巻之十一 中山忠光
(前略)二十七日、河内大和の國境なる峠を打こえ、午の時ばかり、大阪なる長門の藩邸にしばし休らひ、日暮茶船にのり落のびぬ。かくていづこにかさすらひけん、絶えて知る人なかりしに、後に聞けば、長門國豊浦にゆきて、身をひそめゐたりとかや。この時幕府の探索きびしければ、上畑、大河内、川棚、延行等、諸郷の間をゆきゝして、世の様をうかゞひ居けるが、あくる元治元年甲子十一月十五日、刺客の手にかゝりて失せぬ。或は毒酒をすゝめしともいひ、又欝悶して病死すともいひ傳ふ。年は二十二歳なりとぞ。其後かしこの藩主、遺骸を綾羅木村に葬り、祠を立てこれを祀りしが、明治三年十月五日に、朝廷より、父子の義絶をやめ、官位ももとのごと唱ふべき旨仰下されたるうへ、深きおぼしめしもて、正四位を贈られ、祭粢の料にと、こがね三百圓給はせらる。
宮内省が出版した『修補殉難録稿』は、明治維新にあたり志半ばに斃れた志士たちの伝記集。明治17〜18年ころ輯録がはじまり、1893(明治26年)に完成。修補訂正を加えられ宮内庁図書寮に所蔵されていたが、1933(昭和8)年再刊。巻之十一は中山忠光と吉村重郷(寅太郎)。天誅組の挙兵に関して詳細に記述される。
天誅組壊滅後の長州藩での潜伏地、暗殺・毒殺・病死説をならべる。長府藩の『毛利家乗』が世に出ている頃なので、死亡日などはそれによったか、あるいは復位時または綾羅木中山神社関係の記録によるものかもしれない。