ここでは戦国時代の人物などを偏った人選で紹介します。
石舟斎の五男。
大和国の一豪族に過ぎなかった柳生家を、大名にまで押し上げた功労者。
徳川家の兵法指南役となり、秀忠や家光に柳生新陰流を伝授した。
明智三羽烏。
後に天野源右衛門と改名。
本能寺の変にて森蘭丸の首級をあげた猛者。
蘭丸の十文字槍に「大事な所」を貫かれながら、右手の刀で蘭丸の体をすくい上げて斬ったのだとか。
後、羽柴秀長・羽柴秀勝・蒲生氏郷に歴任。
九州平定に際して立花宗茂に属して功あり。
その後、肥前の寺沢家に仕えた。
武田四名臣。
信玄・勝頼の二代に仕え、武田家の屋台骨を支えた屈指の名将。
合戦・戦略・外交・治安・内政と、あらゆる面に優れた手腕を発揮した万能のエリートであった。
信玄四天王・飯富虎昌の実弟であり、兄から受け継いだ「武田の赤備え」は武田軍最強を誇った。
長篠の合戦で討ち死に。
武田家滅亡後、昌景が率いた部隊は徳川家に仕官。
徳川四天王・井伊直政のもと、戦国末期最強の部隊となる。
甲陽五名臣。
謎の天才軍師(笑)。
江戸時代には実在すら危ぶまれていたが、取り敢えず昭和44年に実在は『ほぼ』証明されている。
おそらく真田幸村と同様にイメージが一人歩きした人物だが、武田信玄の優秀な側近であったことに間違いはないらしい。
第四回川中島の合戦で「きつつき戦法」を考案。
しかし上杉謙信に見破られ、逆に武田信繁ら有力な武将が次々に討ち死にする。
これに責任を感じ、捨て身で上杉軍に突撃。
そのまま討ち死にした。
ちなみに「山勘」の語源となった人物である。
甲陽五名臣。
伊勢の出身で、甘利虎泰配下の足軽大将を務める。
敵の先手を打つ戦術に優れていた。
上田原の合戦で討ち死に。
信玄の代には旗本五人衆に数えられた剛の者。
若年であった甘利昌忠を甘利衆の同心頭として補佐した。
青竹を重ね油を塗って作る、対飛び道具の盾「竹束」の考案者として知られる。
これは中国のものであるため、おそらく兵法書に通じていたのだろうとのこと。
長篠の戦いで戦死した。
徳川十六神将。
忠勤一筋ながらも弱視というハンデを持ち、1564年を境に史料からは姿を消している。