3 人間行動の原動力──欲求とは何か
 欲求は行動の動因である
 内的(動因的――例えば食欲・性欲)外的(誘因的――例えば危険回避)環境の刺激変化
によって,欲求がすぐに充足されず,欲求不満(不快・緊張)の状態になると,外界に
対する知覚が敏感となり,情動的反応と行動が生起して欲求不満の解消すなわち欲求
充足の行動に向かう。
通常は,欲求が生起してもすぐには充足されず,欲求不満の状態に
なる。すると,生命体は緊張の状態となって,刺激に対して敏感となり,情動が起こっていつ
でも行動可能な状態になる。
  欲求という概念は動物の認識と行動の動機づけないし動因を示す抽象概念であり,高
等動物においては,生命の存続と種の保存・繁栄のための行動の基本となる。しかし行動
の動因たる欲求の分類については,行動学者,心理学者,神経生理学者等でそれぞれ異
なった見解がある。上記(著書参照)の分類は,筆者の独自の見解であるが,その特徴は
「個体維持」の欲求に「安全保持」を大きく分類していることである。その意味は,自己表出的
な思考・行動を重視する傾向のある西洋的心理学
に対する批判的立場の表明である。
 例えば,ヘーゲルの弁証法的発展の思考方法,マルクスの生産・再生産を生命活動の根
底とする思考方法,またスキナーの徹底的行動主義における有機体の内的欲求や情意よ
りも環境に対する行動の結果を重視する思考態度は,自己表出的思考や行動の代表であ
る。彼らには,「何のための思考か」「何のための生産か」「何のための行動か」の問題意
識がないか極めて不十分である(この点は前著で批判した)。またフロイトの欲動論におけ
る自己保存には摂食はあるが、安全保持はない。快を求め不快を避ける快楽原則は,もっ
ぱら自己や対象に対する自己対象的行動に限定される。
 彼らは人間の発展的活動とその結果を,決定論的ないし独断的に存在確実性の根源に
置いており,不確実な人間存在の意味の究明に冷淡である。すなわち絶対者にまかせるか
(ヘーゲル),思考の産物としての自然法則(実証的科学主義)で満足する。またフロイトの
ように究極の自己対象化として「死の本能」を仮定してしまう。
 しかしわれわれにとっては,人間の行動は外的対象的行動にとどまらず,環境の中に
自らを位置づけ安定させる思考や行動も含まれる。生きることは,生命状態を維持・継
続することであり,自然に働きかけ(生産)自然を変えると同時に,自然の変化とともに
ありながら,自らを安全な状態に位置づけることなのである。

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 付録 欲求について

 「様々の観念を結合させる原因は,それらが同時に現れるとき我々がそれらに対して払う注意において他にない。ところで,こういうものが我々の注意を引くのは,もっぱら我々の気分・情念・状態,ひとことで言えば我々の欲求(besoin)との関係次第なのである。ここから次のようなことが必然的に言える。すなわち注意という働きは,欲求の観念をはらむとともに,その働きによってこれらの欲求と関連づけられ結合された諸事物の観念をも同時にはらむのであると。」 (コンディヤック,E.B. 邦訳『人間認識起源論』上P70)

 先に,「欲求(desire)」概念は,生活体における認識と行動の動因(drive)であり,認識・判断・行動の基準(standard)であるとした。欲求に動因(動機づけ)だけでなく,判断基準も含めたのには意味がある。従来,欲求は行動の動因として外的活動に多く用いられてきた(欠乏を充足する要求 need として)が,行動を決定し方向づける内的な認識(認知)過程に,選択・判断過程を含めるべきであると考えたためである。生活体の活動(認識・行動)には,ある一定の判断基準(生命の恒常性維持)があり,認識判断の過程を経てその基準を維持することが,「欲求」を充足することの意味であるとするのである。
 例えば,空腹によって摂食欲求がおこれば,どのようにして,どれほど食物を求めるべきかの認識過程が必要である。その判断にもとづいて獲物を追い,空腹を満たす,すなわち欲求を充足するのである。このときの判断や行動の基準が欲求充足の基準になる。具体的には,胃袋が満杯になるか,又は血液中の血糖値が標準値になるのに,一日の食事でとるカロリー量が経験的に確定すればそれが基準となる場合もある。また敵の侵入が経験的にありえないと判断されれば,それが安全欲求を充足させることになる。
 従って,動因には必ず基準が含まれ,その基準に従って欲求が充足されるのである。筆者は動物に共通する欲求(欲求の基準)の根源を,個体維持と種族維持におき,ここから欲求の分類と説明をすすめていく。

(1)欲求とは何か

の基礎となる動因とし 人間の認識と行動の心理を分析する場合,まずその生理的心理的動因を明晰にすることが必要である。そこで人間心理ての「欲求」について考察してみよう。
 ここでは欲求を詳述することが目的ではなく,人間の認識と行動を論ずる場合の前提とするために分析がおこなわれる。人間はどのようにして多様な刺激の中から,特定の対象を知覚・認識・判断して行動しているか。人間が行動する場合,何に関心をもち,何を目的としているのか,またその場合意識はどのような動きをしているのか。そしてつまるところ,そのような問題意識が,言語による疑問(何が WHAT,どのようにHOW,なぜ WHY あるのか)とその解明である言語表現にどのような関係をもっているのか,というのがここでの問題意識であり,認識論全体の目的である。そのことを知るために,まず「欲求を充足するための認識と行動」すなわち「意識的活動」の原理が明らかにされねばならない。そのために認識と行動の動因(原因又は動機づけ)である欲求の分析が必要となるのである。
 人間的欲求とその充足において,言語は決定的な役割を担っており,また言語の解明が,古来の認識論的存在論的難問の解決に到る唯一の道なのである。

@欲求の基本的な分類

 なお以下の欲求の分類は,欲求を理解するための便宜的なもので,相互に重複する場合や矛盾する場合がある。例えば欲求を大きく二分した場合,個体維持と種族維持の欲求相互の関係は厳密に区別できないものである。例えば,個体維持の欲求としての自己表出は,集団関係維持のための前提となるが,自己表出が極度になれば対立が起こって,集団の安全にとって障害となる。つまり,個体維持と種族維持は,常に均衡が維持されているのではなく,緊張関係にあり,不均衡を前提とした一時的均衡なのである。さらに個体維持(例えば食欲)は,種族維持(例えば性欲)の欲求充足のための前提ないし条件ともなっているし,また逆も真である。
 またここでは基本的生理的な分類を中心としており,人間にとって派生的に分化している二次的欲求(例えばもっと生活を豊かで,便利で,快適にしたい。そのために収入を増やし,家を建て,家具をそろえ,自動車を買い旅行をしたい等々)は除外される。二次的欲求については基本的欲求を動因としている(例えば,便利と快適さは,安全維持――苦痛回避や健康――と結びつくと同時に,自己表出――模倣・学習や遊び・優越――にも影響を与える)。そこで,二次的欲求は,言語獲得以降の,人間特有の思考や想像力による欲求の心理的肥大化として後に問題とされる。

[基本的欲求の分類]

個体維持
  エネルギー代謝:呼吸,休息・睡眠,飲食・排泄(内的恒常性)
  安全保持:苦痛回避,快楽追求,好奇心,防衛(個体安全性)
  自己表出:模倣・学習,探索,承認,遊び,優越(発達享楽性)
種族維持  
   異性関係:性愛(恋慕・性交),配偶関係
  母子関係:育児(母性),保護,依存,自立(成長)
  集団関係:安全・安心,援助,秩序,協同行動

 基本的欲求は,大脳の発達した高等な哺乳類においては,ほぼ共通している生得的な身体的生理的欲求である。生命に基本的な欲求は個体維持と種族維持であり,それぞれをさらに分類すると,上記のような分類が可能になる。ただ基本的生得的とはいえ,その発現が後天的に「解発」される場合もある。例えば,人間の手で親から隔離されて育てられた雌猿は育児や保護の欲求を十分に発揮できないし,虐待されて育った子どもは好奇心や探索などの欲求が低下する。一般に自然状態から逸脱した病的状態では,これらの欲求は解発されないこともおこりうるのである。上記で安全保持に分類した「苦痛回避」については,外的な苦痛(外傷など)だけでなく,欲求が充足されずに「不快の情動」が生起した場合も当てはまる。個体維持のためには不快や不安は解消されねばならないからである。それと同時に,欲求が充足され「快の情動」が生起した場合や安楽な状態は,それ自体を求めることが生命維持につながるため基本的欲求となる(快不快については情動と感情の項で検討する)。
 人間の文化的で多様な欲求は,基本的欲求の基礎の上に派生的発展的に複雑化した。この人間の欲求の多様性は,認識と行動の領域の拡大とそれに関係する言語獲得によって発展したものである。このことは後に言語論で詳述するが,例えば未開人の呪術にみられる病気の治療(健康への欲求)は,悪霊を病原であると断定(言語化)し,それを追い払うもの(集団関係の安全・安心や協同行動として)として呪文(呪い)の言葉を生み出したのである。
 基本的欲求の生起には,持続的なもの,発達的なもの,状況的なものの三種類を区別することができる。
 持続的なものは,呼吸を代表として休息や睡眠・飲食を含むエネルギー代謝である。個体性の維持のために,ある程度の振幅はあるものの持続的に必要とされ,この欲求が充足されないと個体死を招くことになる。発達的なものは,子どもの成長にかかわる模倣・依存・自立等と性愛が典型であり,一生の一時期に強くあらわれる(乳幼児期の情動的経験は,高等動物の行動に強い影響を与える)。状況的なものは,そのときの外的環境状況によって生じるもので危険の回避や自己主張,育児や集団の維持など個体や種族の生命活動を保全・発展させるものである。

A 二次的欲求と言語

<人間的二次的欲求の出現(認識・行動における言語の役割)>
 類人猿の欲求にも,人間並みの快適さや便利さ,自由な想像をめぐらすことの楽しみがあるかも知れない。しかしゴリラやチンパンジーを,完全に人間の生活と同じような統制下に置くことはできない。訓練や学習によって記号や象徴をある程度操ることができるとはいえ,彼らは人間の統制下でないと,人間の期待する行動がとれない。
 人間は言葉を主体的に学習する(言語的好奇心ないし言語獲得欲求)が,チンパンジーは記号の学習に報酬が欠かせない。知的好奇心の発達した「賢い」ピグミーチンパンジーのカンジでさえ,外出時には首輪をはめられ,ランボー夫人の手綱のもとにある(Savage-Runbaugh,Sue.1993邦訳『カンジ』)。
 自由意志によって自己の行動をコントロールすることができるのは,人間独特のものである。言葉の理解できる(但し,人間言語のすべての音域を区別できるわけではない)チンパンジーでも,言葉で約束することはできない。人間は,人間の想像した世界に生きて行動するが,類人猿は自然の与えた肉体的生理的世界に生きている。人間は言葉を自ら獲得したが,チンパンジーは人間によって記号を与えられたのである。人間には,大脳前頭葉の意志と側頭葉の言語中枢があるが,類人猿には後天的に学習した「直接的」思考・洞察と学習の世界しかない。つまり感覚的外的刺激に対してのみ洞察や学習が可能なのである。従って類人猿には人間にみられるような心的想像のもたらす欲求の増大がない。 幸島のサルは,イモを海水で洗い,小麦を海水で選別して塩味をつけて食べるが,これは操作すべき対象が目前にある時に限られる。ある種のチンパンジーは,実を割る石を道具として使用するが,意図的に加工することはできない。より便利で快適に欲求を充足するというのは,動物の欲求となるであろうが,それは自然選択による進化の結果に属する。
 人間以外の動物は自然とともにあるが,ただ人類のみが自然を越えて,欲求と活動の領域を増大させてきたのである。これが快そのものを追求し不快そのものを避ける人間の二次的欲求なのである。そして二次的欲求の増大と道具の制作や火の使用,呪術的行動の発生は,言葉の使用と深く結びついている。

<言語的欲求>
 基本的欲求に含まれる安全保持や自己表出の欲求は,人間においては言語を通じておこなわれる場合が多くなる。まず好奇心は,多様で危険を伴う環境の探索の動因となって,常に安全の確保を図ろうとするが,それらの探索的な行動様式の獲得(学習)は,基本的欲求として高等動物に生得的に備わっている。人間はこのような探索を言語において行う。
 すなわち環境(対象)の認知・区別(何がどのようにあるか)とその音声言語化(乳幼児における言語の習得)は,生得的な人間の能力であり,かつ欲求である。正常に発達する子どもが,1歳半ぐらいに,親密な言語的社会環境のなかで「語彙の爆発的増加」期を迎えるのはこのような欲求による。
 対象を区別し音声言語化することは,個体と種族の生存に極めて有利に作用する。それゆえこの言語的欲求は一度獲得されれば,種族共同体によって生得的に強化され必要に応じて変化発展する。言語は情報を整理し再構成し伝達し記憶する手段である。
 人間の生存に有利に作用するがゆえに,言語的な問題の生起(例えば,呪いの言葉や困難な課題)は苦痛となり,その解決(呪文の解消や課題の解決)は快楽を誘う。言語こそ人間の二次的欲求の源泉であり人間の本質をなすものである。この論文では,人間が言語によって規定されることとその意味について次章以降に論じられる。

B 欲求概念の重要性 

 欲求という概念は,動物の認識と行動の動機づけないし動因を示す抽象概念であり,高等動物においては,生命の存続と種の保存・繁栄のための行動の基本となる。しかし行動の動因たる欲求の分類については,行動学者,心理学者,神経生理学者等でそれぞれ異なった見解がある。上記の分類は,筆者の独自の見解であるが,その特徴は「個体維持」の欲求に「安全保持」を大きく分類していることである。その意味は,自己表出的な思考・行動を重視する傾向のある西洋的心理学に対する批判的立場の表明である。
 例えば,ヘーゲルの弁証法的発展の思考方法,マルクスの生産・再生産を生命活動の根底とする思考方法,またスキナーの徹底的行動主義における有機体の内的欲求や情意よりも環境に対する行動の結果を重視する思考態度は,自己表出的思考や行動の代表である。彼らには,「何のための思考か」「何のための生産か」「何のための行動か」の問題意識がないか極めて不十分である(この点は前著で批判した)。またフロイトの欲動論における自己保存には摂食はあるが、安全保持はない。快を求め不快を避ける快楽原則は,もっぱら自己や対象に対する自己対象的行動に限定される。
 彼らは人間の発展的活動とその結果を,決定論的ないし独断的に存在確実性の根源に置いており,不確実な人間存在の意味の究明に冷淡である。すなわち絶対者にまかせるか(ヘーゲル),思考の産物としての自然法則(実証的科学主義)で満足する。またフロイトのように究極の自己対象化として「死の本能」を仮定してしまう。 しかしわれわれにとっては,人間の行動は外的対象的行動にとどまらず,環境の中に自らを位置づけ安定させる思考や行動も含まれる。生きることは,生命状態を維持・継続することであり,自然に働きかけ(生産)自然を変えると同時に,自然の変化とともにありながら,自らを安全な状態に位置づけることなのである。

(2)欲求と行動の関係

  @ 欲求は行動の動因である
 内的(動因的――例えば食欲・性欲)外的(誘因的――例えば危険回避)環境の刺激変化によって,欲求がすぐに充足されず,欲求不満(不快・緊張)の状態になると,外界に対する知覚が敏感となり,情動的反応と行動が生起して欲求不満の解消すなわち欲求充足の行動に向かう。通常は,欲求が生起してもすぐには充足されず,欲求不満の状態になる。すると,生命体は緊張の状態となって,刺激に対して敏感となり,情動が起こっていつでも行動可能な状態になる。
 前にあげた例によれば,空腹(不快)になれば食欲が起こり,食糧に対して知覚を働かせ,摂食行動に移るし,危険が迫ればそれに対して生命体の安全をはかる行動をとる。危険がなくても絶えず生命体の置かれている状況を把握しておく(好奇心・警戒心)ことは,食欲の充足(摂食)のためにも,万一の危険回避のためにも生命体を維持するのに必要である。また異性に対する関心が増せば,接触をはかろうとして情動の高揚がみられるし,出産すれば新生児に対する愛着が込み上げ,母性行動が起こってくるのである。
 しかし,欲求が起こっても,すぐに充足されるか,逆に全く充足される可能性がない場合,情動反応は生じずに,思考反応か行動反応が起こることもある。例えば,空腹になっても不快を感じないで,すぐに食事ができ食欲が充たされると,情動は起こらず,行動も最小限で済ますことができる。また,異性に対する欲求が起こっても,相手にその気がなく条件が整わないとき,情動が収まることがある。

A 欲求は本能的行動の原因である
 ここでは,本能とは,生得的で経験に影響されない生まれつきの欲求と刺激受容・反応行動様式をいう。マクドゥーガル(McDougall,W.1908)は,本能的行動を,逃避,闘争,拒否,好奇,求食,所有などに分類した。しかし,より基本的な動因を求めて「なぜ,何のため」の本能的行動なのかを問うと,本能的行動の動因となる欲求の方が,因果関係を明確にする意味でわかりやすくなる。外的反応としての本能的行動は,あくまで結果としての反射ないし反応行動であり,反応であるからにはその動因(内的な反応基準ないし刺激)を明らかにしなければならない。そこで,内的(構造的)な基本的欲求から考察を始めるのである。
 たとえば新生児の吸乳反射は本能的行動であるが,その動因は空腹による本能的ないし基本的な飲食欲である。また動物行動学でいう「刷り込み(imprinting)」は,親への依存という本能的欲求を動因とする本能的行動である。それでは本能的欲求の動因は何かと言えば,生命状態の存続すなわち個体維持と種族の維持に他ならない。これは循環論ではない。すべては生命の内的恒常性の維持存続から論を始めねばならないのである。

3)欲求と情動の関係

@ 欲求が情動の原因である

 快や不快の情動が「一次的」動因であるとする見解があるが,これは正しくない。例えば,食欲の場合,空腹(不快)が,食欲を生じさせることから,欲求(食欲)の動因と考えられやすい。しかし,摂食欲求を充足させる反応のエネルギーとして,空腹の情動(不快ないし緊張)が生じるのであって,逆ではない。
 一見すると,不快すなわち空腹情動が,「一次的」動因であるようにみえるが,そうではなく,ホメオタシスの不均衡(血液中の血糖量などの低下)が内的刺激となって,欲求が生起し,情動としての不快(空腹)反応が起こるのである。これは,行動主義の「C.L.ハル」を検討した時「動因低減の法則」を批判したのと同じである。
 快や不快の情動反応は,欲求充足の動因ではなく充足行動の動力ないしエネルギーなのである。
 そこで情動と身体反応についてのW.ジェームズの見解について批評することは,筆者の見解を理解していただく助けとなる。ジェームズは,身体的変化は刺激を与える事実の知覚の直後に起こり,この変化の起こっているときのこれに対する感じがすなわち情動であると述べている。すなわち「われわれは泣くから悲しい,殴るから怒る,震えるから恐ろしい,ということであって,悲しいから泣き,怒るから殴り,恐ろしいから震えるのではないというのである。」(James,W.1892.邦訳p205)しかし,両者を分離する必要はない。情動は,身体反応そのものであり,具体的行動を起こす体制とエネルギーを供給するものなのである。認知・行動論からみると情動と身体反応の因果関係を述べることは無意味である。
 ここで欲求と快・不快の関係についてまとめておく。
a.欲求の充足は,基本的には生理的物理化学的な過程(エネルギー代謝, 安全維持,種族維持等)である。従って,快・不快の情動は基本的な反 応ではない。情動がなくても欲求は充足されうるのである。習慣的な摂 食行動や,病人が点滴で栄養を補給されれば食欲や快・不快は自覚され ないことが,このことを示している。
b.しかし,動物(とりわけ高等動物)においては,欲求の生起が必ずし も充足を意味せず,充足されなければ不快の情動反応が起こり,それを 避けるために行動が起こる。不快はこの場合摂食行動の二次的要因ない し動力となるが,あくまでも不快は反応結果であって,欲求が一次的原 因ないし動因となっているのである。
c.従って,快・不快などの情動は,欲求充足のための行動を引き起こし 持続させる動力ないしエネルギーとはなるが,欲求そのものではない。 あくまでも欲求は快・不快を生じさせる原因となる抽象概念(個体維持, 種族維持を一次的な動因として,二次的に抽象された概念)なのである。 例えば,性欲の充足は強い快情動を伴うが,その快を起こさせる動因は種族維持である。しかし,人間やチンパンジーの一部においては,快そのものを動因として集団の関係維持に役立っているようである。これは二次的欲求としての動因であって,生命にとっての基本的欲求ではないのである。なぜなら快を求める行動を遮断しても摂食や性交を行っても生命や種族の維持が行われるからである。
 ここで欲求ないし情動(快や不快)を動因ないし動力としない認識や行動があるのではないかという疑問が起こる。確かに下等動物では,このような価値的な概念は擬人的として避けられるのが一般的である。「アメーバーの欲求」とか「昆虫の不快を避ける行動」とはいわないで,これらは生物生理学的ないし反射的興奮的な機械的行動として表現される。しかし高等脊椎動物においては,適応すべき環境の多様さから複雑な認識や行動が必要であり,大脳辺縁系の情動や大脳皮質の感情的反応が関係して行動を決定しているのは明らかである。そのため,高等動物では,中枢神経的判断の基準となるべき「欲求」という概念を自覚的に使用することが,その認識と行動の全体像を理解するのに必要なのである。

A 情動反応の程度

 欲求には強弱があり,その場において緊急性の強い欲求には激しい行動がともなう。そのために情動的な反応が起こる。しかし前にも述べたように,欲求の充足にはすべて情動がともなうとは限らず,例えば,飲食の欲求では習慣的規則的に食事をとっている場合など,欲求は充足されるが情動反応は起こらない場合が多い。もちろん呼吸や休息はすぐに充たしうるものであり,何らの情動反応もおこらない。つまり欲求は常に行動の動因となるが,その行動を強化する必要がある場合にのみ情動反応が生じる。
 たとえば危険や苦痛が迫り,安全保持のための行動が必要であると,恐怖や驚異の情動が起こり視床下部的な変化で,すばやく行動が始まる。また摂食についても,空腹が強ければ何でも食べられそうなものを口に入れようとする。しかし情動が生起しない行動は大脳皮質的知的判断のみの行動で,生理的変化は起こらないのである。(ただこれには異論もあり大脳機能の解明を待つ必要がある。)
 欲求は内外の環境の刺激の違いによって,情動的又は認識的な反応を生起させる。情動的反応の程度は,欲求と刺激の強弱によって決まり,経験的な学習によって多様な反応が起こる。その反応の一部はおそらく大脳皮質において感情として処理され,学習・記憶されるるものと思われる。

(4)欲求重視の思想的意義

 さらにこの欲求重視の視点は,「何のために」という発想を欠く学習理論やゲシュタルト理論等,さらにソクラテス以来の西洋哲学における思考方法(実存哲学,プラグマティズムを含む)を克服するためにも必要である。認識や行動は,単なるS−O−R(刺激ー生体ー反応)でも,認識のゲシュタルトを重視することでもなく,また観念や知識そのものを存在とみなす哲学でもない。どのような学習をするか,何をどのように認識するか,言葉をもつ人間にとって認識とは何かの判断の基準を解明すること,すなわち「何のために」生命が認識し行動するのかを解明することが必要なのである。
 とりわけ「安全保持」の欲求は,西洋思想において重視されるような「自己対象化的思考や行動」の動因ではないところが強調されねばならない。「安全保持」は,自然や社会環境との一体化(適応・調和・均衡)を含むものであり,自己を表現・主張すること,すなわち自己対象化的思考や行動とは異なり,自然や社会の中に自己を位置づけること,そのために「知識」がその役割をになうことができることは,今までの欲求や本能の分析ではあまり重視されなかった。これは自己対象化的な認識・思考や行動に偏りがちな西洋思想の批判を目指す本論文の基本的視点,すなわち「知識」とは何か,とりわけ「何のために」知識(認識の結果)があるのかを究明すること(認識論――認識・知識・思想の役割の探究)につながるのである。 人間における知識の意義,つまり西洋思想では認識が,形式論理にせよ弁証法論理にせよ,J.デューイの探究の論理学(Dewey,J. 1938)を除いて,自己の理論を相対化しえない一定の価値にもとづく対象の知的支配・合理化すなわち自己対象化的理論化であった。これは,対象化し知識化したもの,考えられたものを確実な存在と見なす西洋的思考の限界である(拙著『西洋思想批判試論』参照)。知識は対象支配のはたらきをもつだけでなく,言語世界の中での主体の言語的安定化を目指すものでもあること――そしてそのような知識の限界と効用を知ることが求められているのである。

<知的欲求とは>

 動物は常に,環境の変化に対し危険を回避し,食糧を求め,自己の子孫の繁栄を図らねばならない。そのための自然的社会的環境の状況を掌握しておき,環境の変化と欲求の充足に対応することは,動物にとっての基本的な認識の課題である。
 動物の持つ感覚器官は,生存のために環境の変化を的確に把握(知覚)する手段であり,それによっていかに反応するか,行動を選択・判断しなければならない。欲求の分類一覧にあげた「知的欲求」ないし「好奇心」は環境の不断の変化に対応する動物のそのような認知・行動様式の基本になるものである。
 そしてこの知的欲求を充足させる認知の様式は,環境の変化(刺激)にどのように対応(反応)するかを示すものであり,また言語表現の形式(文法)に直接関係を持っているのである。
 すなわち,1)環境の状態を認知するのは,その動物の生存に関わる環境(刺激)がどのようなものであるか(興味・関心)ということであり,2)多様な環境の変化にどう対応するのか(選択・判断)である。
 まず前者の環境の状況は,刺激対象の確定(例えばベルベットモンキーにとって,動く動物がネズミであるか,毒ヘビであるのか,また他の何かの特定)であり,その対象を認知し,記憶することである。次いで,そのとき危険な対象であるのか,安全であるのか,食糧になるのかの判断は,他の仲間の記憶や自己の経験が学習記憶され,次回の判断に有効となる。つまり,環境刺激の中から,特定の刺激を識別・選択(whatwhich)し,その刺激対象の状態がどのようなものであるか(how)が,過去の環境情報(記憶)に即して判別されねばならない。と同時に,その刺激が危険か有益かの判断が示され,避難か,摂食行動(反応)かが導かれるのである。(例えば,ベルベットモンキーは,特定のヘビを識別し,叫び声で安全か否かを仲間に知らせることができる。)
 高等な動物でも,環境の変化(刺激)に対する認知・反応の過程は,通常即時的に行われるが,変化刺激が判断のつきにくい場合,知的欲求は増大する。とりわけ動物が幼い場合は,刺激に対する好奇心が旺盛であり,人間がみるとかわいい動作として映る。また,獲物を獲得する行動は,相手の行動に応じた複雑な知的判断力を必要とする。風下にいて気づかれないこと,逃げ道を防ぐこと,これらは日常的な認知的訓練を必要とする。
 人間に最も近いチンパンジーは,環境の状況を探る態度をとり,ケーラーの実験にみられるようなバナナを取るすぐれた洞察力を示す場合がある。そして,言語をもつ人間はどうか。これは言語論でも触れるが,人間の知的欲求の特徴は,環境(刺激対象だけでなく,環境に対する内的イメージや想像物(観念)の言語化によって,知的欲求の領域は飛躍的に拡大する。人間は乳幼児期から死に到るまで常に新しい言語環境を経験する。とりわけ,乳幼児期の知的欲求は,人間としての生存の基本となり,自然環境の基礎の上に言語的観念的世界を構築していく。
 言語表現の様式(文法)は,他の動物の認知様式すなわち対象(what)とその状態(how)の確認,そして,対象に対する主体の判断が含まれる。対象とその状態の確認は,主体の判断のため,そして他者への伝達のために,いかに的確であるかが判断の基準になる。ここに,指示対象たる名詞を主語とし,その状態を表現する動詞,形容詞,助詞助動詞などの品詞(語彙形式)が生ずる契機がある。
 さらに,人間において,対象に対する人間的問題意識としての,「なぜ(why」その対象が現象するのか,つまり,因果関係に対する疑問が生じる。また対象の時間・空間的配置などの認識の形式については,後編の「認識論」の項でカントを論じながら詳述をしたい。
 いずれにせよ,知的欲求(興味・関心,問題意識)が,刺激から反応への過程の遅延化すなわち中枢過程,思考過程の増大をもたらした。この中枢過程の中に,「言語」が加わることによって,「伝達・思考・記憶」という人間の生存能力を高める機能が進化してくるのである。つまり,知的欲求が,正確な意図の伝達を要請し,音声の分節化を促進させたことが言語の起源であり,人間において最大に展開することになるのである。パヴロフはこのことを,次のように述べている。
  “動物にこの反応(探索反射)がないと,その生命はいわばつねに危機一髪の状態となる。人間ではこの反射は極度に広範囲に達し,科学の基礎となる知識を愛する心に至っている。それは外界に対する最高度で無限の見当づけを与え約束するものである。”                     (パブロフИ邦訳1975 P33)