10 社会契約論と資本主義
社会契約論は、市民革命前の啓蒙思想期に自然法理論として成立した。その考えの
基本は政治国家存立の基盤は自由な諸個人の権利(生命、自由、財産等の自然権)を
守るための契約にあるとするものである。その第一人者ホッブスは、「平等から不信が
生じ、不信から戦争が生じる」(『リバイアサン』第13章)と述べているが、この戦争状態
をなくすために社会契約が結ばれ、絶対王制国家による統治が必要と考える。
周知のようにロックやルソーは、社会契約を市民政府論や人民主権論に発展させ,中
産市民を主体とする市民革命の理論的支柱となり、また近代議会制民主主義の基本理
論ともなっている。このように理性的思考の帰結である自然法を根拠として、自律した
自由平等の諸個人による社会契約が成立するという観念論的法理念が,経験的事
実を超えて自然の法典として永久・不変の法規範とされるのである。
しかしこうした近世啓蒙期の自然法理論は,19世紀の初め,サビニーをはじめとする歴
史法学派によってその非歴史性が批判された。理性の演繹による必然的かつ永久的帰
結とされるものの中に,実際には当時の思想家たちに意識されていた願望や通俗的臆見
が多分に盛り込まれていて,永久・不変のものでないことが明らかにされた。人間は自由
平等なものとしてはこの世に存在していない。
経済学においても、古典派経済学(A.スミス)は、個人主義に立脚し,諸個人がみずか
らの利益のみに関心をもちそれを追求すれば,かえって社会は調和に導かれ,ひいては
富の蓄積が進み、人類の幸福がもたらされるとする自然法による普遍主義を唱えた。し
かし、ドイツを中心に起こった国民経済学としての歴史学派は、国民経済を歴史の生成と
変化の相のもとに把握しようとする。歴史学派は国民主義に立脚し,経済社会を一つの
有機体だと考えて,その生成・発展のありさまを理論面,実証面で明らかにしようとしたの
である。またイギリスの功利主義は,自然権のような先験的普遍的なものは存在しないし、
正邪の判断の基準である「最大多数の最大幸福」のために,社会を構成する諸個人の快
楽の総計の確保を求め,社会福祉政策の理論的基礎を作った。
その後の資本主義の発展と社会主義の台頭、福祉国家政策など二度の世界大戦の経
験を経て、自然法や普遍主義は遠ざけられた。新大陸アメリカでは、単純な自然状態の設
定から始まる社会契約説は、人権と民主主義の初歩教材として(『独立宣言』やリンカーン
の人民主権演説等のように)活用されたが,先験的な伝統的哲学と決別したプラグマティ
ズムを中心として様々の政治・経済理論と学派が形成され、学問的には過去の理論とさ
れていた。
ところがそのアメリカに、装いを新たにした社会契約に基づく『正義論』が現れたのである。
近代以降に現れた社会主義に類する理論(空想的社会主義からマルクス主義とその修正
などにいたるまで)は、資本主義の矛盾(人類全体の財産であるべき科学技術と自然の財
産が、一部の人間に独占され、貧富の拡大と社会的対立の温床となったこと)を解決しよう
という正義の理論であった。しかしマルクスは社会主義を科学にしたと思いこみ、正義論を
切り捨ててしまった。そこに、正義論を高く掲げ、「生まれつき恵まれた立場にある人々は、
恵まれない人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利益
を得ることが許される」という「格差原理」を提唱し社会変革の基礎理論としようとした。
ここでロールズを取り上げるのは次の二つの点からである。一つは、社会的公正ないし
正義とは何かを考え、それを「生来の義務」として実践することの必要性を強調したことで
ある。二つには、ロールズが『正義論』において、カントの道徳論の限界を越えられなかっ
たその理由を解明するためである。彼は、後の著作において批判に答える形で軌道修正
をして、功利主義との妥協をはかっているが、根本においてカントの道徳法則を実現しよう
としている。正義は、カント、ロールズが考えるように人間理性を拘束する「所与の法則」(こ
の法則を認識するのが理性の自由である)としてあるのではない。正義は、社会的利害の
調整において、社会的公平さがいかなるものであるかを創造的に思考・判断し、その結果
を力(権力、武力、多数決、説得等)によって実現させるところにある。
カントやロールズの「道徳法則(普遍的立法)」や「格差原理」を、合理的理性によって想
定することは、「理性的存在者は目的自体として存在する」(『道徳形而上学原論』)ことを
前提としており、批判を許さない盤石の前提であるかのようである。
しかし人間とその社会は、理性という人間の思考力を生み出した生物学的前提をもって
いる。人間の思考は、言語的に創造されるものであり、感性的・経験的な過程を経て形成
されるものである。また、社会の利害や組織は人間の思考力(理性)によって一律に規定
されるものでもない。なによりもカントのように「理性的存在者」が規定されれば、それ以外
のものもカントによって他律的に規定されねばならず、それは現実的には他律的共生にな
らざるを得ない。つまい、カントの「理性的存在者」は、人間性の真実(とりあえず感性的・
経験的であること)基づかない観念的に考えられた存在者であるために、自律的・自覚的
な「公正としての正義」の成立する社会構築(社会契約)にはなり得ないのである。
今日の政治理論が自然法に基づく社会契約(マルクス主義を含め社会主義もその影響を
受けている)の理論の影響を強く受けていることはいうまでもない。しかし社会契約論に限
界があることも事実である。われわれは主体性を失わせる西洋近代の社会契約の限界を
克服しなければならない。その根本には自然権、天賦人権等の単純な基本的人権論があ
る。これは「正義論」としてもちろん正しい。しかし人権はこれを正義たらしめるために人間
としての主体的な義務、責任、使命と結合されなければならない。人間の正義は、天や神
が与えたものでなく人間自らが不断に作り出していくものであることの自覚が、新しい社会
契約として推進されなければならないのである。
社会契約は諸個人や政府国家との関係にとどまらない。経済関係の多くは契約関係であ
る。経済と政治についての詳論は後日に行う予定である。