ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。
武田四名臣。
多くの功名に輝く歴戦の勇者で、信玄の弟・信繁死後は武田家の副将となった。
個人の手柄を取り沙汰するのは無価値と、感状を一度も受け取らなかった大人物である。
長篠の合戦で討ち死に。
徳川十六神将。
徳川軍きっての弓の名手。
那須の与一もかくやという達人。
ちなみに那須の与一と同様の逸話がある。
上杉四名臣。
謙信の父・長尾為景の代からの重臣。
若き謙信の片腕として活躍した。
幼い頃から上杉景勝に仕え、仁義と知謀を誇った名将たる愛武者。
軍神・上杉謙信の後継者。
日の本一の兵・真田幸村の兄貴分。
天下人・羽柴秀吉のお気に入り。
天下の傾奇者・前田慶次が惚れた男。
独眼竜・伊達政宗の宿命のライバル。
そして石田三成の盟友といった評を一身に受ける器量人。
旧名は樋口与六。
あの巴御前の兄、木曽義仲四天王・樋口兼光の子孫と伝えられる。
語り継がれる所に拠ると背が高いモデル級の逞しいイケメンだとか。
加えて高い学力と明晰な頭脳を持つ、天下人になってもおかしくない文武両道(どちらも一級品)の名将であり智将。
上杉謙信の姉・千桃院に気に入られ、その息子である景勝の御学友に抜擢される事となる。
永禄11(1568)年。
与六8歳、景勝13歳の日の事であった。
与六は景勝に良く仕え、二人の信頼関係は終生に続く事となる。
無口な景勝。
弁の立つ与六。
「主従が入れ替われば天下も取れよう」と評される二人であったが、与六はあくまでも景勝の忠実な右腕であり続けた。
天正9(1581)年、直江景綱の娘・船と結婚。
ここで初めて、直江兼続となった。
慶長5(1600)年には世に名高い「直江状」で、関ヶ原の合戦のゴングを打ち鳴らす。
「最上記」に曰く、「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」
羽柴秀吉の母。
織田信秀の足軽であった木下弥右衛門に嫁ぎ、長女・ともと長男・日吉丸(後の秀吉)を産む。
夫との死別後は筑阿弥と再婚し、次男・小竹(後の秀長)と次女・朝日(旭)姫を産んだ。
秀吉の関白就任によって「大政所」と称される。
豊臣五奉行。
初めは丹羽長秀に右筆として仕え、有能な官吏「天下無双の算術」と称えられた。
長秀死後、天下人・秀吉の吏僚となる。
「太閤検地」を担当するほか、九州遠征・小田原征伐・朝鮮出兵といった大作戦の兵站を担当。
計数の才を縦横に発揮した。
関ヶ原の合戦では西軍に属すが、裏切った吉川広家に阻まれて戦闘を行えず水口城に帰還。
敗戦後、開城して自刃した。
智某・勇猛・博識と、三拍子揃った稀代の名将。
二度に渡る大友宗麟の肥前侵攻を食い止め、六万余の大友軍の包囲を僅か800の兵による夜襲で撃退した。
沖田畷にて主君・隆信が死ぬと、徐々に龍造寺家の実権を握る。
やがて主家に取って代わり大名となった。
織田家にとっての豊臣秀吉のような存在である。
龍造寺に成松信勝ありの武名を馳せた、龍造寺四天王の一人。
1570年の今山合戦で決死の夜襲隊に参加し、敵大将・大友義貞の首級をあげた龍造寺の救世主。
その後も獅子奮迅の活躍をするが、1584年の沖田畷で隆・信討死の報を聞くや、群がる島津兵の真っ直中に突入。
隆信の後を追って討ち死にした。
義久の側近であり、島津家になくてはならない四人の一人。
単なる武将の枠を越えた、知勇兼備の人であった。
通称「鬼武蔵」。
九州征伐の折には、義弘の撤退命令に「ここで降っては薩摩に男がいないと笑われる」と反対。
この態度が秀吉を感服させている。
後に朝鮮に出兵した義弘に所領の留守を一任され、出兵中の義弘と和歌を交わしたという歌人でもある。
通称「米五郎左」。
信長四天王の一人で、柴田勝家に並ぶ織田信長軍団のツートップ。
(ちなみに「羽柴」は「丹羽」と「柴田」である)
ある特定の方面のスペシャリストではなく、何でもこなせる応用範囲の広い万能の人であった。
最も信長の信頼篤く、二代に渡って信長が娘を与えた唯一の武将である。
野心のない温厚な人物で、本能寺の変の際には大坂にいたにも関わらず秀吉に手柄を譲る。
徹底した実力主義という信長の遺志に従ってか、信長の幼い嫡孫を擁する「下心丸見え」の秀吉を支持した。
羽柴秀吉の正室。
織田家に仕えたばかりの秀吉に嫁ぎ、その出世を内助の功で支えた。
秀吉の関白就任にともない、従三位に叙されて「北政所」と呼ばれる。
実家の木下家が忍者の名門と同姓であるため、夫と同様に忍者説がある。
本名は帰(奇)蝶。
美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の娘で、明智光秀の従妹にあたる。
織田信長の正室。
婚礼に際して父・道三は濃姫に懐刀を手渡し、
「信長が評判通りのうつけであれば殺せ」と命じた。
しかし濃姫は「うつけでなければこの刃先が父上に向くかもしれませんよ」と答えたという。
その後、織田家での記録は残されていない。
子がない上に道三死後は政治的な価値をなくして離縁されたとも、
本能寺の変にて夫・信長と運命を共にしたともいわれている。
一説には安土殿という信長の寵愛を受けたであろう女性と同一人物とされ、
その晩年を信長の次男・織田信雄の下で過ごしたとされる。
信雄は嫡男・織田信忠と同腹の子であるため、
子がない濃姫は信忠を養子として育てていたのだろうと推測されるのだが。