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6 西洋的思考様式と再帰形
再帰動詞は、西洋語の他動詞中心主義に由来している。他動詞は目的語をとるが、
この目的語が、主語となる動作主と同一である場合(例えば、ドイツ語でEr
setzt sich
auf die Bank. 彼は自分をベンチに座らせる→彼はベンチに座る
)受動的自動詞とな
るのである。これは受動態にはなっていないが、動作の目的語自体が主体によって目
的とされるので受動的な扱いを受けているのである。そこで古代印欧語では、能動と
受動の中間的表現として中動(中間)態となったのである。
ここで重要な点は、なぜ動作主(主語)が、自らを目的語として対象化したかという点であ
る。我々の立場からは、西洋語の表現様式(それは同時に思考様式でもある)の特徴
は、主体を対象化ないし目的化することによって、主体自体の存在を客体化し、そ
れによって主体自体の思考や判断(の自覚)を軽視することにつながっているという
ことである。
「主体が主体自身を操作する(自分が自分をベンチに座らせる)」とはどういうことなの
か。なぜ「主体が動作する(自分はベンチに座る)」という自動詞で表現しなかったのか。
単純に考える人は、動作主は主語として存在している、というかもしれない。しかし主体
は主語と目的語に分裂しているのである。この点が最も重要である。主体は客体化さ
れることによって、実は統一性を奪われているのである。表現の対象となって
いる人間を、主体と客体に分断することによって、主体自体の個体性を放棄している
のである。これは、西洋的思考が、対象的(客観的)自然を対象化するのと同じように、
主体自身をも対象化するという西洋的思考の伝統(慣用)に由来している。
この背景としては二つのことが考えられる。一つは、自然と対峙することが、自然と調
和するのではなく、絶対的な(と考えられた)第三者(神々)を想定し、それ(It,Es)に判断させ
ることが、主体自身をも対象化することになったということ。主体自身が判断の主体である
にもかかわらず、またそれゆえに、自然の構成員として自然的対象に責任を持たせなけ
ればならないにも関わらず、主体自身の存在を第三者によって合理化するという思考様
式が、他動詞と再帰代名詞による自動詞的表現を可能にしたのである。
他の一つは、
一つめの要因と深く結びついているが、アリストテレスが『形而上学』で指摘する「対象をそ
れ自体として把握する」知的認識態度である。ギリシア的思考態度は人間の価値判断
の根源となる情動や感情をも対象化する。これはホメロスの叙事詩に頻出する言語表
現であり、愛や怒りなどの激情を人間の判断から分離し、それらの感情を主体とする精神
的態度である。これら二つの精神的態度は、科学的精神の源泉ではあるが、同時に人間
の個体的全体性としての主体性を崩壊させる源泉でもある。このような精神的態度によって
人間主体を分断的に言語化(表現)することは、絶対的な神の存在を前提としてのみ
可能であるが、神の存在(古代においては神とは言語そのものでもある)を喪失するとき
人間存在の依拠する前提をも喪失するのである。 ニーチェはこのことを最もよく見抜くこ
とができた。彼は、神亡き後の「超人」を創造しようとしたが、普遍的人間としての主体を統
一することはできなかった。彼は、人間存在の悲劇性を自ら実証することになった。
ハイデッガーはどうしたのか。人間存在を時間的有限性によって規定しようとした。しかし
規定する主体(生命)の確立を見通せぬまま失敗した。言語表現の本質を見抜けぬままに、
西洋的思考方法の根拠を確立しようとしたためである。言語表現すなわち思考と判断の主体
は人間自身である。人間は、言語的に対象化(=再帰化)することによっては把握しきれない存
在なのである。