戦国うんちく(暫時更新)

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ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。

雑賀孫市

孫一とも。
紀伊雑賀の傭兵集団「雑賀衆」を率いた鉄砲の名手。
鈴木佐大夫を筆頭に、鈴木家の男達の活躍が統合された伝説上の人物。
最も「雑賀孫市」に近い者としては、佐大夫の次男・孫一重秀。

斎藤龍興(1548〜1573)

濃姫の異母兄・斎藤義龍の嫡男。
母・近江の方が浅井長政の姉であるため、長政にとっても甥にあたる。
義龍が若くして変死したため13歳で家督を継いだ。
しかし人望に欠け、多くの家臣が敵対する織田家へと離反。
竹中半兵衛には稲葉山城(のち岐阜城)を乗っ取られるなどの憂き目にあい、
稲葉一鉄ら美濃三人衆の裏切りが斎藤家の滅亡を決定的なものとする。
美濃を追われた龍興は伊勢長島に逃げ、一向一揆に加担。
織田信長への抵抗を続けた。
その後、畿内の三好三人衆らと組むなどして転戦。
歴戦の勇士として成長するが、最後に頼った朝倉家と運命を共にした。

三枝虎吉(1511〜1584)

侍大将として活動。
後に三枝栄富斎として富士浅間大宮に奉納状を提出した。
時折、武田二十四将に数えられた。

三枝守友(1537〜1575)

虎吉の子。
信玄の侍大将として戦功を挙げる。
駿河花沢城攻めでは一番槍の功名を挙げた。
その勇猛さを気に入られ、四名臣・山形昌景に名刀・吉光を与えられ養子となる。
長篠の合戦で、徳川四天王・酒井忠次の夜襲によって討ち死に。

斎藤利三(?〜1582)

明智五宿老。
母は光秀の妹とされるも不詳。
道三が下克上によって名乗った「新斎藤」ではなく、下克上された美濃守護代「古斎藤」の血を引く。
妹は「土佐の出来人」長宗我部元親の室である。
元は稲葉一鉄に仕え、その娘との間に三存・利光・福(後の春日局)をもうけた。
山崎の合戦では中央先陣を務めるも敗れ、潜伏中に捕らわれて斬される。

酒井忠次(1527〜1596)

徳川四天王の長老で、徳川創業随一の功臣。
主君・家康より十五年長で、駿府での人質時代から側近兼家庭教師を務めていた。
徳川家とは血縁関係にあり、家康第一の宿老として赫々たる戦歴を残す。
また、エンターテイナーとしての才能もあった。
忠次の踊る「蜆すくい」は、明日の戦に緊張する武将達を爆笑させたものだった。

榊原康政(1548〜1606)

徳川四天王の一人で本多忠勝とは同い年。
大事に臨んで動じず、機を見るに敏。
人品高潔にして思慮深い、譜代きっての勇将である。
「無」の旗を掲げて馬を駆る、百戦錬磨のいぶし銀。
そして迎えた徳川政権の実現。
平和な時代の訪れと共に、主権を次代に委ねる。
引き際を知る武人であった。

佐々木小次郎(?〜1612)

詳しい伝承は残されておらず、宮本武蔵の伝記「二天記」では越前の出身とされている。
その「二天記」によれば、厳流島で武蔵と決闘したときには17歳であったらしい。
(当時の『数え』年齢だと18歳となる)
もっとも「二天記」が書かれたのは武蔵の死後120年のこと。
当然ながら武蔵ひいきな記述が目立つため、必ずしも正確なものとは言えず信憑性は薄い。
近年では九州国人説が有力であり、年齢も武蔵と同年齢か上であったとするのが通説。
(70歳以上であったという説もある)
また、小次郎の使った剣にも謎が多い。
戦国時代の有名な剣客・富田勢源について修行した。
・・・というのが通説だが、勢源ではなく弟子の鐘巻自斎に師事したともいわれる。
ちなみに勢源も自斎も小太刀の名手であったのだが、小次郎は師の組太刀の稽古相手として大太刀を使用した。
そうした日々に大太刀に開花し、独立後は細川忠興に仕え剣術指南役となる。
その後、1612年に宮本武蔵と厳流島で決闘。
ここで『武蔵に破れ』死亡したというのが通説だが、実は決闘では死ななかったという説がある。
小次郎は細川家に疎まれており、決闘で疲れきったところを細川の伏兵が謀殺した。
もしくは武蔵の弟子たちが寄ってたかって斬り殺した。
・・・しかしながら、真相は闇の中。
生まれも死も謎に包まれた人物である。
ちなみに小次郎といえば長刀「物干し竿」から繰り出す、「燕返し」という秘剣があまりに有名なのだが・・・。
実は「燕返し」ではなく「虎切(こせつ)」という秘剣だったそうな。
フェイントの初太刀から二の太刀を繰り出す。
このコンセプトは共通しているのだが、上下の「燕返し」とは異なり「虎切」は左右に剣を振ったという。

佐竹義重(1547〜1612)

通称「鬼義重」。
父・義昭の夢見た常陸統一を果たし、佐竹家に全盛時代をもたらした。
武田・北条・上杉による関東争奪戦が激化する中、その三者と同盟離反を繰り返しながら勢力を拡大。
やがて上杉・北条ら列強に堂々と対抗出来る勢力に成長した。
後に北進して伊達政宗と激突。
武勇で鳴る伊達軍団に対し、義重は冴えた外交手腕で対抗。
周到な同盟包囲網を構築して優勢に戦いを進めるも、本国・常陸の情勢悪化からやむなく撤退。
ついに勝敗はつかなかった。

佐竹義宣(1570〜1633)

義重の長男。
義宣の代には、北の伊達政宗と南の北条氏直が常陸を狙っていた。
苦境に立たされた義宣は豊臣秀吉とよしみを通じ、この難局を切り抜けて行く。
小田原攻めではいち早く参陣し、54万石の大名となった。
関ヶ原では石田三成とのつながりから西軍に味方。
戦後、出羽国久保田に移封された。
しかし20万石を領して存続している。

佐々成政(1539〜1588)

信長親衛隊たるエリート集団「黒母衣衆」が一。
のち、府中三人衆。
稲生の戦いから信長に従う。
1584年には織田信雄・徳川家康に呼応。
和議後も徹底抗戦を貫き、秀吉方の前田利家と戦う。
降伏後は肥後を与えられたが、その統治の不手際を理由に切腹させられた。

真田信綱(1537〜1575)

幸隆の長男。
「戦国無双」や「戦国BASARA」などにおける、甥・真田幸村の設定のモデルになったであろう人物の一人。
約1メートルの巨大な太刀を愛用し、信濃最強と謳われた武人。
川中島の合戦では「きつつき戦法」隊に参加し上杉謙信に肉迫。
以後も武田信玄の側近として数々の戦功をあげ、武田四名臣と同格の地位で騎馬軍団の一角を担った。
長篠の戦いでは右備えの一軍として出陣し、馬防柵に突入して明智方の精鋭を相手に奮戦するも鉄砲隊の餌食となった。

真田信之(1566〜1658)

真田幸村の兄で稲姫の夫。
多くの武将達の興亡を見て来た「最後の戦国武将」。
初名は信幸だが、関ヶ原戦以後は信之と改名した。
初陣は1585年の上田城の合戦。
弱冠19歳でありながら、天下の徳川軍を翻弄した。
1589年には駿府城の家康に出仕。
その剛胆振りを見せつけるエピソードがある。
「稲姫の夫となる人物を選ぶ席に、信幸以下多くの大名の子弟が呼ばれていた。
 平伏している若侍達の髷を掴んで、顔を上げさせて品定めをする稲姫。
 屈辱ではあるが、徳川重臣の娘には逆らえない。
 ところが、信幸だけは持っていた鉄扇で稲姫の手を払った。
 稲姫は信幸を気に入り、信幸に嫁ぐ事を決めたと言う」
家康の養女であり、忠勝の娘である稲姫を娶った信幸。
以後は徳川家家臣として組み込まれて行く。
そして1600年の関ヶ原。
父弟とは袂を分かち、東軍に参陣。
徳川秀忠の下で、上田城で父弟と対峙する事に。
義弟・本多忠政と共に降伏勧告の使者となるも失敗。
それでも信幸を疑う者が居なかったと言うから、秀忠はじめ徳川軍の諸将が、 いかに信幸の篤実な人柄を信頼していたかがわかる。
だが関ヶ原遅参を境に、秀忠は信之を憎むようになった。
家康が没した後の1620年。
小松殿(稲姫)が病死した際には、信之は「我が家の灯火が消えた」と嘆いたと言う。
徳川家との橋渡しが、これで途絶えたのだ。
そのため、1622年には上田から松代へ移封。
水害も多く米の収穫も望めないあの川中島であり、事実上の左遷であった。
(ちなみに松代は森蘭丸の次兄・長可と末弟・忠政の旧領)
ところが、この信之は余程ストレスの溜まらない性格であったらしい。
「祖父さんが建築に関わった海津城があるんだよ。
 善光寺や姨捨だって俺の領地なんだぜ? スゲぇよ!」
などと、松代を気に入ったという手紙を姉や友人などに送っている。
その後も激動の日々は続いたが、結局92歳まで生きた。
本当にストレスが溜まらない性格であったとしか思えない。
(年老いてもバリバリの現役だった)

真田昌輝(?〜1575)

幸隆の次男。
兄と共に父から英才教育を受け、優れた戦略眼を有していた。
1569年の小田原城包囲戦では北条氏照を破っている。
長篠の戦いで、兄と枕を並べて戦死した。
なお、これによって真田家の家督は三男・昌幸が継ぐ事となる。

真田昌幸(1547〜1611)

幸村の父。 「戦国無双」や「戦国BASARA」などにおける、真田幸村の設定のモデルになったであろう人物の一人。
信玄に小姓として仕え、その才能を愛された。
同輩の曽根昌世と共に、信玄から「我が両眼の如き者」と言われたという。
初陣は1561年・第四次川中島の合戦。
1575年・長篠の合戦で兄を失って後、真田家当主となる。
武田勝頼の下で、上野方面を平定した。
武田家滅亡後は真田家真田家存続に奔走。
その知謀を豊臣秀吉に「表裏比興の者」と評された。

真田幸隆(1513〜1574)

武田家に仕えた三弾正の「攻め弾正」。
総勢40人以上いるw武田二十四将の一人。
六文銭を掲げる鬼謀の軍師で、はじめ海野小太郎。
(真田十勇士の海野六郎はこの海野家の出身)
真田家の開祖で、真田幸村こと信繁の祖父にあたる。
信玄の数少ない敗戦である「戸石崩れ」の翌年、
たったの一日で戸石城を落とすという衝撃的なデビューを果たした。
その後の転戦でも、他の武将なら憚るような謀略を用いて活躍。
上杉謙信にさえ「謀略では真田に勝てない」と言わしめた。
信玄病死に落胆し、後を追うように病没した。

真田幸村(1567〜1615)

武田信玄の愛弟子・真田昌幸の次男。
本名は信繁で、川中島に散った武田信玄の弟の名から。
幸村は良質な資料には記載されていない事から、後世によるものとも。
兄・信之らの証言によれば、無口で人当たりの良い小男だったという。
後世にその評判だけが大きく一人歩きした人物。
1582年の武田家滅亡後、父・真田昌幸は織田家に仕えていた。
本能寺の変で織田家の支配力が弱まった隙に、北条家に身を寄せる昌幸。
だが滝川一益から奪還した沼田城の引き渡しを命じられ、北条家と敵対していた徳川家へ。
ところが北条・徳川間で和睦が成立し、昌幸は微妙な立場に置かれる。
そして1585年には所領関係のいざこざから、徳川家を出奔。
次男の幸村を人質に、上杉景勝に仕えることに。
幸村の初陣は上田城の合戦ともいわれるが、上杉家の人質となっていた時期なので灰色。
(この期間に幸村は直江兼続と出会い、弟分として可愛がられたようだ)
翌年、幸村は豊臣秀吉の要請で上杉家を脱出し、大坂城で秀吉に仕える事となる。
人質の身とは言え、その才能と人柄を秀吉に愛された。
初陣だと思われるのは1590年の小田原攻め。
24歳の、かなり遅い初陣であった。
1594年には、秀吉に豊臣姓を下賜される。
石田三成の盟友・大谷吉継の娘を娶ったのも丁度この頃。
(なお、妹の夫は三成の正室の兄弟)
その縁で、1600年の関ヶ原では父と共に石田三成の西軍に参陣。
家康の三男・秀忠を上田城で迎え撃ち、結果、秀忠は関ヶ原に遅参。
家康の怒りは凄まじく、昌幸・幸村は切腹を命じらた。
これを救ったのが、兄の信幸。
己の命と換えても良いと、義父・本多忠勝と共に父弟の助命を嘆願した。
そのかいあって、昌幸・幸村は紀州高野山へと配流。
命だけは救われた事になる。
翌年、高野山麓の九度山に屋敷を建てて移住。
信之(関ヶ原の後に改名)の仕送りもあって、穏やかな日々を送っていたようだ。
とは言え、配流の身の寂しさが消える事は無かったのだろう。
兄・信之に宛てた手紙には、配所で老いる侘びしさが綴られている。
そして1614年。
屈指の徳川キラーとして名高い真田家の幸村の元を、豊臣秀頼の使者が訪れる。
数えで48歳になっていた幸村は、死に花を咲かせる覚悟で大坂城への入城要請を承諾。
大坂城の南に出丸(真田丸)を築き、奮戦。
翌年の夏の陣では、赤備えを率いて家康を脅かす。
家康本陣を三度に渡って強襲するも、幸村は念願果たせず銃弾に倒れた。
「古今これなき大手柄」
「日の本一の兵」
「ためし少なき勇士」
死後は英雄として讃えられ、武勇談が長く語り継がれる事となる。
文字通り、最期に死に花を咲かせたのだった。

柴田勝家(1521?〜1583)

通称「瓶割り柴田」。
織田家随一の猛将で、信長四天王筆頭。
信長の父・信秀に仕え、信長の弟である信行の傅役(主君の子の世話役)として仕えた。
信行の求めに応じて信長に反逆したが、戦いに敗れて降伏した後は信長に忠誠を誓った。
清洲会議では秀吉と対立し、信長の三男・信孝の勧めで信長の妹・お市の再婚相手となる。
賤ヶ岳の合戦での敗北後、お市をはじめとする愛妾を全て斬り殺して自害した。

島左近(1542?〜1600)

勝猛。
筒井順慶の重臣。
筒井家を辞した後、羽柴秀長に仕える。
その後、石田三成に棒禄の半分である1万5千石で召し抱えられた。
通称は「鬼左近」で、関ヶ原の合戦において石田隊の先鋒として奮戦。
東軍諸隊の猛攻を良く支えるが、黒田長政隊の銃撃に遇った。
そして討ち死にしたとも生き延びたとも伝えられる。

島津家久(1547〜1587)

島津貴久の四男で、義久らの弟。
合戦では兄弟最強を誇り、通称「兵術の家久」。
三千の兵で六万の龍造寺軍を破るなど、その軍功は数知れない。
九州征伐においても大友家を相手に激戦を繰り広げたが、羽柴秀長が日向に侵攻して来ると降伏した。
その時の秀長との会見直後に急死。
一説には毒殺されたのだと伝えられる。

島津歳久(1537〜1592)

島津貴久の三男で、義久・義弘の弟。
通称「知謀の歳久」。
秀吉の九州征伐に抵抗し続けた豪傑。
弓矢での秀吉狙撃。
第二次朝鮮出兵への出陣拒否。
一揆の決行。
これらが秀吉の逆鱗に触れ、竜ヶ水で自刃した。

島津義久(1533〜1611)

島津家十六代当主。
幼い頃は気が弱く「不肖の孫よ子よ、愚弟賢弟の生きたる見本よ」と周囲を嘆かせたという。
父・貴久の悲願を奉じて、薩摩・大隈・日向の三州統一を果たした野望の士。
更に有能な弟達や家臣団を率いて、疾風怒濤の快進撃を続ける。
耳川で大友宗麟を破り、島原で龍造寺隆信を破った。
九州全域の統一は間近であったが、外交上手の宗麟が呼んだ秀吉の軍勢に敗れる。
義久は血気盛んな家中の反対を押し切り、秀吉に降って島津家滅亡の危機を救ったという。
後に弟に家督を譲って隠居し、関ヶ原の合戦後は徳川との交渉に当たった。

島津義弘(1535〜1619)

義久の弟で、十七代当主。
もっとも、実質的は家督を継いではいない。
通称「武略の義弘」。
その武略と豪勇ぶりで名を馳せた、直情果敢な猛将である。
九州統一をほぼ実現できたのも、この義弘の武略によるところが大きい。
また、時勢を見定める事が早かった。
秀吉の九州遠征軍の到来。
その先鋒・羽柴秀長を打ち破って見せながらも、勝機が無い事を見切って降伏した。
結果、義久は薩摩を、義弘は大隈を安堵される事となる。
後に朝鮮の役にも参加し、抜群の戦功を挙げた。
その武名は明国にも鳴り響いたという。
関ヶ原では東軍につこうとするも、家康の腹心・鳥居元忠がこれを拒否。
やむなく西軍につく。
義弘は兵を動かさずに戦況を見ていたが、小早川秀秋の裏切りによって西軍の敗色が濃くなると、わずかな兵で敵軍の中央を堂々と突破して見せた。
これが世に言う「義弘の敵中突破」である。

鈴木佐大夫重意(?〜1585)

雑賀孫市とされる人物の一人。
当時の三大鉄砲生産地、紀伊雑賀の傭兵集団「雑賀衆」を率いた。
石山合戦では本願寺に味方するが、豊臣秀吉の紀州征伐にあい降伏。
藤堂高虎に欺かれ、自刃した。

鈴木孫市重兼(1540?〜1589)

佐大夫の嫡男。
病弱だったとも言われ、主に政治面で活躍。
反目し合う傭兵集団の間で調整役を務めた。
秀吉に降参したのち、平井孫市を名乗る。

鈴木孫一重秀(1546?〜1585?)

雑賀孫市とされる人物の一人。
一千単位の鉄砲衆を統率する鉄砲の名手であり、また雑賀水軍を率いて織田信長を苦しめた。
ただ重秀は熱心な一向宗徒ではなかったらしく、1577年の紀伊雑賀討伐であっさりと降伏。
重秀は頭領の座を追われ、歴史の表舞台から姿を消すのだった。
雑賀孫市の名を返上した鈴木重秀は、旅先で病死したとも秀吉に仕えたとも伝えられる。

鈴木重朝(?〜1623?)

雑賀孫市とされる人物の一人。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、鳥居元忠を討ち取るなど多大な戦功を挙げた。
敗戦後は所領を没収され、浪人。
客分として伊達政宗に身を寄せ、鉄砲騎馬隊の創設に協力した。
のちに政宗の紹介で水戸徳川家に召抱えられ、大坂夏の陣では旗本鉄砲隊を率いる。
しかし政宗の鉄砲騎馬隊ともども、大坂五人衆・真田幸村の前に手痛い打撃を被った。

曽根昌世(?〜?)

武田の軍目付。
武藤喜兵衛(後の真田昌幸)と共に、信玄に「我が両眼よ」と謳われた天才。
武田家滅亡後は徳川家に仕えた。