ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。
徳川十六神将。
桶狭間の合戦では丸根砦攻めに加わる。
三河一向一揆で家康に敵対するも、後に許されて帰参。
吉田城攻めにて本多忠勝と先陣争いをした末に討ち死にした。
「鬼の半蔵」。
徳川十六神将。
本名は正成。
藤林・百地に並ぶ伊賀上忍三家の一つ、服部の宗家を半三保長の五子でありながら相続する。
兄弟達の中で、最も「槍が」得意だったからだ。
1562年の三河上ノ郷攻めで初陣を飾り、その功名で家康から槍一筋を賜った半蔵に父・保長は言った。
「透波や乱波はワシ一代でとどめ、お前は槍働きで御奉公せよ」
この時代、忍者の仕事は槍働きよりは一段下に見られていたのである。
父の期待に応え、半蔵は「武士として」姉川・三方ヶ原などに参戦。
「鬼半蔵」と武勇を称えられた。
ところが運命の1582年。
「伊賀越」にて伊賀忍者を先導して家康を助けてしまい、この活躍が災いして伊賀忍者200人の頭領に任命されてしまう。
「鬼半蔵」は影働きに逆戻りし、知行も8千石と十六神将では最低格の扱いにとどまった。
ちなみに息子の正就は家康の異父妹を娶っているので、半蔵は家康と同い年の「義叔父さん」にあたる。
武田四名臣。
武田家三代に仕えた重臣で、勝頼の代には譜代家老筆頭格となった。
「鬼美濃」原虎胤の薫陶をうけ、四十年にわたる戦歴において無傷の戦巧者に。
その通称は「不死身の鬼美濃」である。
長篠の合戦で討ち死に。
甲陽五名臣。
通称「鬼美濃」。
もと千葉家臣だったが、18歳のときに武田信虎に仕える。
38度の合戦で53ヶ所の傷跡を残した歴戦の勇者。
しかしながら残忍な猪武者ではなく、負傷した敵将を敵陣に送り届ける情けも持ち合わせていた。
「いくさ」に美学をもって臨んでいた快男児である。
後に宗教上の理由から信玄と袂を分かち、北条氏康に仕えるも結局は武田家に帰参した。
ちなみに今川義元と「花倉の乱」で争った、今川家重臣・福島正成を討ったのは虎胤である。
(福島正成は「北条イエロー」北条綱成の父)
信虎・信玄の陣馬奉行を務めた。
1542年の瀬川合戦で作戦を立てたらしい。
身重の妻が死んで黄泉がえり、死人ながらも男子を産んだという伝説がある。
これが下に述べる原隼人こと昌胤である。
昌俊の子。
上記した「ゾンビの子」である。
父と同様に陣馬奉行を務め、信玄から絶大なる信頼を置かれた。
戦闘に直接加わることは少なかったが、長篠の合戦では120騎を率いて突撃を敢行。
銃弾の雨を浴びて壮絶に散った。
元親・盛親の二代に仕えた重臣。
長宗我部家臣団の筆頭的存在であった。
機知に優れた軍略家で、元親の信頼も厚かった。
関ヶ原の戦後、長宗我部家滅亡の要因となった家中騒動を起こしてしまう。
保身の術に長けた男で、その後は肥後の加藤家に仕官している。
後世に「奸臣」の名を残しながら。
是吉とも。
海尻城二ノ丸守将や、深志・伊那大島を務めた。
武田家滅亡後に自殺している。
ちなみに妾腹の娘は徳川家康嫡男・信康の愛妾で、「築山殿事件」の発端となる人物である。
徳川十六神将。
家康が今川家の人質であった頃からの遊び相手。
その後も家康に付き従い、多くの戦に参加した。
家康の嫡男・信康の傅役となるも、武田方と内通したとして謀殺された責任を感じて自己謹慎。
(ちなみに、この際に信康の介錯を務めたのが服部半蔵。半蔵は号泣して任務を果たせなかったという)
後に家康の度重なる出仕要請に応えて復帰。
家康の八男・仙千代を養子として迎える約束をするなど、家康からの並々ならぬ信頼が伺える。
(仙千代が夭逝したために果たせなかったが)
その後、家康の九男・義直の傅役となった。
伝説的な忍者集団・相州乱破風魔一党の頭領。
風魔一党の頭領は代々「小太郎」を名乗るが、いずれも容貌魁偉な大男であったという。
北条氏の勃興時に雇われて以来、情報収集や敵地撹乱に奔走して北条五代の治世を支えた。
秀吉の小田原遠征で北条家が滅びると、家康着任後の江戸に入る。
盗賊として開発途上の江戸の町を騒がせた。
賤ヶ岳七本槍の筆頭。
羽柴秀吉の年の離れた従弟。
9歳の時に加藤虎之助(清正)と共に秀吉に預けられる。
幼い頃から怪力の持ち主で、とにかく戦場では先頭をきって敵陣に突撃する猛将であった。
秀吉の死後、石田三成をはじめとする吏僚派と対立。
関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し、多くの武将を東軍に呼び込むきっかけをつくる。
明智五宿老。
山崎の合戦に際し、筒井順慶の説得に当たるも失敗。
本陣右備を務め負傷し、淀まで退却するも自刃した。
本能寺で織田信長に槍をつけた明智三羽烏。
明智家滅亡後、諸家に仕えたとされるも不詳。
美濃三人衆の「+1」である「美濃四人衆」の四番目。
のち、府中三人衆。
信長上洛に際しては、足利義昭を迎える使者となる。
その後、柴田勝家の与力となった。
氏康の三男で、武蔵滝山城主。
北条軍団の中心的存在。
兄・氏政の片腕として軍事・外交に活躍した。
秀吉の小田原攻めに対しては弟・氏邦と共に徹底抗戦を主張。
家中随一の戦上手であったが、敗戦後に自刃した。
氏政の嫡子で、北条の五代目。
1580年に家督を継ぎ、北関東制圧に着手した。
秀吉の天下が目前に迫ると、伊達・徳川と結び、これに対抗。
再三の上洛命令を無視したために小田原の役を招いた。
戦後、自刃を申し入れるも許されず、高野山に追放される。
ほどなく病死した。
通称「相模の獅子」。
関東に北条王国の金字塔を打ち立てた名君。
合戦において一度も敵に背を向けず、傷跡は全て向かい傷であったという剛胆な男。
上杉謙信・武田信玄と互角に渡り合った稀代の名将である。
また温厚で寛大な人柄と卓越した民政手腕により、家臣はおろか領民にまで慕われた。
内政面では検地の早期実施。
軍政面では堅固な支城情報網の構築。
綿密な家臣団編成に力を注いだ。
氏康が家督を継いだのは1541年。
西の駿河に今川義元。
北の甲斐に武田信玄。
海の向こうには里見義堯。
関東が風雲急を告げていた時代である。
後に河越夜戦の勝利により関東における優位を確立。
武田・今川と婚姻による三国同盟を結び、いよいよ関東の完全制圧に王手をかける。
その前に立ち塞がったのが上杉謙信。
両者の激闘は20年の長きに渡る事になった。
しかし信玄が三国同盟を破棄すると、仇敵であった謙信と手を結ぶ。
1571年に病没した。
氏康の嫡子で、北条の四代目。
偉大過ぎる父に対して、無能や凡庸という評価が多い。
大局を見極められず、秀吉の実力を甘く見ていた。
筆頭家老松田憲秀の秀吉への内通を許してしまう。
1590年の小田原攻めで北条家を滅亡させてしまったために、「ダメなお坊っちゃま」感は拭えない。
しかし実際には家中を巧みに統率して、徳川・上杉ら強敵と互角以上に渡り合っている。
不敗の名将であった父の影に埋もれているが、名君であった。
「槍弾正」。
信濃の国人。
武田家に臣従し、高遠城の城主となった。
信濃方先方衆として活躍。
後に徳川家臣となる。
明智光秀の盟友。
「古今和歌集」の奥義継承者である知性と教養の人。
足利義昭。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康。
目まぐるしい交代劇の中で、常に敢てナンバースリー以下に徹して生き抜いた強かな男。
武将としての能力も決して低くはない。
信長さえも一目置いていた。
黒づくめの装いは、無害さを印象付けるためだとか。
「能ある鷹は爪を隠す」という言葉が、ここまで似合う人間は他にいまい。
山崎の戦いでは、先を見越して光秀の誘いを断った。
戦後、髪を切って幽斎と号す。
阿国の愛人・名古屋山三郎とは懇意にしており、彼を賛辞する歌を残している。
「かしこくな 身をかへにける うす衣 錦にまさる すみそめのそて」
本願寺十一世当主。
正親町天王により門籍に列せられ、世俗的には最高位の寺格を獲得。
キリシタンを保護する織田信長と徐々に対立し、西暦1570年に徹底抗戦を宣言する。
武田・浅井・朝倉・三好ら諸大名による信長包囲網。
畿内・濃尾をはじめとする一向一揆の高揚。
この二つの輪を繋ぎ、信長を追い詰めた。
しかし巻き返され、1580年には全面降伏という形で和睦。
各国の国人門徒は必ずしも納得せず、顕如は地方門徒を抑えるため各地を転々とすることとなった。
徳川四天王随一の武辺者で、徳川譜代の名門。
桶狭間における12歳の初陣から関ヶ原まで、生涯57回に渡る戦で一度も手傷を負わなかった剛の者。
ちなみに愛用していた具足は、動きやすさを重視した軽い造りのものであったという。
無類の戦上手で、常に合理的・現実的な判断を下していた。
無謀と勇気の違いを知る顕著な例であろう。
1572年の一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿軍を務めて武田軍を一手に引き受ける。
この戦いの後、忠勝の武名は一挙に高まった。
「家康ニ過タルモノハ二ツ有、唐ノ頭ニ本多平八」
その後、長篠の戦いでは武田四名臣・山県昌景を討つ。
長久手の戦いでは3万8千の秀吉軍を僅か5百で牽制する。
武勇談の枚挙にはいとまがなく、織田信長に「花実兼備の士」と称えられた。
「東国に本多忠勝あり、鎮西に立花宗茂あり、ともに天下一双の勇士なり」
豊臣秀吉にも、源義経の忠臣・佐藤忠信の兜を与えられた。
こうした合戦の強さにばかり着目しがちだが、忠勝の真価は謀る事もできる「花実兼備」の万能さにある。
関ヶ原の合戦では井伊直政と共に、西軍の毛利輝元の買収工作にあたって成功を収めている程だ。
他にも東軍の外様大名を統率するなど、その活躍の幅の広さには計り知れないものがある。
得物は御存知「蜻蛉切」。
柄の長さ一丈三尺(約390cm)、刃の長さ一尺四寸二分(約43cm)。
全長4mを越す長槍で、天下三名槍の一つに数えられる。
当然ながら重さも凄まじいもので、晩年は老体の衰えを意識してか柄を三尺ばかり切り捨てた。
これもまた、合理性に基づいた実践論である。
ちなみに愛馬は「三国黒」という名馬だが、関ヶ原で戦死した。