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高田屋嘉兵衛
1769年(明和6年)、淡路国都志本村(現兵庫県洲本市)に生まれる。
1798年、船持船頭となり箱館に出店し独立。翌年、幕府御用御雇となり、幕命により国後・択捉の航路を拓く。
1800年、択捉の漁場を開き、幕府から択捉航路用の官船5隻の建造命じられる。
1801年、蝦夷地定雇船頭を命じられ三人扶持・手当金27両・名字帯刀御免となる。
1811年、幕府はロシア人ゴロウニンらを捕らえ、その翌年には嘉兵衛がロシア側に拿捕される。
1813年、両者共解放される。
1818年、病気療養の為故郷淡路に帰郷。1828年、59歳にて永眠。

箱館を拓いた男〜高田屋嘉兵衛
極貧の四面楚歌状態から身を興し、豪商へと上り詰めていった嘉兵衛。単なる「大金持ち」になる目的では無く
「人々を豊かにする」理念を貫き通す快男児。いち「民間人」の嘉兵衛に、幕府すらその卓越した技量を求め、
さらには「未知なる領域」に巻き込まれる運命を、その人間力で航り切る。嘉兵衛の「まとも」な人間力の真髄と
その青年像に魅せられた才谷(管理人)渾身?の函館・嘉兵衛リポ。どうぞご覧下さい。
参考文献:司馬遼太郎「菜の花の沖」
嘉兵衛とニコライ
東京駿河台のニコライ堂で有名な大主教イオアン・ディミトロウイッチ・カサーツキン。(ニコライとは修道名)
このニコライが函館にやって来たのが文久元年(1861)。彼は神学校時代にゴローニンの「日本幽囚記」を
読み、生涯日本に骨をうずめようと思ったという。箱館赴任にあたって彼は高田屋嘉兵衛の肖像画を持って
来たといい、それほどにこの神父は当時既に歴史上の人物の存在になった嘉兵衛が好きであった。
嘉兵衛の遺族達を訪ねたニコライは、嘉兵衛の人柄の立派さについて口を極めて讃えた、という。
(参考:司馬遼太郎「街道をゆく:北海道の諸道」)
此上は、両国平和の義、相願、何分にも宜敷取計申度心底。
日露両国の齟齬を解決すべく決意した文章である。「遭厄自記」
北洋漁業者でもあった彼にとって、日露の無用な軋轢でこの水域の平和が乱れることは最も望ましくなく、
そういう意味からもこの言葉には十分のリアリズムがある。と司馬遼太郎氏は評し、嘉兵衛のこの文章は
その肉質からにじみ出たもので十分な重味がある、と記している。更に氏は、嘉兵衛は「好漢」、と述べ
「上に媚び下に威張ることの多い日本人の類型から、かれの場合、らくらくとぬけだしている」としている。
嘉兵衛本

「菜の花の沖」(司馬遼太郎)全6巻
言わずと知れた司馬遼太郎先生の代表作のひとつ。
高田屋嘉兵衛の生涯を作品として描く長編江戸歴史浪漫。江戸時代の商品経済、海運の勉強にもなる。
私的には「竜馬がゆく」に次ぐ面白さで、身分としてサムライでは無い江戸期の民間人が、その身分を越えた
活躍に感動させられる。北海道に夢を求めた先人のひとりとして、群を抜く面白さである。
私はこの作品を通じて「まとも」という言葉の意味を知った。
「日本幽囚記」(V・M・ゴロウニン 斉藤智之訳)TUV
国後島で日本人に捕らえられた海軍大尉(当時)ワシーリィ・ゴロウニンの手記。
1811、1812年及び1813年の、鎖国下の江戸期日本を体験したロシア人の手記。
「外の眼」から見た江戸期の日本を読む上で大変貴重な手記とも言える。この「ゴローニン事件」を契機に
後に高田屋嘉兵衛がゴローニン同様に、逆にロシアに拿捕されカムチャツカに抑留される事になる。
「マツマイ島」でゴローニンが眼にした日本とはどういう所であったか?これまでヨーロッパでほとんど知られて
いない日本人というものはどんなものであったか?とても興味深い一冊である。

「釣りキチ三平」カヒの秘密編
作者の矢口高雄先生も大の嘉兵衛ファンとの事で、先生のマンガにも嘉兵衛が登場している。
菜の花の沖をベースにしたモロ嘉兵衛の話が漫画として楽しめる。三平と釣りを同行する「ごっつい」
キャラクターが、マンガの中では七代目・嘉七さんとして描かれている(え・・)。
市内末広町の北方歴史資料館にも、矢口先生の色紙が飾られている。
活字が苦手・・、という人も、これで嘉兵衛さんの素晴らしさが解る感動のオハナシです。
函館・高田屋嘉兵衛巡り
1.高田屋嘉兵衛像

函館護国神社からまっすぐ下ったグリーンベルト地帯。
護国神社坂、宝来町は通称「高田屋通り」。
函館山を背に、嘉兵衛がそびえ立つ。
高さ3.6m、重量2トンで日本の三大銅像とも称されているらしい。
イメージは嘉兵衛43歳の頃、ディアナ号訪問時とのこと。
函館出身の彫刻家、梁川剛一氏の製作。
高田屋巡りの基点として?または元町巡りの基点としても
おさえていただきたいポイント。
嘉兵衛像に手を合わせ、江戸期・箱館の歴史浪漫に浸りましょう(笑)。
2.高田屋屋敷跡

宝来町銀座通り。高田屋嘉兵衛像と対面するグリーンベルト地帯に碑がある。
東西50余間、南北80間におよぶ敷地に本宅の他、米倉数棟、別荘、長屋敷、馬屋、道具庫など、
壮大な庭園を持ち「高田屋御殿」と呼ばれていたという。
護国神社坂から見下ろす、まさに市中のど真ん中に、大きな高田屋屋敷群があったのである。
高田屋嘉兵衛像訪問と共に、ここの碑も訪れよう。
3.高田屋本店跡
 
大町電車通り。函館に支店を出し、後に本店に昇格。
当時、大阪より井戸掘り職人を呼び、作らせた防火用掘貫井戸が残って
いる。現在のペンション「じょう倉」さん。碑が道路沿いに面している為、
撮影の際は通行の車に注意しよう。
4.称名寺


高田屋の菩提寺であり、高田屋一族の墓がある。
ご住職による、高田屋嘉兵衛関係著書は多数出ており、
函館中央図書館にて閲覧出来る。
境内には高田屋嘉兵衛の顕彰碑が建立されている。
新撰組関係も含め、幕末ファンには外せないお寺である。
船見町。高龍寺ともほど近く、背中合わせにある。
5.高田屋の松

青柳町、函館公園の入り口。
本州より移植し、庭園を飾っていたクロマツ。明治11年に函館公園の入り口に植えられたという。
ここ、函館公園には私立函館博物館もあり、時期により様々な催しが企画されている。
「こどものくに」、ちょっとした動物園もあるヨ。
6.北方歴史資料館

末広町23−2。高田屋の古文書や「ゴロウニン事件」関係のロシア文書他、嘉兵衛巡りには外せない
資料館。1Fに設置されているVTRで、高田屋嘉兵衛の概要を知る事も出来る。2Fには資料が多数。
書籍も一部販売している。市内を歩いたら、ここでゆっくり嘉兵衛の活躍に想いは馳せよう。
「親戚」でもある写真の先覚者「横山松三郎」に関する資料も展示されている。
館長は高田屋七代目、高田嘉七氏。地図は下左端のチケットをクリック。
7.高田屋えびす神社
 
高田屋の護守神として本宅に安置されていたものだそうだ。
北方歴史資料館横に隣接されている。
8.高田屋嘉兵衛資料館

金森赤レンガ倉庫すぐ近く。七財橋側を表とするなら、その裏手側。当時の高田屋造船所があった
近くで、かつての海産商の倉庫2棟を活用した資料館。当時の海運・商いにおける資料が展示されて
いる。観光スポットエリアなので行き易い場所と思われる。「赤レンガ」を楽しんだら、ラッキーピエロと
長谷川ストアの「やきとり弁当」もチェックしたい(笑)。
北方歴史資料館と合わせて見学しよう。
HPは下、左から2番目をクリック。
9.湯川寺
 
天保3年(1832年)四国で造られた33体の観音像を高田屋金兵衛の
船で運び、翌年、函館山に安置した。明治32年に全山陸軍の要塞となり
裾野に一時下ろされていたものを、大正3年に湯川村にお迎えした。
これらの観音様の肩には「大阪大津屋栄徳新造積下り」と彫られている。
「ペリー遠征記に描かれている函館山の観音様」という写真もあるが、
古いせいか擦り切れていてよく見えない・・・。
10.ゴロウニン幽閉地
 
松前町神明。郷土資料館手前、徳山大新宮に碑がある。
説明板によると、この「沢を登って行った奥に牢屋の跡がある」とある。
神社の裏手の方に旧道のような道があるが、気合を入れて入っていかないと
非常に心細い・・。しかし、実際のところは不明。
嘉七さんによると、かつて長靴必須で訪れた記憶で、そう気軽に行けた記憶
ではないそうである。
11.高田屋の亀石
 
文政2年、不漁続きで漁民が困窮した際、その救済の為高田屋は、海中の畳2畳
程の巨石を屋敷に曳かせ米銭を給付。約1千人が恩恵を受けたという。
左写真は「己巳役海軍戦死碑」であるが、その亀石を割ってつくられたもの。
他に護国神社の「海陸軍戦死人名碑」や「招魂碑」もこの亀石を割ってつくられた
ものだそうだ。
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