★全日本プロレスリング
好きだったのは2000年の分裂騒動までといった印象だ。ジャイアント馬場さんが、日本プロレスを独立し日本テレビ放送網の協力を得て昭和47年に旗揚げした団体。
NWAに加盟後はNWAの主流派で、馬場氏はNWA副会長にもなって政治力も発揮している。
NWA加盟以前から、NWAの主力プロモーターから協力を得て外人のトップスターを来日させている。自らもPWF(パシフィック・レスリング・フェデレーション)を設立して独自に王座を新設。NWA加盟後はPWFはNWAの配下団体となる。
旗揚げ直後には次代を担うエース、ミュンヘンオリンピック、レスリング代表選手だった鶴田友美を獲得。後にジャンボ鶴田に改名。ジャイアント馬場とのコンビも結成、海外に流出していた日本の至宝「NWA認定インターナショナルタッグ王座」も馬場・鶴田の師弟コンビでテキサス州サンアントニオで奪回、日本に定着させている。
TBS東京放送のテレビ中継を打ち切られた国際プロレスには選手も派遣してテコ入れに協力したこともある。国際との協力はその後も続き全日本・国際・金一(キムイル道場・韓国)の3軍対抗戦も行なっている。(金一は、大木金太郎)
オポジションの新日本が対戦を申し入れたり他流試合をする中でも、あくまでもプロレスにこだわってプロレスの本来の面白さを追求。
豪華な外人とチャンピオンスケジュールによって来日する”世界最強のプロレス王者”NWA世界へビー級チャンピオンも独占していた。後にはAWAとのパイプも出来AWA世界王者も度々来日するようになる。
力道山もその師匠の沖識名も、三宅太郎もなしえなかったNWA世界ヘビー級王座を東洋人として初めてジャイアント馬場選手が獲得。しかも3回にわたっての獲得は短命王者ながらNWAの世界王者史に残る金字塔だ。
またジャンボ鶴田選手はAWA世界王座を獲得している。しかも世界王者としてアメリカ・カナダ国内を2ヶ月あまりに渡ってサーキットしている日本人世界王者としては誰もなしえていない全米サーキットをやってのけた。
国内でも「世界オープン選手権」「世界オープンタッグ選手権」「チャンピオンカーニバル」「世界最強タッグ決定リーグ戦」など時流にあったビッグイベントを開催。NWAの協力も取り付けて豪華外人も参加するなど馬場氏のプロモーターとしての先見の目が光っていた。
相撲界からは天龍関も入団。後に新日本から飛び出した新日本プロレス興行ことジャパンプロレスが旗上げ、全日本に強行参戦する。天龍源一郎選手はジャパンプロレスの長州一派と激しくやりあう。長州一派が新日本にUターンすると、自らが意識革命を提唱し阿修羅・原選手と「龍原砲」を結成、天龍革命と言われる。J鶴田選手、輪島大士選手らを敵に回してあえて厳しい戦いを挑む。「鶴龍対決」など名勝負も生まれた。
80年代は新日本との興行戦争に明け暮れた感じだが、猪木体制から坂口体制に移行した90年代は新日本との協力も展開。WWFを巻き込んだ形で「WWF日米レスリングサミット(東京ドーム)」もWWF・全日本・新日本の共催で成功させている。WWFのビンス・マクマホン・ジュニアが、馬場選手に話を持ち込んで実現したイベントで、日本のマット界における馬場選手の信用が改めてクローズアップされたイベントだった。
90年代に入ると、SWSの旗揚げに伴う選手の大量離脱に見舞われたり、馬場・鶴田といったトップイベンターがセミリタイア状態になるも2代目タイガーマスクが素顔の「三沢光晴」に戻るなどして若手の超世代軍を結成、やがては「三沢・川田・小橋・田上」の四天王時代を迎える。そこに超新星”秋山潤(現:秋山準)も加わって熱き戦いを展開していたが、馬場選手、鶴田選手が相次いで亡くなると2000年夏に突如分裂してしまった。
自分の中では2000年の夏で全日本については歴史が止まっている印象だ。日本テレビも中継を打ち切り、その後は川田、渕の2選手しか所属選手がいなくなるも、猪木体制に嫌気を感じて新日本を飛び出した武藤敬司選手、小島聡選手らが入団。インディーの選手たちも集めて何とか興行を成り立たせる。馬場選手の団体の今の社長が、武藤敬司氏という猪木氏の愛弟子がやっていることも時代の流れと古いファンからすると違和感も感じてしまう部分も今ひとつなじめないところだ。
それでもしぶとく生き抜いている。テレビ東京との契約にもこぎつけた。後は薄い選手層と次代をになうエースの育成が待たれる。いつまでも馬場選手の看板に頼るのもどうかと思う。武藤新体制になっている以上もっともっと武藤色にマットを染めて欲しい。また川田選手にはもっと発言してもらい業界を動かして欲しいのと、運営にもタッチして政治的な部分にも手腕を発揮していただきたいと思う。
★新日本プロレスリング
日本プロレスを除名になったアントニオ猪木氏が子飼いの選手を集めて昭和47年に旗揚げ。当初はプロレス団体の生命線とも言われたTV中継もなく、単発で東京12チャンネルが中継したのみだった。そこに救いの手を差し伸べたのがNETテレビだった。NETはプロレス中継を開始した昭和44年7月からアントニオ猪木をエースとした日本プロレスの中継をして来た。しかし猪木の突然の除名でエースを失ってしまう。かねてからジャイアント馬場のNET登場を熱望していたがこれは日本テレビとの契約で実現しなかった。が、昭和47年4月ついにスター不在のNETテレビのプロレス中継はジャイアント馬場の試合を収録して独断で放送してしまう。怒った日本テレビは開局以来の人気番組だった日本プロレスの中継を打ち切ってしまう。日本プロレスの役員でもあった馬場選手は自らのNETテレビへの登場を強行に反対したが他の役員には受け入れられず結局47年4月から7月までの3ヶ月の間、馬場選手はNETテレビに渋々登場する。
しかしその馬場選手も日本プロレスの体質に嫌気をさして独立してしまう。バックには日本テレビの陰も見えていた。NETテレビは馬場選手の登場に我が世の春を満喫するかのように週2回のプロレス放送に踏み切っていた。
しかしNETテレビは馬場選手の独立で再び窮地に陥っていた。坂口征二選手、大木金太郎選手では数字も稼げないばかりか、かつては鈴なりだったプロレス会場は閑古鳥が鳴くようになっていた。
困ったNETテレビは、日本プロレスと新日本プロレスの合流を画策する。新日本に対してはテレビ放送というニンジンがあった。この計画は結局日本プロレスの一部の選手の反対で実現しなかったが、坂口選手をはじめ一部の選手の新日本への合流と言う形でNETテレビも日本プロレスの中継を打ち切って、新日本に鞍替えした恰好だ。昭和48年4月、新しい「ワールドプロレスリング」がスタートする。新日本はTVがない中1年間戦ってきたが負債は溜まりに溜まっていた。NETテレビがバックアップする事で何とか息を吹き返した。猪木・坂口の「黄金コンビ」も誕生した。
新日本も外人ルートの開拓のためにNWA加盟を目指したが、1地区1プロモーター制をしいていたNWAの加盟は、認められなかった。既にジャイアント馬場、日本プロレスの芳の里淳三(長谷川淳三氏)がNWAのメンバーだったからだ。1地区1プロモーター制とは言いながら、馬場選手はアメリカでも信頼が厚く本来はNWA総会でしか加盟が認められないものがNWAの主流派のプッシュで加盟が認められていた。新日本は外人のルート開拓には苦労していたが、ニューヨークのNWAの反主流派だったWWWF(現:WWF)のビンスマクマホンの協力を得てWWWF系の外人を来日させていた。本来NWAはメンバー以外への選手の派遣は認められないのがスジだが、反主流派だったビンスは猪木派に肩入れしていたようだ。また、NWAも日本の狭い場所で起こっていることなので目をつぶっていたようだ。しかしその新日本もやがて反主流派のメンバーの協力とアンチトラスト法(日本で言う独占禁止法)を楯にNWAに揺さぶりを掛けてNWAの加盟に成功するも、猪木氏の念願だったNWA世界ヘビー級王座の挑戦権は、全日本に与えられるものとして挑戦権は与えられないという屈辱的な条件をつけられての加盟だった。NWA世界王座への挑戦権はないが、NWAに正式加盟したことでNWAのプロモーターから合法的に外人選手の派遣を受けることが出来るようになったのは収穫だった。
プロレス道まっしぐらと思いきや、センセーショナルな話題となったのが「モハメド・アリ×アントニオ猪木」の世紀の一戦だ。凡戦、名勝負?と評価は分かれたが、この試合は世界的には酷評を浴びてしまい新日本は大きな借金を背負う事になる。この一戦をきっかけに借金返済のためにNETは「異種格闘技戦」を乱発する事になる。世間的には世界の格闘家を破る世界最強の猪木をアピールしていたが、その実はNETの協力を得ての借金返済が正しかったようだ。
その後も猪木氏の個人的な借金などに振り回されてしまう新日本プロレス。クーデターなども起こってしまい猪木氏も一時失脚してしまった事もあった。試合では長年持ち続けたNWFヘビー級王座を封印して新しく「IWGP」を設立。カナダのフランク・ターニー、ニューヨークのビンスマクマホン、メキシコのUWA他などの協力を得てのものだった。当初は「IWGP」は大会だったが、その後は普通のチャンピオンタイトルになってしまった。設立当初は世界にあるプロレス王座の統一を高らかに叫んでいたのですが、国内外でのプロレスビジネスの変化もあって、今は日本のローカルタイトルと言う感じだ。

新日本と言うと猪木氏以外にも坂口征二選手、藤波辰巳選手、星野勘太郎選手、山本小鉄選手、木戸修選手、長州力選手、木村健吾選手などが有名どころだったが、どの選手も猪木氏のアクの強さの前に霞んでしまった印象だ。
また猪木氏の金銭トラブルで何度も窮地に立たされてしまう。イラクや北朝鮮でのプロレス大会は猪木氏の個人的名声を高めただけで資金はすべて新日本が負担をしている。おかげで大きな借金を次々と猪木氏の名声と引き換えに被ってしまい、新日本自体のプラスには何もなっていない。またこれらは普通に考えれば会社の金を個人的に流用しているのと一緒で横領とか、背任と言われかねない。
いくらプロレスビジネスで利益を上げてもその利益を猪木氏が個人的に使ってしまうことの連続で、選手やスタッフも次々と猪木氏の元を去っていくと言う事実もあるようだ。エースだった、橋本真也選手や、武藤敬司選手といった素晴らしい選手たちも猪木派主導の会社運営に嫌気がさしていたようだ。
今(2004)は猪木氏が送り込んだ新しい社長が切り盛りしているが、いつか猪木氏と袂を別ってしまわないかと心配だ。試合の現場に目をやると、今は夏の「G1クライマックス」を核に1年中全国各地を転戦している。こういう興行形態は地方都市に住むものにとっては嬉しいものだ。しかし課題も多い。選手が小粒な印象でネームバリューのある選手が少ない。蝶野正洋選手も首が悪くエースという位置には至っていない。反体制や黒のカリスマとして活躍するのが限界か。・・・