| 桐島絢子WebSite>エッセイ・評論篇>前川佐美雄『大和』
前川佐美雄106 ゆく秋のわが身せつなく儚くて樹に登りゆさゆさ紅葉散らす 『大和』(昭和15年刊) わが身のせつなさ、儚さを「ゆく秋」に託した上の句は、素直な短歌的定型の情緒だが、紅葉を「樹に登りゆさゆさ散らす」ことによって、むしろ短歌的な型からはみ出した「せつなさ」であり「儚さ」であると知れる。 紅葉を散らす〈力〉がわが身をも秋の情緒に浸しているのではない。そんな〈力〉を素直に信じるような甘さなど持つことは出来ぬ。 紅葉を散らすのは、自分だ。 大いなる自分の力の誇示のために樹を揺さぶるのではない。 大いなる力からはぐれた自分と世界のあり方をマゾヒスティックに確認する行為として、紅葉を散らす。 前川佐美雄107 父の名も母の名もわすれみな忘れ不敵なる石の花とひらけり 『大和』(昭和15年刊) 『植物祭』において、植物の〈水準〉に紛れ込んで人間としての存在の矮小さから逃れようとしていたのとはまた味わいの違う、〈人間〉からの離脱・解放。 「父」と「母」に拘束されていることによって象徴される現世の枠組みと己れの由来の矮小さを「みな忘れ」て、世間や情の桎梏にまどわされぬ「不敵なる石の花」として咲いている作者。 植物の〈水準〉に紛れ入って己れの輪郭をほどいてしまいたがった『植物祭』(昭和5年刊)とは異なり、「石の花」という非日常的な幻想領域における己れの輪郭に確固たるプライドの滲むのは、漠然とした〈不機嫌〉をこの作者なりに強固な表現意識へと高めてきた年月のなせるわざであろうか。 前川佐美雄108 たつた一人の母狂はせし夕ぐれをきらきら光る山から飛べり 『大和』(昭和15年刊) 「父」や「母」が人の存在の根をはぐくむのだと、自身をかえりみて素直に肯うことの出来ない青年たちが、明治の後半期から増大したようにおもう。 それでいて「父」や「母」が自身を規定していることへのとらわれからは、容易にぬけ出すことが出来ない。 この歌に流れているのは、そのような拘束感を与える存在としての「母」から、自らを解き放つ夕ぐれの美しい幻想だ。「きらきら光る山」からの飛翔に、罪障感を払拭するための祈りがこもる。 現世からの離脱をもっとも象徴的に果たすことが出来るのは、「父」や「母」からの離脱においてである、という感覚は、現在もいよいよ生々しい。 前川佐美雄109 夕ぐれの野をかへる馬の背後見て祖先のやうなさびしさをしぬ 『大和』(昭和15年刊) 「祖先」のイメージは、作者をしてかろうじてこの矮小な現世における生の意味を確かならしめるのだろうか。 「夕ぐれの野をかへる馬」の「背後(うしろ)」を見るとき、無駄のない、それでいて贅沢な奥ゆきをもった生活のイメージが立ち上がる。 馬を追って家路につく祖先の味わった「さびしさ」は、この現世で作者を苦しめるような類のものではない。〈生きる〉ことのぎりぎりの感覚につきまとうまっとうなさびしさであり、人を孤独にしながら他者とつなぐような「さびしさ」であったろう。 そのような「さびしさ」は、作者は人と分かつことが出来ない。 植物や馬のような存在とこそ、正しく「さびしさ」を分かつことが出来る。 作者と馬と祖先とのあいだを繋ぐひとすじの風のようなおもい。
古き代のランプをともし物書けば森ふかく骨の朽ちてゆくおと 『大和』(昭和15年刊) 「森ふかく骨(こつ)の朽ちてゆくおと」のかそけさが、幻想的な頽廃美を解放的に沁み出させて妖しい。 「古き代のランプ」を使いながら作者が表現を生み出すことで、「朽ちる」という自然の時間の流れからはぐれて不自然な凝滞に置かれていたのであろう「骨」が、安堵したかのように「朽ち」はじめる。 古代の浮かばれない魂と作者との、〈鎮魂〉の儀式のような営為を通してのエロスの交感。 作者は、そのような〈鎮魂〉においてこそ現在に蘇るいのちを〈短歌〉という形式に盛る悦びを見出して、エロティックなまでの恍惚の感覚を一首一首紡ぐことでかろうじて現世を永らえていたのではなかったか。
闇がりに身をおしかくす生きもののすさまじき眼はひととき思へ 『大和』(昭和15年刊) 「闇(くら)がりに身をおしかく」しているのは作者でもあろう。 「生きもの」は今生きてそこにいるけものか、いにしえの代から息づくけものの霊か、あるいは作者が歌を詠むことによって息づきはじめた「もののけ」でもあろうか。 すべてが作者自身の魂でもある。 そんな「生きもの」の「すさまじき眼」をひととき想い描くことの至高の快楽。 〈は〉という助詞の斡旋によって、他者と隔絶した絶対性を帯びて君臨するかのような「すさまじき眼」が険しく凛々しい。
北に傾く青じろき地に住みなれて今年も空ゆくわたり鳥見ぬ 『大和』(昭和15年刊) 「北に傾く」地に住んでいるのが仮に事実であるとしても、その地を「青じろき地」ととらえることの内に、ほの暗い象徴性が物語的な気配をたち昇らせる。 微妙な日当たりの悪さが内面の「青白さ」に重ね合わせられて、作者が己れ自身の病理を半ば負荷として半ば自身の責として「住みなれ」るように受け容れるそのスタンスが、「空ゆくわたり鳥」に託す抒情にも沁みて、「鳥」に託し得るものと決して託し得ないものとを共に凝視している。そんな緻密な抒情がゆかしい。
山の上のまつ白い石にねむり覚めまだ信じ切れず独なること 『大和』(昭和15年刊) 次の一首で「白鬼」となって飛んでいる作者がいるので、この歌では「白鬼」への転生のためのねむりと目覚めを歌っていると云えよう。 だが、「白鬼」の視覚的なイメージがないままにこの歌を味わうのも解放感がある。 俗世において身に累積したさまざまな汚れ、濁り、腐臭、憎悪、みな「山の上のまつ白い石」にねむるうちに洗い晒されて、「独(ひとり)」人外の境地に生まれ変わるときの、荒涼としてはいるが、どこまでも視え、どこまでも聴こえ、すべて喪ったのにすべてを得たような、はるばると世界を見わたしながらたたずむ心地にじわじわ身をなじませている様が、どこか不敵な悲哀と快楽を伝える。
月きよき秋の夜なかを崖に立ち白鬼となつてほうほう飛べり 『大和』(昭和15年刊) 「白鬼」であることによって、人界において背負っていたであろう業や妄執は既に晒されて、鬼というよりは精霊のような存在感で「ほうほう」飛んでいるのがのびのびと開放的だ。 「白」という色のおかげで、あまり「鬼」としての視覚的な詳細さをイメージしなくてすむ。視覚的な印象よりも、存在が晒されて澄んでいることのイメージとしての「白」。 観念的な現世離脱遊戯の趣ではあるが、現世の不条理に対して恨みがましげでなく、飄々と離脱する感覚が好もしい。
星くづが輝やくのみなる真夜中を音あらく河の海にながるる 『大和』(昭和15年刊) 人間の気配のしない風景が潔い。 「星くづ」ばかりの「真夜中」に、ではない。「真夜中」は、「を」という格助詞を伴って、ある時間帯ではなく一つの時空としての存在感をもつ。その時空の中を河が音あらく海に流れ入る。 人間によって視覚的にとらえられた河や海ではなく、「真夜中」という時空を己れの身体の一部として堂々とその〈生〉を解き放っている河であり海である。 作者もまた対象をとらえる者としての位置を放擲して、河の放つあらあらしい音そのものとなって「星くづ」にのみ見られている感覚を謳歌しているかのようだ。
山にのぼり切なく思へばはるかにぞ遍照の湖青く死にて見ゆ 『大和』(昭和15年刊) 「遍照の湖(うみ)」を「青く死にて見ゆ」ととらえることの内にこもる悲哀と矜持と。 「青」という色は永遠に俗世に染まらぬ。決して世俗における成熟は遂げず、だが世俗をはるかに凌駕する英知や聡明をはらむ色。 そのようなすぐれた天上性の証のように、この「遍照の湖」もまた、作者によって青いまま死することが求められているのだろうか。
青い火は夜昼なしに燃ゆれどもわが身にあればうち消しがたく 『大和』(昭和15年刊) 一首前に、「しろじろと煙吐く山」をのぞむ歌があるので、「青い火」は火山の火のことであろうか。 「夜昼なしに」燃える火を作者は「わが身」そのものとして感受している。決して消すことの出来ない火として。 俗世に対する憤りの火でもあり、かなしみの火でもあり、己れ自身に対する苛立ちと矜持のないまざった火でもあろう。 理知的な感情移入が効果的なのは、作者自身が「青い火」であることによって、火山もまた作者の身体の延長となり、青々とした殺気に満ちた世界の再構築をはらんでいるから。
日の暮れは青黒い森につれ込まれ祖先の慈悲か何か責めらる 『大和』(昭和15年刊) 「祖先の慈悲」によって己れの存在を責められる。逆説的な存在の絶対感。 「日の暮れ」という特殊な時間の「青黒い森」という特殊な空間を己れの存在と深く結び付けられるのは自分だけだ。「祖先」の気配を介在しつつ、この平板で矮小で汚れきった俗世とは別の次元の価値尺度によって自身を意味づけることの深々とした歓びと畏れ。 そのような別次元の尺度においてなら、いっそ罪びとともなろう。 昇華された被虐とでも云うべき屈折した歓び。
硝子瓶に黄な春の芽がうつるので何故か真昼が巨大でたまらぬ 『大和』(昭和15年刊) 「真昼」の巨大さに鬱をそそられる心が、「春」という季節のもつ幼さの増殖感によって繊細に刺激されている。 春になって、あまりにもやわらかな「黄」な「芽」が萌え出でる樹木の、産声の氾濫のような生命性は、直接浴びるとあまりにも〈社会〉という「真昼」からかけはなれた次元に生存感覚をひきずられてゆく。「硝子瓶」にうつった様を見るという、人工的な間接感には、息苦しい時代の萎縮した魂が象徴的に表われている。 「硝子瓶」にうつった「芽」のような作者の魂には、「真昼」を一掃することがかなわぬ。 本来過剰な闇の振幅を抱えながら、〈社会〉という「真昼」の巨大さに立ち向かうためにその領域を全開にして解き放つことがかなわぬ、こわれものの憂鬱。
春山に夜叉のごとくにいきどほり眼をかわかせてゐる我を思へ 『大和』(昭和15年刊) 「硝子瓶」のような憂鬱が狂暴に荒れ狂うなら「夜叉」ともなろう。 幼い「黄な芽」の氾濫する「春山」であろうか。その幼さの我がもの顔の増殖感に見合った狂暴さとしての「夜叉」の「いきどほり」。「眼」をかわかし、髪を振り乱し、爪を尖らせ、真昼のような〈社会〉という巨大な怪物に闇の次元での戦いを挑む。 『大和』という歌集では、『植物祭』における増殖的な存在感覚への散文的な逃避願望を超えて、〈短歌〉という詩形のみがもたらす闇の次元を手繰り寄せ、独自の幻想空間を打ち立てようとする模索の粘度のようなものが作品に滲むようになっている。
憂鬱なわが襤褸買ひの眼に見られ大木はなべて黄な芽吹きゐる 『大和』(昭和15年刊) 作者と大木とが互いに深く秘めた願いをそそり合っている官能的な反俗のイメージが刺激的だ。 「襤褸」を求める作者の魂は、現世における虚飾や欺瞞を忌み、憂鬱な光を放っている。 その作者の眼に見られて、樹木は作者の最も秘めた、最も深い、原初ののぞみをあからさまにするごとく、「黄な芽」を吹く。 あまりにもやわらかな芽は、まっとうな〈生〉への執着から遠く、この現世を生き抜くことが難しいとおもわれるほどだが、その反生命性を補完するかのように増殖的に無数の芽を吹くすがたが、作者の魂のやわらかさに基づくいびつな反生命性・反社会性と同調する。
街も道も黄な春の芽が吹き出すと今朝はわが家をたづねて歩く 『大和』(昭和15年刊) 「黄な春の芽」に同調するこころのありようの正体が、「わが家」からも脱け出したこころであり、「わが家」とは社会に直結するものの喩であることが明かされている。 いっそ「わが家」のありかなど放念して、世界を異次元的に、すなわち「黄な春の芽」の次元において放浪したあげく、改めて真の「わが家」を、魂のわが家を、たずね歩くことが出来るならば。
毒を呑んだ青の風景のなかなればむかしの洋燈とり出でて見る 『大和』(昭和15年刊) 「毒を呑んだ青の風景」は、実は作者がことさらに殺した「青」の世界であろう。 「青」はいわば作者の守るべき究極の自我の色であるはずだが、その色に毒を呑ませることで、自我は追いつめられざるをえない。ことさらなその行為によって、己れの魂のゆくえを見定めようとするかのような、観念的な倒錯感が漂う。 結果、「むかしの洋燈(ランプ)」によって作者がつながろうとする世界には、アンナチュラルな観念的膨張へと爆走しそうな不穏さが伴う。
みなもとはどろどろの濁りよろこびも悲しみも承けつぐ時に到らぬ 『大和』(昭和15年刊) 「みなもと」を「どろどろの濁り」として認識しても、そのカオスは存在や世界を支えることの出来るものではなく、ただ人間という呪われた存在の汚濁と我欲にまみれた業の源泉でしかない。 そのような世界観に、人間どもがみなずぶずぶにまみれて追いつめられている限り、次の時代へと「承けつぐ」べき「よろこびも悲しみも」あり得ない。 絶望の中で、作者は錐の尖端のような「時」の到ることを待ちのぞみ、文学的な営為をその「時」にむけてきりきりと研ぎ澄ましてゆこうとしたのではなかったか。
生命懸の思ひなりしか根も花も何もない草木の透きとほり来る 『大和』(昭和15年刊) 「生命懸(いのちがけ)の思ひ」で透きとおる草木。 「根も花も何もない」草木は本来ならば生きているとは云い難い存在である。大地から切りはなされ、花を咲かせることもできない。 それでも存在していることを証しせずにはいられないとき、持ち合わせのいびつな「生命」をすべて賭けて「透きとおる」ことの壮絶さ、哀切さ、不毛さ、そして誰も知ることのない幸福さ。 何も産むことのない不毛な生を「透きとおらせる」ことで倒錯的に得られる幸福のありかに、息苦しい緊迫感が漂う。
いづくにか山は爆発してゐれば今朝鳥の声が泥まみれに聞こゆ 『大和』(昭和15年刊) 理知の眼には端正に映る風景と、魂で格闘し、もつれ合い、泥まみれのいのちのやりとりをしたい、と云わんばかりの言葉の試み。 世界が壊れるときの解放感を、鳥の声を泥まみれにすることで倒錯的に味わっているような。 澄まして伝統的な情緒に収まる「鳥の声」ではなく、作者によって世界(「山」に象徴される)とともに解き放たれた「鳥の声」は、破壊的な情念をまとっていさぎよい。 作者によって解き放たれている世界だが、「いづくにか」という不定の感覚によって類的な意志も導入され、個的な殻の脱がれた意匠が伝統的な短歌性を保持する様もスリリングだ。
秋晴の野に紅葉見てあそぶなればわれを誑かす神ほとけあれ 『大和』(昭和15年刊) 自意識によって追いつめられた場所で、「神ほとけ」と屈折したコンタクトを遂げようとするこころによる、既成の〈社会〉からも〈宗教〉からも〈伝統〉からも遠い、瞬発的な世界の再構築。 「神ほとけ」に向かって「われを誑(たぶら)かせ」と命じているのではない。 「われを誑かす神ほとけ」というものを「在る」状態にせよ、と、「神ほとけ」よりも上位の何ものかに向かって命じている。あるいは、そういう「神ほとけ」の存在する世界であれ、と望んでいる。 その存在の構成のありように、世界を統べる力をはるかにはるかに遠く想い描いている者の、極度に悲哀感の強い透度が感じられる。
家のまはりはサルビヤの花真赤にてどんな悪事も寄りつきはせぬ 『大和』(昭和15年刊) 作者個人の願いを歌うのであれば、「悪事」を寄せつけないでくれ、と「サルビヤ」に向かって呼びかける歌となろう。 だが、「サルビヤの花真赤にて」という理由で「どんな悪事も寄りつきはせぬ」という過剰な断言を既成事実として歌うということは、作者と「サルビヤ」との間に醸された呪的な場には、作者をも「サルビヤ」をも超えた、目に視えぬ意志が働いているのだ、と歌うことである。 目に視えぬ力を呼び降ろすための短歌、という表現のかたちを目指してはいるが、決してそのような器としての短歌形式に甘えているのではない。 短歌性とは二律背反的な極北の近代の病理を盛り込むことで、いったい自分はこの現世をどのように生きながらえるだろうか、という試みの場に、己れと短歌とを共に投げ出しているような、苦しげだがその緊張感を見据える歓びをもはらんだ息づかいが伝わる。
あたたかに雨の降るなり巷ゆく人間の足のしろくもつるる 『大和』(昭和15年刊) 「巷ゆく人間の足のしろくもつるる」という風に世界が視えているのは、作者の眼にのみである。 およそ「巷」の人間への親和感情など持ち得ぬこの作者において、「人間」からいくばくか「人間くささ」が脱けて視える瞬間であったろうか。 「あたたかに雨の降る」ことで、作者の限定された世界観・人間観にゆるみが生じたとき、存在の輪郭がもつれ合う。ふと生物としての水準に輪郭をほどいている「人間の足」の妖しげに「しろくもつるる」さまに、作者の感受性が脱力しながらも切なく繋がろうとしている。
ゆふぐれか朝がたかわからぬ青じろき光のなかに物おもひ痩す 『大和』(昭和15年刊) 「ゆふぐれ」と「朝がた」には夜と昼の境界という共通性があり、その共通性に立脚しながらも繊細にそれぞれを微分的に感受していた伝統的な言語世界がかつてはあった。 「あかつき」や「あけぼの」や「しののめ」や「ゆふぐれ」や「よひやみ」等々。 この歌の「青じろき光」には、そのような伝統的な安定感に立脚した感受性の繊細さからはるかに遠い極北の「青じろさ」がある。 それが「ゆふぐれか朝がたかわからぬ」ことは、とてつもない孤絶であり、たとえば「たそがれ」が明け方にも夕暮にも用いられながらそれぞれの時間帯ならではの抒情に対応していた、そういう言語感覚を支えていた世界観とは対極の不安に満ち満ちている。 いわば作者だけの「青じろさ」であるが、その孤絶に対する「物おもい」の痛ましさの感触が、昭和初期の人々の身体を硬く険しく痩せ細らせていたという普遍性を伝えてくる。
冬の日は井戸のやうな底に明るくてがらくたの命やや生きかへる 『大和』(昭和15年刊) 己れの存在を「井戸のやうな底」に在るものとして感じるとき、世界は閉塞感に満ちているとも云えるし、「底」で闇とつながり、天は空に開いているとも云える。 だが「がらくたの命」ととらえる己れであるから、「井戸」のような「底」にあって闇に支えられることでコスミックな安定感を得ているとは云いがたい。 それでも、閉塞感の根とそこに射し入る「冬の日」の光との両方を己れの身に触れさせながら、かろうじて世界の根拠と希望に対して感受性を開いている瞬間が、あやうい壊れ物のように短歌という形式に繋ぎとめられている。
冬の雨にうたるる魚の骨白しこの道のはたて何があるならむ 『大和』(昭和15年刊) 写生味の強い上の句とシンプルな抒情味の素直な下の句が、白骨化して生きながらえているような青年の魂を浮かび上がらせる。 己れを「冬の雨」にうたせ、「何がある」のか不定の「道のはたて」を想い描くことで、白骨のような絶望がかすかな〈未知〉にしらじらと掬い取られるさまが酷薄だ。 だがしぶとい短歌性を保持しているのも、そのかすかな〈未知〉への賭けが〈短歌〉という形式への賭けでもあったからだろう。
わが身の行方知りがたくさまよひゐて朧にぞ見し日の暮の瀑布 『大和』(昭和15年刊) 「わが身の行方」と「日の暮の瀑布(たき)」とを「朧に」接続する手つきが、贅肉でない表現としてのリアリティーを保証しているようで、心に残る一首。 ありありと真昼間に見る「瀑布」ではなく、その激しさを暮色に半ば隠して、だが視覚的に隠されたものはかえって他の感覚によって一層「瀑布」の本質として作者の身に迫る如く。 あまりにもその本質を作者と分かち合うものとしての「瀑布」であり、またあまりにも憧憬の果ての存在としての「瀑布」でもあり、なつかしさと果てしない遠さとが共在する場所を求めておぼろにさまよう作者の姿が無性に慕わしい。
石の上に腰をおろして燐寸擦ればうす青の火の老のごとしも 『大和』(昭和15年刊) 青年が老人でもあるような、未熟が完熟でもあるような。徹底してなにかを拒絶したならば、このような「うす青の火」の姿となるだろう。 それほど拒絶したかったものは、実は完璧な「青」のかたちで作者が最も守りたかったものでもあったかとおもえば、哀切で痛ましい。 この「うす青の火」は、たとえば煙草のためではなく、ただその火の姿を見るためだけに作者によって孤独に点されたものだと感じさせ、その戯曲の一こまのような映像が「火」の象徴性をかきたてる。
ひえびえと畑の水仙青ければ怒りに燃ゆる身を投げかけぬ 『大和』(昭和15年刊) 「水仙」の「青さ」への愛情は、『植物祭』にも顕著だった。 畑という、土と日常の匂いのする場所に生える水仙を、「ひえびえと」青いものとして、ことさら観念的な存在として、そこに己れの「青さ」を投影する手つきが、「怒り」によって作者の追いつめられた場所を推しはからせる。
風吹いて桜花のさつと散り乱るはやどうとでもわがなりくされ 『大和』(昭和15年刊) 一見、定型の抒情に対するとてつもない破壊行為のような歌であるが、「桜」が散ることに託されてきた日本人の抒情の底にも、常にこのようなニヒリズムが流れていたとも云える。 また、桜の散るのを見れば「どうとでもわがなりくされ」と叫ぶことの出来る安心感を、日本人の伝統的な抒情が支えているのだと、とらえることも出来る。 〈伝統〉に対して後足で砂をかけるような表現が、実は個の放棄を類的な自愛に密通させたいというやるせない欲望の顕われである。そのような戦後性の先駆を感じる。
紅葉はかぎり知られず散り来ればわがおもひ梢の如く繊しも 『大和』(昭和15年刊) 「梢(うれ)」のように繊細なままもちこたえようとする想いと、散る紅葉のように惜しみなく〈類〉にほどかれてゆこうとする想いとが、対立するものではなく、どこかに同じ根があるのではないかと感じさせる歌のすがた。 同じ根であることが、幸福のもとなのか、不幸のもとなのか、作者は、概ね不幸のもとであるという悲哀を抱きながら、一縷の望みをあるいは不確かな想いを、〈短歌〉という形式に委ねるかの如くだ。
深深とたたへられたる夜の底に黄菊の寒くまばたく思ひす 『大和』(昭和15年刊) 世界を一つの器として認識することで、己れの場所をその「底」であると感受する。その感性が、私には他者とはおもわれない。 世界という器に「夜」がふかぶかとたたえられていて、その〈水〉の気配のする世界の底に、「黄菊」が「寒くまばたく」。 おもわず触れてしまった世界の奥ふかい気配にとまどったようなつつましさで、己れの存在の冷えびえとした感触をはじらっているかのようにまばたく黄菊のすがたが、作者の感受性の細かなふるえを伝えてなつかしい。
或る日われ道歩きゐれば埃立ちがらがらと遠き街くづれたり 『大和』(昭和15年刊) 街ひとつ崩すほどの力をもつ自分であると、自負しているのではない。 自分が道を歩くことと、「遠き街」が埃を立てて崩れることとのあいだが、目に視えぬなにものかの力で結ばれていることに、感覚をほのかに開いている。 そこに破壊や崩壊しかなくても、なにものかの力がたしかにあることへのニヒルな〈信〉とでも云うべき逆説的な短歌性の根拠のかたちが、痛々しいエロス性を帯びてたたずんでいる。
朝闇に啼くは鶯しまししてこの世ともわかぬなみだながれき 『大和』(昭和15年刊) 「朝闇」という時間帯の、この世かこの世でないか判別しがたい気配の中の、鶯の声に導かれて流れた涙。 およそ人の気配の無い、とてつもなく寂しい場所を、己れのふるさとのように感じて満ち足りて安らぐこころ。その己れのこころの寂しさに対して他の誰とも分かち合えぬ涙を流す。 近代とは、それぞれの想うふるさとから〈人〉の気配の消えてゆく歴史であった、とも云える。
遠き日の朝がたなりし菜の花の一面に咲けばわれも生れけむ 『大和』(昭和15年刊) 自身の記憶の輪郭の彼方にも、存在は遡ることが出来る。 「菜の花」は、決してぬくもりのあるうらうらとのどかな「春」をイメージさせない。 むしろ、人のぬくもりではない、〈死〉と踵を接した無数の均一な植物によって世界が統べられている風景によってのみ、己れの存在の根拠を確かめることの出来る、作者の魂の不幸がひしひしと伝わる。 無数の「菜の花」のうちの一つであるかのように、人間の父と母のイメージが捨象された場所で、意味と無意味のはざまにつつましく妖しく不穏に生まれ落ちた魂への、観念の自慰が哀切である。
家にゐても外に出でても落ちつかね一面に黄なる菜の花の明り 『大和』(昭和15年刊) 還りたい場所は還ってはならぬ場所なのではないか。 近代文学を貫く神経症の根のような引き裂かれた感覚が一首を不穏に照らす。 「一面に黄なる菜の花の明り」が未生以前の原風景として作者を吸引するのだが、そこへ回帰することが人として手放してはならないものを手放すことなのだ、という抑止力がはたらいている。 〈原風景〉のカオスが、日常を支えるのではなく、人を日常から引き剥がす観念的な魔力としてしか存在できなかったことの不毛が妖しく匂い立つ。
真昼間の霞いよいよ濃くなりてむせぶがごとく独なりけり 『大和』(昭和15年刊) 己れの輪郭が定かでなくなる「霞」というカオスに包まれることは、類に身をほどく幸福ではなく、むしろ「むせぶがごとく独(ひとり)」であることを意識させられることなのだ。 どこまでも〈独〉につきまとわれ、望むもののかたちが見えてくることのないこの作者の魂の、強靭さともろさとがどの歌にも強く刻まれている。
年寄や子らの手をひきてあてどなく春はぼろぼろになりて去ぬらむ 『大和』(昭和15年刊) 「年寄」と「子ら」と「春」のあいだに共有される幼さが、もろく、己れを保ちがたく、己れを傷つけるものに立ち向かいがたく、なにが己れを傷つけるのか見定めがたく、なすすべなく「ぼろぼろに」なりながら、ゆく春の空気をけだるく染めているさまがまったりと澱んでいる。 幼さの腐臭が「ゆく春」としっくり馴染んで織りなされる頽廃美のほろ苦さ。
若葉輝く五月の午後はどことなく墜ちゆきて暗きいのちと思ふ 『大和』(昭和15年刊) 「若葉輝く五月」に逆らう情緒のように見えて、日本的な抒情の型として馴染み深くもある倦怠感。 短歌という形式は、その典型的な抒情の型に逆らっても逆らっても、あるいは逆らえば逆らうほど、歌人の幼い叛逆をふところ深く抱きとってしまう。 くらくらと墜ちてゆくいのちの暗さもまた、五月の若葉との対照によって、短歌でなければ表現出来ない、世界や存在の普遍的なあり方としての手触りを帯びる。
紫陽花の花を見てゐる雨の日は肉親のこゑやさしすぎてきこゆ 『大和』(昭和15年刊) 「肉親」との目くるめくような疎隔感の表現。 「紫陽花の花」と「雨」に浸されて〈水〉の次元にいる作者の身体に、とてつもなく遠い感触をもたらす「肉親のこゑ」。その遠さゆえに、現世の肉親が社会の象徴として機能するときの、目をそむけたくなるような肉付きはすべて捨象され、その声がはるかな甘い異国語のようにきこえるひとときのことが歌われている。 「やさしすぎて」に込められた痛ましくも甘やかな距離が秀逸である。
ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみち見ゆ 『大和』(昭和15年刊) 観念の自慰ではない、みずみずしい五感の立ち居振る舞いとしての一首の姿が美しい。 「ゆふ風」によって「萩むら」という群体めいた存在の息づかいがなまめきそめて、作者の「たましひの通りみち」としての風景を立ち上げるさまが肉感的だ。 〈天〉でもなく〈地〉でもなく、萩の花はちょうど人のたましいの息づくあたりに、はらはらとこぼれるように、半ば風に溶けるように咲く。 咲きながら溶けるような、溶けるように咲くような、淡くしたたかな存在のかたちの中で屹然とやすらうたましい。
燃え立たむ思ひもなしに日ぞ暮れぬむなしき影を身に蔵ひ込む 『大和』(昭和15年刊) 「影」と「身」の分裂を哀しむ。 あるべき〈生〉のかたちは、「影」と「身」に分かれることなく、そのような存在の境を意識することなく、ただ「燃え立つ」ような忘我の一日が素直に暮れるのであろうに。 むなしく己れの「影」が世界を見下ろし、経めぐり、すべてを見尽くしながら何一つ為さざるままに己が「身」に帰還する日の暮れの、いかほど狂おしい虚無感に浸されることか。 明日もまた同じむなしさを味わうことを百も承知で、それでもいくぶんかのいとおしみを込めて、帰還した「影」をひっそりと「身に蔵(しま)ひ込む」。 ここから作者は、誰も知ることのない「影」と「身」の蜜月のような夜の時間を過ごすのであろうか。
悪事さへ身に染みつかぬ悲しさを曼珠沙華咲きて雨に打たるる 『大和』(昭和15年刊) 「悪事」でもよいからこの「身」をすべて燃やし尽くすようないのちの咲かせようが叶うものなら。 「さへ」による極限値の例示が、何ひとつまっとうに「身」に染みつかぬ悲しみを強調して一首を哀切なトーンに染め上げる。 「悲しさを咲く」という、助詞「を」による主・客の密な世界観の提示も簡潔に、切迫した情感を曼珠沙華に集約して無駄なく咲きこぼれさせ、雨に打たせながら、短歌性へのぎりぎりの架橋が不敵な安定感へと蘇生するさまが鮮やかだ。
鞦韆のかげあはあはとわが胸にうつり居りいつか秋を病みつつ 『大和』(昭和15年刊) いつのまにか「秋を病む」身体は、「鞦韆(ぶらんこ)のかげ」に浸食されてゆくことに抗えない。むしろ進んで己が胸をその「あはあはと」した浸食に差し出すかのようだ。 幼時への退行的なおもいをクリアな情景に描きとめることで、病理としての自覚が先鋭化して〈退行〉では片付かぬ切迫感が浮かび上がる。 だが、その病理の型を〈秋〉に象徴させることで、一首は再び伝統的な抒情へのこれも自覚的な贈与といった流麗なけだるさに収斂する。 なにもかも見えすぎる者の不幸を静かに慰撫する調べが端正だ。
そこらには黄な蜘蛛が網を張るらしく独おもへば豊けき秋なり 『大和』(昭和15年刊) 「蜘蛛」のグロテスクさが、「黄」という色のもつ幼児性によって、その「網を張る」営みさえもどこか淡さと軽みを帯びて作者の孤独とブラックに繋がる。 昭和十二年作の一首。その暗鬱な「秋」も、「黄な蜘蛛」には「豊けき」餌(え)に満ちたにぎわいの印象を与える。その屹然とした毒々しさ。 殺伐とした世界風景のあわいに、「独(ひとり)」のまなざしを蜘蛛の網のように張りめぐらして、己れの幼児性をグロテスクな美意識との均衡の上に哀れにも妖しく危うく吐出するときの、けだるさをはらんだ自負が揺らめく。
暗がりを菌糸の白くのぶるなりあなむざんなる夢見たりけり 『大和』(昭和15年刊) 現実を超えるまなざしの構築は、作者においては「暗がりを菌糸の白くのぶる」ように、真昼の光の当たらぬ場所で、生白い菌糸がそのいのちをじとじとと無闇に四方八方へ増殖させてゆこうとする営為にも想い重ねられるものであった。 その「むざん」さをもまじまじと凝視する眼をもつ者の苦しみが、上の句の夢の叙述と下の句の夢に対する感慨とに断絶しながら、己れに対する苦々しさを軸とする、背筋の伸びた一首の姿を顕ち上がらせている。
めざめては他界と思ふしづけさに生きたるものは皆いぢらしき 『大和』(昭和15年刊) 現世の側に居るならば、「生きたるもの」は「皆おぞましき」かもしれない。 「他界」のような「しづけさ」にあって、己れひとりの息づかいや脈拍が己れにひしひしと迫ってくるときなればこそ、「いぢらしき」との感慨が湧く。 他者も、おぞましい業や我欲の色彩は影をひそめ、輪郭の定かでない抽象的な存在感によってつつましくいのちを主張している、そう感じられる瞬間。 眠りとめざめの境界線における己が境位というものを、常時保持し得たならば、少しはやさしく生きられる自分であるやもしれぬ。 まなざしひとつ、息づかいひとつにも、大海からひと掬いの真水を汲もうとするような、虚しさに今にも引きずられそうな祈りの気配がこもる。
幾つもの穴を掘りつつ日ぞ暮れてまぼろしのごと月のぼる見つ 『大和』(昭和15年刊) 「幾つもの穴を掘り」ながら日が暮れるまでの時間と、日が暮れて月がのぼってからの「まぼろし」のような時間。 「穴」を掘りながら過ごした者の目には、「月」がのぼることそれ自体がとてつもない「まぼろし」と見える。その落差の衝撃が「穴」の意味を読む者に推し測らせる。 「穴を掘る」行為は、地中深くに〈何か〉を求める悪あがきのようでもあり、己が身を隠してしまいたい想いの虚ろな繰り返しのようでもあり。真昼の日の光のもとでその存在の意味を十全なものにし難い作者の魂に、さらさらと自ずからのぼる月のまばゆいこと。 求めていた〈何か〉をことさらでない自然さで抱えもつ存在を見てしまった瞬間の、はるかな憧憬と畏怖の念とやるせない羞恥と。
寝る前に窓そとのぞく闇のなかまだ捨てぬガラスの破片ぞ青き 『大和』(昭和15年刊) 目覚めてある時間と眠りとの境に、己れの内のもっとも本質的なものが浮上する。 「まだ捨てぬ」には、捨てようと思っても捨てることが出来ない、己れの意志を超えているからこそもっとも己れらしい「ガラスの破片(かけら)」への執着が浮かび上がる。 「闇のなか」に己れを、もろく、あやうく、不能で、断片的で、無意味で、至純で、そして永遠の〈青〉としてイメージすることに、ぎりぎりの苦悩はあっても陶然とした歓びはない。 そのようなお気楽な戦後的倒錯の匂いがしないことを、この作者のすぐれた美質とおもう。
落日のひととき赫と照りしとき樹にのぼりゆく白猫を見つ 『大和』(昭和15年刊) 「落日」の「赫(かつ)と照」る「ひととき」の〈赤〉と「白猫」の〈白〉の対比が鮮やかなはずであるが、不思議にも激しいコントラストをもつ映像は喚起されない。 落日の赤も白猫の白も、作者から等距離の客体として淡々と視野に収められており、たとえば茂吉の好む〈紅〉のような鮮烈な厚塗りの油絵を想わせるイメージの喚起力はない。 落日も白猫もともに「ひととき」のはかなさをもって作者の心に映じたがゆえに、〈永遠〉として定着したかのような、むしろ水墨画にも似た枯淡の情趣を感じさせる。 「樹にのぼりゆく白猫」を「見つ」と言い止めるとき、わずかに「見てはいけないものを見てしまった」という苦味が走る。 こんな〈永遠〉の切れ端を見てしまったために、ますます現世が息苦しかったであろう作者の悲哀をおもう。
ふるへつつ卵うみゐる白き蛾をかかる霜夜におもふは何ぞ 『大和』(昭和15年刊) 『植物祭』においてしばしば植物や昆虫の〈水準〉に身をなじませようとしていた作者の、これはやや異なる世界風景の希求。 植物や昆虫のむやみに数の多い状態を歌うのではなく、想像力の中の、ただ一匹の「白き蛾」が「ふるへつつ卵うみゐる」様に視線が注がれている。 自身の〈孤絶〉をあいまいにするために無数の微細な生物のイメージを必要としたのとは異なり、「霜夜」の寒さに喩えられる現実の中で、生軟らかい肉体をうすら白く保ちながらふるえるような想いで己れの生を〈永遠〉に向けて架橋する自身の姿を、淡い異形性においてあくまで孤独なものとして定着させようという試み。
寒ながらはやも黄に咲く花ありて物わすれせし春に似るかも 『大和』(昭和15年刊) 寒さの中でうっかり「黄に咲」いてしまった風情の花に、「物わすれせし春」を想い、己れと世界との境界をひとときも忘れることのできない作者のひりついた意識がほころんでいる。 「黄」にはどこか突拍子もない幼児性の表情があり、浮世を軽々と凌駕して苦にせぬ花の姿が作者の憧憬をさそう。 過剰な自意識や無駄な神経の働きをすべて放擲することが出来たなら、あるいはもっとも大切なことを人は思い出すことが出来るのかもしれない。
朝がたははや川底にかへりゆき耳澄ましゐるごとく静けし 『大和』(昭和15年刊) 「はやかへりゆき」によって、いずれ「かへりゆく」場所としての「川底」であると認識されていることが知られる。「ちょっと早いがうっかり還ってしまった」というような端正に照れた表情が、無人の情景にほのかなやわらかさを与えている。 「川底へ」ではなく「川底に」であることが、明晰にイメージされた魂の帰結点としての風景なのだと感じさせる。未知へのロマンティシズムではなく、作者が常時こころの内に場所を保持している風景であり、ときどきそこに還って耳を澄まして無人の静けさによるにぎわいを感受してくるのでなければ、生き難い。 そんな作者の生き難さのたたずまいがなつかしい。
夜の底に燃えくるめける赤き火をわが身ひとつに清しみたるも 『大和』(昭和15年刊) 「夜の底に燃えくるめける赤き火」には、時代を覆う〈業火〉のイメージが抽象的にこめられているだろうか(昭和13年の作)。 個々の人間の一つひとつの〈業〉が巨大な時代の〈業〉となって、もはや消ししずめることも出来ぬほどの狂気の様相を呈している。 その〈業火〉を、作者は「わが身ひとつに清(すが)し」む。 同じ〈業〉に身を焼かれて滅ぶのではない、「わが身ひとつ」はそこから免れている。免れているばかりではない。むしろこの業火によって世界ははればれと清清しいものに生まれかわる、そう思うことが出来るのはこの「わが身」だけであろう。 〈業〉に身を焼かれる者たちの世界を突き放して俯瞰しながら、己れに可能なかたちでその〈業〉すべてを引き受けて見せようとする、冷ややかで傲然たる観念の誇り。
母となる日はいつならむわが妻に夜霧に濡るる草花見しむ 『大和』(昭和15年刊) 母となる妻に「夜霧に濡るる草花」を見せる行為のなかに潜む、世界の更新への夢。 この世界がどれほど乾ききり、ひび割れていようとも、実はその世界を統べているものは〈水〉だ。この草花も夜霧に濡れて本来のみずみずしさを顕わす。わが妻も、わが子も、〈水〉の相において世界を見るがいい。そのようなまなざしを持つ者によって、いずれこの世界は相貌を新たにするだろう。 ささやかな日常のひとこまによって転倒されるべき世界の姿が不穏に顕ち上がる。
晩ざくらさとひらめきて散りたれば再び戻りそのしたを通る 『大和』(昭和15年刊) 悲哀の強い生命観とふと発露される幼児性とが透明に溶け合った一首。 「晩ざくら」の散りざまが鋭く澄んだ一瞬を作者にもたらしたために、その強さとはかなさとを今一度身に浴びたくて歩みを戻す。 一日を過ごして、こころがひらめくような想いを持ち得たのは、人間との交わりにおいてではなく、さくらとのこの一瞬であることの内に込められた孤独と矜持。
冬の日の午後二時ごろをまどろめば網ふせられしごとく悲しき 『大和』(昭和15年刊) どこからか作者にねらい定めて投げかけられた「網」。その「網」を投げる者の有無を云わせぬ力は、不条理でとらえがたく、もがけばむしろ網は身に絡みつき、とらえられた者の闘いの意志を奪ってゆく。 すべての感情を悲哀と諦念に溶かし切ってしまいたくなるような気分というものを象徴させるに、「冬の日の午後二時ごろをまどろ」む作者の姿が配されて、透明なけだるさが漂う。 「網」を投げた者の貌が視えない歌の抽象度が、不安のかたちをよく表している。
うす曇る温き夜なかを起き出でて大いなる春芽ひとつたづねつ 『大和』(昭和15年刊) 「春芽(しゅんめ)」を探し当てられたのかどうかは問題ではない。「うす曇る温(ぬく)き夜なか」という世界を一つの場として、作者が己れの意志を淡く超えたものにやわらかく強いられて、その世界の核心をひとつ探し求めたということの内に、不定形の〈信〉を生きる手触りが込められた一首。 その手触りは淡いが悶々として熱く、よりどころのない心が大いなる存在のささやかな形象に憧憬してもどかしげだ。
手の甲を這ひゐる虫のまたしても血脈にひそみゆくと悲しむ 『大和』(昭和15年刊) 無数の植物や昆虫の〈水準〉に身をなじませることを好む作者の、これは虫の方が作者の身体になじんでゆくさまを「悲しむ」歌。 「手の甲を這ひゐる虫」には毒があるのやもしれぬ。「またしても」には、なべてそういう「虫」は作者の身の内を流れる血液を己れにとって居心地のよいものと感知して、ことあるごとに「血脈にひそみゆく」のだ、といった履歴をにじませて。 「悲しむ」には「愛しむ」がほのかにまとわりついていて、己が血の〈毒〉に対する悲哀と矜持がこもる。
青青とかがやきわたる野つぱらのかかる陽をわれら祖先となせり 『大和』(昭和15年刊) いにしえの人々を「祖先」としてイメージするのではなく、眼前の広大な野原をどこまでもかがやかせる「陽」へと遡及する想像力。 他者はともかく作者はそのようにイメージするのだ、という孤絶の表現ではなく、「われら」は実はこの「陽」を存在の根底に据えているから今こうして生きているものを、そのことをみな、想い出せ、とでもいった昂揚したアジテーションの感覚。 存在をみすぼらしくさせているものへの嫌悪が、「陽」の輪郭の不定感にリアリティーを与えている。
夕焼の空のこなたのももいろの雲の妹をあはれがりをり 『大和』(昭和15年刊) 「妹(いもうと)」には男にとっての、「兄」には女にとっての、究極のふるさとの匂いが甘くたちこめる。限りなく同質な異性への恋慕というかたちの退行的な夢。 同じ〈血〉をもつことは、同じ風景を見、同じ傷をもち、同じ物語を紡いできたことといまや同義ではないのだが、それが同義であったいにしえへの類的な退行願望としてこの一首は顕ち上がっている。
肉体のおとろふる日もわが夢の濃く虹のごとく輝れよと思ひぬ 『大和』(昭和15年刊) 「肉体」と「夢」との分裂をむしろ生きるよすがとしていることに矜持がにじむものの、戦後的な居直りの饐えた匂いがしないのは、贅肉としての矜持ではなく、その矜持がなければ生きる意味がないほどの、追いつめられた〈存在〉の場所を生きていたからであろう。 「濃く虹のごとく輝(て)れよと思ひぬ」には、昂然たる気概よりも、肉体と夢との引き剥がされた己が存在のありようをかなしむ嘆息がにじむ。
月夜ゆく川のながれのひとところ魂あるがに輝やきにけり 『大和』(昭和15年刊) 素直なエロティシズムが匂う。 川のながれの「ひとところ」だけが「魂(たまし)」があるかのように輝く。 人もまた、この川のながれのように月に裸身を照らされるならば、おもわぬ輝きがその身の内からこぼれ出るのではないか。 己れにさえそれと知られていなかった己が魂のありどころ、己が存在のかたちを浮かび上がらせる力が、「月」にはある。
朝しづくやさしやさしと手には受く心のそこのいきどほり消す 『大和』(昭和15年刊) 〈水〉によって癒される心。 現実への激しい嫌悪と不条理感で身が腐りそうな想いを抱えたこの作者の、「朝しづく」を「やさしやさし」と手に受ける姿の、孤独な幼児性が痛々しい。 ささやかな〈水〉とのふれあいを、世界とのかかわりの相における浄福の象徴として己が身に沁み透らせることで、己れ一身の「いきどほり」だけが消えるのではない。実は世界にたぎる憎悪の〈気〉が消えるのだ。
玉ちらふ滝のしぶきのしげけれやこの一つごといかに守らむ 『大和』(昭和15年刊) 「滝のしぶき」のはげしさを、世界においてただ一つ守るべきものとしてたち上げてみせた心ばえの中から、作者の現実に対する憎悪も、自己の立ち位置も、夢のかたちもその実現しがたいことへの苦悶も、一切を放擲したいという想いをせり上がらせようとする虚無も、その虚無への対峙の膂力も、すべて噴きこぼれるようだ。
きりきざむ胴のなかより光り出る劔にもあらばたふとむべきに 『大和』(昭和15年刊) あるがままの人のいのちを自然におだやかに肯定することが出来ないような不条理に見舞われたならば、過激でヴァーチャルないのちの幻に想いを仮託したくなるだろう。 理不尽でわびしい限定に晒された肉体をきりきざんでみるならば、その中から「光り出(づ)る劔(つるぎ)」がこぼれ出た、そんな古代的・神話的ないのちの高貴さをイメージして、現実を超えようとする哀切な悲傷の歌。 だが「たふとむべきに」には現実はそうではない、という反実仮想的なニュアンスがこもって苦々しい。
夜一夜なにものもわれを超え得ずと信じきるこそ暗くかなしき 『大和』(昭和15年刊) 己れの存在への傲然たる矜持ではなく、己れを超えるものを信じることが出来ない己れという存在への暗いかなしみ。 一抹のナルシシズムもなく、己が存在の輪郭をひしひしと冷たく凝視しなければならない、凍りつくような悲哀が痛ましい。
春雷は鳴りわたりたりいにしへも今のうつつも仇に刃むかふ 『大和』(昭和15年刊) 世界の不条理に対して「刃むかふ」ものとして、きっぱりと己が存在を示すことの出来る「春雷」へのオマージュ。 「鳴りわたりたり」には、己が存在で世界を圧する誇り高さが憧憬をもって描きとめられている。「いにしへ」も「今」も、不穏に、永遠に、瞬時に、単刀直入に、「仇」に対峙する姿が春の空気を響ませる。
春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ 『大和』(昭和15年刊) 茫洋たる印象を与えるこの表題歌に込められた、己れのまなざしに対する作者の決断力をこそ想う。 現実を徹底的に否定する意志と、春がすみによって存在の輪郭を融かしている世界へと己れもまた融け入ろうとする憧憬と、決してそこに融け入ることの出来ない不幸な自意識と、なればこそその茫洋たる世界の内に「大和」という古代的なまぼろしを顕ち上げるのだという観念の力業に賭けんとする文学者の矜持と。 不信と、その裏がえされたヴァーチャルな信とのはざまにひりついてはなれぬ自意識の、今まさにすべてを放擲しようとする臨界点へと「春がすみ」のようにいよいよ濃くなるさまが、時代の不穏さを象る。
牙鳴らし白きけもののかくろへる霞のおくにたづね入るべく 『大和』(昭和15年刊) 「霞」が隠しているのは「大和」だけではない。 牙を鳴らしながら「白きけもの」もまた、「霞」と己れとの境を融解することで世界の更新を図っているのやもしれぬ。 汚濁に染まらぬ「白」い姿と鬱屈した狂暴な「牙」は作者の魂の喩でもあろう。 あるいはそのような「白きけもの」が隠れていればこそ、世界は「大和」としていにしえの絶対感・完結感をもつのだと、そう作者には認識されていたのだとも。
けだものに会ふばかりなりし古への神の道かも青く照る見ゆ 『大和』(昭和15年刊) 身のちぎれるような羨望が青く鎮められたような一首。 「けだもの」にしか会うことのない「古(いにし)への神の道」として眺める風景の、激しい羨望によってヴァーチャルにしてヴァーチャルならざる手ごたえを獲得するさまが、ひりひりとした荘厳さを与える。 「けだもの」は神々しく、「神」は狂暴に、「道」はみずみずしく、互いに存在の輪郭を押しひろげ合って、おぼろに匂い立つようだ。
狂ほしく野山ゆきつつ時にわがあやまちのごと花散れる見き 『大和』(昭和15年刊) 過剰な己れを溶かし去りたいという狂おしさを抱えて野山をゆくのに、忘れ去りたいその過剰さを突きつけるような花の散りざまであったのかもしれぬ。 作者が己れをもてあましているように、「野山」からもてあまされるごとく、〈散る〉姿の中に存在の不安定さを露呈している「花」。 「花」へのシンパシーに安らぐのではなく、見てはならぬものを見たことで自意識の昂進するたまゆらが痛々しい。
ひとたびは音立てて清く流らへとあるひはねがひ沼の辺に立つ 『大和』(昭和15年刊) 世界という「沼」の濁りと澱みのほとりに立って、せめてただ一度なりとも晴れ晴れと音立てて清らかに流れてみせよ、と深い諦念とともに憤りを湧き立たせた一首。 「あるひはねがひ」は、いっそこの沼に己れの身をなじませて、世界の汚濁の果てしないひろがりの内に類的な身体による補完をしてしまおうという誘惑と作者が無縁ではないことを感じさせる。 孤独を択びとれば幻想の内に世界を清めることしか叶わず、類的な補完を望めば世界の汚濁へと己れを放擲することになる。 「沼の辺(へ)に立つ」作者の膠着した不幸の感触がたち上がる。
たよりなく昼霞せりいづくにか卵を落とし鳴く鳥あらむ 『大和』(昭和15年刊) 「昼霞」によって茫漠とした世界に、己れの最も大切なものを喪失してしまう者の痛みが象られている。 「いづくにか」は「卵を落とし」にかかるようにも「鳴く鳥あらむ」にかかるようにも読める。その曖昧さもまた「昼霞」のように「たよりなく」感ぜられる。 「霞」の内に個が喪失されることへの不安と、「霞」の内にこそ最も大切なものが危うくもあやしくも確かにも存在するのだという憧憬とのあわいに、悲痛な鳥の声が響むようだ。
海底のふかき谷なすところより眼ざめ来たりて朝を息づく 『大和』(昭和15年刊) 人の業の澱みによって形成されている闇のカオスではなく、人の気配など微塵も混じらぬ「海底のふかき谷なすところ」に眠りと眼ざめの棲息するイメージが、凄愴でありながら悲哀に満ちた安らぎをも保証する。 深い眠りと孤独な眼ざめは、ゆるやかに地上の作者の肉体へと導かれ、かろうじて「朝」を息づく。 日々、己れの内的な生と死を海底から導かねば生きがたいという想いに、全身的なシンパシーをおぼえる。
おのれをば鍛ちなほさまくと腕組むや杉しんしんと声なく高し 『大和』(昭和15年刊) 自己否定をはらみながらも倫理的に己れに向き合う高潔さが、杉の大樹の無言のたたずまいに触発されて、杉のごとくしんしんとまっすぐに背筋をのばしている。 「鍛(う)ちなほさまく」には、己れの観念性に対する批判のまなざしもあろうが、作者の求めた〈強さ〉は、手放してはならぬものを手放さぬ決意の上に、イメージされている。 清潔で青ざめてもろいことと、汚れて脂ぎってタフなことと、その二極の他に己れのあるべき姿をイメージすることの、いかほど困難なことであるか。
夏草の野をただに逃れゆくわれのさびしき背後をりふし浮かぶ 『大和』(昭和15年刊) 自身のうしろ姿を何かから「ただに逃れゆく」ものとしてイメージすることの苦痛。その「背後(うしろ)」のさびしさは、「夏草」の生命力にあふれた「野」と対比されて、作者の去勢感情を印象づける。 他者は苦もなく生きられる場所で、ただ生きるというそれだけのことに苦痛をおぼえる者の、どこまでも逃れゆかねばならぬ姿、そのうしろ姿が己れにまざまざと視えてしまうことは、逃れゆくことよりも苦痛であるかもしれない。
彩なりし昨夜の夢を追はまくは満目の露ひとしきり澄む 『大和』(昭和15年刊) ヴァーチャルだが無類に美しい「満目の露」の光景。 「彩(あや)なりし昨夜(ゆふべ)の夢」にすぎないのだが、真昼の光のもと、「夢」としていのちを喪ってしまうのではなく、「夢」の続きを己れの内にはぐくんで、「満目の露ひとしきり澄む」光景へと、少なくとも己れだけは導いてゆくことで、しばしまっとうな呼吸の出来る時間をもちこたえているさまがひしひしと伝わってくる。 ヴァーチャルな歌風の中にも、現実の汚濁において必死で背筋を伸ばしている、その背骨のきしみのようなものが、この作者には喪われることがない。
無為にして今日をあはれと思へども麦稈焚けば音立ちにける 『大和』(昭和15年刊) 「無為」の時間の流れを「あはれ」という伝統的な情緒によって肯定し、現実から引き剥がしながら類的に融かしめようとする思い。だがその思いを相対化するように、「麦稈(むぎわら)」を焚けば乾いた音がする。 作者の甘い感傷を戒めるかのような、乾いてはいても燃え尽きるまで己れの身を激しく証する麦稈の「音」が、確かな存在感を放つ。
谷あひに石割るおとのさえざえと秋空高くひびきてやまず 『大和』(昭和15年刊) 『植物祭』に顕著だった、昆虫や植物の〈水準〉へのあこがれでもなく、この『大和』にしばしば登場するヴァーチャルな古代の幻への回帰でもなく、現実に「さえざえと」生起することへの澄んだまなざしが、この歌集末尾には散見する。 決して幸福な印象を与える歌ではないが、世界の中から、人のいとなみの中から、澄み切ったものだけを掬い取って、かろうじて息をする瞬間を確保している作者の、細身の剣のような感受性がなつかしい。
なにごともなかりしごとき夕べにて青き砥石に刃物を当つる 『大和』(昭和15年刊) この世界に真実生起しているものを探り当てようとするかのような行為。 「なにごともなかりしごとき夕べ」において、地上には凄惨な事実がごろごろしていたろう。その事実を地上に生じさせている人間の業は濁り澱んで時代の空気を支配していたであろう。 だが、「青き砥石に刃物を当つる」ように、この世界の青い硬度に己れの身を当てて研ぎ澄ますならば、異なった風景が視えてくる。 真剣の刃の上を歩むことが出来るような魂を、作歌という営為の内に鍛えずにはいられなかった、そんな歌のたたずまいである。 (引用は『現代短歌全集・第八巻』より) ↑top (C)Kirishima Ayako |