていたら、私も家事を放り出して剣道三昧できるのになあ、とチラと思うこともある。
一緒にトゥールーズに泊まり込んで、朝から晩まで剣道することもできるかもしれない。休みといえば剣道の講習に行き、日本に帰国してまでも剣道をするかもしれない。ちょっと恐い。

 私は、ひまひまで気晴らしできたら、いまのところそれでいいと思っている。
久しぶりに道場を走り回って、とっても気持ちよかった。
帰宅したら子どもたちはちゃんとお風呂に入って寝ていたので、うれしいやら淋しいやらだった。
一人だけで好きなことをするというのも、ちょっと空しい。
 2006年03月09日 なつかしー
 高校時代の同級生「み」ちぇんから、いきなりメールが来てびっくりしたけど、とってもうれしかった。「み」ちゃんは、なぜか私の近況をよく知っているようだ。なぜ私のサイトを知っているんだろう。いきなり来たそのメールは、内容からして「前編」があったようだ。「み」ちゃんの言っていることがよくわからなかったりする。

読んでいない。

 ふと考えたら、別な友達から来たメールの中にも「写真届いた?」とか、「その件については、すでに先日お応えいたしました」というメールが2、3通あった。
メールがどこかに消えてしまったのだろうか?

 近頃「みゆきです」などというタイトルのメールがよく入る。そういう女性の名前だけのタイトルで来るメールは、Hなデートのお誘いメッセージだったりして、きっと全世界に一斉配信されているのだろう。得体も知れない人間から、もし返事が来たら、この人どうするんだろうと心配してしまう。
 「み」ちゃんのメールもタイトルだけ見て、ゴミ箱に捨ててしまったのかもしれない。

 「み」ちゃんは使って安心長持ちで、気持ちまでよくなるお布団を売っている。眠りは生活の基本だとこの頃つくづく感じていたが、よく眠れないのは寝具のせいだったとは、あまり考えたことがなかった。

インターネットを紹介しますので、どうぞ「み」ちゃん」のところでお布団を買ってください。
http://www.rakuten.co.jp/gotofuton/

わたしは「テンピュール枕」なるものに、注目している。
JPの和室が出来上がったら、「み」ちゃんのところで布団も買ってもらおう。
 2006年03月08日 二大イベント
 3月8日は、カレンダーに大きな丸が二つ。
「JPの41歳のお誕生日」
「ノエミのギプスが取れる日」

 JPはお誕生日のプレゼントがもらえなくても、平気な男なので(だと思っている)、当日焦ったりしなくてもよい。仕事に持って行くリュックサックを先日買っておいたので、夜にあれを包めばよい。ついでに、ちらし寿司を作ったら、大喜びするに決まっている。昼間スーパーで、バレンタインデーの売れ残り、ハート形のケーキ型が埃を被っていたので、それを買って来た。夜はチョコレートケーキを作ろう。しかもハート形

 ノエミのギプスがどういう状況か、医者に行かねばならない。
今週は取れるはず。
夏の暑い時期に骨折をした私は、暑さとの闘いで大変な目にあったので、ノエミには「冬でよかったね」などと言っていたのだが、ところがどっこい、冬にギプスをしてもらってはならなかったのだ。
 
 セーターの脱ぎ着ができないし、既製服が合わないのに、素肌をさらすわけにもいかないし困った。風呂場では時間が掛かるが、ぐずぐずしていると風邪を引く。髪の毛も乾かしてやらないといけない。

 先生はレントゲン写真を見て、もう動き回ってもいいけれども、あと三週間は腕がまっすぐに伸びずに、痛いと感じることもあるかもしれない、とおっしゃった。
でももう治っているのだから、どんどん運動しなさいとも。
 今週から乗馬にもいこうかなーと言っているが、食事時もぐずっているような「重傷人」には無理に決まっている。食事の時間になったら痛みが走ってさっさと食べれないけれども、乗馬だったら痛みは忘れられるんでしょうけれども。

 それで「もう治っているんだから」というので健康診断書を書いて欲しいとお願いしてみた。
実は夏休みに県外で行なわれる、3週間の乗馬付きキャンプにノエミを参加するつもりでいた。三月にはすでに申し込みをすることになっていて、その時に「健康な子供だから乗馬をさせてもよい」という証明を提出しなければならないのだ。
 夏には完治しているに決まっているけれども、今の時点でスポーツはできない状況だから、健康診断書も出せないと言われた。申し込みができない。

ノエミは夏休みの乗馬キャンプがおじゃんになって、非常に気を落としている。
 2006年03月05日 カーニバル
 3月5日のカーニバルのこと。
 
 アルビで、春を呼ぶカーニバルが開かれたので、家族揃って出掛けた。
夕方はアルビに住んでいる友達に、おやつに招待されている。カーニバルのパレードをちょっと見てから遊びに行こうと思って出掛けたら、パレードを見ている時に友達にばったり会った。

 カーニバルではノエミの前の学校の先生にも出逢った。引っ越して一年だが、先生は今年も同じ学校で教えているそうだ。ノエミの前のクラスメートたちも皆元気で、たまに「ノエミはどうしているかなあ」と話しているのだそうだ。 
 そういえば先週も、昔のクラスメートからお便りが届いていたのだが、まだのえみのギプスが取れず上手に字が書けないから、まだ返事を書いていない。先生が証人となってくれたので、「手が使えるようになったら、きっと返事を書くから」と話した。(ギプスは3月8日に取れました)
 ゾエはプリンセス、ノエミはアルルカンに変装していたので、先生にかわいいと言われて、子どもたちも浮かれていた。

 アルビの町には移動遊園地が来ていて、街中にぎやかだった。ゾエはアヒル吊りや、ゴーカートをした。ノエミは大好きなゴーカードが怪我のせいでできないので、JPと一緒に「鏡の迷路」に入った。浮かれて鏡の迷路を走り回り、鏡に激突して、おでこにたんこぶを作った。
こりないやつだ。

 よく晴れた真っ青な空に、紙吹雪が美しかった。カーニバルの当日は冷え込んで、まだみんなコートを来ていたけれども、春がそこまで来ていることは、誰もが感じていたに違いない。
 風が強かったので、綿あめを買わなかった。無念。 
 2006年04月03日 がんばって行こー!!
 3月3日にひな人形を出すのを忘れた。3月2日にひな人形を出していないことに気づいではいたのだが、すぐに片付けなきゃならないかと思ったらめんどうくさくて、出さなかった。

 3月3日に、懐かしい友達に会った。
 「あ」さんは大事な試験のために、はるか彼方、フランスよりも10時間ぐらい早く日が昇る、小さな島からパリに上京して来ている。彼女の島のお風呂場では、水が排水溝から流れて行く時に、渦巻きがフランスとは逆方向だ。彼女が島を出て来た時にはその島では、みんながサングラスをかけて、プールサイドでサイダーなどを飲んだり、真っ赤な日の沈む浜辺でアイスをなめたりしていた。

 明るい太陽をいっぱいに浴びて、1月の夏休みを家族と過ごした彼女は、パリでの試験のために水着を分厚いコートに着替えて、スキー焼けで真っ黒なヨーロッパの人々が溢れる空港に、海岸で日焼けした顔で降り立った。

 パリの空は手が届きそうなぐらい低く、暗い色をしていた。たまに大雪が降り、みんな着膨れた身体と同じように、むすっと膨れっ面の顔をしていて、ストのために何度も電車は止まり、人々はイライラしていて、家族をおいての一人暮らしで鬱にならないのがおかしいぐらいだ。

でも、3月3日に久しぶりに会った彼女は、あいかわらず大変元気そうであった。
輝いていた。
ーーーーーー

 ついにこの日が来た。彼女はいまごろ試験会場に着いているだろうか?
先週の火曜日に引き続き、今週のこの火曜日もCPE(いつか詳しく話す)を巡る全国的なストが繰り広げられていて、パリを走る電車は少ない筈だ。道路ではみんながイライラしていて、時には車や商店を壊して歩くデモ隊のせいで、警察が道路を塞いでいる。時間どおり会場にたどり着けただろうか?大学の正門はちゃんと開いていただろうか?デモをする大学生たちに、試験会場を閉鎖されはしなかっただろうか?  

 彼女はデモ隊の学生たちと同じように、「長く続く雇用」と「よりよい教育のため」に試験を受ける。私は何もお手伝いができないので、遠くから応援するしかない。「あ」さんの遠い南の島の家族よりも近いから、私のこのテレパシーも届くかもしれない。
今までさんざんがんばった彼女に、こんなことを言うのは失礼かもしれないけれども、「あ」さんはこれが好きだから、また言っちゃうぞ。

「がんばって行こー!!」

がんばっている人を見ていると、がんばらずにはいられない気持ちになって、私もがんばろうという気持ちになれるので、友達にはがんばってもらわねばならない。おほほ
 2006年04月02日 早く寝る
いつの間にか4月になってしまっている。

 4月2日は母の誕生日だったので、電話しておめでとうを言った。
先週送っておいた誕生日のプレゼントがまだ届いていない。
度重なるストのせいか?残念だ。
中には10月の姉の誕生祝い(去年分)も入っている。
去年の4月から、ずうっと忙しくしていて、何もかもが遅れ気味だ。

 JPが先日税金の深刻(間違い、申告でした)の紙を書いていて、《184》という数字を見せた。
「みのりが去年一年であげた利益」
ええー!?184万円ですって?違うってばあ。
184ユーロ(約 26270円)
保険の積み立てなどで差し引かれて、利益というのはこれだけだったというので、泣きたくなった。こーんなに働いているのにい。
税金払っても選挙権はないのにいいいい。
くやしいいいいい。

電話で、母が「夏休みにフランスに行く」と宣言してくれた。従兄たちの家族旅行に便乗するつもりらしい。頑張って家も片付けなくては。。。。

 そういえば去年の誕生日には、滋賀の姉が子どもたちと里帰りをしていて、姉の子どもたちと一緒にケーキを食べたと言っていたのだった。私は姉よりちょっと早く3月13日から23日まで実家に帰っていて、菜の花をマヨネーズで食べたり、夜に冷たいこたつで《羽衣あられ》をガリガリと音を立てた食べたりしていたのだった。せっかくの里帰りだったけど、どこにも行けなかったから、食べることだけが楽しみだった。私があられをかじる音があまりにも響くので、
「お父さんが起きるじゃないの」と母に叱られた。

去年の4月2日はローマ法王が亡くなって、ヨーロッパの方は大騒ぎだった。
 一年はあっという間だ。

 わたしのこの一ヶ月も、瞬く間だった。

 3月の始めに提出した筈の仕事が、修正と確認、要するにやり直しで、納期が十日延長になり、結局3月はずうっと仕事していた。「環境負荷物質に関する政令」というスイスの政令でエコロな生活を見直すとてもよい勉強になった。

 例えば車は走っているときだけが「有害」なのではない。自動車というのは、カドミウムや六価クロムや、鉛などをたくさん含む部品や車体のパーツのせいで、廃車する時に気をつけなければならないことがいっぱいある。
小さな部品から有害物質が沢山出て来る。
「車を売って馬を飼おう」というノエミは正しいのだ。
馬の糞は堆肥として再利用されるのだから。。。。

 朝は9時ごろから子どもたちが帰って来る11時半まで、昼は子どもたちが居なくなる14時から帰って来る16時半まで、夜は子どもたちが寝てしまう21時過ぎから、ついにイスから落ちそうになる午前2時か3時か4時ごろまで、せっせせっせと働いた。

 家事は滞り、アイロンがけを待っている洋服が山づみになっている。
 家じゅうがなーんだか汚くって、家族みんながちょっとイライラしている。もう限界だ。

ちょうどよかった、今日で本当に終了した。

家の中でパソコンと過ごしている間にいつの間にか春が来てしまっていた。
庭にお花が咲いていない。準備しなかったので。

さて、明日からまた主婦に戻ろう。子供にも、ちゃんとしたご飯を食べさせよう。
3月の日記は、まとめて書こうッと。

今日はもう寝る。ああ、4時半だ。隣のパン屋さんから朝のパンの匂いが漂い始めている。
 2006年02月28日 おかえりなさいませ
 みんなが帰って来た。
途中で、頼んであった買い物もして来てくれたので、家の中に人口と食料が増えた。残り野菜でスープは作ってあったので、家の中の温度も一気に上昇した。

 子どもたちはナルボンヌで、ヴェニスの商人に変装して行ったカーニバルでの話や、アグドという港町で、魚は食べずにステーキ・フリット(ミンチのステーキとフライドポテト)を食べた話をしていた。博物館にも行ったらしい。

 私が留守中に造った、残り木の物入れと、障子紙を貼って造ったランプを見て、感動している。物入れには箱に入っているゲームやおもちゃを並べて片付けたのだ。そこに「しゃべる人形」のフュオビーも片付けてしまった。ランプは思ったよりきれいにできたので今度写真を撮ろうと思っている。

 今日で二月も終わり。あっという間だった。
 2006年02月27日 21時54分47秒 久しぶり
 日記が26日から止まったままだったので、みなさまにはご心配をおかけしました。「10年に1度」とも言える(?)大きな仕事が入ったので、毎日睡眠時間が3時間という生活をしていたのです。3月15日午前3時頃。。。無事納品を済ませ、昨日はたくさん寝て、今日はもう3月16日ですが、2月27日からの日記をまとめて書いていくことにします。

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 海外に出て、独身だった時期が6年以上はあったので、役所まわりでも日曜大工でもほとんど自分でやっていたものだ。結婚してからもJPが船に乗っていて、一年の半分は独りだった時期もまた長かったので、私はけっこう何でも一人でできるオンナだ、と思っていた。けれども、何でも一人でやってしまうと、若奥様の可愛げもないし、ダンナはどんどん「妻まかせ」になるので、できることでも「ちょっとやってよ」と言ってみることにしたのだ。

 子供もそうだ。なんでもやってあげていると、母親を小間使いのように思ってしまうらしいので、私は子供がその辺に落としたものも拾わないし、子供の食器は片付けないし、宿題も見ない。(難しいから無理だけど)母がナーンでもやってしまうと、あっという間に片付くことはいっぱいあるのだが、私は私の受け持ち範囲を決めて、そこからさきはイライラしながら見守る努力をしている。

 そうして無関心を装っているうちに、この頃はJPの敷地内(書斎、道具箱、倉庫、屋根裏)でいったい何が起こっているのか、さっぱりわからなくなっている。だから敷地内にある「湯沸かし器」については知ろうともしなかった。

 独身生活というのは寒々しいなあーと思っていたら、夜になって室内温度が一気に下がった。私は寒がりなので気のせいだろうと思って我慢をしていたが、暖房器具が冷たい。
 JPから電話が来たので、家の中が寒いと言ったら「寂しいんだろ?」と言って不気味に笑っている。温度計を見たら20度の表示になっているので「家の温度が高ければ暖房の湯沸かし器は点火しない仕組み。寒がりはおまえのせいだから我慢しろ」みたいなことを言われて電話を切った。
 でも、おかしい。夜遅くになっても暖房は冷たいままで、手足が凍えて、息が白くなって来たが暖房コントロール器の温度計は20度のままだ。迷ったあげくにまたJPに電話して、義母に「淋しいんだったら来ればよかったのに」と不気味に笑われながら、JPの声に変わった。

 状況から推測して、暖房は故障している。それで、私はコードレスの電話を持って、JPの暗い敷地内に入って行った。実況中継とともに湯沸かし器のいろんなボタンを設定し直して、湯沸かし器に「ボッ」と火が点いた時には、マッチ売りの少女よりも幸せな気持ちになった。ああ、電話の向こうにJPが居てくれてよかった。夜中の2時ごろにシャワーを浴びて、いきなり湯沸かし器が故障していることに気づいたのでなくてよかった。。。

 暖かくなり始めた暖房に、お尻をすりつけながら、早くみんなが帰って来ないかなーと思った。
 2006年02月26日 日曜日 華の独身
 日曜日。独身なんだからおもいっきり朝寝坊をすると思ったら、大間違いだ。独り身のお天気のよい日曜日には、ぜったいに早起きをするつもりだった。しっかり目覚ましをかけて、まあ、それでもいつもよりはゆっくりの時間ということにする。でも、目覚ましが鳴らないうちにボボに起こされた。

 ボボはJPが居ないことを察しているらしく、昨日もみんなが出て行ってからずっとぐずぐずいったり吠えたり、ドアをガリガリやったりしている。困ったものだ。ボボのせいで(おかげで)私だけ留守番をすることになった(アリガトー)というのに、恩というものを感じていないやつ。

 ご主人様が居なくて、犬まんまが底をついたので、仕方ないから、ボボのために台所に立ち、ご飯とひき肉で犬まんまを作って差し上げた。独身だと思ったらボボ様がいらっしゃったのだ。

 日曜日のお散歩はJPの役目なのに、ひとりなので私が散歩に連れて行かねばならない。それなのに帰って来たら「足りない」と言って吠えている。ノエミが使わない乗馬の鞭を、ボボの鼻先でひゅんひゅん鳴らして、低い声でどなっても、バッカにされている。こいつううう
 JPから電話が掛かって来たので、「ちょっと、ボボのこと叱ってよ」とお願いして、電話を犬小屋に持って行った。ボボのピラピラの耳をつまんで持ち上げ、受話器を耳に近づけた。JPが大きな声でボボを怒っているのが聞こえている。ボボは尻尾を巻いて犬小屋の奥に入った。私のこと、なんだと思ってる。ゆるせん!

 日曜日はとてもよいお天気だった。一日中「日曜大工」をした。家じゅうに転がっている「犬小屋のあまり」や「本棚の残り」「床板の余分」の木材で、60X70X170の大きな棚を作った。ただし、壁とタンスの隙間に入れる棚で、そのスペースにはパイプがあって、L字型のスペースにぴったり入る棚にしたかったので、設計図を書いて、計ったり木材を切ったりしているうちに、時間はどんどん過ぎて行った。

 組み立てが終わったのは夜の8時ごろになっていた。シャワーを浴びて、昨日買った「ネム」を電子レンジで温めた。白いご飯も炊いた。パソコンの前に食べ物を並べる。ポリーヌさんから借りた『もののけ姫』のDVDを見ながら、夕食を食べた。アメリカ人みたいだ。全部見たらもう1時ごろになっていたのだが、消す操作をしていたら『日本語バージョン』もあることがわかり、もう一度最初から日本語で見た。今度は前から準備をしていた《ランプ》を作りながら見た。映画が終わるまでにランプづくりは終わらず、明日に持ち越しとなった。

 火曜日提出の翻訳の仕事を金曜日の朝に終わらせておいたのに、訂正があって、書き直さなければならなくなった。それも食事の支度や、子供のシャワーに中断されることなく、あっという間に終わってしまった。独身だと仕事も速いのか?

 一日がいつもに比べてもっと《あっという間》だ。
華の独身生活も残すところあと二日となってしまった。
 そういえば今日は日本のお友達のミオちゃんの結婚式だった。別な友だちが《226事件》だよと教えてくれたので、この日を楽しみにしていた。同級生の花嫁さんはなんとも久しぶりだ。
 私は今年結婚11年目。そしてたまには「独身」を夢見る主婦、二児の母になってしまった。

 電気と音楽をつけっぱなしにする。一人静かに。。。というのはけっこう淋しいなあ。
 2006年02月25日 土曜日 独身貴族
 JPと子どもたちが、JPの両親の家に旅だって行った。ああ、3泊4日の独身貴族生活が待っている。さて、何をしよう。まずは、図書館でCDーROMと雑誌を借りた。そしてお買い物。

 家に自分だけとなって何をしたいかというとやはり「家事をしない。時計を見ない」ということを「したい」。それから、ひとりでこっそり食べたいと心に描いていたものを、おもいっきり食べたい。「食べたいもの」とはいったい何か?スーパーを一周して、「エビ」と「ネム」と「あられ」と「ピエモンテーズ・サラダ」を買った。

 「エビ」はJPがエビ・アレルギーなので食卓に出すのが禁止されている。出してもいいんだけど、自分の食べる分があっても、ほかの人が食べる分をどうせ作らなければならないので、自分は我慢してみんなで食べるものを出すことにしている。私はエビが大好きで、いつもいつも「ああ、エビが食べたい」と思っている。

 「あられ」は「日本風クラッカー」という名前で売られているもので、スーパーを歩き回っていたら、こーんな思いがけないものがあったので、感動して思わず手が出てしまった。「衝動買い」も禁止されている我が家であるから、この辺でおもいっきり羽を伸ばす。

 「ネム」というのはベトナム風春巻きで、私は普段時間を掛けて自分で作っている。ネムも大好物で、時間を掛けても作るものだが、「一人分だけ」作るということはまずない。肉屋さんのお惣菜のコーナーにも売っているのだが、いつもは「自分で作れるものをお店で買うなんて」という気持ちがあるので、出来上がりを買って食卓に出したことはない。自分で作ることはない「エビ入り」にした。

 「ピエモンテーズ・サラダ」というのは、日本でいうとソーセージ入りのマヨネーズで和えた「ポテトサラダ」だろうか。我が家では市販のマヨネーズは約二名のうるさい奴らから「気持ち悪い」と言われているために、工場で作ったマヨネーズで和えた大量生産のサラダなんて。といわれるのを恐れて食卓に出したことはない。でも、よくこのピエモンテーズは、ひとりの昼食の時などは隠れて買って食べているのだ。

 こんばんは、夕べの残り物を片付けてしまう。お楽しみは明日。日曜日はどこも閉まってしまうから食料確保せねば。それにしても、生活の基本である「食」の部分で、私は普段からけっこう我慢しているとみえるなあ。好きなものや食べたいものが家族のほかのメンバーとは異なるので、我慢しているのだ。これじゃあ、ストレスたまるはずだ。でもこのメニューを見たら、「ただインチキしたいだけ」という気もする。

 さっさとシャワーを浴びて、思う存分インターネット・サーフをして、たくさんの人にメールを書いて、夜中になってから本棚に行って本を8冊選んで来た。その中の5冊を、斜め読みだけど一気に読んだ。ちょっと気がすんだ。ベッドのところに図書館で借りた雑誌とスーパーで買った雑誌も積み上げた。いちおう全部見た。

 音楽をがんがんにかけて、パソコンの前とベッドの中でも「あられ」を食べた。こんなことを子供の前ではできない。
午前3時ごろ、電気と音楽をつけっぱなしのまま、雑誌を閉じた。もうこのまま寝るつもり。

 なかなか「独身貴族」らしくなって来た。午後、ひとこともしゃべらなかった。
(誰もどならずにすんだということか。ふむふむ)

 
 2006年02月24日 金曜日 はりきる
 今週「ビズ・ファミーユ」という雑誌を知った。
サイトはこちら http://www.bisoupfj.com/
「フランスで学び、働き、住む日本人を応援する雑誌」とある。
このバックナンバー3号が「バイリンガルについて考える」というテーマなのだが、インターネットでバイリンガルのことを調べていたら、このサイトにたどり着いてしまったのだ。

 「ビズ・ファミーユ」で地方特派員を募集していたので、さっそく編集長さんにメールを書いてみた。トゥールーズの特派員はお友達だった。彼女の名前をこんなところで発見するとは思っていなかった。そういうわけでトゥールーズには特派員がいるのに、カーモーにもアルビにも居ないことがわかったので、この近辺の特派員を申し出てみたのだ。ボランティアだけど、昔新聞記者に憧れていたので、つい「特派員」と聞いて黙っていられなくなった。

 お返事はすぐにいただけて、特派員としての規定とか義務とか責任も、そんなに重々しくないので、私にでもきるのではないかしらと思っている。ただしカーモーには日本人に喜ばれそうな面白いものはないので、仕事をしているアルビ市のことでも書こうかと思っている。

 まずは一度通訳をして、専門家並みの(?)物知りになった「ラペルーズ博物館」だろうか?あるいは、日本人観光客もよく訪れている「トゥールーズ=ロートレック美術館」だろうか。知名度としては後者かな。

 とりあえず雑誌を注文して、ほかの特派員がどんな物を書いているのか、探りを入れなければ。

それにしても、こんな雑誌ができるほど、フランスに住んでいる日本人が居るとは驚きだ。

 昨日いっしょに映画を見に行った友達が、「アンパンマンといっしょに平仮名を覚えよう」という面白い子供用の電池で動く教具を貸してくれた。二人がせっせと平仮名の練習をしている。

 今日は、パリに来ているはずの従妹に電話しようと思っていたら、夕方から夜遅くまで、子どもたちは喧嘩ばかり、泣いたり喚いたり、こっちはどなったり吠えたり。。。そうしている間に「その団体様は、もう日本にお帰りになりましたよ」の時間になっていた。とっても残念だった。

 従妹は楽しいヨーロッパ旅行ができたんでしょうか。
また来たいと思ってくれたかな?また来てくれるかな?
 2006年02月23日 木曜日 かくれんぼ
 友達とCache cache (カシュカシュ・かくれんぼ)という映画を観に行った。Yves Caumonという若い監督の作品で、この日は「シネグテ(映画のあとおやつが出る)の日」だったのだが、監督さんも放映に参加していて、映画のあとおしゃべりすることができた。

 子どもたちがうるさかったので、監督さんに近づくことができなかったが、帰って来てから感想を書いてメールを送った。とても興味深い映画だった。

 まず真っ暗闇に「瞳」が出て来る。
こわい!! ゾエが泣くんじゃないかと思った。
その「目」は家の中から、外を伺い見るレーモンの目だ。
古い田舎の一軒家、ずっと前から売りに出されていたその家に、いよいよ買い手がつく。辺りに散乱している古い家財道具を、粗大ゴミとして片付けて行く。改装工事、引っ越し、、、その慌ただしい人の流れの合間を、ドアの後ろから草むらへ、犬小屋から木の陰へ。ちょこちょこと走り回って、こちらを伺っている「目」がある。人がいる。誰にも見えない。(映画を見ている人には見えている。汚いレーモンおじさん。映画中ひとことも話さない。)

 家の中に居られなくなったレーモンは、古井戸の中に隠れて暮らすようになる。夏。子供のプールで服を洗ったり、合鍵で台所に入って誕生ケーキの残りを盗んだりする。子供が井戸に落としてしまった風船を、さて、どうしよう。。。子供が探しに来てはまずいので、考えたすえ、勢いよく投げて、風船を井戸の外に送り出す。子どもたちは大喜び。井戸にお化けが居ると言って、井戸の中に靴やおもちゃやいろんなものを落とす。レーモンおじさんは、降って来るいろんなものを、少しずつ家の中に返しに行くのだが、靴がランプにブラ下がっていたり、ぬいぐるみが木の上に座っていたり、なかなかユーモアがある。子どもたちにバカウケだった。

 子供は「この家にお化けが居る」と言って面白がっている。見つけて友達になりたいと思っている。大人はだんだんおかしいことがわかると「お化けが居る」と信じたくなくて、ヒステリーになる。

 毎日その家の前を通過して「この家は何かおかしい。誰か居る」と感じていた郵便配達の女性が「レーモンには優しくしてあげないといけない。優しくしてあげたら、悪さはしないはずだから」という。村では、レーモンはとっくの昔に死んだと思われている、この家のまえの所有者だった。

 レーモンは日本の座敷童みたいだ。

 私は小さい時から、半開きのドアや暗い「隣の部屋」が大嫌いだ。置かれてある人形や写真が動くような気がする。 いつも誰かに見られている気がして、便器のふたでも、電子レンジのドアでも、タンスの引き出しでも、開けっ放しにできない。吸い込まれそうで恐い。誰かが出てきそうで恐い。誰かに見られているような気がしていやだ。

 でも、カシュカシュの映画を見て、「こんなおじさん」だったら家に居てくれたら面白いだろうと思った。家神を恐いと思うのはまちがっていたのかもしれない。

 家神が逃げて行かないような、おだやかな家にしなければと思った。
 2006年02月22日 水曜日 あと2週間
 ノエミの怪我から一週間経ち、検査のために病院へ行った。

 先週帰る時に、レントゲン技師を予約して、レントゲンを撮ってから医者のところへ、と言われていた。今日病院の3階にレントゲンを撮りに行くと、ギプスを外してもらってからレントゲンを撮りに来いと言われるので、1階の医者のところに戻った。そうしたら、レントゲンを撮って確認してから、ギプスを外すかどうか決めたいから、まずレントゲンを撮って来いと言われ、まーたエレベーターに乗った。

 レントゲンでは、先週ずれて見えた骨は、元に戻っていなかったのだが、先週よりもひどくなっていたわけではないし、たった一週間では治るわけがないので、「ずれたままだけどしかたない」と言われた。ただし、手術するかどうかの心配はなくなった。成長に影響は及ばさないでしょう、とのことで安心した。

 その代わりあと2週間ギプスのまま。ノエミは今日外してもらえると思っていたので(期待しちゃだめとは言ったのに)あと2週間と言われて、ショックを受けていた。
すでにギプスの中が痒い。なんだか臭い。手首の所が当って、すれて来ている。

 来週の水曜日は矯正歯科医の所。
再来週はまた病院で検査。
結局冬休みは台無しだった。

 でも、私としては、手術しなくていいと言われたし、本格的な固いギプスをはめられなかったので、軽かったのだと思ってほっとしている。まだ「アンタはドジだから」で笑い飛ばせる範囲内だ。頭を打っていたり、顔がぐちゃぐちゃに潰れたりしたら、もっとたいへんだったと思うし、一生車いすとか、目に見えない内臓が悪いとかだったら、家族みんな大変だと思う。

 私が怪我をした時に、伯母と親友から「アンタいつも動き回りすぎだから、ここらで休みなさいというお達しだったんじゃないの?」と笑われた。ただの骨折だったし、夏休みに子供と遊んでいて怪我をしたので、元気になってから笑い話になった。

 いつもひとりで何でもできると信じているノエミが、かなり痛い目に遭っている。割れなかった頭で、一応いろんなものごとを考えてくれているだろうか。

 冬休みの1週間もあっという間に過ぎようとしている。休みはあと1週間。そのあと学校が再開して1週間。2週間はきっとあっという間だと思う。
  
 2006年02月21日 火曜日 誉められちゃったよーーん
 ゴマ豆腐を作ろうと思って、30パーセント引きのくずを買った。海苔入りごま塩とにがりも手に入れたが、キッコーマンのお醤油はなかった。味噌と梅干しはあるので買わなかった。紅ショウガがあって「オオッ」と思ったが、実は紅ショウガは嫌い。山川漬けがあったらうれしいのが、そんなローカルな漬け物はない。

 JPとノエミは食卓に出ている食品のラベルを、食事の間中じっと見つめるのが癖だ。そして読み上げるのが悪い癖だ。最初はいちいちうるさいと思っていたが、ノエミが「赤いのは着色料で、保存料が入ってる」などと読み上げると、食欲が失せるどころか、母親として恥ずかしくなってしまうので、安心ラベルのついたものだけを売っているお店に通うようになった。

 そのお店に置いてあるのは安全な食品だけだ。例えば小麦粉や砂糖などは自分でスコップで欲しいだけとって、紙袋に入れてレジで計ってもらう。だから自宅に帰った時には読もうと思ってもラベルがない。我が家では小麦粉、米、スムール、ポレンタの粉、ポップコーン用のトウモロコシ、豆類、砂糖、塩、ごま、片栗粉、ベーキングパウダー、お菓子の材料や調味料。。。スコップですくって買ったものなので、台所の棚には私がラベルを貼った瓶が並んでいる。これで誰もラベルを読み上げる者がいなくなった。

 
 このような事情があるので、一週間に一回、遠くの「このお店」まで買い物に行くことになっている。今週は子どもたちがいるので、遠くまでわざわざ出掛けるのはやめようかとも思ったのだが、春のような陽気だったので、ドライブのつもりで出掛けることにした。車の中ではコートは要らなかった。

 でも、子供と出掛けると落ちついて買い物はできない。物をひっくり返さないか気になって仕方がない。神経質に見張っていてもひっくり返すから、それを元に戻したり、喧嘩をはじめた二人を引き離したりと疲れてしまう。よその子供を見ていると我が家の子どもたちは「まだましな方」とも思えなくもないのだが、それでも「静かにして」「じっとしてて」などと言い続けているので空しくなる。「細かいことを気にしすぎ。子供はこれくらい普通」との意見もたびたびあり。

 車の中で「アンタたちを買い物に連れて行った私がバカだった」とかぐちぐち言いながら、もう一軒行くつもりだったお店には行くのをやめて、帰途につく。「ほらほら」とせかしながら自宅前に到着。玄関の脇の歩道に自転車を止めていた男性が居て、その人は自転車にまたがる前に、手袋をはめているところだった。

 すれ違いざまに娘たちが「こんにちは。失礼しまーす。」と大きな声で言った。60代ぐらいの男性が、胸を抑えて、目に涙を浮かべ、
「なんて行儀の良いお嬢さんたちなんでしょう!今どきこんな子どもたちは珍しい!」と天に向かって腕を広げながら、大きな声で言った。

 そして、子どもたちに「お母さんはいいしつけをしてるねえ」私に向き直って「この調子で頑張りなさい」と言った。

 私のほうこそ涙が出そうになった。
自分の親のしつけが良かったんだろう、と思った。
誉められて元気になった私は、家の中に入ってから「ほらみなさい。いつも厳しくしてるママンのおかげで誉められたじゃないの」と威張り散らすのであった。。。

 ノエミは「私たちが行儀よかったおかげで、誉められてよかったね」などと言っている。こいつってやつは。。。
 ゾエは舌を出して「カカ・プート」と叫んだ。解説すると舌を出したのは、あまり意味はなくて、今ちょっと癖になっている仕草。それから「カカ」はうんちのことで「プート」はおならの音のつもり。要するに意味がないのだが、幼稚園で今「カカ(うんち)」とか「ピピ(おしっこ」と叫び合うのが流行っているらしく、どこに行っても誰にでも「カカ・ピピ」を意味なく連発する。

 「こら行儀悪い」と言って、追いかけ回しながら、みんなで笑った。
笑う門には福が来ると言うし。。。
がんばっていこー!
 2006年02月20日 しらーんぷり できない しれーん
 我が家のあるカルビニャック通り近辺、ジャン・ジョレス地区一帯、うちから半径約2キロか3キロ(たぶんもっと)の地域住民は、きっと一睡もできなかっただろう。

 日曜日の夕方6時ごろ、台所でラジオをつけた。鳥カゼ菌のニュース、そのあとコンサート情報を聞いていると、バックで耳障りな音が鳴り続けていることに、ふと、気づいた。何が耳障りなのかわからないのだが、イライラして来て、じわじわと神経逆なでられて行くのがわかった。

 昔「ポケモン」などのアニメを見ていて、肉眼では見えない映像を、定期的、瞬時に流して、子どもたちの脳波に異常をきたした。。。というような電波障害があったとおもう。そういうのかな?と思ったので、慌ててラジオのスイッチを切った。

 ところがその不愉快な音は、ラジオから来ていたのではなかった。

 我が家は三叉路がぶつかる地点、T路の縦棒が横棒に交差する地点にあり、台所からジャン・ジョレス公園の入り口まで一直線に見渡すことができる。その道路のほうから、「シレーン」が鳴り響いているようだった。「シレーン」というのは「サイレン」のことだ。
 
 最近では「シレーン」を搭載している自動車が多いので、路上駐車の車かな?と思って、玄関ドアを開けてみた。でも自動車用のシレーンとは音が違うみたい。
 それから、その道路は大きな家が6軒ぐらい並んでいるので、冬休みの留守宅に泥棒が入ったのかな?と思った。その6軒のうちの1軒は、数週間前に奥さんを亡くした老人が一人暮らしなので、走って行ってみようかと思った。

 玄関前で耳を澄ませて、音の出所を探っていると、前の道路から車が来た。10軒以上先のほうに住んでいる人だったが、うるさいので来てみたと言っている。警察を呼んだ方がいいと言われたので、二階のJPに「警察に電話してよ」と叫んだ。

 私が叫んでいるので、やあっとシレーンが聞こえたJPが降りて来て、警察に電話する前にちょっと出てくると言い、マイペースで靴のヒモを結んで、ちゃんと傘をさして出掛けた。道路を行ったり来たりしている。しばらくして音の出所を突き止めたらしく、立ち止まってうちから二軒先のお宅の玄関ボタンを押していた。

 そのお宅には家人がちゃんと居て、玄関の灯りの下でJPとなにやら話している。

 結局、我が家からは警察には電話しなかった。何かの間違いで家の警報を鳴らしてしまったのだが、止まらなくなってしまったらしい。警報機は屋根の上の、更に上の煙突のてっぺんについており、今や独自のバッテリーで自動的に鳴っているわけで、家の人には手のつけようがないらしい。「コンセント抜く」とかできないらしい。誰にでも簡単に電源を切れたら、役立たず警報ということ。

 警報機を取り付けた警備の会社に電話したけど、泥棒じゃなかったので警察には連絡されない。(ご近所がみんな電話したとは思うけど)修理の人は夜には来ない。雨が降っていて危ないし、とっても高いところなので、普通のはしごでも無理。なんで消防自動車は来てくれなかったんだろう。警察でも消防でもどうしようもないものなんだろうか?

 と、いうわけで、18時ごろ鳴り始めたと思われる警報機は、一晩中鳴り続けた。いっやあー参った。ゾエは「恐い、恐い」と言ってうるさいし、ノエミは「うるさい。うるさい、気が変になりそう、ああ。うるさい!!」と言ってうるさい。「ピーピーピーピー」と一秒間隔で、月曜日の8時過ぎまで鳴り続けた。

     続・「しずくの拷問」

 我が家はガラスが防音二重サッシで、泊まりに来た人が「外を走る車の音とか、全然聞こえないねー」というようなご立派な窓で、雨戸も閉めているが、シレーンはやっぱりシレーンなので、ちゃあんと聞こえた。一晩中同じメロディーが一秒間隔というのは「神経逆なでる」の問題外だった。

 子どもたちでさえ、ほとんど眠れなかった。我が家で寝ていたのはJPだけ。やっぱり。。。

 月曜日の今日、どんなに寝不足でも、みなさんお仕事に出て行かれる。わたしはJPを送り出すために7時に起き、目覚ましを掛けて8時半まで寝ていた。でも、シレーンがいきなり、ぷつっと鳴り止んだのは8時ごろだったので、結局寝不足は取り戻せなかった。

 あのお宅は次回こんなことが遭ったら、JP以外は誰も助けに行かないんじゃあないかしら、と思った。シレーンが鳴らないことを祈る。
 2006年02月19日 鳥カゼ菌
 暖かい、冬休みの日曜日。みんな家にいる。ノンちゃんみたいに朝寝をして、8時半に起きた。子どもたちに着替えをさせるともう9時半まえ。
 台所でトーストを食べていたら、9時半のニュースで「フランスにも鳥カゼ菌上陸」という話題だった。先週イタリアに上陸した時に、「こりゃあ来るわなあ」と思ってはいた。

 冬に鳥が風邪を引いたり、寒さで死んだりすることはよくあることなので、落ちている鳥をみたからと言ってパニックにならないように、とのことだった。そして、飛んでる鳥をみたら撃ち殺してしまえ、というような考え方もいけません。。。などと言っているが、一応言わなきゃやる人が沢山いる。

 数年前の夏に、ゾエが生まれたラボーという町で、教会周辺にハトが集まりすぎて、駐車場の車や教会周辺が汚れるので、鉄砲を持っている人はみんな集まりなさいというお達しが出て、鉄砲を持っている人が町中のハトを撃ち殺して歩いた。車がハトの血だらけになって、ヒステリーになっている人をテレビで見た。(その頃はテレビがあったので、そういう恐ろしい光景もみていた)

 今朝のラジオでは、野鳥の集まる池のそばに住んでいる人が電話相談をして来ていて、野鳥が庭に遊びに来るのでエサをやってるというので、そういうことは今後はやっちゃいけませんか。。。という相談だった。
 鳥と言えば何でもかんでも風邪菌を持っているわけではないので、神経質にならなくてもいいですけど、『野鳥』にエサやったらいけませんよ、と注意されていた。いやあほんとだよ。
 野鳥はそうってしておいてあげたらいいのだ。
フランスではよく鴨やアヒルなどを食べる。よその国で鳥菌が騒がれ始めてからも、消費量が減ってしまったが、『フランス上陸』で業界は苦境に立たされている。牛肉の次はとり肉か。。。
でもうちではとり肉を買い続けるつもり。(そういえばこの頃食べていないけど)

 フランス海外領土のレユニオン島では、蚊に刺されてかかる病気が大流行しているらしい。

 自然の威力はすごいけれども、自然を人工的に操っている人間が、原因を握っているのではないかなあ、と思う。人間が代償を払わされているのでは?

 死んだ鳥たちが発見されたり、『怪しい』として検査中の15羽の鳥が発見された地域から、半径40キロでは、憲兵が一ヶ月の完全防備をするらしい。鳥を捕まえて予防接種をうけさせるとのお話。注射のついでに番号札も打たれるに違いない。野生の鳥がいなくなるねえ。
 2006年02月18日 土曜日 バカロレアのお勉強
 とてもいいお天気で、暖かい一日だった。

 やる気が出て来た。JPは屋根裏に入って、床板を磨き始めた。誕生日に両親から、窓をプレゼントしてもらえるというので喜んでいたJPであったが、私の反対に遭い、ムっとしながら床掃除を始めた。別に喜んでいる人間をいじめて、ムっとさせるのが趣味というわけではないのだが、オンナゴコロとは不思議なものなのだ。
 チョコレートを食べて、剣道に行き、叫んで来たほうが身のためかもしれない。

 午後、バカロレアのお勉強のためにポリーヌさんが来た。アルビから電車で来たのだが、駅に迎えに行くのをすっかり忘れてしまって、駅から電話が掛かって来た。走って迎えに行く。

 今日のテキストは『ノンちゃん雲に乗る』を選んだ。ノンちゃんが二日つづきのお休みに、朝寝のあと味を楽しんでいるところ。布団の中でゴロゴロして、お勝手から聞こえる『トントン』とダイコンを切る音に耳を澄ます。まな板の上に盛り上がる真っ白い、細い棒の山を想像して、なんとはなしにぷうっと胸がふくらんでいく。「おかあさんがおみおつけを作ってる」
 新聞がカサガサいう「おとうさん?」こんないいお天気のお休みの、こんな時間にお父さんがまだ釣りに出掛けていない、というのはとっても珍しいこと。

 私の小さいころの日曜日みたいだ。迷ったのだが、ポリーヌさんとお母さんのことを語り合えるかもしれないと思って、このテキストを選んだ。ポリーヌさんはお父さんの再婚でお義母さんとなったオカーさんと暮らしている。迎えに来た、少女の血のつながらないオカーさんと立ち話をして、自分や、自分の母や、自分の義母や、ポリーヌさんのオカーさんたちのことなどなどを考えた。

 私はできるだけ死なないように、家出をしないように、子供を見捨てないように、JPが子どもたちの義母を連れて来ることがないように、自分の家で自分の手で子どもたちを育てられるように、努力しようと思う。
けっこう辛抱しているつもりだが、まーだまだ努力が足りない。

さて、子どもたちと遊ぼうか。
 2006年02月17日 最後の日
 冬休み前 最後の授業の日、算数の試験がある。
 ノエミのひじはギプスで固定されているので、あまり痛くはないらしい。
夕べ先生が寄ってくださった時に、「明日はテストもあるし、来た方がいいんだけど」と小さな声でおっしゃっていた。ノエミはたぶん、ギプスをみんなに見せたかったことや、大好きな算数のテストを受けたかったことや、みんなに「どうだったの?」などと訊かれーーーたかったんじゃないかなあ、と思う。張り切って出掛けた。

 母のほうは、朝から着替えもひと仕事だったし、夕べはノエミが眠れなくて、三時にごそごそ起きだしたりもしていたので、肉体的に疲労がたまっている。できたら学校の送り迎えはしたくないんだけどなあ。。。

 乗馬とヴァイオリンには「当分休み」の電話をした。祖父母もこんどの火曜日に来る予定だったのだが、こんどの水曜日には改めてレントゲン検査のために医者に連れて行かなければならないし、その次の水曜日は歯医者なので、「来ないでください」の電話をしなければならなくなった。とても残念がっている。

 算数のテストはまあまあだったらしい。フランス語だったらもっとたいへんだったと思うが、数字だったから良かった。右手でも、ミミズが歩いたような字を書くので、いま左手で書く練習をしているのを見ると、左手で書くほうが上手だ。
 
 こんな時に限って、はさみやノリを使う工作や、ゲームボーイがしたくなるらしい。挑戦しては「できない」と言っている。いつも「自分は何でもできる」と言っているオンナなので、「できない」と言ってみたいのかも、しれない。

 いつもはやらない台所でのお手伝いも、わざわざやって来て、片手でやってみせて、「自分はけが人なのに、こんなに偉い」などと言っている。私も骨折した時に、こんなだったかもしれない。
 あの時に、あまり恩をきせすぎたのかなあ。。。
 2006年02月16日 困ったなあ
 11時15分ごろ電話が鳴った。保険の勧誘か、銀行から「引き落とし分が足りませんよ」の電話か、誰かおしゃべりな人からの電話か、急ぎの仕事か。。。とにかくこの時間帯に電話をとって、いいことだった試しはない。20分になったら子どもたちを迎えに行くために、コートを着なければならないので、「もしXXだったら、すぐに切る」と決心して電話を取る。

 「校長ですが、ノエミがけがをしたので、迎えに来て緊急に運んでレントゲンを撮ってください。保険の紙を作るので学校が終わってからもう一度来てください」と言う。

 ノエミは平行棒から墜落して、腕が逆さまにねじれて、ぎゃあぎゃあ泣いたので、授業も中断となったらしい。セーターをまくり上げて、ひじをしっかり包んでいるのは、体育の先生の応急処置だった。今日は学生アシスタントが二名見学に来ていたので、応急処置と、興奮している生徒の取り扱い説明も実践できてラッキーであった。

 ノエミは蒼白で(普段からほかの子に比べて黄色いので、具合悪い時には緑色に見える)泣きはらした顔を歪めている。歩くのも辛そう。幼稚園が終わる時間だったので、泣いているノエミを幼稚園の門の前で待たせて、ゾエを迎えに行き、そこから1分の我が家に戻って、かばんやカギや、食べる物をつかんで、救急病院に向かった。

 すぐにレントゲンを撮ったけれども、コメントを書いてくれるレントゲン技師が昼食に行ってしまっていて、若いドクターが自信なさそうに「一応レントゲン技師の意見を訊きたい」というので、泣く子を連れて自宅に戻った。シートベルトも締められない。

 ハムとご飯にふりかけを食べさせていると、近所に住んでいる担任の先生が寄ってくださった。授業中に怪我をさせたのは始めてだとおっしゃって、ひどく心配してくださっている。ノエミは体育専門の教師の目の前で、勝手に落ちたので、担任の先生には責任はないのに。夕方ノエミのかばんを持ってまた寄ってくださるとのこと。

 食事の後病院から呼び出しの電話が来ないので、こちらから催促して出掛けた。レントゲン技師のコメントでは「骨は折れていない。ヒビもなし」ということだったが、ちょうどアルビの大きな病院から骨の専門家が来ていて、その医者が「ひじの突き出たところにある塊がちょっとずれている」というので、ギプスをすることになった。今日はまだ腫れているので、やわらか目の簡易ギプスで、来週出直し、改めて診察してから、どうするか考えるとのこと。

 明日で学校も終わり、もうすぐ春を呼ぶカーニバルもあるのに。。。
ヴァイオリンと乗馬もお預けで、本人はとってもしょげている。
けがをして、世話が大変だし、診察もあるので祖父母のところに行かせるのもどうかな。。と言っているところ。
「世話が大変だし、せわがたいへんだし、セワガタイヘンダシ。。。」
誰がけが人の世話をするんだろう。

 痛みさえなくなれば、けっこう元気。口は達者。細かいことはできないくせにおおざっぱにやって失敗はできるので、何かとじゃま。けが人に向かって「あっち行け」とか言ってるあたり。。。人間性を疑われる。こんな時ぐらい、お子様にやさしくしてさしあげなければ。
あああああ
とにかく軽くてよかった。
 今までは学校の登下校が心配だったが、校内も安心できなくなってしまった。
 2006年02月15日 水曜日 水曜日
 ノエミの抗生物質が、あまり効いていないように思う。薬は一応今日で終わりなのに、全然良くなっているという気がしない。それでも一応、歌のお稽古には連れて行った。そのあとすぐに図書館での読み聞かせに連れて行った。歌を交えての朗読で、とても面白かったけれども、時間的に私とゾエは眠くなるときだったので、居眠りをしそうになってしまった。

 ゾエはこの頃毎朝3時か4時ごろに目を覚まして、私のベッドに入って来る。それで、動き回るので眠れないから、トイレに連れて行って、ゾエのベッドに連れて行って、しばらくいっしょに横になってあげている。寝静まったら自分のベッドに戻るが、うとうとした頃にまた起こしに来る。
 昼間、眠い。

 図書館で本を借りて、自宅に戻ると乗馬に行く時間だった。でも、今朝予想した通り、ノエミは一日中咳が止まらず、大量の鼻水を垂れているので、容赦なく「連れて行かない」と言い切った。可愛そうだったのだが、冬休みに入ったら祖父母の家に行くことになっているし、ここでしっかり治しておきたかったのだ。もう「抗生物質」はごめんだし。

 ノエミが乗馬に行かないとなったら、ちょっとはゆっくりできる。ゾエと私はちょっと昼寝をした。なんだか自分の昼寝のためにノエミを乗馬に連れて行かなかったような、気もした。行かなければ行かないで、ノエミは静かに本を読んでいる。

 早く冬休みが来ないかなあ。と思ったり思わなかったり。。。
やりたいことは山ほどあるが、子供を「片付ける」には祖父母に会って預けなければならない。子供といっしょにやりたいことも山のようにあるので、ずっと預けるのはさびしかったりもする。

 冬休みの計画はなかなか立たない。たぶん何もしない。
 2006年02月14日 フランス語がわかりますか?
 まき寿司とリンゴのクランブルを作って出掛けた。
夜は商工会議所のレッスンで、そのあとはまたしても「母親の会」に行かねばならない。

 レッスンのあと急いで「母親の会」に向かう。今日は市役所の代表者と教師陣も参加しての、全体会議だ。
私がいつものように遅れて行って腰掛けると、市役所代表に質問の嵐が吹き荒れているところだった。先日「母親だけの会」に出席して、今日の会議でどんな質問がぶつけられるのかはわかっていたし、この会議に市役所代表が来ていることはわかっていたのだが、思わず手を挙げて言ってしまいたくなった。

 「あなたは誰?何しに来てるんですか」と。

質問には、いちいちミミズのような声で応えている。
「応えている」というのはうそで、返事は何も応えになっておらず、「善処します」とか「反省します」とかそのような単語さえ知らぬと思われた。
言い訳と、口ごもりと「わかりません」「知りません」「さあて。。。」「私は係ではありません」「それはきいておりません」などなどのような返事しかないので、せっかくのバレンタインデーを棒にふって、コーンな会議に出て来てしまったことを、「母親の会」皆の者が大後悔しているような雰囲気だった。「記録して市長に伝えます」ぐらい言ったらいいのに。

 ああ、選挙権が欲しい、とまた思ってしまった。

 市役所代表を交えた会議は一応お開きとなり、続いて、小学校と幼稚園に別れて、それぞれの校舎でそれぞれの話し合いが持たれた。幼稚園は30年ぐらいペンキも塗り替えられていないし、窓の立て付けも悪い。建て増しで校舎は複雑な形になっていて、いざとなって廊下を走る場合には、きっといろんな所にぶつかるだろう。幼稚園は平屋で、一応どの教室からも外に向かって逃げることはできる。

 話し合いの中に、ガス漏れ、ガス爆発や、近所での大災害があった場合にどうするか。。。ということがあった。数年前にトゥールーズで危険な薬品を扱っている工場が大爆発をして、70キロも離れた我が家でも爆音を聞いたような事故があったが、それ以来学校でも『災害』のことが話し合われるようになった。南西フランスは地理的に台風も地震もない。それで『ガス漏れ』とか『化学薬品を積んだトラックが、近所で事故に遭った場合』などを想定して、救急用品を用意しているところだそうだ。

 「日本は自然災害がとても多いところなんですけど、学校には連絡網というのがあって、それは普段からとても役に立つんですよ」と提案してみた。フランスは個人主義なので電話番号はおろか、住所も、名前さえも公表されない場合が多い。クラスの集合写真を嫌う家庭もあるし、学校の写真撮影の時にはかならず許可を受ける。だから名簿も連絡網もないことは、私もわかっているので、言っても無駄だと思ったけれども、市役所代表の『なにも言いません』主義にけっこう腹が立っていたので、言わずにはおられなかったのだ。

 「名簿!それはいい考えだ」拍手喝采だった。
今ごろ「あの人、フランス語ちょっとは話せたんだねえ」と言われているだろう。
そのあとおしゃべりをしに来てくれた人に、こんどの「母親の会」の恒例食事会にご主人と二人でいらっしゃいよ、と誘われた。歌あり踊りありのにぎやかなパーティーだそうだ。
 「。。だったら、遠慮します」と返事した。まず子供を預けるところがないし、それに「夫はしゃべらないので」と言ったら、「ご主人フランス語が話せないの?」と言われた。
 JPがフランス語を話せるのかどうかは、このごろでは私にもわからない。
 2006年02月13日 日本、その姿と心
 日鉄技術情報センターというところが『日本、その姿と心』という本を出していて、この本にはCD-ROM版とビデオ版もある。
 昔この本と、ビデオシリーズの中で『日本の家庭生活』と『日本の現代社会』というのを持っていたが、引っ越しの都合で今手許にない。

 今日商工会議所に行ったら、日本語の生徒も増えて来たことだし、もう少し面白そうな教材を買ってあげようかと言われた。うれしいなあ。「買ってもらえる教材」を探さなければならなくなった。欲しいものは山のようにある。

 日鉄技術情報センターに問い合わせたら、DVDはないそうで残念。CD-ROMは商工会議所のパソコンで対応できるのか不安だ。
 それにしても「今どき」ビデオなんかかって大丈夫だろうか。家庭でもDVDの時代なのに、数年後にビデオデッキが壊れて、修理も買い換えもできなくなったらどうしよう。悩むなあ。

 参考までにこのビデオシリーズの一覧。
1 伝統演芸に見る日本の心と美--歌舞伎、能、文楽
 (外務大臣賞受賞作)
2 日本のビジネスマン--集団の中での「ガンバリ」の心
3 日本の家庭生活--大都会のサラリーマン世帯 
4 日本の味--その伝統ともてなしの心 
5 日本の技術--そのルーツと今日
6 日本の現代社会--東京の暮らし、地方の暮らし
7 日本の習慣とマナー--日本社会を織りなす心 
8 日本人と自然--暮らしの中の自然観 
9 日本の企業経営--起業家たちの根底に流れるもの 
10 日本の教育--子供たちとその夢 
11 働く女性たち--生きがいを求めて 
12 年中行事と冠婚葬祭--日本人の信仰心

昔持っていた 3の『日本の家庭生活』のまとめ
( )内は私のコメント 
豊富な統計データを基に、大都会の平均的なサラリーマン世帯の日常生活をありのままに紹介。
 家族の対話(がない)、子女教育(がおそろしい)、夫婦の役割分担(があるのは若いカップルだけ、中年妻はまるで女中)、昼間の主婦の行動実態(若奥様はアエロビクス、中年妻はやることなくってメロドラマの前でお茶飲んでる)、住宅問題(狭い、高い)、若い女性の結婚観等の本質にリアルに迫り(いやあ、ほんとリアル)、モノは豊かになっても心のゆとりを持ちにくい日本人の喜怒哀楽が浮き彫りにされます。(中年妻の哀愁にご注目『怒』と『哀』のみ。若いカップルがトーストに玉子とハムの朝食はいいのだが、ハムをお箸で食べている辺りが泣かせる。ご主人が奥さんに給料袋をそっくり渡して、その中から奥さんが小遣いをあげるシーン。みんなが「ええー?」と言ったものだ。)

 昔持っていて好きだった3と6が欲しい。そして今の学生たちに喜ばれそうなのは1と4と8かなと考えている。ビデオばかり買うと予算オーバーになり、「カタカナ・カルタ」や「日本語学習すごろく」や『日本語能力検定試験問題集』の注文ができなくなってしまうので、もうちょっと考えてみる。。。「欲しい物を買ってやる」と言われたのは超ヒサビサなので、かなり緊張している。
 2006年02月12日 日曜日 14ひきのさむいふゆ
 ポリーヌさんが高校卒業試験の点数稼ぎのため、日本語の試験を受けると言っている。
高校卒業試験は「バカロレア」という名前で、フランスではBACと省略形で呼ばれている。

 幼稚園はおむつが取れていて、母親が仕事をしているとか、兄弟がいるなどの理由があり、もちろん空きがあったら、二歳半から入れる。小学校は五年制、中学は四年制。飛び級も落第もあるので、日本みたいに「X歳です」と言ったら「ああ、じゃあX年生だね」とは言えない。中学卒業試験もあるし、校風に合わない子供はさっさとやめさせられる。入った高校を出るのは卒業試験で点数が取れてから。みんな怖がっている。

 中学と高校で、ドイツ語やスペイン語などの「外国語」の授業に「中国語」や「日本語」を取り入れている公立の学校も増えて来た。ポリーヌさんは私と3年(といっても1年に30-40時間)勉強したことになっているが、中学と高校で日本語を290時間ぐらい勉強した生徒たちと同じような試験を受けなければならない。だいたい253字の漢字も知っていることになっているが、ポリーヌさんの場合は筆記試験がないので、テキストの中の漢字を読めれば認めてもらえるらしい。確かに漢字は読むのより書くほうが難しいと思うので、筆記試験がなくてよかった。

 面白そうなテキストを練習して、ちゃんと読んで、テキストについて解説をしたり、意見を言ったり、テキストに関係ある問題や関係ない問題や、試験官のいろんな質問に答えなければならない。

 本人は英語はもう完璧にできるし、スペイン語かなにかもやっている。「バスク語」と「日本語」の試験はほとんど「趣味」で受けるので、けっこう落ちついている。(ように見える)

 私はポリーヌさんの試験のことをかなり心配している。数年前に2点取れるかな?と思って送り出した別な生徒が、12点も取って私は神様と呼ばれたぐらいなので、ポリーヌさんだったら大丈夫だろうと思っているが、試験会場の様子が想像できないので、個人的にとっても不安だ。

 今はありとあらゆる本の中から、面白そうな文章を800字から1000字以内で区切って、読む練習をさせている。読ませる練習問題を探したり、切り貼りしたり、書き直すために、私自身たくさんの文章を読んでいるところだ。

 「何字以内の文章」とか「漢字リスト内で読めるもの」とか、「ポリーヌさんが興味のある分野で、あとで上手にコメントのできる内容」と目標を持ってさがす。今まで開いたことのなかった本を本棚から引っぱりだしている。いつもはタイトルを読んでビビッと来るものを手に取って読むのだが、人に読んで面白がらせるのは、けっこう難しい。しかも語彙数がまだまだ少ない生徒なので、練習の際にこちらがちゃんとフランス語で説明してあげられるかどうか考えたら、小学生の低学年向きでよさそうかな。。。と思ったりしてしまう。

 いわむらかずおさんの『14ひきのさむいふゆ』は800字ぐらいでとても短い絵本なのだが、季節の言葉や、日本の田舎の家族の暮らしが見える、とてもゆかいな絵本だと思って気に入った。
 絵を見ながら平仮名で練習して、ちゃんと気持ちよく読めるようになったら、紙に漢字入りの『文章』として打ってあげた原稿を練習し直して、会場に持たせようと思っている。会場には全部で合計4000字ぐらいになるテキストを用意して持参することになっていて、私は800字ぐらいの文章を五つか六つ持たせようと考えている。

 絵本や、小学校低学年の本、民話を読みながら、大人は子供の本をもっと読んだ方がいいなあ、と思った。季節や自然の色や物音を感じると言うこと。小さな生き物の目の高さになること、地面を這い回って汚れることや、チョウチョが鼻の頭に止まってくれるような『静』が、必要なのではないかなあ、と思った。恐ろしい試験準備の合間に、子供の本に再会できてよかった。
 2006年02月11日 抗生物質
 ノエミの咳が止まらないので、マスリ先生のところに連れて行くことにした。
「しっかり治してしまいましょう」と言われて、抗生物質の処方箋をいただいた。

 「抗生物質」ときくと、何かとんでもなくひどい病気のような気がして、どっと疲れる。化学の教科書にでも出てきそうな、2つの単語を組み合わせて4つにして、難しい単語にしてしまう、あのテクだ。そして、それを読む人間を脅かしてしまう。教科書に出ていた時分も、このような恐ろしい四字熟語や合成語にはアレルギー反応を起こしたものだが、娘に出された薬が「抗生物質」だと、まるで娘が教科書の中の「生体実験」にあった「遺伝子組換」と言われたような気がして恐ろしくなって来る。あ、これは5文字だ。オソロシや。

 冬が来る前にもっと予防に励んでおけばよかった。「予防接種」これも恐ろしい4字熟語だなあ。。。。ゾエはついて行っただけなのに、マスリ先生にボンボンを貰っていた。2個。ノエミが欲しそうにしているのにあげない。先生が「お姉ちゃんにもあげなさい」と言ってボンボンの入っている容器の蓋を取ったので、ノエミがボンボンに飛びついていた。「合成着色」のこれまた恐ろしいボンボンだ。「2コもらってもいいですか」などと遠慮知らずなことを言っている。

 「言いたいことははっきり言いなさい」といつも教えているものだから、言いたいことははっきり言う子供で。。。たまにちょっと恥ずかしい。

 診療所を出てから、子どもたちは家でじっとしていた。私も、なんだか頭が痛いので、じっとして過ごした。図書館にも行かなかった。明日は、延期になっていたマラソン大会だというので休ませることにした。寒い中応援に行くのもちょっと、ナニだったので。。。ノエミがちょうど風邪を引いてくれて助かった!?

 素晴らしい青空が広がっていたので、マラソン大会も気持ちよかっただろう。
 2006年02月10日 パリ伝統美展
 トゥーロンに住んでいる日本人の友達から「南日本新聞見た?」とメールが来た。いやあー「朝日コム」はたまーに読んでますけど、「南日本新聞」まで、インターネットで読めるとは、考えてもいなかった。この時代新聞もインターネットで読んでしまえる。カラフルだし、音が出て映像が動いたりもするので、とっても便利だ。今や「新聞配達の少年」なんて、存在しなくなってしまったのだろうか?

 「誰でもテレビを持ってる時代」だが、私は東京で一人暮らしをしていた時に、始めの頃テレビがなかった。だから、ラジオの周波数を合わせて、テレビの番組を「聴いていた」。
 一度夕方遅くに「NHKの集金の人」が来て、インターフォンで「受信料を払ってください」と言われたので、「テレビがないんですけど」と言ったら、インターフォンのバックでテレビのクイズ番組が派手に聞こえていたので、集金の人にひどく叱られてしまった。

 「新聞配達の少年」と「受信料の集金の人」はとっても日本らしい、そして、懐かしい存在なので、なくなって欲しくないなあ、と思いながら「南日本新聞」を読みに行ってみた。

 「パリで薩摩焼の展示会が開かれる」と書いてあった。それで、「何かお手伝いはできませんか?」と鹿児島県陶業協同組合にメールを書いてみた。そうしたらすぐに返事が来て、係は県庁の観光課で「金曜日に会議がありますよ」と教えていただいたのだが、そのメールを受け取ってから時計を見たら「会議は終わりましたよ」の時間になっていた。フランスよりも日本のほうが8時間時間が進んでいる。

 「薩摩焼フランス伝統美展」フランスでも薩摩焼がうけるだろうか。通訳に雇ってもらえないだろうか。フランス語と鹿児島弁の通訳ってけっこう珍しいと思う。
 2006年02月09日 剣道談義
 トゥールーズの剣道クラブ『ムサシ』からメールが届いた。4月に『上段』をテーマに講習会が開かれるとのこと。

 フランス剣道連盟には、日本剣道連盟から毎年七段以上の先生が派遣されてくる。半年以上フランスに滞在して、全国各地の剣道クラブで講習を開き、またパリではナショナルチームを集めての特訓もある。フランスからは毎年たくさんの選手が日本の大学や、一般の道場で稽古を積んで戻って来るし、京都では毎年夏に外国人を集めての盛大な研修と、高段者も受けられる昇段試験が行われる。

 4月にトゥールーズで『上段』の講習をするのは、日本剣道連盟からの派遣ではなく、クラブの招待でいらっしゃるのだと思う。日本に住んでいるフランス人のラヴィーニュ先生という方だ。日本語もペラペラだ。剣道着で道場に立っていると日本人かと思うぐらい、剣道着がとってもよく似合う先生だ。今ここで『先生』というが、別に剣道で生計を立てているのではなくて、ほかにお仕事を持っていらっしゃる。『七段教士』ときくと、「え?そんなに若いのに?」と思うぐらいまだ若い。

 実は日本で剣道をやっていた時に、上段で試合に臨んだ人間を見たことがない。高校生では上段も突きもやらない人が多かったから、試合会場でもそういう人を見たことがなかったのだと思う。
だいたい日本で、この若さで(38歳)上段なんかやったら「冗談はやめてしっかり中段に構える練習を積みなさいよ」と叱られる。

 日本では剣道対なぎなたの試合も、鎖がまと真剣の試合も、新影流の演武も、上段同士の試合も、「狐のかまえ」なるものも、二刀流の試合も見たことがなかった。全部、フランスに来て初めて見た。(特別な剣道のフェスティバルでのこと。普段はこんなのやらない)

 こんどその「上段」の講習に行って、フランス人の先生から「上段」を真っ向から倒す技、というのを習ってくるつもりだ。そのためには、ちゃんと普段から道場に通って、稽古しなけりゃあなあ。。。と思っているが、もうずっと行っていない。

  、、、と思っていたら、アルビのクラブから「冬休みも道場は開いてます」という知らせが来た。いつも指導している道霊先生は留守なので、稽古がいっぱいできて、汗までかいてしまうかもしれない。先生はとってもよくしゃべるので、聞いてるほうは寒い

 そういえば、剣道に行って汗をかかないどころか、暖房のある道場でブルブル震えた。。。という経験は日本ではなかった。フランス人の先生は、解説を求める生徒のせいでとにかくよくしゃべる。説明がこと細かい。
 日本ではお稽古ごとは何でも「「しゃべってる間に汗を流せ」であった。理屈も理由もわからず、ただひたすらに汗をかかされた。そうして、フランス人に「どうして」と言われてもわからない有段者になってしまった。ちょっと情けない。
 フランス人といっしょにいちから習い直している。
 2006年02月8日 サルも木から落ちるっていうし。。。
 ノエミが「片足でどのくらい立っていられるか」に挑戦しているらしい。だから、片足でぴょこぴょこ跳ね回っていて、うるさい。1階は全部タイル張りだが、2階は風呂場以外の全部の部屋と階段が板張りなので、どしんどしんとうるさい。

 最初は、また看護婦さんごっこをやっていて、脚が痛いフリをしていると信じていたので、1階の台所から「うるさいからやめて」と叫び続けていたら、記録を計っているのだというが、「だったらいいよ」の理由でもない。

 どうしてこんなに物音を立てるのが好きなんだろうか。

 5時半になり、やあっと乗馬の時間が来た。寒いので、ここしばらくはJPに送り迎えをさせている。ゾエも寝てるし静かになった。

 7時半に帰って来た娘は、脚を引きづっている。腰の辺りを抑えている。
「ポニーから落ちた」と言った。
あー嫌だなあ。
馬から落ちてお尻や腰を痛めた大人をたくさん知っているので、ノエミにもやめて欲しくなった。
そんなこといちいち言っていたら、何もできないんだけど。
 
 ずいぶん恐い思いをしたかなあ、と思っていたが、本人は痛いの以外は別に恐くはなかったらしい。クリスマスにちゃんとしたヘルメットを買ってあげたのでよかったが、最近では防弾チョッキみたいな詰め物の入ったベストも売られていると言うし、それも揃えた方がいいのだろうか?

 「なんで落ちたの」と訊くと、障害物をやったり、すごく速く走ったりするからだという。ほお、たった20回以下の練習で、そんなことまでできるのか。(できないから落ちた?)
私が寒い寒いと言って家に居る間に、そんなことをやってるとは頼もしい。

 でも、鼻水垂れてるのでいやだ。冬ぐらい休んでくれたらいいのになあ。

 今週、いよいよ風邪と落馬で医者行きだなあ。
先週は矯正歯科医に連れて行き、神経質そうな先生から「こりゃあ、やりがいがありますな」と言われた。きっと矯正器具に苦労するだろう。ノエミの場合は、矯正器具なんか着けずに全部抜いていちから植え直した方がみんなの平和だと思う。
 2006年02月7日 反省会
 心配していた、例の「恋人同士」がレッスンに来る日。
「教室でいちゃいちゃする生徒を見るのに慣れていないし、日本語のレッスンでは考えられない状況なので、やめて欲しい」と言ったら、女の子の方は、素直に「わかりました。気をつけます」とは言ってくれていた。あとは男の子の様子が気になっていた。

 今週は、その子が早く来ていつもの席に座り、彼が来る前にクラスメートの一人に「彼のいつもの席に座ってちょうだい」とお願いしていた。だから、彼が教室に入って来た時に、彼との間に別なクラスメートが入っていて、最初はやいのやいのとやっていたが、悪くない雰囲気だった。

 「アンタのせいでしゃべっちゃうから」とか「えー隣に座りたいのにー」とか喧嘩みたいにやっているし、クラスメートもはやし立てているが、でも彼の方も怒っている様子はなく、ほかの子たちも「毎週席替えしよう」とおもしろがっていた。

 「席替え」はなかなかよい案だったのだ。早くやればよかった。でも、私が怒ってやらせたのではなかったので、雰囲気も悪くならなかったのだと思う。とにかくよかった。

 レッスンが8時半に終わってから、私はそのまま「母親の会」の「ロト反省会」に直行した。
「新年ロト」の収益金は3000ユーロを軽く越えており、幼稚園と小学校に振り分けてプレゼントすることになっている。幼稚園の方は新学期から、「やりたいこと」がすでに発表されているので、お金もすぐに渡されるが、小学校の方は「用途」がはっきりしないのでまだ渡されない。

 「母親の会」がそんな決定権まで持っているとは驚いた。「教師陣がちゃんと買いたいものリストを提出するまではお金はやらない」と言っている。えらい!!

 そして、年度末に行われる学校のお祭りについて論点が移ったが、12時まで白熱した会議となった。小学校と幼稚園部門でそれぞれ5つずつのスタンドが立ち、ゲームをさせたり、バザーや持ち寄りの食事会もあるらしい。ゲームコーナーにはゾエが大好きな「アヒル釣り」ゲームもあるので、楽しみ。釣ってプレゼントをもらうというもの。

 何か代わり映えのあるものがしたいねえ、と言っていたので、「折り紙やろうか?」と申し出てしまった。折り紙はけっこう得意よ。日本語教師は折り紙ができなければいけないのだ。
 ツルとかカブトじゃなくって、「ダビデの星」も「3Dのカタツムリ」もできる。サンタクロースとトナカイだってできる。教室では、たいていみんな「不器用」なので、カブトや金魚やコップや船を折らせるが、やり始めると絶対に「もっとやってコール」が出るので、いろんなものを作って見せる。子どもたちにも折らせないといけないので、もっと馴染みのある動植物なども稽古して行くつもり。お習字や、福笑いや「あやとり」をやってもいいなあ。。。と思っている。

 日本人って、フツーの人でもけっこう芸があるんだねえ。着物着て来てって言われているが、着物の着方がわからない。剣道の稽古着を着て、居合い刀をさして行くか。ついでにデモンストレーションをやって。そこまで目立ってどうするヨ。

 「母親の会」は12時半にお開きとなった。みんな元気だなあ。。。
 2006年02月6日 温かくなりました
 雪の写真ができたので、あちこちの友達に「寒中見舞い」を送った。
そうしたら、指宿市の開聞に住んでいる友達から、菜の花咲き乱れる故郷の写真が送られて来た。涙が出るほど嬉しかったので、寒中見舞いにその写真を添えて、たくさんの人に送った。

 みんなに「心が温かくなったわあ」と言われた。キョーコちゃんありがとう。

 1月の最後の週末に降った雪は、まだ溶けない。
除雪車が来て道路脇に集めた雪が、がちがちに固まってしまった。
 2月になり駐車の位置も変わったので、先月車が止まっていなかった方の除雪を先月中に行なって、1日になり駐車位置が変わったら、残り片側がやっと除雪された道路も多かった。

 それでも、至る所に雪の塊が残っている。直径一メートルぐらいの岩が、ごろごろ転がっている状態なので、とても危ない。
 じわじわ溶けて水がしみ出たところが、今度は凍ってアイススケート場になっている。

 たくさん降っていた時点ではわからなかったけれども、この頃では、雪の重みでつぶれたビニールハウスや、折れた木の枝、倒れた垣根の様子が目に見えるようになって来た。車の脇に固まった雪の玉を片付けようと思って持ち上げようとしたら、とても重くてむりだった。
 
 ああ、だから、無理して屋根に上った人たちが居たのか。それでスーパーの屋根などがつぶれてしまったのか。。。ということがはっきり理解できて、いまさらながら恐くなった。

 雪が降って以来はじめて日本語レッスンに出掛けたが、アルビまでの道のりが、素晴らしい雪景色だったので感動してしまった。そして、雪が降った日や、その2、3日後にどうしても仕事に行かなければならなかった人たちの苦労と、慣れない除雪をした市の職員たちのことを思った。

 学校のアスファルトを塗られた校庭の真ん中に、どーんと大きい雪だるまが今やガチガチに凍って立ちすくんでいる。じわじわ溶けているのでその辺りはよく滑るため、立ち入り禁止にはなっているが、子どもたちがどうしても残していたいと言うので、「記念に」残されたままになっているようだ。

 こんな大きな雪だるまを作ったのは、とっても珍しいことだったのだ。

まだまだ寒いけれども、朝晩の日がずいぶん長くなった。
春に近づいているようだ。
 2006年02月5日 行事
 日本式の節分もすっかり忘れていたが、この週末はフランスではクレープを食べることになっていたのに、クレープを作らなかった。
 
 いまさらながら辞書で調べたら、2月2日は《聖母清めの祝日》なのだ。そして《主の奉献の祝日のクレープ》を食べる日だそうだ。
 なーんだ、もう三日も過ぎてたのか。。。どうりで一ヶ月ぐらい前から、町でよく小麦粉セールや、フライパン・セールをやっていると思った。。。

 フランス人は家にみんな特製のクレープ機を持っている。電気式であったり、火にかける特製のフライパンみたいなクレープ・パンだったりする。
うちにもちゃんと特製のクレープ・パンがある。でも作るのは下手。

 フランス人はそば粉で作ったクレープで、シーフードや肉や野菜を巻き、ソースを掛けて食べる人もいる。これはメインの食事にもなる。
 私はクレープでハムとかホウレンソウを巻いて、グラタンにするのが好き。

 子どもたちは薄力粉と玉子と牛乳で作った甘いクレープが好きで、ココアの粉や、粉砂糖を直接ふりかけて、細く巻いて、手でつかんで食べるのが好き。これはおやつ。

 一度《クレープ専門レストラン》に行ったことがある。剣道のクラブに日本から先生方が指導にいらした時のことだった。「クレープ屋に連れて行く」というので、日本人の年寄りにうけるかなあと思ったが、せっかくフランスに来ているんだから、フランスでの普通の家庭生活もみてもらいたいというのが、みんなの意見だった。前菜も、メインも、デザートも全部クレープ仕立てで、甘いか辛いかの差だけだったので、先生たちが胸焼けになりそうな顔をしていた。

 先生たちにとっては居心地の悪いレストランだったようだ。おしゃべりができない先生方が、食事の出て来る合間にタバコを出し始めたので、ぎょっとした。

 その剣道クラブの食事会では、クラブ員が20名ぐらいいて、それぞれの同伴者(妻や夫や子供)もいっしょだったので30名以上のフランス人がいたが、誰もタバコを吸う人がいなかった。もともと剣道やっている人でタバコを吸う人は少ないと思う。それまでクラブの集まりで、タバコの匂いなどを感じたことは1度もなかった。

 先生方が一斉にタバコを出して、灰皿を探してきょろきょろしていた時に、私の横にいた部員の奥さんが「食事中のレストランでは、タバコを吸わないでくださいと、通訳しなさい」と言った。
 私は、どんなふうに言ったらいいのか、先生たちに外で吸ってくださいと言ってもいいのか、ちょっと迷ってしまった。剣道をやっているみんなも「みのり困っているな」というのがわかっていたが、剣道をやっていない人には、いくら偉い先生でもただのおっさんなので、私の気持ちはわからなかった。

 私は勇気を出して「レストランではタバコを吸ってはいけないことになっているんですけど」とぼそぼそ言ってみた。そうしている間に、レストランの人が灰皿を持って来ていて、日を点ける寸前だったので、先生の一人に「灰皿もちゃんとあるじゃないの」と怒ったように言われた。

 私が困っていると、部員の奥さんが「灰皿はタバコを消すためにあるんですよ」と言った。
なるほど。そのせいだけではないだろうが、その時の先生方は、二度とこのクラブには来てくださらなかったけれども、まあ、ちょうどよかった。

 どんなレベルでも、習慣の違いを学ぶ姿勢が大切だ。

 
 2006年02月04日 赤ずきんちゃん
 私の住んでいる町はCarmauxといって、日本式でカタカナにすると「カルモー」になってしまうのですが、どうも馴染めないので、これからは「カーモー」にさせていただきます
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 先週の週末、カーモーの唯一の映画館《リド》で、ジブリ映画の『ポンポコ』が上映されていたので、観に行きたかったのだが、大雪だったのでお預けとなった。
一週間前に降った雪は、いまだに積もっている。(《のぞみの関心事》に雪の写真公開)

 映画館に行ってみたら、今週は『赤ずきんちゃん』をやっていた。コンピュータグラフィックの、今風な赤ずきんちゃんだ。赤ずきんちゃんは空手が得意で、おばあちゃんはスケートボードやマウンテンバイクがプロ級の腕前。オオカミが赤ずきんちゃんを食べる前に、警察が来てしまって取り調べが行なわれる。。。そのオオカミと言ったら、タクシーで先回りをし、スパイセットで赤ずきんちゃんの会話をキャッチする。

 面白かったけど、途中で寝てしまったのでこれ以上語れない。すみません。

 ノエミが「私は赤ずきんちゃんなんか見たくない」と言ってだだをこね、むりやり連れて行ったのに、自分は寝てしまった。でも、ノエミは「面白かった」と言っていたのでよしとしよう。

 ヴァイオリンの先生が、来週コンサートに誘ってくださった。フルートといっしょに先生自身も演奏される。私はこれでも、若い頃に器楽部でフルートをやっていたことがあるので、大変興味があり、ぜひ行きたい。フルートは小学校の頃からやっていて、 高校の文化祭でソロ演奏したことだってある。でも、あの頃のフルートは日本から海外に送ってもらった時に、なくなってしまったのでとても残念だ。

 ノエミはちょっと「練習」や「繰り返し」や「少々は辛くても、自分で決めたことなんだからやらなきゃ」や「上手になるためにはお稽古すべし」などということがわかって来た。そして、人の言っていることや、人の出す音に耳を傾けようとする姿勢も、すこしできて来たような気がする。ヴァイオリンもけっこう上手になってきた。今週は40小節もあるワルツを一人で練習して来るように言われた。私はどんどん差をつけられている。おまけに台所で左指を切ってしまったので、今週はちっとも練習ができない。

 コンサートに行って、自分の先生の演奏を聴けたら、どんなによい勉強になるだろうと思っているが、コンサートのある今度の水曜日はコーラスも乗馬もあるので大忙しだ。

 夏休みの乗馬キャンプカタログの中から、ノエミは自分で「3週間」のコースを選んだ。夏休みまでまだ5ヶ月近くもあるが、そろそろ申し込みをしなければならない。去年は2週間のコースだった。その前の年までは、毎年祖父母の家に行き、午前中はテレビ、午後はちょっとだけプールで遊んで、昼寝とゲーム三昧だった。

 子供がどんどん大きくなる。赤ずきんちゃんのように、学校帰りに悪い人に連れて行かれないように、といつも心配しているが、本人は一人で勝手に帰ってくる。今は自転車を買ってくれと言われていて、学校でも自転車の授業があるので買ってやらなければならないのだが、自転車なんかで一人で勝手に遠くに行くようになったら、本当に心配だなあ。

 自分は毎日3キロ以上の田舎道を徒歩で中学へ、高校はもっと遠くに自転車で通っていたし、短大の時にはスクーターで、山のてっぺんのホテルにバイトにも行っていた。やりたい放題やっていたのだが、親はこーんなに心配していたんだろうか?
 2006年02月03日 私にはこの道しかなさそう。
 ユーロのロトくじというのがあるらしい。朝からラジオではこのニュースばかり。
当選者がない場合には、金額が次回に繰越しとなるシステムを、日本では「キャリーオーバー」と呼んでいるらしいのだが、そのシステムのおかげで、ユーロのロトくじは 11週間も当選者がいないために、今週の金曜日には、たまりにたまった繰越金額が、なんと1億4千6百万ユーロにも上るそうだ。世界広しといえども、そんなお金見たことのない人間の方が多いだろう。

 ラジオで盛んに「146ミリオン」と言っていた。よく売れる本のことを「ミリオンセラー」とか、「大金持ち」のことを「ミリオネー(ル)」と呼ぶのは知っているが、「ミリオン」って数字にしたらいくらなんだろう。。。と思って辞書を引いたら「ミリオン」は「百万」と出ていた。ほおおお。

 1億4千6百万ユーロは、数人に分配されるらしい。多すぎるからだろうか?仕組みがイマイチよくわからない。10人か、100人で分けてもけっこうな金額だ。

 ラジオで、「こんなすごいクジはよく、生まれてはじめて挑戦した人が当るんですよねえ」などと言っていたので、買ってみようかしらんと思った。

 以前ロトクジとはちょっと違うが、カードをこすって星の数がいくつでいくらもらえるという、簡単なカードを買ったことがある。《ミリオネー(ル)百万長者?》という名前のカードだった。
 友達の誕生日に買ったプレゼントがあまりにも貧弱で、「こんなプレゼント、渡すのは気がひけるなあ」と思っていた時に、絵はがきを買うために入った知らない町のタバコ屋で、そのカードのクジを売っていて、試しにカードを1枚か2枚買った。買ったけど、どうやってゲームに参加するのかもわからず、店の人に訊いたぐらいだ。

 それで、その貧弱なプレゼントにクジのカードをつけて渡した。「あーら、アンタまたこんなものに無駄遣いしたわね」なんて言われながら「お茶目でしょ」とごまかしつつ《ちょっとしたプレゼント》を渡した。

 なかなか、お茶目な案であった。

 実はそのクジ券は大当たりで、相手が目に涙を浮かべるほど喜ばしい金額だった。そして、私が悔し泣きするほどの金額だった。いくらだったのかは忘れた。彼が億万長者になったという噂は聞いていないので、人にポンとあげるにはまあまあな額でも、贅沢三昧のバカンスを過ごせるような金額ではなかったのだ。

 今朝、朝市で「ハンディーキャップ子供の会にご協力を」と言われ、ヨーロッパとフランスの国旗が付録についているボンボンを、10ユーロ札で買った。おつりが2ユーロ硬貨1個だったのでびっくりした。こーんなボンボン8ユーロもしない。コカコーラだって1.5ユーロだ。それに、あとで買ったボンボンを見たら、《ハンディーキャップ子供の会》のために、確かにそのお金が使われるという証明は、どこにも見当たらなかった。またやられた。。。
 いいことをしようと思って出したお金だから、「返してちょうだい」という勇気もなく、ボンボンを握って我が家へ向かった。ヨーロッパの旗ももらえたし。。。ううう

 手には2ユーロ。近所のお店でロトくじでも買うかと思って入ったら、1億4千6百万ユーロのかかっているロトくじは売っておらず、私がいつか当たりを出して、友人に抱きしめられた《百万長者》のカードが売られていた。よし、この2ユーロでクジを買ってみよう。

 じゃじゃーん。インチキ募金のあまり2ユーロで買った百万長者のカードくじで、当ったのは2ユーロだった。

「まっとうに生きよ。おつりは要らねえ。持ってけドロボー」などなどという言葉が頭の中を駆け巡り、私はもう寄り道をせずに静かに帰宅した。私には真直ぐカエルの道しかなかった。

 2ユーロはカエルの貯金箱に貯金した。カエルの貯金箱はお坊さまの横に置いてある。お坊さまにごめんなさいと言いながら、手を合わせ、ちゃりんとお金が落ちたその瞬間に、ほっとした。
1億ユーロも当って、テレビの取材陣が我が家の玄関先に集まったら、困るしねえ。
 2006年02月02日 言論の自由
 イスラム教の予言者ムハンマドを風刺したマンガが新聞に掲載されて、イスラム教徒の怒りをかっている。キリスト教の司教たちも「イスラム教信者の痛みがわかる」と行き過ぎの「自由」に批判の声。
 けれどもフランスの内務大臣サルコジ氏は「行き過ぎた検閲より、行き過ぎた風刺の方が望ましい」と言ったらしい。これ以上煽るのもどうかねえ。

 ヨーロッパ各地で建物や国旗が燃え始めた。

 「風刺」に関しては、日本よりもずっと盛んで、政治家をマリオネットにして笑うニュースもあるし、ラジオで政治家の悪口を言っても、首になったり左遷になったりすることもない。
 
 でも、報道がいくら自由だからと言っても「行き過ぎ」はよくないと思う。

 実は数日前から11歳の少女の誘拐が盛んに報道された。幸い子供は生きていて、容疑者も逮捕された。容疑者には逃げ道はない。少女の勇敢な証言とDNA鑑定その他の動かしがたい証拠で追い込まれたのだから。ほかにも犯罪を起こしていないか、取調中。少女が通っていた小学校のクラスメートたちが「私もされた」と手を挙げるのではないか。私は内心ヒヤヒヤしている。

 うちにはテレビもないのに、誘拐された少女や犯人の特徴、それぞれの本名と双方の家族構成、犯人が子供をどんな手口で誘拐し、どんなふうに犯し、どんなひどい言葉で脅迫をしてから、どこに置き去りにたのか。私たち視聴者は実に細かいことまで知らされている。ラジオを聴いているだけで、現場の様子や、犯人像までがありありと想像できてしまう。報道陣というのは「表現力」を売りにするだけあって、信じたくないことまで、耳から離れなくなってしまう。
 毎日報道されている少女の名前が、偽名ではないことも、木曜日から通常通り学校に通学していることまで知っている。

 家族の痛みと本人の勇気を思わずにはいられない。そして、犯人の妻と子供は一体どうなるのだろうか。

 言論の自由のおかげで、こんな個人的な日記まで公開してしまっているが、もうちょっとましなことを書こうと反省している。

「読まない」「影響を受けない」という自由もあるので、情報を受ける側にも期待したいところ。
日記を読んでの意見をお寄せくださいますように。
例えば2003年の猛暑の死者数、間違っていたので書き直しておきました。ご確認を。
 
 2006年02月01日 奴隷を思い出す日
 1月30日、ジャック・シラク大統領が「5月10日を奴隷制度と解放について顧みる日」とする発表を行なった。(正式な日本語訳は不明。勝手に私がこう訳しました)何日にするかの候補は沢山あったらしいのだが、2001年のトービラ法によって「奴隷制度は人権を尊重しない悪い制度であり、一人の人間を奴隷のように扱った場合は法的に厳しく罰せられる」とフランスでもはっきり文書で書き表された日、なのだそうだ。

 フランスは1677年に、セネガルのゴレ島という奴隷を集めて船に積み込む島を、イギリス・オランダに続いて占領し、最盛期の1786年には2083人もの人をアフリカ全土から集め、アメリカに送っていた歴史がある。奴隷制度は1815年に中止になっているので、2001年になってなぜ今さら「奴隷が人権損害である」と文書に記される必要があったのか。

 身近なところでは、近年でも大都市を中心に、移民などを家政婦や庭師などと称して自宅に招き、300年前の奴隷のようにこき使っている人々が、今でも存在していることが、次々に報道されたという背景もあるかもしれない。奴隷の存在は完全になくなってはいないのだ。それは一人の人間を奴隷と考える人間が、現代でも存在するということだ。

 また、移民問題が深刻化しているが、その移民たちの多くは、かつての植民地であった国々や、フランスの海外領土として今も残る本土からははるか遠くの島々から、フランス本国に移民して来た人たちだ。
 過去にフランスがして来たことをどう受け取るか。植民地から来た移民と、その子孫たちの人権を守らないばかりか、差別をするということがあっていいのか。もっと反省して欲しい、考えて欲しい。そんな願いを込めてたくさんの人たちがこのような「日」を設けることを願い続け、そして実現した。

 私が「奴隷」「移民」という言葉に敏感になったのは『サトウキビ畑のカニア』を翻訳した時からだ。この本はグアドループという、カリブ海にあるフランス領の小さな島で暮らす、フランス国籍の男性が書いた子供のための本だ。子供の友情のほかに、土地に根ざした様々な形の差別や、人種の問題が取り上げられている。
 グアドループという島は、砂糖やラム酒を作るサトウキビと、バナナ・パイナップルの生産が盛んだ。奴隷制度が終わってからも、低賃金労働者と名前が変わっただけの、奴隷と変わらない生活を強いられた、インドや中国やアフリカからの移民が多く、その子どもたちが生まれ育った島だ。

 その島の出身者であるマリーズ・コンデ(『生命の樹』の原作者)も、この5月10日という日付を決める委員会に加わっている。
日付は決まった。じゃあ、何かあるだろうか。
 一年に一回、奴隷の歴史や侵略の歴史を思い出す日。学ぶ日。虐待や虐殺の反省をする日。子孫の今を振り返る日、というのができたのは、ある面では好ましいと、私は思っている。

 でも、委員会に加わっている知識人、歴史学者などの討論を聞いていると『政治的な面』だけでこの日が設けられたと考えられなくもない。フランスのように植民地を持った歴史のある国では「発見して開拓した」のか「侵略され虐殺された」のか『したもの』と『されたもの』の間で討論が尽きない。
 政治的に表面上「私たちだってね。反省はしてるんですよ。昔のことは忘れましょーや」というためだけに『顧みる日』を設けたのだったら、あまり意味はないし、国民には定着しないだろうという、歴史家や子孫たちの懸念はわからなくもない。また、子孫たちは「昔はこうだったから自分たちはかわいそうな子孫だ」と訴えたいのではなく、「昔はこうだったが今はこんなに人間らしく生き、未来に向かって努力しているのだ」と見てもらいたいというようなことを言っていた。

 政治家の発表ではないので祝日でもないが、数年前から「おばあちゃんの日」や「婦人の日」などが盛んになった。その日にちなんでおばあちゃんへの贈り物キャンペーンや、婦人をいたわる催しなどがあり、デパートや花屋ではクリスマスやバレンタインデー並の「稼ぎ時」のようだ。

 「奴隷の日」では、商売にはならないだろう。

 日本では「侵略した国に謝る日」はそろそろ設定されたんだろうか?「侵略したところ1」「侵略したところ2」たくさんの侵略記念日ができるだろう。
 アメリカには「虐殺した原住民を想う日」も「奴隷制度を反省する日」もないが「キング牧師の日」というのがある。奴隷解放に命をかけた人だ。

 フランス語の関連記事はこちらhttp://www.afrik.com/article9394.html
アフリカの人々が奴隷としてアメリカ大陸に送られた基地である、セネガルはゴレ島の写真、その他セネガルで見た動物の写真を「NOZOMIの関心事」で公開しています。
 2006年01月30日 犬は喜び庭駆け回り、猫はこたつで丸くなる
 月曜日なので、学校と仕事に出て行かなければならない。夕べはもう全然降らなかったが、夜に凍って、月曜日に車が出せなくては困るので、車の周辺の雪かきをした。自宅にガレージがないので、路上に駐車しているのだ。

 学校の周辺に、市役所の人たちが来ていた。スコップで雪かきをして、通学路と学校の出入り口が歩きやすくなった。土曜日も日曜日も市役所はお休みなので、職員も何もしなかったため、月曜日の朝はどこもかしこもパニック状態だった。雪かき用のトラックはどこから借りて来たものか。やっと道路の真ん中を、車が通れるようになった。とはいっても、一台ずつ譲り合って通らなければならない。

 この辺で「譲り合い」というものをお勉強したらいいのだ。普段は無理してまでも二台いっぺんに通ろうとして、歩道を走る車までいるのだから許せない。今日は除雪された雪が、歩道に積み上げられているので、歩道は、車も人間も通れない。自転車もベビーカーも通れない。みんな車道をゆっくり、譲り合って通り過ぎて行く。
 
 土曜日と日曜日は装備した車や、大型の四輪駆動車ぐらいしか通れない状態だったので、町がとても静かだった。排気ガスの匂いもなく、人々は町であいさつを交わし、「きれいですねえ」と顔がほころんでいた。なによりもオートバイという音の公害が、この世から消え去ったのは喜ぶべきことだった。ベビーカーや車いすの人はきっと不自由したに違いない。自転車通勤の人は、一日ぐらい徒歩通勤になるのは、それほど苦ではないのかもしれない。

 7時15分の電車に乗るために7時5分に家を出たJPが、8時20分に帰宅した。電車もバスもなくて、仕事に行けなかったのだ。私は、夜のレッスンにみんな出て来れるのだろうかと思って、一番遠くから来ている男性と、二番目に遠いところの女性に電話したら、どちらも「無理すれば行ける」とのこと。「本当は外に出て行きたくないけど、日本語には出て行きたい」
もう一人の女性はすでに「休みます」と言って来たので、残る一人に連絡をつけて休校にした。またほかの日に代わりのレッスンをする。

 結局JPも私も自宅待機をした。子どもたちは校庭の深い雪で、雪合戦をしたり、雪だるまを作ったそうだ。家に居るより学校で友達と遊んだ方がずっといいだろう。でも、ノエミのクラスでは26人中12人しか来ていなかった。まだまだ雪に埋もれている地域が多い。
 2006年01月29日 降っても降っても まだ降り止まぬ
 雪は夜遅くまで降り続いた。ついに50センチ以上は積もった。

 私は家の前の歩道だけちょっと雪かきをして、道路を渡りやすくした。日曜日だから、午前も午後も、ジャン・ジョレス公園で雪遊びをするつもりだ。
 
 JPが金魚の水槽を掃除して、洗濯物を干して、朝食のテーブルを片付けている間に、私は「子どもたちがうるさいから」と言って公園に出掛けた。るんるん

 新しい雪だるまを作った。
新しいソリのコースを作った。
ノエミがジグザグで、わざとでこぼこに仕立てた、面白い滑り台を造った。脇にはちゃんと丘に登るための階段まで造った。ゾエにも登りやすくなったので、一人で滑りはじめた。転んでも痛くなさそうなので、放っておいた。

 2003年8月に、滑り台で着地失敗して足首を骨折した経験がある。ボキーっとすごい音がしたらしいのだが、ちょうどJPの母親が下から「パンツ見えるから、やめればいいのに」と言ってたところだったので、まさか「折りました」とも言えず「平気、平気」と言って歩いてみせた。
 自宅に帰って子供にご飯を食べさせて、お風呂に入れてパジャマを着てもらってからJPに「ちょっと痛すぎるから病院連れて行って」と頼んだ。緊急窓口に連れて行かれて「折れてました」と言われた。やっぱりねえ。

 家族に迷惑をかけて申し訳なかったのだが、じつは、あの日滑り台をしたことに関しては、ぜっんぜん後悔していないのだ。滑り台に登るあのわくわく感と、滑り台の頂上に立った時のあの緊張感と、滑る瞬間の爽快な気持ちを覚えている大人が、世の中にどれだけいるんだろうか。そして、滑り台なんかで痛い目に遭う大人も、そうはいないだろう。。。わはは

 2003年8月1日から20日の間に猛暑のために、全国で14802人の死者が出た。(これは9月24日に全国の葬儀社などを中心に発表された数字。それ以前の政府の発表では死者5000人)その恐怖の夏休みをギプスで過ごした私は、もう絶対に滑りものには近寄らないと誓い、滑り台もローラースケートも遠目に見ていた。でも、ああ、ソリ三昧の週末は、もう絶対に忘れられないだろう。楽しくってお腹の底から笑った。笑っていたらJPもボボを連れて遊びに来た。そして子どもたちは滑り台に任せて、JPと雪合戦をした。JPの雪玉に日頃のストレスを感じた。そうそう、せっかくだから、おもいっきり発散した方がいいよ。
 2006年01月28日 ゆきやこんこ
 金曜日の晩に底冷えを感じたので、雨戸を開けてみたら雪がちらついていた。天気予報でも「注意報」が出ていた。

 そして、土曜日の朝は銀世界。子どもたちが重装備で学校に行った。小学校ではマラソン大会が催されていたので、延期になってみんな嬉しそうだった。幼稚園のゾエのクラスは、担任の先生を始めクラスの90%が休んでいて、ちゃんと出て行った子供は少々「迷惑もの」扱いだった。

 JPは休みなので、わたしにとって土曜日は、たった1人で時間を気にせずどこにでも行ける貴重な日なのだ。でも車が出せないので予定が狂ってしまい、歩いていける美容院に髪を切りにいった。お客さんの一人がカルモーから更に北のロデツという町から来ていて「あっちは今朝だけで1メートル50センチも積もっていた」と言っていた。

 ノエミは雪降る町をJPに連れられて、ヴァイオリンを背負って出掛けていった。ノエミのヴァイオリンの先生も、田舎の方から苦心して出て来ていた。最近は毎日ちゃんと練習しているので、めきめきと腕を上げている。土曜日のレッスンもすっぽかせない。雪の町に出て行くのも楽しそうだった。上手にできたと褒められて戻って来た。せっかく行くのだから、成果が上がらないと先生にも申し訳ないし。。。

 午後は近所の子どもたちといっしょに、ジャン・ジョレス公園でソリをした。ソリの道具は持っていないし、だいたい雪が降った時の準備などはないので、有り合わせのものを着込んだものものしい格好だ。子どもたちに言われてソリのためにゴミ袋を用意した。お尻の下に敷いて、前の方を掴んでシュルーと滑るだけだ。

 生まれて初めてそり遊びをした。
いくら大きくても黒くならない雪だるまを作ったのも、生まれて初めてだった。
土曜日は一日中降って、夜までに50センチ以上は積もったと思う。外の車はすっかり見えなくなってしまった。家の前の道路で動けなくなる車続出で、スクップや電話や、そして手も貸した。

 時間が遅くなるに連れて、車の通りが減り、道路には普段車で通り過ぎるだけのご近所さん達が、徒歩ですれ違って「え?この辺に住んでたの?」などという会話が盛んだった。

 面白かったのは、大人の男性がやけに浮かれていたこと。一人でせっせと雪だるまを作っている60代の人にも挨拶したし、雪合戦をしている40代ぐらいの男性たちの攻撃も受けた。そして、ボボはじっとしているとずぶずぶと雪に埋もれてしまうので、ぴょんぴょんとウサギのように跳ねながら、耳を雪に叩き付けたり、雪をなめたりしていた。寒がりボボもけっこう浮かれていた。

せめて日曜日までは溶けないで欲しい。

 
 2006年01月27日 空をあおぐ
 来るか、来るかと待っているが、なかなか来ない。雪雲。
金曜日だったので、朝市には行きたかった。
ムール貝のフリッターというのを衝動買いしてしまった。
「これください」と言った瞬間には「牡蠣のフリッター」だと思っていたのに、試食をしたら味が違ったので、ショックだった。私は「牡蠣」が大好きだ。

 ニューカレドニアでよく「牡蠣」を食べた。遠くの店まで自転車で行って、帰って来たら、自転車の後ろで大量の牡蠣が臭くなっていたこともあった。丘の上に住んでいたので、行きはささーと行けるのだが、帰りは自転車を押して、坂道を登らなければならなかったのだ。

 前年に剣道の先生のお世話をしたら、翌年にいらした先生の息子さんが「遠慮なく食べてください。おごりですよ」とおっしゃるので、遠慮なく牡蠣を4皿頼んだ。ひと皿には12個の牡蠣が入っていた。牡蠣はレストランではいつも「1ダース」で出る。その日は牡蠣の四皿のほかに、エビも二皿ぐらいは頼んだと思う。
 私はエビも好きだ。海のものは何でも好きだ。

 JPは、エビ・アレルギーだ。エビを食べると泡を吹いて、テーブルに吐いて死にそうになる、らしい。まだ見たことがない。面白そうなので一度見てみたいのだが、どうも食道が腫れて、窒息死するかもしれないので、試しにやるにはリスクが大きい。
その代わり、シーフードのお店に連れて行って、JPのところに来たエビ類を一切こちらに回してもらえるので、JPがアレルギーでよかった(?)

 ムール貝のフリッターを買って帰ろうとしたら、ちょっと雪みたいな粒が落ちて来た。
いよいよか。
 2006年01月26日 いい加減なやつ
 結局二日徹夜して、12時に出す仕事を15時まで待ってもらい「クレームつくかもなー」と思いながら、納品してしまった。「時間あったらもうちょっと見直しできるんですけど」と言い訳した。

 日本との時差があるので、私を見捨てて寝てしまったJPの代わりに、日本の友達に「SOS」のメールを送ってみた。彼は仕事に行く前、朝の忙しい時間に役に立ちそうなサイトをあれこれ送ってくれた。それが大変役に立った。持つべきものはだんなよりも友達である。
東を向いて手を合わせる。

 クレームが来るかもしれないので、来た時にささっと書き直せるようにと思って、いまさらながらお勉強したりしている。訳したものをインターネットのサイト上に書き込む時には、参加させてもらえるので、その時にも推敲の可能性があるからと思って安易に構えている。分野はマーケティングや情報処理。カタカナ用語が多くてとっても苦手。実務の翻訳は、だだーっとやって、2、3日で沢山の知識を得ることができる。なんとなく「業界」のことがわかりかけて、単語にも慣れて来た頃には納品しなければならず、振り返ると「あんな日本語でよかったの」と思うことがたびたびある。マーケティングのプロが作った、ハイテクなサイトは、日本語が少なくて読みにくいものになっている。私はやっぱり時間を掛けて、何度も書き直すことのできる仕事の方が、合っているなあと思う。

 疲れてもうなんにも考えられないので、もう寝る。
 2006年01月25日 懐かしの テツヤさん
 80年代末に東京の日本語学校で、日本語教師養成講座を受けていた。その講座はとってもインチキで、土曜日しか講義がな行くくせに、授業料だけは高く、一週間の土曜日以外は、がむしゃらに働かなければならなかった。土曜日以外の一週間を無駄にしたくなければ、どこかまっとうな会社のOLとなって定収入を得る道もあったのだが、土曜日一回やってることと一週間ずっとやっていることを比べたら「本格的」になる恐れがあるのはOLの方じゃないだろうか。
 そして、会社で知り合った誰かと早々と結婚をして、夢は諦めて主婦の世界に突入してしまう、安易そうな道もあるかもしれない。私は世間に流されやすいし、道を外しやすいので、OLになったらきっと日本語教師の道は捨てる日が来るのではないかと思った。

 だから、日本語教師の次になりたかった「司書」の道に近づくために本屋さんのバイトを見つけた。本屋さんは当時自給340円だった。正社員と同じように朝10時から午後7時まで毎日働いた。9階建ての渋谷の本屋で、わたしはずっと6階の婦人書と語学書売り場だった。エレベーターはボロでしょっちゅう止まっていたし、そんな危ないエレベーターは客専用ということになっていたので、私は一日中重い本を抱えて階段の上り下りをした。
 本屋のバイトは本を30%引きで買うことができたし、新刊に詳しくなったし、語学書の見本をもらえたし、とっても気に入っていた。でも、そこのお給料だけでは生きていけなかった。

 本屋の側にドーナツ屋さんがあったので、そこで夜勤をすることにした。駅が同じだから定期券を使えるので、自宅からは遠かったけれども、そこで働くことにした。ドーナツ屋さんでは夜の9時から翌朝の8時までが勤務時間だった。売り子ではなくて、店を閉めてから開店までのお掃除と片付けと、翌朝のドーナツを並べる仕事だった。自給480円で朝食の500円がもらえた。ドーナツ屋も本屋も週に2回の休みを取れたので、やりくりして「一日中寝ていられる日」というものもあった。それで「寝だめ」をして、多くの日は午前10時から午後7時まで本屋で働き、家に帰って食べて、着替えて、30分寝て、夜9時から翌朝の8時までドーナツ屋で働いた。「一日中寝ていられる日」を迎えるために、帰りの山手線に乗ると気が抜けて、電車で眠ってしまい山手線を3周ぐらいしたこともあった。

 昨日翻訳の仕事が入って、48時間で15ページぐらいを訳せと言われた。内容が簡単そうだったので受けたはいいけれど甘かった。しかも今や私には家庭というものがあるし、バイト時代から20年近く経とうとしているので、自由に使える時間と体力が足りない。

 徹夜一日目で、もう死にそうだ。 
 2006年01月24日 おばさんとしては、ちょおっと、いい加減にして欲しい。
 以前、クラスの中で仲良くなりすぎて、おしゃべりがうるさい大学生のことを書いた。
先週から、ちょっと怪しいと思ったら、恋人同士になってしまったらしい。
授業が始まる三十分以上も前に教室に来て、抱き合ったり、キスしたりなんかしちゃっている。
  
    あー

 クラスの雰囲気がよくなって、楽しくできるならばまだいいのだが、5人のうちの3人がレッスン中にいちゃいちゃして、身体触り合ったり、「イヤーねー」とか「やめてよオーん」とか言いながら、身体を突き飛ばしあったりされると、机がガタガタいうだけでは済まされない、いろんな音の洪水になってしまって、授業中に必要のない音が響き渡る。
 
 「静かにして」というと「私じゃないもーん」などと言って、彼氏の身体を突き飛ばしたりしている。そして彼氏の方もまた「こいつうー」などなど言って鼻の下を伸ばしている。
 質問しても「はあ?」書く練習をさせて、私がぴったり横についていても、どうしようもない状態。私のことは、無視。いないも同然。

こんなことは初めてだ。

 私とは20歳近くも違うコドモで、親のお金で来ている学生で、けれども社会的には「成人」で、金を出してる親に会うと「うちの子はひとに迷惑などかけたことのないイイ子で、よく勉強している」と信じている。夜遅くにわざわざ何のために来てるのかわからん、というような状態だと感じているが、成人である本人に言った方がいいのか、保護者である親に言った方がいいのか迷っている。親が娘のしていることを知ったら、レッスンをやめさせられてしまうだろう。祖父の代からの教育者一家だそうだから、私の気持ちはわかってくれるかもしれないが、信じてもらえない可能性が強い。我が子を信じているからねえ。

 「あなたがもっと面白い授業をすれば、油断も防げるんです」「厳しくしすぎ。妬いてんの?」と言われるんだろうか。
 大学の講義などで30人ぐらいいるなら、無視できるのかもしれないし、みーんなやってることなんだろうが、5人しかいないクラスで、2人は中学生だし、自分の子供がこういうクラスで落ちつきなく勉強してると思ったら、やり切れない。

 とりあえず、みんな迷惑しているし、私はとってもやりにくいので、二人でよく話し合って欲しいことと、2時間ぐらいは我慢して欲しいことなどを、本人たちに伝えた。一人一人だと大人しくて素直そうなのに、今や強い絆で結ばれた二人組となり、なかなか態度がでかくなった。そして、注意したことでちょおっと雰囲気が悪くなった。「どうせ大学受験の塾じゃあないんだから、クールに行こうぜ」というところか。

 レッスンはあと18回残っている。なんだかこーんなことで憂うつになって来た。
もっと明るくいけないものか。「いっしょに映画を見ましょう」とか「あなたが好きです」とか「二人でお茶を飲みたいです」そういうレッスンをやったらうけるだろう。でもどんどんエキサイトして、ただ騒ぐだけの授業になりそうな気がする。

 普段からいい加減に生きている人間なので、今さらけじめをつけてと言っても難しいのだろうか。クラスのほかのひとが「いい加減にしろ」って言ってくれないかなあ、と思っているが、みんな見て見ぬ振りをしている。私とそのカップルにちらちら目配せして、様子を伺っている。

 なんだか地下鉄の中で、チンピラにちょっかい出されているオジョーさんを助けられずに、見て見ぬ振りをしている乗客その他の雰囲気に似ている。

 じゃあ、私は一体なんなのだろうか。。。チンピラ? オジョーさん?
 2006年01月23日 せっせ、せっせ
 一日中手紙を書いていた。
 面白い本を見つけたので、すでに翻訳が出ているかどうか訊ねるために、筆者に直接手紙を書いてみた。
 書いてから、住所がないことに気づいて、インターネットをさまよい続けた。その筆者はすでに10冊ぐらい本を出している人だということがわかり、彼女のほかの本をもっと読みたくなった。
 彼女はユダヤ系のフランス人で、イスラエルの学校で勉強したような経歴もある。書いているのはポーランド移民であった、ユダヤ系移民(フランスとそしてアメリカへの移民)の家族について、また、アウシュヴィッツでの虐殺について、生き残った人々の苦悩について書いている。
 かなり重いテーマなのに、10歳ぐらいの子供を対象に、とてもわかりやすく書かれている。

 ノエミは今学校で「読書ラリー」というのに参加していて、教師が「基準」に合わせて選んだ30冊の本を、一ヶ月でどれだけ読めるか、読んだあとの質問では理解度も計算され、読書量と理解力のポイント争いをする。
 学校で毎日一冊ずつ借りて来る。あっという間に読んでしまって、私が自分用に図書館で借りて来る本も、本人が借りた本も読む。この子は一日中本を読んでいる。そして面白かった、面白くなかったの評価もうまい。

 私が借りて来た本のうち、「今風で、笑えて、挿絵も愉快で、現代の子供の生活にマッチした「嘘つき」という本があったのだが、おもしろおかしくはあってもテーマが殺人と金儲けだったために、「これ、よくないと思うんだ。でも笑えると思わない?」と訊いたら「そんな本は絶対によくない。子供のためによくない」と言われた。

 そして、例のアウシュビッツで生き延びたおじいさんの物語について訊ねたら、「悲しすぎる」という感想だった。とってもよい物語で、心に残るけれども、悲しすぎるのだそうだ。
私もこんなに泣いた本は久しぶりだった。
 2006年01月22日 たらったりった ロト
 待ちに待ったジャン・ジョレス幼稚園と小学校の「活動する母の会」主催、《新年合同ロト》の日がやって来た。事前に何度も会議があり、みんなで準備をしてようやくこの日が来た。

 ロトの収益金は学校の備品や行事にあてられる。さあ、頑張っていこー!

「活動する母の会」は、PTAみたいなもので、毎年全席ほぼ女性のみなので、こういう名称になっているらしい。こんなに活動的な「母の会」は、今まで見たことがない。フランスのPTAというのは「あるかないかわからんもの」というのが一般的で、会議に行ったら主婦同士の悪口やら、前年と同じ計画に例年通りの反省をするのが常だが、ジャン・ジョレスの「活動する母の会」は違う。

 会議はというと、夜の8時半から始まリ、白熱したまま11時半ごろ終わったらまだまし。世間話はなし。悪口もなし。ただひたすらに子どもたちのよりよい学校生活について意見交換される。
 メンバーには働く母親が多い。みんな子供にご飯を食べさせてから来る。
 ただし、片親の家庭はこの「母親の会」に出席するのは難しいだろう。本当は片親の家庭こそ参加して意見を言って欲しい。片親家庭は母親父親両役を兼任していることが多く「母親役」だけでのんびり生きている専業主婦よりも、世間を知っているのだから。そして、片親であることで普段から問題をいっぱい抱えていて、それは学校に対する意見や反感、反省や改善点に繋がっていることが多い。だから本当は、会議をいつも夜遅くに開くことについて、わたしは全面的には賛成しかねている。自分が昼間にも会議に出て行けるものだから、こんなことも言えるのだろう。

 ロトくじ券は、すでに生徒たちの手で販売されている。当日会場に来てから、数字の入ったカードに取り替える。番号を打った玉を、ボールみたいなかごの中でぐるぐる回す。そこから転がり出て来る数字を「活動する母の会」の役員が、マイクで読み上げて行く。入り口でもらった数字入りのカードには、1から99までの数字が、ランダムに印刷されている。会場に来ている何十人分ものカードに印刷された数字は、すべて異なる。同じ数字を使った、全く同じ位置に並べられた数字列というものは存在しない。手元にあるカードは、会場内でたった一枚だが、異なる番号の組み合わせや、段の組み合わせの違いから、同時に数名の当りが出ることもある。

 読み上げられる数字が、自分のカード内にあれば印をつける。1列5つの数字が揃ったら「キーン」と叫んで景品をもらう。カード内の数字全部を当てた人に渡される「カートン・プラン」というコースもあるが、これはカード内の全部の数字が埋まった人だけ、ということになっていることが多く、時間も掛かる分緊張も高まる。

 休憩時間には「母親の会」のメンバーが手作りしたケーキやクレープが、安くで販売された。私はポットからコーヒーを注いで、売り子に渡すという役目だった。忙しかった。私の作ったケーキも、ちゃんと買ってくれた人がいた。残っていたのを自分で食べてみたら「こんなケーキにお金払わせてごめんね」という代物だった。

 午前中に女性軍が出したテーブルを、夜は「父親の会」も加わって片付けてもらえたのであっという間に終わった。テーブルをいくつか残して、あまったケーキや、買い足したピザ、ハム、チーズ、ローストビーフなどなどを、役員の中で希望者だけ残って食べた。私たちは新入りなので最初ぽつんとしていたのだが、気のきいたおかあさんの一人が「この人新入りだから相手してやって」と言ってくれたので、JPも「父親の会」のみなさんに取り囲まれて、ワインを振る舞われていた。

 ダニエル家ではだれも何も当てられなかった。お鍋セットもあともう一息だった。
景品の中にはMP3もあったし、食べ物の詰め合わせやワインセットもあった。
せっかく今朝うんちを踏んで「運がついたぞ」と思っていたのに、勘まで外れた。

 新年合同ロトの収益金は、全部で3000ユーロを越えていた。去年よりも多かったそうだ。
子どもたちによりよい学校生活がプレゼントできるんだろうか。小学校と幼稚園に分配される。
 次回の会議は2月7日、ロトの反省会と3月の行事の話し合いだ。
 2006年01月21日 コンサート
 友達がピアノとヴァイオリンのコンサートに誘ってくれた。前もってもらったプログラムによると、子供でも楽しめそうで、しかもJPでも知っていそうな曲ばかりだったので、4人揃って出掛けた。アルビ市のメディアテックは、数年前にできた現代的なガラス張りの建物で、玄関ホール脇の開け放たれた一角で、いきなりコンサートが始まった。

 無料コンサートだったので、誰でも来て良いしいつ出て行っても良い。でも、途中で出て行く人はほとんどいなかった。とても楽しいコンサートだった。ヴァイオリンは私よりもひとつ年上の女性で、かなり軽装だった。クラッシックのコンサートというものは、演奏する側もドレスを着ているものかと思って、一張羅を出して行ったのだが、その必要はなかったかもしれない。どうせJPはいつものセーターだったし。。。

 テーマが「映画」だったので、チップリンの「モダン・タイムス」や、ジャック・タティ「ぼくのおじさん」、オードレイ・トトゥが出た「アメリ」の曲もあったし、ショパンやチャイコフスキーなどの有名な曲の中から、映画やコマーシャルに用いられた馴染みのある曲もあった。
 例えば「007のテーマ」は、チャンチャカチャンチャン、チャンチャンチャン。。。や、ターラッティラーッタラッター。。。など、普段トランペットで出すような音も、ちゃんとヴァイオリンとピアノでやってもらえたので、すごく愉快だった。

 ほう、こんなテクもあったのか。。。と感動した。やはりプロは違うよなあ。

 プロのテクは、2弦を同時に弾いたり、半音ずつじわじわっと上がったり下がったりする「音程がずれているような、不愉快な音」(淋しい映画や恐い映画の音楽かな?)もあって、ノエミが「なんだ、これ私もやってる」などとつぶやいている。

 ちがうってばー。

 踊るように楽しそうに弾くヴァイオリニストを見て、ノエミの目が輝いている。拍手喝采を受けるヴァイオリニストに尊敬のまなざしを飛ばしながら「私も、頑張ろう」と言っている。

 よしよし
 2006年01月20日 へこんでます
 朝市に行き、土曜日に作らねばならないケーキの材料を揃え、ちょっと掃除をして、窓の下の方だけを拭き、午後はベッドに崩れ落ちた。

 風邪です。
でも、土曜日と日曜日に、以前から楽しみにしていたイベントが待っているので、どうしても元気にならねばならない。

だれか、おかゆを作ってくれえーい。
 2006年01月19日 ほら、きた
 火曜日の夜、日本語レッスンから学校の会議に直行した。週末に行なわれるロトの話し合いがあり、白熱した会議を夜の11時半に出ると、もう喘息みたいな咳が止まらなくなっていた。
 火曜日も水曜日もノエミ相手に怒鳴りまくり、剣道の講習会に2週間ぶっ続けで参加した時のような声になっていた。ほら、きたきた。

 ゾエもずうっと変な咳が止まらないので、二人でマスリ先生のところに行った。大したことはない。咳をどんどんして、ゼロゼロ言ってるのが出てしまったら完治というお話だった。ゾエは、注射もせず、泣きもしなかったのに、マスリ先生を脅迫して、ボンボン二つをいただいていた。

 サラダボールに熱湯を入れ、ユーカリのエッセンスを落とす。大きなバスタオルを頭から被って、湯気の出ているボールを胸に抱く。鼻の穴がすっぱーと広くなったような快適さだ。胸にユーカリの湯気が忍び込んで行くのが感じられるようだった。器官がヒリヒリする。

 次の日、家じゅうでアロマテラピーをしようと思って、ニアウリのエッセンスを買いに行った。
ニューカレドニアに生息する、白樺のような肌をした木で、樹皮からユーカリみたいにすーっとする湯気の出るエッセンスが出る。昔はニューカレドニアでしか売っていなかったので、ヌメアの友達にフランスまで送ってもらっていた。お風呂のお湯に2滴ぐらいたらしたら、湯船の中で酔いしれる。そして次の日にはすかっとさわやか、ひどい風邪でも元気になったものだ。マスリ先生のユーカリエッセンスもよかったが、ヌメアのニアウリが懐かしくなった。薬屋で売っていた。

 ヌメアはいま何度ぐらいだろう?夏休みだなんて、うらやましい。
 2006年01月18日 嵐の前に、静けさはない
 午前中、ノエミがヴァイオリンのお稽古を始めた。
 なんだか2カ所おかしい音があって、どうも気に入らないので「ちょっとピアノの音と比べてごらんよ」とアドバイスしたのだが、娘は「何度も弾いているうちに上手になる」と信じ込んでいて、言われたことは全く無視したまま、同じ曲を引き続けた。母の許しが出るまではやめちゃいけないという、かわいげ(?)もあるらしく、私の顔をちょろっと見ながら、狂った音のまま、40回ぐらいは繰り返して弾いた。

 よく聴いていたら、薬指の位置がずれているせいで、2本の弦の2カ所の薬指部分が狂っているというのが、私にはわかった。だから「薬指の位置が間違ったままでは、あと50回繰り返しても無駄だよ。位置を変えてやってごらんよ」といくら言っても「私の勝手にやる」と言っている。

 けんか腰になって、泣きながら同じ曲を間違ったまま弾き続ける娘。
あんたプロにでもなる気?
「ピアノの音と比べたら?」と繰り返す私。でも返って来る言葉を聞きながら、自分と娘の意思が通じ合っていないことに気づいた。

 怒鳴り合って、泣いて、疲れ切って、そうしてノエミの耳に私の声が届くまでに、ゆうに1時間半以上も経ち、彼女は狂った曲を50回以上弾き続けた。
我が子ながら手強いオンナだ。なんとも強情なやつだ。

 わたしが聞きたかったのは単に「あら?そうかしら?ママンが言ってるならそうかもね」という素直なお返事だけだったのに。。。耳に入れたかったのは「すごいっ、完璧。でもその薬指の位置が2ミリほどずれたらもっと素敵」ただそれだけだったのに。初心者の分際で、しかも私などはヴァイオリンは全く知らないのだから、音程がどうのという問題ではないのだ。

 1時間半を切ったら、ふっとのえみの気迫が静かになって、ピアノのところにやって来た。
「ちょっとこの音出してみて」というので、出してあげたら「あら変ね」と言っている。だーからー、1時間半以上前から言ってるでしょーが!

 母親が「上手にできたからやめてもいいよ」と言わないのは「自分がへたくそだから、ママンが怒っている」と思っているらしい。やめていいよなんて私は言わない。やめるか続けるかは本人の自由なんだから。やめろと言われるまでやらなきゃいけないなんて、誰が言いましたか。

 「嫌々やっても仕方ないよ」というと「いやじゃない」と言う。
やれと言えばやらないくせに。へそまがり。

 母親が「調整をしないまま何度弾いても同じだから、むきになるならやらない方がいい」と言っているのは 「おまえってやつは、いくら練習してもだめだから、何度弾いても仕方ない」と言われていると思ったらしい。

 自分の言いたいことばかりをがなり合って、相手の言っていることが耳に入らないのは、血筋なのかもしれないけれども、ここまで耳がつまっていると心配だ。

 「じゃ、伴奏してね」とにっこり言ってヴァイオリンを構えた娘は、1度目できれいな音を心に刻んで、2度目でつっかえることも変な音もなく弾けた。

 「なんだ、ママンが言ったみたいに、ピアノに合わせたら簡単だね」

ま、1時間半以上掛けて、それっくらいはわかったなら、よしとしよう。
 ううう、疲れる。私って厳しすぎるんだろうか。
 2006年01月17日 同期の桜
 夕方から日本語レッスンに行った。大学生は試験の季節。みんな目の下にクマなんか作っているが、ちゃんと出て来るのでかわいい。何か面白いことをしようかな、と思ったのだが、商工会議所のロッカーには面白い物が入っていなかった。

 面白いもの。すごろく、カルタ、カセット、ビデオ、マンガ、雑誌など。
カルタはいいかもしれない。折り紙もロッカーに入れておこうと思う。
ロッカーに頭を突っ込みながら、ほかの言語の先生たちがどんな物を使っているのか、探りを入れてみる。中国語とロシア語と、アラビア語と日本語は、大したものがなかった。みんな自前で教材を揃えているようだ。

 英語はアメリカの英語とイギリスの英語の教師が別々にいて、商業英語、旅行会話、初級から試験で別けられた沢山のクラスがあるので、教師も4.5人いる。職員室で、英語が飛び交っている。

 去年からスペイン語を教えている人が、おととしまで教えていて復帰したばかりのスペイン語教師と口をきかないので「あの人知ってる?」と訊いたら、案の定「知らない」と応えた。スペイン語の先生だよ、と教えたら、きゃあ、と叫んであいさつしに行ってしまった。
 コピー機の前でスペイン語が飛び交っている。

 私がぽつんと一人でいたら、職員室の隣の教室に入って行く私の生徒たちが「こんばんはー、みのりサーン、お元気ですかあ」と声を掛けて通る。
「あー、ロールさん、こんばんは。ありがとう、元気でーす。あなたはあ?お元気?勉強しましたかあ。平仮名を沢山書きましたか。今日は早いですねえ」とできるだけ長ーい会話になるように返事をする。
すると、英語やスペイン語やアラビア語やロシア語の先生たちが「すごい、10回20時間のレッスンでここまで!?」という尊敬のまなざしで見ている。

 平仮名とカタカナ、漢字が入り乱れた教科書のページが、コピー機から流れ出て来るのを見て「すごい。こんなのやってるなんて」と覗きに来る。
実はまだ、カタカナも漢字も教えていないんだけど。

 今日は、「どこへ行きますか」を勉強して、甲子園や大阪城に行った。
「本当に、マンガで見るみたいに、日本の春はどこもかしこもピンクなんですか」と聞く学生が居たので「そうだよ。どこもかしこも桜でいっぱい、ピンクだよ。」と応えたら、みんなが一斉に口を開くのをやめ、夢見心地に日本のさくら吹雪を思い浮かべている顔をした。

 先ほどの男性が「来年、日本へ行きますっ。」と宣言していた。本当は「行きたいです」と言いたいのだけど、まだそこまで勉強していない。

 次回は「JALで行きます」や「恋人と行きます」も言えるようになっているはず。クラスでも「昨日、どこへ行きましたか」などが使えるようになって、もっと楽しくなる。
同僚はいなくても生徒がいるから淋しくないのだ。
それにしても「せんしゅうの すいようびに、わたしは ともだちと びじゅつかんへ いきました」この長い一文が全部平仮名で読み書きできるようになった。脱帽してしまう。
 2006年01月16日 強情なオンナに 拷問される
 なんでも、暗い小部屋で「ぽたっ、ぽたっ」という水音を何時間も何日も聴かせ、やがて「やっ、やめてくれえー。白状するから、水を止めてくれー」と言わせてしまう、恐ろしい拷問があるらしい。

 確かに「時計のチクタク音が好き」とは言ったが、普段は耳には入らず、気づいた時に鼓動のようなチクタク音が聴こえたらほっとするというだけで、暗ーい小部屋でチクタクしか聴こえなかったら、たしかに頭が変になるかもしれない。

 私もかなり愚痴る方だが、いっやあーノエミの「ぴーちく ぱーちく」にはかなわない。
このオンナ、一日中しゃべりまくっている。
 この頃は音楽もやっているので、音程の狂った歌を一日中歌っている。口笛も吹けるようになったので、こちらが愚痴り始めると、あごを突き出し、鼻を天に突き立てて「ひゅー」と口笛吹きながら逃げる。のび太みたいに。食事の時は歌も口笛も禁止というと、足を踏み鳴らしている。足が使えない時には、テーブルをタムタムにしている。油断すると食器も叩く。たまにテーブルの上の食品も床に落とし「ぐしゃっ」と親の神経を逆撫でる。

 辞書を読むのが好きなオンナは「テレビを発明したのは一体誰でしょう?」とか「水星までの距離は何キロでしょう?」とか一瞬頭よさそうに思えて実は、生活にはぜーんぜん役に立つとも思えない、難し気な質問をして来る。
応えられなければ「ママン、学校行った方がいいよ」  うるさい。

 子供部屋にはノエミの物が散らばっている。ノエミは物を捨てないオンナだから、9年分のありとあらゆる物が、部屋を覆い尽くしている。そこに物には未練を持たない、でも面白そうな物は全て自分のと信じていて、借りる時には敬語も使えず、返す時には投げてよこすゾエが加わったら、子供部屋は戦場と化す。

 「それは私のだ」「これは貸してない」「それはくれると言った」「私が大事にしている物を」叫び合いと取り合いと、つかみ合いととっくみ合い。

 我が家でただ1人、ノレンのようにクールに生きているJP(ジャン・フィリップではなく ジョン・ノレンと呼ぼう)がついに爆発した。
「毎日毎日同じことの繰り返し。耳障りな音が果てしなく続く。頭が変になりそうだあああ。水音の、あの拷問にあっているようだああ」ついに、キレた。

 子供に向かって大声を出すと、もうそれだけで恐ろしいお父さんのお出ましだ。
そして、プライドを傷つけられた娘と、父のめったにきけない大声にびびった娘が、いつまでもいつまでもさめざめと泣く。涙がぽたぽた落ちる。ぽたぽたぽた
 「やめろー。やめてくれえええ」

 なんで泣いている、なんで泣き続けてる、怒鳴られた原因はなんだったのか。子どもたちがそれぞれに泣かされた訳を唱え始めて、カエルの大合唱となる。
「あっちがわるい、おとうさんがわるい、わたしはわるくない」
 ゲロゲロ ゲロゲロ ぐわっ、ぐわっ、ぐわっ

 「ほら、だから、どうして私が爆発するのか、ちょっとはわかったでしょ」
頭を抱えているJPの背中に向かい、クールなおいうちをかける。

 人がキレてる姿を見ると、愉快だ。自分もあんな顔をしているんだろうか。
家じゅうに鏡をぶら下げたら、もっと穏やかになれるだろうか。
いや、それってもっと恐ろしい拷問かも。
 2006年01月15日 成人の日は、清二郎の日
 数年前までは1月15日が成人の日だったので、いつもお休みだった。休みといっても特に何かした覚えはない。うちの母は祝日には「日の丸」を立てる人だったから、「日の丸」を立てるという行事はあったと思う。1月15日の祝日は特に大切「お父さんの誕生日だからね」などと言っていたような気もする。この人は家人のために旗を立てていたのだ。(実は私の誕生日も祝日)

 亡くなった人のお誕生日は、もう祝わないものだろうか。父は4月8日の「お釈迦様のお誕生日」に旅立ったので、お誕生祝いができる。実にめでたい日だ。

 私の幼稚園は乗船寺の住職が経営されていたので、お釈迦様のお誕生日の花祭りがあった。白い象が倉庫から出て来て、小さなお釈迦様に甘酒をかけた覚えがある。とてもよい季節だ。

 冬の合間の、ポカポカと暖かい1日だった。

先日日本に電話したら「うなぎ池に縁起のいいお祭りが出るから、お姉ちゃんとちょっと遊びに行ってくる」と母が言っていた。去年はお父さんと一緒にお参りをしたうなぎ温泉だ。
あの仏像はたけおじちゃん(母の兄)に似ているから、会いに行くのが楽しみなんだそうだ。

 いい天気だったらいいねえ。
温泉にもつかってくれば?
 2006年01月14日 ひょこり にっこり
 去年の9月11日の日記に、JPの海軍時代の同僚の話を書いた。クリストフという。フランスの私の結婚式に来てくれた従姉や友人たちは、彼に会ったことがある。真夏に真っ黒い革ジャンで、しかも時速150キロで走る巨大なオートバイで、結婚祝いに来てくれたあんちゃんだ。

 彼はJPの、世界にただ二人しか居ない友達の一人だ。

9月11日に同時テロの日、うちでテレビを見ながらお茶を飲んでいたら携帯がなった。地中海のフランス軍港であるトゥーロンから、アメリカ軍攻撃に備えて紅海とインド洋の安全管理のため、軍艦が出動することになったので、休み返上で船に戻れという連絡だった。
 それ以来、半年以上音信不通となった。

 フランス海軍は、インド洋と紅海がぶつかる場所にあるジブチという国にも軍港を持っている。地中海から出動した船は、スエズ運河を通って紅海に出る。パキスタンやイランの沖に行くには、ジブチを拠点にしなければならない。クリストフの乗った軍艦は「その辺」をうろうろしていたと思われる。

 ジブチ帰りの青年は、真っ黒に日焼けして、肌の真っ黒なエチオピア人の妻を連れて来た。ひょっこり帰って来た。彼女の名前はとても難しいので私たちは「ベラト」と呼んでいる。
とてもかわいい人だ。エチオピア人ときいたら、身長3メートルぐらいかと思っていたが、彼女は1メートル50センチぐらいしかなく、会ってすぐに親近感が湧いた。
目線が同じ、というのはおつきあいのポイントだ。

 エチオピアという国は、ジブチ・ケニア・ソマリア・エリトニア・スーダンに挟まれた大きな国だ。山あり谷あり、河あり湖ありの自然に溢れた国らしい。いつもベラトが来るというと、私たちはピクニック用品を用意して、森や林に連れて行くことにしている。靴を投げ出して子どもたちと跳ね回る、陽気な女性だ。


 今日、クリストフとベラトに会った。ひょっこり来た。引っ越してから初めて遊びに来た。
今度はベラトのお腹が1メートル以上になっていた。四年待ち望んだ赤ちゃんが、冬の終わりに生まれるのだそうだ。こりゃあ、おめでたい。

 革ジャンを着て、オートバイで走り回り、外国紙幣と持ち物のない暮らしが大好きだったクリストフも、なーんだか、それらすべてが似合わなくなっていた。海軍も辞めて、今年からは陸で暮らすそうだ。うちの側に家を探している。こりゃあ、うれしい。

 赤ちゃんがちょっと大きくなったら、エチオピアの家族に初孫を見せに行くのだそうだ。私たちもついて行きたいねーと言っている。
 2006年01月13日 4メートル!?
 ノエミのクラスメートのお母さんが、朝私の顔を見るなり
「テレビ見たっ?」と叫んだ。
テレビがないと言ったら問題がこじれるので「見てないけど?」とだけ応えた。

 「日本で2メートルの雪が降っているって、テレビで言ってたよ」
とのこと。「日本の北の方でしょ?」って言ったら「日本よ、日本」
薩摩地方で2メートルってことはなかろうと思いつつ、指宿の母に電話してみた。

 「新潟とか長野では4メートル」
ほらやっぱり「あっちの方」じゃないの。
4メートルの雪だなんて、想像もできない。見たこともない。
私はスキーができるような深い雪を見たことがない。

 今週の日本語レッスンで「沖縄は台湾の隣」で「北海道はサハリンのすぐ下」と言っていたら、みんなびっくりしていた。日本の小説を読むと「うちの裏山」とか「目の前の小川」とかでて来るので、「日本は山や川に囲まれた自然の豊かな国」という解説を読んで、みんなびっくりする。

 ノエミが「パパはどうしてマクドが嫌いなの」と訊いていた。マクドはアマゾンの森を切り開いた牧場から牛肉を取り寄せているからだ、と応えている。「マクドだけじゃないけど」
 狂牛病の事件以来、ヨーロッパの国々はアメリカからのお肉の輸入をやめて、ブラジルから買うことにした。ブラジルでは、牧場のほかに、大豆を作るために「地球の肺」であるアマゾンの森を切り開いて畑や牧場にしている。2003年にはこの年だけで6120平方キロメートルの森が消えてしまったらしい。北海道の3分の1なんだそうだ。広大なる北海道の。。。

 インターネットで衛星からの全世界の写真を見ることができるので、ノエミとJPは数日前からそれにはまっている。毎日「サハラ」や「アマゾン」や「ニューカレドニア」を空から見ている。

「指宿市」も見ることができた。JPはフランス北西部のブルターニュ地方を訪ねて、昔よく遊びに行ったおじいさんの家を発見した。区画整理でよくわからなくなっていた。

 ボタンひとつで、アマゾンも指宿市も見れるなんて楽しい。それにしても「小さな日本」で雪が4メートルも降っている所と、菜の花の咲き乱れる中、太陽を浴びながらマラソンのできる指宿市のあること。。。なんとも不公平だ。

 自然の威力というものはすごい。そのすごい自然を破壊し続ける人間も、なんかやっぱりすごいというかひどい。衛星の映像でサハラの侵略を見たら、じっとしていられない。宇宙旅行を夢見ている人も居るし、実際お金さえあったら宇宙旅行もできる時代になってしまった。今は宇宙からみた地球が美しいから、宇宙旅行も楽しのではないか。
 宇宙から腐った地球をみたってしょうがないと思うのだけど。
 2006年01月12日 南向きの図書館の日だまり
 太陽が輝いている。日だまりを歩いていると身体が柔らかくなって、スキップしたくなる。パソコンの前にじっと座っている日々を反省して、仕事も外ですることにした。
メディアテック内の図書室へ。

 カルモーには「ビブリオテック」つまり図書館はない。今フランス中で人気の「メディアテック」と呼ばれるものだ。絵画美術の展示会や講演会ができ、大きな資料室もある。「ディスコテック」と呼ばれる部屋もあるが、これは踊る部屋という意味ではなくて「ディスク」つまりCDが保管されている場所。このメディアテック=文化センターは、文化的活動の情報交換のばであり、図書、文書資料、音楽CD、CD−ROMなどを借りることもできる。

 いつも水曜日と土曜日に子供といっしょに行く。子供は勝手に子供の図書室へ行き本を選ぶ。私は10分ぐらい大人の図書室をうろうろするが、すぐに二階の子供の図書室に向かう。

 今日は一人で子供の図書室に行った。もちろん学校の時間なので、子供は誰も来ておらず、司書の女性があくびをしながら「ダヴィンチ・コード」を読んでいた。この本の一巻後半で挫折した私は「面白いの?」と訊いてみたが、彼女も「彼の始めての作品に比べたら落ちるけど、図書館で訊ねられるから流行の本は読むようにしている」と言った。

 私は筆者別に並べられた本棚のAとBの棚に座り込んで、一冊ずつ本棚から引っ張りだした。
フランス語の本は縦に並べてあるので、書名は首を左に傾けて読まなければならない。ローマ字の書名は日本語のように縦には書かないのが普通だ。本棚は日本と同じで、本を縦に並べるのに、書名は横書きだから困る。

 子供の図書室の床はカーペット敷きだから、床にあぐらをかいて本を読んでいると、私は周囲のテーブルよりも低くなり、図書質に入って来る人からは私の姿が見えない。昼間の静かな図書館で働く人たちが、誰もいないはずの児童室に上がって来て、同僚の悪口を言ったり、家族の問題を訴え合ったり、奥の休憩室でタバコを吸ったり、コーヒーを湧かしたりした。普段は笑顔の窓口嬢の、第三者にとっては笑い話にもなりそうな悩み事が耳に入り、図書館では感じたことなどなかったタバコの煙やコーヒーの香りも感じた。面白い光景だった。

 よさそうな本を三冊見つけて戻って来た。さっそく読み始めてみたが、古い作品だったのと、日本の子供には難しそうなテーマだった(ユダヤ人の問題)ので、この三冊は返そうかと思う。
ちょっと残念だったが、一人で図書館に行くという、素敵な幸せを見つけた。

 
 2006年01月11日 面白い本はないか。。。
 いつもの水曜日。忙しい。
音楽に行き、図書館に行き、ノエミを乗馬に連れて行った。

 日本のある出版社に問い合わせていた本が「その本は企画が出されている」という返事だったのでちょっとがっかりした。でも、自分が良いと思った本が、たとえ誰かほかの人の手でも紹介される可能性がある、と思うとうれしくなる。自分の目に狂いがなかった、と思いたくなる。

 その出版社の人が、親切にも「あなたも企画を出したら読みますよ」と言ってくださったので、今、本を探している。「あなたの本を読みましたが、とても良かったですよ」と褒めていただいた。今までこの日記で話したことはなかったのだが、実は、私は2004年に始めて翻訳の本を出した。

 強運と偶然と、たくさんの人の協力と励ましがなければ生まれなかった本だ。そして「とても良いお話でした」と褒められたその文章は、何度も何度も書き直し、叱られ注意を受けて、編集さんにもずいぶん手伝ってもらって、やっと出来上がった本だ。次回は自分一人の文章を書きたいと思っているので、なかなか形にならない。

 先週・今週と、翻訳をしているひと数名とメール交換をした。子供の活字離れと偏った「ブーム」、日本社会の不況が子供の読書に与えて来た影響などを、憂えずにはいられない。時間が掛かるわりには、認められるということの難しさ。これはどんな職業でも同じだとは思うけれども。もっといい本を紹介したいのに「売れる本」を探さなければならないという事情も、話を聞くたびに悲しくなる。

 けれども褒めてくださったと、先ほど書いた出版社の方が「日本でも図書館を巡る状況が向上している。図書館への国からの援助や司書が増えている。ボランティアによる読み聞かせの努力がみのりつつある。学校でも読書時間を増やすことに取り組んでいる」というようなお話を聞いた。
「日本の読書事情も捨てたものではないんですよ」と現場の人の前向きな発言に、身体が震える思いだった。

 もっともっと良い本を紹介したいなあ、と思っている。

 
 2006年01月10日 上げ膳 下げ膳
 この前おそばを食べてもらった友達が、おそばの作り方を教えて欲しいというので、作り方の出ている本を持っておじゃました。火曜日の朝はお互い忙しいので、1時間ぐらいしか話をすることができないので、「本を貸すからやってみて」ということになった。

 友だちは娘さんの服をノエミにと言って出して待っていてくれた。同い年なのに、大量のお下がりをもらうことができてうれしかった。

 ノエミはさっそくお昼休みに帰宅した時に、お下がりを着て喜んでいた。

 夜は日本語のレッスンに行ったが、このクラスは全部高校生と大学生で、配ったしゅくだいをちっともやって来ていなかったため、2時間ずっと復習するハメになった。平仮名も忘れているし、困った。でも、「明日も試験」と言いながら、ちゃんと出て来るあたりがかわいい。

 夜はノエミが作った「クロック・ムッシュー」だった。
食パンにチーズとハムを挟んで焼いた、いわゆるホット・サンドイッチ。
「パパの手を借りずに、ノエミ一人で作った」と妹のゾエが自慢していた。とてもおいしかった。

家に帰って食事の支度ができているとはうれしい限り。
よい娘を持ったものよのお。
 2006年01月09日 新学期
 日本の歴史を勉強しようとしている。新学期であるしインターネットで、かねてより気になっていたパリのある大学の試験内容を見てみたら、日本語学科の試験で「弥生時代と古墳時代について説明せよ」という問題があった。高校時代の歴史の参考書をみたが、そうするともっと詳しく知りたいと思うことがいろいろ出て来た。
 
 ほかにも「古事記」についての作文や「平安時代に関する解説」の問題もあったので、もっとちゃんとに本の歴史を勉強しなければと思った。フランス人が試験官のテストで、「日本人のくせにそんなこともわからないのか」と言われたら恥ずかしい。フランス語で日本の前方後円墳について語れる日がくるんだろうか。

 日本語のレッスン再開。クリスマス休暇は、お祝い事や親戚との食事、里帰りで、とても忙しかったはずなのに、皆よく勉強して来ていた。
 12月のレッスンで「書いてください」「タバコを吸ってもいいですか」「起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べます」などに使う「て型」と、「タバコを吸わないでください」「勉強しなければなりません」などと言うための「ない形」を勉強していたので、その復習から。

 新年初のレッスンは
「年末ですから、大掃除をしなければなりません」
「休みだから早く起きなくてもいいです」
などの会話練習をした。

 筆を貸してあったフローランスさんは、ご主人のために「義根主手」と書いて、額に入れてプレゼントしましたと言った。フローランスさんの名字を思い出して「ああーギネストね」と読んであげねばならない。努力は褒めてあげねばいけないのだ。漢字4文字の名字って日本人に存在するのだろうか。湯通堂さん(ゆつどう)さん、上敷領(かみしきりょう)さんという同級生がいたし、福岡のお友だちに「安河内(やすこうち)さんという人がいるけれども、4文字はちょっと覚えがない。

 頭の中で「もっといい字を見つけてあげようか」という想いが駆け巡っていたのだが、友達の「出龍(デルリューさん)」 剣道の先生「道霊(ドレイさん)」クラスメートのポリーヌさん「宝林(発音するとポリンと聞こえるので)」のように、美しくもぴったりの名前がとっさに見つからなかった。ちなみに「Emilie (笑美理)」「Thomas (冬馬)」などのハーフの子供を知っている。なかなかよいと思う。

 ノエミはNoemieというフランス語の名前だが 「乃恵海」と書くようにしている。日本の小学校に入れた時に同じクラスに「もえみちゃん」や「なおみちゃん」という子もいたので、違和感はなかった。

 ゾエは日本人の名前にしたら、変。とっても変。濁音はなんとなく避けたかったのだが、いい名前が思い当たらなくて、名付け辞典をAからたどっていたら、Zではじめて「コレ」と思う名前に突き当たったのではなかったか。。。その辺りの事情は忘れた。

 フランス人の男性の名前に「エリー Elie 」というのがあって、むかしサザンの「いとしのエリー」という歌が大好きだったので、「エリー」にしたかったのだが、男の子が生まれなかったのでゾエになってしまった。
「ゾゾーとする、エエーとのけぞる」でイマイチのネーミングだったかなあと思った。この頃は使い慣れてきたから好きだけど。

 漢字は「象」「蔵」では、ちょっとかわいそうなので「想」を「ゾウ」と読んでいただくことにした。むりやり過ぎる。「エ」は「愛媛県」の「愛」にした。「恵」も「愛」もうちの子どもたちと血が繋がっている者の中にいるので、おばちゃんと従姉から一字ずつもらったということにした。

 JPの母親は「ゾエ」が生まれた翌朝一番に、産院に電話して来て「どうかお願いだからその名前はやめてくれ」と言った。「怪盗ゾロ zorro」「価値のない人間のくず zero ゼロ 」「動物園ゾー zoo」に似ているから、きっとその子は不幸になると言われた。自分のはじめての子供に「ジャン・フィリップ」なーんてつけるような人に、そんなことが言えるんだろうか。

 フローランスさんのご主人は「ギヨム」さんという名前。「義を与えて無(何も残らず)」や「疑惑の世の中、夢をみる」じゃだめだろうか?


漢字4字から5字では無理だと思うが、淡い期待とともに「ギヨム=ドゥ・ギネスト」の漢字表記を募集します。どうぞよろしく
 2006年01月08日 ガレット・デ・ロワ 王様のケーキ
 今日はEPIPHANIEエピファニーと言って、キリストが生まれたので、三人の王様がお祝いに来たと言われている日だ。この日は、ケーキの中に陶製の小さな人形が入ったケーキを食べる。
毎年自分で作っているが、今日はメリオッサンのお誕生日に呼ばれているので、そのケーキが出ることは間違いないと思って作らなかった。

 子どもたちをメリオッサンの家に連れて行った。子どもたちのパーティーだと思っていたので、子供だけ置いて私はおじゃましようと思っていた。もちろんJPは連れて行かなかった。そうしたら、実は私たちの分まで切り分けられていた。8つに切り分けて一人ずつ渡された。JPが来ていなかったのと、メリオッサンのパパの帰宅が遅れ、来るはずだったパパの友人も来なかったので3つ残っていた。そこにいた二人の母親と、4人の子どもたちのケーキにはお人形が入っていなかったので外れだった。

 子どもたちを置いてうちに帰った。夕方JPに子どもたちを迎えに行くように頼んだ。その前にメリオッサンのパパも帰宅していたので、残っていたケーキはJPの分だけだったらしい。みんなは最後のケーキにお人形が残っていることを知っていたので、JPに食べて帰れと誘ったのだが、事情は知らないし、人様のお宅は苦手だし、夕食前だし、外は暗くなっているので、JPはケーキをいただかずに戻って来てしまった。

 自分の分のケーキも切り分けられていたんだね、とびっくりしたと同時に、申し訳なさそうだった。私の方こそ、自分がケーキを勧められた時に「家に居るJPも呼びに行っていいですか」と言ってあげればよかった。もっと人付き合いでは緊張せずに、親切な人にもう少し気軽にできないものだろうかと思った。

 親切だと思った人に「思い違いをしていたのかあ」と感じることは、これまでに何度もあったので、そのたびに臆病になるようだ。思いやってもらうことにももっと慣れたら、思いやれるようにもなるのかもしれない。人付き合いは難しいなあ。
 2006年01月07日 プレゼントを買いに
今朝はいつもより早く目が覚めたらしくて、ノエミの方が先に「ママン、おはよー」とキスをしに来た。掛け布団の私の足元に座って「さあっ、ネズミ来たかなー」と言っているので「なんだ、こんな早くに起こされたか」とうつろだった私も、そのひとことで一気に目が覚めた。

 しまった。せっかく用意したのに、ネズミからのプレゼントを枕の下に置くのを忘れた。

 「トイレ行って来なさい」
いつもこれを一番に言うことにしていたのは、正解だった。

 ノエミが走ってトイレに入ったので、私はがばっと起き上がって、だだーっと走ってのえみの部屋に行き、枕の下に「野鳥の地図」とイタリアの2ユーロ硬貨を置いた。そしてだだーと自分のベッドに戻り、寝たフリをした。

 1本目が抜けたほどの感動はなかったみたい。1本目のころは私も張り切ったもので、その頃フランスではまだ見かけることの少なかった《シルバニア・ファミリー》のネズミのお母さんを置いた。2本目はそのネズミのお母さんの子供だった。そのあとシルバニアファミリーがちょっとずつ増えて行ったのだが、あまりにもぼろぼろ抜けるので間に合わなくなって、ネズミのシールとか、ネズミの小さな絵本とか、格下げとなってしまった。ああ、情けない。ノエミも、以前は抜けた歯といっしょに「ネズミさんありがとう」のメッセージを置いておくようなかわいさがあったのに、この頃は「なんだ小銭か」などと言っている。

 ノエミはリッチだ。この子は何でもとっておくタイプ。お菓子でもおもちゃでもいつまでもいつまでも大事にとっておく。そしてゾエに横取りされる。
 ゾエはもらったお菓子は全部その場で食べ尽くし、要らなくなったおもちゃは「あげていいよ」と言える。

 ノエミにお金を借りたら必ず返せと要求される。そのノエミがお友だちのプレゼントを買いに行くと言って張り切っている。二軒隣のメリオッサンという変わった名前の女の子だ。

 ノエミは12月で9歳になったので4年目の学年(CM1セー・エム・アンと読む)で、メリオッサンは1月で9歳になるので3年目の学年だ。(CE2セー・ウー・ドゥー)
ノエミがクラスで一番小さいと思っていたら、一番若かったのだ。今日メリオッサンのお母さんに、学年は1月生まれから12月生まれで分けられる、と聞いて始めて気づいた。

 メリオッサンは、犬が好きだけど両親が芸人で地方巡業なども多く、自宅には庭もないので犬が飼えない。だからたまにボボを見に来るが、ボボはあまり子供の相手が好きではないので、申し訳ない。耳を引っ張られても噛み付いたりしない優しい犬なんだけれども。

 ノエミはメリオッサンのために、犬に関する本を買うんだと張り切っていたので、いっしょに本屋に行った。でもお小遣いでは大きな写真集などは無理だし、小説で犬が主役になっているものは二冊しか見つけられず、どちらもノエミがその場で読んで「イマイチ」だったので買う気になれないようだった。読んでしまったから買う気が失せたのだと思う。

 「女友達」という小さな本を買った。それは、ルノアールやラトゥールの絵画なども出ている、きれいな本だった。「女友達」をテーマに仕立てられたもので、女友達の絵画のほかに、やさしい詩や、女友達と長続きするためのアドバイス、女友達にしてあげたいことが書いてある。有名な書物の明言などが、たくさん引用されてまとめられた本だった。

 なかなか良い本を選んだものだ。7ユーロだったので、私も3ユーロ参加した。犬好きのメリオッサンのために、レジのところにぶら下がっていた犬のシールも付け足していた。
 2006年01月06日 でき あがり 
 幼稚園の先生が、昨日泣いた子数名を再検査に連れて行ってくれた。
「だって、健康診断ぐらいは最後までやってもらわないと」
ゾエなどは体重も身長も測っていないし、視力と聴力の検査もまだ。

 子供には「今日はわがまま言わないでね。検査なんだから、全部やってもらうんだよ」と何度も言った。担任の先生も仲良しの子もいっしょだったので、服を脱ぐのも、体重計に乗るのも、平気だったらしい。
 
 先生がこの子は色もわかるし、数字も読めるし、教室では積極的に取り組んでいる、というような助言もしてくださったらしい。教室で使っているノートも持参したそうだ。でも、昨日すでにチェックが入ったところ、例えば「三部構成の人の絵が描けない」というような点に関しては、取り消されていなかった。「検査拒否」の記録も残されたままだった。

 昨日看てもらいたかった、皮膚のかぶれとひどい咳については、今日母親同伴でなく、集団となったため、看てもらえなかった。今度ちゃんと小児科に行くつもり。


 ノエミの乳歯が今週立て続けに2本落ちた。4歳から生え変わったのに、去年と一昨年は1本も落ちず、いまになってぼろぼろっという感じだ。抜けた歯は、枕の下に置いておくと、ネズミが抜けた歯をみに来て、代わりにプレゼントを置いて行く、ということになっている。ネズミは私。急に抜けたので、プレゼントにできそうなものがない。

 ほかの家庭では小銭を置いておくというのは聞いていたが、それじゃあ夢がないじゃないのと思って、いつも、ネズミの絵が入ったものや、ネズミの小物、ネズミが主役の本、ネズミが好きそうなチーズの模様の何か、などをあげて来た。先日はサロペットの胸当てに貼付けるワッペンをあげて、ついにネズミ小物が手元になくなってしまったところに、また抜けた。仕方ないからJPが「2ユーロでいい?」と言ってポケットから出す。ただの2ユーロじゃ芸がないから、イタリアから来た2ユーロ硬貨にした。ノエミは各国のユーロ硬貨を集めていて、ドイツやスペインの硬貨は全部集まっている。

 それでもやっぱりただの小銭じゃ夢がなさ過ぎるので、本棚を漁っていたら、まえにGEOの雑誌の付録についていた、「渡り鳥地図」というのを見つけた。今日ラジオのニュースで、ヨーロッパにも中国の「鳥カゼ菌」が届いて、若い人が二人か三人亡くなったとのことだった。

 さて、明日の朝の反応が楽しみ。
 
 2006年01月05日 でき そこない (本当はやれるのに、うまく見せられなかった)
 専門家による3歳児検診。問診のほか知能テストや健康診断が行なわれた。
 昨日家で特訓した、飛ぶ・ボールを投げる・片足で立つ、あたりはおもしろがっていたが、だんだんゾエの元気がなくなって来た。
 色の質問や、影絵から物を判断するテストで、口ごもり始めた。「この色なに?」と言われて、当然「赤」と元気に応えると思っていたら「わかりません」というのでびっくりした。

 続いて「プティ・ボノムを描け」と言われた。丸と四角と棒線を使って、人の絵を描けたら合格となる。 実はノエミもこれでつまづいた過去がある。二人とも絵を描くのは好きな方だ。3歳のころ、すでにノエミは、ドレスにアクセサリーをつけたお姫様を描くことができた。それなのにテストの日「プティ・ボノムを描け」と言われて呆然としていた。私に「だれ、それ?」と訊いた。「誰でもいいから好きな人を描いて」とか「ママを描いて」と言ってくれればよかったのに。

 さて、ゾエは普段から動物や乗り物の絵を描くのは得意なのに、丸と四角と棒線でなにやら知らないものを描けと言われて呆然としている。文字を書くための導入で、幼稚園でも「丸と四角と棒線を描く」練習をしているが、それを検査するなら「丸」とか「四角」と言ってくれればわかるのに。検査用のマニュアルがあるので、言葉を言い換えたり「好きなものを描け」と言ってもらえないのがしゃくに障った。検査の人とゾエの関係がぎくしゃくし始めた。

 次に絵見て、物の名前や動作をいうテスト。「この犬、何してる?」との質問に、ゾエよりも呆然としたのは私の方。「座っている」と応えるべきなのかな?と考えていたら、ゾエが黙っているので検査の人が怒ったように「犬小屋の前にいるのよね!」と言った。「前」と「後ろ」を判断するテストだったのなら「どこにいる?」と訊いてくれたらよいのに。

 イルカが頭を上にして描かれている絵でも「何をしている?」と訊かれ、これは大人の常識で私も検査の人同様「ジャンプしている」という応えだったのだが、ゾエは「イルカは浮かんでいる」と言った。水面を泳いでいる、ということ。でも、浮かんでいるか、泳いでいるか、ジャンプしているのか誰にもわからない。そこにはイルカが描かれているだけで、背景は描かれていないので「いまイルカが何をしているのか」は誰にも言えない。
「イルカはどんなことをする動物か」と解釈したら「イルカは水の上をぷかぷか浮かぶことのできる動物」とも言えるかもしれない。

 そして、その検査の最後の絵を見て、ゾエが「わからない」と言った時には、もう連れて帰ろうかと思った。その絵はゾエの大好きな「オートバイ」だったのだから。完璧にやる気をなくしているらしい。

 聴診器で心音を聴いてもらうことも、聴力・視力検査も、体重測定や身長測定も、全部拒絶し、泣きわめいて暴れまくり、不機嫌そうな顔の検査官に、続けられないと言われた。
 ノートに「検査拒絶」「三部構成の簡単な人物画さえ描けず」という表記。
 わたしは、検査の人に自分の子供が「できそこない」と評価された気がして辛くなった。このままだと進級できないんじゃないかと心配になった。

 でも、問題はそんなことではなかった。そんな1日のテストで評価できるはずがないのだ。そして、親が「この子はこれができる」「こういう言い方をしたらわかる」「こんな風に言えば自信を持つ」というようなことがわかっていたら、それでいいのだと思った。検査の人の態度や、子供との接し方をみていて、「これじゃだめだ」というのがわかっただけでも得をした。あんな人たちからの評価に惑わされることはないのだ、と思えるようになった。

 教室に戻り、担任の先生にゾエの様子や評価を見せ、親として憤慨していることを伝えたら、身体検査などは、明日またやり直してもらえるように頼んでくれるとのこと。先生は自らクラスでの様子やいつものゾエのことを、検査の人に話してくれるとのこと。
 「知らない人がいきなり来て、いろいろ命令したのが悪い」と先生は言う。クラスにも、泣いて検査に応じなかった子がほかにもいっぱいいたらしい。
 「いつも接して、子供と行動をともにして、毎日話して、たまには個人的にじっくり話し合ったりしなければ、子供のことはわからない。ゾエは今日調子悪かっただけ。成長に関しては心配しないように」と元気づけられた。

 母親が側にいたから、甘えていたのかもしれない。「わがまま言ってないで、早く服を脱ぎなさーい」といつも通り怒鳴っていたら、服ぐらい自分で脱いだかもしれないが「泣くので、中断して帰って来た」という状況は、ただの甘やかしとどう違うのだろうか。

 強制することと自由にさせることの境界がつかめない。不安だ 
 2006年01月04日 初夢は「馬主」?
いつもの水曜日が復活した。
学校が休みなので、午前中に図書館へ行き、午後はノエミが音楽と乗馬。ゾエは前にやったBCGの再検査がよくなかったので、もう一度注射し直すことになった。もう二回ぐらい買いに行っているが、薬屋に予防注射が売っていなかった。今朝また電話が来て、「約束していたけれども、今朝来てもらっても、注射が卸屋から届いていないので来ないでください」と言われた。

 ノエミの音楽も、ゾエの医者も14時15分の約束だったので、ノエミを13時45分に音楽学校に送り、薬屋が開店する14時に出直して注射をもらってから、マスリ先生のところに駆け込んだ。14時14分だった。
 ゾエは痛くなさそうなのに、それでもぎゃあぎゃあ泣いて、またボンボンを2個もらってポケットに入れると、急に元気になった。

 いったん家に帰り、ノエミを迎えに行き、そのあとおやつを食べて、すぐにポニークラブ。

今回もノエミしか来ていなくて、先生とアシスタントは暖炉の前で小さくなっていた。
「一人なんだったら連れて帰る」と言ったら、「せっかくの新学期だから一人でもみてあげる」と言いつつ、先生たちは暖炉から離れられずにいた。

 そうこうしているうちに、女の子が二人、男の子が二人、いつものメンバーが揃った。元気に「ボンナンネ」と言ってキスをして、抱き合って、けんかしながら「今日の自分のポニー」を取り合いして、みんなで外に出た。

 ノエミは休みの間に、馬の絵をたくさん描いた。乗馬用の靴やジャンパーを祖父母にもらった。ヘルメットは私が買ってあげた。ズボンと鞭(ムチ)はJPの弟が使っていたもの。ただし「ムチで操らないと馬が動かないのは、下手だから」というプライドにより、ノエミは家に置いて行く。この頃はたまに鞍(くら)なしでも乗っているらしい。

 「車を売って、馬を飼いましょう」運動推進中。ノエミはこの頃「ジョッカーになりたい」などと言っている。じゃあ親は「競馬の馬主になれる?」と、いっしゅん眉毛が動いた。なんかカッコいい響きである。オペラ・グラスに幅広の帽子。。。ちがうの?
 2006年01月03日 新学期
 新学期。学校が始まった。冷蔵庫が空っぽで、牛乳が1本もなくなってしまったので、買い物に行かねばならない。
大したこともしていないのに、食料だけは減って行く。。。

 子どもたちが昼間いないので「しゃべる人形」も寝ている。「寝ろ」と命令したら、「オッケーグーグー」と言ったあとに目を閉じる。口笛を吹いて起こすまでグーグー寝ている。

 目が開いている時には、まぶたも動くし、鼻の穴や瞳孔が大きくなったり小さくなったりするので、こいつといるととっても恐い。しかも子供の心を惹く技は、母よりも勝っていると見えて、子供にジョークを飛ばして、ゲラゲラ楽しそうに笑わせている。
 
 いつか、母親の座を奪われないかと一瞬心配したものの「この子はお料理も、お掃除も、食器洗いもできないしー」と言われている。
そうか、母親ってそんなに重要な存在なのね。。。ううう。

 子供はクリスマスの時よりも、人形のことを忘れる時間が長くなった。このまま忘れられて、やがて私が《隔離病棟》と呼んでいる、倉庫の段ボールに片付ける日が早く訪れて欲しいものだ。


 買い物に行くついでに、友人におそばを持って行った。なかなか良い出来だと自慢したかったので、むりやり持って行って食べるようにお願いした。夜にメールが来て、子供さんと「おいしい」と言って食べたとのこと。よかった、よかった。
ただ、やはり三日も経つとくっついてしまったらしく、茹でる時にぼろぼろになったらしい。
あとで本を読んだら、こねる時間が少なすぎたのだという結論に達した。
次回はもっと要領よくできるかもしれない。
 2006年01月02日 トシ
 鹿児島出身のトゥーロンに住んでいるトシから電話が来た。鹿児島弁で1時間以上も世間話をして、気分爽快となった。

 「家出をしたくなったらうちにおいで」と言ってもらえたので、近いうちに必ず家出を。。。いや。。。旅行を、しようと思った。

 ノエミはトゥーロンで生まれた。フランス海軍の地中海の軍港があって、ノエミが生まれたころはJPがまだ船に乗っていたので、しばしば「岸壁の妻」した。

 トゥーロンには日本からのお友だちにもたくさん来てもらった。そして鹿児島出身で、ひとつちがいで、同じ誕生日の「トシ」にも出逢ったし、ニューカレドニア時代に親しくしていたカップルとも再会できた。いつか「帰りたい」街だ。

 トシが電話して来て、馬鹿笑いをして、鹿児島の話なんかもして元気が出た。

トシが縁起をかついでくれたのか、夕方にはグアドループのピッションさんからメールが来て、彼の新しい本ができたので、来週わたしにも送ってくれるという連絡だった。
今年も彼の本を訳すこことができたらうれしい。

 気分が良くなったので、トシにこの詩を送ろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
    あした    石津ちひろ

あしたのあたしは
あたらしいあたし
あたしらしいあたし

あたしのあしたは
あたらしいあした
あたしらしいあした

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
 
 明日から学校が始まる。夜更かし癖のついた子どもたちが眠れないようなので、パソコンを消して、私も布団に潜ってみせなければならない。

おやすみなさい。
 2006年01月01日 年越したソバ
 クリスマスにはJPの実家で、お店で買ったアイスクリームの《ビュッシュ・ド・ノエル》が出た。しかも、カスタードクリームではなく、アプリコット・ジャムのクリーム。アプリコットの季節ではないから、あれはインチキな代物だッ!ゆるせん!と思いながら帰って来た。

 クリスマスが近づくといつも《ビュッシュ・ド・ノエル》という、薪を形どったロールケーキを作りたくなる。季節ものだから。カスタード・クリームが入ったロール・ケーキで、チョコレートをドローリとかけ、フォークで木の肌模様を描く。

 クリスマスは自宅で過ごせなかったので、敗者復活戦だーと思って、せっせとデザート用の《ビュッシュ・ド・ノエル》を作っていたら、肝心のソバを打つのをすっかり忘れてしまった。

 夜は除夜の鐘もないし、イベントなしの予定だったから、軽く魚のアルミホイル焼きと、トマトのご飯ファルシにした。ご飯の上にカビチーズの《ロックフォー》がのっている。一応フランスだからー。ご飯は残り物だったので、夜には《お坊さま》にご飯を差し上げられなかった。

 除夜の鐘も、パリのような車が燃える騒ぎもないので、しーんと静かに食べ、シャンペンの代わりにレモネードを飲んで、JPが仕上げたチョコレートまみれの《ビュッシュ・ド・ノエル》を食べた。気がついたら23時57分になっていたので、世間の盛り上がったカウントダウンでも聞こう、と思ってラジオをつけた。

 台所の電子レンジのタイマーは、3分も遅れていたらしくて、ラジオをつけたら、カウントダウンどころか「イギリス人が《ハッピーニューイヤー》と言いながら抱き合っていますッ!」
というシャンゼリゼからの生中継をやっていた。

 あーあ、すでに年が明けていた。
まーた、出遅れちゃったよ。

 仕方ないから、家族で「ボンナンネ」(よいお年を)と言い合って、キスをして、抱きしめ合った。子どもたちは眠くてふらふら。
 あんなに盛り上がっていたのに「ボンナンネ」と言ったとたんに「だから?どうする?」ということになってしまった。

 日本の母に電話したら、8時なのにまだ寝ていた。孫たちが来ていて、夕べはにぎやかだったよ、というので安心した。去年の今ごろなんて毎日寝不足だった人。

ーーーーーーーーー 

 で、ついたちは、午前中に煮豆やまき寿司やみそ汁を作って、午後は昨日食べそこなったソバを打った。レシピには「そば粉を1キロ用意する」と書いてあったけれども、失敗した場合に1キロもどうしたらいいのかわからないので、333グラムだけにした。見た目はなかなかだった。夜が楽しみ。

 そのあと、煮豆をして残った大豆で豆腐を作ろうと、すり鉢で必死に大豆を潰していたら、ラジオで「世界のお正月」というのをやっていて、ちょうど日本からの中継。フランス人の記者の報告。

 「日本人の大晦日は、男性軍と女性軍に分かれた歌合戦のテレビの前で暮れ、初日の出を見なければならないので、みんなけっこう早く寝た。三ヶ日は奥さんが料理をしないので、男性が台所でスープを作る」などと言っている。おいおい。

 《三ヶ日は寝て暮らす日本式》というのをすっかり忘れ、食べるもののことばかり考えていた私。。。働きすぎ。すり鉢を片付けて、大豆はミキサーで潰して、温度調整とか全く無視した、木綿豆腐を作った。これは明日食べる。

 豆腐でインチキして、余裕ができたので、ピアノの練習をしていたら、夜になってしまった。
 夕食は、手打ちソバと、昼に食べ残したまき寿司。なんて豪華。お肉ものがないので、ハムを出した。ちょっと淋しいから、この前日本から届いた《するめ》も出した。来年の大晦日あたりに食べようと思っていたのに。なんて太っ腹。

 手打ちソバは、歯ごたえがあっておいしかった。ソバ職人になれるかもしれない。次回は手打ちうどんもスパゲティーも夢ではないかもしれない。(この食い意地って一体。。。)

 餅の代わりにだんごでも作ろうと思って、あずきを探していたら、この前使い果たしたとばかり思っていた、サトウの切り餅が1個だけ出て来た。去年従兄が送ってくれた切り餅の生き残り。お兄さんの切り餅には、2年がかりでお世話になってしまった。東を向いて手を合わせる。

 木綿豆腐の入ったみそ汁と、おからを使ったお惣菜と、ソバの残りと、サトウの切り餅を四つに割って焼いて食べるのだー。お正月っぽくなった。

 12月31日が過ぎ去った瞬間から、たまった洗濯物も、ホコリもぜーんぜん気にならなくなったので、心穏やか。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
健康で、穏やかで、平和な1年になりますように。
いろんな夢が見られますように。
そして夢に近づくことができますように。

 
 2005年08月30日 はじめの一歩
 フランスはまだ29日です。

(日本より七時間遅れています)

 二冊目の翻訳本に挑戦しようと思って、書いたものを友人に見てもらいました。そうしたら自分では見えなかった欠点が浮き彫りになり、いまはまず勉強しなければだめだということに気づきました。人に読んでもらうことを意識しながら、毎日のことを書くということが、案外よい練習になるとの友人のアドバイスに励まされて、以前より気になっていたホームページづくりに挑戦することにしました。さて、何を書きましょう フランス人の夫、子どもは三歳と八歳の女の子。犬も一匹います。毎日あわただしい我が家のこと、フランスに来て10年目の自分自身のこともちょっと読んでもらえるでしょうか。 まずは記念すべきこの日に、姉へ心から「お誕生日おめでとう」を。
 2005年09月01日 体内時計をまき直す
   7月の初めからはじまった夏休みが、ようやく終わろうとしています。

二ヶ月は長いですね。生活のリズムを元に戻すのが大変です。

 JPはアルビ市で働いています。春に引っ越してからは電車通勤。自宅から駅まで5分歩いて、カルモーからアルビまでひと駅、アルビから職場までは歩いて1分です。朝6時半に起きて7時15分の電車に乗ります。

 学校も幼稚園も歩いて1分のところですが、1時間前には起きて支度をさせます

 子どもたちは7時10分にJPが家を出る時に起こして、「おはよう」と「いってらっしゃい」を言ってから着替えて朝ご飯です。学校は8時30分に始まります。

 今日はがんばったけれども、8時半まで起き上がることができませんでした。そのあと着替えて、ボボの散歩に行ってそのまま公園で遊んで、パンを買いに行って戻ったらもう11時でした。

 午後は3人で図書館へ。夏休みの間ずっと閉まっていたので、待ちに待った開館日でした。借りたものは、乃恵海と想愛と私がそれぞれ、本5冊、雑誌2冊、CD-ROM1枚、CD3枚、特製布バッグで2袋分です。

 ジオログの方に機会をみて、アルビ市内の様子、子どもたちの学校のこと、ボボ、パン屋さん、図書館のことなどを書くことにします。
 2005年09月01日 天気予報
  きのうノエミは図書館で天気予報の本を借りました。その本には天気予報の仕方、雨量の測定、気温の記録などについて、専門的なことが沢山書かれています。そして子どもでもできる、簡単な観測の方法を教えています。

 寝る前に雨戸を閉めながら雲を見て、「明日は晴れだよ」と予報が出ました。部屋には勝手な天気図まで描いて貼り出しています。

 雲を観察するだけでは物足りないので、中庭に雨量と気温の観測所を作りたいと言い出しました。こまったなあ。軒下に温度計を置くだけじゃだめ?

 トゥールーズにはフランスで一番重要な気象観測所があります。(メテオ フランス)

ここから中継で全国のお天気を予報する、ラジオのコラドさんという人は、ちょっとトゥールーズの訛りがあって、とても身近な人のような気がします。

「メテオ フランス」のサイトをインターネットでみることができますよ。

http://www.meteofrance.com/FR/index.jsp  ノエミを疑っていたわけではないけれども、このサイトを紹介するために、ちょっと今日のお天気を見てみたら、9月1日は晴れのち曇り、夜は雨かもしれないそうです。雷のマークもついていましたが、どうなることやら?
 2005年09月02日 続・天気予報
 雲の様子から,本日は晴れとしたノエミ予報は大当たりだった。

「さすがの気象庁も、ノエミには負けたね。雷マークなんか出してさ。」

と鼻で笑っていたら、お昼の12時5分にドーンという雷とともに、ザーと雨が降った。

窓に走りよるノエミは「でも、私の午前中の予報は当った」と負けない。そして「やっぱり本格的な観測用の箱を、造らなければだめだ」とつぶやいているノエミ。

 稲光が見えると「いち、に、さん。。。」と数えて、「雷は四キロ先にいる。ニナのうちに落ちていないかな」と友達の心配をしている。

  ゾエは、昨日からリュックを背負って生活している。明日から行く、幼稚園のリュックだ。

 入園式も制服もないので、お姉ちゃんのお下がりのリュックで喜んでいる。家の中で靴を履いて、雨が上がるのを待ち遠しそうにしている。晴れ間にリュックを背負ったまま飛び出し、幼稚園の門が,本当に今日はまだ閉まっているのかを、確かめに行った。

  朝から三回目。

明日からの新学期は「なんとなく晴れ」

これはJPの予報。

私は下駄を投げて「雨」と出た。
 2005年09月03日 はんどん
   フランスの小学校では,地域によって週四日制を導入している学校がある。

つまり、水曜日と土曜日、日曜日は学校に行かない。

 カルモーの小学校は週四日半だ。水曜日と日曜日は完全なお休みで、土曜日は半日、けれども、三週間に一回は週四日があり、土曜日も完全な休みとなる。

 金曜日から新しい学年が始まって、土曜日は半日だった。

朝8時半から11時半まで、算数と国語の授業があった。

 ノエミは帰宅後,宿題の詩の暗唱をして、前に住んでいたグローイエの友達の誕生会に行った。車で45分掛かった。
 2005年09月05日 ラクダは楽だ?
 道路の脇に、ラクダが、いた。

ヒトコブラクダだった。

 フランス語ではヒトコブラクダのことをdromadaire(実はもっと難しい発音ですが、私はドロマデーと言ってます)、フタコブラクダのことを chameau(シャモー)という。

コブ1個の違いで、単語がすっかり変わる上に、chameau の方は複数形で s をつけない chameauxとなるので、フランス語を学習するものには頭が痛い。

 フランス語学習者の単語暗記に、ちっとも楽じゃないそのラクダが、道路の脇にいた。

真っ赤なテントの脇にいたので、町にサーカスが来ている、ということがわかった

 セネガルにはヒトコブラクダが沢山いる。荷物を運んだりヒトを載せたりして、のっしのっしと歩いていた。

ヒトコブラクダの背中に乗って砂漠を往くのは結構大変だ。

 膝を折ってしゃがんでもらって、よいしょと勢いをつけて上る。鞍(くら)はコブに被せるヘルメットみたいな形をしていて、そのてっぺんにキリンの角みたいなハンドルがある。これでは舵はとらない。落ちないように捕まるだけ。

 この前も高速道路の脇で、いきなり象を見た。仕事に遅れそうで150キロぐらいで飛ばしていたので「目の錯覚だったの?」と思っていたが、象の後ろに赤いテントがあった気がする。

 「あれもサーカスだったに違いない」と、道路脇にはためく、赤いテント前のラクダを見ながら思った。

 トラックに乗って来たのだろうか。人を載せて来るわけはないだろう。

 ラクダも楽じゃない。

 2005年09月06日 サインお願いしまーす!
   鹿児島と同じ、暴風雨だった。

ノエミが稲光のたびに「1、2、3」と数えるので、ゾエが3までわかるようになった。

 ノエミが自分が会長のクラブ員、第1号にしてあげるから、サインしろと言う。

クラブの名前は「エコロヴェール」ecolovert 

ecoloは ecologie エコロジーで、vertは「緑」つまり「自然」ということ。

 サインする前に、会員の決まりは?会費はいくら?と訊いたら、ママンは特別にタダでいいよ。その代わり決まりを守ってよねと、命令された。

 タダより高いものはない。

エコロヴェール会員の決まりとは。。。

1 物をむやみに捨てない。再利用する。

2 水を出しっぱなしにしない。

3 野菜くずなどは庭のコンポストに入れる。

4 食べ残したらボボにやる。

5 雨水を利用する。

6 車を使わない。 

7 電気をつけっぱなしにしない。

  などしっかり紙に書いて来て見せられた。横に漢字でサインした。

 「エコロな生活は貯金もできるよ」JPみたいなことまで言う。

 JPが数年前からエコロな生活に走っている。先日は「水を使わないトイレをつける」といい出したので、家出しようかと思った。トイレだけは明るく水洗にして欲しい。  エコロヴェール入会希望者はご連絡を。
 2005年09月07日 台風
  日本のみなさん、台風お見舞い申し上げます

 九州外の友人知人が、「ご実家は大丈夫でしたか」と訊ねてくださるので、そんなに深刻な台風だと思っていなかった私は、いきなり焦り始めた。

 フランスには台風が来ないので、台風の恐さなどは忘れていたし、考えもしなくなっていたが、去年日本に帰った時に、10月の終わりにも関わらず、台風に遭遇した。

 去年は、8月にも台風で、滋賀県の姉が帰郷の際にひどい目に遭った覚えがあるので、少なくとも2ヶ月間は台風の被害を受け続けたということか。

   子どもたちは去年初めて日本に行って、10月の台風を初体験した。「ばあちゃんの家はおんぼろだから、3匹の子ブタの家みたいに吹っ飛ぶかもね」と言いながら過ごした。

 びくともしなかった。じいちゃんが自分の工場を造るついでに、隣接の自宅にも鉄骨を突っ込んだ家なので。 庭のガラクタは飛んだけど。

 母はゆうべ心細くなかっただろうかと、ちょっと心配。去年の台風の頃には「私はストレスを感じない人間なのよー」とか言っていたけど。1年でいろいろ事情が変わった。

 あした日本に電話してみよう。
 2005年09月07日 ひと安心
  時差があるので、電話できる時間がやって来るのを待っている間、心配な気持ちで過ごしたが、電話に出た母は、元気そうだった。

 父の作業場のガラクタは、台風が来るずっと前に、専門のガラクタ屋さんに片付けさせたらしいので、飛んで行ったものは街灯のかさぐらいだったらしい。人の頭に落ちずに、畑に落ちた。

 「あんたには信じられないでしょうけど、うちの前からガラクタが消えてるんだよ」と言われました。そりゃあ、信じられない。

   「仏壇の裏も雨漏りしなかったよ。ひと晩中見てたけど。あーでも、恐かったよー」と言ってガハハと笑っているので、そりゃあよっぽど恐かったんだろうなあ、と思った。これまで台風が恐いという言葉は、我が家では聞いたことがなかったので。台風が近づくと興奮して、つい海を見に行ってしまうような父子だった。

 県内各地でも、東京でも被害が出ているそうですね。みなさん気をつけてくださいね。釣り人はくれぐれも、台風の前とあとにも注意してください。

 うちの買ったばかりの家は、築100年のボロ家なので、二日間の大雨で玄関の郵便受けから雨が吹き込んだり、窓枠の周りから雨がしみ込んだりしてきた。

でも今日は青空が広がっている。

 ノエミが台風を予報するよりは、意地の悪い台風が起こらないようにするにはどうしたらいいのか、頭をひねっている。ノエミが空に勝てる日が来るのだろうか。。。
 2005年09月07日 ストレスの溜まらない散歩
  二日続いた大雨の間に、身体がさびたような気がする。ボボも子どもたちもあまりにも退屈している。本日は水曜日、学校はお休みなので、歩いて1分の公園へ。いつもの晴れた朝同様、ボボ同伴のお散歩に行く。

(じつは、私たちがボボのお伴)

 ジャン・ジョレス公園といって、労働者のために闘った、カルモー生まれの政治家の名前がついている。公園の目の前の幼稚園と学校も、彼の名前がついている。

 ペタンク場5コートと、遊具のある児童公園のほかに、森・林・花壇・芝生・壊れた噴水と崩れそうな藤棚がある。レンゲソウの首飾りが沢山作れる場所もある。ボボ専用トイレもある。動物トイレ用砂場に用を足す芸のある犬は、うちのボボだけだからこう呼んでいる。橋もある。ベンチが30個ぐらいはある。戦争被害者の慰霊塔もあって、そこではたまに、アラブ人の若者がヴァイオリンを膝に立てて弾いている。居たらゾエが踊る。頭でっかちのジョレス氏の胸像もある。すれ違う人が居ないのは、広いせいではないだろう。田舎の人は自宅に大きな庭があるから、公園を歩いたりはしないのだ。うちの庭は小さく、テレビもないから散歩に出る。

 ダニエル家の庭と呼ぼう。

   子どもたちは公園を一周する間に、松や杉の木に登っている。木の付け根に開いた穴に、頭を突っ込んでいる。キノコを発見して騒ぐ。泥にはまって泣く。大きなどんぐり発見。「リスの二日分の食料だ」と言って穴を掘りはじめる。拾った小枝を振り回す。後ろ向きで歩く。ボボの足を踏む。ボボが暴れて私が転ぶ。転んだ私が叫ぶ。キツツキ・カラス・ハト・リスが四方からやって来て、八方へ飛んで行く

 リスは格納穴のどんぐりに気づかなかった。

「しまった、葉っぱかぶせすぎ」ノエミが焦る。

 ゾエは陰陽のまが玉みたいな、茶色と白のまだら模様の栗を拾った。「病気なんじゃないの?捨てなさい」といやな顔をすると、ノエミが来て「まだ成長段階で、色が出来上がっていない」などと難しいことを述べ、どんな栗の木になるのかなこれ、と言ってポケットに入れる。鳥の羽は気持ち悪くて、自分では拾いたくないので、ゾエにうまいこと言って拾わせている。

 ゾエはカタツムリの前から動かない。エサはないか、エサはないか。

 公園の入り口でブルドーザーが穴を掘っていたので救われた。ゾエはブルドザーに目がない。カタツムリはあっさり見捨てたが、今度はブルドーザーから離れられない。しまった、エサを間違えた。

 公園の前は避ける。あの柵内はブラックホールだ。一度入ったら出られない。子どもたちが吸い込まれてしまう前に、先手を打って「あっちにきれいな花が咲いていたよ」などと言う。お花畑もまだまだエサに使える。

「ママンがバック転をやって見せるよ」もエサになる。

 母は芸がなけりゃあやってられない。

 自宅から往復2分の公園に行ったはずが、往復2時間も掛かってしまった。時間と気持ちの余裕がない日は、家のドアを開ける時にみんな泣いている。叫んで叱って、へとへとで、引きずられて尻を叩かれて、恥ずかしくて、暑くて寒くて、足にまめができて、トイレに行きたくて、などなど。。。

 今日のお散歩では、ストレスは溜まらなかった。
 2005年09月08日 国立音楽学校に行く
  先日電話した音楽学校で、新学期の説明会があるというので行ってみた。

ノエミはドキドキしている。おめかしをしている。着替えまでしちゃってる。オードトワレまでいじったらしい。どうしたんだ、この子ったら。。。。

 「やっぱりヴァイオリンって言ったら、お嬢様らしくしなくっちゃ」

 おジョウさま、おボッちゃまみたいなお子様が30名ばかり来ていた。

そこに控える主婦連も、有閑マダムぞろいだ。そんな所に運動靴で入ってしまった私も、けっこう勇敢なマダムだ。

   先生はちょっと期待はずれな、ちょっとビール腹で、程よいお年頃の、普通のお兄さんだった。ちょっと安心。

楽器も貸してもらえるし、数が少ないので時間的なわがままも言える。 

 9月の間なら無料体験できるらしいので、2回分予約してきた。ノエミ、ヴァイオリンを極めるか!?音痴だけど大丈夫かなあ?

 「音痴は血筋。努力に勝る天才はないのよ。ふっ」

言ってくれる。
 2005年09月08日 夜 国立音楽学校 私の番
     チェロはカルモーでは教えていないので、コルドという町まで行かなければならない。新学期の説明会があるというので、顔を出すことにした。

 先日カルモーの音楽学校で、おジョウさまやら有閑マダムに刺激された私は、ノエミのアドバイスにより、運動靴をサンダルに履き替えた。そしてひらひらのスカートを履いてみたが、市場で2ユーロで買った生地で、手作りしたゴム入りのスカートだから、いまいちチェロ奏者の雰囲気が出ていない。でも、JPのスルドイ指摘により、まだチェロ奏者にもなっていないので、主婦スタイルで迫ることにした。

 崩れかけた建物、窓は立て付けが悪いし、壁にはペンキも塗っていない。木の階段は帰る時にもまだそこにあってくれるのか、不安になりそうな代物だった。

埃アレルギーでなくてよかった。

   集まった生徒は老若男女約10名ぐらい。男性はほとんどみんなTシャツに運動靴。女性はほとんどがノーメークで、中にはビーチサンダルの人までいた。親子で習っている人が沢山いた。

 ゾエという名前の子どもが二人いた。ゾエ1のお母さんはギター、ゾエ2のお父さんはチェロ。ゾエ3の母である私もチェロ希望者。これはなにかの縁ではないかと言われて、あとに引けなくなった、ような。。。縁や運という言葉には弱い。

 会議も楽しかった。壊れた窓から、コルドの丘が見えているのも素敵だった。プロの演奏者である先生は、ピンクのズボンに緑のベルトをしていて、ちゃんと運動靴まで履いているような、私好みのチェロ奏者だった。気に入った!

 コルドまで20キロ、冬は道路が凍結するかもしれない。通えるだろうか?

とりあえず水曜日にお試し無料レッスンを受ける。

 2005年09月10日 地中海を見に行く
    JPの両親は現在、ナルボンヌ*という地中海に面した町のそばに住んでいる。ナルボンヌは地図で見ると、モンペリエと、スペインとの国境のペルピニャンの間。日本の奈良のような町で、地面を掘ったらローマ時代の遺跡が、わんさか出てくるような所だ。

 せっかく2時間半も掛けて、カルモーから来たのだから、なんといっても海を見に行きたい。

サン・ピエール海岸に行った。ここは夏休みには人口が10倍ぐらいになる。夏だけの貸別荘が、水際から山のてっぺんまで広がっている、夏だけ観光客が集まる所。冬に来たら誰もいないが、今はまだ人が沢山いて、レストランやブティックも開いていた。

 子どもたちと海へ。風が強く水は冷たい。岩場で釣りをしている人がいた。JPはゾエと貝殻拾いをした。ノエミはカルカッソンヌの城壁*みたいなのを建てると言って、1メートル四方の穴を掘り始めた。みるみる壁ができて行く。中世のお城のことなら、まかせて。ちゃんとお堀も、跳ね橋もある。

 魚の頭を発見!口が針のように長くて、頭の細い魚のようだ。頭しかないのでわからない。ゾエといっしょにしゃがんで見ていたら、通りかかったおじさんが「オーフィーだ。針魚ともいうんだよ」と言って、魚の頭を置いた所から、指で砂に魚の身体の形を描いてくれた。「こーんなに細長い魚で、長さはこれぐらい」

こんなふうに泳ぐ、と言って見せたくれた動きは、ウミヘビみたいだった。

 海と釣り人を見ると、思い出す人は一人しかいない。
 2005年09月11日 あの、9月11日
  9月11日という記憶に焼き付いた日がある。フランスでは11・9 オンズ・セプタンブルという。あの日、私は商工会議所の会議に出ていた。語学教師が朝から集まって、その年の言語クラスの準備をした。

  お昼にはランゲージセンターからの招待で、アメリカ人とイギリス人の英語教師数名をはじめ、ロシア語、アラビア語、クロアチア語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、フランス語などなどの教師たちといっしょに、日本語教師の私も楽しく食事した。

  午後解散して、車のラジオをつけたらWorld Trade Center とPentagoneに飛行機が突っ込んだところで、「もう1機が行方不明」と言い始めたところだった。家につく間に、そのもう1機がどこか田舎に落ちたと報道していた。ラジオのアナウンサーが「これは冗談じゃありません」と叫んでいたと思う。1メートルごとにスピードが上がっていた。早くうちに帰り着きたかった。

 「世界大戦になったら日本に帰れなくなる」と思った。フランスにもいられなくなって、家族と引き離されるかもしれないと思った。私はフランス人と結婚しているが、日本国籍のままなので。

  その日うちにはJPの海軍の友達が遊びに来ていた。私が泣きながら帰って来たのを見て、「うそだろう?」と言いながら三人でテレビを見た。そうしている間に友達の携帯に電話が入って、すぐに地中海基地のトゥーロンから軍艦を出すので、いますぐ基地に帰って来い、という知らせだった。

   JPは、その前の年に、海軍を定年退職していた。15年勤めて契約が切れたためだ。ノエミが生まれたころは1年に6ヶ月以上は、海の上にいた。どこにいるのかわからないことがよくあった。いきなり電話して来て「先週はシェラレオネ沖で、難民に食べ物と毛布を配っていた」などと言っていた。「シェラレオネってどこ?」平々凡々に生きている人間は、そんな場所など知らない。

 今は毎日顔を見られるので平和だ。そう思っていて、その夜に帰って来なかったら、辛いだろうな、とは思う。

 広い意味で、JPが軍人でなくなってほっとしている。
 2005年09月13日 ゾエ、幼稚園いのち
   「早く幼稚園に行きたい」とずっと言っていた。夏休みの間まいにち門まで行った。新学期の二日前から、リュックを背負ったまま生活した。

 毎朝、さっと起きる。朝ぐずぐずしないで、早く連れて行けとうるさい。ノエミが「私が連れて行くから、ママンは寝てていいよ」と言うが、そうもいかない。

 幼稚園には乗り物がいっぱいある。等身大の台所セットもある。トイレは小さなオマルの水洗トイレだ。昼寝する子は、ぬいぐるみを連れて行ってもいいことになっている。

 教室に入るとゾエは振り向かずに、真直ぐトラクターか、オートバイにまたがる。さっさと帰って、昼に迎えに来てね、と言う。

 小さい組さんは、午後は無理して行かなくてもいいことになっているのに、行くと言ってきかない。11時半から13時半まで、眠い目をこすりながら、我慢して門が開くのを待っている。

 早く寝ないと幼稚園に遅れるよ、とか、いうこときかない子は幼稚園に連れて行かないよ、とか、オドシに使っている。なかなか使える。

 今日、ちょうど休み時間に幼稚園の前を通った。ゾエが緑のオートバイに乗って、元気よく走りまわっていた。友達とぶつかりあいっこをしている。加減しながらぶつけて笑っている。そうか、ボボに自転車をぶつけて喜んでいるのは、この遊びだったのか。かわいそうなボボ。

 「ゾエー」と叫んで手を振ったが、先生たちに見られただけで、娘には無視された。うちでもあんなに遊んでやってるのに、そんなに幼稚園の方がいいのだろうか

 ゾエはこのごろ歌って踊る女になった。「クルマ」も描けるようになった。そういうことも習っているのだろう。  
 2005年09月13日 剣道に行って、キノコをもらう
     私の剣道の先生はドレイさんという名前で、垂れに「道霊」なんて書いている。先生は道場の隣の物置に住んでいる。書き間違いではない。自宅の物置を改造して、道場にしたのではなく、道場の物置に住んでいるのだ。

  アルビ市の武道館という集合スポーツ施設には、柔道、空手、カンフー、太極拳、銃術、ヨガ、テコンドー、(なぜか)ダンスなどのできる、畳と木の床の道場が全部で四つある。剣道と居合道はダンスの部屋で稽古している。大きな鏡があるから嬉しい。

  今年は剣道はやめようかなーと思っていたのだが、夏休みの終わりに先生が「いつ来るの?」と電話をかけてきた。「いつ来ても居るけど、今度の土曜日は稽古をしないよ、釣りに行くから」がははと笑う。

  先生は数年前に肺がんを告知されて、抗がん剤を打ったりもしていたが、まだ生きているということは、癌は治ったのかもしれない。きいていない。今年のお正月にお姉さんが、癌で亡くなった時に「家系だから、次は自分の番だな」と言っていた。

  道霊先生は父と同い年で、言うことややることが似ている。家族がなくて(離婚とかいろいろ深い事情)道場の脇の物置に、二段ベッドを置いて、その上段に全財産を積んで、一人暮らしをしている姿も、みすぼらしくてちょっと悲しいので、私はときどき日本食を差し入れする。本人はその、「手の届く所に全財産があって、死ぬ時はアトカタもなく何も残さないで済む」という人生に満足しているらしい。

   「剣道が一日中できるから便利。通勤時間もゼロだし」なるほど。

  剣道バカだと思っていたら、去年から釣りと、狩猟まではじめた。「剣道ばっかりやってるとバカみたいだからさあ。銃を買ったから見においで」と言われて、それが「新しい釣り竿を買ったから見ろ」と自慢する父に似ていたものだから、ついあとについて、全財産で埋もれた、小さな部屋に足を踏み入れた。テレビはもちろんない。小型冷蔵庫に、釣った魚と撃った鳥が入っている。

  雑誌や、食料や、剣道着や釣り道具の下から、立派なケースが出て来て、そこから散弾銃を持ち出した。

ちょっと危ない。

お孫さんの写真があって、ノエミちゃんだというので、深い縁を感じた。

キノコをもらった。スーパーでも市場でも売っていないキノコだったので、食べ方も教えてもらった。

  いちおう剣道もやった。さし面というのを習った。難しい。
 2005年09月14日 カレの名は。。。
     まるで、恋に落ちてしまった、ようだ。溺れるかもしれない。

  彼を見た瞬間に、口があんぐりと広がって、思わずわあと声が出てしまった。それほどまでに、彼は美しかった。胸がドキドキした。そしてどうしても触れてみたくなった。

  そおっと触れると、その光る肌は滑らかで、温かかった。私の手のぬくもりを吸い込んでいくようだ。なのにぬくもりは返ってくる。はじくと恥ずかしそうに震えてみせる。かわいいっ。背中をなでると、彼の生まれた森の風景が見えた。ニスの匂いに混ざって、風の香りも感じられた。

  両膝でしっかり包んで、胸骨で抱きとめた。抱きしめると、私の腕の中にすっぽりおさまる。愛おしくて、もう離したくないっ、と思った。

  彼との約束に遅れそうだったので、猛スピードで走って来た。帰りは彼を載せていたので、傷つけないようにゆっくりと走った。そうしたら、来る時に見えなかったものが沢山見えた。制限速度の標識も、道路脇のヒツジの群れも、家々の手入れされた花壇も見えた。鼻から唄まで出た。100回も聴いたカザルスだった。

  彼のことを考えると、気持ちが弾み、心が和む。頭の中は彼のことでいっぱいだ。ずっと触れていたい。抱きしめていたい。いっしょに歌ってくれるだろうか。私に優しくしてくれるだろうか。いつまでも仲良く過ごしていけるだろうか。私を見捨てたりしないだろうか。不安だ。

  見ているだけでうっとりする。彼の声を聴くとメロメロだ。今夜は眠れない。

  ああ、彼の名は。。。。。チェロ

  行ってまいりました!!無料体験レッスン第1回目。(来週あと一回ただ)

私の身体に合わせて、3/4サイズという小さなチェロでした。でもちゃんと4弦あります。

病み付きになりそうです。癒されます。

 いろんなことが剣道に通じるので、先生の話を聞いているだけで、血が湧くどころか、肉まで踊ってしまいました。(今日の私は筋肉痛です。)

    昼間に有閑マダムをやるために、夜中に働いています。寝不足でへろへろです。先生のキノコは、虫がいっぱいついていて、私の悲鳴とともに、コンポストに放り込まれました。
 2005年09月15日 ノエミ の 霍乱(かくらん、と読む)
     この時期は、商工会議所の語学部門でも、無料体験レッスンなどがあって、教師はただ働きで、生徒を集めなければならない。日本語はマイナーな言語だ。今年は宣伝効果もあって、中国語とロシア語に、体験入学者が殺到、テレビの取材まで来た!というが、日本語はどうだろうか。

  この日に行くことは、前から決まっていたので、子どもは授業のあと、学童(みたいなもの)に預ける予定だったが、そういう日に限って、いつも幼稚園イノチのゾエが「行きたくなーい」と泣くし、ノエミが風邪気味で吐くし。困った。

   核家族共働き家庭や、バツイチはこういう時に困る。「じゃあうちに居ていいよ」と言えない時に限って、こういうことが起こる。近所には誰も頼める人がいない。

   体験レッスンは30分から1時間の予定だったので、ノエミは仕事に連れて行って、帰りに医者に寄ることにした。ゾエは、入園以来全然泣いていなくて、保母さんに「天使のような子」と言われていたので、今日ぐらい少々泣いてもどうってことない、というわけで、泣いてもらうことにした。先生に「あら、ゾエちゃんも泣くのね」と言われている。よろしくお願いします。

   日本語のクラスには12人の見学者があって、その場で3人の申し込みが済まされた。申し込みが済んでいる人で、体験レッスンには来ていない人もいるらしいので、今年度は最低週2クラスぐらいはもらえそうだ。契約書にサインをした。

   体験レッスンで、ノエミはサクラとなり、授業に参加して元気が出て来た。学校の授業よりも、母のレッスンの方が楽しかったそうだ。今まで「仕事に行って来る」と言っても信じていない様子があったが、これで私がどんなふうにノエミのお小遣いを得ているか、理解できたと思う。

  昼間に走り回っているせいで、翻訳の仕事は夜中にやっていて、毎晩遅くまで起きている。さすがに4日間の3時就寝7時起床がたたって、今日は崩れそうだ。週末は寝て過ごすつもり。

日本は連休ですね。
 2005年09月16日 よくある一日
     朝市に行ってから、学校を休んでしまったノエミを医者に連れて行って、医者と薬屋でいやな目に遭い、気晴らしに家の掃除をして、退屈しているノエミを怒鳴りまくった。

  寝不足でふらふらだったので、インチキな夕食を作り、ちょっとチェロに触って、早く寝た。

すみません、こんな日記で。

天下のわたしにも、こんな日がいっぱいある。
 2005年09月17日 ヴァイオリニスト 誕生 !!
    ノエミのヴァイオリンの無料体験レッスン第1回目、だった。

朝9時からだったので、7時半に起きて、徒歩で行った。

先生が学校の棚から選んで、大人の4分の1サイズのヴァイオリンを出した。

小さくてとてもかわいい。

 ノエミは姿勢が悪いので、そこのところを注意してくださいっ、と母らしきことを言い、あとは、静かに見守ったのであった。

 先生に、筋が良いとか、問題なくできると、太鼓判を押されて、得意になって帰った。

私としたことが「あまり褒めないでください」というのを忘れてしまった。

ノエミは褒められると、とことんやってしまう。そして、得意になって家で威張り散らす。家族にとっては、どーも鼻持ちならない人間だ。

 見ていて「こいつ、筋がいいぞ」とは思いながらも、なにかにつけてチェックを入れてしまって、意地が悪い。わたしって、妬いているんだろうか?子どもの飲み込みの速さには勝てない。

 いつかいっしょに演奏できたら、楽しいだろうなあ。

ゾエが自分も何かやりたいというので、太鼓を与えた。木製で動物の皮が張られた、和太鼓だ。

これは私が子どもの時のお気に入りだった。ゾエが生まれた時に、姉がフランスまで持って来てくれた。

 私は何にでも自分の名前を書く子どもだった。

太鼓の皮には墨で「えんどうせいじろうのむすめみのり」と入っている。

昔は名字がすごく長かったのだ。

 明日は乗馬クラブの無料体験の日。ゾエもロバに乗せてもらえるかもしれない。
 2005年09月18日 ポニー・クラブ
    いよいよ乗馬の無料体験レッスンの日だ。数日前からうるさい子どもたちを、なんとか午後まで待たせて出掛けた。住所を見たら、番号もないような田舎なので、1時間ぐらいは掛かるかと思っていたら、うちから5分だった。

 そういえば、うちも田舎なのだった。。。

  馬やポニーが30頭以上もいて、ぐるぐる走らせる運動場や、飛んだり跳ねたりさせる障害物広場もある。見渡す限り続く草原で、立っているだけで気持ちよかった。広いので臭くない。

  ゾエもロバぐらいだったら乗せてもらえるかと思っていたら、ちゃんと鞍のついたポニーに乗せてもらった。漫画の主人公の「タンタン」という名前だ。ここにはロバなんかいない。名前まで「ポニー・クラブ」だもの。

  夏休み中に2週間の乗馬キャンプを体験したノエミはプロ気取りで、「ゾエ」という名前のポニーにまたがった。本物の馬はもっと大きくなってからだそうだ。(じゃあ、ポニーは馬のニセモノか?)

  高校生ぐらいのお姉ちゃんたちが手綱を取って、敷地内を散歩させてくれた。ちょっと走らせてもらって、ゾエはきゃあきゃあ大喜びだった。メリーゴーランドよりスリルがあるのは確かだ。ノエミなんか手を離したりして、見ているわたしはちょっとこわい。

  ノエミの入会は間違いないだろう。クラブの部長さんが「3歳から教えている」というので、JPの目が光った。家族ではまったら、そのうち馬を買わされるハメになるであろうことが、予測できていないようだ。馬は車1台分のお値段もするが、お買い物にも行けないじゃないの。JPだったら行くか?馬でお買い物?

  うちの近所では、広い庭を持っている人は、草むしりの手間を省くために、庭にヒツジ、ヤギ、馬、ロバなどを放し飼いにしている人が多い。でも、馬はさすがに運動させなければならない、大きな動物なので、広大な庭が必要となる。馬を飼うのは、まず広い庭のある家に買い替えてからだなあ。

  「このクラブでは持ち馬を預かることもできますよ。」とクラブの人。月極の駐車料金(1馬力四輪駆動車?)を払って、馬を預かってもらえるらしい。またもやJPの目がきらっと輝いた。

彼も習いたいのかもしれない。
 2005年09月19日 おやつ
    子どもたちは学校におやつを持って行く。休み時間に食べてもいいことになっている。おやつはできるだけ自分たちで作らせる。今日も1週間分のクッキーを作った。

  子どもの時の台所、というのは嫌な思い出しかない。ハイミーをこぼして母に怒鳴られたこととか、料理の手伝いをしなかったんだから洗い物、というわけで、湯沸かし器もないのに、皿洗いをさせられた記憶。

 袖と前を濡らした、冷たい思い出。今でも洗い物は嫌いだ。

  フランスの台所にはハイミーはないが、うちには湯沸かし器はあるので、台所に子どもを呼ぶことができる。子どもたちはお菓子づくりが大好きだ。

  ただ、ちょっと面倒なのは、なんでもできると思って、言い出したら力づくでもとことんやる3歳と、なんでも知っていると思って、へらず口を叩き始めたら、耳が聞こえなくなる8歳が相手だ、ということ。

台所が戦場と化するのも時間の問題だ。

  ホトケの私であるから、最初は余裕を見せて、冷静にお手伝いを差し上げているが、言うことは聞かないし、言ったことはやらないし、汚すし、喧嘩するし、ああ、腹が立つ。。。

オーブンにお菓子を入れて、怒鳴り始めたら、子どもたちが消えてしまった。

  この前、母に「子どもたちを、ガミガミ叱ってはいけない」と言われた。

まーさか、あの母に、そう言われるとは思ってもいなかった。

彼女は歳とともに小さくなり、おそらく丸くもなったのだろう。

  子どもたちが作ったハートのクッキーを、食べさせてあげたいなあ。
 2005年09月20日 PTA役員
     昔から『児童会』やら『子供会』にはよく参加したものだ。これはPTA役員や、商工会役員や、お見合い(させるの方)が大好きな母の血だろうか。頼まれたら断れないというか、頼まれたら「こんな私でも信頼されてるのかな」と思って、有頂天になってしまうのだ。

  新学期の親の会があると連絡があったので、行ってみた。JPとじゃんけんして負けたので、私が行くことになった。実際には転校したばかりで、教師陣の顔も知らないし、学校の中に入ったこともなかったので、二人で行きたかったのだが、子どもを連れて行くわけにはいかない。

  でも、全350名ほどの生徒数を誇る学校でありながら、集まった親は21名だった。男性は1名。この男性の妻だったら、私は自慢できたのに。そしてJPはハーレム気分を味わえたのに。

  遅刻をしないで会議室に座っていたのは、私だけだった。日にちを間違ったのかと思って不安になった。集まって来た人たちは、クラス別の役人さんたちがほとんどで、「新入り」は私を含めて三人だけだった。でも私以外の二人は堂々としていて、本当に新入りなのかなあと疑いたくなった。役員だから来たというか、今年も役員になりたいから来た、という人たちばかりだった。

  けっきょく教師陣には会えなかった。校長先生と園長先生が新学期の挨拶をすると、五分間だけお話があり、「じゃああとは会長さんに任せます」と言ってさっさと帰ってしまった。

  この学校ではママさんパワーがすごそうだ。20時から始まった会議は23時半に終わった。無駄話も、甘ったれたことを言う人間も居ない、白熱した会議だった。21人全部がなんらかの役員に振り分けられたので、私まで幼稚園の2年生のクラス役員になってしまった。

  前の学校では、役員でも1年に2回しか会議がなかったが、ここは毎月会議があって、毎月何かしら、母親主宰の催しや、学校行事の引率もボランティア参加もあるらしい。こわい。

  ただ、そういう積極的な人たちは、『ガイジン』にも結構オープンというか、興味津々というか、私にも声をかけてくれる。これから挨拶してくれる人も、増えるかもしれない。あとは、お茶に誘われないことだけを祈る。

  私は自由業だから、まさか夜中に働いているとは思われていない。昼間に疲れるようなことをしたくないし、昼間はいつも寝ぼけているので、あまり誘われるのも困るのだ。

  これだから、トモダチ、というものもできないのかもしれない。
 2005年09月21日 ヴァイオリンのある風景
     ノエミがぐちゃぐちゃのベッド周りを片付けた。雑巾がけまでやっている。ベッドの枕元にある棚に、ヴァイオリンを置くためだ。

  今日の午後『カルモー音楽のともの会』で、ヴァイオリンを貸してもらった。年間使用料が65ユーロだそうだが、65ユーロもお財布に入っていなかったので、2週間後に払うことになった。

保証金として1500ユーロの小切手を渡したが、その小切手は1年後に戻って来ることになっている。ノエミが、ヴァイオリンを壊さなければ、だ。

  工場生産のものだったら、3000ユーロか5000ユーロで買えるのではないだろうか。でも、靴と同じで、ヴァイオリンは身体に合わせて買い替えなければならないので、当分は借り物でよい。

  チェロはカルモーにはなくて、アルビまで行くようにと言われたので、ちょっと面倒くさくなった。ただ、今借りている、先生のご主人のチェロは、月に24ユーロのレンタル料なので、『ともの会』で借りた方がずっとお得だ。でも本当は、このチェロに愛着を感じ始めているので、手放したくない。

   私は今日、ただレッスンの2回目に行っていた。3つの音があったら、2、3曲は弾ける。でも弓はまだ握らせてもらえなくて、弦をはじくだけだ。先生の伴奏つきで演奏した。繊細な楽器だから壊す心配と、難しい指使いのために、大人の初心者はしかめっ面をしていることが多いそうだ。私みたいに、にやけた顔でやる者は少ないらしい。だって嬉しくてたまらないのだ。それに、もともとにやけているので、どうしようもない。

   今度の日曜日に、近くの小さな教会で、先生とお友だちのトリオ・コンサート(無料)があるそうなので、ノエミを連れて聴きに行くつもりだ。

   ゾエは、太鼓を首からぶら下げている。右手にバチ、左手にカスタネットを持ち、何やらオンガクしている。音楽に飽きたら、私の『キラキラ星』に合わせて踊っている。

   危ないので、ちょっと足元も片付けないとだめだ。なによりも、ぐちゃぐちゃな部屋には、ヴァイオリンもチェロも全然似合わない、と気づいた。
 2005年09月22日 しごと
    今週、めずらしく実務翻訳の仕事が入った。パリの某有名レストラン(おそらく四つ星)の秋のメニューだ。これまでそこのメニューを春のメニュー、夏のメニューと2回訳したので、今後も定期でもらえるのかもしれない!?

  行ったこともないレストランの、食べたこともないメニューを訳すのは無謀だ。

『キノコのタルト』だったらまーだいたいわかるが、『きのこの森』というようなロマンチックな名前がついていると、その料理が一体どんなものなのかわからないので、『煮た』も『焼いた』も使えない。キノコがただの飾りなのか、キノコソースなのか、そこのところを知りたい。よだれを抑えながら時間ばかりが過ぎる。

  数ヶ月前から、プロの翻訳家さんのお手伝いで、唐の時代の女帝のことを細かく調べている。この本はとっても面白いので、出来上がったらみなさんにも紹介させていただくことにする。

  唐の時代は写真もなかったし、資料と言ったら漢文を読んだりしなければならず、大変時間が掛かっている。宇宙科学や自然科学よりは、最新情報が少ないので、インターネットでの検索も限界がある。それに、行ったことも、見たこともない女帝の宮殿での私生活なんて、四つ星レストランのメニューと同じくらい無謀ではないだろうか。翻訳家さんというのは、想像力も豊かではないといけないようだ

  先ほど商工会議所から電話で、通訳を頼まれた。日本のとある歴史地理の研究者ご夫妻のお伴をして、アルビにあるラペルーズ博物館で通訳をして欲しい、とのことだった。

 私にとって通訳というのはメニューよりも更に無謀だ。でも、ラペルーズさんという日本のオホーツク海を通過した、アルビ生まれの冒険家の博物館なので、前から興味を持ってはいたのだ。

  とりあえずは、下調べのために、土曜日に一人で博物館見学をすることに決めた。いつもパソコンと辞書に向かっている生活なので、息抜きにもなるだろう。

ちょっと勉強しておけば、私だって人間相手の通訳ができるかも、しれない。

日本のみなさんにラペルーズのことも紹介できるかもしれない、という記者魂。 しごと。しごと。。。。
 2005年09月23日 ゾエも かくらん
    ゾエが風邪気味だ。鼻水がずるずる。幼稚園でも流行っているので、仕方がないといえば仕方ない。

  お昼寝の時にゾエの隣で寝ているマリーヌちゃんが、今週ずっとひどかった。でも、両親共働きなので、先生にいやな顔をされても、幼稚園に連れて来てしまう。

  私は、マリーヌちゃんの様子を見ながら「こりゃあ、次はうちだよなあ」と思って、今週はことあるごとに「ゾエちゃん、幼稚園に行かなくていいから、うちでママンと遊ぼう」と言っても、どーしても幼稚園に行くと言って聞かなかった。

ほら、ごらん。

  明日は土曜日で、幼稚園に来る子も少ない。マリーヌちゃんも来ないと言っているし、ね、明日こそはうちでじっとしていようよ。

「マリーヌが来ないなら、先生独り占めできるチャンスじゃん」ああ、ノエミ、それを言っっちゃあ、おしまいだ。

  ゾエは、鼻水をずるずるさせながら、明日はマリーヌガ居ないから、先生を独り占めできると言って、張り切っている。そのうち先生も、鼻水ずるずるで、クラスじゅうが風邪を引くだろう。

いよいよ、秋が来た。このまま鼻水ずるずるの冬に突入して、春までみんなでずるずるだろう。

  朝晩たいへん冷え込むようになった。うちはJPが屋根裏を寝室にすると言って、天井に穴をあけたので、すきま風というか、、、なんともまあー激しく吹き抜けている。

  冬を迎えられるのか不安だ。

公園でリスを見た。ノエミによると「冬支度」らしい。