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2 認知と行動の原理──生命の刺激反応性
 生命活動は,基本的には何らかの刺激や変化に対する化学反応である
単細胞生物では刺激を受容すると,それに対し生命的恒常性を維持するように
内的外的活動をするが,それらの連続した過程が生化学反応なのである。この
ような生命の刺激に対する生化学反応は多細胞生物である動物では,神経
系という刺激情報処理構造によっておこなわれることになる

 人間はどのようにして多様な刺激の中から,特定の対象を知覚・認識・判
断して行動しているか
。人間が行動する場合,何に関心をもち,何を目的とし
ているのか,またその場合意識はどのような動きをしているのか。そしてつまる
ところ,そのような問題意識が,言語による疑問(何が WHATどのように HOW,
なぜ WHY あるのか)、その解明である言語表現にどのような関係をもって
いるのか
,というのがここでの問題意識であり,認識論全体の目的である。そ
のことを知るために,まず「欲求を充足するための認識と行動」すなわち「意識的
活動」の原理
が明らかにされねばならない。そのために認識と行動の動因(原
因又は動機づけ)である欲求の分析が必要となるのである。 人間的欲求とそ
の充足において,言語は決定的な役割を担っており,また言語の解明が,
古来の認識論的存在論的難問の解決に到る唯一の
なのである。

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付録

 動物行動のとらえ方

この節では,「生命」という概念を,自己意識をもつ存在である人間を含む「動物」に限定して考える。独立栄養生命としての植物は,環境は問題となるが,行動を問題としないからである。人間と他の動物とは,遺伝子的にも実際の活動においても連続的なものであり,とりわけ哺乳類のうち類人猿においては,人間ときわめて近似のものである。そのため人間性をとらえる様々の理論は,現代の心理学においてそうであるように,動物の行動実験を通じて理論化されてきた。特徴的な理論は,ロシアの生理学者パヴロフの条件反射学を基礎に,アメリカのワトソンによって主張された行動主義心理学である。
 しかし今日では,古典的な行動主義にみられるtimlus(刺激)―esponse(反応)理論による行動様式の学習だけで,動物の行動心理を捉えるのは不十分とされている。そこで新行動主義では,刺激反応過程の中間に生活体(rganism)を考えることが当然とみられ,S―O―R理論として一般化されている。このような新行動主義や,情報の内的処理過程を重視する認知理論,生活体内の動因(動機づけ)を中心にSーRを考えようとする力動心理学などはすべてこの部類に入る。さらにゲシュタルト理論においても全体を重視する立場から,生活体の置かれた全体状況を考慮するところから出発している。なお大脳生理学の著しい進歩は,認識と行動およびその情報処理の過程をより科学的に明らかにしつつある。
 ここでは生活体における認識と行動の動因,すなわち認識・判断・行動の基準(どのような刺激に対して,どのように認識し,何を選択・判断して行動するか)を,「欲求」という概念でまとめる。つまり環境に対する生活体の活動を,以下のように欲求を充足する刺激と反応の情報処理過程としてとらえていく。(「欲求」の概念については西洋的価値観のもとで混乱があり,それ自体学問的考察の対象である。本論では第3節で考察する。)

T.環境(E)―→生活体(O)=欲求(D)―→環境(E)
U.環境(E)→刺激(S)―→生活体(O)―→反応(R)→環境(E)
V.環境(E)→刺激(S)
    ―→受容器(r)→中枢神経(c)→効果器(e)―→
                    反応(R)→環境(E) 
T.は,環境(Environment)と生活体(Organism)の相互関係であり,生活体(O)が環境(E)に対して欲求(Desire)を充足するように行動するのが生命活動であることを表している。
U.は,生活体(O)が,環境(E)から刺激(Stimurus)を受容し,反応(Response)する過程であり,これが一般的な捉え方である。
V.においては,生活体(O)内部の受容器(receptor)→神経中枢(nerve center)→効果器(effecter)の関係を重視して示している。

 この図式で最も重要なことは,行動主義の図式と一見類似しているが,その内容は明確に異なるという点である。行動主義が環境やその刺激に優先性を置くのに対して,われわれの立場は生活体の主体的認識・判断や判断基準としての主体の「欲求」を重視するのである。       行動主義は,実験室で設定される特定の環境刺激に対する反応という考え方を根底に置いている。しかし,主体は,無数の刺激からなる環境から,まず主体の「欲求」が充足されるような特定の刺激を認識・判断する。ついで特定刺激を求める意図や情動が起こり,過去の経験や試行錯誤から欲求を充足させる適応的反応が判断・選択されて行動が生起する。刺激の選択も,反応の選択も共に欲求を選択・判断の基準にしているのであり(これは後に言語認識と文法の基本となる「根源的疑問――何がどのようにあり,どう行動するか」の根拠である),またその基準にしたがって学習(ないし行動様式や価値観)が成立するのである。
 環境という概念は,常に無限の多様性を意味しているということ,そこから生活体の中枢神経における環境に対する認識・判断・選択とそれらの基準となる「欲求」の重要性が浮上してくるのである。
 さて動物や人間が何であるかを知るためには,生きて行動するとはどのようなことなのかを知らねばならない。動物が自然環境の中で行動するには,環境をどのように認識するか,何を内的動因とし外的誘因としているかが理解されねばならない。認識も行動もまず動因すなわち欲求に支配される。動物は欲求に従い,環境を刺激として認識し,反応・行動が引き起こされ,内部環境における一連の連続的過程(生理的,物理・化学的反応)が生起して,生命状態が維持されていく。生命は特殊な環境の中から誕生した。この生命状態の維持のために,環境の変化・刺激に反応し活動しているのが生命なのである。
 このように生活体と環境の関係は,環境から始まる因果関係として理解される。つまり,環境があって生命活動が成立しているのであって,生命活動があって環境(物理化学的刺激)があるのではない。しかし,生命体の内的恒常性を維持するために,外的環境の刺激を受容し活動するという,生命体の主体的積極的な側面も生命誕生と同時に成立している。
 だから,われわれは生命活動の原因ないし動因として,生命状態を維持する原動力としての「欲求」をが抽象化しなければならない。なぜなら,認識論の出発点は,認識や判断の基準としての欲求をどのように分析するかということ,すなわち認識論とは欲求充足における情報処理の過程の理論であって,認識論自体が行動と分離して観念的に独立していることはありえないからである認識とは,無限の刺激をどのように認識し,適応的な行動を判断するかということに他ならないのである。
 ここでは欲求の分析にはいる前に,まず欲求充足の過程すなわち認識・判断・行動の基礎として刺激反応性について述べておく。

 刺激反応性 

(1)化学反応と細胞の刺激反応性
 生命は,すべて物理化学法則にもとづいた活動をしている。生命活動の法則性は,すべて生化学反応から導き出されるものである。その生化学反応は,原子や分子の物理学的レベルから展開しており,今日では分子生物学として研究が進んでいる。生命活動は,数多くの化学反応の連鎖であるが,とりわけ生命法則は,核酸やタンパク質という高分子化合物の性質と密接な関連をもっている。
 そのなかで認識論的な観点からみると,認識や行動の基本原理も化学反応にその起源をもっているといえる。認識の基本は,外的環境の変化や刺激を受容し,それについて的確に判断することである。この過程は化学反応に基礎をもつのである。例えばナトリウムと水の反応から,水酸化ナトリウムと水素が生じる場合を考えてみる。化学式では,

    2Na+2HO = 2NaOH+H
  (物質A)+(物質B) (物質A')+(物質C)

である。ナトリウムを中心に考えると,この反応はナトリウム(物質A)に対して,水(物質B)が作用し反応したものである。水の作用を刺激と考えてみると,ナトリウムは,水の刺激を受けて反応し,水酸化ナトリウム(物質A’)に変化したことになる。このとき発生した水素は,水中や空気中に酸素が存在すると,反応熱の影響を受けて2次的に爆発的反応を起こして水となる。
 通常,化学反応では,反応する複数の物質の相互関係を問題とするため,刺激に反応したとはいわない。しかし,反応する物質間の一方(物質A)を中心におくと,他方(物質B)は,刺激としてとらえることができる。当然刺激によって,物質Aは反応を起こし,その物質を変化させる。また刺激としての物質Bは,化学物質(食物,有害物質等)だけでなく光や熱などの電磁波や,音などの圧力でも同じように物質Aに反応してその性質を物質A’に変化させる。

    <物質B>―(刺激)→《物質A》
               └―(反応)→《物質A’》+<物質C>

 生命は,化学物質で構成されているから,外界からの刺激に反応することによって,自らの生命性を維持するしくみをもっている。生命としての化学反応が持続するためには,生命としての恒常性を維持するフィードバック(自動調節)機構と,生命(細胞)の老化を防ぎ,環境の多様性に適応するための自己複製と接合の機構が必要であった。それらの機構を維持・調節し,自己複製する中心になる化学物質として,タンパク質と核酸という高分子化合物がある。
 とりわけタンパク質は,生物(動物)の活動を方向づけるものとして重要である。タンパク質は,20種類のアミノ酸がペプチド結合したもので,大腸菌では約2000〜3000種類,人間では約10万種類程度あると考えられている。タンパク質は,それぞれ小さいもので数千から大きいもので100万以上の分子量があり,特異的な立体構造を働かせて,その構造にあった機能をもつ。つまり通常の化学反応のように自らの分子結合を変えるのではなく,その立体的な分子構造によって特定の物質(基質)を選択したり,特定の物質の合成や分解を促進させ(酵素の触媒反応),また立体構造を変化させることによって信号を授受・伝達したり,物質を運搬したりする。いずれの機能にせよ,特定の物質を識別し,その物質に対してのみ反応をする特徴をもっている(タンパク質の特異性は,カギとカギ穴に例えられ,1タンパク質=1機能が一般的であるが,フィブロネクチンのように,いくつかの異なる分子と相互作用することもある)。
 タンパク質の化学構造自体が変化しないという点では,一般の化学反応と大きく異なっているが,刺激に対し分子構造を特異的にはたらかせて反応している点では変わらない。タンパク質の化学結合は不変でも,分子構造は活性があり,刺激によって変化するのである。ただし,乾燥や高熱などで変性すると活性が無くなる。
 生命の基本単位である細胞でいうと,細胞膜にはタンパク質のレセプターがあり,外界の変化や刺激を受容し,それを内部に伝えて,細胞内の変化を引き起こし細胞全体を活性化させる。例えば外部環境の変化に対して恒常性を維持するために,細胞膜でイオン濃度や浸透圧を一定にするのはタンパク質の働きである。また人間の網膜にある視細胞の中には,光(光子)を受けるとその分子構造を変え,電位差をひきおこすロドプシンというタンパク質がある。またミドリムシの類は,光合成を行うため,光を受容する眼点があり,光が当たると運動の方向や速度が変化する。

 以上のように生命活動は,基本的には何らかの刺激や変化に対する化学反応である。単細胞生物では刺激を受容すると,それに対し生命的恒常性を維持するように内的外的活動をするが,それらの連続した過程が生化学反応なのである。このような生命の刺激に対する生化学反応は,多細胞生物である動物では,神経系という刺激情報処理構造によっておこなわれることになる。

(2)動物の神経系における刺激反応性

 生命細胞は,数千の化学反応を総合的におこなう化学工場であるが,その化学工場の恒常性を維持するために,外界の変化や刺激に対応し,エネルギー(物質)を取り入れ,自己の安全を守らなければならない。そのために外界の変化や物質的刺激を知覚・認知し,反応行動をするのである。
(注)このような刺激反応性は植物にもあるが,その基本は大陽エネルギー(地熱もあるが)を利用する独立栄養の構造であるため,運動の必要がない。例えば,太陽光の刺激を受け,そのエネルギーに反応し光合成をする化学反応は,刺激反応性といえる。また,季節の変化とともに水分や光量・温度の変化(刺激)があるが,それに反応して発芽し,成長・開花・結実する過程も,刺激反応性である。
 動物では,この知覚→認知→反応の過程は有機的に結合されており,そのために分化した細胞が,神経系を構成している。神経系の発達については,明確な進化の方向性がみられる。それは,感覚細胞である受容器(レセプター r)と筋肉細胞や分泌腺等の効果器(エフェクター e),そして両者を結ぶ神経細胞とくに神経中枢(c)の発達である。
 下等な海綿動物や腔腸動物(イソギンチャク,ヒドラ等)では,感覚細胞と筋肉細胞が分化し,両者を仲介する簡単な神経細胞が見られ,ヒドラではこの神経細胞が網状につながっている。扁形動物(プラナリア等)や環形動物(ミミズ等),昆虫では神経節ができ,アリの神経節には数千の神経細胞があって刺激の統合や簡単な学習が行われる。軟体動物(カイ,イカ,タコ等)では脳神経節が分化し,タコでは約1億5千万の神経細胞が集まっており,複雑な学習活動ができる。脊椎動物では神経管が発達して,脳,脊椎の中枢神経系が発達し,より高度な統合が可能になる。
 とりわけ哺乳類では,中枢神経の脳が発達し,受容された多数の情報を分析・判断・記憶し,より適切な行動をすることができる。人間における大脳は,約200億の神経細胞をもち,出生前から環境の様々の情報を記憶し,出生後は学習を重ねて単なる刺激反応性を超えた,高度な情報処理能力をもち複雑なそして創造的行動をおこなう。しかしそれは可能性であって,環境や教育によっては,動物と変わらない衝動的,反射的行動をとることがある。つまり高度な情報処理と自己コントロールの能力はあるが,同時に原始的な情動や反射的行動も存在し,言語活動によって自我や世界観が形成され「悪魔にも天使にもなれる」存在となったのである。
 このように,人間の心理や行動を理解するためには,下等な生物の行動様式から高度な中枢をもつ動物まで共通にみられる「刺激反応性」を出発点として,より高度な人間の研究に進まなければならない。人間を研究する学問にも,動物行動学や神経生理学,実験心理学や臨床心理学など多分野にわたる研究が進められてきた。ここでは行動主義と認知理論を統一しようとする立場から,行動主義心理学の概観を述べてみよう。

(3)行動主義の展開(S―RからS―O―Rへ)

 まず行動主義の展開を略述するに当たって,行動主義の限界を指摘することによってわれわれの立場を明らかにしておきたい。
 刺激反応性理論においては,@無限であるはずの環境要因が,実験室において特定(エサ,バー,窓等)的に重視され,A中枢要因と主体の動因が軽視されている。例えば,強化や学習では,生得的本能的な機能や動因の位置づけが弱いか,皆無である。動物の行動様式は,生得的に特定された欲求や能力を基礎にして,環境と主体の相互関係を通じて学習し獲得されていく。しかし実験室的に限定的に与えられた強化子(刺激・環境要因)による特定の反応だけでは,動物の行動の全体を捉えることは限界がある。
 つまり刺激とは無限の環境条件から,主体が選択的に知覚しうる情報である。しかし,行動主義では,受容された刺激がどのように認識されたか,またその刺激がどのように行動に結びつくかという過程の分析が不十分である。学習成立の要因である強化は,餌や同意などの外的作用を必要とするが,その基準は「欲求の充足」がなされたかどうかである。
 強化要因が的確であるか否かは,無限ともいえる環境条件の中から主体自身が判断するのであって,餌を与える実験者や同意で力づける親が判断するのではない。実験室的な行動条件の分析は,複雑な人間の行動を理解する一助にすぎない。以上を念頭において分析を進めていこう。
 人間の心理,とりわけ認識がどのようにして成立するかを,「行動の観点から」究明することは,人間存在の全体を見誤らないために不可欠である。なぜなら人間の心や認識能力は,意識や自我のようにそれ自体として独立して存在するようにみえることもある(精神主義者のように)が,究極において動物的な身体とその行動の基礎の上に《認知・行動論》的に展開しているものだからである。
 人間の意識的世界は,思考や想像が無限の広がりや多様性をもつことから,どのような思想や信念(さらには空想や幻想)をもつことも可能であるが,事実を科学的に積み上げていくと,生物学や大脳生理学的世界の枠組みを超越することはできない。
 例えば,キリスト教のような宗教が世界創造や死後の世界を想定していても,また,物質的世界を超越した精神的霊的な世界を想定しても,それらの「信念」の成立の由来(なぜキリスト教を必要としたか)を事実によって解明することは可能なのである。宗教的・精神的世界を科学的に解明することは,宗教を必要とした人間の心理を解明する宗教心理学として,人間心理の最も重要なそして心理学に残された最後の課題ともいえるのである。
 宗教的心理の解明は,精神的霊的な存在を生じさせ基礎づけている動物行動の解明をもって始まる。これは行動主義心理学の創始者であるJ.B.ワトソン(1878〜1958)の「複雑な行動は,すべて簡単な反応の成長あるいは発達である。」(ワトソン,J.B, 邦訳1980)という基本的な考え方と同一である。しかし,われわれの立場は複雑な行動を簡単な反応のままでとどめることはできない。「思いのままに人間をつくる」という,主体の個性的な成長と発達を統制するようなワトソン流の思い上がりはわれわれにはない。「簡単な反応様式」は環境と生命自体の無限の多様性によって「複雑な行動」を生じているのである。われわれは,「簡単な反応様式」を基本に据えながらも,決して人間の行動をそれに還元してしまわない。以下に行動主義の創始者ワトソンから始めて,行動主義の学者の理論を批判的に検討してみよう。

<J.B.ワトソン>

 心理学に革命を起こしたワトソンは,ヴントにみられる「意識心理学」のような内観によっては,人間の心理を解明できないばかりか,人間行動の変化に影響を及ぼすことはできないと考えた。彼は当時アメリカで優勢であったプラグマティズムの系統に属する,機能心理学(精神の機能とりわけ生体の適応を重視する心理学)の影響を受けて,人間行動そのものの変革・再生を目指す心理学を考えていた。彼は,ロシアの生理学者パヴロフの条件反射学を学び,人間の行動もまた条件反応による習慣の成立(すなわち学習)が,パーソナリティ形成の基本であることを確信した。そして,人間の行動を予測し,コントロールすることを心理学の目的と考えた。

 「行動主義者は,物理学者が自然現象を支配し,操作するように,人間の行動を支配したい。人間の行動を予言し,支配することは行動主義心理学の仕事である。」 (ワトソン,J.B.邦訳1980 p28)
 彼が,意識の心理学は不毛であり,非科学的であるとして批判し,行動は環境との関係で学習されるものものとしたことは正しい。また情動についても分析し,アルバートという幼児が,大きな音への無条件刺激に恐怖の反応を示したことから,同時に白いウサギを条件刺激として見せると,恐怖心をもつようになったことを典型例として,パーソナリティ形成について次のように述べている。
 「私に健康でいいからだをした1ダースの赤ん坊と,彼らを育てるための私自身の特殊な世界を与えたまえ。そうすれば私はでたらめにそのうちの1人をとり,その子を訓練して,私が選んだある専門家――医者,法律家,芸術家,そうだ,乞食,泥棒さえも――に,その子の祖先の才能,嗜好,傾向,能力,職業がどうだろうと,きっとして見せよう。」              (前出邦訳 P130)
 しかし,彼の理論は,大脳の機能を全く無視し,単純な神経の反射弓が複雑な行動でも当てはまり,条件反応が筋肉や腺など「末梢」で成立すると考えた。また人間の特性としての言語と思考についても関心をもっているが,思考のはたらきを,言葉を話す「筋肉結合」や「筋肉習慣」においている点など,全く機械的な理解しか示していない。「末梢説」は,『言語行動論」のスキナーや今日の行動主義思考論にも強い影響をもたらしている。 彼は,刺激反応性すなわちS―R理論によって,情動を単純な条件反応と考える。彼にとっては複雑で微妙な感情の動きは,意識や心を意図的に排除したときに,同時に捨て去られたものであろう。「人間の行動を予言し支配する」という人間観は,人間を単純化することであり感情の豊かさを捨てることは,人間性を失わせることにもつながるのである。単純さには真理もあり分かりやすいという利点もあるが,常に危険が伴っている。 とりわけ思考についてワトソンがとった立場である「末梢説」について批判――というより否定をしておきたい。末梢説は『言語行動論』を著したスキナーや今日の行動主義思考論や心理療法にも強く影響を与えているからである。ワトソンは思考について次のように述べている。
「われわれは,からだ全体で思考し,プランをたてるのである。しかし上で述べたように,言語機構は(それが存在しているときには)通例内臓の機構や手を使う機構より優勢であろうから,われわれは『思考』とは主として音声下で(subvocal)しゃべることだと言ってよい。」(前出p329)
  「からだ全体で思考する」とは,文字通り筋肉,腺,内臓を含めたすべての行動要因であり,「音声下でしゃべる」とは筋肉・声帯を使った音声行動の変形にすぎないと考えている。しかし思考が大脳中枢における過程(脳過程brain procece−BP)であり,必ずしも言語を必要としないことは,今日の大脳生理学や動物行動学(とくに類人猿の研究)からみると常識的な立場である。われわれは稲妻が走るのと雷鳴との時間の差によって,とっさにその距離を推測するし,試験の解答は問題用紙を見ながら脳内で直観的に情報処理を行う。人間の思考にとって言語は決定的に重要であるが,言語なしの思考を想定する(直観的思考)ことは,思考そのものの本質的理解に不可欠である。
 ワトソンやスキナーの後継者とされるS.ヴィノキュアー(邦訳 1984)も,言語行動を思考の中心過程と考える。夢における眼球運動,想像過程における筋活動や情動反応の事実をとらえて,思考は筋の活動がもたらす刺激すなわち末梢要因として不可欠であるとみなすのである。行動主義が言語をどのように捉えるかは,次章のスキナーの言語行動論の項で述べることになる。

<E.L.ソーンダイク>

 ワトソンの理論は,意識中心,内観中心の心理学に飽きたらなかった多くの研究者に同調者を見いだした。中でもE.L.ソーンダイク(Thorndike,E.L.1904ー40)は,ワトソンの理論を発展させ,新たな学習理論を確立した。彼はネコを実験動物とし,ペタルを踏むと戸が開いて自由が得られる「問題箱」を作った。この実験では,ネコが箱から出ようとする無秩序な行動が,「試行錯誤」を経てペタルを踏むことになり,それによって箱からの脱出に成功する。すると,その反応が報酬となって,ペタルを踏むという学習が成立する。この学習は,ヒルガード(Hilgard,H.R.)とマーキス(Marquis,D.G.)によって「道具的条件づけ」と分類された。ペタル(刺激)を踏んで箱を脱出する(反応)とき,ペタルを踏むネコの(自発的,試行錯誤的)行動が,脱出することの道具になっていると考えたのである。
 これに対し,パヴロフやワトソンの,無条件刺激(肉片)を他の条件刺激(ベル)に置換する条件反応は「古典的条件づけ」と呼ばれる。
 彼は,学習における試行錯誤の役割に注目し,単なるS―R理論から一歩踏み出て,刺激や反応の多様な可能性ばかりでなく,反応の効果(欲求の低減又は報酬)が,主体の選択的反応を推し進めることを示した。
 しかし,ワトソンやソーンダイクの場合,いずれも“特定の刺激(肉片,ベル,ペタル)に対して特定の反応(唾液,脱出)がある”というS―R結合は共通しており,S―Rの中間に,認識や判断の過程は想定されず,単純な反射弓にとどまっている。ソーンダイクが,学習において賞罰という効果の法則を見いだしたとしても,有効な反応が学習されるのは,欲求を充足しうる有効な刺激(一対一対応といった単純な結合)に限られる。つまり,“特定の刺激(問題箱のペタル)は,欲求を充足する(有効か,有用か)認識・判断の過程があって,特定の反応(脱出)がある”とはなっていない。あくまでも試行錯誤による末梢器官の反応の偶然性に限られるのである。この限界を明確に意識したのが,新行動主義といわれる学者たちであった。
<C.L.ハル>

 新行動主義に属するC.L.ハル(Hull,C.L.1884-1952)は,反応の強さや速さ( 反応ポテンシャル)は,学習による強化( 習慣強度)と,動機づけ(D 動因,欲求)の積,すなわち=f()×f(D)という関数式であらわすことができると考えた。これは,S―R結合の中間である生体(O)内部に,習慣強度(先行経験の効果)や動機づけの過程を「媒介変数」として設定するもので,S―O―R結合の成立ということになる。
 彼は,刺激や反応,動因,反応抑制等を数式化しているが,行動を解明するポイントとなる動機づけ(動因,欲求)や情動・感情の強弱についての分析は不十分である。学習による強化は,動因の強弱や情動・感情に左右されるが,これは実験的に制約された刺激条件と自然における刺激条件では大きく異なってくる。まして言語をもち複雑な文化環境(文化的刺激や価値基準・反応様式)をもつ人間の場合単純過ぎる図式と言えよう。しかし,動物の反応行動が,一つの刺激に対する単純な一対一反応でないことを明らかにしたことは大きな意味がある。
 ただ,次節でも述べることであるが,動因の考え方については問題がある。つまり条件づけは「動因の低下」(動因刺激低減の法則――例えば飢えの解消,拘束からの脱出)によるとされるが,動因は快(摂食,自由等)を求め,不快(飢え,拘束等)を避けることにあるのであって,飢えや拘束そのものが動因なのではない。飢えや拘束は,動因ではあるが,なぜ動因であるかと言えば,それらが不快であるからである。そして不快であるのは,内的恒常性を維持しようとする摂食欲求(食欲)が充たされないからである。摂食欲求は,飢餓という不快さによって発現するのである。従って,飢餓(空腹)は,動因であるとしても,その根本(動因の動因)は,摂食欲求が充足されないことによる。つまり,飢えとは,胃や口腔の生理的変化による欲求不満・不快状態の別名なのである。
 飢餓を根本動因とみなすこと(動因低減の法則)は,行動を正しく理解することの妨げになる。なぜなら,生命の摂食行動の積極面を見逃すことになるからである。つまり,欲求が,生命活動の根底にあって,飢餓は(不快状態)は,その現象形態に他ならないからである。
 動物の行動は,内的恒常性を維持するために,不快状態(空腹・危険等)を解消することを動因とするばかりでなく,積極的に快状態(満腹・安全等)を求めることも動因とする。むしろ動物の行動は,恒常性の維持(生命の存続)という生命欲求を根本動因としていると想定するほうが正しく理解されるのである。なぜなら,生命は,自らの恒常的平衡を維持するための基準をもち,その基準(摂食欲求・安全欲求等)を充たすこと,そのために基準の欠如を修復することを動因としているからである。
 空腹や拘束は,確かに摂食や逃避の動機づけにはなるが基本的なものではない。基本的なものは,常に一定の摂食であり自由で安全であること,すなわち快を維持し不快を避けることである。動因は,正しくは,不快要因の低下や解消にあるのではなく,生体がその生命性を維持するために追求するものであり,根本的には摂食欲求や安全欲求が一次的動因なのである。飢えや拘束は,動因であるとしてもそれは二次的なものであって,基本的な動因は,摂食による内的環境の維持であり,箱からの脱出による自由と安全の確保である。すなわち,生存すること――快を追求することのために不快を避けるのである。
 しかし,論理的により正確に言えば,生存のために快を求め,不快を避けるのである。快の追求と不快の回避は,生存が死の回避と同じように,同じ意味であるが,死を避けるために生存を追求するのではないと同じように,不快を避けるために快を追求するのではない。快の追求と不快の回避は意味的には同じことであるが,論理的には生存の追求が優先するのと同じように快の追求が優先するのである。

<E.C.トールマン>

 E.C.トールマン(Tolman,E.C.1886ー1959)は,ワトソンの末梢主義を拒否して中枢主義をとった。彼の理論は,認知的行動主義とも呼ばれる。彼は単純なS―R理論を排して,刺激の認知に「ゲシュタルト」を導入した。例えば,ネズミの行動は,S―R理論のような「複雑な電話交換器」とみなす考えと対立し,脳の中枢神経に「環境の場地図」のようなものを考えた。彼によれば,入ってきた刺激は,心によって「手を加えられ加工される」のである。この考え方は,大脳生理学的にみても正しい。一つの刺激は,全体の刺激の中に位置づけられて認知され,どの刺激に反応することが適応的なのかが中枢的に判断されるのである。
 しかしゲシュタルト理論が実証的に発展されなかったと同様に,「認知地図」を証明することは,中枢内部の過程を解明することが困難であるという限界と,動機づけの理論を欠いたことから心理学の体系に成長させることはできなかった。

<B.F.スキナー>

 彼は行動主義を「言語論」に全面的に適用した学者なので,第4章の「言語論」で詳しく取り上げる。そこでここでは,オペラント行動,強化,随伴性(contingency)と呼ばれるスキナーの行動主義の特徴的用語と行動の捉え方を考察し批判しておきたい。
 スキナーは,新行動主義の仲間にはいるが,環境に対する自発的行動の偶然的結果(随伴性)を重視し,内的過程を認めるものの,それはすべて学習の所産であり,内的過程自体を動因とすることを認めない。スキナーにとって従属変数としての行動は,環境を独立変数とする関数で表される。従って,内的過程における「ゲシュタルト」や「洞察」の必要性,「無意識の抑圧」などの概念を拒否する。このように意識を行動として分析するため,自らを「徹底的(radical)行動主義」と称する

 《環境決定論

 まず環境に働きかけるものとしての生命の反応行動は,系統発生的には環境により形成されてきたものであるから,その究極的な統制変数すなわち行動の原因は,必ず環境の中に存在するはずである。従って個体の内部に行動の原因を求めてはならないというのがスキナーの基本的な立場である。
 有機体は,環境によって形成されてきた。しかし第1章第2節「生命の本質と適応」でも述べたように,「生命の誕生」によって,環境と区別される生命自体の主体性が確立したのであり,環境を有機体に優先させるのは誤っている。つまり,生命の誕生以来,環境と有機体は本来的に相互的であると考えなければならない。確かに環境の力は生命に対して絶対的である。しかし,我々の考える有機体にとっては,この(論文の)ような自己認識のための思考自体が,有機体としての主体から出発しているのであり,強いて両者の優先順位をつけようとすれば,環境に対して認識する生命有機体を優先的に考えなければならない。

 環境決定論は,これからも述べるような西洋的思考様式の根本的な傾向を反映している。すなわち,生命自体が「思考の結果としての思想(西洋思想における観念論や唯物論など)」に統制されることは,西洋的思考においては「環境に生命自体が統制されること(という認識ないし思想が行動主義に当たる)」とは同じなのである。「環境に統制されること」と「思想に統制されること」とは一見して異なるように見えるが,「環境に統制される」という判断(行動主義思想)自体が科学的であるようにみえて,実は思考の結果すなわち思想なのである。この意味で,人間のすべての判断(その結果としての知識,法則,思想等)は主観的であると言える。つまり我々は,科学的認識の方法として,今までの西洋科学がなしえなかった知識自体の相対化すなわち科学的認識論の再構築を視野に置いているのである。(この点は,西洋的思考を考察する場合決定的に重要である。科学的知識は,事実を出発点とするが,それらをどう再構成し,解釈するかによって対象の見え方が異なってくる。)

随伴性決定論》 

 また彼にとって,種の行動様式は,生得的な能力である「随伴性」に依存している。すなわち有機体が剥奪状態(欲求不満)にあるとき,まず環境に対する偶然的・自発的行動(emission)がおこり,その行動の成功(餌の獲得――欲求の充足)によって行動自体が強化される。次いでそのときの刺激(弁別刺激)と行動(オペラント)が,刺激・反応・強化の過程として学習されると,一つの行動様式が獲得される。
 スキナーは,この過程をスキナー箱といわれるネズミやハトの実験で説明した。箱に入ったネズミは,偶然的にバーを押して(自発的行動)餌を得る(随伴性)とその行動(オペラント)が強化され,餌を求めるために再びバーを押すようになる。人間の行動のほとんどすべて(無条件的反射行動を除いて)は,このようなオペラント条件づけにより,又は強化の随伴性(つまり学習)により獲得され,行動のレパートリーとしての行動様式が形成される。
 環境を第一義に考えるところから,必然的に有機体の内的な動因(欲求)を,意識や内観につながるものとして排除することになる。従って,例えば摂食欲求はそれ自体が動因であるにもかかわらず,餌の剥奪(deprivation)という外的要因を動因と考え,環境としての餌を強化子(reinforcer)とすることによって行動をコントロールすることができることになる。つまり,なぜ強化の随伴性が生じるかと言えば,餌を手にいれ食欲を充足するための行動であるにもかかわらず,「欲求を充足した結果としての随伴性」(いわば成功体験)によって,行動が強化されそれ以降の行動の原因とされるのである。
  これはスキナーの問題意識である行動の記述とコントロールの立場からすれば理解できる。つまり独立変数としての環境が,「結果としての行動」をどう引き起こしたかを解明すれば,それを生じた環境(弁別刺激や強化子――つまり欲求充足の対象)をコントロールすることで行動もコントロールすることができると考えたのである。その意味で,動物の行動は環境の所産であるというのは正しい。
 しかし,動物の行動コントロールはそれで説明可能であるが,人間の場合はそうはいかない。人間にとっての弁別刺激や強化子は,あまりにも多種多様であり,それらに対する的確な判断と行動は,弁別刺激や強化子自体の本質の解明を迫るものである。つまり,随伴性を生じる強化(欲求充足)の基準や過程を明確にし,また人間の行動様式の獲得・強化・学習は,随伴性(ダーウィンの自然選択と同じく偶然的で,結果によって説明される)だけでなく,目的的意図的さらに自己選択的創造的なものである。この点を抜きに人間の行動と文化を語ることはできない。また人間を特徴づける「言語」についても,刺激反応を基軸とする行動主義的言語行動理解では,その積極的,認識論的意味を解明するために不十分となるのである。言語をもつ人間は,環境によって直接経験できない間接的経験を提供するし,自らの思考によって創造的に選択・判断しなければならないのである。
 ほとんどすべての行動の原因が「強化的随伴性」にあるとすることは,その行動の原因がなぜ強化となるのか,またなぜ「結果として」その行動が選択されるか必ずしも明確にはならない。強化子が餌や水,安全や自由を得るという実験的で単純な場合ならともかく,環境のもたらす情報は多様であり,文化を持つ人間には,選択すべき状況は余りにも複雑である。いくつかの強化子の選択枝から,嫌でも一つを選択せねばならぬことも多い。つまり多様な環境(二次的間接的行動を含めて)をどう認識し,何をどのような基準で選択するかは,ネズミやハトのように簡単にはいかない。そのときに,言語をもつ人間の認知や判断における過程,そして強化の基準や目的となる欲求とは何かが問題となるのである。
ここで以上のような見解についての理解を容易にするため,オペラント条件づけと強化について,スキナーの文を引用し,批判を加えてみよう。 「食物や水,性的接触,害悪からの逃走といった,環境の中の多くの事柄は,個体や種の存続にとって決定的に重要であり,それらを生み出す行動はどれも,そこで生存のために価値がある。オペラント条件づけのプロセスを通して,この種の結果を伴う行動は,起こりやすくなる。これらの結果によって行動は強化されると言われる。そしてこのために,結果それ自体は「強化要因(reinforcer)」と呼ばれる。そこで,空腹の有機体が食物を獲得する行動を表すと,その結果によってその行動は強化され,そのため,より再び起こりやすくなる。」   (スキナー,B.F. 邦訳1975 p44)
 「個体や種の存続にとって決定的に重要」な「結果を伴う行動」は,有機体の生得的な欲求を充足する行動である。欲求を充足するという「結果によって行動は強化」される。これは正しい。しかし,スキナーに決定的に欠如しているのは,多くの選択肢の中で「なぜ,どのようにしてその欲求が選択され,その充足行動が強化されたか」という行動の質の問題である。ここに中枢過程における動因としての欲求・情動・感情と認知・思考・判断・記憶の複雑な処理が行われ,新たな行動が決定されることの重要性が浮かび上がる。
 以上の考え方は,西洋思想に伝統的な発想法――考えられた結果としての法則(ことば,思想)の絶対化と軌を一にしている。すなわち「(随伴性は)目的を事実の後に移すことによって目的を説明する。」(Skinner 邦訳 1975 p45)という主張は,行動の事実から考察し,最も困難で,根源的な問いである「何のための行動か,何のために生きているか」を後回しにするため,生命主体の積極的な,しかし非合理的な役割を軽視することになる。これは科学的合理的方法を追求してきた西洋的思考方法にとっては,容易に理解できない,また理解したくない方法なのである。(生の哲学,現象学さらに実存哲学は,主体性の確立を試みてすべて失敗している。) スキナーの哲学と理論については,「言語論」の章で論じるので,以上のいくつかの限界性についてまとめておこう。

@ 環境が行動の統制要因の一面であることは確かであり,また結果によって随伴的に行動が形成され学習されるのは事実である。しかし,生命の「欲求と認知判断過程」という主体的側面と「生命と環境との相互作用」が,環境決定論よりも重視されねばならない。
A 偶然的に自発された行動(オペラント)が,強化要因によって学習され,習慣的行動様式を形成するというのは一面的である。主体の欲求(安全欲求,表現欲求等)や創造的思考が動因となって,積極的行動が引き出され,新たな行動様式を獲得・形成することが評価されねばならない。
B 高等動物における反応・行動は,環境と主体の多様な状況の相互作用の中から,最終的に主体が判断を下すのである。とりわけ言語を持つ人間は,歴史的に蓄積された文化状況を判断の基準としており,強化された習慣的行動のみに依存しない,主体的創造的行動や文化を創出するところに大きな特徴をもっている。
C 言語は,客体化される音声信号の特性によって,意志伝達的言語行動から独立した情報操作・概念操作の道具として機能する可能性をもつ。これによって刺激反応性から意志伝達の手段として進化した言語は,自然的な環境や直接的行動を超えて,言語による人間独自の創造的文化を発展させることになったのである。

(4)認知論と中枢神経(大脳)

 行動主義は,生命の本質的行動様式である刺激反応性を出発点におくことでは,基本的に正しい行動理解である。しかし,高度に発達した高等動物やとりわけヒトの行動や心理について理解するには不十分と言わざるをえない。人間は,単に刺激反応的,習慣的に生きることもできる。そして多くの人々がオペラント行動の結果による随伴性によって強化され学習することによって日常性を生きてきた。しかし人間が人間である特徴は,習慣的な行動にあるのではない。自然や社会・文化などの環境の変化に対して,積極的合目的的に生きること,自らの生活や人生を豊かにし幸福を目指すことができることである。
 今日人間の存在そのものが問われている。科学技術文明に裏付けされた物質的な豊かさ・便利さの追求が,人間そのものの探究すなわち自己理解を阻んできた。しかし資源の枯渇や環境破壊など経済成長には限りがあり,過去の伝統的な観点では現実に合わなくなっている。様々の宗教やイデオロギーは,人間の未来への展望を与えるものとはなっていない。
 このような現在の状況にあって,人間についての共通理解の妨げとなっているのが,言語とそれに伴う認識の問題,そしてその根底にある行動主義的な人間理解と認知論的主知主義的人間理解の対立である。そこで,刺激反応性を統制し,人間の最も人間らしい特徴である言語の理解のために,人間において最も発達した大脳の中枢神経の役割とそれに伴う認知論について触れておきたい。

<認知論>

 人間行動の理解における認知理論(哲学においては認識論)の位置づけは,西洋哲学の歴史にとって存在論とならぶ問題として論じられてきた。認識論は人間存在の基礎すなわち知識の根源を探究するとき避けて通れない。カントの『純粋理性批判』はその最高のものであったが,フッサールの現象学が認識論の構築に失敗し,実存哲学も大きな成果を示せなくなって従来の哲学では限界のあることが分かってきた。
 その間,実証性を重視した心理学が哲学から分離し,認知は全体性との関連で成立するというゲシュタルト心理学が提唱された。西洋哲学とりわけ現象学の影響を受けたゲシュタルト心理学を中心とする認知心理学や動物行動学から人間の認識を考察する動き(ローレンツやピアジェなど)は,ヨーロッパを中心に大きな成果をあげていた。
 これに対し,アメリカを中心に勢力を持った行動主義心理学は,認知の問題に冷淡であった。しかし,言語学の領域でチョムスキーが,スキナーの行動主義を徹底的に批判してから認知理論と言語学の急速な接近がみられ,認知言語学や心理言語学が成立し,今日に到っている我々にとっての課題は,この言語を主題にした認知論と行動主義を,動因論(欲求論)によって結合し,あらたな認識論にもとづく人間観を構築しようとするものであるから,まず認知論の特徴を考察してみよう。
 認知論を行動主義理論と全面的に対立するものと捉えるのは,今日では正しくない(既述のようにハルやトールマンにおける有機体の認知や動因の重視)が,論をわかりやすくするため,ここでは対立を強調する。行動主義は外的に観察できる環境(刺激)と環境に対する反応を重視したが,認知論は「環境刺激ををどのように認知するか」つまり認知のメカニズム(構造ないし枠組み)を重視する。
 認知論の歴史は,知識とは何かを考えたギリシアの哲学に始まる。しかしここでは近代の哲学にみられる経験論と合理論の対立,そして現代心理学における行動主義と認知論の対立という観点からみてみよう。
 経験論を確立したロックは,合理論の祖となるデカルトの「理性(よく判断し,真なるものを偽なるものから分かつところの能力)の生得性」およびこの根源にあり神の存在証明をする「考える自我」と根本的に対立させる。ロックにとって「知識(観念)の根源」は,感覚的対象と内的反省の2つの「経験」にあり,直観・論証・感覚的知識の確実性を主張する。しかしその確実性の出発点をなす「自我」は,デカルトと異なり経験的直観によって成立し,生得のものではない。彼は知識の絶対確実性に制限を加え,知識の重要な構成要素としての「言語」について論及し,言語の私的性格と社会的性格の統一という困難な問題を解明しようとした。(彼はこの問題を解決していないが,後に考察する言語意味論にとって極めて重要な問題である)。
 しかし彼には知識成立の主体的要因すなわち認識を成立させる構造(カントのいわゆるカテゴリー)と認識を推進し判断の基準になるべき動因(欲求・情動)の究明には向かわない。ロックの場合,知識(観念を記号化した言語)の相対化は,彼の楽観主義を背景にしていたが,この相対化を推し進めれば当然ヒュームのような懐疑論となる。
 懐疑論を克服するために登場するのがカントである。カントは知識成立の生得的(先天的)な要因を,感性的な直観(空間・時間)とカテゴリー(実体性,因果性等)によるとした。つまり自然認識は,対象を認識する純粋理性の形式(すなわち純粋理性によって成立している先天的な認識構造)によって可能になると考えたのである。実は,カントの認識論は,心理学や言語論,統語論(文法)と深い関係があり,彼の認識の形式は,疑問の形式「何が,どうあるか」という判断(命題)と深い関係があるのである。(カント批判の素描は拙著『西洋思想批判試論』1976)
 しかしカントは,認識の構造が言語とどのように関連しているのかと問うことはなかった。言語の本質が何であるか,言語の生物学的,生理学的,心理学的役割が明確でない以上,空間や時間,カテゴリーを「言語によって定義されたもの」として相対化すれば,カントの認識構造は崩壊してしまい,ヒューム同様の懐疑論に陥らざるをえない。
 哲学的認識論はこれ以後まともに論ぜられることなく,ヘーゲルの形而上学,マルクスの唯物論,フッサールの現象学などの展開があり,アメリカではプラグマティズムが成立したが,いずれも将来性のある哲学としては大成することはなかった。そしてもっぱら心理学の分野で,認識論を排除する形で成立した行動主義が,環境の影響を重視する経験論の系譜を受け継いで大きな力を持つようになった。この行動主義の批判から,デカルト主義者チョムスキーの言語論を通じて,心理学的認知論が脚光を浴びるようになったのである。
 合理論と経験論を背景にした認識をめぐる歴史は,認識が単に絶対確実な知識,科学的な知識の根拠を求めるだけでは解決しないことを示している。今日では人間の認識が言語と深くかかわっていることは衆目の一致するところである。また認識における生得的な構造の存在(とりわけ言語習得構造)も認めざるをえなくなっている。あと残されているのは,この生得的構造の解明と人間にとって「何のための認識か,何のための知識か,何のための言語か」ということである。西洋思想では一貫して「何のため」という問いが欠けていた。生存の意味を問うことが欠けていた。神の存在がこれを妨げていたのである。今や根源的な問いから始めなければならないのである。
 そこで合理論と経験論の対立を克服する視点として,認識の基本は「自己を環境の中にどのように位置づけるか」ということ,「何のために認識をするのか」ということを考察しなければならない。そのために大脳生理学的事実をもとにして,大脳中枢を基本とする人間行動を模式的に概観しておこう。

<中枢神経>

 動物の行動について,環境からの刺激を受容し,中枢神経において認知・判断し,反応・行動する過程を生理的に統制するのが神経組織である。多細胞生物が,環境に対して統一的に反応・行動するには,環境の的確な把握と環境に対する適応的な判断が必要である。この役割をになうのが神経組織とりわけ中枢機能である。
 神経系の発達は周知のように軟体動物から昆虫類脊椎動物へと進化・発達して,高等哺乳類において大脳機能の特徴的な発達を示した。その頂点にある人類の神経系は,200億程度の神経細胞によって構成され,人間行動のほとんどの機能を集中的に統制している。
 ここでは,神経系の発達や機能の詳細は専門書に譲り,認知理論との関係で人間の大脳機能と《認知・行動》との関係を概観してみよう。      

      [大脳の《認知・行動》模式図]  

この図は大脳を中心とした人間の神経系のモデルである。人間の身体の機能は,ほとんどすべて神経系で統制されている。まず,身体の内的恒常性を維持しているのが大脳辺縁系に属する視床下部である。視床下部は,血液の濃度,成分,温度等に対する内部知覚とつながり,内的情報を入力して自律神経に命令を伝える。自律神経は内蔵を交感神経・副交感神経で統制し,また外的には分泌腺を通じて,汗腺や血管の収縮を調節する。 また内的恒常性を維持するとともに,行動を発動する場合にも視床下部がはたらいて自律神経系を興奮させ,情動や腺分泌,血流,発汗,内蔵調節を行う。これらの調節は興奮と抑制の拮抗関係をとりながら行われる。
 例えば,空腹になると血液中の血糖濃度が下がって食欲が起こり,探索・認知の行動が始まって摂食行動が促進される。また危険が迫れば緊張が起こり,自律神経が働いて血液量を増大させ内蔵などが行動のための準備をする。これらは生理的に内的恒常性を維持し反応行動を準備するための視床下部の働きであり,大脳皮質にかかわる意識的な統制ではない。つまり直接意識的に心臓の働きを早めたり,赤面や発汗を抑えたりできないのである。
 これに対し,人間の認識(ここでは人間の知覚・認知と選択・判断を総称して認識と呼ぶことにする)にかかわる機能は,視床下部と密接な連関を持ちつつも,大脳皮質の独自の働きである。大脳の認識機能は,外的な刺激(情報)を知覚し,それが欲求充足的なものか,快か不快かを判断(情報処理)し,その判断に従って外的反応行動を命令する。人間は言語記号を持つことによって,単なる直接的な刺激反応ではなく,中枢における高度な情報処理をおこなって反応するところに特徴がある。
 例えば,高等動物も高度な情報処理を行い,とくにチンパンジーなどは道具を用いて木の実を砕いたり,ケーラーの実験(Kohler,W. 1925)にみられるような高度な洞察や操作を行う。しかしチンパンジーの行動は,対象が面前にあって直接知覚され確認できる場合に限られる。これに対し人間は,対象が面前になく刺激や反応から独立して対象のイメージを操作し新しい対象を創造することができる。これらの機能は,もっぱら言語記号を脳内で操作処理(思考)することによって初めて可能になるのである。人間は言語を用いることによって外界を再構成し,その再構成した世界(知識)に自らを位置づけ,新たに自己と世界との関係をつくりあげる。 しかし,人間をその全体性において捉えるためには,言語を手段とする記号操作(言語思考)を強調することで満足できない。言語を駆使して思考をする動因が,この図から読み取られなければならない。それは,視床下部において人間の行動を推進する欲求であり,世界の中に自らを安定的に位置づけ創造しようとする意欲と感情のはたらきである。人間は動物的な欲求ばかりでなく,個々人が再構成し想像したイメージの世界(知的情緒的世界)に生きており,視床下部の支配を受ける情動の働きも,イメージの世界での意志や感情の動きに連動しているのである。
 従って,「言語論」を論じる前に,「欲求」と「情動・感情」についての考察が必要となる。