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< 監 督
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 朴
壽南(パク
スナム)
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1935年3月、三重県生まれ。 在日コリアンとして、一貫して民族差別問題に取り組む。また、作家として、小松川事件の少年被告囚との往復書簡をまとめた「罪と死と愛と」(1963年)「李珍宇全書簡集」で注目を集める。 1965年から広島を訪れ、被爆同胞に聞き取りをし、73年に証言集「朝鮮・ヒロシマ・半日本人―わたしの旅の記録」を刊行。 1982年に「もうひとつのヒロシマ―朝鮮人韓国人被爆者の証言」を刊行した後、1987年に朝鮮人・韓国人被爆者の実態を訴える記録映画『もうひとつのヒロシマ―アリランのうた』を発表。1991年に沖縄へ連行された朝鮮人軍属、慰安婦を取り上げた『アリランのうた―オキナワからの証言』を発表。両映画は全国で自主上映され反響を呼んだ。 2006年から沖縄戦の玉砕の真実と記憶を掘り起こす新作『ぬちがふぅ(命果報)−玉砕場からの証言―』に取り組み、2012年4月に第一部を完成させた。 1990年眼の病気、黄斑変性を発症、その後手術を繰り返すが視力が回復せず、視覚障害の認定を受ける。映画制作では、口述筆記のサポート協力をえるなどし完成させた。 (2012年7月20日発行の「週間・金曜日」にも紹介される) |
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 母校の入口にて(2013-11/20)
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11月20日(水)、朴壽南監督が60余年ぶりに訪問した母校・東京都十条にある「東京朝鮮中高級学校」にて、映画「ぬちがふぅ(命果報)-玉砕場からの証言-」の上映と監督の講義が行なわれました。 今月、中学3年生が沖縄の修学旅行に行くための事前学習として、この上映と講義が開催さ |
 教室で講義する監督
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れまし た。映画でも記録されている「青丘の塔」や「アブチラガマ」にも生徒たちは行くとあって、沖縄戦に連行されてきた同胞の歴史について、食い入るように1時 間近い講義を聞き、集中力が絶えませんでした。 そして、講義の後、生徒たちが「イムジンガン」を監督に合唱し披露してくれました。 (なお、生徒代表の挨拶動画が観れます。Facebookへ)
監督を囲んだ生徒たちと共に
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「日本軍の慰安婦制度は必要だった」、「軍の強制性を示す証拠はない」などと主張する日本維新の会共同代表である橋下徹大阪市長の発言に対し朴壽南・監督が、まざまざとよみがえるいくつかの場面があると述べ、「朝鮮新報」に次のようなコメントを出しました。(2013-4/18)
「1995年5月、水野法相(当時)の『慰安婦は公娼だ』という発言に韓国のハルモニたちが、『このままでは死ぬに死ねない』と、15人が来日した。『娼婦』にでっち上げられてきた『慰安婦』被害者たちが沈黙から立ち上がったのだ。その中には、13歳で拉致された河壽任さんがいた。『最初の夜、司令官が私をなぶりものにした。噛みついて、滅多打ちにされ、3日間、私は死んだ―。生き返ったがこの通り右腕は折れてぶら下がったままだ。見舞金260万だと? この体を元に戻せ! 私を返してくれ!』。天皇のため働けと言われ、人間の尊厳を無残に踏みにじられた『少女』たちの生の声を、産む性を蹂躙されたその怒りを、橋下市長や日本の政治家に伝えたい」
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この本は、映画『アリランのうた-オキナワからの証言』(1991年)の完成を前に、編集から外した証言や録音取材の記録を活字としてまとめたものです。 この間、なりやまなっかた皆様のご期待にこたえて、復刻版をお届けすることになりました。 玉砕必至の沖縄の戦場へ連行され、最前線に立たされた朝鮮人、「軍夫」や日本軍駐屯地の「慰安婦」たち、そして米軍上陸後、玉砕へ追いつめられていく、しまんちゅ(島人)たちの実相が語られていなす。 映画DVDも合わせてお求めください。 (「アリランのうたNEWS」第26号、2013-4/7・より)
| 「アリランのうた」復刻版を出版(2012年11月1日) 定価 1.800円、お申込みは当会の へ Tel
090-6867-3843、FAX0467-51-6313へ)
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| (2012年11月8日、YouTube に公開)
2012年10月27日から始まった沖縄ロードショウの映画紹介で、沖縄を訪れた朴壽南監督は、オスプレイ強行配備と女性暴行致傷事件に対する怒りで揺れる沖縄の現場へ行かわれました。 北谷町住民の集い、読谷村で開催された阿波根昌鴻・金城実/写真と彫刻「ふたり展」シンポジウム、そして普天間基地ゲート野岳前で抗議行動に参加。現場に立ち続け、闘うウチナンチュたちは、この映画製作と上映を担う人々でもある。(なお、上の動画はBGMのみで、音声はありません。)
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オスプレイ即時撤去・女性暴行致傷事件抗議北谷町民大会に約800人が終結。高校生のアピール場面です。 |
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渋谷アップリンクにて (2012年8月5日) |
本田 孝義(ほんだ たかよし)監督は、1968年生まれの岡山県出身の映像作家。法政大学在学中から、自主映画の製作・上映を行う。卒業後テレビの仕事を経験し、ビデオによる自主製作を始める。主な作品に『船、山にのぼる』(2007)などで、最新作『モバイルハウスのつくりかた』(建築家・坂口恭平のドキュメンタリー)映画制作に携わる。(本田さんツウィッター)
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 2012年7月17日、東京にて
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7月16日の「さようなら原発10万人集会」に参加なされた瀬戸内寂聴さんと翌日、東京某所でお会いする事ができました。 「集会でも話しましたが、税金を払っているのですが、日本人は昔から、言わないことをしつけられているのです。腹が立つこと、言うべきことは言わなくてはなりません」 「この映画を見れば日本が韓国や沖縄にひどいことをしてきたことがわかりますが、もっとひどいことをしてきてます。沖縄はこれからどうなるのでしょう」 「原発事故も、このとき日本政府のやり方に『反対した人間がいた』ということを歴史に残すことが大事です。こんなことをしていたら日本は本当に滅びます」 「この映画も歴史に残ります。本当に見ながら涙が出ましたよ。京都や徳島でも上映したいので方法をあとでお知らせ下さいね」 チラシへの推薦文、パンフレットへの寄稿も快諾してださって、この日は朴壽南監督とは18年ぶりの再会で、2時間に及ぶ貴重な対談となりました。1994年に、韓国から来日した従軍慰安婦3名と鼎談を実現(婦人公論)時以来の再会でした。 本当に虐げられた民衆の側に立ち、虐げる権力に対し身体をはって主張する、一貫してあたたかく限りなくエネルギッシュな瀬戸内寂聴さんのお言葉に、映画製作をしてきた私たちも励まされました。(「facebook」より) |
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 5月6日、那覇市「ぶんかテンブス館」にて
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私はこの映画は初めから、ウチナー口で作ろうと思っていました。 琉球が滅亡させられた後、沖縄の言葉も文化も全部日本に奪われてきて日本語が強制されていきますね。 日本は植民地とした国の子どもたちを徹底して天皇のこどもとするため全力をあげていきますが、私も実は、皇国少女として横浜で育ちました。だから一億総玉砕という言葉を知っています。私自身が皇国少女で半分日本人であった、ということがこの沖縄の戦争に対する深い思いれとなったと思います。 沖縄戦の取材を通して私が知ったことは、沖縄もまた植民地であり、私たちと同じように全てを奪われていたのだという事。ウチナンチュも私たちも、実はイチャリバチョデー、兄弟だったわけです。 それがあの時代、皆さんは朝鮮人のことをチョーシナーと呼んでいましたね。チョウーシナーというのは人でないものなのですね。ヤマトンチュだって人として呼んでいましたが、朝鮮人はチョウーシナー。黒人をクロンボと蔑称したように。そうした植民地時代に、お互いに二等国民だ、三等国民だとお互い壁をへだてられていた私たちが、この作品でわかってくるようにお互いの体験を知って、凍りついたような顔に微笑が浮かびます。 がじゅまるの木の下のツルおばあのシーンが私は大好きなのですが、殺された現場を旅していた軍属が初めて、このおばあに微笑みを浮かべるのです。 このときに本当に私たちは兄弟、チョウーデーになったと思ったのです。 真実を知るということで、愛することを奪われていた、ウチナンチュとチョーシナーが初めてお互いのハン(恨)-チムグリシ(肝苦し)を共有し、本当の兄弟になったのだと思います。 そういう意味でこの映画を多くのウチナンチュに観ていただきたいと思っています。 |
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 座間味島の宮平秀子さん
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本作ラストに登場する座間味島の宮平秀子さん(99歳)のお見舞いに参りました。 「玉砕命令を聞いたが、子どもたちを死なせるわけにはいかない」と生後11カ月の息子をおぶって子どもたち3人と逃げた秀子さんは、今、その時の息子さん(67歳)から温かい介護を受けています。 5年前の収録時に比べて、証言者はますます年老いて弱っています。記録が時間とのたたかいであり、その声が聞けなくなっていく現実をつきつけられる沖縄試写会の旅となりました。 制作から上映運動へ、ノンストップ怒涛の日々ですが、当事者たちの声をたくさんの人たちに伝えていきたいです。(麻) |
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山形国際ドキュメンタリー 映画祭YIDFF (2005年インタビュー)
 発売されたDVD、詳しくはこちら
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『もうひとつのヒロシマ・アリランのうた』について これまで、日本の「ヒバク」は、核の被害者としての「ヒバク」でしか語られてきませんでした。しかしコリアン被爆者は、国を奪われ、連行され強制労働させられた挙句に被爆を余儀なくされた人々であり、こうした人たちは広島と長崎で十数万人にも上ります。彼らの存在は、戦後長い間無視され続けてきました。彼らは、朝鮮人として生きる上での社会的差別に加えて、被爆者であるという、二重の差別を引き受けなければならなかったのです。ですから、コリアン被爆にとっての被爆の本質というのは、そこに日本人がいて、日本人が被爆した、ということとはまったく違うわけです。たとえば三菱造船所、ここには半島からの女子学徒隊数百人が強制労働させられていました。彼女たちは広島に連行され、そこで被爆して、煙となって消えた。しかしそのことがまったく語られていない。この映画での証言だけです。彼らの大半は亡くなってますし、未だに家族でさえ、自分の娘、息子がどう連れていかれて、どこで、どう死んだのか、まったくわからないわけです。……実はまだ、押入れの中にかけがえのない証言映像がどんと眠っています。死者たちの記憶――恨(ハン)を蘇らせていく仕事。それをしないことは、むしろ私の罪だと思っています。 「証言」を生み出す「痛み」の共有 『アリランのうた オキナワからの証言』に出てきた、コリアンの(日本)軍属を2人殺した、と証言する、知念少尉という沖縄の方の告白をカメラに収められたのは、大変なことなのです。被害を語ること自体、言葉にできないほど辛いことなのに、さらに「殺した」という加害の証言です。しかも、自分の殺した軍属と民族的につながっているこの私が、繰り返し彼を訪ねていく。あなたたち琉球だけでなく、朝鮮族の私たち自身もまた、日本の侵略支配によって自らを否定させられ、人を殺す軍人として教育されていた。沖縄人として生まれ、そのアイデンティティを奪われたあなたと、朝鮮人としてのアイデンティティを奪われた私たちとは、同じ悲劇、同じ歴史を分かち合っているということを彼に語ったのです。そうしたら彼は、そのような監督である私が、痛みの共有者として彼にカメラを向けたから、という理由で、初めて証言を決意してくれました。 観客の支援あってこそ こういう映画の製作は、多くの人たちの支援があってこそ完成に至るし、映画が完成しても、観客がそれを見なければまったく意味がない。幸い、この
2本の映画はいろんな所で上映され、どうしたらあんなに観客を動員できるんですか、とよく聞かれます。私の問題意識を世間の人たちに共有してもらうために、『もうひとつのヒロシマ』に感動してくれた人たちに、2作目の話をしたのです。元慰安婦たちの人権と名誉の回復をするためには、やはり日本国家の加害の真実を明らかにしていくことがとても大事だ、ということを訴えていったわけです。すると、ほとんどの会場で、多くの観客が制作支援に立ち上がってくれ、フィルム買い取り運動などにつながりました。 沖縄集団自決の実態を追う次回作について (『アリランのうた』制作時に)沖縄で、慰安所の少女たちや、連行されて目の前で虐殺された軍属たちについての証言を掘り起こしていた一方で、彼ら沖縄人自身のあの戦争での体験も聞くことができました。日本軍によって“言葉”を奪われ、食糧を奪われ、あげく集団自決に追い詰められていく、そういう彼らの体験です。彼らの語りを通して、集団自決というのは沖縄人にとって一体何だったのか、それをぴしっと描きたい。これはもうラッシュの編集は終っていて、何とか来年までに仕上げたいと思っています。 |
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