戦国うんちく(暫時更新)

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ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。


青木信時(?〜?)

武田信繁につけられた武川衆の頭目の一人。
時折、武田二十四将に数えられた。

赤尾清綱(?〜1573)

浅井三将。
浅井亮政・久政・長政の三代に仕えた家老。
武勇に優れ、戦いを好まぬ久政を隠居させる。
浅井家の本城「小谷城」に「赤尾曲輪」という砦を設けた。
長政は清綱の屋敷で自害しており、主君の死を看取った後は信長への降伏を拒否し自刃。

明石全登(?〜1618?)

五大老・宇喜多秀家の筆頭家老。
神出鬼没のクリスチャン・ジェネラル。
洗礼名はジョバンニ・ジュストなど。
熱心なキリスト教信者で、いつでもどこでも布教活動をしていた猛者。
息子も宣教師だ。
関ヶ原での敗戦後は行方不明となるも、1614年「大坂冬の陣」では豊臣方として再び姿を現す。
徳川幕府によるキリスト教禁制の時世で、キリシタンに寛容を示したのは反徳川の豊臣家だけだったのだ。
(大坂五人衆の一人となる。他に真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛)
大坂の陣では十字架とイエス像を掲げた部隊を率いて奮闘。
徳川軍に突撃した後、再び行方不明となる。
その後の動向は諸説あるが、詳しい事はわかっていない。

秋山信友(1527〜1575)

信玄の腹心。
徳川家康に「武田の猛牛」と恐れられた知将。
織田領の美濃に侵入し、岩村城を奪う。
その際に美貌の女城主・おつやの方を略奪愛。
(ちなみに、この岩村城は後に森蘭丸に与えられる)
この女性が織田信長の叔母であったため、長篠の合戦後に激しく逆上した信長の猛攻にあって落城。
おつや共々、岐阜に連行されて逆さ磔という極刑を受けた。

明智秀満(?〜1582)

明智五宿老。
光秀の右腕。
一説に光秀の甥とも従弟の光春ともいわれ、三宅藤兵衛の息子ともいわれる謎の多い人物。
光秀の長女(名は綾戸・倫子など)の再婚相手であり、どの出生でも光秀の義理の息子ではある。
通称は左馬助で、カプコン「鬼武者」の「明智左馬介」のモデル。
山崎の合戦での敗戦後、一族と共に自刃したとも細川家・寺沢家に仕えたとも。
光秀が天海僧正として生き延びたという説に準じて、それは本当は秀満であったという説もある。

明智光忠(?〜1582)

明智五宿老。
光秀の叔父・光久の子とも農民の子ともいわれる。
本能寺の変に際し、二条御所の織田信忠を攻めるも負傷。
山崎の合戦での敗北を知るや自刃した。

明智光秀(1528?〜1582)

信長四天王。
通称「金柑頭」。
美濃の名門と伝えられるが、その前半生は不詳。
1556年の斎藤義龍の反乱で領地を追われ、翌年から身重の妻達を連れて諸国遍歴の旅へ。
1562年に、越後の朝倉義景の陪臣として一揆平定に功があったとされる。
学識に優れ、鉄砲名人でもあったために推挙されたそうな。
ちなみに鉄砲の腕前は超人的で、それが義景の目に止まって100人の鉄砲部隊を任された。
1565年に朝倉家を離れ、翌年に稲葉山城に到着して織田信長に仕えたらしい。
1568年には足利義昭と信長の間を取り持った。
その後の戦果は華々しく、新参者ながら織田家の最高幹部に上り詰める。
本能寺の変を起こした動機は未だ不明。
山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃亡中に落ち武者狩りの農民に討たれた。
なお、天海僧正として生き延びたという説もある。

浅井長政(1545〜1573)

通称「北近江の鷹」。
織田信長の13の陣を11まで破った天才武将。
はじめ六角義賢に隷属し、賢政を名乗る。
後に六角家から来た妻と離縁して独立。
織田信長と同盟を結ぶ。
理由は諸説あるが、一度は結んだ織田家との同盟を破棄。
その後、1573年8月28日には当てにしていた武田信玄が病に倒れる。
盟友の朝倉義景は戦下手。
この逆境を戦い抜いた長政も、ついに自害。
嫡男・万福丸も処刑され、浅井家の血筋は絶える。
秀吉に救出された、お市の3人の娘を除いては。

浅野長政(1547〜1611)

豊臣五奉行筆頭。
もとは安井氏。
羽柴秀吉の正室・ねねの妹を娶り、浅野家を継ぐ。
華々しい槍働きこそないが、秀吉の下で民政や兵站に手腕を発揮した。
秀吉の死後、徳川家康の暗殺を企てた疑いから甲府に謹慎。
関ヶ原の合戦には参戦しなかったが東軍に属す。
戦後は嫡子・幸長に家督を譲り、江戸で家康の囲碁の相手を務めたという。

朝比奈信置(1528〜1582)

駿河・持舟城主。
今川義元の娘婿であったが、氏真の代になると今川家を見限り武田家に寝返る。
150騎の侍大将として信玄に重用されたが、武田家滅亡に際して徳川軍の攻撃に敗れた。
その後、織田信長の命で自害。

朝比奈泰朝(1538?〜?)

代々続く今川家の重臣であり、落日の主に最後まで忠節を尽くした快男児。
生没年は不詳であるが、一説には今川氏真と同年の産まれであるとされる。
1568年に駿府城を武田信玄に追われた氏真をかくまい、居城・掛川で襲い掛かる武田軍に徹底抗戦。
翌年の落城まで善戦した後、泰朝は氏真に従って伊豆の小倉城、のち相模・小田原城に落ち延びていった。
確かな資料は残されていないが、またもや北条家から放逐された主に従い徳川家へ。
徳川四天王・酒井忠次のもとで、今は家康に庇護される主のために転戦したと伝えられる。

朝比奈泰能(?〜1577)

泰朝の父。
今川家累代の重臣であり、義元の信任が厚かった。
彼が預けられた遠江・掛川城とは、政治的にも軍事的にも重要な拠点であったのである。

浅利信音(?〜?)

時折、武田二十四将に数えられた。

穴山信君(1541〜1582)

のち梅雪。
信玄の甥で、内政官として手腕を発揮した。
(母は信玄の姉である南松院)
しかも娘婿にして武田軍団親族衆の筆頭である。
(信玄の次女・見松院を娶った)
にも関わらず、徳川家康に内応して武田家滅亡の一因となる。
武田家滅亡後、武田氏継承を認められた。
・・・が本能寺の変に遭い、土民に殺されてしまう。

安倍元真(1513〜1587)

1568年、武田信玄の駿府攻めに善戦。
敗戦後は安倍に退去するも、のち徳川家康に仕える。
織田信長の死後、対武田氏抗争に活躍した。

甘糟景持(?〜?)

上杉四名臣。
1561年の川中島の合戦にて、寡兵で奮戦した上に退却時には殿軍を務めた猛将。

甘利虎泰(1498〜1548)

武田信玄四天王。
「両職」の地位にあった屈指の宿老。
若き信玄の「軍配の師」である。
屈指の戦功者であったが、上田原の合戦で戦死。
以後、信玄は不敗の名将に成長する。

甘利昌忠(1534?〜1565?)

虎泰の長男。 上田原の合戦で戦死した父に代わって従軍。
父譲りの猛将で、板垣信方の子・信憲と共に譜代の家老となる。
負傷した戦友のために薬である馬糞汁(当時)を与え、拒否されたために(当然じゃー!)自分で飲んで見せたとか。
若くして病死したとも(ウンコが原因?)、三方ヶ原の合戦にて徳川軍から味方を救ったとも伝えられる。

雨森弥兵衛(?〜?)

浅井三将。
浅井家の旗頭。
特に久政に重用され、文書を発行する「奏者」という役割にあった。

足利義輝(1536〜1565)

室町幕府13代将軍。
塚原卜伝に剣を学び、免許皆伝。
名刀コレクターであった事も相まって、「剣豪将軍」と呼ばれた。
松永久秀に急襲された際には抜刀して奮戦するも、多勢に無勢で力及ばず自害した。

安国寺恵瓊(1539〜1600)

毛利家の外交僧。 本能寺の変と秀吉の天下を予言した「怪僧」である。
関ヶ原では西軍首謀者の一人として暗躍。
毛利輝元を総大将として担ぎ出す。
戦後、石田光成・小西行長と共に斬首された。

安藤守就(?〜1582)

美濃三人衆。
天才軍師・竹中半兵衛の舅。
信長に降るも、1580年に武田内通の嫌疑によって追放。
本能寺の変に際して再起を図るも、稲葉一鉄父子の手で討たれる。

井伊直政(1561〜1602)

徳川四天王の中では最も若輩かつ新参者。
沈着剛毅な覇業の功臣である。
武田家滅亡後、旧武田家臣を与力として預かった。
山県昌景率いた「赤備え」にあやかり、軍装を赤に統一。
常に先鋒を受け持ち、精強を誇る。
後に「井伊の赤鬼」と呼ばれた。
烈しい生き方が寿命を縮めた直政の体には生傷が絶えなかったが、若い頃は大層な美少年だったとか。

池田恒興(1536〜1584)

織田四家老。
信長の乳母・養徳院の息子。
幼い頃から信長に仕え、桶狭間の戦いで功を上げている。
特に目立つ武将ではないが、家中の信頼は篤かった。
羽柴秀吉の「中国大返し」に呼応し、山崎の合戦後は秀吉に従う。
その後、小牧長久手の合戦で女婿の森長可と共に討ち死にした。

石川五右衛門(?〜1594?)


石田三成(1560〜1600)

豊臣五奉行。
かつては貧しさ故に寺小姓となったが、三杯の茶を羽柴秀吉に出した事で運命が急転した。
近江長浜城主であった秀吉に、非凡な才能を見出されて近侍に取り立てられる。
生マジメな性格で、その滅私奉公の勤めぶりから秀吉の寵愛を受けた。
賤ヶ岳の合戦では沿道に松明を用意させるなど、地味ながらも裏方として絶妙な仕事を果たす。
朝鮮の役では何十万という補給物資を運んだ。
こうした活動がなければ軍は成り立たず、似た役割を果たしていた秀吉には仕事を評価されている。
・・・が、武断派には「高みの見物」と悪印象を持たれていた。
それが災いしてか、秀吉の遺児・秀頼を傀儡とする陰謀の人とみなされる。
よって豊臣恩顧の大名からも見放され、関ヶ原の合戦に敗北。
斬首される事となった。
ちなみに姑息な悪人というイメージが根強いが、そうした風評は江戸時代中期に広まったものであるらしい。
「天下の副将軍」徳川光圀(水戸黄門)も、「石田三成は義臣である」と「桃源遺事」で高評価を与えている。
(光圀は「史記」を読んで不良から更正した男で、紀伝体の歴史書である「大日本史」の編纂に携わっている)
三成の実像は、「正義」という信念を貫き続けた忠義の士であったらしい。
領民からは慕われていたし、有名な「秀次事件」でも細川藤孝と共に秀次の助命を嘆願していた。
(「秀次事件」が三成の陰謀であったとする論拠は、総じて徳川政権が確立した後に書かれた史料である)
結局、三成の最大の欠点は「正義」を盲信していた事に尽きる。
己の信じるものが、全ての人にとっても正義であると。

出雲の阿国(1573?〜1607?)

歌舞伎の開祖。
出生は諸説あるが、ここでは「戦国無双キャラクターズ真書」に準拠。
鍛冶屋の娘で出雲大社の巫女であるとする。
1603年に16歳を自称しているが「美人ではなかった」という記述が「当代記」に残されており、
かなり実年齢から鯖を読んでいたのではないかと思われる。
この記述は1603年に阿国が「かぶき踊り」を始めた時の事で、
1600年には未だ「ややこ踊り」を踊っていた。
(お菊とクニという二人の女性が舞を披露したとある。
 このクニが阿国と同一人物なのかは不明だが、キャラクターズ真書では同一人物とみなしている)
この空白の3年間に、歌舞伎が生み出される事になったらしい。
彼女に「かぶき風」を吹き込んだのが、愛人であった傾奇者・名古屋山三郎であるという。

板垣信方(1489〜1548)

武田信玄四天王。
「両職」の地位にあった屈指の宿老。
若き信玄の「心の師」である。
常に信玄こと晴信の傍にあり、彼が猪突に繰り返す失敗を諌めて来た。
無血クーデターにも尽力している。
上田原の合戦にて、晴信を逃がすために戦死した。

伊丹康直(1523〜1596)

前半生ははっきりしないが、摂津・伊丹城主の子であったという。
幼い頃に落城して以来、伊勢・上野を放浪。
妻が岡部家の娘であった縁により、1558年から今川家に仕えたというが・・・。
氏真の下では海賊奉行として水軍を率い、今川家没落後はその腕を武田信玄に買われる。
また武田家滅亡後は徳川家康に招聘され、駿河・清水の御船奉行を務めた。

一条信龍(?〜1582)

武田信虎の八男。
つまる所、信玄の異母弟。
長篠での敗戦時には勝頼を逃がすため馬場信房と戦場に留まる。
武田家滅亡時には、徳川軍と最後まで戦うも捕らえられて処刑された。

稲葉一鉄(1515〜1588)

美濃三人衆。
美濃きっての名将。
斎藤道三に仕えるも、嫡孫・龍興を見限って信長に仕える。
その後の戦果は華々しい。
ちなみに「頑固一徹」の語源となったという説がある。

今川氏真(1538〜1614)

「海道一の弓取り」今川義元の嫡子。
母は武田信玄の姉・定恵院であり、正室は北条氏康の娘・早川殿(母方の従姉)。
「甲相駿三国同盟」に深く寄与しており、妹は武田義信に嫁いでいる。
剣は剣聖・塚原卜伝、智は太原雪斎とこの上ない英才教育を受けた。
血筋といい師といい、まさに戦国のサラブレッドなのだが文弱の暗君と名高い。
氏真は武よりも風雅を愛し、そのヘタレっぷりを父・義元に説教されたという。
永禄3年に義元が桶狭間に散るや、今川家は衰退。
かといって父の弔い合戦をするでもなく、蹴鞠や歌などをして無為な日々を過ごした。
父の絶大なるカリスマで築かれた大軍団は瓦解し、
北東からは叔父・武田信玄、西からはかつての家臣・松平元康こと徳川家康が侵攻。
氏真はこれを防ぎきれず、偉大な父が遺した駿河・遠江の二国を失った。
その後、北条・織田・徳川などを頼って寄食生活。
文雅の世界に没頭し、至って幸せそうであったという。
ちなみに蹴鞠の名手であった。

今川義元(1519〜1600)


今福浄閑斎(?〜?)

信玄末期から勝頼期に活躍した人物。
「公事三奉行」という訴訟・裁判を担当した奉行であった。
(「甲陽軍鑑」によると他に武藤常昭と桜井信忠。
 今井信衡を加えた「公事四奉行」の一人とも)
久能山城を築いた。
若い頃から罪人を斬り殺していたため、四十代で千人斬りを果たしたと噂されていたらしい。

上杉景勝(1555〜1623)

豊臣五大老。
上杉謙信の姉・千桃院の息子。
超がつく程の無口で、家臣達に笑顔を見せた事が無いと伝えられる。

上杉謙信(1530〜1578)


宇喜多秀家(1572〜1655)

豊臣五大老。
備前の梟雄・宇喜多直家の次男。
秀吉の養子となり、同じく養女であった前田豪姫を娶る。
秀家が8歳、豪姫が6歳の日の事であった。
その後、10歳で宇喜多家の家督を相続。
実父とは正反対の篤実な性格で人望はあったが、夫婦揃って養父譲りの浪費癖があったために財政を圧迫。
家臣団の分裂を招いてしまう。
関ヶ原の合戦では西軍に属し、敗戦後は流転。
敗走して伊吹山中に隠れ、変装して薩摩へ逃れて島津家に匿われる。
島津忠恒の助命嘆願もあって、久能山に幽閉された後に罪一等を減じられた。
八丈島へ二人の子と共に流罪となったものの、実家に帰った妻達からの仕送りもあって愉快に過ごしたらしい。

宇佐美定満(?〜1564)

上杉四名臣。
越後流軍学の祖と称される。
卓越した戦略眼を以て、若き日の謙信を補佐した。
上杉景勝の父・長尾政景との舟遊びの最中に溺死。

氏家ト全(?〜1571)

美濃三人衆の一人として連名で治世に務め、斎藤家中で重きをなすも信長に降る。
伊勢長島の一向一揆討伐にて、負傷した柴田勝家に代わって殿軍を務めて討ち死にした。

鵜殿長照(?〜1562)

三河・上郷城主。
母は今川義元の妹であり、氏真とは従兄弟同士。
没落する今川家を見捨てなかったが、そのために徳川家康の攻撃を受けて自刃した。

お市の方(1547?〜1583)

織田信長の妹で、浅井長政の正室。
結婚した時期には諸説あり、為した子の数も同様。
絶世の美女であり、織田家のマドンナであった。
(ちなみに背が高いモデルタイプの美人だったらしい)
浅井家滅亡時、お市は4人の子持ちにして26歳。
まだまだ若い未亡人である。
未だに織田家のマドンナとして、政略結婚としての価値は申し分なかった。
信長が再婚させなかったのは、せめてもの償いか。
しかし、その信長も本能寺で死す。
お市は柴田勝家と再婚。
信長の三男・信考を擁し、嫡男・万福丸の直接の仇である秀吉に敵対するのだった。
しかし後夫・勝家は秀吉に敗れ、お市もまた自害して果てた。

大久保忠佐(1538〜1614)

徳川十六神将。
家康の父・広忠の代に活躍した蟹江七本槍。
忠世の次弟。
末弟は「三河物語」の著者である忠教。
(通称は彦左衛門。「大久保彦左衛門と一心太助」で知られる義侠の士)
福釜城で柴田勝家を撃退し、長篠の合戦では獅子奮迅の活躍で信長に舌を巻かせた。
生涯無傷の武運に恵まれた剛の者であるが、敢えて跡目を立てずに家名は断絶した。

大久保忠世(1532〜1594)

徳川十六神将。
家康の父・広忠の代に活躍した蟹江七本槍。
自立間もない家康の下、一丸となって三河一向一揆と戦った大久保一族の棟梁。
1573年の三方ヶ原での敗走時、武田軍に夜襲をかけて武田信玄に武勇を賞賛される。
長篠の合戦でも信長の目に止まり、賞賛された。
「よき膏薬のごとし、敵に付いて離れぬ膏薬侍なり」
武辺一途なだけでなく、帰り新参の本多正信に手織りの袖を贈る思いやりの深い人物。
その性格が嫡子・忠隣に受け継がれた事が災いし、「大久保長安事件」では息子が本多正信に謀殺される事に・・・。

太田牛一(1527〜1611)

弓の腕を見込まれて織田信長の直臣となり、のち豊臣秀吉に仕えた。
「信長公記」の著者。

大谷吉継(1559〜1600)

石田三成の親友であり、真田幸村の正室の父。
戦国随一の高潔の士である。
ハンセン病に罹っており、顔面と頭部を浅葱色の薄布で巻いていた。
関ヶ原の頃には病状が悪化し、殆ど視力を失っていたが竹興に乗って軍を指揮している。
そもそも秀吉に仕えた時期や出生には諸説あるが、有力な所では滋賀県出身で長浜時代に仕えたとか。
(石田三成が推挙したという説も)
秀吉の側小姓から順調に出世し、1583年「賤ヶ岳の合戦」でも大活躍。
七本槍に次ぐ槍働きを見せる。
その後、親友・三成と共に吏僚としての道へ。
誠実な働きぶりと高潔な人格が、周囲から認められて人望を集める。
関ヶ原では親友・三成のために奔走。
病をおして戦場に出、徳川家康に内通した小早川秀秋の大軍を二度も押し返す。
しかし三度目には蹂躙され、宇喜多・小西・・・そして本隊の石田三成隊は壊滅。
これを見届け、切腹して果てた。
どこまでも友情に殉じた義侠の士であった。

大友宗麟(1530〜1587)

大友氏の全盛時代を築いた名将。
決して武断の人ではないが、一流の情報収集能力と外交術を有していた。
幼い頃は美しく、病弱な少年であったという。
二十歳で家督を継ぎ、北九州の大部分を取得した。
しかし宗麟の本領は軍事よりも政略や内政にある。
戦乱の中、宗麟は領内経営に力を注いだ。
ポルトガル商人との貿易。
学校・病院などの設立など、その枚挙にはいとまがない。
キリシタンとの関係が深く、宣教師ザビエルを招いてキリスト教の保護に努めている。
キリスト教国との貿易を通じて興味を持っていたのか、今山合戦の敗北を機にキリスト教への信仰を深めた。
1578年7月には洗礼を受け、ドン・フランシスコという洗礼名を得ている。
1587年。
日向にキリスト教国家を興すべく、夫人ジュリアや宣教師らを率い、十字架の軍旗を掲げて出陣。
島津軍と耳川で激突し大敗するも、その信仰心は生涯続いた。

岡部元信(?〜1581)

鳴海城主。
桶狭間で義元が討たれた後も善戦し、鳴海開城と引き換えに義元の首級を取り返した忠臣。
今川家の断絶後は武田家に仕え、遠江・高天神城を任される。
1581年、徳川四天王・榊原康政との戦いで討ち死にした。

荻原昌勝(1461?〜1535?)

後の信玄こと晴信の父・武田信虎の弓の師匠。
戦功者で武田の戦法の創始者であるらしい。

小瀬甫庵(1564〜1640)

儒医。
池田恒興・豊臣秀吉に仕えた後、堀尾吉晴に仕えた。
「太閤記」の著者。

織田信長(1534〜1582)


鬼庭綱元(1549〜1640)

伊達三傑。
政宗が幼い頃から傅役(主君の子の世話役)として仕えた。
知謀を巡らせた小十郎。
戦陣で武勇を発揮した成実。
二人に対し、縁の下の力持ちであったのが綱元である。
伊達家奉行の職にあり、領国経営全般や外交を一任されていた。
また、合戦でも卓抜した才能を発揮。
伊達軍の疾風迅雷な機動力の影には、この名補給長官の存在があった。

小幡虎盛(1505〜1561)

甲陽五名臣。
通称「鬼虎」。
武田信虎の代に甲斐に来て仕官。
信虎にいたく気に入られ、虎の一字を与えられる。
合戦では自ら斬り込み大暴れ。
生涯36度の合戦で36の感状を授かった歴戦の勇者。
その後、四名臣・高坂昌信の副将として海津城を守った。
第四回川中島合戦の直前に病没する。

小幡憲重(1505〜1575)

上野小幡家の当主。
もと山内上杉家の家臣。
1560年に反乱のため甲斐に亡命。
翌年には旧領を回復し、上野先方衆となる。
長篠の戦いで戦死した。

小幡昌盛(1534〜1582)

虎盛の子。 初陣で大暴れして大手柄を挙げた。
父と同様に海津城を守る。
以後も武名を轟かせたが、武田家滅亡の5日前に亡くなった。

小原広勝(1531?〜1582)

武田勝頼の側近で、天目山で殉死した。
時折、武田二十四将に数えられた。

飯富虎昌(1504〜1565)

武田信玄四天王。
四名臣・山県昌景の兄であり、元祖「武田の赤備え」。
板垣・甘利が戦死した後、残された家臣の筆頭として武田軍を再編成した。
後に信玄の嫡子・義信を預けられ、駿河侵攻を巡って争う父子の間で板挟みとなる。
(義信の正室は今川義元の娘であった)
その結果、義信謀叛事件の責任を取って自害した。
ちなみに謀叛をチクったのが弟の昌景である。

小山田信茂(1545〜1582)

武田軍最強と呼ばれた男。
黒に統一された軍勢を率い、外交面でも活躍した文武両道の「スゴイ奴」。
関東でも有数の豪族で、主従というよりは同盟関係に近かった。
つまり、厳密には武田家に仕えていたわけではない。
・・・にも関わらず、穴山梅雪と同様に武田家を見限った事で後世の評価は最悪。
二十四将の絵でも、彼を外して武田勝頼を加えるものがある。
(穴山梅雪とはエラい違いだ・・・)
ちなみに織田信長の評価も同様で、処刑されてしまった。

小山田昌辰(?〜1552)

武田信玄四天王。
城攻め・築城・守備の名手であった。
地蔵峠の戦いで戦死。