ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。
豊臣五奉行。
かつては比叡山延暦寺の僧であった。
還俗して織田信忠に仕え、本能寺の変の際には信忠の嫡子・三法師(秀信)を守る。
その後、豊臣政権下では京都司代を務めた。
関ヶ原の合戦では西軍に属したものの、三成の挙兵を家康に通報する事で所領を安堵される。
前田慶次の義理の叔父。
信長親衛隊たるエリート集団「赤母衣衆」が一。
のち、府中三人衆、豊臣五大老。
傾奇者として名高く、若き日は6メートルの槍を持ち歩いていたという。
後年の出世武によるものではなく、常に仲間内でのケンカを宥める穏和な人格による所が大きい。
若き日にヤンキーぶりがたたってリストラされ、その後の貧乏暮らしでマジメなサラリーマンに更正したのだ。
ちなみに貯金が趣味で、それを嫁さんのまつに説教されている。
豊臣秀吉政権では、秀吉の片腕として尽力。
「百姓あがり」と侮られがちな秀吉を支え続けた。
剣聖・塚原卜伝の弟子。
無双の怪力で刀槍の代わりに約3mの木杖を振り回し、「鬼真壁」と恐れられた。
佐竹義重の盟友であり家臣。
豊臣五奉行。
近江出身で、秀吉に仕えて官吏として才能を発揮した。
石田三成らと共に検地奉行を務め、後に長束正家と天下の財政や知行割を司る。
朝鮮出兵には三成と共に軍奉行として渡鮮。
行政・軍務を掌握するが、諸大名との軋轢を生む。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、所領を没収された。
その後、子の盛次が大坂の陣で豊臣方についたため自害。
豊臣五大老・前田利家の従妹であり正室。
前田慶次の義理の叔母にあたる人物で、ねねとは家族ぐるみで付き合っていた親友。
聡明で教養深く、武芸もたしなんだ才色兼備の女性である。
豊臣秀吉に続いて夫の利家が没し、乱れようとしていた天下を収めるべく自ら徳川家康の人質となった。
右近。
筒井順慶の重臣。
島左近と共に「筒井の右近・左近」と呼ばれた。
後、筒井氏が伊賀に移ると名張城主となった。
徳川十六神将。
松平元康(徳川家康)の従弟。
母の再婚相手が酒井忠次であるため、酒井軍に属する。
四天王と同格の扱いを受けており、嫡男が死去した後は家康・六男の忠輝を養子とした。
徳川家康の従弟で、通称は「鬼日向」。
命名の由来は「戦に勝つなり」とのことらしい。
気性が激しく、大将でありながら一番槍を挙げるなど破天荒な豪傑。
(大将が最前線に飛び出すのはゲームと勝成だけw)
こうした行いが原因で西国を放浪したり、西国に左遷されたりと西国と妙に縁のある困ったちゃん。
同じく諸国を放浪したという明智光秀を敬愛しており、諸将が忌み嫌う「日向守」という官職を進んで受け取った。
あまりに徳川の貴公子として「ありえない」経歴から、実は西国を探る家康の密偵であったのではないかとも言われる。
宮本武蔵との交友篤く、一説に武蔵は大坂の陣で勝成の軍にいたそうな。
(ちなみに東軍)
初陣は1581年の高天神城攻め。
1584年の小牧長久手の戦いにおいて、父・忠重と喧嘩した末に家臣を斬り捨てて勘当。
以後、長く放浪生活を送ることとなる。
まずは豊臣秀吉に仕え、雑賀攻めや四国征伐に従軍。
その働きで摂津700石を領するも、「うちのしつけに邪魔せんといてや〜」という父・忠重の横槍で豊臣家から追放。
西国へ流れ、美作で野武士と行動を共にした。
しかしながらやっぱり喧嘩してこれを斬り捨て、出奔。
次に仕えたのは佐々成政だったが、成政は後に切腹。
それから黒田長政に仕えるも、例によって喧嘩の末に出奔。
最終的に三村親成の下に身を寄せ妻を娶る(孕ませる)も、やっぱり茶坊主を斬り捨てて出奔。
1598年に家康らの仲介で父・忠重と和解し、1600年には家督を継いで関ヶ原に従軍。
大坂の陣では大手柄を立てるも、例によって「大将が一番槍」をやらかし左遷。
その後は西国への睨み役として備後福山を与えられ、初代藩主としてこれを良く治めたという。
(現在の広島県福山市)
晩年には激しい気性も長年の苦労で丸くなり、名君であったそうな。
明智五宿老。
明智光秀の流浪時からの家臣。
家康上洛時には光秀と共に饗応を務め、山崎の合戦後には光秀の介錯をしたと伝えられる。
その後、自刃した。
本能寺で織田信長に槍をつけた明智三羽烏。
山崎の合戦後、羽柴秀長家臣を経て紀州の浅野家に仕えた。
剣だけでなく人生をも極めた大剣豪。
十手の使い手であった新免無二斎の子として、美作(播磨とも)に生まれたとされる。
(異説あり)
12歳にして有馬喜兵衛をパワーボム(笑)で破り、これを皮切りに様々な剣士と試合を重ねて全勝。
28歳の時には、かの有名な厳流島の決闘で佐々木小次郎を破っている。
これ以後は各地を転々とし、剣の探求を行いながら仕官先を求めた。
しかし、仕官するにあたって要求した知行は1000石以上。
これが剣術指南としては平均の5倍に相当し、剣術家としての武名は高かったにしても吹っかけ過ぎだった。
また「勝つためには何でもやる性格」が、戦国乱世の終わった時代に登用を躊躇わせたのだろう。
武蔵が紆余曲折を経て細川忠利に客分として招かれたのは、漂泊の日々が30年に達せんとする1640年の事だった。
この年、56歳。
61歳で没する5年前の晩年である。
それから武蔵は勝利ではなく剣理を追い求め、安住の地にて様々な絵や兵法書を残した。
その中の一つが有名な「五輪書」であり、現在でもビジネスマン必読の書として国内外で愛読されている。
武藤喜兵衛こと真田昌幸の養父。
今福浄閑斎・桜井信忠と共に公事奉行を務めた。
まず今福浄閑斎が荒く裁き、次いで桜井信忠が慈悲に裁く。
更に武藤常昭が理で、今井信衡が理非で裁いたそうな。
ちなみに昌幸が後継していた時期もある。
(真田昌幸・曽根昌世・三枝守友・今井信衡)
武田家滅亡後は徳川家に仕えた。
能島村上水軍の長。
厳島の合戦以来、毛利家の傘下に入る。
隆景に属して毛利水軍の中核をなした。
織田水軍300隻を打ち破り、村上水軍の名を天下に轟かせた。
豊臣五大老。
徳川家康・前田利家に続くナンバースリー。
元就の嫡孫。
早世した毛利隆元(元就の嫡男)の嫡子である。
偉大すぎる祖父。
有能すぎる叔父たち。
この3人と比較され、「覇者の器ではない」とあげつらわれるのも致し方なし。
御人好しな性格が災いし、関ヶ原では西軍の総大将に祭り上げられる。
御存知のように、西軍は敗北。
120万石の大身代が37万石に減封された。
通称「羽州の狐」。
伊達政宗の叔父であり、永遠のライバル。
父を脅かして家督を奪い、武勇を誇る出羽の荒武者。
あらん限りの謀略・激戦を通じて、出羽一帯を平定した。
時の権力者には徹底して恭順の意を示し、抜け目のない強かさを見せつけている。
政宗も、この叔父の男振りに多大な影響を受けたらしい。
蘭丸の末弟。
幼名は仙千代。
実は3人の兄達と同様に、小姓として信長に仕えてはいたのだが・・・。
1582年、春。
信長の眼前で先輩をボコにし、親元に帰される。
不幸中の幸いと言うべきか、この不祥事で本能寺の変を免れた訳なのだが。
長可の死後は家督を継ぎ、後に羽柴・豊臣姓を名乗る事を許される。
1600年には川中島へ移封。
かつて長可が上杉景勝を睨んだ海津城で、忠政は真田昌幸の上田城を見張る事になった。
関ヶ原では真田攻めに従軍している。
後に大坂の陣にも出陣した。
ちなみに、死因は食中毒である。
力丸。
森可成の五弟。
三兄・蘭丸らと共に織田信長の小姓を務め、本能寺の変で討ち死にした。
坊丸。
森可成の四弟。
三兄・蘭丸らと共に織田信長の小姓を務め、本能寺の変で討ち死にした。
織田信長嫡男・信忠の右腕的存在。
蘭丸の次兄。
通称「鬼武蔵」。
織田信長に「武蔵坊弁慶の再来」と呼ばれた剛将。
1570年に相次いで討ち死にした、長兄・可隆と父・可成の跡を12歳で継ぐ。
初陣は16歳。
1574年の長島一向一揆であり、信忠と共に一揆の平定に当たったのだが・・・。
「川向こうの敵ウザイ」という信忠の独り言を聞いて、長可は単身で川を越えて敵陣に一番乗り。
この単身で勝手に突撃する癖は終生続き、何度も信忠の待機命令を無視しては信長に大目玉を食らった。
1582年には信忠軍団の主力として、武田家滅亡に功あり。
24歳にして、上杉家への防壁である川中島を任せられた。
その後、本能寺の変が勃発。
長可は弟達の仇討ちに燃え、川中島を引き払うも時既に遅し。
義父・池田恒興に従い、秀吉の傘下に入る事となる。
その際に、織田信孝の人質となっていた末弟・仙千代を救うべく岐阜城に潜入。
(難攻不落の稲葉山と呼ばれた岐阜城である)
足枷を力任せに外し、1584年の小牧長久手の合戦にも参加した。
例によって無謀な突撃を敢行したが、戦国末期には最強を誇る徳川軍には歯が立たない。
あっさり敗北してしまった長可は、心機一転して死装束を鎧の下に着込んで再出撃。
純白の死装束が目立ちまくって、鉄砲で眉間を撃ち抜かれてしまった。
遺言の解釈は諸説あるが、「娘のこうは医者の嫁にするべし」というのが通説。
ちなみに徳川家康は長可を「一騎当千」と評しており、関ヶ原での合戦においては、
「あの鬼武蔵を破った我らが、石田や宇喜多などに敗れるはずがない」と豪語したという。
森蘭丸の父。
織田信長の股肱の臣だが、その前歴には諸説ある。
1565年に金山城主、1570年に宇佐山城主となる。
宇佐山は京への道を確保する重要拠点。
当然ながら激戦区で、真っ先に浅井・朝倉連合軍の標的となった。
連合軍2万8千。
可成の軍は3千。
何と可成は僅か500の兵を率いて突撃。
当然ながら討ち死にした。
ちなみに宇佐山城は明智光秀に与えられ、蘭丸と光秀の不和の原因になったともいわれる。
正しくは“乱”丸で、“蘭”は後世の当て字。
織田信長の小姓というイメージが強いが、晩年には成人し森成利を名乗って奉行職を務めた。
近江500石、のち岩村城主。
なお元服の際に信長は“信”の諱を与えようとしたのだが、謙虚な蘭丸は辞退し森長定を名乗ったという逸話がある。
(“信”は織田家代々の諱で、信長個人の“長”より位が高い。
前者に徳川信康・長宗我部信親など大名の子息、後者に前田利長・森長可などお気に入りの家臣の子息)
逸話の真偽はともかく、それだけ信長に愛された逸材だったのだろう。
本能寺の変に際して信長を守るべく奮戦し、明智三羽烏・安田国継の股間を十文字槍で貫きながら両断された。
仮に信長が天下人となったとすれば、その政権を支える重職についたであろうことは間違いない。
ただし信長の懐刀として織田家臣団に恐れられていた点は、豊臣政権における石田三成となんら変わりがないといえよう。
信長の寵愛を一身に受けたことから美童であったと見る向きもあるが、父・可成をはじめ森一族にはマッチョな武闘派が多い(笑)。
ただし弟達と併せて4人も信長の小姓を輩出しているのだから、美形揃いの一族であった可能性は決して低くない。
信虎の代から武田家に仕えた猛将。
先を読む能力に長け、信玄の立てた計画にかかる日数の目算で活躍。
第四回川中島の合戦で本陣を死守して戦死した。