まちづくりネットワークちくご
本文へジャンプ

鶴 恵子 (理事長)

[ホームページ]
メンバー紹介
今村 榮一
今村 美樹


古賀 和広
芳司 英樹
堤 秀敏
野田 英治
梅ア 浩平
石田 勇
成清 美惠子


山口 絹江

私は、平成14年10月に「急性骨髄性白血病」と宣告され、地獄のような辛い抗ガン剤治療を受け、半年の入院生活を送り翌年の4月に退院しました。退院後は、月1回の診察も順調にいき、今年で5年になります。先月、骨髄検査を受けました。その結果、完璧に完治!! 遺伝子レベルでもガン細胞は、1つも残っていない「合格です!!」という主治医からの言葉!とてもうれしく感謝の気持ちでいっぱいです。白血病は完全に治るんです!血小板が1万個もなかった私、数時間遅かったら命がなかった私が、今こうして元気な毎日を送り、2年前には自身のエステサロンもオープンすることが出来ました。お客様に心身ともに癒しを与える仕事に生きがいをもち、ボランティア活動にも参加させてもらってます。今、生かされている命に感謝し、誰かの為になりたいと願い動き始めた私です。

長 直樹

きっかけは、テレビのCMでした。

時々流れるCMを見て、
「健康だし、骨髄を取ったとしてもまた元に戻るんだろうから」
と軽い気持ちで次の日電話しました。
当時は「ボランティアをする」なんていう意識は全然なかったし
(それは今も変わりませんが)、
まったく気まぐれ(失礼!)みたいに申し込みをしました。

その後、血液センターで血液採取し、登録。
その時「よかったら献血もお願いします」と言われ、
初めて成分献血を体験しました。

登録から暫くして2次検査の為の血液採取。
ここまでは、登録した人は全員受ける検査だそうです。
これも血液センターまで出かけないといけません。
もっと簡単に初期検査ができればいいんですけどね〜。
(現在は1次と2次は同時にできるらしいです)

登録はしたものの、ドナーになるなんてないだろうと
勝手に思っていました。
ところが、登録からわずか数ヶ月後、バンクから届いた封筒を
開けてビックリ!
そこには「HLA適合〜。ドナー候補になりました・・・」の文字が!
「えっ!うそっ!何で!?」 
続いて「いつ?仕事は休めるの?」
と、うろたえる小心者でした・・・
(後で聞いたら、この時点では候補になっただけで
ドナーに決った訳ではないそうです。)
意思確認アンケートはもちろんOKで返信しました。

その後コーディネーターさんと担当の先生との初顔合わせ。
採取までの予定や手術・麻酔の内容と危険性などの説明を受けます。
採取には万全を期すが完璧ではないこと。事実、過去に1件のドナー死亡例も
あるとの事。
ドナーとして肉体的にも幾らかのリスクがあるそうです。

そしてもう一度血液検査と健康診断。
結果は良好で、晴れてドナーとなりました。
そして第三者を交えての最終意思確認。
採取の2〜3週前に自己血の採取を2回。これは採取時、自分への輸血用。
ここまでで病院通いが5〜6回。仕事のやり繰りもけっこう大変です。

最終意思確認後は、ケガと病気に気をつけるようになりました。
趣味のモトクロスも控え、バイク通勤を車にしたりと自分なりに
注意してました。特に採取の1週間前(放射線による患者さんの
前処置が始まり、白血球を全て殺してしまう為、これ以降の移植キャンセルは
死を意味します)からは絶対ケガしないよう注意しました。
この1週間はかなりのプレッシャーでした。

そしていよいよ採取の為の入院。入院中は退屈だろうなーと、本を1冊
持ち込みました。病室(なんと個室!)に案内され、入院中の予定を聞きます。
1日目(今日)・・・ちょっとした検査だけで特になし
2日目     ・・・採取
3日目     ・・・経過観察
4日目     ・・・退院
その後、担当の先生が挨拶にこられました。
 「移植すれば直るんですか」 
と聞くと、
 「直る確率は60%です」 
との返事。
ビックリしました。移植すれば直るものと思っていました。
 「えっ!それくらいですか?」 
と言う自分に、先生の言われた言葉は今でもはっきり覚えています。
 「でも、(移植を)しなければゼロなんです。」
確かにその通りです。誰だって死を望んでいる筈ありません。でも、他に選択の余地がなく
僅かでも望みがあるなら、それにかけるのは当然のことです。
自分たち健康な人には『60%しか』でも、
おそらく患者さんにとっては『60%も!』なんでしょう。

コーディネーターさんから患者さんからの手紙を受取りました。
患者さんのお父さんからのようで、移植に感謝していること、
入退院を繰り返し直る見込みは移植しかないこと、など切々と
書いてあり、思いがけずもらった手紙だけに嬉しさと同時に
ショックでした。
患者さんとドナーはお互いのことは全く判らず、何の接点も
ありません(もちろん、「骨髄」という主役はありますが)。
その為、事務的な入院で患者さん側のことも何となく他人事の
ように思っていたのかもしれません。
それが、手書きの手紙をもらったことで、一気にリアル感を増し、
初めて患者さんと精神的なつながりみたいなのを感じました。
また、あらためて自分が今、命に関ることに携わっているんだと
思い知らされました。
 「がんばって成功させねば!」 (って、自分は寝てるだけですけどね・・・)

その日は簡単な検査だけで、本を読んですごしました。

そして2日目の採取当日。
当時は半身麻酔でした。(現在は全身麻酔です)
だから、採取中は意識があるそうで、怖いながらもちょっと楽しみでした。
ところが!始まってからの記憶がま〜ったくない・・・
病室のベッドでボーっと目が醒めました。
 「あれ?何で?」
たぶん手術前に飲まされたボーっとする薬(?)のせいでしょう。
先生の問いかけには返事してたそうですが、ぜーんぜん覚えてません。
めったにない経験なのに、残念です・・・
まっ、採取も無事に終わり、患者さんに渡ったとのことで一安心です。
痛みは腰がズーンと重ーい感じ。「痛い!」という感覚ではありません。
今日一日は安静にしていなければならず、退屈です。
本を読んですごしました。

3日目は検温や術後のチェックだけで、1日の殆んどを
本を読み、その日のうちに読みきってしまいました。
腰の鈍痛はあるけど、普通に歩き回れます。

4日目は退院です。
患部は押すと痛みはあるけど、僅かです。
腰の重みは徐々に引いていくそうです。
お世話になった病院の方々にお礼を言って帰りました。
4日ぶりの外です。長かったような、あっという間だった4日間でした。
この4日間と、この時読んだ本は一生忘れないでしょう。

退院後、あの手紙を読み直しました。
 「元気になっただろうか?」
気がかりではあるけど、知るのは怖い。
 「もしかしたら元気になっていて、もうどこかの街ですれ違っているかも」
なんて、勝手な想像をしているうちに、腰の痛みもなくなっていました。


一ヶ月ほどたち、術後の検査も無事終了。
いろいろお世話をしてもらったコーディネータさんにお礼を言って
移植に関する全てのことが終了。
最初の連絡が来てから約半年、今までにない貴重な6ヶ月が終わり、
これまでどおりの平凡な生活に戻って行きました。

それから数年が経ち、結婚。
さらに数年後、子供が生まれ、オヤジになった年のある日。
やっぱりそれは、突然やってきました。

バンクからの色付き封筒を見た瞬間、ピンと来ました。
 「たぶんドナー候補の連絡だと思う」
そう嫁さんに言いながら開けた封筒には、かつて見た
 「HLA適合〜。ドナー候補になりました・・・」の文字が。
 「やっぱり!」
数年前の記憶があらためて蘇りました。

体はいたって健康。もちろん提供の意思も全く変わりません。
1つ変わったのは、今は家族がいること。
それによる、前回は感じなかったリスクへの不安・・・。
以前提供したことは、嫁さんにも話していたし、反対しないであろうことは
判っていました。
手術の不安より、嫁さんを心配させてしまうことの方が気がかりでした。
でも、患者さんにとってはやっと見つかった貴重なドナーの一人。
断る訳にはいきません。
意思確認アンケートはOKで返信しました。

暫くして、前回同様コーディネータさんと担当医師の方との初顔合せ。
二人とも前回とは違う方でした。
先生の説明の中で前回との違いは、半身麻酔が全身麻酔になったこと。
この時は「へー、そうなんだ」程度にしか聞いていませんでしたが、
これが甘かった。けっこーキツかったです。

その後の健康診断や自己血採取等は、前回と同様でした。
(体はかなり衰えていたでしょうが・・・)

そして入院当日。
前回は一人で来て一人で帰りましたけど、今回は嫁さんと子供も一緒.。
心強いものです。(嫁さんは不安だったでしょうが)
病室に案内され、手術や麻酔の説明。

夕方、嫁さん達も帰り、一人に。
今は、患者さんの年代や大まかな地域は知ることができるそうです。
 「今回はどんな人だろう」なんて考えてるうちに、ふと前回、患者さんの
お父さんからもらった手紙のことを思い出しました。

 病気を知らされた時のショック
 病状が進行していく子供を見る辛さ
 ドナーが現れてくれるのをひたすら願いながら待ち続ける不安

辛かった思いと、ドナーが見つかり希望が持てたことが
切々と綴られていました。
『どんな事をしてでも、子供を助けたい。
できることなら、自分の命と引き換えにしてでも・・・』
子供を持つ親なら誰だってそう思うはずです。
手紙をもらった時には、そこまで理解できませんでした。
自分が親になった今、手紙に込められた
我が子を思う気持ちが痛いほど判りました。
「あの時の患者さんは元気になったんだろうか?」

そしていよいよ、採取当日。
前回とは違い、始まる前に飲む薬は無く、
意識ははっきり。手術室の中もバッチリ見渡せます。
そして麻酔。
今回は全身麻酔なので、酸素マスクみたいのを付けられ
先生の「麻酔入ります」の合図で麻酔開始。
息を吸い込みながら、「よし、耐えてやる!」と、思った瞬間
頭を殴られたかのように、一気に意識が・・・


「・・・×!☆・・*○」 何か聞こえる・・・!
突然の吐き気と、のどから何かが出る感触で目が醒めた。
呼吸用チューブが抜かれたとこでした。
意識が無くなってどれくらいの時間が経ったのか、全く判りません。
頭がボー−っとして、何も考えられません。
落ちていきそうな意識の中で、看護士さんの
「無事に終わりましたよ」
の言葉に、かろうじて
「(患者さんが)良くなるといいですね」
と答えたのだけは覚えています。
手術室を出て病室に向かう間も、もうろうとして目の前の景色が
コマ送りのように流れていきます。
結局、その日一日中寝たり覚めたりの繰り返しでした。

3日目。
眠気はありません。
「よし!覚めた!」と、思ったけど甘かった。
起き上がると、頭はガンガン!歩こうとすると、足はフ〜ラフラ。
まさに二日酔いです・・・
前回はこんなことは全くなくて、ビックリしました。
半身と全身の麻酔の違いらしいです。
腰はズーンとした重ーい感じの痛みで、こっちは前回と一緒。
結局、一日ベッドでボーっとしてました。
嫁さんと子供が来てくれました。ホッとします。

4日目。
前回と同じく今日で退院。
二日酔い(?)は回復です。
腰の重い痛みはありますが、前回と一緒で時間とともに
消えていくでしょう。
迎えに嫁さんと子供が来てくれました。
車で往復3時間、毎日大変だったでしょう。感謝です。
コーディネーターさんと先生に挨拶して無事退院。

バンクの方針で、ドナーになれるのは2回までだそうです。
つまり、ドナー登録していても今後はドナーに選ばれることはない。
ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちです。


この2度のドナー経験は自分にとって、ものすごく大きなものでした。
今回ほど、‘命’のことを考えたことはありません。
これまで自分の周りでも何人かの人が亡くなりました。
それは(失礼な言い方ですけど)消えていった‘命’です。
でも、白血病は誰かの協力があれば救える‘命’です。
提供したのは、誰もが持っている少しばかりの骨髄です。
でも、それよりも遥かに多くのことを得たと思います。
ドナーにならなければ、たぶん一生感じなかったことでしょう。

退院してから何人かに「偉いね」とか「すごいね」とか言われました。
全然「偉く」も「すごく」もないんです。
そんな人達の中に一人でも「自分も登録する」と言ってくれる人が
いてくれたらいいんですが・・・
ドナーとしての役目がなくなった今、登録の手伝いみたいなことが
できたら、と思います。

大石 英雄

1955年筑後市生まれ、高校2年の時にはじめてギターを手にして以来フォークソングに惹かれていった。その後、ロック、ブルース、ブルーグラス、ジャズ、レゲエ、バロック等様々な音楽に興味を持つが、本格派志向でコマーシャリズムやメジャー路線とは一線を画したミュージシャンを良く聞き、他人からはマニアックと言われつも、本人は『売れる音楽が良い音楽とは限らない(特に日本では)と』いたって気にしてはいない。21歳の時、障害を持つ人たちの詞に曲をつけてメッセージを伝える 『全国縦断わたぼうしコンサート』に参加。 帰筑後ボランティア活動を始め現在の仕事へつながる。 笠木透とフォークスのコンサート企画をきっかけこフォークソングチーム 『マウンテンゴリラ』に参加し現在にいたる。グループやソロで年間20回程のコンサートを楽しんでいる。