愛すべきレスラーたち

★田上明選手。

田上選手は大相撲出身で四股名は「玉麒麟」でした。相撲を廃業してジャパンプロレスリングに入団しました。ジャパンの次期エースとしての期待も高かったと思います。ところが、・・・長州力選手が一部の選手を引き連れて全日本のマットを去って新日本のリングに出戻りしてしまいジャパンプロレスは分裂してしまいます。全日本のリングに残ったジャパンプロレスの選手は、谷津嘉章選手、仲野信市選手、永源遥選手だけでした。ジャパンの看板は残りましたが、この陣容では戦えるはずもなく、間もなく全日本に吸収されてしまいました。田上選手はデビュー前にこのような事があり、ジャパンに入門しながら、全日本に移ってデビューする事になったのです。

デビュー戦は、ジャイアント馬場選手と組んでの「ポール・ハリス、バディ・ランデル」の外人コンビでした。馬場選手とのコンビでデビューする事自体”破格”の扱いだったと思います。デビュー当時は黒いショートタイツ姿でした。「プロレス界の玉三郎」と言われた時代です。デビュー後、しばらくは注目されましたが、だんだんと周囲の目が厳しくなってくると低迷してしまいました。折りしも全日本には、「天龍革命」の嵐が吹き荒れていました。連日の全日本軍と天龍、原組の戦いはヒートアップしていましたが、田上選手は、蚊帳の外という感じでした。時折地方大会で天龍選手組とタッグで当たると、田上選手はヘロヘロになりながら戦っていました。天龍選手たちのシゴキにも似た厳しい攻めの前に、田上選手はなすすべも無く「ボロ雑巾」のようになっていました。当時若手のタイガーマスク(三沢光晴選手)を中心に、仲野信市選手、高野俊二選手、高木功選手、田上明選手が「決起軍」を結成して天龍選手たちに戦いを挑みましたが、田上選手や、高木選手あたりの戦いが不甲斐なく、「決起軍」は馬場選手の一声で解散させられてしまいました。

決起軍の中でも田上選手、高木選手あたりは”足手まとい”になるばかりでした。そんな中、高木功選手は天龍選手にケンカを売って自ら飛び込んで行き評価を上げましたが、田上選手はその後も厳しい戦いが続いてしまいます。天龍選手たちのシゴキに耐えながら必死に頑張っていましたが、トップへの道程などまだ考えられない時代でした。

そんな中事件は起きました。90年のチャンピオンカーニバルでの三冠戦に敗れた天龍選手が全日本を退団、SWSに走りました。その後、ザ・グレートカブキ選手、谷津嘉章選手、などもSWSに走ってしまいます。90年のスーパーパワーシリーズで、タイガーマスクが素顔になり三沢光晴として再出発。その後若手を中心に「超世代軍」が結成されます。メンバーには三沢光晴、川田利明、秋山準、菊池毅、田上明が名を連ね合宿まで挙行しました。ところが選手の離脱、退団が相次ぎ陣容的に苦しくなっていた全日本は、ジャンボ鶴田選手のパートナーとして田上明選手を指名しました。田上選手は発展的離脱で超世代軍を離れてジャンボのパートナーとなりました。しかしまだ力不足だった田上選手はジャンボの足を引っ張ってしまいます。当時外人最強だった「スティーブ・ウィリアムス&テリー・ゴディ組」や「三沢光晴&川田利明」といったタッグチームに水を開けられてしまいました。不甲斐ない田上選手に、パートナーのジャンボは試合中にビンタを浴びせた事もありました。「早く上まで這い上がれ」といわんばかりの愛のムチでした。

そんなジャンボや馬場選手の思いに応えるべく田上選手も必死の頑張りを見せ、とうとう難攻不落だった「S・ウィリアムス&T・ゴディ」を大阪での世界タッグ選手権で田上選手がゴディをフォールしてとうとうタイトルを獲得しました。しかし今度はパートナーのジャンボが内臓疾患で戦線離脱。まるで田上選手のひとり立ちを見届けるかのように、リングからセミリタイアして行きました。その後、超世代軍を離脱した川田利明選手とタッグを結成。三沢&小橋組の対抗軸となって全日本マットを盛り上げます。川田選手の「デンジャラスK」に対抗して田上選手は「ダイナミックT」とも言われました。

シングルプレーヤーとしても、札幌で三沢選手の持つ三冠王座に挑戦、機転の効いた喉輪落としで完璧にピンフォールを奪い三冠王座も奪取。さらにチャンピオンカーニバルにも優勝と全日本では絶頂の時代を迎えたこともありました。「四天王」(三沢、小橋、田上、川田)が光り輝いた時代でした。しかし2000年全日本は、馬場元子さん派と、三沢派に分裂してしまい、三沢派は「プロレスリングNOAH」を旗揚げ、新たなスタートを切るのです。

プロレスリングNOAH移籍後は、パートナーにもあまり恵まれず、大きなチャンスも少ないのですが田上選手のような大柄でゆったりとした間合いの味のあるレスリングを見せてくれる人も今のマット界では貴重な存在になっています。さらにもう一花咲かせて欲しいレスラーでもあります。


★ジャンボ鶴田選手。

昭和47年、全日本プロレスに「就職します。」と言ってプロレス入りを表明したミュンヘンオリンピック・レスリング代表選手だった鶴田友美選手。全日本プロレス入り後は、テキサスのドリー・ファンク・シニアの元に預けられ武者修行。アマリロのTVスタジオマッチの「エル・タピア戦」でデビューしている。アメリカ修行時代は、スタン・ハンセン(後にAWA王者、三冠王者)、ボブ・バックランド(後にWWF王者)等と共にトレーニングに明け暮れた。修行時代、日本からジャンボに届いたインスタントラーメンをハンセンらと共にすすったなどのエピソードも残されていると言う。

日本帰国後は、ムース・モロウスキー戦で国内デビュー、ジャイアント馬場選手のパートナーとなって当時ザ・ファンクス(ドリーファンク・ジュニア、テリーファンク)が保持していた日本の至宝インターナショナルタッグ王座に挑戦。王座奪取はならなかったが、善戦して評価は高まった。後に公募でリングネームがジャンボ鶴田になる。全日本の2番手の位置を固めたジャンボの照準はシングル王座になる。師匠のジャイアント馬場はPWF王座を保持していたが、まだジャンボには馬場選手は実力的に追いつけるほどの力量は無かった。日本プロレス時代にロサンゼルスでNETテレビのために作られた「ユナイテッド・ナショナル王座」が日本プロレスに残されていた。興行能力を失って名前だけのNWAメンバーになっていた日本プロレス(長谷川淳三氏)が、UNチャンピオンベルトを提供し争奪戦が行なわれた。ここでジャンボが苦しみながら見事王座を獲得。以後、UN王座と言えばジャンボの代名詞となる。UN王座はかなりの長期に渡って保持された。途中ハーリー・レイス、A・T・ブッチャー等に敗れて海外流出をさせているものの必ず奪回している。

タッグでは馬場選手との師弟コンビでインタータッグ王座を保持して快進撃。インターナショナルタッグ王座は日本プロレス崩壊後もテキサス中心に防衛戦があり、NWAのテリトリーで防衛戦が行われていたようですが、インターナショナルヘビー級王座は日本プロレス崩壊後は、大木金太郎選手が個人所有物のように扱い、韓国で勝手にアントニオ猪木氏の挑戦を受けたり、インター王座を持って国際プロレスに入団して勝手に防衛戦を行ったりしていた。かつての日本の至宝が大木金太郎選手の個人の所有物になっていることに懸念を抱いたジャイアント馬場選手は、NWAにインター王座の復活を働きかけ、NWAの勧告によって大木選手は、インター王座をNWAに返還した。(実はその見返りに大木選手にはアジアヘビー級王座が贈られている。)

全日本プロレスは、インターナショナルヘビー級王座の争奪戦を行うと発表し、ジャンボはダラスでUN王座を返上してインター王座の奪取に専念するものの、復活した王座はドリーファンクジュニア選手が獲得した。インター王座はその後ブルーザー・ブロディ選手に移り、日本の至宝が外人選手の手に渡り続けていたが、そのブロディ選手をリングアウト勝ちながらジャンボが破ってインターナショナルヘビー級チャンピオンに輝く。そばに寄り添う馬場選手の満足そうな表情が印象的だった。

後にAWA世界王者のニック・ボックウィンクル選手を招いて満を持しての挑戦をするジャンボ。試合はAWA世界王座とインター王座を賭けたダブルタイトル戦となる。特別レフェリーはテリー・ファンク、リングサイドのリポーターには徳光和夫氏と日本テレビの力の入れようも相当なものだった。ジャンボは老獪なニックの攻めに翻弄されながらも最後は鉄人ルー・テーズ直伝のバックドロップ・ホールドを決めてフォール勝ち。日本人初のAWA世界王座の誕生の瞬間でした。後にこのAWA王座を持ってジャンボはアメリカ・カナダ国内を世界王者として2ヶ月間サーキット、日本人が世界王者として北米大陸をサーキットしたのは今でもジャンボしかやっていない快挙です。

タッグ戦線では、天龍源一郎選手との「鶴龍コンビ」を組み全日本の代表するタッグチームとしてインタータッグ王座を保持。殴り込みをかけたジャパンプロレス軍団の長州&谷津組とのインタータッグ王座をめぐる戦いは日本マット史に残る名勝負としても語り草になっています。

ジャパンプロレスが分裂長州一派が新日本に出戻りUターンすると、天龍選手が鶴田選手に宣戦布告。「天龍同盟」を結成して意識革命を即します。ジャンボも対抗するべく輪島選手やタイガーマスク選手をパートナーに奮闘しますが、真のタッグパートナーが不在と言う事態が続きますが、ジャパンを解散した谷津嘉章選手が全日本入りをしてジャンボとの「五輪コンビ」を結成。初めての試合には、当時のインタータッグ王者のザ・ロードウォリアーズとのタイトルマッチが千葉で組まれました。五輪コンビは初めてとは思えない好連携でウォリアーズを追い込みましたが、最後は両者リングアウトに持ち込まれてしまい王座奪取はならずも、五輪コンビの評価は一気に高まりました。

しかし、この「五輪コンビ」も谷津選手と全日本の不協和音もあって、90年には谷津選手はSWSに走りあえなく解散。SWSには天龍選手、サムソン冬木選手、ザ・グレートカブキ選手、仲野信市選手、鶴見五郎選手らが走り、全日本の陣容は薄くなりましたが、素顔になったタイガーマスクが三沢光晴選手として再出発、ジャンボに対決を挑みました。三沢選手は何度もチャレンジしてジャンボを乗り越えるような存在になって全日本のエースに成長、それを見届けるかのように、ジャンボは内臓疾患、肝炎という病に冒されてしまい長期欠場、さらに復帰後もスポット参戦と言う形での試合出場になって第一線を退き、同時に大学で教鞭を取りながら執筆活動などもしていました。プロレス界での政治力、特に海外での政治力にも期待はされていましたが、プロレスよりは他のスポーツ医学などのほうにスタンスは変わって行きました。馬場選手が亡くなって程なく、今度はフィリピンからジャンボが亡くなったとの衝撃のニュースが飛び込んできました。正直驚きました。まさかこんなにも病状が悪化していて苦しんでいようものとは。・・・師匠の馬場選手の後を追うように去っていったジャンボ。若く、まだやれることがあったと思うと残念でなりませんでしたが、怪物と言われた、圧倒的な強さ、そして底なしのスタミナ、今でも日本マット界最強の男だと私は思っています。

 

★天龍源一郎選手。

大相撲から全日本プロレス入り。ファンク道場で英才教育を受けるも、日本に帰国後はパッとせず海外修行に出されていつの間にか日本マットからはフェードアウトしてしまう。気が付いたら海外が主戦場になっていた。時折帰国しても実力を出し切れないままにアメリカにUターンと言う生活が続く。

転機としては、昭和56年に全日本プロレスに来日していたディック・スレーターが、交通事故の後遺症が出てアメリカに緊急帰国してしまう。最終戦に組まれていた馬場&鶴田組対B・ロビンソン&D・スレーター組のインタータッグ選手権は宙に浮いたが、ここでビル・ロビンソンのパートナーに天龍選手が抜擢されて、馬場&鶴田の師弟コンビ相手に吹っ切れたかのような暴れっぷりを見せて評価を上げる。それまでシリーズが終われば海外に旅立つ生活だった天龍選手が日本に定着するようになったのはこのインタータッグ戦以来だ。

その後は新日本に転出したタイガー戸口選手の後を受けて「全日本第3の男」として活躍する。R・フレアーの持つNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。

やがてジャイアント馬場選手が、タイトル戦線から一歩引く形で、ジャンボ鶴田選手との師弟コンビを解消して、新たにジャンボ鶴田&天龍源一郎組が全日本の看板タッグチームになって行く。インタータッグ王座も保持してS・ハンセン&B・ブロディ組や、ザ・ロードウォリアーズなどとも戦った。天龍選手は、ユナイテッドナショナルヘビー級選手権を獲得して全日本のNo.2の座を固めていた。

順風に見えた全日本に激震が走ったのが、昭和59年に新日本プロレスを飛び出した長州力一派(後のジャパンプロレス軍団)が全日本に登場した事だ。それまでの全日本にない熱気が会場に充満して殺気立つのが手に取るようにわかった時代だ。

天龍選手も果敢にジャパン軍に対決を挑み長州に対決を迫る。しかしジャンボと保持していたインタータッグ王座を札幌で谷津嘉章選手の原爆固めを天龍選手が喰らい奪われてしまう。インタータッグ奪還に向けて長州&谷津組との戦いもエスカレートしていた。昭和62年1月、長州&谷津組にインタータッグを奪われて1年、所は同じく札幌でジャンボ&天龍組はインタータッグの奪還を成功させる。天龍選手の原爆固めだった。

しかし奪還した天龍選手には笑顔が無かった。それは裏で長州一派が新日本復帰をにらんだ動きを見せていたからだ。札幌で王座転落した長州選手は、謎の欠場を続けて、翌2月の全日本プロレス・エキサイトシリーズも一方的に欠場してしまう。表向きの発表は「長州選手の腱鞘炎」という事だったが、一部の長州派の選手たちも行動を共にしていた。結局長州一派は新日本に出戻り参戦してしまう。ライバルを失った天龍選手は、今度は内部革命、意識革命を全日本の中で起こす。俗に言う「天龍革命」だ。インタータッグ王座は長州&谷津組から奪ったが、2月のエキサイトシリーズでザ・ロードウォリアーズに敗れて王座転落。海外流出したインタータッグ王座はジムクロケットプロモーションで防衛戦が重ねられた。一時は鶴龍コンビでPWF世界タッグ王座も狙ったが奪えず、ジャンボとのコンビも解消して全日本正規軍とは決別する。

天龍選手の意識革命に共鳴した阿修羅・原選手が話し合いの末、天龍選手と「龍原砲」を結成、やがて若手の川田利明選手、サムソン冬木選手、小川良成選手が加わって、全日本内部でも一目おかれる存在となる、これが「天龍同盟」だ。打倒天龍同盟を掲げて全日本正規軍、さらに外人部隊との戦いも激化するも、連日20分を越える熱闘を見せて、馬場選手やファンの評価も上がる天龍同盟だった。

天龍選手はジャンボ鶴田選手に対決を挑む。この「鶴龍対決」は、全日本プロレスリングの看板カードになり人気を呼ぶ。「ジャンボのバックドロップ」「天龍のパワーボム」の対決は名勝負数え歌とさえ言われた。「天龍同盟」と「全日本軍団」の戦いはヒートアップしグレードもアップして行く。この天龍選手の活躍はアメリカでも話題となり、NWA世界6人タッグ王者だったザ・ロードウォリアーズが新パートナーに指名するほどだった。

しかし、天龍選手のパートナーだった阿修羅・原選手が私生活の問題から突然全日本プロレスを解雇されてしまう。89年世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕戦の試合前に発表された。失意の天龍選手はパートナーに川田利明選手を指名。その後スタン・ハンセン選手らとタッグを組むが最終的には仲間割れしてしまう。

90年4月、全日本プロレス、新日本プロレス、WWF共催の「WWF日米レスリングサミット」ではランディ・サベージを相手に好勝負を見せた。その後「ジャンボに負けたら全日本を辞める」と週刊ゴング誌上に独白した天龍選手、結果的にはジャンボに負けて全日本を退団。しかし裏では日本マット界に新規参入を模索してきたメガネスーパーの動きがあった。

全日本を退団後は、メガネスーパーが設立したSWS(スーパーワールドスポーツ)に迎えられ、エース格として激闘を展開する。しかし全日本、新日本そしてファンの目は冷たく、SWSの選手の引き抜き行為に批判的であった。SWSは大掛かりな装置でド派手な演出をしていたが、興行の収益を考えるとアンバランスなものだった。社長に就任していた天龍選手は常に矢面に立たされて苦悩の時代を過ごす。また戦いの面でも天龍選手と対等に戦える日本人選手がいなかったのも不幸な事だった。SWSは、いくつかの道場に分かれて道場対抗戦を核にして戦っていたが、いつも注目を浴びるのは天龍選手と道場「レボリューション」という形になってしまい他の道場にいるレスラーからは次第に反発を買う事になってしまう。そして反天龍の人間たちがクーデターを起こしてしまう。

リング上で反天龍の人間が円陣を組んで猛アピール。ところがこのクーデターは失敗に終わってしまう。多くのファンは天龍選手を支持していて当初は強気な発言をしていた反天龍派の人間も尻すぼみになって行く。団体存続は困難と見たメガネスーパーの田中社長は、反天龍派と天龍派に当面の支援を約束する事を条件にSWSは事実上崩壊する。

天龍選手は、道場「レボリューション」を「WAR」(レッスル・アンド・ロマンス)に改称して旗揚げ。一時はWWFとのパイプを生かして大掛かりなイベントの仕掛けていたが、結局「WAR」も紆余曲折を経て発展的解消に至る。その後はシングルプレイヤーとして、色々な団体を渡り歩く事になる。あのアントニオ猪木氏も破って「馬場、猪木をピンフォールした男」としても歴史に残る活躍を見せていた。2000年全日本プロレスの分裂で手薄になった全日本に電撃復帰する。不可能と見られていた全日本マットへの再登場を果たした天龍選手だったが、その全日本も苦しい経営を強いられていて天龍選手へのギャラを支払えない事を理由に全日本マットへの登場もスポット参戦になってしまった。

54歳を向かえ今でも日本マット界でも指折りの実力者として水平チョップでファンのどよめきを誘う天龍選手。さらに日本マット界を熱くしてくれそうな男だ。




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