戦国うんちく(暫時更新)

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ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。

海北綱親(?〜1573)

浅井三将。
兵法に優れ、羽柴秀吉の軍勢を返り討ちにした。
浅井家が滅亡した際に討ち死に。
息子の国松は画家として大成し、「武人画家」と呼ばれた。
その国松を召し出すにあたり、秀吉が「海北綱親は我が軍法の師」と語った逸話は有名。

柿崎景家(?〜1575)

上杉四名臣。
謙信の側近。
精強な越後軍団の中でも随一と謳われた猛将で、常に軍の中核として先陣を切って敵陣に斬り込んだ。
織田信長との内通を疑われて殺される。

糟屋武則(?〜?)

賤ヶ岳七本槍。
秀吉に幼い頃から仕える。
関ヶ原の戦いでは西軍に味方したが、2年後に5百石の旗本として徳川幕府に召し抱えられた。

片桐且元(1556〜1615)

賤ヶ岳七本槍。
近江の生まれで、浅井家滅亡後に秀吉の小姓として仕えた。
文武両道の武将で、内政や外交でも活躍している。
秀吉の死後は秀頼の補佐役となるも、「方広寺鐘銘事件」を引き起こすきっかけを作ってしまう。
豊臣家と徳川家の間で板挟みとなり、大坂城を去った。

片倉小十郎(1557〜1615)

景綱。
伊達三傑。
政宗が梵天丸と呼ばれていた幼児期から仕えていた股肱の臣。
伊達軍団の参謀総長であり、政宗の軍中に景綱ありと名高い。
その勇武知略は秀吉・家康にも認められた。

加藤清正(1562〜1611)

賤ヶ岳七本槍。
豊臣秀吉の遠縁。
朝鮮の役で虎を退治した豪傑。
その際に折れて片鎌となった槍を愛用したという。
関ヶ原では、秀吉の遺児・秀頼を三成の野心から守るべく東軍に参加。
戦後も豊臣家への忠誠心は変わらなかったが、家康から秀頼を守るべく臨んだ二条城の会見から二ヶ月後に変死。
徳川家に暗殺されたという説もある。

加藤昌頼(?〜?)

時折、武田二十四将に数えられた。

加藤嘉明(1563〜1631)

賤ヶ岳七本槍。
豊臣秀吉子飼いの武将の一人。
水軍の指揮を任され、兵糧の輸送を担当したりした。
秀吉死後は徳川家康に従い、家名を明治まで残した。

可児才蔵(?〜1613)

宝蔵院胤栄の弟子。
初め斎藤龍興に仕え、のち織田信長・明智光秀・織田信孝・羽柴秀次・前田利家。
最終的には福島正則に仕え、関ヶ原では東軍随一の17首を挙げる。
討ち取った首級すべてに笹を差して目印としたため、天下に「笹の才蔵」の異名を轟かせた。

鎌田政年(1514〜1583)

島津忠良・貴久・義久の家臣。
名は政房とも。
各地を転戦して軍功をあげた。
忠良から「永久に島津家はその功を忘れない」とまで賞されている。

蒲生氏郷(1556〜1595)

近江六角氏配下、蒲生賢秀の子。
幼い頃に人質として織田信長の下へと送られた。
この氏郷を信長は一目で気に入り、娘の冬姫を娶らせて重用している。
本能寺の変の際には、信長の夫人や遺児を安土城から救出。
居城・日野城において篭城し、明智光秀軍の猛攻から守り抜いた。
その後は羽柴秀吉に臣従。
小牧・長久手の合戦。
九州征伐。
小田原の陣。
これらの戦いで見事な働きを示し、「天下取りの器量」と秀吉に激賞された。
朝鮮への出兵中に病死。
早世が惜しまれる。

川上久朗(1536〜1568)

18歳にして、当主・義久から守護代に任ぜられようとした程の才幹の士。
太刀・長刀・鎌槍を自由自在に使いこなした剛将であった。
堂ヶ崎の合戦において、無謀な突撃を敢行する島津義弘を諫めるも聞き入れられず。
島津軍は敗走し、この際に負った重傷のために久朗は息を引き取った。

吉川元春(1530〜1586)

元就の次男。
家中随一の勇将で、『毛利の両川』の左翼として活躍した。
19歳で山陰の名族・吉川家の養子となり、お家乗っ取りを果たして家督を相続する。
戦場では無敗を誇り、その戦績は76戦64勝12分け。
文武に秀で、厳冬に開花する梅に例えられた。
ちなみに秀吉が大嫌いだったとか。

吉乃(1528?〜1566)

織田信長の側室で、信忠・信雄・五徳の母。
はじめ土田弥平次に嫁いだが、夫が戦死したため実家に帰ったところを見初められた。
正室である濃姫には子がなかったため、側室ながら正室に近い扱いを受けていたともいう。

肝付兼盛(1533〜1578)

島津貴久・義久の家老で大隅加治木城主。
蒲生攻めや日向伊東氏攻めに従軍し軍功をあげた。

栗原信盛(1545〜1615)

時折、武田二十四将に数えられた。

高坂昌信(1527〜1578)

武田四名臣。
「甲陽軍鑑」の著者と伝えられる人物。
自身を「逃げ弾正」と評する通り、慎重かつ明晰な思案によって功を築いた知将。
また若い頃はなかなかの美少年であった。
信玄とボーズラブの関係にあった事は有名で、「浮気してゴメンよ」という信玄の手紙が残されている。
長篠の合戦から3年後に病死した。

香宗我部親泰(1543〜1593)

国親の三男で、元親の弟。
香宗我部家の養子に入り、家督を継ぐ。
土佐平定・四国統一に尽力した。
外交面でも活躍しており、織田信長との会見や柴田勝家・徳川家康との交渉をこなした。

五徳(1559〜1636)

織田信長の長女。
母・吉乃が早世して後は兄の信忠同様、濃姫によって育てられたのではないかと思われる。
徳川家康の嫡子・信康の正室になるも、姑・瀬名との不和から築山殿事件を招いた。

小早川隆景(1533〜1597)

豊臣五大老。
元就の三男。
父の資質を最も良く受け継いだ智将で、『毛利の両川』の右翼として活躍した。
11歳で瀬戸内水軍を擁する小早川家の養子となり、17歳で本家を相続する。
武将としての資質。
政略家としての手腕。
それらの多くを父・元就から受け継ぎ、うららかな春の楊柳に例えられた。
文禄の役でも勇戦し、その武名を海外にまで轟かせた。

小宮山昌友(?〜1572)

侍大将および、信濃諏訪・上野松井田城の城代を務めた。
遠江二俣城攻めにて戦死。
時折、武田二十四将に数えられた。