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書名 異形の王権
著者 網野善彦
初出 1986年8月 平凡社
異形の王−後醍醐の歴史的意義をこれほど、端的に論じた文章は衝撃的である。『異形の王権』は第1部「異形の風景」、第2部「異形の力」、そして第3部「異形の王権―後醍醐・文観・兼光」に分かれているが、特に第3部「異形の王権」に着目したい。この「異形の王権」の部分はこの『異形の王権』のために書き下ろされたものである。1986年であるから私に衝撃が届いたのは約1/4のタイムラグがある。いかに勉強不足であるかを思い知らされた。受け止める主体がなければ、衝撃にはならない。
「佐藤進一によれば、後醍醐の政治、人事は、王朝国家の体制としていた「官司請負制のオール否定」、官位相当制と家格の序列の破壊、『職の体系』の全面的な否定であり、古代以来の議政官−太政官の公卿の合議体を解体し、『個別執行機関を天皇の直接掌裡に入れること』を『最も基本的な改革目標』としていた。この驚くべき専制的な体制のモデルは、宋朝の君主独裁政治ではなかったか、と佐藤は推測している」を踏まえて、どうして後醍醐はこのような政治体制を臨み、ひと時であってもそれを維持しえたかを展開している。
網野は後醍醐が抱えた危機を「13世紀後半から顕著になりはじめた荘園・公領のさまざまな『職』をめぐる対立は、下は百姓名主職、上は預所職・領家職から遂には本家職にまで及び、とどまるところを知らず、王朝の支配体制―『職の体系』は、根底から流動化しはじめていた。」ととらえ、その職の流動化は天皇職にまで至って、幕府が実質的な補任権者となり持明院、大覚寺両統の争いとして現れたと述べる。いわゆる下克上は天皇職に天皇家以外の人が補任される可能性もうかがえる状況にまで至っていたと網野は考える。この危機に対して「後醍醐はまさしく『大乱』への道に自らを賭けた。可能な限りでのあらゆる権威と権力―密教の呪法、『異類』の悪党・非人までを動員し、後醍醐は新たな『直系』の創出、天皇専制体制の樹立に向かって突き進んだのである。危機はそこまで深刻だったのであり、その実現は尋常一様な手段では到底不可能であった。『異形の王権』はこうしてその誕生への道を歩みはじめる。」「もしも万一、この政府の制度―『天皇職』のみを永代の職とし他をすべて遷代の職とするこの体制が定着したとすれば、これは間違いなくそれとは異質な天皇制を新たに生み出すことになったであろう。」だが、新たな体制を生み出すために当時の国際的国家水準であった中国宋朝君主独裁制にならった商工民の重視、年貢等の20分の1の「御蔵」への新済などは、3年の短命に終った。
東国の武家政権とともに西国の王権も瓦壊した後には何が生じたのであろうか。「聖なる存在」としての天皇の実質が失われ、結びついていた南都北嶺、大寺社、供御人、神人、寄人、商工民、芸能者が聖なるもの切り離され、実利に長けた「有徳」と、「穢」とに分岐していった、と見ている。「聖」から「穢」「賤」への転化がはじまった。それは今日まで及んでいる。
60年間に及ぶ南北朝の動乱を収拾した足利義満は、「自らの子息を天皇にしようとも試みているが、結局、室町将軍は天皇から補任されるだけではなく、明の皇帝から日本国王の地位を与えられ、二つの権威に両属することによって、はじめてその立場を保ちえたのである。」このように北朝が南朝を打ち倒せず、合一という形をとったことが、礼儀を「家業」とする天皇を江戸時代において存続させた要因のひとつ、別の言い方をすれば「後醍醐の執念の作用」を認めざるをえないと語っている。
この時代の様相は東アジアとの共振のみならず、網野は権威の構造変化について、西欧社会の転換に大きな役割を果たしたキリスト教と、一向一揆やキリシタンの弾圧による呪術的世界の日本社会の基底での存続を、人類史の普遍的な課題としてとらえる必要を述べて、文章を閉じている。
現在、経済・社会のグローバル化にあって、近代社会を成り立たせていた職(業)の体系も解体し、また近代国家の権威によって保証された法制度も揺らいでいる。それでもなお近代国家は地域的な存在として大きく位置を占めている。この課題のなかで衝撃を受け止めてみたい。中世の意義を、普遍性のなかでとらえてみることは重要であり、明治維新にはじまる近代国家の日本的な建設を相対化する契機としてさらに、考えてみたい領域である。(2,010年11月3日)