元寇長門襲来説

正平6年から7年にかけて山城国久世庄に室町幕府から派遣された遵行使節のひとり海部氏のこと(2016/03/07)

■ コラム ■

□ 海部と関部と開部と

◆はじめに

かなり以前になるが、ブログ「我が九条」のWallerstein氏が2014年3月10日付エントリ「引付頭人奉書」以後、いくつかの記事で、東寺百合文書における阿波国海部郡(徳島県海部郡)の国人・海部(かいふ)氏に関連する古文書を引用しておられた。その中でひとつ、従来「関部」と読まれていた人物名が、実は「開部(かいふ)=海部」であろうという点で、Wallerstein氏と見解が一致したので、自分用にここでメモしておく。

当頁内における釈文は、基本的にすべてブログ「我が九条」において紹介されているものである。なお、古文書引用に及んだ本来の話題については「我が九条」下記エントリを参照のこと。


◆「我が九条」関係エントリ

下記リンクはすべてブログ「我が九条」内のエントリ。詳しくは参照のこと。

●2014年3月10日付「引付頭人奉書」

●2014年3月15日付「原文書の魅力」

●2014年3月18日付「権益確保も命懸け」

●2014年3月23日付「使節も大変」

●2014年3月25日付「名前の順番」

●2014年3月25日付「開部但馬孫二郎=海部但馬守?」

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◆人名の読み直し

東寺百合文書より、話題となった海部氏が登場する山城国久世庄関係文書を並べて、人名をあらためてみる。なお、下記リンクはすべて京都府立総合資料館「東寺百合文書WEB」内。翻刻はWallerstein氏。強調は引用者山太娘(さんにゃん)による。

●ヰ函39号「(関部)左衛門尉請文案」正平6(1351)年11月28日

左衛門尉が、山城国久世庄の問題について、室町幕府の奉行所にあてた文書(写し)。

差出人の「左衛門尉」が、資料館サイトでは他文書との比較検討により「(関部)左衛門尉」と見なされているが、これは正平6年11月29日付「藤原直重請文案」に登場する「海部但馬孫二郎左衛門尉」であろう。なお、文中の人名は資料館サイトでは「田出羽助五郎」となっているが「田出羽助五郎(藤原直重)」であろう。

●ヰ函40号「藤原直重請文案」正平6(1351)年11月29日
東寺雑掌申以山城国久世庄地頭
職、東久世庄公文左衛門四郎、大藪庄公文
右衛門尉等、今月廿二日夜打入当庄
公文七郎仲貞住宅、致濫妨狼籍由事
可退彼濫妨人等之由、就被仰出之間
廿八日部但馬孫二郎左衛門尉相共莅彼
所欲退濫妨人等之処、彼悪党人等
構公文仲貞住宅於城郭、率大勢如令
申者、非吉野御沙汰者不可叙用之由令返退
欲及合戦之間、不及退之候、此条若偽申者
仏神御罰可罷蒙候、以此旨可有御披露候
哉、恐惶謹言
請文
正平六年十一月廿九日 藤原直重
在裏判

藤原直重が、山城国久世庄の問題について、室町幕府の奉行所にあてた文書(写し)。

差出人の「藤原直重」は「廣田出羽助五郎」、文中の人名「部但馬孫二郎左衛門尉」が正平6年11月28日付「左衛門尉請文案」の差出人であり「部但馬孫次郎左衛門尉」であろう。

「かいふ」という発音を聞いて、本来の「海部(かいふ)」を「開部(かいふ)」と筆記したものと考える。

●ホ函27号2「室町幕府引付頭人奉書」正平7(1352)年2月25日
東寺八幡宮雑掌申山城国
久世庄事、申状〈副具書〉如此、早広田
出羽亮五郎相共莅彼所、退濫妨
人、沙汰付下地於雑掌、可執進
請取状、使節緩怠者、可有其咎之
状、依仰執達如件、
正平七年二月廿五日       陸奥守(細川顕氏)(花押)
海部但馬守殿

陸奥守(細川顕氏)が、山城国久世庄の問題について、海部但馬守に当てた文書。

宛名の「海部但馬守」は「海部但馬孫次郎左衛門尉」と同一人物または近縁者と考える。文中の人名「廣田出羽亮五郎」は「廣田出羽助五郎」と同一人物であろう。

●ホ函26号「室町幕府引付頭人奉書」正平7(1352)年2月25日
東寺八幡宮雑掌申山城国
久世庄事、申状〈副具書〉如此、早海
部但馬守相共莅彼所、退濫妨
人、沙汰付下地於雑掌、可執進
請取状、使節緩怠者、可有其
咎之状、依仰執達如件、
正平七年二月廿五日       陸奥守(細川顕氏)(花押)
広田出羽亮五郎殿

陸奥守(細川顕氏)が、山城国久世庄の問題について、廣田出羽亮五郎に当てた文書。

宛名の「廣田出羽亮五郎」は「廣田出羽助五郎」と同一人物であろう。文中の「海部但馬守」は「海部但馬孫次郎左衛門尉」と同一人物または近親者と考える。

●ミ函27号1「室町幕府引付頭人奉書案」正平7(1352)年2月25日

陸奥守(細川顕氏)が、山城国久世庄の問題について、海部但馬守と廣田出羽亮五郎に当てた各文書(写し)。ホ函27号2、ホ函26号の二枚分の写しを1枚に書いている。

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◆まとめ

南北朝まっさいちゅうの正平6年11月22日、東寺領である山城国久世庄の公文・七郎仲貞の住宅が、隣接する東久世庄の公文・左衛門四郎と大藪庄の公文・右衛門尉に占拠された。権益を侵害された東寺は室町幕府に訴え、幕府は11月28日、海部但馬孫次郎左衛門尉と廣田出羽亮五郎を使節として遣し、占拠者を退けようとした。

しかし、占拠者は吉野=南朝の命令でなければ受け入れず、合戦も辞さない姿勢を見せる。実はこの当時、幕府関係者の文書の年号が南朝元号の正平であることからして、室町幕府も南朝方であったのだが。

事態はそのまま年をまたいだらしく、正平7年2月25日、引付頭人細川顕氏は海部但馬守と廣田出羽亮五郎を、早く片付けろ、怠けているとお咎めがあるぞとせっついた。その後どういう経過をたどったかは不明だが、このせっついた文書が東寺に残されているので、海部但馬守と廣田出羽亮五郎は最終的には任務を果たしたのだろう。

廣田出羽亮五郎は廣田出羽助五郎とも書かれるが、これはどちらも「ひろたでわのすけごろう」で同一人物であろう。

海部但馬孫次郎左衛門尉と海部但馬守は、官途名を「但馬孫次郎左衛門尉」から「但馬守」にあらためた同一人物か、もしくは近親者であろう。後者は例えば、父の官途名が但馬守、子が但馬守の子の孫次郎で官途名が左衛門尉で、当初は左衛門尉が使節だったが何かの事情で父と交代した場合などが考えられそうだ。

京都府立総合資料館「東寺百合文書WEB」によれば、これまでこの問題で派遣された使節の名として、正平6年では「(関部)左衛門尉」「庭田出羽助五郎」「開部但馬孫二郎左衛門尉」「藤原直重」があり、正平7年は「海部但馬守」「廣田出羽亮五郎」が挙げられていた。これといった資料が手近にないため確認できないが、Wallerstein氏のご教示によれば、研究者間でも「藤原直重=廣田出羽亮(助)五郎」の指摘はあっても、もうひとりの使節は正平6年は「関部但馬孫二郎左衛門尉」とされ正平7年の「海部但馬守」との関係は見逃されてきたようである。

ここでは、正平6年から7年にかけて山城国久世庄の問題に遣わされた使節のうち、ひとりは「廣田出羽亮五郎」、もうひとりは同一人物または近親者の「海部但馬孫次郎左衛門尉」「海部但馬守」である可能性を指摘しておく。

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◆おまけ

私には、現時点で研究史を調べる余裕と南北朝期の荘園その他についての知識がないので、Wallerstein氏が言われるような研究ノートは書けませぬ…。とりあえず、上島有『京郊庄園村落の研究』(塙書房1970)は必読のこと。うう、山口県立山口図書館にはある、のか。

さて、この「関部ではなく開部(かいふ)=海部」説、どなたか研究報告される場合はご自由にどうぞ。その場合は事後でもいいのでご一報いただけるとありがたいです。ヒマになったら山太娘がやりたいですが、働いてる間は無理というか、さっぱり目途が立ちません。

昨今、資料のデータベース化が進み、格別のコネクションを用いて現地へ赴かずとも、自宅にいながらWEB上でさまざまな資料を検討することができるようになっています。私のような在野の人間にとっては、それはたいへんありがたいことで、関係者のご尽力に心より感謝申し上げますが、一方で、現地で原資料にあたることが必然的に少なくなるため、最初期のDB化の時点あたりの些細な誤読について再検討の機会が減ることとなり、見逃されることに繋がりやすいかもしれないと思いました。やはり、原資料を自分の目で見ることは大事です。

最後に、機会をくださったWallersteinさん、ありがとうございました。

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