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桐島絢子WebSite>エッセイ・評論篇>前川佐美雄『植物祭』 前川佐美雄1〜105 歌集『植物祭』より(2008/05/25〜2008/09/10) 前川佐美雄1 かなしみを締めあげることに人間のちからを尽して夜もねむれず 『植物祭』(昭和5年刊) 「近代短歌」ではなく、「現代短歌」が始まったことを感じさせる歌集、『植物祭』。 短歌という器がこの世界(コスモス)と同じ広大さをもつことへの信頼はとうに失われ、そのことを課題として引き受ける苦悩もまた失われ、己れの身体とはそもそも何の縁(ゆかり)もなかった狭小なる器を掌に載せてそこに肥大化した自我の主張を盛るときの、やり切れないニヒルな韻律。 ただ、大正時代の多くの歌集とは異なり、昭和5年のこの歌集には、狭小なる短歌という器とともに己れのストレスの在り処をも掌に載せてまじまじと凝視するかのような、酷薄な欺瞞の無さが溢れている。 「われ」でも「ひと」でもなく、筋肉や骨で構成された「人間」のみすぼらしいちからを夜ごと使い尽していることの悲惨が、「短歌」の狭小さを際立たせている。 前川佐美雄2 人みながかなしみを泣く夜半なれば陰のやはらかに深みて行けり 『植物祭』(昭和5年刊) 具象性を通過せずに、他者の「かなしみ」と己れのかなしみを抽象的な場所でのみ「やはらかに」融け合わせる一首に説得力があるのは、「人みながかなしみを泣く」という強引な規定力に読み手が巻き込まれてゆき、「陰」が具象性を持たぬゆえに、己れのかなしみの具象性を振り捨ててやわらかく深く闇の中でまどろみたいという「人みな」抱えもつ暗い望みに言葉が真直ぐに届くからであろう。 前川佐美雄3 かなしみはつひに遠くにひとすぢの水をながしてうすれて行けり 『植物祭』(昭和5年刊) 「かなしみ」をめぐる抽象画が何枚も続く。 「かなしみ」によって遠くに流された「ひとすぢの水」もまた、具象性を帯びることなく、その色も激しさも読み手の想像力に委ねられる。 陰鬱な青灰色の画面に鈍く光る一筋の銀色の流れでもあろうか。どこから来てどこへ流れてゆくのかも定かではない、川とも滝とも特定し難い、かなしみそのものが凝って流れとなった、重い透度を感じさせる流れ。 「つひに」によって、この「かなしみ」が、粘度の強いものであって、遠い「ひとすぢの水」を作者の魂にもたらしてようやくうすれてゆくことの出来る、根の深い、たやすくは去りがたいものであることが知られる。 それでいてそのかなしみの因ってきたる場所を具体的に一首に詠み込むことを拒む激しさが、前川佐美雄の持ち味でもあろうか。 前川佐美雄4 おもひでは白のシーツの上にある貝殻のやうには鳴り出でぬなり 『植物祭』(昭和5年刊) 「白のシーツの上にある貝殻」が鳴り出すならば、それは〈詩〉である。 「おもひで」が「白のシーツの上にある貝殻」のように鳴り出すならば、これも〈詩〉である。 だが、「おもひで」は、ここでは「白のシーツの上にある貝殻」のようには鳴り出さない。 作者の眼前には、〈詩〉を否定する「おもひで」のかたちが存在することで、「白のシーツの上にある貝殻」が鳴り出すという〈詩〉もまた侮辱されたかのようにみすぼらしい即物的な姿を晒す。 「おもひで」と「貝殻」との距離が、作者と現実との距離でもあったろうか。 文語的な語彙をも拒否して(たとえば「白きシーツ」とせぬ選択)、短歌的な物語性から逸脱したその距離を明確にしたいという作者の意図が、ことさらな旧仮名遣いによってひび割れた効果をかもし出している。 前川佐美雄5 床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし 『植物祭』(昭和5年刊) その表現の中において、己れの手足や首までも切り刻むような自虐のかたちを繰り返さずにはいられない魂のありようとは、そのような表現をなさねば己れは生きながらえることが出来ないという、切り立った断崖をおもわせる場所に晒されてある状態だろう。 己れの首が床の間に祭られてあるのに遭遇した作者は、その夢の中で泣いている。 「うつつならねば」には、「うつつならば」泣くことさえ出来ない、やわらかな情などはすべて硬直して枯れきった世界で生きる者の苦々しいドライな把握が剛直に表現されている。 作者の「首」を祭った者の姿がどこにも見えないせいで、不気味な敵との戦いの場所が不明瞭であることのクリアな喩としての一首たり得て凄味がある。 前川佐美雄6 幸福のわれが見たくて真夜なかの室にらふそくの火をつけしなり 『植物祭』(昭和5年刊) 「真夜なかの室(へや)」にろうそくの火をつける行為によって出現さるべき「幸福のわれ」がどのような質と振幅とをもつものなのか。 そこには薬にしたくても甘いロマンティシズムなど無い。 ただ、現実において追い詰められた魂が、どこかにもっと深く、もっと湿り気のある、もっとほの暗く呼吸の出来る場所はないかと真夜なかの闇に手を伸べるさまが、そのわずかに遠い場所にはるかに遠い場所を求める手つきが、幸福を知らない者が幸福を求める手つきと重なり合って切ない。 前川佐美雄7 子供にてありしころより夜なか起き鏡のなかを見にゆきにけり 『植物祭』(昭和5年刊) 「子供にてありしころより」の裏には、大人である今も夜なかに鏡のなかを見にゆく作者がいる。 鏡のなかには、決してはなやかな夢幻の世界が繰り広げられているわけではない。 ただ、現実に裂け目があって、そこから現実をはるかに凌駕して現実を包み込む〈闇〉へと繋がる通路があるとすれば、真夜中の鏡のような場所であるかもしれぬ。 子ども心にそのような通路への嗅覚をはたらかせねばならなかった、その痛みが今も疼くようだ。 前川佐美雄8 幾千の鹿がしづかに生きてゐる森のちかくに住まふたのしさ 『植物祭』(昭和5年刊) 現実の奈良の都の、現実の「鹿」の多さとその身近さへの心踊りではあるまい。 「幾千の鹿」には、現実の空間を異化する起爆力が込められている。 生身の人間が住まい、三次元的で散文的な生のなりわいに満ちた空間が、「幾千の鹿」の呼吸する云わば四次元の場所から見れば全く異なった相貌を顕わすかもしれぬ。 そのような場所へ己れの〈眼〉を飛ばす楽しみを、個々の鹿ではなく「幾千の鹿」の支配する「森」の空間は作者に与えてくれるだろう。 前川佐美雄9 幾万の芽がうつぜんと萌えあがる春をおもへば生くるもたのしき 『植物祭』(昭和5年刊) 「幾千の鹿」も「幾万の芽」も、生身の現実をことさらにヴァーチャルな異次元へと転換させるエロス的で観念的なバネのようなものだ。 転換された世界から現世を見下ろすことで捨象されねばならないものをあまりにも多く抱えた者の息苦しさが、一首を張り詰めさせている。 そのようなまなざしにおいて、世界は「うつぜん(鬱然)と萌えあがる」幾万もの春の芽の吐く息で作者を陶然としたエロスに包み込む。 前川佐美雄10 つひにわれも石にさかなを彫りきざみ山上の沼にふかくしづむる 『植物祭』(昭和5年刊) 「つひに」には、長く深く身体に刻まれてきた不条理を今こそ、という思いが籠る。 「われも」には、神話的な行為に倣い、己れの身体を類的な無意識にまで解き放とうとする者の、もはや自我の輪郭など蹴散らさねばやまぬ臨界点にまで昂揚した不穏な衝迫力がさらりと露出する。 石に彫りきざまれたさかなは現世の人間の目には触れ得ぬ山上の沼の底にふかく沈められ、作者の行為によって象徴的に昇華される人間の普遍的な不条理の影を曳きながら呪的な物語を生きてゆくだろう。 前川佐美雄11 山上の沼にめくらの魚らゐて夜夜みづにうつる星を恋ひにき 『植物祭』(昭和5年刊) 一首前に作者が石に彫り、山上の沼に沈めた魚は、この歌において「めくら」となり、夜ごと水に映る星を恋うている。 直接夜空の星を恋うのではない。 人間の目にすることのない山上の沼の「みづ」に映る星は、その沼に沈む魚なればこそ、またその魚が「めくら」なればこそ、彼らの魂の目に見える星であり、星と魚とは、屈折した絶対感をもって互いを補完し合う関係たり得ている。 この世の秩序から過剰な魂の野心を秘めてドロップアウトする星と魚との神話的空間がエロティックだ。 前川佐美雄12 真夜なかは四壁にかがみを掛けつらね火を点じてぞわれの祈れる 『植物祭』(昭和5年刊) 山上の沼に盲いた魚を沈めた作者は、己れの部屋を一歩も出ることの無い作者であり、真夜中に己れの部屋の四壁に鏡を掛けつらね、火を点じ、その火が鏡によって無限に増殖してゆく世界において、山上の沼のドラマを構築し、世界の更新を祈っている。 現実界への憎悪をバネに、世界を更新する幻の増殖するイメージがシンプルに顕ち上がる。 前川佐美雄13 なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす 『植物祭』(昭和5年刊) 散文的な韻律による短歌性の解体が啄木の『一握の砂』に通じるが、啄木がロマンティシズムへの回路を閉じ切ることがなかったのに対して、あるいは本来あるべき世界のかたちをその身体が知悉していたのに対して、前川佐美雄は手ぶらで三十一個のマス目に対峙している、あるいは手ぶらで世界のかたちを己れの身体からのみ紡ぎ出さねばならないというところに、啄木との落差がある。 世界はこうではなかろう、という憤りは、どこにも比較すべき理想形の無いままに、横暴に縦横に弾けようとしてただ痛々しい。 前川佐美雄14 四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ 『植物祭』(昭和5年刊) この歌集が刊行されたのが昭和五年。昭和二年には、芥川龍之介が「ぼんやりした不安」のために自殺した。 この前川佐美雄の一首には、芥川が怖れていたもののかたちが映し出されているようだ。 芥川の作品には、「怖れていた」というより、怖れるものにあれほど惹きつけられていたならば、精神を病むのも無理はなかっただろうとおもわせるものがある。 この一首にも、恐れることが惹きつけられることでもあるような、昭和初期の魂のかたちがクリアに表現されている。 前川佐美雄15 燈のまへに手はものの影をゑがきつつ今宵も何かまとめかねゐる 『植物祭』(昭和5年刊) 「ぼんやりした不安」がこの歌にもシンプルな映像でかたどられている。 「ものの」影を描き、「何か」をまとめようとしてまとめかねている「手」が、「燈」のまえをあてどなく揺らめく様は、己れの〈闇〉を〈闇〉のままで、なにものにも回収されずにかたちにしようとする苦悶が、呪的なエロス性を帯びて読み手の不安をも招き寄せる。 「ものの影」は己れに固有の〈闇〉でありながら、己れの輪郭を超えてどこからか己れを己れたらしめている〈闇〉でもあろう。 前川佐美雄16 室の隅にあかるい眼をもとめゐるあはれねずみよそこにゐてくれ 『植物祭』(昭和5年刊) 「室(へや)の隅」のくらがりを恐れ、そこに「あかるい眼(まなこ)」を「ねずみ」の眼でよいから、いやむしろ「ねずみ」なればこそ「そこにゐてくれ」と祈る己れのこころの切迫感が「あはれ」にこもる。 人の眼でもなく、室を煌々と照らす灯でもなく、ねずみのあかるい眼でなくては救われぬこころの深い闇が、解き放たれる方向性を四角い室に封じられているさまがリアルである。 前川佐美雄17 眠られぬ夜半におもへば地下ふかく眠りゐる蛇のすがたも見ゆる 『植物祭』(昭和5年刊) 現実における暗がりを見つめながら、その暗がりを透かして現実の枠を超え、作者の〈個〉の輪郭を超えた暗がりを見つめようとする眼。見つめざるを得ない眼。 「地下ふかく眠りゐる蛇」は作者の姿でありながら、作者自身にもそれが作者であると触知されない闇の姿でもあるようだ。 その闇が作者の現実の生身において血の通った息遣いをするには、あまりに地下と地上との距離が隔たってしまったことへの悲哀感が、理知的な文体に端正な暗さを添える。 前川佐美雄18 どろ沼の泥底ふかくねむりをらむ魚鱗をおもふ真夜なかなり 『植物祭』(昭和5年刊) 地下深くに居る「蛇」から、イメージはこの一首において「魚鱗(うろくづ)」へと転調する。 存在の三次元における「名」ではなく、存在の所有する部分のうち、その数の多さにおいて輪郭を曖昧にし、他界的象徴性の強い「うろこ」によって存在の本質を表現することで、作者の追い詰められた場所と志向する場所とがクリアになる。 しかも、ヴァーチャルな象徴性へ傾きながらも、「魚鱗」は「ねむる」という行為を、人の手が触れ得ずイメージの触手のみが触れる「どろ沼の泥底」においてゆっくりと呼吸するように営んでいる。 真夜なかの作者の渇きがうっとりとおもいを紡ぐ。 前川佐美雄19 春になり魚がいよいよなまぐさくなるをおもへば生きかねにけり 『植物祭』(昭和5年刊) 地下深くねむる「魚鱗(うろくづ)」をおもうときには青くなまめかしい幻想性がロマンティックでさえあるが、現実界における春の魚のなまぐささは、人間のなまぐささを帯びて作者には耐え難いものがあった。「生きかねにけり」の苦々しい不機嫌さが好もしい。 「なまぐささ」への極度の嫌悪が、〈退行〉という病理を生み散らしていた昭和初年の、ヴァーチャルな幻想空間に吸引されてはいるが、饐えた居直りに堕すことなく、端正に己れの生き難さを凝視する前川佐美雄の作風は、戦後の「前衛短歌」に示唆を与えたものではあろうが、命がけの不機嫌とも云うべき生真面目さが、「戦後短歌」には見られぬなつかしい感触を与えてくれる。 前川佐美雄20 をさならのうた歌ひゐるなかに来てわがするどさのたまらざりしか 『植物祭』(昭和5年刊) 作者の苦悩が物質的な不遇感とは無縁の場所にあることが明白となるしかない時代の、己れのとげとげしい存在への自負と嫌悪が無限増殖しそうな日常の一瞬を、的確な抽象度で掬い取った一首。 「するどさ」は作者を苦しめてもいるが、その硬度がこの歌集を貫く美質でもある。 ともすれば日常を切り裂き、逸脱する「するどさ」という武器をもてあましつつ、それによって日々をもちこたえている余裕の無さが、散文的な韻律に表現としての緊張感を与えている。 前川佐美雄21 たまきはる生命きはまるそのはてに散らつく面よ母にあらずあれ 『植物祭』(昭和5年刊) 「生命(いのち)きはまるそのはて」に、作者の意思を超えて「散らつく面(おも)」があるならば、その面は母でないことを願う。 現実の母はどうあれ、短歌における「母」にはあらゆる矛盾を解消するイメージをゆだねがちな近代の歌人たちとは一味違い、もはや母のイメージすらも拒絶するかのような険しさ。 母はむしろ、作者を苦しめている現実の側を象徴するものであり、まかりまちがっても不条理を超える幻視空間の側には存在しない、そのことへの厳しい断念が男性的に顕ち上がる。 前川佐美雄22 のろはしと世をいきどほる悲しさはことさら母にやさしくぞなる 『植物祭』(昭和5年刊) 「母」を他者として見ることで、「母」へのやさしさを獲得する。 では、「母」を他者として見ざるを得ない条件とはなにかと云えば、「のろはしと世をいきどほる悲しさ」である。 「世」に対する憤りに比べれば「母」との確執など大したことではない、といった相対的な比較によってやさしさが生まれたのではなく、「世」を憤ることの悲しさに身を浸していると、地上的な感覚の麻痺が生じる、その麻痺の場所から、己れとは何の関係もない生き物のように親の存在を見てしまう瞬間のことを歌っている。 血縁にも(血縁だからこそ)心を許すことなく、己れ一身の憤りによって甲殻類のように世界に身構える作者の、悲哀感の強さが現在的である。 前川佐美雄23 ほのぐらいわが影のなかにふとひかり土にもぐれる虫ひとつあり 『植物祭』(昭和5年刊) ともすれば「影」へ、「闇」へ、「地下」へ、とまなざしを投げる作者。 作者の「影」のほの暗さの中で、小さな「虫」もまた、あてどなげな「ひかり」を一瞬放つものの、土の中へと身をうずめてしまう。 前川佐美雄の歌における闇は、その中に作者が包まれて何も見えず混沌としてしまう闇ではなく、作者が凝視する対象としての闇である。 あくまでひりついたその距離感が痛ましいが、この歌における作者と虫もまた、かっと見開いた眼で、「ひかり」への苛立ちを込めて闇を凝視したがっているような気配を持つ。 前川佐美雄24 胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし 『植物祭』(昭和5年刊) 『植物祭』という歌集のタイトルは、この歌のような植物の「青さ」への過剰な希求において集の性格が特徴づけられることによるかもしれない。 水仙の花やその香りへの心の傾斜を歌わない。己れをも含めた人間というものの充満する世界を一掃して、すべてを「青き水仙の葉」によって浄化できるものならば、という狂暴な望みの溢れかえった己れの肉体を歌う。己れの肉体の「水仙の葉」による浄化が世界の浄化でもあるようなイメージを火のつきそうな激しさで想い描いている。 だが、解放感のある浄化のイメージではない。己れの肉体の輪郭を崩すことなく、空(から)になった胸に気が狂ったようにつめこまれた「水仙の葉」は、神経症的で不毛な人間の限界のイメージでもある。 前川佐美雄25 北窓のあかりのもとに眼はさめてこほろぎの目のあをき秋なり 『植物祭』(昭和5年刊) 字余りや字足らずのない、整った韻律が端正な叙情性を保証する、この歌集においては稀なナチュラルな短歌性の表出する一首。 「こほろぎの目」の「あを」さが、「北窓のあかりのもとに」世界中でただひとり目覚めている己れの魂を凝視する作者と一直線に結ばれるさまが、秋の情趣として歌い収められるのを味わうとき、短歌を読むよろこびを感じる。 前川佐美雄26 野の家にすこしはなれて立ちをれば風吹き来たるあをき空より 『植物祭』(昭和5年刊) 毒々しい歌の数々で始まった歌集だが、折々正統的な短歌性を感じさせる歌も。 この一首も素直な抒情が流れているが、読み手はここに至るまでの歌集のトーンを引きずって味わうためか、「あをき空」の青を想像するに、若山牧水の短歌における「青」のような印象を持つことが出来ない。 牧水の感受し得た世界の「青」から完全に隔絶した世界に棲む者の、幻視による硬度の増した空の「青」ではなかったか。 作者にしか視ることの出来ぬ「青」なのだという不幸な自負によって、ヴァーチャルな清新さを獲得した「あをき空」から吹く風に身を晒し、「野の家」からやや神経症的な距離を保った作者の立ち位置が、「昭和」を感じさせる。 前川佐美雄27 うすうすとゆふべは霧のながれゐて野のどことなく明るくおもほゆ 『植物祭』(昭和5年刊) 存在の明晰な輪郭線に疲れきった者の、世界の起点を「ゆふべ」の霧の流れる中の曖昧な明るみに求めようとする心の偏りが、淡いがダークな水彩画のように描かれる。 「ゆふべは」のような「は」という助詞の用い方に、前川佐美雄のほとんど無自覚かもしれないこだわりが端正に滲み出る。 「ゆふべ」という時間に、己れ一身の絶対感だけを賭けて表現しようとする、あるいは表現せざるを得ない、寂寥と孤独に彩られた自負。 誰もが「ゆふべ」によって想起する世界観からの隔絶でありながら、新たに作者の構築した「ゆふべ」には、徹底した隔絶によってのみ回帰し得る古典性とでも云うべき品格も漂う。 少なくとも、そのような方向性においてのみ、〈短歌〉という詩形へのこだわりを持つことが出来たのにちがいない。 前川佐美雄28 こころよく笑みてむかふるわれを見て組し易しとひとはおもふか 『植物祭』(昭和5年刊) 「敵」と題された14首の一連の冒頭。 この一連は啄木ばりの歌が並ぶ。 啄木ならば、「ひとはおもふか」といった他者からの視線よりも、他者からはさぞ滑稽に見えるであろう自身の姿の戯画のスケッチに徹するであろう。 前川佐美雄においては、他者の視線に拘束された神経と自意識の中で自家中毒を起こしている者の、その毒の息苦しさが際立つ。 「短歌という詩形の虐使」などという啄木の自覚を通り越して、己れ自身が己れと世界を傷つける刃となり果てたような時代を感じる。 前川佐美雄29 悲しげな恩義を知らず買わされて今は抜き差しもならずなりゐる 『植物祭』(昭和5年刊) 「敵」の姿との間に余裕のない一連の中にあって、理知の力がわずかにユーモアを生み得ている一首。 「悲しげな恩義」を、それとは知らずに買わされていた作者の、「抜き差しなら」ぬ状態。 どこか戦後的な薄汚さを感じさせる「敵」の、なれなれしい押しの強さ、対人的な垣根の低さを武器として相手の甘さにつけ入る功利的な俊敏さ、己れの倫理観の内に世界を握りつぶせると云わんばかりの饐えた人間認識とその他者への強制。 それらの内に居て息も絶え絶えの自画像が続く。 前川佐美雄30 身にきざす深きやまひをおそれつつ夜ひるわかぬ生活をつづける 『植物祭』(昭和5年刊) 啄木のように己れを戯画として突き放す距離感を持てぬかわりに、前川佐美雄の歌は哲学的な面差しとなる。 「青白い影」と題する11首の一連は、「室(へや)」という密室空間で、まっとうでない青白い影のように生きる己れの昼夜の、ことに眠られぬ夜の狂おしさを描き出している。 「身にきざす深きやまひ」は、その病を自覚すればするほどいよいよ作者の身体にはびこり、蝕み、追いつめ、いつかその身を乗っ取るであろう「影」のことだ。 病としての己れの「青白い影」を自覚しつつも、決して「夜ひる」のわかたれたまっとうな現実生活を送るべく、日常へと踏み出すことが出来ない。それもまた、作者にとっては一つの〈死〉として意識されている。 「現実」と「影」という二つの死のはざまで出口が見出せない苦しみが、決して熟さぬ青白さを帯びて不機嫌な独白を続ける。 前川佐美雄31 夜はねむり昼ははたらくひとびとの律しがたかるわがなやみなり 『植物祭』(昭和5年刊) 啄木がどれほど現世のまっとうな俗人に対して異和の念を抱いていたとしても、どれほど彼らのうつろさを冷徹に描写したとしても、そこには同朋意識の残滓のようなものがたゆたっていて、かつて同じ世界の揺りかごに揺られた者への身体感覚的ないたわりゆえに、むしろ己れを戯画として描かざるを得ない厳しさと余裕とが、その歌にはあたたかく流れていたが、前川佐美雄の歌では、ひたすら厳しい隔絶の感覚がかたくなに韻律を律している。 「わがなやみ」はどこへも届かず、どこへも流れず、誰にも見られず、いちずな、しかしとらえどころのない硬度を保ったまま増殖する。 前川佐美雄32 夜半いねず窓うすしらむ朝がたにくるふ身なればいかにかなしき 『植物祭』(昭和5年刊) 己れの青白い「影」は、夜半には眠られぬ苦しみの内にも見ることもなくて済まされるが、「窓うすしらむ朝がた」には壁にその姿を現す。 己れの本来的なありようをイメージすることさえ出来ないのに、青白く狂う姿だけは見なければならないかなしさ。 「くるふ」といっても茫洋と壁に生気のない存在を映すだけで、世界の輪郭をぶち破り、存在を更新する力など持ち合わせぬさまに、苛立ちはつのる。 「堕ちる」というわかりやすい存在の更新を許されぬような、極限的な閉塞感がたち籠めている。 前川佐美雄33 室なかにけむりの如くただよへるわが身の影は摑むこともならず 『植物祭』(昭和5年刊) 己れ自身の肉体よりも、己れの病理の方が奇妙なリアリティーを獲得する瞬間。 摑むこともできない「影」でありながら、それゆえに、確かに骨格や筋肉や皮膚をもって存在する己れ自身よりも、得体の知れなさやとらえどころのなさにおいて、存在の真実に近いかのような心地さえする。 「室なか」に居る限り、この逆転の構図によって作者の身体はいよいよ追いつめられてゆくにちがいないとおもわせられる。 前川佐美雄34 この壁のむかふの室にゐるひとの影うすじろくわれにかかはる 『植物祭』(昭和5年刊) 作者が一人いるだけの「室(へや)」でありながら、そこには作者と世界のあらゆる存在とのかかわりのあり方がたち顕われる。 「壁のむかふの室(へや)」もまた、作者とのかかわりにおいて世界を構成する。 そこにいるひとの「影」も作者の影同様、「うすじろく」とらえどころがない。とらえどころがないが、そのとらえどころのなさにおいて作者にかかわることだけは止むことがない。 誰もがあやふやな「影」においてのみ他者の「影」とかかわる風景の不気味さと、不気味でありながら、少なくともそのようなかかわりには平板で表面的で輪郭の明晰な対人関係よりもなにがしかの真実が含まれていることの淡く屈折した実感。 前川佐美雄35 青じろく霧くだるらむ冬の夜の朝がたにしてやうやくねむる 『植物祭』(昭和5年刊) 「霧」が湧くのでも流れるのでもたち籠めるのでもない。 「くだるらむ」だから、作者は閉塞した「室」の中にいて、外部を見ることはない。今ごろは霧が「青じろく」山はだをゆっくりと撫でるようにくだっているのであろう、そのさまは作者のこころにしか見えない。 世界と作者の魂の底に澱のように霧がよどむ「冬の夜の朝がた」にしてやっと眠ることができる。ようやくかすかに訪れる自分自身との和解の感触を、他者に対しては開きたくない険しさ。 冬の朝の青じろい霧の中のその険しさにおいて、作者とたしかに出会う感覚が心地よい。 前川佐美雄36 鶏のたまごがわれて黄なりしを朝がたさむくひとり見てをり 『植物祭』(昭和5年刊) 茂吉や白秋においても、「たまご」が不安の象徴として歌われたが、前川佐美雄のこの歌における「たまご」の存在の〈不安〉は、なまなましくむき出しになった「黄」によって思い知らされる殻の薄さであるかもしれない。 幻想によって己れの存在の強度をいかに強めようとも、しょせんこのたまごのように、もろくもわれて不定形で流動体の、幼稚で熟さぬ姿を晒すだけの自分。 眠られぬ夜が明けてひとりさむく向き合わねばならない己れのかたち。 前川佐美雄37 ふと立ちて押入あけてのぞきけりこの暗さにぞ惹きつけらるる 『植物祭』(昭和5年刊) 「押入風景」と題された13首が並ぶ。 「室」の閉塞感を攪拌し、もしや開放へとつながるものを秘めているのではないか、という淡い期待が、狭い暗闇の空間に目を向けさせる。 得たいの知れない闇のなつかしさ、押入との連続感により「室」のかたちや空気を変える試み、隠れてみたい衝動、汚れを押し込めてしまいたい衝動、片付いた「室」による耐えがたいさびしさ、等々、己れを含めた「室」の風景の変容の試みがむなしく続く。 衝動と不安だけが増殖し、ファンタジーの不能な空間が重苦しい。 前川佐美雄38 押入に爆薬もなにもかくさねどゆふべとなればひとりおびゆる 『植物祭』(昭和5年刊) 「ゆふべ」という時間に「押入」という空間が変容する。 そこに爆薬などかくしたわけでもないのに、ひとりおびえるのは、その空間に、爆薬ならぬなにかが、己れの知らぬ己れがかくしたなにかがひそんでいることを、やはり己れの知らぬ己れが知っているからではないのか。 幾重にも入りくんだ自我のかたちが「室」と「押入」というメタファーによって浮かび上がる。 〈得体の知れなさ〉を対象としてきりりと明晰な作歌が冴える。 前川佐美雄39 もういちど生れかはつてわが母にあたま撫でられて大きくなりたし 『植物祭』(昭和5年刊) 己れを「不孝者」と自覚する者の、生の起点を変更し得るならば、というおもいから湧き出づる悩ましい幻影。 生まれかわって「孝行」が可能な人格として成長したいのではない。 その幻影の奥に潜められた願望は、「不孝」をもありのままに赦されて存在することが可能な世界での深いあどけない呼吸であろう。 読み手の頭(こうべ)にも、ふと幻の母の手の感触がおとずれて、涙ぐまれる。 前川佐美雄40 おとうとがアルコール詰にしてゐるは身もちの守宮愛しき眼をせり 『植物祭』(昭和5年刊) 「秋の生物」と題された一連には、「守宮(やもり)」や「蝗子(いなご)」や「羽虫」等とのかかわりにおける嗜虐ないし被虐のかたちが多く描かれる。 この守宮が「愛(かな)しき眼」をしているのは、作者のおかれている魂の状態もまた「アルコール詰」同様だからであり、ブラックなシンパシーの表現であると云えよう。 愛やシンパシーや信やささやかな感覚さえも、嗜虐ないし被虐の相においてでなければ湧き出ることがないかのような、昭和初年という時代の、アルコール詰の瓶にも似たグロテスクな空気感。 前川佐美雄41 そこらまで野べの小鳥の来てをれば草にねたまま死んだふりする 『植物祭』(昭和5年刊) 小鳥の警戒心を解かんがための、「死んだふり」。 小鳥と作者との痛々しい隔絶感があればこそ、小鳥との間に無防備の刹那を味わいたくて「草にねたまま」気配を絶とうとする。 小鳥から見て、野の草の、大地の、あるいは春の、一部として認識される幸せを味わえるなら。 作者の側からは解けきらぬ存在の輪郭が、せめて小鳥の側からは解かれてしまえと望む。 そのことでいっそこの身が野の草ともなって散り失せるなら。 前川佐美雄42 ふるさとの虚し風呂にはいまごろは薄朱の菌生えゐるとおもふ 『植物祭』(昭和5年刊) 「薄朱の菌(きのこ)」のイメージが、ふるさとと作者の内にはらまれた身体感覚を鮮烈に象徴する。 愛着をもち得ぬ「ふるさと」でありながら、「菌(きのこ)」の隠微な増殖によって己れの身と魂の内までも「薄朱」に侵されてしまっているかのような。 ふるさとのイメージとしての歌ではあるが、そこには己れの身体性に対する嫌悪が潜められている。そして「風呂」としての機能が停止してじわじわと腐れ壊れてゆくすがたの「虚し」さは、当時の共同体と個人との内実の〈腐れ〉の感覚でもあっただろう。 前川佐美雄43 ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし 『植物祭』(昭和5年刊) 平板な地上の「街」に、衰弱したテロリズムを仕掛けるような、イメージによる抗い。 作者には、「ぞろぞろと鳥けだものをひきつれ」ることのできる非日常的な力が備わっている。その力によって秋晴の街に「あそび」に行くことの奇異な無意味さによって、世界の秩序が変容する。 非日常的な力をイメージしているのに、傲岸不遜なナルシシズムの匂いはなく、クールな悲哀感が漂う。〈怒り〉が観念的に増殖して肉体を置き去りにしている者の、そんな自分をもてあましている不機嫌さが、気のぬけた散文的な韻律を生んでしまう。 前川佐美雄44 あを草の野なかの土を掘り下げて身は逆立ちに死に埋もれむ 『植物祭』(昭和5年刊) 〈生〉の水準というものを草や昆虫と同等の場所に置こうとする志向性の果てに、このような歌も。 草や昆虫の場所を生きようとするイメージも、作者にきちんとした生の手ごたえを与えてくれないのであろうか、「あを草の野なかの土を掘り下げて」、身を「逆立ち」にして自らうずもれようとする。 「そのような死をみごと遂げたならば、あるいは世界はやがてこの身の憤りの解けほぐれた果ての大地によって成り立たざるを得まい」、とでもいった幻視を読み込むことで、わずかに救われる心地がする。 前川佐美雄45 海越えて幾万のばつたが充ち来らむそんな日あれとせちに待たるる 『植物祭』(昭和5年刊) みすぼらしい人間の世というものを、海を越えて現われる無数の「ばった」による浄化に委ねようという不穏な願望。 泉鏡花の『高野聖』の中に、山蛭に襲われた僧が、蛭の吸う血と泥によって世界が更新される夢を一瞬望む場面があって、初めて読んだとき、その文体の衝迫力に「明治おそるべし」という思いを抱いたものだが、前川佐美雄の昭和5年のこの歌集における衝迫は、どこか観念的で気の抜けたものになっている。 鏡花の、己れの体液と天地の孕む闇とが確実に連続しているという不敵な安定感が佐美雄には無く、「そんな日あれ」の脱力感・無力感にうちひしがれている己れへのストレスが顕著だ。 前川佐美雄46 夭く死ぬこころがいまも湧いてきぬ薔薇のにほひがどこからかする 『植物祭』(昭和5年刊) 「夭(わか)く死ぬこころ」が湧くとき、どこからか「薔薇」の匂い。 北原白秋なら、「薔薇」に死の匂いを感じ取るにしても、その「死」によってより鮮烈に際立つ「生」の色彩を歌に盛るだろう。 前川佐美雄の「薔薇」には、この一首において「死」と絶対的な出会い方をしているというには、どこか気の抜けた弱々しさがある。その弱々しさが、生と死における絶対感の不全を感じさせる。 前川佐美雄47 街に来て香水をふと買ひてみぬ誰にはばからぬよきにほひなり 『植物祭』(昭和5年刊) 「誰にはばからぬ」が一首の眼目。 作者の人をはばかって生きる苦しさがネガとして浮かび上がる。 「香水」を買う行為は無意味にばかばかしいのではない。 「ふと」なされた行為ではあっても、作者にとってはその「ふと」から世界に風穴が開くことが生のほとんど唯一の希望であったかもしれぬ。 昆虫などよりも下位の存在として己れを意識することが解放であったように、香水でさえ作者よりはのびのびと世界にその香を放っていることを羨む。人間などよりは、香水と肩を並べるくらいの存在でいられるなら、どれほど呼吸が楽であろうか。 作者らしい人間の存在価値の転倒の激しさが、おだやかな叙述のうちに潜む。 前川佐美雄48 美しいむすめのやうな帯しめてしとやかにをれば我やいかにあらむ 『植物祭』(昭和5年刊) 女装願望があるというのではない。己れの内なる女性性を解放できないことへのねっとりとした鬱屈が潜んでいる歌ではない。理知的なイメージの操作による、己れと世界との関係の変容が目論まれている。 「美しいむすめのやうな帯」をしめることで変身する女性のイメージは、この歌集で作者がたびたび変身を望んだ昆虫や植物の水準に近いものであったろう。 その変身願望も、対象そのものになりかわりたいというより、それらの対象のもっている人間から遠い存在の〈水準〉に対する憧れのようにおもわれる。その水準から世界を見つめなおし、自身を見つめなおすことによる理知的な解放の感覚への、むしろ男性的な歌の姿である。 前川佐美雄49 風船玉をたくさん腹にのんだやうで身体のかるい五月の旅なり 『植物祭』(昭和5年刊) 「水仙の葉」を空にした胸のうちにいっぱいにつめこんでみたくなったこともあった作者が、「風船玉」をたくさん腹にのんだ心地を想う。 己れの身体というものが、中身を入れ替えることのできるうつろな空洞としてイメージされる不幸が理知的に表現されて、五月の旅のさわやかささえ観念的な痛ましさを帯びる。 前川佐美雄50 あを草のやまを眺めてをりければ山に目玉をあけてみたくおもふ 『植物祭』(昭和5年刊) この歌集を絵画にするなら、ひび割れてシュールな筆触感の絵が並ぶだろう。 この一首なども、画家は「あを草のやま」にあけた「目玉」に丹念な虚無を塗り込めて倦むことがないだろう。 前川佐美雄も、きっと心の中で山に「目玉」をあけて、そこに開いた空白から立ち昇る己れ自身の虚無にうんざりしながら、どこか空とぼけた狂暴さで絵の具を塗り重ねていただろうとおもわれる。 そして、そのような虚無にそ知らぬ貌の「あを草のやま」の生き生きと青いこと。 作者の鬱屈などとは無縁の緑に染まる世界を、作者の手ごたえの内にとらえなおそうとする、観念的な悪戯にも似たおもい。 前川佐美雄51 不快さうでひとと話もせぬときのあのわが顔がみたくてならぬ 『植物祭』(昭和5年刊) 自分にとってもっとも異和感のない自身の本質をこのような「顔」の中に認める気持ちは痛いほどわかる。 というより、こういう〈不機嫌〉を内に秘めた表現でなければ信用がおけない、と私はおもっている。 だが、前川佐美雄のこの歌には、今にも己れの〈不機嫌〉で自家中毒を起こしそうな気配がありありと立ち昇っていて、彼が嫌悪するものの対極になにを視ようとするのか、なにを視ることが出来るのか、について期待を抱かせない。 啄木の歌にはあって、この作者にはないものが、そのような〈対極〉のなにかである。 前川佐美雄52 この室の気持をあつめて冴えかへる恐ろしい鏡なり室ゆ持ち去れ 『植物祭』(昭和5年刊) 「鏡」を見つめているうちに作者の憎悪が無限増殖して室(へや)いっぱいになっている。 その室のとげとげしい空気をすべて集めて鏡はいよいよ冴えかえる。 どこにも行き場のない作者の不機嫌が、ゆるむことなくはりつめている様が恐ろしい。 作者自身にとっても恐ろしい。 「鏡」を室から持ち去ることは、しかし本質的な解決ではない。そのことにも気づいている作者の理知が冴えかえる。 前川佐美雄53 このからだうす緑なる水となり山の湖より流れたくぞおもふ 『植物祭』(昭和5年刊) この天地自然に素直な感情移入をした歌ではない。 天地自然からあまりにも切り離されている存在として己れを認識しているからこそ、このようなイメージで自身を解き放たずにはいられない。その不自然の極における切迫した抒情の姿がかろうじて自然な短歌性の曲線を描く。 川やせせらぎとして己れを想い描くのではなく、「うす緑なる水」という抽象度における解放であるところに、追いつめられた観念性とともに、哀切な透明度をも感じる。 人間の気配のない「山の湖(うみ)」を起源として己れの身体を解き放つことが出来るならば。その対極の現実を読み手の内にきりきりと届けながら流れる抒情。 前川佐美雄54 湖の底にガラスの家を建てて住まば身体うす青く透きとほるべし 『植物祭』(昭和5年刊) 「湖(うみ)の底」に身体を沈めることへの憧れではなく、そこに「ガラスの家を建てて」住むことをイメージして、そこから「身体」のうす青く透きとおる様を想い描くところに、理知的なまだるっこしさを感じる。 牧水や白秋や啄木と連続感をもちつつも、遠い感受性のあり方である。 現世から離脱して身体を透きとおらせたいという憧憬において連続する。しかし、湖そのものへの融解の感覚に素直に身を委ねるところがない点において、不連続的だろう。 現世が己れの本来の居場所ではないとおもわれることに由来する憧憬だが、だからといって「湖の底」ならば作者を包み込んでくれるという安心感をもっているわけではない。そこに「ガラスの家を建てて住」むという理知的な試行によって獲得されるヴァーチャルな身体のうす青さが、作者を慰撫しながら蝕んでもいるような不安をそそる。 前川佐美雄55 顔やからだにレモンの露をぬたくつてすつぱりとした夏の朝なり 『植物祭』(昭和5年刊) 清新な「夏の朝」のさわやかさの表現としては仰々しいのが、「レモンの露」を身に浴びるときの「ぬたくつて」であり、その後の「すつぱり」である。 レモンの酸味の強い露によって、〈現世〉の魔手に触れられた痕を消し去ろうとでもするかのような、神経症的なまでの〈儀式〉。「ぬたくる」には、荒々しい原初の野性の感覚を取り戻したいというおもいも。 ここにも、昆虫や植物の水準への変身願望が見られる。 「レモン」そのものの存在に近づきたいのではなく、「レモンの露」という水準が変身願望の要である。 「すつぱり」したのは、もはや〈人間〉としてレモンのさわやかさを感受したからではなく、〈変身〉によって「レモンの露」と同じ水準の存在に転じたことの表現であろう。 前川佐美雄56 山みちにこんなさびしい顔をして夏草のあをに照らされてゐる 『植物祭』(昭和5年刊行) 鏡がなくとも、己れの顔が見える。「夏草のあを」に照らされた己れの「さびしい顔」が見える。 自身を含む風景を、映像として脳裡に想い描いて描写するということは、自身と世界との間に不幸な乖離が生じた結果だが、さらにこの一首においては、風景の中の自分を、「夏草」ではなく、「夏草のあを」の水準に解消したいという願望が詠み込まれて昭和初年のけだるくも過剰なニヒリズムが匂う。 しかも、「夏草のあを」と同じ水準にほどかれてしまいたいのに、「こんなさびしい顔」は「あを」に照らされてその輪郭を際立たせてしまって、一層さびしい。 前川佐美雄57 谷におりてみんなさみしい顔をする裏白のむら葉おのづゆれつつ 『植物祭』(昭和5年刊) 上の句の散文的・口語的韻律と下の句の文語性との対照の内に、己れの存在や世界が自明のものではなく、〈人〉にはそれぞれ帰属する場所があるという安定感から遠いという事実を突きつけられた者の、ちぐはぐな「さみしさ」を浮き上がらせる。 「裏白のむら葉」が自然に揺れていることと、「谷」のどこか人のまなざしを自らの内に向けさせる空間との共振の中で、不安定な「さみしさ」に誰もが襲われている。 だが、彼らは古語の「みな」でもなく、かといって戦後的な「みんな」でもない、帰属する場所のない浮き上がった不安を誘う「みんな」である。 前川佐美雄58 山みちに簇りてありし青栗の毬にみんな手を触れて来しことを言ふ 『植物祭』(昭和5年刊) 散文的で報告的な文体に、不安定な気分が滲む。 「山みちに簇(むらが)りてありし青栗の毬(いが)」に触れたことを皆が口にする。 この奇妙なさみしさ。 ささやかなきわめて淡い〈意味〉に感応したことを、その場に居合わせた者たちの共通のほのかな〈ふるさと〉にしようとするかのような。 それぞれに帰属する場所がない〈みんな〉が、その「青栗の毬」に触れたときの痛みともくすぐったさともつかないなつかしさを互いにそっと確かめ合う感覚は、不安定だが欺瞞のない、まっとうな繊細さとも感じられる。 前川佐美雄59 ふらふらとうちたふれたる我をめぐり六月の野のくろい蝶のむれ 『植物祭』(昭和5年刊) 現実における敗残の感覚と、そういう作者を迎え取ろうとするかのような「くろい蝶のむれ」。 「むれ」であることによって、蝶の存在は一つひとつの個体の意味が淡く、しかもある空間の範囲を占めてそこに異空間を現出させる。その異空間に身を包まれていれば、存在の核心が変容してゆくやもしれぬ。 じっとりと湿り気を帯びて甘やかな「六月の野」において、儀式に己れの身を供えるかのような作者の表情が目に浮かぶ。 前川佐美雄60 まつさをな五月の山を眺めをりあの山の肌は剥がすすべぞなき 『植物祭』(昭和5年刊) では、私たちの肌は剥がすすべがあるのだろうか。 作者にとって、己れの肌はある「厚さ」をもって内実を覆うものであり、剥がすことによってその内実が剥き出しになるものであったろう。 衣服などでは覆いようのないかたちで私たちの魂は外界に曝されているのであり、「肌」によってかろうじて覆っているものの、その覆いざまの醜いこと。外界との異和を常に真っ先に感受してひりひりと身構え、鎧のようになってしまって不恰好で重くて融通がきかない。 そんな「肌」など持ち合わせていない「五月の山」。 前川佐美雄61 遠い山にかへらされ行くゆふぐれの有象無象のひとりかわれも 『植物祭』(昭和5年刊) 「遠い山」に還ることは、作者にとってロマンではない。 「かへらされ行く」のであり、「有象無象のひとり」にすぎない「われ」であり、そこには「遠い山」と「われ」との間の絶対的な関係など無く、〈存在〉というものに対する冷えびえとした認識だけが横たわっている。 だが、「遠い山」と「われ」を超えた存在をみとめて、その存在によって強いられる行為としての「かへらされ行く」でもある。その強制の感覚がいかにも冷えびえとしている。 何も信じてはいないのだが、己れの存在をみすぼらしくする力の存在だけは信じているかのような。 無力感に浸された身体と短歌という詩形とが、「ゆふぐれ」という回路でかろうじて繋がっている一首。 前川佐美雄62 庭すみにひと株の羊歯が芽を吹きをり油ぎりたるその芽を愛す 『植物祭』(昭和5年刊) 羊歯ではなく、羊歯の芽吹きの油ぎった感触と己れの存在とを限りなく近づけている時間。 「羊歯」という植物のもつ増殖系の存在感、特にその芽のくるくると渦巻いてまだやわらかく、ぱさつかぬ触感の内に、己れの内なる奇形意識を投影している。 〈孤独〉を歌うということが、異形で奇形で人間的でない存在のかたちを歌うということであり、しかもそのような〈孤独〉のかたちが普遍性をもち得るということの大きないびつさが現在的である。 前川佐美雄63 塩をふられ縮かみ死ねるなめくぢを羊歯のねもとに埋みおきやる 『植物祭』(昭和5年刊) わびしいレクイエムである。 塩をふられて縮んで死んだナメクジは、作者自身であり、同じようにいじましく縮んでしまった世界風景の喩でもあろう。 その増殖性が人間の明晰な存在感を脅かす「羊歯」のねもとに「埋(うづ)みおきやる」のは、ナメクジの存在を現世の矮小さから解き放ってやる儀式のようだ。 「塩」をふられて縮んだ存在への嫌悪と哀れみが前面に出ているが、「塩」をふるものの正体について、つきつめるまなざしは弱い。早晩、自家中毒を起こさざるを得まい。 前川佐美雄64 夜更けの街頭に立つてここにつながる無数の道をたぐり寄せてる 『植物祭』(昭和5年刊) 呪的というにはわびしい、散文的な韻律による観念的な作歌であるが、街頭に立つ作者のそのわびしさには哀切なものがある。 どこへも往けぬことを百も承知で、それゆえにこそ、あらゆるところに往ける場所としての「夜更けの街頭」を仮構する。そこには「無数の道」がつながっているのだと。作者の思いのままにその無数の道をたぐり寄せることが出来るのだと。 ここで逆説的に歌われているのは、何処にも繋がっていない己れの存在の緊迫した矮小さである。 前川佐美雄65 月の夜の野みちにたつて鏡出ししろじろとつづく路うつし見る 『植物祭』(昭和5年刊) 「鏡」からコスミックな呪力が引き出されそうで引き出されず、どこかわびしい。 「鏡」にうつる「路」は現実の「路」とは違って、どこにでも往ける。「鏡」を使わなければ「どこにでも往ける路」を生み出すことが出来ない時点で、すでに作者はどこにも往けない。そんな己れのこともよくわかっている。わかりすぎるほどわかっていることのわびしさが一首を「しろじろと」浸している。 前川佐美雄66 わが留守の室のなかにて薔薇よくづれよしかも夜は燈に強く照りをれ 『植物祭』(昭和5年刊) 自分が留守にしている間に、部屋に活けておいた薔薇が強く生き、強く死ぬさまを想い描くときの淡く倒錯したエロス。 その薔薇の生と死も、真昼間の光の中のことではない、室内のテーブルの上の出来事であり、夜の無人の燈に照らされてのことである。 しかも自分が留守にしておいてこそ、薔薇はおそらく生き生きと「くづれ」生き生きと「夜の燈に強く照り」かがやくのだろう、と想像することのなんと作者にとって甘美なことか。 薔薇と自分との絆をことさらに不自然に演出することで匂いたつ幻想。 前川佐美雄67 遠いところでわれを褒めてる美しいけものらがあり昼寝をさせる 『植物祭』(昭和5年刊) 遠くにあって、社会化された相対的な価値尺度を無化するような〈美意識〉においてのみ「われ」とつながる「美しいけもの」のイメージは魅力的だ。 「昼寝をさせる」のは、この社会においてあくせくと意味づけられようとするなというメッセージ。 「けものら」は、特定の動物名を挙げられぬことにより、なめらかで狂暴で鋭くてしなやかな〈美〉を体現するいのちの群れを漠然と想起させる。 〈無意味〉に鋭い〈毒〉がはらまれて生き生きとした一首。 前川佐美雄68 六月のある日のあさの嵐なりレモンをしぼれば露あをく垂る 『植物祭』(昭和5年刊) 「あ音」の多用が、古典的な短歌性から一首の抒情を解き放つ方向に作用する。 「レモンをしぼれば」の字余り以外、一見古典性から逸脱する部分はほとんど無いにもかかわらず、一首には近代の極北の匂いがする。 上の句と下の句の間の断絶が、無意味な取り合わせと見えるまでに深く大きいのに、この「六月のある日のあさの嵐」には、レモンをしぼらねばならず、その露は「あをく」垂れねばならないのだという絶対感を喚起する。 「あをく」垂れるレモンの露のような作者の魂が、呪的に六月の嵐を呼び寄せたかのような、だが作者自身はそのことにいっそ無頓着であるかのような、亀裂をはらんだ奇妙な詩空間が浮上している。 作者にレモンをしぼらせ、六月の朝に嵐を起こしている〈何か〉の、淡白にして得体の知れない気配が一首を統べており、その気配によって一首の短歌性が強力に保証されている感触が味わい深い。 前川佐美雄69 貧血をしてゐるとそこらいつぱいに月見草が黄に咲いてゐしなり 『植物祭』(昭和5年刊) 北原白秋との違いはどこにあるだろうか。 白秋の歌に詠まれた風景は、彼自身にとって既視感のあるものだったろう。乳幼児期に刻印された鮮烈な世界風景の喩であり現時点での心象の喩でもあるような風景。 前川佐美雄の歌の風景は、そのような体験の重層性を感じさせない。 かといって完全に散文的な体験の報告に堕すものでもない。 「貧血」の自分と「そこらいつぱい」の「月見草」とのあいだを、なにか目に視えない力が取りもっている。その淡白な感覚をどこかうつろな気持で描写した風情の叙景。 その目に視えない力を全身全霊で信じるでもなく、完全に放棄するでもなく。 前川佐美雄70 ヒヤシンスの蕾もつ鉢をゆすぶつてはやく春になれはや春になれ 『植物祭』(昭和5年刊) 「春」になんの期待も持ってはいない者の、春にそのいのちを輝かせる植物に対するサディスティックな感情の発露。 昭和初年の青年たちの、今風に云うならばアダルト・チルドレンな狂暴さのあやうくもみずみずしい表現が、どれほどの鬱屈に根ざしていたことか。 前川佐美雄71 我我もまた女性からうまれたりされどもつひに屈辱でなし 『植物祭』(昭和5年刊) 植物や昆虫やけものの存在の〈水準〉に身を馴染ませたがるこの作者であれば、「女性(をんな)」の水準に身を置くことなどなんの「屈辱」であろうか。 社会的な存在の輪郭などとうに蹴散らした場所から世界風景を見ているのに、男性がどうとか女性がどうとか、彼にとってはなんら本質的な輪郭の規定ではなかろう。 だからこの歌は、「女性からうまれたことを屈辱には感じませんよ」という論理の裏に、「社会的なカテゴリーで人間を縛るこの世の中、やってられるか」という怒りが隠されたもの。フェミニズムともなんのかかわりもない、もっと根源的な脱社会のイメージであろう。 前川佐美雄72 壁面にかけられてある世界地図の青き海の上に蝶とまりゐる 『植物祭』(昭和5年刊) わびしい歌だ。 観念の上での「青き海」にとまる「蝶」というヴァーチャルな詩世界は、この風景を見つめる青年の、ながらく五感をきちんと機能させたことがなくていくら食べても太らない不眠症の痩躯、といったイメージをも浮上させる。 青年自身もまた己れのそのようなわびしさをよく承知しており、己れの映像が脳裡に浮かべばさぞ不愉快な時を過ごすことだろう、ともおもわれる。 こうなってしまった〈五感〉をみずみずしく蘇生させるための闘いが、不毛に終わることへのおびえもまた〈蝶〉の姿はひそめているかのようだ。 前川佐美雄73 白の薔薇に香水のしづくを垂らしゐて今は安つぽき死をばねがへり 『植物祭』(昭和5年刊) 白薔薇に香水を垂らして〈死〉を飾ることのむなしさ。その「安っぽさ」を自身でよくわきまえていることが、救いにはならない。 安っぽい死と暑苦しい生との板ばさみで、いずれをも択ぶことが出来ないというジレンマは、現在も引き続き私たちを浸して苛立たせる。 前川佐美雄74 五月から我ひとり消えて行くなれば魚もさびしみて白くなるべし 『植物祭』(昭和5年刊) 〈現実〉においては、「我ひとり」消えても何一つ変わることのない世界であると認識している者なればこそ、作者と同じ風景を見て同じ息づかいをしている「魚」たちはきっと、作者の消える「五月」をどれほどさびしむだろうか、という過剰な意味の体系を想い描く。 人は〈意味〉なくしては生きられない。 過剰な幻想の体系や倒錯性の炸裂や退行の数々を表現史の中に見るにつけ、そのことばかりを身に沁みて確認させられる。 前川佐美雄75 春なればわれ海の族を食べあらし聾になりて生きてをるべし 『植物祭』(昭和5年刊) 「海の族」を「食べあら」すことによって「聾」になるのだという、作者の内の意味の体系が不思議な迫力をもつ。 あえて「魚」と云わず、「海の族」と云うことで「人間」と「魚」という〈食〉をめぐる常識的な関係性が壊れる。 人もまた「海の族」と同等の水準の存在なれば、彼らを食すことで、相応の〈罰〉を受けずばなるまい。 平板な「人間」などという驕りたかぶった存在の枠組みから解き放たれて、いっそ「海の族」を食い荒らして「聾」にされてしまうほどのなんらかの「族」として生きる方が、どれほどいさぎよいだろうか。 そのような「春」を統べるなにものかの気配が、この歌にも淡く設定されていることが、一首を短歌世界として成立せしめている。 前川佐美雄76 誰もほめて呉れさうになき自殺なんて無論決してするつもりなき 『植物祭』(昭和5年刊) 観念的な〈死〉をもてあそぶ歌をたくさん作ってはいても、決して自殺をするつもりなどない。 誰かの褒める自殺であったとしても、所詮、その誰かやら世間やらは、作者の「死」の理由の万分の一も言い当てることなど出来まい。 己れの生死の意味を、社会に回収されぬこと。 これは文学者の最低限のプライドであるとおもう。 前川佐美雄77 このあした春はじめての霧を吸ひやはらかな思ひとなりて歩けり 『植物祭』(昭和5年刊) 「やはらかな思ひ」となったのは険しい心持であった作者であろうが、作者によって吸われた春の霧が、変じてやわらかな思いとなったのだと読むのも楽しい。 春となってはじめての霧の、乳児のようなやわらかさと存在が不定であることの奥ゆき。 「不定」であることが作者を脅かすのではなく、穏やかに慰撫するのが可能であるのは、その生まれたてのような霧の感触であろうか。 作者の険しさを想えば、乳児期が幸福であった人とは考えられないが、あるいは春の霧を吸いながら歩むとき、目の開きかけの乳児期のおびえを癒しに塗り替える作業をしていたかもしれない。 前川佐美雄78 わが眼あきらに澄みてゐるならし青葉のかげの霧を見つむる 『植物祭』(昭和5年刊) 自分の眼(まなこ)がきらきらと澄んでいるのであるらしい。鏡など見ずにそう推測する根拠は、「青葉のかげの霧」を見つめることが出来るから。 己が眼に対して自意識のはたらく様は神経症的なものであるが、青葉のかげに霧を見つめるゆえに己れの眼を「あきらに澄む」ものとしてイメージ出来る力は、切ないナルシシズムでもある。 他のすべての雑駁な風景は視野から消えて、「霧」と「わが眼」とだけが想いを交し合っているような純一な空気感が、理知的に構成されてクールな魅力をも併せもつ。 神経症と過剰なナルシシズムあるいは幻想的な私的価値体系とが背中合わせであった時代の暗部は、現在にも繋がっている。 前川佐美雄79 嵐する野の草なかにねむるときわが重たさを知らぬことなし 『植物祭』(昭和5年刊) 野の草の〈水準〉になりたくて、裸体で野に眠ってみる。そのような一連の内の一首。 「わが重たさ」は、野の草たちの〈水準〉から浮き立ってしまう己れの存在への異和だろうか。 同化を求め、己れに対するとらわれから解き放たれようとして、他者の内へ内へと攻め入るがごとき行為が、かえって世界における異物として己れを認識してしまう結果をもたらす、存在のさびしさ。 「嵐する野」において、そのような実験を求める魂の、繊細さと荒々しさとの不協和なエロスが痛々しくもあり、魅力的でもある。 前川佐美雄80 わが寝てる二階のま下は井戸なれば落ちはせぬかと夜夜におそれる 『植物祭』(昭和5年刊) 神経症的な恐怖が何に由来するかを、散文的で説明的な構図と描写で理知的に浮かび上がらせた一首。 「二階」に寝る作者の一階の空間を隔てて真下に「井戸」があり、その井戸の中に「落ちはせぬかと」夜ごと夜ごと恐れる病理のブラックな表現が笑えない。 本当は「井戸」が気になって仕方が無いのだ。われわれの日常生活のど真ん中にぱっくりと口を開けていながら悪びれもせずその深奥に闇を抱え、日々の生活になくてはならぬ〈水〉を供給しながら真昼でも見えない深さ暗さをあたりまえのように己れの底に秘めている。 人も本来この「井戸」のような存在なのではないのか、だがそんなことを考えていては生きてゆけはしない。誰もかれも、己れが「井戸」を抱えていることなど素知らぬ顔で日々をやり過ごしているではないか。「井戸」を怖れ、「井戸」にひきつけられ、さまざまな想念の湧いてくる自分は、まともな人間ではない。 この一首で始まる一連が「白痴」と題されている所以であろう。 前川佐美雄81 あの寺の井戸をのぞいてみたくなりしやにむに夜更けの家を飛び出す 『植物祭』(昭和5年刊) 誰もがもつ「井戸」のような深淵を、誰もがそ知らぬふりでその存在をやり過ごして生きている欺瞞のかたち。 欺瞞がもっとも恥ずかしいかたちをとるのは、「寺」であったり「教会」であったりするだろう。 一般大衆ではなく、「あの寺」の井戸をのぞいてみるならば、他はおして知るべし。 さっぱりと欺瞞を暴いてみたくなる衝動を抑えきれず、しゃにむに「夜更けの家を飛び出す」作者の日常の、いかに憤ろしいものであるか。 前川佐美雄82 夜なかごろ街頭のポストに立ち寄つて世間の秘密にひよつとおびえる 『植物祭』(昭和5年刊) 「あの寺の井戸」をのぞいたら見えるであろうものと同じ「世間の秘密」を「街頭のポスト」に嗅ぎ取っておびえる作者。 だが、「井戸」はしゃにむにのぞいてみたくなったのだが、夜なかの「ポスト」におびえるのは、そこにはあまりにも散文的で地上的な「秘密」が曝されているだろうから。 「井戸」にひそむものが三次元のかたちをとったとき、世間の人間の場合、どれほどあからさまに我欲や執着や嫉妬や汚濁や・・・がポストの中の手紙類の中につまっていることかを想像すれば、作者には背筋の寒くなるものがあるだろう。 「井戸」の底の闇ならば、美醜以前、清濁以前の混沌であり、むしろ作者にとって慕わしいものを。 前川佐美雄83 ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる 『植物祭』(昭和5年刊) 「白痴」と題された一連の最後の一首。 「井戸」をメタファーとして、「世間」が日々そ知らぬ貌でやり過ごしている存在の深部へのこだわりがシュールに描かれた一連のタイトルが「白痴」であるのは、作者だけがその「井戸」にこだわりながら、こだわらぬ世間におびえている構図の中に、自身の異形性に屈折した自負を与える効果がある。 「自転車屋にかうもり傘を修繕にやる」ようなちぐはぐさで生きている作者。一見自嘲的なこの一首によって、世俗の種々の業の解決に当たって決して「井戸」をのぞかない「世間」の方が、真にちぐはぐなのではないかという、底深い批判が提示される。 前川佐美雄84 雲は流るわれはつかまへる夏とんぼその光る碧き目を見むがため 『植物祭』(昭和5年刊) 「その光る碧き目を見むがため」に「夏とんぼ」をつかまえ、世界にはその「碧き目」と自分しかいない時間をもつことで、風景を塗り替えんとこころみるのだが、その別の風景への予感によって、「雲は流る」そして「われはつかまへる」といったダイナミックな呼吸が自分の身体を駆け抜けた瞬間の、なにか自分の身ながら「こんなふうになれるものなのか」と感嘆しているようなリズムが哀切だ。こわれものの〈詩〉がぎこちなく踊っているような。 前川佐美雄85 山上の湖面を見むとて山にのぼりしづかにあをき湖面を見てゐぬ 『植物祭』(昭和5年刊) 泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』の舞台となった同名の池は、ちょうどこの歌のような山上の湖であり、そこから流れ出る川もない、しずかに完結した青い湖であるらしい。 現世の俗物どもをその水で呑み込んでしまうこの湖には龍の化身の姫が棲んでいるが、前川佐美雄の歌う湖からは、龍の気配はしない。 ただ「しづかに」青く澄んで人の気配がしない湖であろう。 泉鏡花の〈異界〉は、いつも現世の汚濁と俗悪さを浄化するパワーを秘めているが、そのようなパワーの涸渇した息苦しさで昭和五年刊行のこの歌集は満ち満ちている。 だが、人の匂いのしない山上をめざす不機嫌には、激しい強さがある。 前川佐美雄86 合はせては掌のなかに生るわがこころこれを遠べの草木におくる 『植物祭』(昭和5年刊) 作者は呪的な体系を強固にナルシスティックに紡ぎ上げることのできる資質ではない。 気紛れにその場その場で近代的な孤絶の感覚を人以外の動植物の〈水準〉に疎外しているといった感覚の詩世界だ。 だが短歌性のほとんど壊れ果てた場所で散文的な韻律において紡がれる観念的な世界のかたちは、どこか逆説的に短歌発生の折の原初的な匂いをも放つ。 現世に居場所を持たぬこころが、あるべき世界を地上に恋い降ろすための歌。 その力が己れにはないことを百も承知で他者には共有不能な世界をひとり「掌」の内に宿し、「遠べの草木」と分かち合う。 前川佐美雄87 山の夜のしらじら明けに眼ざめゐてわがすでに聞く草みづの流れ 『植物祭』(昭和5年刊) 「わがすでに聞く」によってほんのりとなまめかしい短歌性が生まれる。 「すでに」は時間的な落差にすぎないが、「草みづの流れ」を聞くことが出来るのは、このわたししかいないのだ、という理知的なナルシシズムがひっそりと顕ち上がる。 不能性のイメージによって狭窄された観念的な回路の先に、どれほどダイナミックでみずみずしい〈みづ〉の溢れる世界を恋い願ったことだろうか。 前川佐美雄88 どうせ二人は別れねばならずと薔薇ばなの根もとに蝶を生き埋めにす 『植物祭』(昭和5年刊) 〈永遠〉をむごたらしいかたちで定着させようとする倒錯のかたち。 日々の生身の手触りに満ちた積み重ねこそが〈永遠〉である、というようなまなざしからどうしようもなく隔たった生存感覚において、不条理という焼けた鉄を素手で握りしめる倒錯的な歓びの瞬間に〈永遠〉を生きようとする作者。 だが、三島由紀夫のように己れの肉体の上にまざまざとその不幸を実現するのではなく、理知的な観念の操作によって身体を紛らわせることで、かろうじて作者なりの〈日常〉をくぐり抜けていたかのようだ。 前川佐美雄89 床したの暗さは大地がかもすもの日日にわが身のふかまり落つる 『植物祭』(昭和5年刊) コスミックに存在を支え、包み込む〈闇〉ではない。 人が生きる「家」の「床した」にどろどろと溜まり、澱み、存在を支えるのではなくからめ取る「暗さ」。 日ごとに己れの身がそのような「暗さ」にからめ取られて逃れようがなくなってゆく地獄は、しかし作者のまなざしが生み出したものでもある。 前川佐美雄90 うまれ出た嬰児のやうに明るさをおそるるわれは掌もひらかれず 『植物祭』(昭和5年刊) 散文的で地上的で酷薄な〈闇〉と、合理的でふくらみのない薄っぺらな〈光〉と、いずれからも追いつめられて息の出来ない苦しみ。 作者のこころの喩としての「うまれ出た嬰児(あかご)」が明るさをおそれるのは、それまで浸されていた母の胎内の〈闇〉に相当する場所が、居心地がよくなかったせいだ。 〈闇〉に安らぎもあたたかさも静けさも潤いも感じられないで、ただ酷薄に平板な人の業のカオスのようであるならば、その〈闇〉は人を根底において支えるものとはなり得ず、作者は身を固くして世界に対して「掌(て)もひらかれず」におびえるだけだ。 前川佐美雄91 真夜なかの鏡にうつる明りありとほい暴風雨のいかにしづけき 『植物祭』(昭和5年刊) 「とほい暴風雨(あらし)」は遠いせいで作者の場所にはその喧騒を伝えないのではない。 「暴風雨」そのものが「しづけき」ものとして、ふつう認識されている性(さが)とは違う本質をもつものとして、作者に感受されており、〈遠さ〉によって、その本質がかえってよく伝わっているのだ。 「真夜なかの鏡にうつる明り」は、そのような〈遠さ〉において作者と「しづけさ」を分かち合うことの出来る存在を、等しく照らすものであるだろう。 前川佐美雄92 われわれの帝都はたのしごうたうの諸君よ万とわき出でてくれ 『植物祭』(昭和5年刊) 戦後、塚本らに受け継がれた反俗の先駆形態。 ふっ切れた美意識によって、短歌性がわずかに蘇る。 「ごうたうの諸君よ」という呼びかけの口吻に、およそ古い時代をふっ切ろうとする美意識であるのに、どこか明治をひきずっている、今から見るならば「反戦後的」なものを感じる。 それでいて、塚本的な「戦後性」の先駆でもある。 塚本は短歌性の破壊によって、反俗が戦後的な矮小さをもってしまったが、前川のこの歌では、反俗であることによって短歌性が蘇っている。 おもうに、美意識を根底で支える〈反俗〉のかたち如何なのだ。 前川佐美雄93 俗人のたえて知るなきごうたうのその快楽こそわれ愛すべし 『植物祭』(昭和5年刊) 〈反俗〉の美意識があまりにも仏文系のデカダンスの型どおりなのが粗雑ではあるが、そのような型を得て、むしろ短歌的な韻律が蘇ってもいる。 既成の美意識ではなく、植物の水準に存在の輪郭を解き放とうと苦悶する、繊細な閉塞感の方が、この作者らしいと私にはおもわれる。 この歌集のタイトルにも、そのような存在のにぎわいの在り方へのすがるようなおもいがこめられていただろう。 前川佐美雄94 いますぐに君はこの街に放火せよその焔の何んとうつくしからむ 『植物祭』(昭和5年刊) 「樹木の憎悪」と題された一連には、強盗や娼家にあそぶ少年や放火が〈反俗〉の象徴として登場し、気負いの強いデカダンスが繰り広げられる。 命令形と結句の陶然とした推量とが短歌的韻律を盛り上げる。 観念的に昂進した美意識が、内面的なうつろさを代償してわかりやすいデザイン性を発揮した一首であるが、不機嫌な気負いには一筋張りつめたものがある。 前川佐美雄95 逆さまにつるされた春の樹木らのいかに美くしくわれを死なする 『植物祭』(昭和5年刊) もう少し土俗的な怨念の籠ったトーンならば、寺山修司を想わせる一首。 怨念ではなく、理知的に構築された美意識が解放されているのは塚本邦雄のよう。 いずれにせよ、戦後的な〈倒錯〉の先駆であり、倒錯によってのみ救済される自意識の、むごたらしさが世界への愛情に勝っているかたち。 自負はとびきり強いが、自己肯定力や良い意味での自己愛の欠落したかたち。 前川佐美雄96 つひにかれも神と握手をしながらも見たまへいかに酔ひつぶれゐる 『植物祭』(昭和5年刊) 酔っぱらった〈信〉か、酷薄な〈不信〉か。いずれもが〈死〉と感じられる醒めた苦悩の底で、他者の酔いつぶれた〈信〉のありようを風刺する。 「つひに」には、いずれの〈死〉をも択ぶことのできない作者の、〈信〉と〈不信〉のあわいで繰り広げられる他者のドラマをつくづくと悲哀感をもって眺めながら、安っぽい感傷を拒否してそのドラマの帰着する場所を見つめる怜悧なまなざしが感じられる。 前川佐美雄97 あをぞらを流るる雲のひとひらもつひに机にのせられて見る 『植物祭』(昭和5年刊) 上の句だけならば古典的な短歌世界。 「つひに机にのせられて」見られることなど思いもよらぬ「雲」であろう。 世界地図の上の蝶のように、わびしくかじかんだ世界のかたちが痛々しい。 「つひに」という、「雲」がここまで堕ちるに至るまでの剥落の歴史に対する感慨が、逆説的に短歌性を支えているのも切ない。 前川佐美雄98 四つ這ひといふことを今ひよつと聞きたまらなく我のなみだを流す 『植物祭』(昭和5年刊) 「四つ這ひ」の映像が浮かぶことに耐えられない思い。 けものならば美しい。 美しくないのは、人間でありながら、けものの美点を何一つ持たずに四つん這いであること。 作者の眼に、人の姿はそのように映っていただろうか。 前川佐美雄99 壁にゐる蛇に足のうらを見られたりこのこころもちは死ぬ思ひする 『植物祭』(昭和5年刊) 「井戸」同様、人の生存のために欠かせぬものでありながら、見ないですませている場所があからさまになることへの嫌悪。 「蛇」は、世界が存在するためにその汚濁を形象として引き受けた生き物であるかもしれない。いっそ〈世界〉の汚濁を引き受けているならば壮大な存在でもあるが、一戸の壁に棲む「蛇」には、一家のいじましい地上的な泥濘のような存在基盤しか与えられていない。 そのようないじましい汚濁の喩としての「蛇」に己れの「足のうら」を見られるこころもちは、ただあからさまになるという羞恥だけではない、存在の根底における屈辱感のようなものであろう。 前川佐美雄100 雨のふるいんきな日なり壁にあるにんげんの指紋のいかにかなしき 『植物祭』(昭和5年刊) 「にんげん」としての存在のわびしいみすぼらしさが読む者の骨身にこたえる。 その存在のみすぼらしさがどこにもほぐれて拡がることなく、無駄に永遠に壁に残っていることの気まずさ。 「指紋」という、一人ひとりを否応無く個別に識別しながら、そこに何の絶対感もない酷薄な散文的地上性の喩が、陰鬱な雨によって、一層ほぐれようのない圧力を添えて作者を追いつめているさまが息苦しい。 前川佐美雄101 しとしとと梅雨の雨降るころなれば脱皮する蛇もかなしかるらむ 『植物祭』(昭和5年刊) 「かなしかるらむ」の「かなし」は「愛し」でもあり、「悲し」や「哀し」でもあろう。 この一首において脱皮という営みは大いなる転生ではない。己が陰湿さの延長上に永遠にじとじとと生が連なってゆくかのようなイメージが、存在の矮小さから逃れられないかなしみを伝える。 湿潤な気の内に営まれる〈脱皮〉は、古代的なイメージに解き放つならば壮大な存在のドラマたり得るものだが、作者にはそのような場所へ「蛇」を解き放ってやる気はない。 〈壮大〉からかけ離れた作者の存在のかたちをそのまま投影した「蛇」は、ただ自身のみすぼらしい転生を悲しみつついとおしむばかりだ。 前川佐美雄102 昼ひなか映画館をくぐる不思議にもこしらへられた暗さに心惹かされ 『植物祭』(昭和5年刊) 真昼において闇を求める心が、こしらえものの暗さではあると認識しつつも、人工の闇の空間である「映画館」に吸い寄せられてゆく。 そこには、おそらく作者と同じ〈闇の欠落〉を抱えながらも、そのことを全く自覚することなしに「こしらへられた暗さ」に惹きつけられている者たちがたくさんいたことだろう。 そのような者たちと、自覚・無自覚の落差を超えたところでならわずかに触れ合うものがあったろうか。 その触れ合いに、作者の繊細な不機嫌が耐えられるかどうかは別として。 前川佐美雄103 ほのぐらく壁にのびゐる苔見をりここにかうしてわがそだちたり 『植物祭』(昭和5年刊) 素直さはどんなときにも短歌性と相性がよい。 壁にほのぐらくのびている「苔」の水準に身をおくとき、己れのどこにも嘘がない、というやすらいだ心もちになったであろう、その素直さが短歌の絶対性を引き寄せている。 てらてらとあかるい戦後を、作者は身の内にさまざまな植物の水準をじっとりと常時はぐくんで、不機嫌に生きぬいたのであったろうか。 前川佐美雄104 おたがひに異つた思想に歪んではむかしの友から目がたきにさる 『植物祭』(昭和5年刊) 「思想に歪む」における助詞「に」の使い方に深い悲哀がある。 到達点としての「思想に」ではなく、それぞれの「思想によって」の意もはらんでいようか。 むかしの友とかけはなれた場所に来てしまった、という感慨なのではなく、友も自分も同じように歪んだのは、中身は異なれど時代を空疎に象徴した「思想」というものゆえ。 同じうつろさを抱えていながら友を「目がたき」にせねば気が済まぬような、あやうくもろい日常の足もとに対する悲哀が苦々しげだ。 前川佐美雄105 深夜ふと目覚めてみたる鏡の底にまつさをな蛇が身をうねりをる 『植物祭』(昭和5年刊) 「まつさをな蛇」は、作者のイメージに似つかわしい。 「蛇」という存在のもつ奥深く不気味な〈闇〉に吸引されながらおびえてもいる魂の、決して成熟しないで凝結した不機嫌さは、「まつさを」な色で深夜の鏡の底をうねるのであろう。 自身の肖像のように思って凝視するその蛇の姿に、嫌悪とともに屈折した自負も抱いている。 少なくとも彼の「蛇」は、赤や黒に濁った俗臭を帯びてはいない。 「まつさを」なまま、世界に対峙し続けるのだ。 ↑top (C)Kirishima Ayako |