ここではゲームに登場していない武将や人物を偏った人選で紹介します。
新武将を作るからには実在の人物を作りたいけれど、
あんまり詳しくないから大河ドラマのヒロインくらいしか知らない。
でも、少しだけ凝った新武将を作りたいという方の参考になれば幸いです。
戦2エンパの舞台は西暦1561年から1615年頃ということで、
その時代には没していたり生まれていなかったりする人物はこの場では紹介しません。
(「徒然なるままに」というコーナーで紹介したいと思っていますが)
北条氏康が率いた陣立ての中心である、北条軍最強の精鋭部隊。
「戦国BASARA2」に登場した五本槍のモデルであろう。
北条綱成(1515〜1587)
五色備でも最強を誇る「黄備え」の大将。
「花倉の乱」にて今川義元に反目した今川家臣・福島正成の子。
父が武田の原虎胤に討たれた後、
北条氏康の父・氏綱に援助を得て小田原で養育される。
その後、氏綱の娘を娶って北条一門に迎えられた。
武勇の誉れ高く、外交手腕も卓越。
その生涯を北条家に捧げた名臣である。
北条綱高(生没年不詳)
「赤備え」の大将。
元は伊豆半島の豪族であったが、氏綱の養子となる。
富永直勝(?〜1564)
「青備え」の大将。
江戸城の城主で、江戸出身者で構成された「江戸衆」を束ねた。
里見家との第二次国府台の戦いで先陣となるが討死。
笠原康勝(生没年不詳)
「白備え」の大将。
北条家譜代の重臣・松田家と縁組みを結んでおり、
北条家臣団の中でもかなりの力を持っていた。
多目元忠(生没年不詳)
「黒備え」の大将。
北条家では古参の重臣。
川越夜戦で勝ちに乗じるあまり、
敵を深追いしていた当主・北条氏康を我に返らせ帰陣させた。
真田幸隆(1513〜1574)
武田家に仕えた三弾正の「攻め弾正」。
総勢40人以上いるw武田二十四将の一人。
六文銭を掲げる鬼謀の軍師で、はじめ海野小太郎。
(真田十勇士の海野六郎はこの海野家の出身)
真田家の開祖で、真田幸村こと信繁の祖父にあたる。
信玄の数少ない敗戦である「戸石崩れ」の翌年、
たったの一日で戸石城を落とすという衝撃的なデビューを果たした。
その後の転戦でも、他の武将なら憚るような謀略を用いて活躍。
上杉謙信にさえ「謀略では真田に勝てない」と言わしめた。
信玄病死に落胆し、後を追うように病没した。
真田信綱(1537〜1575)
幸隆の長男。
「戦国無双」や「戦国BASARA」などにおける、
甥・真田幸村の設定のモデルになったであろう人物の一人。
約1メートルの巨大な太刀を愛用し、信濃最強と謳われた武人。
川中島の合戦では「きつつき戦法」隊に参加し上杉謙信に肉迫。
以後も武田信玄の側近として数々の戦功をあげ、
武田四名臣と同格の地位で騎馬軍団の一角を担った。
長篠の戦いでは右備えの一軍として出陣し、
馬防柵に突入して明智方の精鋭を相手に奮戦するも鉄砲隊の餌食となった。
真田昌輝(?〜1575)
幸隆の次男。
兄と共に父から英才教育を受け、優れた戦略眼を有していた。
1569年の小田原城包囲戦では北条氏照を破っている。
長篠の戦いで、兄と枕を並べて戦死した。
なお、これによって真田家の家督は三男・昌幸が継ぐ事となる。
伊東一刀斎(1550?〜?)
一刀流の創始者。
諸国遍歴して修行を積み、
「夢想剣」などの秘技を編み出した。
小野忠明(1569?〜1628)
小野派一刀流の創始者。
最初、神子上典膳と名乗り安房里見家に仕えた。
諸国を遍歴し、伊東一刀斎に師事。
兄弟子・小野善鬼を倒して一刀流の奥義を伝授された。
1593年頃、名声を聞きつけた徳川家康に召抱えられる。
200石の知行で秀忠の剣術指南役を務めたが、
あくまで実践志向で将軍相手にも態度を軟化させなかった。
鐘捲自斎(生没年不詳)
鐘捲流の創始者。
富田勢源に師事して中条流を極める。
北条家で剣術指南役も務めた。
一説には佐々木小次郎の師匠とされている。
上泉信綱(生没年不詳)
新陰流の創始者。
稀代の名将・長野業正に仕え、幾度となく武田信玄を撃退した勇将。
主・業正が死してから落城後は信玄のスカウトを断り諸国を遍歴した。
塚原卜伝(1490〜1571)
新当流の創始者。
鹿島新宮の子として生まれ、諸国を遍歴。
19度の真剣勝負で無敗を誇る。
林崎甚助重信(1542?〜?)
居合道の創始者。
13歳にして長柄の刀による神夢想林崎流抜刀術を開眼。
闇討ちにあった父の仇討ちを19歳で成し遂げ、
その後は諸国を遍歴して居合道を普及させた。
疋田豊五郎(1536〜1605)
疋田新陰流の創始者。
上泉信綱に新陰流を学び、
若き日の柳生石舟斎宗厳に勝利した話が有名。
宝蔵院胤栄(1521〜1607)
宝蔵院流槍術の創始者。
柳生石舟斎宗厳とともに新陰流・上泉信綱に剣術を学んだ。
柳生兵庫助利厳(1579〜1650)
尾張柳生の創始者。
祖父・石舟斎より柳生新陰流の道統を受け継いだ、
柳生一族の中でも最強の呼び声高い剣術家。
一時加藤清正に仕えるも牢人。
諸国を遍歴し、1615年に徳川義直の剣術指南役となった。
吉岡憲法(生没年不詳)
14代将軍・足利義昭の剣術指南役。
また京都で染物屋も経営していた。
千利休(1522〜1591)
千家流茶道の開祖。
堺の豪商出身。
信長に茶頭として仕えたのち、秀吉にも重用。
後に秀吉との関係が悪化し、切腹を命じられる。
今井宗久(1520〜1593)
戦国どてらい男。
早くから信長に注目し、堺と信長の和解に尽力。
裸一貫から天下第一の政商に成り上がった。
神屋宗湛(1551〜1635)
大陸貿易を独占し、堺と双璧をなす商業都市であった博多の豪商。
大友と毛利の争奪戦で焦土と化した博多の復興に奔走した。
茶屋四郎次郎(1545〜1596)
三方ヶ原・伊賀越えの二度に渡って、徳川家康の命を救った三河武士。
京の三長者といわれる茶屋の礎を築いた豪商。
長谷川宗仁(1539〜1606)
画家で茶人。
信長に仕え、奉行・代官職を務めた。
本能寺の変の訃報を秀吉に伝えたという。
茶人としては「法眼」の位に叙された。
長谷川等伯(1539〜1610)
長谷川派の開祖。
千利休ら堺の人脈を通じて秀吉の庇護を受けた。
代表作は「松林屏風」「秋に松草図屏風」「楓図襖絵」など。
狩野永徳(1543〜1590)
狩野派の完成者。
安土城天主閣や聚楽第・大坂城の障壁画を描いた。
代表作は「洛中洛外図屏風」「唐獅子図屏風」など。
本阿弥光悦(1558〜1637)
芸術の才に溢れ、特に書道は「寛永の三筆」と称された。
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」などの優れた和歌巻・和歌色紙を残す。
朝山日乗(?〜1577)
法華宗の僧侶。
信長に用いられ、皇居増築や外交などを担当。
キリシタンを憎み、信長の前でフロイスと宗論を戦わせた。
快川紹喜(?〜1582)
臨済宗の僧侶。
武田信玄に招かれ恵林寺に入り、外交でも活躍。
信長に攻められた際、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と名言を残した。
多聞院英俊(1518〜1596)
奈良興福寺多聞院の院主。
歴代院主が書き継いだ「多聞院日記」の著者の一人。
沢庵宗彭(1573〜1645)
臨済宗の僧侶。
京都大福寺で禅の修行を積む。
細川幽斎に和歌を学び、書画や茶道にも造詣が深かった。
吉川英治「宮本武蔵」では武蔵の師匠である人。
フランシスコ・デ・ザビエル(1506〜1552)
イスパニア北部ナヴァラのザビエル城主の子。
パリ留学中にイエズス会を結成し、マルティン・ルター等の宗教改革に反撃。
カトリック勢力の失地回復を目指し、東洋にて精力的な布教活動を続けた。
ルイス・フロイス(1532?〜1597)
リスボン生まれのポルトガル人。
上洛した信長から南蛮での布教を許される。
「日本史」を編纂後、キリスト教への弾圧が深まるなか長崎で没した。
ルイス・デ・アルメイダ(1525〜1583)
リスボン生まれのポルトガル人。
貿易のかたわら、宣教師として布教活動に励む。
大友宗麟の援助を得て、洋式病院を開設するなど医療でも貢献した。
ネェッキーソルド・オルガンティーノ(1530〜1609)
イタリア人。
フロイスの後任として都地区上長となる。
他の宣教師とは異なり、日本人と日本文化を絶賛していた親日家。
「宇留岸様」と人々に親しまれ、信長の厚遇を得て京都教会を建設した。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1538〜1606)
イタリア人。
イエズス会総長の名代たる東インド巡察師として来日。
日本の実状に即した布教方針を確立し、日本人司祭養成を図った。
信長から非常に厚遇され、正親町天皇にすら譲らなかった「安土城屏風」を贈られている。