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〈あふれる水〉の物語―浜たかや『月の巫女』をめぐって


戦後の児童文学の領域に特異な位置を占める浜たかやの作品の言葉は、重厚な戯曲の世界をおもわせる。

 戯曲の言葉は、短歌の言葉と同じ身体感覚で紡ぎ出されるときに力をもつように私にはおもわれる。

 舞台という〈板〉に縛られる戯曲が、そのことを拘束と受けとめるのではなく、作者にとっての〈世界〉や〈存在〉のありようが試されるのだと考えるなら、〈板〉はすなわち無限のひろがりにもなり得るだろう。

 舞台空間や三十一文字という限定性が無限と直結するゆえに象徴的な虚構性をその本質にはらむ戯曲と短歌とは、兄弟か姉妹のようだ。

 それらの起源は現実を写すことではなく、この世界に現実を超えたものを降臨させることであったと直感する。

 ユルン・サーガ五部作(『太陽の牙』『火の王誕生』『遠い水の伝説』『風、草原をはしる』『月の巫女』、偕成社より1984年〜1991年にかけて順次刊)で展開される浜たかやの世界は、登場人物たちのドラマに、神話的な象徴性による意味づけが俯瞰するように冷徹に挿入される構造によって、彼らの口にする言葉も行為も、地上的な個人史の輪郭を超えて大きな振幅をもつ。

それは逆に、ともすれば神話学や文化人類学の記号的な解釈へと回収され、痩せて骨ばった観念的な世界観となりかねない危険性もはらんでいるが、作者の意識と無意識、あるいは世界への絶望と希望が、そのような作品の構造の内を揺れ動き、時に蹴破りつつ、普遍的な問いをわれわれに突きつけて壮絶な迫力がある。

五部作最終巻の『月の巫女』から、舞台のセリフを味わうように、主に登場人物たちの言葉を味わいながら、その世界観に触れてみたい。

 [以下の引用はすべて『月の巫女』(1991年、偕成社刊)による。]


「水というものは小気味のいいものだな。」

 ザトガルがつぶやいた。

「すべてをのみこむ。神のつくったものも、人のつくったものも。」


 幼い頃に、いびつなイニシエイションによって〈ユルン族〉の王となるべく定められてこのかた、乾いた男性原理のみで塗り固められた道をただひたすらに駆け抜けてきた男、ザトガルの身体の奥深くに、どれほど狂暴な渇きがひそんでいたか。

 かつて彼の母は、誰が次の王たる器か、三人の息子を試した。

 袋の中から〈麦をひとつかみ〉父王のもとへ持ってゆくように命じられ、長兄は袋の中のサソリに刺されて死に、次兄もまた片腕を切り落とさねばならず、幼い三男のザトガルだけが、用心深く袋の上からサソリを刺し殺して麦を手にし、次の王となった。

 これがザトガルのイニシエイションであり、そこで王位とひきかえたものの大きさのことを、作者は『月の巫女』一巻を費やして描いたとも云える。

ザトガルのこの〈水〉の不穏さを端的に言い表した言葉は、〈ユルン族〉とは対照的な世界観をもつ〈マイセナ族〉の〈洪水の祭り〉を見たときの感慨であり、封印されていた彼の心奥の渇きを一気に引き出してゆくきっかけとなった場面におけるものである。

太陽と光と昼の神ユルーをあがめ、死を恐れない勇猛な騎馬の民であるが、異質なもの、自分たちの理解を超えたものを激しく恐れ、ことに〈水〉を極度に恐れるユルン。生産性の追求に一元化された彼らの呪術体系にはうるおいがなく、硬直したゆるみのない世界観の背後には、神経症的な脆弱さを隠しもっている。

 対してマイセナの民は、月と闇と夜の女神デイーを信仰し、生と死も、創造と破壊も、人と狼も、〈氾濫する水〉の場所でつながり矛盾がない。年に一度のアジュラ川の氾濫は、実りの力、いのちを産む力をもたらす。その恵みに感謝する祭りが〈洪水の祭り〉である。

ザトガルの〈渇き〉はこの祭りとの遭遇をきっかけに暴走し、〈ユルン族〉を崩壊に導かんとする。

〈ユルン〉とは、〈近代社会〉の、なかんずく〈戦後社会〉の喩であることは云うまでもない。私たちは否応なく、〈戦後〉によって強いられた渇きと疲れの重さをザトガルとともにひしひしと味わうことになる。

『月の巫女』は、その狂暴な渇きの引き起こす〈水〉の位相の逆襲を描き、〈ユルン・サーガ〉五部作中、際立った作者の衝迫力を感じさせる。それは、〈戦後〉という時空の枠組みを完膚なきまでに破壊し尽くす威力をもった過激なファンタジーであり、私たちの生存感覚の根源を支える価値を、私たちの皮膚感覚を揺るがす幻想的なリアリティーによって再認識させる、激しい力を蔵した一篇である。

 バブル期を通じて書き継がれた〈ユルン・サーガ〉の最終巻であるこの作品によって、私(たち)は浜たかやの〈戦後〉に対する徹底した不機嫌の場所を鮮やかに共有することができるのだ。

「人のこころにも、ひとつの部族のなかにも、むこう側があるというのはいいことなのだから。」


 ザトガルと王妃マトハナスの間には子がなく、次にユルンの王となるのはグインギンだと目されていた。ユルン族にしてはおだやかな顔の、若くしてザトガルの信頼厚い族長のひとりである。

 硬直して他者性を喪失し切ったユルンの世界観の中にあって、人の心や部族における〈むこう側〉の重要性を口にすることのできるグインギンには、文句のつけようのない良質の戦後ヒューマニストの面持ちがある。

 長年月にわたって己れの〈渇き〉に封印してきたザトガルは、切迫した過剰さで、より〈ユルン〉たらんとして自ら壊れてゆく道を択びはじめていた。

ザトガルが己れの王権を強めんがため、ユルンの掟を破ってまで銅鉱山をもつ同族をひとつ攻め亡ぼした後、その氏族長の遺子が生まれる。グインギンがわが子として育てることになるその男児誕生の折、呪師の贈った名がアタルゲイ〈むこう側〉というものだった。

 アタルゲイはユルンとして立派に成長するが、ユルンの中に収まりきらぬ偏りをも抱えた少年であり、物語終末部において、その無意識の深層でザトガルやグインギンに対してどれほどの憎悪がたくわえられていたかが壮絶なかたちで明らかになる。

 そのことは、グインギンの口にする良識ある言葉にもかかわらず、また銅の民であったユルンに〈鉄〉という異族の他者性を導入する決断を下し得る柔軟性をもっていたとしても、彼が強固なユルン的世界観の体現者であったことを示している。

 また、懐の深そうな善意あふれる他者性への寛容さが、皮肉にもユルンという部族をより強固なものとして延命・再生させるというからくりが明らかになるとき、私は資本制近代の、あるいは戦後市民社会の構造を想起せずにはいられない。

 ひとつの組織、ひとつの社会において紛れもなく優秀な指導者であるということが、どの程度のことを意味するのかについて、浜たかやの注ぐまなざしの冷徹な刃が、〈戦後〉の咽喉元に突きつけられているのであり、個人においても、あらゆるまことしやかな欺瞞を拒み、真に他者性を繰り込むことの意味が、その困難さとともに問われている。




「わたしのこころのなかには遠いものはありません。」

グインギンは西の空をちらとみた。夕焼けの色はもっとこくなっていた。

「いつも、ちかくのものだけをみています。」


 ユルンの民が太陽神ユルーとならんで信仰するのは母神シャキであり、この女神は、ユルンの民が飢えることのないよう、絶えず狩りの獲物を産み続けなければならないせいで、〈いらだつ〉神であった。ユルンの王妃は、十二年に一度の「大年の祭り」(ユルーの再生の祭り)において、この母神シャキをつとめねばならない。

 その頃、ユルンの獲物が年々減っているのは、王妃マトハナスが「うまずめ」であるせいだと民が考えていることを、マトハナス自身も知っていた。

 民が求めるものになることができぬ己れを抱えて、夕焼けに向かって竪琴を弾くマトハナスに、グインギンは〈遠いもの〉への憧れを感取する。

 ザトガルにもマトハナスにも、ユルンにとって危険な〈遠いもの〉への衝動の萌芽を見出したグインギンの感受性には鋭敏なものがあり、そういうふたりへの〈共感〉は無いが〈洞察〉と〈いたわり〉の念をもつ彼はまた、ユルンらしい自己統御力を発揮して、己れの中の夕焼けのような〈遠いもの〉を芽のうちに摘み取る術をも身につけた男だった。

 ちらと西の空をみながら内なる一瞬の揺らぎを抹殺して「ちかくのものだけをみている」自分を確認するグインギン。

 グインギンのこの言葉に対して、マトハナスは、だからこそザトガルも自分もグインギンをもっとも信頼しているのだと告げる。

 壊れそうになりながらユルンを背負っている者たちの悲哀が、それぞれの悲哀の濃淡とともに丁寧に掬い取られており、グインギンという人物に課された枠組みを強く印象づける場面でもある。



「〈デイーの舌〉、わしがなんのためにここへきたか知っていような。」

〈デイーの舌〉はこたえなかった。ふかい目でザトガルをみつめたままぎゃくにききかえした。

「そなたは知っているのですか、ユルンの王?」


ザトガルの渇きの内実を象徴するエピソードがある。

彼が生まれたとき、女の子が生まれたときに贈る「灰色の女神像」をマイセナ族から誤って贈られたのだが、ザトガルはそれをひそかに隠し持っていたという。

ユルンは銅の民であり、灰色で軽くて硬い「鉄」は、異族のものとして忌み嫌った。その鉄の女神像を、自身でも理由がわからずに隠し持っていたザトガル。

マイセナの「洪水の祭り」を見た晩、ザトガルは〈デイーの舌〉と名乗るマイセナの巫女の申し出を受けて剣で戦い、デイーの使いとして四つ目の仮面をつけて舞うように戦うその巫女に、灰色の剣で軽々と打ち負かされて一夜彼女の夫となる。

その敗北の折に味わった、ユルンを脱ぎ捨てる心地よさと昂揚感がきっかけとなって、ザトガルはマイセナ的な世界観にみるみる吸引されてゆく。

表向きは〈デイーの舌〉の持っていた灰色の〈月の剣〉をユルンのものとするため、という名目で、ザトガルは部族を率いて強引にマイセナ攻めを決行する。

無駄にマイセナの民を殺生した挙句、ようやく〈デイーの舌〉を見出したザトガルの言葉に、巫女は己れの行為の理由を知っているのかと、ききかえすのだった。

ザトガルを通して顕われる世界のかたちを「ふかい目」でみつめる巫女のまなざしが強く静かな印象を与える。

『月の巫女』には、自分で自分という存在がわからぬことに対するもどかしさと肯定と深い畏れの念を世界観の根底に据えるべきだという、作者の怒りにも似たおもいが通底している。

 それは、世界と存在とを極限まで矮小にしてしまった時代への激しい怒りでもあるだろう。



「わたしにはわかるのだ。いまから起こることに、人のともす小さな光など必要ではない。暗闇のなかでこそ、大いなることは起こる。みなもたいまつを消せ。〈月の木〉の光だけでじゅうぶんだ。」

 ザトガルがマイセナの地で見出した〈デイーの舌〉はみごもっていた。

 彼女の本当の名はアジュラという。マイセナを流れる川の名である。

 このアジュラ川の源の沼地は、マイセナの世界観の根底を支える場所だといっていい。

 

 出産が近づいたアジュラは、〈デイーの舌〉が死んだときだけアジュラ川の源に現れるという〈月の木〉の上に葬ってくれるようザトガルに言い遺して逝く。

 およそユルンに利益をもたらさぬマイセナ攻めを強行し、みごもった異族の女を連れ帰り、かいがいしくその世話にいそしむザトガルを、アジュラは死んでなお、マイセナの地へと導いてゆく。

 アジュラ川の源に現れた〈月の木〉に葬られても、アジュラを超えたデイーの意思ははたらき続ける。

 大地から〈月の木〉の根へ、そして梢へと向かって流れる樹液が乳白色に光りきらめき、一帯があやしい光につつまれる光景の中で、アジュラの死体からのお産が始まったのだ。

 ユルンの一行はみなおびえおののくが、呪師であるバサンだけはゆったりとむしろくつろいでデイーの意思に身体を開き、「暗闇のなかでこそ」起こる「大いなること」を待ちうけた。

 まず女の子が、そして男の子が生まれた。

 双子が生まれた場合、ひとりを殺して〈正常〉に戻さねばならないと考えるユルンの掟にしたがって、女の子はアジュラのかたわらに葬られ、男の子はラトシャイと名づけられてユルンの中で育つ。

 ラトシャイとは、アジュラが言い遺した名で、〈あふれる水〉または〈新月のあざをもつもの〉という意味だという。

 ザトガルが己れの中の大切なものを抹殺・封印してユルンの王となったように、ユルンによってまたも抹殺されたかのごとく〈月の木〉に架けおかれた女の子はしかし、死後も成長を続け、十三年後、その体に女のしるしがあらわれる。


「いつか、どこかで、わたしはこの新月をみたことがある。新月をみるたびにそんな気がしてくるのだ。」

「おさないときにみたというのではないのだ。もっと遠くでみたような気がする。もっともっと遠く・・・・・・ことによったら、うまれるまえのことかもしれない。」

 物語の前半部では、マイセナの世界に接触することでユルンの土台が揺らぎ始める様が、ザトガルの積年の渇きの暴走を中心に描かれ、後半部では、ザトガルとアジュラの間に生まれたラトシャイがユルンを崩壊に導いてゆく。

 ラトシャイという名が〈あふれる水〉または〈新月のあざをもつもの〉という意味であるのは、封印されていた〈水〉によって世界を更新する宿命、そして新月であるがゆえに満月のように完全な状態を夢みざるを得ない者の宿命を刻印されていることを象徴するだろう。

 ラトシャイが己れを把握するときのまなざしは、ユルン的ではない。

 己れを理解し尽くしているといった傲慢さから遠く、個人史を超えて、肉体の限界性を超えて、世界と己れとの出会いのかたちをイメージすることができるのは、アジュラから受け継いだマイセナ的資質である。

 肉体か、観念か、という二元的なまなざしではなく、己れの〈身体〉の輪郭をとても遠くにおもい描く力のことを、作者は大切に蘇生させたがっていたのだとおもわれる。

 女性的な顔だちをもち、夢みがちな表情で月ばかりながめているラトシャイのことを、ユルンたちは苦々しくおもっていたが、アタルゲイだけは彼に同性愛的な友情をささげ、ラトシャイがこの世にもたらしてくれる大事なもののことを熱烈に必要としていた。

 ユルンの中に居場所がないと感じるラトシャイも、アタルゲイにだけは、新月をみるたびに心に湧くおもいを素直に語るのだ。



アタルゲイは暗闇をみまわした。

「しずかだな。」

「うん。しずかだ。」

 ラトシャイも暗闇をみまわした。火の燃えるぱちぱちいう音がきこえている。その音に耳をかたむけながら、暗闇をみていると、広い天と地のあいだにいるのは、いまこの小さな火のそばにいる自分とアタルゲイだけだ、そんな気がしてきた。

 ラトシャイとアタルゲイはユルンを追われた。

 父ザトガルの隠し持っていたマイセナの女神像を、銅の民ユルンの聖なる鍛冶場の火に投げ入れて、異族の鉄で〈火〉を汚した罪を問われ死罪となるところ、からくも逃亡した二人の少年は、ラトシャイの見る〈夢〉に導かれていつかマイセナへ、アジュラ川の源へと向かう。

ザトガルはラトシャイを溺愛することで、長年の〈渇き〉を癒そうとするかにみえたが、うつろなまま硬直していたその身体は、雄々しさを失ってただふやけるしかなく、十二年に一度の「大年の祭り」において自らの足で「立つ」こと、すなわちユルーの若御子の再生を示すことが出来ずに権威を失う。もはやラトシャイを守ることも出来ない。

マトハナスやグインギンに出来る精一杯のはからいで、かろうじて死を逃れた二人に、ユルンの追っ手が迫る。

 追っ手の目を恐れ、火を焚くことを控えていた二人が、久しぶりの〈火〉に身と心をあたためる場面で、ラトシャイにはおそらく生まれてはじめて〈日常〉という感覚がおとずれたのではないか。

〈水〉さえあれば、〈闇〉さえあればよいというのではない。

〈火〉も〈光〉も、大きな〈闇〉があればこそ、人と人をつなぎ、あたためる力をもつ。

 ユルンにおける〈火〉とはまったく位相のちがう、人間味のある〈火〉のかたちに、ふたりのたましいのほぐれるさまが、なつかしい。


「いい声だ。」

ラトシャイは耳をすませた。

「あの鳥は、わたしたちとはちがう世界を生きている。」

 

もはやこれまでかという場面で、のんびりとさえずる鳥の声に、おさなごのような無邪気な顔で聞きほれるラトシャイ。

二人は追い詰められてぎりぎりの命であるのに、鳥はそれと無関係にのんびりとした時間を生きている、といった〈対照〉が描かれているのではない。

人の生きている次元にその身がありながら、別の次元の風景を見て、聴いて、呼吸することができる、その鳥の息づかいをラトシャイは生々しく感じ取っているのだ。

人もまたこの鳥のように呼吸することができる、と人がおもうなら、世界がどれほどみずみずしく変わり得るか。

鳥の呼吸を体感したラトシャイには、目前の生死のやりとりが軽く感ぜられ、ふざけているような調子で「死ぬときがきたら、いっしょに死のう、火の兄弟。」とアタルゲイに呼びかける。それに対してアタルゲイが「よし、生きるも、死ぬもいっしょだ、火の兄弟。」とこたえる言葉には、〈火〉の記憶のあたたかみに根ざした十分な重みがこもっている。

 ラトシャイとアタルゲイの道行きは、二人を一体化させる過程でもあるが、同時に、越えようのないまなざしの落差が明らかになってゆく過程でもあった。


とつぜんアタルゲイはその若いユルンにはげしいにくしみを感じた。こい、ユルンめ!殺してやる。おまえなどにはラトシャイを殺す資格はないのだ。ラトシャイは、おまえなどがけっしてみることのない、遠いものをみることができるのだ。生きていればその遠いものをわれわれにもってきてくれるかもしれないのだ。ばかなユルン!殺してやる。

 異性愛は、相手が異性であることによって、すでに〈遠いもの〉への愛であり得るし、その成就によって〈遠いもの〉は即、補完された気がしてしまう。

 対して同性愛は、このアタルゲイのおもいのように、〈遠いもの〉を補完することが世界を更新するための〈価値〉と結びつき、そのために身命を賭さんとする観念的な過剰さをはらんでいる。

 この物語では、アタルゲイがラトシャイを追い求め、守りたいというおもいと同質のおもいをラトシャイがアタルゲイに抱いているとはいえない。〈火〉の記憶が二人を結びつけているとはいえ、本質的な二人のまなざしの差異は大きい。

 ラトシャイの目は、ひたすら新月にむけられている。新月を通して、〈月の木〉に架けられた妹が送ってくる〈夢〉にむけて、未知の己れのかたちをさぐりあてようとしている。

 そういうラトシャイなればこそなおさら、アタルゲイにとって彼は、命がけで守らねばならぬ〈遠いもの〉であった。

 攻撃してくるユルンたちに囲まれたとき、アタルゲイは、ユルンらしく生きることしか考えたことのない養父グインギンのことをおもう。ユルンらしさをアタルゲイの身体にもたたき込んだこの養父への憎悪がこみ上げる。

 ひたすらにラトシャイを守り抜こうとするアタルゲイだが、たたき込まれたユルンらしさとラトシャイへの愛との間で揺れ動くその身には、壮絶な転変が待ち受けている。


「だがアタルゲイ、人のこころは奥ふかく広い。だれがそのすべてを知ろう。わたしは憶病な戦士だが、自分のこころの闇はおそれない。」

 己れの肉体の輪郭を超えるものや即物的な了解の範囲を超えるものをみとめず、極度におそれるユルンに対して、ラトシャイは人というもののありようを未知の闇の領域にまでおし拡げてみせる。

 アジュラ川の源の沼に沈んだという〈月の剣〉をとりにゆかねばならない、という己れの身体の声に従うラトシャイだが、それをどうするのだとアタルゲイに問われて、己れの闇にゆだねる決意だけを伝える。

 どこまでもラトシャイを守って生死をともにする覚悟のアタルゲイだったが、アジュラ川の源にたどりつき、〈デイーの舌〉が身にまとう、死者の衣をつなぎ合わせた外衣をまとうや否や、ラトシャイは〈月の木〉の妹との一体化を果たし、デイーの意思を体現する両性具有の身となりかわってしまう。

 ラトシャイが異次元の言葉を発するさびしさに耐え切れず、自らもデイーの使いである四つ目の狼の皮をかぶることで、狼に変身してしまうアタルゲイ。

 幻想的にたたきつけるように描かれる終末部のふたりの〈闇〉の領域は、ふたりの個人としての闇の振幅ではなく、ユルンやマイセナを含む世界全体の闇の奪回を賭けた巨大なうねりの一環であると云えるだろう。

小動物はおろか人さえ噛み裂くアタルゲイ。(後にひとたび人に戻ったとき、狼であったときにもっとも噛み殺したいとおもったのは、ザトガルと養父グインギンであったと、マトハナスに告白することになる。)

マイセナの死者の怒りをも背負って、〈あふれる水〉となり、狼の群れ(デイーの呪いにより、「灰色の剣」で人を殺した者は狼に変わる)を率いてユルンを襲うラトシャイ。

個人というものを、どれほどその肉体の輪郭よりもはるかに巨大な闇として描き得るか、という視点において、浜たかやの文学が狂暴に突きつけてみせた世界を、私は肯定的な解放感をもって受けとめることができる。


ユルンたちは気味わるそうに灰色の剣をみていた。ふれようとはしなかった。だがグインギンは一振りひろいあげた。そしてにぎりごこちをたしかめたあと、二、三度、宙でふった。

「この世に新しいものをもちこんだものは罰せられる。秩序をみだしたかどで。だがそのおかげで、われわれは新しいものを手にいれることができる。」

 はたして世界はラトシャイによって更新されるのか。

〈あふれる水〉となって襲いくるラトシャイとマイセナの死者、そして狼の群れに、非人間的な狂気を感じ取ったユルンたちの、王位を追われたザトガルとグインギン一派対不満分子という内部分裂をたちどころに解消して結束する様が象徴的だ。

 狼としてアタルゲイの遠吠えが呼び寄せたものを子として産みおとしたラトシャイに、その子〈ケイナン〉を託されて人に戻ったアタルゲイもまた、ユルンに合流してグインギンの側でたたかう。デイーの次元におけるラトシャイと狼としてのアタルゲイの蜜月は短かった。

〈あふれる水〉がすべてを押し流すかとみえたとき、ザトガルに月の剣を振り下ろそうとした瞬間のラトシャイを、アタルゲイが制止すべく灰色の剣をつかって刺し殺すことで、〈水〉の猛威は終わりを告げた。

アタルゲイは再び狼となり、二度と人に戻らなかった。

 ザトガルはラトシャイを燃やす火に自らも身を投じる。

 地に残された灰色の剣を、ユルンのものとするために、率先してひろいあげ、その使いごこちを確認するグインギン。丈夫で軽くて疲れない〈鉄〉の剣。ユルン特有の異質なものへの過剰な神経症を呑みこんで〈新しいもの〉を手に入れることのできるグインギンによって、ユルンはよりユルンとして、草原の覇者としての強度を増して延命する。

〈新しいもの〉を部族に持ち込んだ者の悲劇としてこの物語を読むことは、グインギンの立場からこの物語を解毒することになるだろう。

 グインギン的な柔軟性によって他者性を獲得し、更新したかにみえるものは、たかがひとつの〈社会〉にしかすぎない。

 そこからはじき出された者によってのみ更新される〈世界〉の振幅のために、浜たかやはつねに混沌とした〈闇〉の領域を確保しておこうとした。

「わたしたちは山のなかをすすむ。そなたたちは草原をゆく。だがいくさきはおなじ東です。いつかまたあうかもしれません。わたしの時代でなかったら、わたしたちの子や孫の時代にでも。それまでのおわかれです。」

 マトハナスは、狼となったアタルゲイや、ラトシャイの産みおとしたケイナン(狼の子という意味)を連れ、生き残ったマイセナの民とともに、ユルンと訣別してすすむ。

 1984年の『太陽の牙』から書き継がれ、1991年の『月の巫女』でユルン・サーガ五部作は完結するが、物語の中の時代は循環し、『月の巫女』は『太陽の牙』の時代へと連結する。

 五部作を通じて、ユルンが〈太陽〉に偏ったり〈月〉に偏ったりしながらいずれか一方の世界観のみでは部族が崩壊、あるいは腐敗するさまが繰り返し描かれているが、それらのドラマの底で、このマトハナスの一行が後に〈デイーイン族〉として命脈を保ち、世界を更新するための起爆剤の役割を果たし続けていることは、浜たかや作品の本質を露わにしている。

〈デイーイン族〉は、誕生や死や出産や、激しい憎悪、恋愛などの感情に突き動かされたとき、狼に変わるといわれている一族である。

『月の巫女』においてもアタルゲイの変身の場面には、〈人〉の輪郭について読者の認識を揺さぶる迫力があったが、『太陽の牙』の冒頭でも、人と狼の境界が揺らめく描写で作者はわれわれの身体感覚に狂暴な変容を強いる。

 たかがひとつの〈社会〉において、硬直した男性原理や柔弱な女性原理のいずれかに固まることしか知らず、まっとうな〈世界〉と〈人〉の振幅を蘇生させることのできないこの〈近代〉を、なかんずく乾ききった男性原理で高度経済成長期とバブル期の狂騒を駆け抜けただけの〈戦後〉を、マイセナの産み落とした〈デイーイン族〉の狼の魂で更新すること。そのような魂をもつ少年たちや心ある大人が、みずみずしい世界のありようを求めて身を賭けてたたかうこと。

〈狼〉とは、ことに〈表現〉にたずさわる者に必要な魂のかたちではあるまいか。

決して幸福な結末とは云い難い『月の巫女』ではあるが、(幸福な世界の再生のイメージは、『龍使いのキアス』(1997年刊)をまたねばならない。)他の戦後の作家たちによっては十分に解放され得ぬものを、〈水〉と〈狼〉の奔流によって、私たちはたしかに作者とともに解き放つことができる。

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(C)Kirishima Ayako