お久しぶりです。多忙のため更新がままならず申し訳ありません。ひと段落着いたので久々の更新ですが、ネタがやや古くなってしまっている点、どうぞご了承ください。
さて、今回と次回の2回をかけまして、国民主権、特に現代という時代と国民主権の関係について論じたいと思います。その1回目である今回は、今年の1月26日に最高裁が出した都管理職試験訴訟に対する判決を題材に国民主権の現状を考えます。私見が多くなると思われますので、その点もご了解いただきたいと思います。
まず、国民主権という誰もが耳にする言葉ですが、一応、その意味を簡単にさらっておきたいと思います。国民主権とは、国家権力が国民に由来するという原理、言い換えれば、国政のあり方を最終的に決定する権力または権威といったものは国民にあるという原理を言います。
それでは、今日のメインテーマに入りましょう。問題の都管理職試験訴訟は、在日韓国人である東京都の公務員(保健師)が管理職試験を受験しようとしたところ、東京都は、管理職昇任にあたり日本国籍を有することを条件として定めていたため彼女の受験を拒否、それに対して彼女が訴えを起こしたものです。この訴訟では、東京都の受験拒否が、国籍を理由とする勤務条件について差別を禁止している労働基準法3条や、法の下の平等を定めている憲法14条に違反しないかが争われました。そして、これに対し、最高裁判所は、受験拒否は労働基準法3条や憲法14条に違反しないという判決を出したのです。最高裁の示した理由は、だいたい以下のようなものでした。まず、地方公務員の中には、住民に対して公権力を行使したり、重要な施策に関する決定を行ったり、またはこれらに参加することを職務とするものが含まれています。当然、これらの行為は、住民の生活に重大な影響を与えます。なので、国民主権により、国や地方公共団体の統治のあり方については、最終的な責任は日本国民が負うべきであるということに照らして考えれば、そういった行為を職務とする地方公務員になる権利は、原則として日本国籍を持つ者だけに認められ。外国人には認められるものではない、というものでした。
この判決については、当然ながら、賛否両論があります。国民主権の原理を重視し、日本国籍を有する者を優先するべきだという考え方からすれば、この判決の立場は支持すべきものでしょう。一方で、国民主権の「国民」を単に「国籍を有する者」と考えるのは形式的過ぎるとして、判決を批判する意見もあります。この立場によると、国民主権とは、国政のあり方の決定は、それに関心をもたざるをえない全ての人の意思に基づいて行われなければならない原理、ということになります。そして、その「国政のあり方に関心をもたざるをえない人」は、基本的には国籍を持っている人でしょうが、日本国内に生活の拠点がある定住外国人など、外国人の中にも当てはまる余地のある人がいることになります。そして、国境を越えた人の移動が普通になっている現状からしても、国籍があるかないかという形式的な基準だけで判断するのは問題がある、ということになります。
上記の意見、みなさんはどのように思われるでしょうか。国民主権である以上、住民の生活に重大な影響を与える公務への就任については、日本国籍を持つ日本人が優先されてしかるべきとも言えそうです。一方、「国籍」だけで全てを決めるのではなく、「国政のあり方に関心をもたざるをえない人」かどうかを基準にするほうが、実質的で柔軟な考え方のようにも思えます。その上、さらに、「国籍」等の問題は、民族意識や愛国心とも結びついて、さらに複雑なものになりかねません。とくに、在日の韓国朝鮮籍の人たちに関しては、歴史的に非常に根深い問題が存在しています。一面的には割り切れない、困難かつ複雑な論議となりうるでしょう。
ところで、今回は、先ほどまで述べたのとは別の切り口から、この問題を論じたいと思います。国民主権の原理により、住民の生活に重大な影響を与える公務への就任の権利は、日本国籍を持たない外国人には認められない、という理屈ですが、では、それが、日本国籍を持つ日本人に認められるのは何故でしょうか。当然じゃないか、と思われるかもしれません。しかし、そもそも、一般の公務員は選挙で国民・住民が選んだわけではなく。採用試験によって採用されているのです。直接国民によって選ばれたわけではない公務員が、住民に対して公権力を行使したり、重要な施策に関する決定を行ったりといった重大な権限を有するのは何故でしょうか。これを考えるにあたっては、国民主権や三権分立が確立していった19世紀にさかのぼる必要があります。
そもそも国民主権は、市民層が、従来の絶対王政による君主主権に対抗して唱えたもので、それをスローガンに君主を倒し、市民革命を成功させたという歴史的な背景があります。そして、革命が成功した後、その国民主権の原理が実現されうるような制度作りが進められました。そして、国民から委任を受けた国民代表たる議会が実際の政治を行うという制度が出来たのです。しかしながら、国民主権と唱えつつも、ブルジョワジーの政治を独占したいという思惑の中、選挙権は限られた人たちにしか与えられませんでした。ただ、建前という側面が強いとはいえ、国民の代表が政治を行うという国民主権を実現させる制度が生まれました。そしてまた、この当時、国家権力は市民の自由の活動を阻害するので、国家の役割は、治安や外交など限られた分野にとどまるべきだという消極国家論が唱えられ、現実の社会も現代ほど複雑ではなかったため、国家の仕事は単純で今ほど数も多くなかったと言ってよいでしょう。そのような状況においては、国民代表である議会による立法活動が政治の中心となり、一般の行政は、議会の作った法律を単に執行するのみでよかった、とも言えます。仮にですが、このような状況で外国人を公務員にすることは、どうでしょうか。一概には言えないかもしれませんが、国民の代表である議会の決めたことを行うだけなら、外国人であっても特に国民主権には反しないようにも思えます。
しかし時代は移り変わります。資本主義が発達してくると、貧富の格差は広がり、多くの貧しい労働者たちは過酷な状況に置かれることとなりました。そこで、そういう状況の打破を求める声が強まると同時に、一部の人にしか与えられていなかった選挙権を労働者等にも与えよという主張がなされるようになってきます。そして、紆余曲折はあったにせよ、普通選挙は次第に確立されていきました。すると、今までの教養と財産をもつ一部の人だけでなく、多くの貧しい労働者の声も国政に反映されるようになり、国家は、国民の最低限の生活を保障する福祉の役割を多く担うようになりました。そうなれば、国家の仕事は、治安や外交などの必要最小限度のものを超えて、飛躍的に増えることとなります。また、社会が複雑化するにつれ、国家の仕事も複雑なものとなっていきました。そんな膨大かつ複雑な国家の仕事の全てについて、議会が法律を作ることで対処することは不可能です。なので、それぞれの専門分野に精通した官僚が、議会に代わって、大きな権限をもつようになっていきました。議会が決めるのは大枠のみで、実質的な政策決定の権限は官僚が握るようになったのです。
国民主権の建前からすれば、国民により選ばれた議会が大きな権限をもち、国政のあり方を決めるのが筋といえます。しかし、国家が、複雑な社会の中、膨大な仕事を処理せねばならない以上、議会の力には限界があり、各々専門知識を持った公務員がイニシアティブを持つことは不可避とも言えます。ただ、やはり、選挙で選ばれたのではない公務員があまりにも大きな権限を持ち、全てを決めるというのは、単純に賛成できるものではないでしょう。国民主権の原理により、住民の生活に重大な影響を与える公務への就任の権利は、日本国籍を持たない外国人には認められないという今回の判決ですが、そもそも、国民主権の原理自体が、現代という時代の中で大きな問題に直面しているように思えます。
それでは、今後、国民主権はどのようになっていくのでしょうか。実は、現在、国民主権に関わる新たな試みが、いくつかなされ始めているような状況にあるようです。そこで次回は、そういった試みについて、またそれに絡める形で、前回扱った裁判員制度を違った切り口から論じたいと思います。
今回主に参考にしたのは、戸波江二「憲法(新版)」(ぎょうせい)、浦部法穂「全訂憲法学教室」(日本評論社)です。
それでは、このあたりで失礼いたします。