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桐島絢子WebSite>エッセイ・評論篇>北原白秋 北原白秋1〜68(2007/07/04〜2007/11/26) 北原白秋1 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕 『桐の花』(大正2年刊) 絵画性が強すぎることは、短歌の力を弱めることがある、と私は思っている。 脳裡に「絵」が浮かんでしまうと、その「絵」を読者に伝えることに気をとられてしまい、作者と「絵」との距離が知らず知らずに広がって、生命力の乏しい「絵の報告」になりかねない。 ひとつの風景を(実際の風景であれ、幻想上の光景であれ)一枚の「絵」としてとらえることは、短歌を作る上で、ほんのきっかけにすぎず、その「絵」に収まり切らぬものが緊密な息づかいとして溢れこぼれてこそ、胸に響く韻律が実現する。 北原白秋の『桐の花』に収められた歌は、きわめて絵画性が強いけれども、以降の彼の歌集では喪われてしまうそのような息づかいが淡くうるおいのあるかたちで保たれている。 絵画性の強さも、対象との清潔な距離感の表れとして、理知的な透明感を醸し出している。 ぬめぬめと他者と一体化できない孤独に清潔な感傷が寄り添っているこの歌集の歌が、私は嫌いではない。 正岡子規や与謝野晶子のような骨太な韻律ではなく、「意味」の外へ外へと逃れたそうな傷つきやすい面持ちだが、時代と自分の不健康さにぎりぎりで向き合っている誠実な感受性が、この巻頭歌にも顕著だ。 「大正」という新しい時代の〈春〉は、鳥がのびやかにいのちを歌うことのできる〈春〉ではない。そのかなしみを、不安を、怖れを、それと背中合わせの官能を、そんなに鳴くな、と作者が呼びかける言葉の上の「禁止」は、禁忌によって逆に解き放たれてゆく作者の感覚の起爆剤であるかもしれない。 「あかあかと」不安をそそる日の入りざまを見つめる作者のまなざしに、〈張りつめた退廃〉とも云うべきこの歌集のトーンが象徴的に表れている。 北原白秋2 銀笛のごとも哀しく単調に過ぎもゆきにし夢なりしかな 『桐の花』(大正2年刊) 現実から強い断念をもって撤退した者の息づかいである。 喪失によって〈夢〉をより美しく哀切にそして虚ろに彩る手つきに、世界(コスモス)と倫理の剥落した〈大正〉という時代の空気感が漂う。 一首の意味において喪失されたのは単調(ひとふし)に過ぎていった銀笛のような〈夢〉なのだが、真に喪われたものは、〈現実〉にたしかに着地して世界の手ごたえを肌身で呼吸していた時代の空気である。 〈夢〉をリアリティーのあるかたちで支えるものについて、逆説的な示唆を与えてくれる。
北原白秋3 ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日 『桐の花』(大正2年刊) 短歌という一つの世界の中に置かれてあるのであれば、その中の構成要素は対立よりも連続するのが短歌世界を壊さぬそれまでのあり方であったが、白秋のこの歌においては、薄紫に咲いたヒヤシンスと作者の心がはじめてふるえた日とは、対立はせぬまでも、冷えた断絶を感じさせる。 ヒヤシンスへの激しい心情仮託にもかかわらず、「三句切れ」の潔い断絶感が、俳句における「切れ」のように、異質性をはらんだ「取り合わせ」として詩的世界を構築しているところに、白秋の革新性があったろう。 対象に対する激しい心情仮託が、実は対象との不幸な距離感の表れであるという逆説。
北原白秋4 南風薔薇ゆすれりあるかなく斑猫飛びて死ぬる夕ぐれ 『桐の花』(大正2年刊) 薔薇は「さうび」と読まれ、斑猫(はんめやう)があるかなきかのはかなさで飛んで死ぬ、そんな夕ぐれに吹く「南風」のなんと反生命的なことか。 白秋の身体に幼時に染み入った南国的で異国風の風景が、けっして生命的な意味をもって彼の世界へのまなざしに温かな風を送り込んでいたわけではないことがうかがわれる。 むしろ死臭によって際立つ極彩色の赤、とでもいった意味においてのみ、生命的でありうるような感覚が、彼の歌の世界を特徴づけている。 この本来生命的なものに死臭を垂らし込むことで詩的興奮をかきたてる手法が、戦後の短歌の美意識をも揺すり続けたことは、近代短歌史における決定的な貧しさの一つであるとおもう。
北原白秋5 ゆふぐれのとりあつめたるもやのうちしづかにひとのなくねきこゆる 『桐の花』(大正2年刊) すべてひらがなを用いたことや、具体的な情景としては個別性のいたって乏しい素材の組み合わせであることによって、明晰な具象画ではなく、濃い官能性の漂う抽象画のような一首となっている。 「ゆふぐれ」と「もや」を提示すればありふれた春のけだるい情緒へと回収されがちだが、その回収を助けるような具体的な描写を拒み、「しづかにひとのなくね」だけを情景の中に注ぎ込むことで、地上的な恋愛の一場面から離脱して、生存感覚としての頽廃の空気と根深い喪失感とが浮かび上がり、その輪郭線のあいまいさが、夕ぐれのもやの中に全裸を浸しつつ身の内のすすり泣きに耳をすますかのような濃密な官能性を醸し出す。
北原白秋6 美くしき「夜」の横顔を見るごとく遠き街見て心ひかれぬ 『桐の花』(大正2年刊) 「遠き街」の印象を、「夜」を擬人化して美しいその横顔にたとえたところに、世界(コスモス)も倫理も剥がれ落ちた場所で、己れの感覚の微細な揺らぎにのみ賭けて「今」を更新してゆこうという意志を垣間見る。 「夜」が涼しげな女人の横顔にたとえられたかのように見えて、伝わる感触は、むしろ女人の横顔が得体の知れぬ「夜」の貌をもつかのような妖しい空気感であり、「遠き街」と己れとの間にそのような妖しい回路をまさぐる手つきが魅力的である。
北原白秋7 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出 『桐の花』(大正2年刊) 幼少期の病の思い出は、〈時間〉をやりすごさねばならない苦痛とともに、世界が不意に甘く秘密の扉を開いてくれるかのような、異次元との親密さの記憶として蘇る。 病児がハーモニカを吹きながら時をもちこたえてようやく夜になる頃、日常がふと異形の貌をみせるかのように、もろこし畑に黄の月が出る。 不吉でもあり、甘い吸引力をも持つこの風景は、おそらくは幼少期の白秋に刻印された、〈世界〉との痛ましい密通の記憶なのではないかとおもう。
北原白秋8 猫やなぎ薄紫に光りつつ暮れゆく人はしづかにあゆむ 『桐の花』(大正2年刊) 世界が暮れてゆくとき、その世界の一部として自分もまた暮れてゆくのだという感覚を持ち得なくなった者が、猫やなぎの薄紫のほのかな光とそれを包む暮色の繊細な揺らぎに呼吸を合わせるようにしずかにあゆむことで、世界とのやわらかな融合をこころみる。 薄紫のかすかな光との官能的な呼吸のやりとりが、喪失感を背景とした清潔な抒情となる。 〈清潔〉であり得るのは、〈世界〉の奪回への意志にしずかなねばり強さが伴っているせいだ。
北原白秋9 手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ 『桐の花』(大正2年刊) 泣きたいのが作者なのか、桐の葉の青さを反射して薄青い新聞紙なのか、作者にとってもその境界があいまいになった一瞬を鮮烈に掬い取っているようにおもわれる。 ほんとうは桐の葉を透く陽ざしを、作者はじかに浴びているのだが、ふと身に沁みそこねたその感覚を、新聞紙などが代わって浴びてこともあろうに薄青く身を染めているではないか。その驚きに一瞬遅れて、さればわが身もかく薄青く染まっているはずなのだ、と気づく屈折したプロセスの中で、桐と新聞紙と己れとが泣きたいような、そしてあやうく壊れそうな一体感に包まれる。 身に浴びた木洩れ日を素直に歌うことから逸脱してゆく感受性が、読み手をも泣きたいようななつかしさと痛ましさに誘う。
北原白秋10 指さきのあるかなきかの青き傷それにも夏は染みて光りぬ 『桐の花』(大正2年刊) 「指さきのあるかなきかの青き傷」に思いが集まるということは、己れとその傷との間に断絶があることの表われであり、かつその断絶が、己れをその傷によって象徴させたいという願いが生じる契機ともなるということだ。 〈身体〉というものがある不全を抱え込んだときに、その不全が表現に連結してゆくさまを見るような一首である。 指さきの傷にも「夏」は染みて光る。それは全身を「夏」にさらわれてしまうような堂々たる感覚ではなく、指さきの小さな青い傷を通してしか「夏」とエロスを交わすことができないという屈折を代償として、傷に象徴された己れの病んだ身体にふさわしい繊細で退廃的な官能性に肉薄するという込み入った詩情である。込み入ってはいるが、私たちにとってよくも悪しくも馴染みの深くなった詩情の型でもある。
北原白秋11 こころもち黄なる花粉のこぼれたる薄地のセルのなで肩のひと 『桐の花』(大正2年刊) 花の全体感を捨てて「花粉」にとらわれるまなざしには、不健康な抒情が漂う。 「花」から切り離されているのに、生殖の機能だけは背負ってむやみに数が多く、〈生〉と〈死〉のあわいでまっとうでない〈性〉のイメージが増殖するかのような不健康さが「花粉」にはある。 その花粉がこぼれているのも、薄地のセルによって強調された「なで肩」を持つひとであり、生きることへの獰猛なエネルギーから遠そうなひとと「花粉」との取り合わせが、作者の持て余している抒情の方向性をよく示している。
北原白秋12 草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり 『桐の花』(大正2 年刊) 草わかばの色と色鉛筆の赤い粉との対比が鮮やか。 赤い粉が散るのがいとしいからと色鉛筆を寝て削る行為にまつわる幼児的でフェティッシュな空気感。 退行性が露わな一首だが、草わかばのみずみずしい生命力と対比されることで、その〈退行〉への自己批判が絵画的に込められているとも云える。 斎藤茂吉とくらべて白秋の短歌の絵画性にきりっとした清潔感が漂うのは、感覚としての自己批判を痛みとともに引き受けているところがあるからだとおもわれる。
北原白秋13 ほそぼそと出臍の小児笛を吹く紫蘇の畑の春のゆふぐれ 『桐の花』(大正2年刊) 「出臍(でべそ)の小児(こども)」までが短歌の題材になること、それが「春のゆふぐれ」という結句のもつ情趣へとある自然な流れ込み方をしていること。 この二つの条件を満たしている点で、この一首は正岡子規がめざした新たなる短歌世界に適合しているかのようだ。 だが、はたして子規が生きていたらこの歌を好んだだろうか。 たしかに白秋なりの自然さで「春のゆふぐれ」を歌ってはいるが、その自然さは、風景の中の〈異形性〉に己れの病理を重ね合わせながら「春のゆふぐれ」の中に回収されてゆく心の痛みとしての抒情である点で、子規のめざした世界とは大きな隔たりがあったはずだ。 白秋によって解放されなければならなかったものを、子規は担わずに済んでいたともいえる。
北原白秋14 太葱の一茎ごとに蜻蛉ゐてなにか恐るるあかき夕暮 『桐の花』(大正2年刊) 『桐の花』の中には、やわらかなセンチメンタリズムによる完結感の強い短歌もあるが、韻律のなめらかさにもかかわらず、〈短歌〉という器を今にも壊してしまいそうな不安をそそる作品も多い。 「太葱」のどの茎にもとまっている蜻蛉というのが既にそれまでの短歌性をはみ出しているが、かといって軽みを帯びた俳句的な情趣に傾くのでもない。 蜻蛉のなにかを恐れている姿は、「あかき夕暮」にも溶け込むというよりはひりついた存在の輪郭を主張する。一首の抒情をとりまとめている「あかき夕暮」も、まろやかな情緒ではなく鮮やかすぎる色彩をイメージさせてシュールだ。 既成の短歌性にも俳句性にも収まらぬ感性の、〈短歌〉という器との空隙は、当時の青年層が〈世界〉とのあいだにひりひりと感じていた空隙でもあっただろう。
北原白秋15 いつしかに春の名残となりにけり昆布干場のたんぽぽの花 『桐の花』(大正2年刊) 非常にハイカラな西洋趣味の素材が非日常的で退嬰的な空気をあふれさせるかと思えば、「昆布干場のたんぽぽの花」のように俳句的な日常の異化が顕著な作風もあり、『桐の花』は白秋のその後の歌風の展開を予期させるに十分な振幅をもつ。 ただいずれの場合も、己れの歌おうとする風景でありながらそれをひどく怖れているような感覚が、白秋の歌にはつきまとう。 それは神秘や自然への〈畏怖〉というよりも、風景が、世界が、作者を傷つけに来るのにそれから目を離せない、といったゆったりくつろいだところのない不幸な感触である。息づまるように〈怖れ〉と向き合っている場所から〈詩〉が湧き出してくる感触。 とろりと退嬰的な歌も、俳句的な切れ味の歌も、感覚的に放恣でありながら、同じ緊張感を伴って、読み手に能うかぎり原初の不安や怖れの記憶を辿らせる力がある。
北原白秋16 ふはふはとたんぽぽの飛びあかあかと夕日の光り人の歩める 『桐の花』(大正2年刊) 退嬰的であることが同時にはじめて世界から〈傷〉を受けた記憶への遡行でもある、というのが白秋の哀切な資質だとおもわれる。 「ふはふはとたんぽぽの飛び」というイメージだけならばひたすらに世界がやわらかかった頃への素直な回帰願望となるが、そこに射す夕日は「あかあかと」鮮やかで毒々しさに近い光を放つ。 目が開いたばかりの乳児にもし母のぬくもりの延長からかけ離れたどぎつい〈赤〉の風景を見せたならば、強烈な世界への不安を刻印されるにちがいない。 白秋の美意識にはいつもそのような〈早すぎた不安の刻印〉によって形成されたとおぼしき毒々しさがはらまれている。 世界を見る白秋の目は乳児のままに、やわらかさと不安とのあいだを、存在の柔和な輪郭と極彩色の衝撃とのあいだを、なやましげに歩んでいるかのようだ。
北原白秋17 乳のみ児の肌のさはりか三の絃なするひびきか春のくれゆく 『桐の花』(大正2年刊) 「三の絃(いと)」は、三味線のもっとも高音の、つまりもっとも細い絃のことであろう。 三の絃をなするときのひびきにたとえられるだけならば、春は蕪村風の官能性をたたえた暮色に近いイメージだが、乳児の肌ざわりと並べてたとえられるとき、その官能性への志向が退行と切り離せないものとなる。 白秋自身の中で、痛めつけられた資質が居場所を求めて音をあげるならば、乳児の肌や三の絃を指がなすって移動する音のようなあやうい恍惚感に満ちた音色にならざるを得なかったのであり、やわらかな歌の印象の奥に、ぎりぎりと追いつめられた切迫感が匂う。
北原白秋18 魔法つかひ鈴振花の内部に泣く心地こそすれ春の日はゆく 『桐の花』(大正2年刊) 鈴振花(すずふりばな)の内部(なか)で泣く魔法使いによって暮れてゆく春の日を表現することの、当時における斬新さはいかばかりだったか。 絵にすればメルヘンチックであやうい、つまりおめでたく感傷的な、余剰としての表現になりかねない図柄の歌であるが、白秋の歌によって喚起される映像には、不吉ともいえるほどの世界との不協和音がにじみ出ている。 世界に対して働きかける力をうまく統御できない魔法使いの、あるいは魔法使いであるがゆえの世界との異和にまつわる、不穏な存在の悲劇をかかえて、幼児のようなすすり泣きを〈詩〉というささやかな鈴振花のなかでもらしているのは、白秋自身であろう。 すすり泣きと春の暮色とは、やわらかく、同時に不吉な連続感をたたえて溶け合う。
北原白秋19 「春」はまたとんぼがへりをする児らの悲しき頬のみ見つつかへるや 『桐の花』(大正2年刊) 「春」のかたちが、擬人化されているにもかかわらず、茫洋としている。 今まさに「春」が終わろうとしている瞬間に、もし「春」の目線でなにかに目をとめるとするならば、とんぼがえりをする子どもたちの悲しい頬だけを見て、帰ってゆくというのだ。 「春」の〈まなざし〉だけが強調されることで、一首が不安定なトーンを帯びる。 暮春の空気に包まれている世界を描くのではなく、世界をやや老いたまなざしの「春」の目でアンニュイに眺めている気分を、読み手にやわらかく、かつ不安とともに強いてくる。 とんぼがえりをしている子どもたちを、躍動感のある世界の喩として描くのではなく、世界の恐ろしい亀裂と背中合わせの不安の象徴として描くことが、白秋にとって必要な表現だったのだとおもわれる。
アーク燈点れるかげをあるかなし蛍の飛ぶはあはれなるかな 『桐の花』(大正2年刊) 真の闇を飛ぶ蛍の「あはれ」ではなく、アーク燈という人工物によってつくられた光と闇の、そのはかなくてわびしい振幅に蛍が飛ぶ「あはれ」。それもあるかなきかの蛍。 このような光と闇の振幅のわびしさに対する鋭い痛覚が、饐えた居直りの匂いに堕さないのが、白秋の美点であると思う。 世界の振幅はここからここまで、と見切ってしまうことは恐ろしい不幸であり、白秋もその不幸に冷え冷えと身を浸していたけれど、透明な哀しみのトーンに貫かれて、歌に凛とした気品が保たれていた。
北原白秋21 たらんてら踊りつくして疲れ伏す深むらさきのびろうどの椅子 『桐の花』(大正2年刊) 「踊子」と題する一連(暮れゆく春と踊子の群れにまつわる物憂い歌が数首)の中の一首。 「たらんてら」や「びろうど」の平仮名づかいが退廃的な空気を深める。 「たらんてら」は、毒蜘蛛タランチュラに因んだ踊り「タランテラ」であろう、この蜘蛛に咬まれると、死ぬまで踊り続けなければならないとも。 ここでも、優美さ、あでやかさをまとった踊子たちと、彼女たちの踊りの過剰な狂おしさがもたらす不吉な感覚とが、暮春のあやうい情緒として白秋ならではの統一感を生み出している。 そのあやうさに対する恐怖と否応のない吸引とが、「深むらさきのびろうどの椅子」に疲れ伏す踊子のダイナミックなけだるさとも云うべき映像となって端的に浮かび上がる。
北原白秋22 わが世さびし身丈おなじき茴香も薄黄に花の咲きそめにけり 『桐の花』(大正2年刊) 人の身丈ほどもある茴香(ういきょう)は薄黄色の小花をたくさんつける。 花色の薄さ、花の一つひとつの小ささ、花数の多さには〈いのちの薄さ〉を感じさせるものがあり、作者の抱える生存感覚を象徴して、読む者も思わず呼吸がさびしく薄くなる。 花の咲きそめたことを歌いながら、〈いのちの薄さ〉の方へイメージを反転させてしまうところに、この世で呼吸していることが他界で呼吸していることでもあるような、透明な冷気を伴った情感がたちこめる。
北原白秋23 茴香の花の中ゆき君の泣くかはたれどきのここちこそすれ 『桐の花』(大正2年刊) 背丈ほどある茴香(ういきょう)の花の中をゆけば、薄黄色の小花に囲まれて、みるみる次元の違う身体感覚がせり上がってくる。 恋にまつわる抒情を風景に託すのではなく、風景と作者とのあいだに生じたドラマを「君の泣くかはたれどき」にたとえることで、〈恋〉は晒されて粘度が薄れ、風景には逆に妖しい官能性が添えられる。 人と風景とにそれぞれ付随する匂いを逆転させることで、両者の〈バランス〉でもなく、〈あわい〉の場所でもなく、〈共在〉でもなく、不安定な同一性とでも云うべき、なつかしさが忌まわしさでもあるようなエロスがたちのぼる。
北原白秋24 さしむかひ二人暮れゆく夏の日のかはたれの空に桐の匂へる 『桐の花』(大正2年) ここでの「匂へる」は、桐の花の匂いであり、古語の「匂ふ」より嗅覚に限定された使い方であろう。 だが、一首全体から顕ちあがるものはむしろ古語の「匂ふ」に近く、桐の花の香を通して〈世界〉とさしむかいの〈二人〉とが溶け合う空間のひろがりが匂いたつようだ。 桐の花のむらさきも、かわたれ時の空の色と滲み合って、どこまでが花でどこからが空なのか、さしむかいの二人もまたどこまでが二人でどこからが世界なのか。 日々、世界や他者との強い疎隔のおもいをひりひりと抱いている者ならではの幽暗の表現。
北原白秋25 ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな 『桐の花』(大正2年刊) とても素直でなめらかな、踊りにたとえるなら筋肉のつかい方に不自然なところやむだな動きのない、白秋らしさが最大限美質として表現された一首とおもう。 人をたずねてゆく行為がおのずからほのぼのとしているのではなく、その行為と世界とのあいだに引かれた境界線をやわらかく消してしまうには、あかしやの木にふる雨が欲しいものだ、とおもう。そうおもうことが、何の根拠もないけれどもほんとうに今にも雨を誘いそうな気がする。人の心から世界の〈水〉までを歌でたしかにつないだ気がする。 あかしやの木の、丈高く、乱雑によく伸びるけれども暑苦しいわけではなく、肩の力の抜けた存在感が、非日常的でありながらあたたかみのある空気で一首をとりまとめていて魅力的だ。
北原白秋26 白き猫膝に抱けばわがおもひ音なく暮れて病むここちする 『桐の花』(大正2年刊) 膝に抱くのが黒猫ならば、作者と猫と世界の闇とは親和的になめらかに融けてゆくだろう。 「白き猫」であるために、闇に融け合わぬその白の繊細な猫の輪郭は、世界に対する作者の異和の象徴として、不安定に浮かび上がる。 音もなく己れの病理を抱きしめている夕暮れが、世界からもてあまされているけだるさ。 主題は「融け合わぬ病」でありながら、「白き猫」によって一首のイメージが象徴的にとりまとめられてすぐれた短歌性を保持している。
北原白秋27 白き猫泣かむばかりに春ゆくと締めつゆるめつ物をこそおもへ 『桐の花』(大正2年刊) 女歌といっても通用しそうな叙情性だが、明治という時代を通じて、つまりはまた作者の成長過程を通じて、男性にとっては封印すべきものとされた種類の女性的な感覚的表現の解放が、大正という時代になって良くも悪しくも放恣に始まったのだと感じさせられる。 作者が男性なればこそ、解放することを封じられてきた類の情念を、膝に抱いた白猫を締めつけたりゆるめたりする行為に込めざるを得ない切迫感が、作者一身の感覚では済まされぬ時代の病理としての象徴性を獲得していると云うこともできる。 また、「白き猫」にきっぱりと己れのかたちを投影する手つきには、やはり男性的で理知的なリズム感がある。ナルシシズムによってではなく、自虐のかたちをクールに見据える構成的なまなざしによって生み出された一首でもあろう。
北原白秋28 折ふしのものの流行のなつかしくかなしければぞ夏もいぬめる 『桐の花』(大正2年刊) 短歌にとって新鮮な素材を詠む行為は、正岡子規においては、こんな物も詠まれたことはなかった、これも素材になり得る、という幼児のようなよろこびで貪欲に対象を発見していく行為であったろうが、白秋においては、どこか素材の永遠性を信じきれないといった距離感が漂う。 ヒヤシンスもココアもカナリヤもハモニカも、あるいは古典の中で数知れず詠まれてきた夕暮れも春も螢も恋も、白秋が詠むと短歌という器に盛ってはならない〈存在の薄さ〉が盛られていることの不安となって逆説的な存在感を主張する。 存在がすべて「折ふしのものの流行(はやり)」のひとつにすぎないことの、それゆえのなつかしさとかなしさを、一首ずつ噛みしめて詠んでいるかのようだ。
北原白秋29 あかしやの花ふり落す月は来ぬ東京の雨わたくしの雨 『桐の花』(大正2年刊) 短歌という器があるのだから、少し甘えてもよかろう、といった〈脱け感〉のある一首。 細かなあかしやの落花のヴィジョンから、「東京の雨わたくしの雨」への連結には、肩の力をぬいて流してみせた手際のよい通俗性がある。 上の句と下の句の間に、俳句でいうところの「切れ」を入れながらも「つかずはなれずの取り合わせ」によって、ややけだるい〈雨〉の情趣できっちりまとめてみせたかのような、洒落た一首である。しかも下の句のリフレインによる短歌の音楽性への回収も素直で嫌みがない。 白秋という歌人に往々にして感じる〈俳句性〉が、初期のこの歌集においては、基本的に短歌性へと収斂するように活かされていて、痛ましさや哀切さ、頽廃の空気にも〈水〉の気配が流れている。
北原白秋30 なつかしき七月二日しみじみとメスのわが背に触れしその夏 『桐の花』(大正2年刊) 白秋の資質は、幼少期のまどろむような幸福感へ回帰しようとするのではなく、初めて世界に触れたときの恐怖の感触とまどろみとがひとつに溶け合っている場所への回帰願望に特色があるとおもわれるが、「手術」という酷薄な体験をもまた、同様の場所のなつかしさとして自らに刻印しているところが特異だ。 「な音」や「さ行」の多用が、己れの肉体と世界とがメスによって融合する瞬間への粘っこい凝視の感触を伝えてしみじみと痛ましい。
北原白秋31 気のふれし女寡婦のいと蒼くしまりなき眸に朝顔のさく 『桐の花』(大正2年刊) 手術のために白秋の入院していた病院風景から詠まれたものらしい。 「気のふれし女寡婦(やもめ)のいと蒼くしまりなき眸(め)」は、朝顔が咲いているのを「見る」という行為をしているのではない。 主体と客体とを切り離す「見る」という行為が、助詞「に」によって省かれて古風かつモダンだ。 女寡婦の眸に朝顔が咲くように、白秋の眸にも女寡婦と朝顔の風景が「見る」行為を省略して直に顕われているかのようだ。 斎藤茂吉ならば、作者から女寡婦、朝顔へとぬめぬめとした連続感で一首を染め上げていくところだが、白秋のこの歌は、また別の、連続感というよりは「直接感」とでも云うべきいや応のない感覚の表明を感じさせる。
北原白秋32 創いたしかなし鋭しまたさびし狂人の部屋に啼ける鈴蟲 『桐の花』(大正2年刊) 前田夕暮の歌の場合もそうだが、白秋の詠んだ「狂人(きちがい)」の歌も、私は嫌いではない。 狂人と自分とを感覚として同一視・一体化してそれで足れり、そこに「鈴蟲」の声でも流しておけ、という歌の作りようではない。 世界の中の狂人の存在のありかたを、自身の魂のありかたの象徴としてとらえているのであり、そこには己れと世界との断絶も、己れと狂人との断絶も繰り込まれた上で、憤ろしい〈喩〉を構築しようとしている者の男性的な瞬発力を感じる。 上の句と下の句の間の俳句的な〈切れ〉にも似た飛躍が、作者の「創(きず)」のかたちを断絶のかなたの狂人の側へ〈象徴〉として架橋していさぎよい。
北原白秋33 鳳仙花うまれて啼ける犬ころの薄き皮膚より秋立ちにけり 『桐の花』(大正2年刊) 鳳仙花から、生まれたばかりの犬の薄い皮膚への飛躍が俳句的。 初秋にはらはらと散りこぼれる鳳仙花と、初めて世界を感受して啼いている子犬の薄い皮膚とが、俳句的断絶をはらみつつ〈立秋〉に収斂して短歌となる様が鮮やかだ。 なにより、秋が子犬の「薄き皮膚」より立つことに、読み手もまた、生まれて初めて己れの「薄き皮膚」の上にまざまざと世界を感受した折の〈かなしみ〉を想起させられ、今もまだ同じかなしみが皮膚の上に息づくのを感じてしまうことが、この歌のいのちだとおもわれる。
北原白秋34 秋の草白き石鹸の泡つぶのけはひ幽かに花つけてけり 『桐の花』(大正2年刊) 名も知らぬ秋草の花のつけざまだろうか、「花つけてけり」には、たとえば「花つきにけり」とは異なる、秋草のやむを得ざる〈意志〉が滲んでいるかのようだ。 「花がついた」のではない、「花をつけた」、あるいは「花をつけてしまった」のだ、と見る作者のまなざしは、本来的な秋草の気配から遠ざけられて、石鹸(しゃぼん)の泡つぶのようなあまりに白く細かい人工的な幽かさで花をつけねばならない者の感覚の不幸に根ざしているのだろうか。 「石鹸」は決して目新しく解放的なイメージをまとってはおらず、既に鬱屈して希薄な現在の若者の生存感覚を先取りして、無機的な生命感とも云うべき方向性を象徴している。
北原白秋35 手の指をそろへてつよくそりかへす薄らあかりのもののつれづれ 『桐の花』(大正2年刊) 女性的なしぐさに潜む鬱屈が極まって暴発するときのような不穏さが、私には好もしい一首。 華奢でほっそりした指の似合うしぐさではあるが、その指を「つよくそりかへす」瞬間とは、「薄らあかり」の中の「もののつれづれ」という社会的には無意味な時間においてでなければそのようなしぐさが許されぬように強いられている者の、日々矯められた怒りが醸成された挙句、〈張り詰めた暴発〉を示す瞬間であろうか。 北原白秋36 ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき 『桐の花』(大正2年刊) 俳句的な〈切れ〉や〈取り合わせ〉による詩情を、短歌という器が受容してくれることへのスリリングな賭けが、一首の短歌性を保証しているかのような逆説を感じるのは、〈歌わない〉ことで生じる短歌との隙間が、逆説的に抒情を醸した啄木に通じるものがある。 肉厚で自己主張の強い鶏頭の花が黄色であること(血のような赤ではなく)。剃刀がその鶏頭の咲く庭先に落ちていること(理由もなく)。 本来のあり方や場所や用途からはぐれてたたずむふたつの物象の不安が、「ひいやりと」静止して作者の胸に巣食っている不安をあぶり出すかのようだ。 既に壊れかけた世界において、なにかを壊すために生まれてきたはずだという衝動をもてあまして氷りついている作者の表情が垣間見える気がする。
北原白秋37 水すまし夕日光ればしみじみと跳ねてつるめり秋の水面に 『桐の花』(大正2年刊) 「しみじみと」対象を眺める作者を歌うのではなく、「しみじみと」跳ねてつるむのが水すましであるところに、奇妙な断絶と同化をはらんだ象徴性が立ち上がる。 それは、秋の水面で夕日を浴びてしみじみとつるむ水すましの満ち足りた〈意味〉の世界へ回帰したいのか、逆に水すましの場所がいかにもしみじみと〈意味〉から解き放たれている様への憧れなのか、相反するものを矛盾なく同時に希求している作者の、水面の淡い光のような繊細な感覚の解放であるとおもわれる。
北原白秋38 黄なる日に鏽びし姿見鏡てりかへし人あらなくに百舌啼きしきる 『桐の花』(大正2年刊) 錆びた姿見鏡(すがたみ)に映る人の姿はなく、秋の「黄なる日」に空白をてりかえすばかり。ただ百舌が啼きしきる。 鏡の中の空白と、百舌の啼きしきるけたたましさとの対比が不安をかきたてる。 秋の日の人のもの思いを映すべき鏡ではなく、そのような安定感のある情緒を欠落させた世界を空白として照りかえすだけの鏡。そしてその不安にいらだつかのような百舌の声。 人も世界も錆びてしまったと感じている作者のアンニュイと秋とが絶対的な出会い方をして生まれた歌とでも云おうか。
北原白秋39 さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる 『桐の花』(大正2年刊) 〈雪〉がどこからやってくるのか、というその源を、白秋は己れの魂の象徴としての、やや異形性のある「さいかち」の木の実に設定してみせる。 マメ科の巨木でトゲだらけの「さいかち」の実となって、しかも大人性を拒否した「青さいかち」の実となって鳴りさやぐことで、雪を呼び寄せることが出来るのだという、きりりとした感傷と自負のコンビネーション。 「さいかちの実」への過剰な感情移入が、リズミカルにたたみかける自然な音楽性となって雪を降らせるまでの抒情の流れはダイナミックで切迫感がある。 安定感のある世界に包まれた「個」ではなく、世界から拒まれた「個」を源流として逆に世界を再構成する浪漫性がアクチュアルだ。
北原白秋40 寂しさに赤き硝子を透かし見つちらちらと雪のふりしきる見ゆ 『桐の花』(大正2年刊) このときまで赤い雪が詠まれたことがあったろうか。 赤い硝子越しに見る雪だから、作者の目には赤い雪となって見えているはずである。 しかし読者には、作者の見る赤い雪と、硝子の外にふりしきる白い雪とが、二重に感受されている。 作者のこころにも実は二重性がひそんでいて、まっすぐに純白の雪に抒情を託すことができない寂しさに、ことさらに赤い硝子を透かして「白い雪」と己れとの距離をわが目に刻印するかのようだ。
北原白秋41 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 『桐の花』(大正2年刊) 前近代の歌人において白秋にもっとも美意識の似ているのは、藤原定家だろう。 一首のうちに二種の季節を、あるいは有と無を同居させながら、ヴァーチャルな幽玄境へ読者を誘い込み、盛り込む感覚はモダンでありながら旧い美意識でスタイリッシュにまとめ上げる。 これ以上ないほどの鮮やかさで短歌という器を使いこなす革新的なデザイン性。 欠落感を強靭な武器として鍛え上げてゆく感覚と理知のバランス。 ときに冷ややか過ぎるとおもわれるのも定家と白秋に共通するが、この歌などは、官能性ゆたかで血の通ったあたたかみが〈雪〉の彼岸的な透明感と共生して嫌味がない。
北原白秋42 屋根の雪屋根をすべると三味線の棹拭きかけて泣く女かな 『桐の花』(大正2年刊) 石川啄木の短歌に登場する人物は、壊れてゆき縮んでゆく世界の底で己れのうつろさへの内省から遠い人々だったが、白秋の描く、たとえばこの歌の中の「女」は、感覚的に不安を表現することでかろうじて世界を確認し、己れを確認するような、淡いしたたかさがあり、作者のまなざしと重なる。 屋根の雪が屋根をすべるというそれだけのことに、三味線の棹を拭きかけて泣く女。 意味でも無意味でもない、瞬間の世界のざわめきに、既成の情の流れをかき乱されたかのように、「泣く」という表現へと転調する女の姿が、粗雑でないリアリティーを主張している。 北原白秋43 つつましきひとりあるきのさみしさにあぜ菜の香すら知りそめしかな 『桐の花』(大正2年刊) 異形性の強い存在に感情移入した歌も多いが、白秋には、あたりまえのこと、ささやかで見過ごしそうなもの、順当すぎて不思議や神秘とは縁の遠そうなものへの感動を歌った作品も多い。 「あぜ菜の香」が新鮮に鼻腔をうつ瞬間の、風景から一枚の膜が剥がれたような世界の更新のエロティシズムが、「ひとりあるきのさみしさ」をことさらに「つつましき」と修飾することで連想させられる〈二人の時間〉の官能性と淡くけだるく連結している。 ありふれた「あぜ菜」が、「すら」「知りそめし」といった修辞に丁寧に支えられて力強さを獲得し、官能性の濃い相聞歌の中心素材としてその存在を主張するさまが、短い詩形の中でドラマチックだ。
北原白秋44 あはれなるキツネノボタン春くれば水に馴れつつ物をこそおもへ 『桐の花』(大正2年刊) 「キツネノボタン」だけが鮮やかな黄色で具象画の素材としての存在感を主張しているが、「春」も「水に馴れ」ることも「物をこそおもへ」もすべて朦朧とした抽象性が強い。 そのコントラストが、キツネノボタンに官能的な象徴性を与えており、叙景と叙情との一体感を生み出してもいる。 対照性が一体感を生むところに白秋らしいまなざしを感じる。 鮮やかな風景を、鮮やかなまま身に沁みとおらせている身体と、鮮やかさに苦痛をおぼえ、やわらかな風景として再構築したいと願う身体と、そのせめぎ合いの止揚されてゆく時間を水の流れとしてあふれさせることが出来る者のことを歌人というのだ、と定義してもよい。
北原白秋45 みじめなるエレン夫人が職業のミシンの針にしみる雨かな 『桐の花』(大正2年刊) みじめな境遇の外人女性の職業(なりはひ)の様を描いてはいても、啄木の歌に登場する女性たちの描き方とは大きな違いがある。 啄木が可視的な貧しさに力点を置いて、社会に対する批判を込めており、白秋はより不可視の不幸を情緒的に描くことをめざした、つまり、社会性と批判精神を介在させた作歌かどうかという違いだけではない。 確かに、啄木の歌には当時の社会を覆う〈うつろさ〉への鋭い批判があり、白秋はむしろ、その〈うつろさ〉に同情的な寄り添い方をしているが、より根源的な違いは、啄木の描く人物は、その可視的な肉体の輪郭を超えないように、超えることができないように描かれており、白秋の描く人物は、その肉体の輪郭をあいまいにさせる世界の気配との無自覚な交感によって、たとえば雨と浸潤し合うような身体を獲得している様が描かれているということだ。
北原白秋46 ふくれたるあかき手をあて婢女が泣ける厨に春は光れり 『桐の花』(大正2年刊) 啄木ならば、登場する人物はみな、あるべき生きざまからはぐれて絶対感のない場所でうつろさをもてあましているのだが、白秋の歌においては、みじめさやわびしさもむしろ彼らの場所の絶対感を支えているかのようだ。 厨であかぎれの手を顔に押し当てて泣く婢女(はしため)の姿も、その厨に春を光らしめているもののごとく、濾過されたかなしみの透明さで絶対感を帯びる。 白秋自身が、己れの生にとって必要な光をわびしい同時代人に分かつことで、ひっそりと淡いけれども世界の更新を試みている、そんな時間が一首に流れている。
北原白秋47 芥子のたねひとり掌にのせきらきらと蒔けば心の五月忍ばゆ 『桐の花』(大正2年刊) 「芥子のたね」がどこか不穏だ。 その不穏さを「ひとり掌(て)にのせきらきらと」蒔けば、心は自然と五月(さつき)を思っている。 この五月のイメージは、生命的な新緑の息吹からはほど遠い。 きれいな毒の種をひとり世界に蒔く者の、それも世界からは知られずに蒔く者の、己れの毒に対する過激な自負のようにもおもわれる。
北原白秋48 温かに洋傘の尖もてうち散らす毛莨こそ春はかなしき 『桐の花』(大正2年刊) 毛莨(きんぽうげ)の黄色い花のあたたかな解放感が、作者の鬱屈と交じり合うとき、きれいな毒でもまき散らしているような不穏な春のかなしさに変容する。 作者の「洋傘(かさ)の尖(さき)」に触れるものはみな毒となり、きんぽうげの花もまた毒となってうち散らされて、人は誰も毒に触れたことさえ知らぬうちに、世界はかなしき春が支配する。 そのような魔術として文学を飼っている男の不幸が滲む。
北原白秋49 やはらかに赤き毛糸をたぐるとき夕とどろきの遠くきこゆる 『桐の花』(大正2年刊) ほとんど完璧なまでの流麗な短歌的韻律の中で、「赤き毛糸」をたぐる行為の特異さが際立つ。 あまりにも女性的で日常的な行為に、作者がそのむすぼれた思いを解きほぐそうとするかのようにのめり込む様が不安をそそる。しかも毛糸をたぐれば遠くから夕とどろきを招き寄せてしまうところも呪的で、「赤き毛糸」に賭けられた一首の重みがやわらかな激しさで読者を撃つ。 詞書に、「思ひ出の赤き毛絲よ、夕暮の薄らあかりにただたぐれ、静こころなく」とあるが、個人史的な物語性をもつ「赤き毛糸」が、個人史の輪郭を踏み越える瞬間の激しい象徴性とでも云うべき靭さに支えられた一首。
北原白秋50 編みさしの赤き毛糸にしみじみと針を刺す時こほろぎの鳴く 『桐の花』(大正2年刊) 男性の手によって編まれるならば、「赤き毛糸」のイメージも、日常的な生活のぬくもりへの素直な感慨というより、そこからはぐれがちな魂がことさらにひとこまの芝居として日常を演出するかのごとく、危なげに浮き立ったものとなる。 生活そのものではなく、生活を表現として捉えなおしてしみじみと抒情の具としている者のたよりなさと切実さで「こほろぎ」が鳴く。
北原白秋51 松の葉の松の木の間をちりきたるそのごとほそきかなしみの来る 『桐の花』(大正2年刊) 松の葉が松の木の間を散るのは、人が人の間を生きるかなしみのようで、ちりちりとふるえるように散りくる松の葉と動かぬ木との対照が、作者と世間の人との対照であるかもしれない。 そもそも松の木にあった葉であるのに、どこから散りくるのかはあいまいで、人のかなしみもまたどこからか「来る」ように歌われることで一首は透明な離脱感を獲得する。
北原白秋52 おづおづとわかきむすめを預かれる人のごとくに青ざめて居り 『桐の花』(大正2年刊) 白秋の作品には青ざめた緊張感が常にたちこめ、世界への恐れを美的に再構成することでかろうじて息をついているような硬質の身構えを感じるが、その青ざめた不安とは、この歌の比喩で表現されるような、守らねばならぬ己れのかたちを己れ自身でおずおずと凝視しつつもてあましている姿でもある。 世界に感覚が開き切っているということが、幸福ではなく、苦痛をより多くもたらすようになった時代を象徴してリアリティーがある。
北原白秋53 ただひと目君を見しゆゑ三味線の絃よりほそく顫ひそめにし 『桐の花』(大正2年刊) 「三味線の絃(いと)よりほそく」ふるえるのは、感覚であって、神経ではないところが救いである。 このような女性性のきわまった感覚のふるえも、己れの内に許容し、解き放ってやることのできた時代ではあった。 己れを激しくひきつけるものを激しく恐怖するようになると、そこには神経の不毛なふるえだけが生じる。 明治にはあった世界(コスモス)と倫理が剥落し、大正にはあった感覚が剥落し、昭和には神経だけが残されてゆく、そのように縮小していった世界のことを思う。
北原白秋54 どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし 『桐の花』(大正2年刊) 不可知で不穏なものとして、作者をひきつけつつも得たいの知れない不安を引き起こす存在として、白秋は女性をとらえている。それは自身や世界に対する認識とも重なっていただろう。 己れ自身も、他者も、世界も、不可知であるという感覚をもつことが、素直であたたかみのある絶対感に満ちた感覚ではないところに、この時代の屈折した不幸と表現意識の複雑な深化があると云える。 くせの強い青みを喚起するどくだみの花の匂いによって世界が塗り替えられることへの同意を迫る、そんな女性のまなざしであると想像させるような一首に籠る鬱屈が、歌の輪郭を押し広げている。
北原白秋55 夕かけて白き小鳥のものおもひ木にとまるこそさみしかりけれ 『桐の花』(大正2年刊) 「とまり木の鳥のこころよ」と詞書にある。 「白き小鳥」に己れのものおもう心を託した、いたって素直な抒情歌であると映るが、素直さがそのまま世界に対する断絶をはらんだ距離感でもあるときの、淡白な「さみしさ」が一首の主題であろう。 ものおもわしげな小鳥に、「ああ同じこころよ」と一体化して詠んだ歌ではない。 己れのこころのありようが、「白き小鳥」のかたちをとって顕われとまり木にとまることの、世界との断絶を抱えていればこそ、不思議としか云いようのないしみじみとしたさみしさ。
北原白秋56 空いろのつゆのいのちのそれとなく消なましものをロベリヤのさく 『桐の花』(大正2年刊) 風景としてはロベリヤの花が咲いているだけで、初句から第四句までの抒情は「ロベリヤ」を引き出すための序詞であるかのような、意味の希薄さがある。 「こんないのち、消えっちまえばいいものを」という捨てばちな強さは、「空いろ」や「つゆ」や「それとなく」によって希釈されてつつましく透きとおってしまい、それでいて眼前のロベリヤはあくまで「咲く」という営みによっていのちを主張することで作者の希薄さをかき乱す。 はかなさと強さが循環し、いのちの濃さと薄さがたがいにかき乱しあいながらひとつの色に溶け合ってゆくさまが、歌にかなしげなふくらみを与えている。
北原白秋57 君と見て一期の別れする時もダリヤは紅しダリヤは紅し 『桐の花』(大正2年刊) ダリヤの花には、日本的な感受性をかき乱す不安定な自己主張の強さがある。 お前たちとは無縁の世界で生まれた花だと云わんばかりのその姿かたちは、短歌の中に詠み込まれればやはりむせかえるような肉感性を帯びて不安をかたどる。 「一期の別れ」の刹那においても、ダリヤは肉食的な恒常性で血のように紅く、世界の存在のかたちを象徴するかのようだ。 そのような世界との距離が、逃れようの無い切迫感で作者を追い詰めているさまが、下の句のリフレインに顕著だ。
どん底の底の監獄にさしきたる天つ光に身は濡れにけり 『桐の花』(大正2年刊) 姦通罪として投獄されたときの歌。 このような状況におかれていなかったときも、白秋には既成の〈意味〉を嫌い、やわらかく透明なあたたかみのある〈無意味〉を好むところがあった。〈無意味〉というよりも、社会的な匂いのしない〈意味〉を求めたとも云えるだろう。 監獄(ひとや)においては、あからさまに既成の社会的な〈意味〉を剥奪されているので、「天つ光」のようなストレートな〈意味〉への身のゆだね方が率直だ。「どん底の底」と「天」との対比も激烈で、己れの魂に不似合いな境遇に置かれた者の怒りがしのばれる。 この世界における輪郭を監獄の内に明示された「身」が、「天つ光」に濡れることで別の「意味」と「輪郭」を獲得する様は、わびしさや怒りをも超えて静かな殺気を放っているようにおもわれる。
北原白秋59 日もすがらひと日監獄の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする 『桐の花』(大正2年刊) 白秋の資質の根幹に、短歌的なものと俳句的なものと、いずれの方が強くあるのかと問うならば、私は俳句的なものではないかとおもう。あるいは、俳句的なものを短歌に持ち込むことが白秋的だったと云えるかもしれない。 鳩の存在感と「ぽつぽぽつぽ」というオノマトペは、社会的な意味としては残酷な烙印を捺された白秋の物おもいを、ふんわりと無意味で軽妙な場所へ拉致してゆく。その落差が再び物おもいをさそう。 短歌的なスキームを軽みのある俳味で埋めてゆくことで生じる〈不安という完結感〉とでも云うべきトーンが特徴的な一首。 北原白秋60 曇り日の桐の梢に飛び来り蜩鳴けば人の恋しき 『桐の花』(大正2年刊) 監獄の中にあって、「曇り日」と「桐の梢」とそこへ飛んできた「蜩(かなかな)」と「恋しさ」とは、絶対感をもって固く結びついている。社会的な〈意味〉において陵辱された作者の身を、はるかに絶対的な〈意味〉で染め上げようとするかのようだ。 だが他界的・天上的というのではない。蜩の非日常性も、生々しい人の恋しさへと連結して、焼けつくような現世的な匂いがする。
北原白秋61 かなしければ昼と夜とのけぢめなしくつわ蟲鳴く蜩の鳴く 『桐の花』(大正2年刊) 『桐の花』中、監獄体験を歌った「哀傷篇」から後では、それまでの素直で躍動的なリズム感が消えている。 言葉の紡ぎ出し方に粘り強さがなく、俳句的な〈切れ〉も詩的な跳躍力を高めず、リフレインも気がぬけたようでどこか散文的である。 「昼と夜とのけぢめなし」という状態は、世界と作者との「けじめ」の無い状態に由来するものだろう。 世界と己れとの「けじめ」が強烈だったからこそ、異和の感覚を美へと再構築するエネルギーも湧いていたはずだ。 その「けじめ」が失せてしまった。 つまり良い意味で世界と己れが一体化したのではなく、世界風景の散文的で平板な圧力によって、作者の感覚の核のような場所が押し潰されたのであったろう。 そのかなしみに引きずられるようにしてくつわ蟲が鳴き、蜩(かなかな)が鳴く。 あの白秋独特の、恐怖と美とが一体となる鮮烈さは無く、存在の脱力感が伝わってきてしまう。
北原白秋62 男泣きに泣かむとすれば竜胆がわが足もとに光りて居たり 『桐の花』(大正2年刊) 「竜胆(りんだう)」によって〈詩〉を励起されたのではなく、〈現実〉を突きつけられた作者がいる。 竜胆の詩的なイメージによって救われるのではなく、男泣きの中で現実の矛盾を解消しようとした作者の足元に光る竜胆は、男泣きの虚しさを突きつけてくる。 地に足をつけて咲く涼しげな花の光はあくまで現実を照らしており、以前の白秋が詩的世界を構築すべくまなざしを投げていた、人と人以外の存在の呼吸が混じりあう場所に咲いているのではない。
北原白秋63 ぐろきしにあつかみつぶせばしみじみとから紅のいのち忍ばゆ 『桐の花』(大正2年刊) 「ぐろきしにあ」の花も、ダリヤに通ずる近代的な存在感の濃い、自己主張の強さがある。 大きな葉、ビロードのような質感と血のような色の花びら。 花をとおしてつかみつぶしているのは、ある不自然な存在のかたちである。 あるべきかたちからはぐれてしまったその起点がさだかではないほど身になじんでしまっている〈不自然〉を、花をつかみつぶすことでしみじみと手の内に呼び起こしている。 〈世界〉と、己れも含めた〈存在〉の本質に、近代が血液のように沁みとおっているものの、そのことが不条理の源泉でもあると直覚的にとらえている作者の、自虐による〈いのち〉の確認のかたちが痛々しく、また現在的でもある。
北原白秋64 時計の針TとTとに来るときするどく君をおもひつめにき 『桐の花』(大正2年刊) 「君」と自分との出会いの絶対感を視覚的に表現しているが、その絶対感は世界におおらかに包まれたものではなく、デジタルな緊張感をもつ平面的な世界の上で追い詰められるように出会い、引き剥がされるように離れてゆく一瞬の、酷薄なするどさをもつおもいのことだ。 『桐の花』終盤では、意味と無意味との間でまなざしをどこへ投げたらよいかもてあましているような歌よりも、クリアに限定された現実の上に在る自己のせっぱ詰まった身体感覚をしぼり出すような歌において精彩がある。 〈世界〉の縮小をその身に残酷に刻み付けることとなる事件によって、まなざしの変容を強いられた白秋の、やむを得ざる歌いぶりであったろう。
北原白秋65 どれどれ春の支度にかかりませう紅い椿が咲いたぞなもし 『桐の花』(大正2年刊) 「母の云へらく」との詞書がある。 たまたま耳に入ってきた母の言葉をそのまま短歌にしてしまったという体裁だが、母の言葉に敢えてなんら加工を加えなかったことに、読み手は不安をそそられる。 ふんわりと意味の抜けた言葉のリズムに、吸い込まれるようにすがるように表現との接点を求める作者の心の傷痕がかえって生々しい。自分のまなざしとして世界を捉えなおす意志を放棄したかのような歌の表情が、私には痛々しく感じられる。
北原白秋66 あかんぼを黒き猫来て食みしといふ恐ろしき世にわれも飯食む 『桐の花』(大正2年刊) 白秋の中で潰されたものの、その潰され方は、この歌のようなかたちであったのだろう。 啄木の場合、己れの中の守らねばならぬものを自覚的にとらえ、自覚的にたたかっていた表現者だったが、白秋は、啄木にくらべると、その自覚が淡かったとおもわれる。 この歌における「恐ろしき世」の認識も、時代や社会の認識としてではなく、あくまで自分の感覚のやわらかなみどりごのような核を肉食的に狂暴に踏みにじられた体験の反映であり、「世」と「われ」との落差の把握というより、残忍な「世」における「われ」の身体のありようから歌を立ち上げている。 啄木とは異なる自覚の淡さが、危うくもあり、女性的な不敵さをも感じさせる。
北原白秋67 犬が啼き居り乾草のなかにやはらかく首突き入れて犬が啼き居り 『桐の花』(大正2年刊) もう一度、犬が乾草のなかに首を突き入れて甘く啼くように、もう一度、以前の世界のやわらかさに身をゆだねることが出来るならば。 だがそれがかなわぬことの脱力感が、初句の「犬が啼き居り」の字余りと気のぬけた結句のリフレインに滲んでいる。 犬の仕草への羨望によって露わになるのは、白秋にとって監獄体験以前の世界との関わりの本質に、退嬰的なものがひそんでいたことである。 ただ、彼が退行してゆく場所そのものが、世界が他者としてたち現れたときの鮮やかな恐怖をも含んでいたために、幼児性・女性性とともにその作品世界には清潔で透明な決断力に富む男性的な理知のエネルギーも満ちており、繊細かつダイナミックな魅力を持ち得ていた。 この歌では、ただ一箇所だけ五音である第三句の「やはらかく」が、他の七音に上下からバランスよく挟まれて、作者のやむにやまれぬ女性的・退嬰的な願望を明白にしている。
北原白秋68 吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり 『桐の花』(大正2年刊) 『桐の花』の末尾に置かれたこの歌によって、作者の追い詰められた場所が推しはかられる。 「夕」はいつも抒情のあふれる時刻として、昼と夜とのあわいにあって作者のおもいの流れ出る頃合いとして、また世界がその隠された表情を露わにするときとして、さまざまにこの歌集を彩ってきたが、この歌では「夕」になることで「蝋燭に火の点く」ように作者の心に起こる現象は「ひもじさ」である。 それは魂が非日常的な世界に餓え渇いてひもじいのではなく、非日常的な世界に向かう魂のありようそのものを無残にたたき潰されて、ただ現世に存在する肉体のひもじさの中に散文的に平板に拘束された状態を示している。 萩原朔太郎が、白秋の歌集においてはこの『桐の花』のみを高く評価し、それ以降のものはほとんど顧みなかったというのも、白秋の中で消えて戻らぬものを歌のいのちとして最も大切に考えていたからであり、それなくして作歌に骨身を削るとしても、それは本質的に不毛なたたかいであることを感覚的によくとらえていたからだとおもわれる。 『桐の花』という歌集そのものが、ちょうど「夕」のように、時代と時代のはざまのとらえがたく繊細な光と闇の交錯する抒情空間が、もっともその空間を表現するにふさわしいひとりの歌人の身体を通してたち顕われた稀有な世界だったと、私には感じられる。 (C)Kirishima Ayako |
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