7 カントの認識論批判
  「カントの思想の偉大さを把握することは,実存みずからの根本的決意を前提とする。」(ヤスパース,K.)といわれるように,カントの後の個性的な哲学者たちは,いずれもカント思想との格闘の中からみずからの哲学を構築していった。しかし20世紀の現象学や実存哲学,さらにアメリカのプラグマティズムに至るまで彼の理論を克服することはできなかった。カントを克服することは,西洋哲学の伝統そのものを克服することであるからである。西洋的実存を克服することは,哲学の根源である問いそのものの意味を問い直すことが必要だからである。そして問いの意味は問いそのものが言語であり,その言語の解明,そのための言語の相対化なしにありえない。それはヤスパースが考える以上の「実存みずからの根本的決意」,すなわち東洋的思考様式の洗礼が必要なのである。
 カントはその哲学の完成以来今日にいたるまで、多くの思想家から批判されてきた。しかし21世紀の今日に至るまで克服されることはなかった。なぜか。それは彼の哲学体系が、西洋的な認識論に根源的な起源をもっているからである。そしてこの認識論は西洋的言語(思考)様式にもとづいている。言語論の革新によって始めて西洋思想の中にカントを位置づけ、批判し、克服することが可能なのである。
  「ひとたび『[純粋理性]批判』の味わいを知った人は,およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する。前まえは仕方なしにかかる饒舌をもって満足していたかの理性は,自分を楽しませるものを求めはしたものの,ほかにこれはと思うものを見いだすことができなかったからである。」(カント,I.篠田英雄訳『プロレゴメナ』岩波書店 )
 だがわれわれの立場は,ひとたび言語論の解明を通じて認識の形式の根拠を知った人は,およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する,ということができる。西洋思想のみならず,およそ一切の過去の認識論は,自己省察ないし心理分析を通じて得た饒舌(もちろんそれらは今日においても価値を失うものではないが)をもって満足していた。カントの認識批判はその中でも最も精緻で体系的なものであった。しかし,認識の形式の根拠は,生命の生存様式すなわち認知・行動様式から,神経の活動様式,さらに言語の人間的役割の解明を通じて確立されるべきものである。
 カント哲学はアリストテレス哲学以来の西洋哲学の伝統の「転換」すなわち「コペルニクス的転換」をなしたといわれる。しかし西洋的認識様式が生み出した今日の科学的知識の常識は,逆に20世紀の現象学に至る西洋哲学の認識論の伝統そのものの大転換を必要としている。そしてその大転換なしに今日の物質文明の危機を克服することはできない。西洋文明が作り出した科学技術は、新たな認識と価値にもとづく精神文化の創造によることなしに人類文明の崩壊をくいとめることはできない。

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付 論

カント批判概論

「カントの思想の偉大さを把握することは,実存みずからの根本的決意を前提とする。」(ヤスパース,K.『カント』重田英世訳 理想社1962 p390)といわれるように,カントの後の個性的な哲学者たちは,いずれもカント思想との格闘の中からみずからの哲学を構築していった。しかし20世紀の現象学や実存哲学,さらにアメリカのプラグマティズムに至るまで彼の理論を克服することはできなかった。カントを克服することは,西洋哲学の伝統そのものを克服することであるからである。西洋的実存を克服することは,哲学の根源である問いそのものの意味を問い直すことが必要だからである。そして問いの意味は、問いそのものが生命(動物)の生存様式につながり、人間の本質を規定する言語的な問──何が(what)、どのように(how)あるか──に収斂するのである。その言語の解明は、西洋的思考の限界を超えて、人間存在そのものを規定する言語の相対化なしにありえない。それはヤスパースが考える以上の「実存みずからの根本的決意」,すなわち東洋的思考様式による人間存在への問い直しが必要なのである。

 カントはその哲学の完成以来今日にいたるまで、多くの思想家から批判されてきた。しかし21世紀の今日に至るまで克服されることはなかった。なぜか。それは彼の哲学体系が、西洋的な認識論に根源的な起源をもっているからである。そしてこの認識論は西洋的言語(思考)様式にもとづいており、「言語論の革新」によって始めて西洋思想の中にカントを位置づけ、批判し、克服することが可能なのである。

「ひとたび『[純粋理性]批判』の味わいを知った人は,およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する,前まえは仕方なしにかかる饒舌をもって満足していた,かの理性は自分を楽しませるものを求めはしたものの,ほかにこれはと思うものを見いだすことができなかったからである。」(カント,I.篠田英雄訳『プロレゴメナ』岩波書店 1977 p242)

 だがわれわれの立場は,ひとたび言語の解明を通じて認識の形式の根拠を知った人は,およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する,ということができる。西洋思想のみならず,およそ一切の過去の認識論は,自己省察ないし心理分析を通じて得た饒舌(もちろんそれらは今日においても価値を失うものばかりではないが)をもって満足していた。カントの認識批判はその中でも最も精緻で体系的なものであった。しかし,認識の形式の根拠は,生命の生存様式すなわち認知・行動様式から,神経の活動様式,さらに言語の人間的役割の解明を通じて確立されるべきものである。

 カント哲学はアリストテレス哲学以来の西洋哲学の伝統の「転換」すなわち「コペルニクス的転換」をなしたといわれる。しかし西洋的認識様式が生み出した今日の科学的知識の常識は,逆に20世紀の現象学に至る西洋哲学の認識論の伝統そのものの大転換を必要としている。

 

  批判の立場――生物学的認識論

 カントは,人間悟性に関するロックの自然学的方法では,理性的認識についての確実性は得られないと感じた。彼は先験的演繹による悟性概念(カテゴリー)の構築を考えたのである。これは悟性の活動過程の結果を思考規則とするもので,この規則によって認識(経験)が制約されるとするのである。しかし今や経験的自然科学の蓄積がカント的狭量を越え,西洋的思考の制約を克服することができるのである。

 われわれの批判の立場は,すでに述べているように,生物学的認識論ともいえる立場である。生物学的認識論の立場は,人間は自己の認識能力自体を自然科学の対象としてその形式や法則を確立することができるというものである。まず対象化する自己(考える自己)を論理的に確立するのではなく,自己を対象化してから<考える自己>を分析する。つまり人間が考えること自体,言葉を手段として「考えること自体」を自然科学的に究明するのである。カントは思考の形式を究明したが,思考や判断・推理そのものの機能と人間的言語的意味を究明することができなかった。
 人間の判断・推理・思考は,対象主語を定義する分析的(定義的)判断と,対象主語がどのようにあるか(状態,位置),他の対象との関係はどうか(関係),なぜそのようにあるか(因果),という総合的(説明的)判断があるだけでなく,人間主体がどのように行動・反応を判断・決定するかという思考形式がある。西洋哲学において,対象に対する判断・推理・思考だけがなぜ論理学の対象となり,人間の行動の選択・決定が論理として扱われなかったか。それは認識された結果としての対象主語の在り方(主語と述語)のみが存在であるという非主体的哲学的伝統から生じたのである。しかし,判断思考は対象それ自体に対する知識を得るためにばかりでなく,より基本的には自らの行動を決定するために、人間的・言語的に判断・思考が発達したのである。つまりは、ニーチェが鋭く指摘したように「何のために」という問、西洋的人間に許されなかった問が欠けていたのである。

 カントにおける悟性的認識の形式としての「純粋悟性概念(カテゴリー)」の確立は,生物学的解明によって初めてその限界を克服することができる。すなわち質や量の規定については対象そのものの区別において,また因果関係については対象の運動がどのようにあるか,なぜそのようになるのかという疑問とその解明の形式において,つまりは結果として主語述語の関係として。前者においては,客観的基準(空間・時間,熱,量,色,速度,)に基づいたり,主観的基準(美醜,好悪)に基づいたりする。また後者については,「梅雨前線によって雨が降る」「梅雨前線が雨を降らす」は因果関係の表現である。

 カントは認識を感性的直観と概念的思考によって成立すると考える。しかし思考は直観の中にも含まれ単に感性による受容的なものではない。つまり思考は感性的直観的思考と概念的言語的思考に分けることができる。このような見解は生物学的な認識の解明から証明できることである。高等動物はもちろん下等動物にすら対象と行動の選択判断をしていることが実証的事実であるからである。人間の概念的思考だけが思考の名に値するというのは人間の思い上がりというほかない。言語的論理的思考は確かに人間に特有のものであるが,人間の直観的認識が言語(概念)的形式の制約を受けないと考えるカントの立場は、生物学的知識の時代的制約以上に、人間理解の西洋的限界を表明するもの,ないし人間性そのものに対する無理解ないし独断的偏見である。カントによって,ア・プリオリとされた概念(空間時間や純粋悟性概念)も経験的に説明しうる。それは生物学的認識論によって考え説明しうる因果関係や,時間空間(長短、大小、遅速等)、重力(質量、軽重、遅速等)、電磁波(明暗、寒暖、色彩)などに対する疑問の形式でありその解明と言語形式(数式図形を含む)による表現、法則化である。

 さてそこでまず、カント認識論批判の前提としての生物学的認識論ないし言語論的認識論の原則を以下に整理しておく。

@ 認識の起源ないし基本は,自己(主体)を環境ないし世界にどう位置づけるかということである。そこから動物主体にとって環境と世界そのものの的確な認識理解の必要性が生じる。

A 認識は動物(細胞)の認知・行動様式である刺激反応(刺激の受容と判断・反応)様式に基礎づけられている。すなわち認識の生得的形式は,対象刺激の認知の形式であり,対象(何が)とその状態(どのようにあるか),そしてそれらに対してどのように行動するかの認識と判断の様式である。この認識の様式は下等動物から高等動物に至るまで基本的に変わらない。

B 人間における上記の認識様式は言語によって規定されることに特質があり,その思考判断想像の結果は,社会的な影響を受けつつ個人的に大脳と言語を中心とする記憶の中に知識として構成され体系化される。

C 言語的知識は,社会的意味をもち,諸個人の経験において実現する。つまり言語的知識は社会的に形成され、それをどのように解釈し実現するかは,個人の経験に左右される。

D 知識を拡大し確実にする論理構成は,対象への疑問(問題意識)の形式(何が,どのようにあるか,何と何がどのような関係にあるか等)によって成立し,文法としの社会的承認を得て秩序化される。

E 疑問の解明は判断・思考であり,判断には主観的判断,客観的判断そして創造的判断がある。

F 主観的判断は,主体の個別的判断基準に基づいて行われ,錯覚や偏見、先入見によって誤る場合がある。主観的判断が社会的に認められ権威をもつと,一つの社会的価値基準が一般化し特定の価値や文化、制度等が形成される。

G 客観的判断は,時間や空間、重さや長さ,明暗・寒暖・強弱・臭いなど判断の基準を物理化学的対象そのものに置き,数学的な測定によってその判断を社会的に認められる確実なものとして、自然科学的知識の発展を推進した。この知識を応用したのが科学技術である。

H 創造的判断は,判断過程における分析・選択・総合という思考過程によって産出される(宗教・芸術や知識・技術等)。判断の過程とその結果は言語とは限らない(数式、図形を含む)が,通常は言語による再構成の過程を含む。つまり一般的に判断は,対象の定義(何であるか)と諸対象の運動状態や関係を示し,命題ないし文として表現する(ことが可能である)。

I カントがア・プリオリな認識形式とみなした空間・時間そして純粋悟性概念は,上記の前提を通じて実証的に解明されなければならない。

J 判断における「論理」とは言語構成であり思考の様式である。

<補論1>

 カントは認識論ないし論理学を,自然科学の体系全体に位置づけようとした。その点からいうと認識論は生物的根拠だけでなく物理学的根拠も必要となる。すなわち,カントのカテゴリーにおける因果性の認識の根源はいかなる根拠をもつかということである。因果性は物質の存在形態すなわちエネルギーの変化・運動形態は,感性的認識の根源であり,原因と結果の認識はそれらの自然現象を言語的に表現したものである。カテゴリーはその意味で物理学的・生物学的根拠をもっている。しかしその根拠は純粋悟性概念ないし悟性の形式なのではなく言語を媒介した疑問とその解決的表現様式なのである。悟性の本質は言語を媒介にした疑問の解明すなわち思考の様式であり,そこに論理が存在するのである。

<補論2>

 生物学的認識論を前提としたカント解釈をおこなおうとした生物学者のユクスキュルやローレンツ,ピアジェはカントの認識論に対して親近感をもっている。彼らはいずれも認識主体の先験的様式の存在(本能)を前提とするからである。ユクスキュルは次のように述べている。

「あらゆる主体は,ただ主観的現実のみが存在し,そして環境世界のみが主観的現実である世界に生きている。主観的現実の存在を疑うものは,自分自身の環境世界の基礎を認識していない。」 (ユクスキュル,J.『生物から見た世界』日高,野田訳 思索社1973 p123)

 確かにこのこと自体は問題はないが,彼らに欠けているのは,その生物に特定の環境世界が限定されてしまって,限定された世界を越える適応能力やその限定をこえる判断能力やその可能性を捨象する可能性を見失う危険性があるということである。例えばいつ来るとも限らない哺乳動物を待ち続ける樹上のダニにとっての環境世界は食糧についてだけの環境世界であって,自らの安全維持については認識されていない。認識の限界は,生物学者の認識の限界を示しているともいえる。つまり,彼にとって哺乳動物のもつ酪酸の臭いだけがダニにとっての環境ではないということ,生存に直接係わる刺激(酪酸の臭い)のみを環境という概念でくくるのは誤っているということである。酪酸は多様な刺激のうちの最も重要な刺激なのであり,環境の一部にすぎない。生得的な生物の環境や刺激は特定されるけれども,特定された結果だけを「環境世界(Umwelt)」として区別するのは環境概念や生物の不断の認識作用や判断過程を不用意に限定してしまい,人間のみを特殊的に無限の能力をもつものとしてしまう危険性を有している。正しくは生物はその主に特定の適応的な環境があるのであり,その環境の中で特定の生存様式をもち,特定の刺激を適応的に認識し判断して行動するのである。

ローレンツは,人間の認識装置が発生的系統性を持ち、生得的なものであることを強調する立場から、カントの観念論的性格を克服しようとしている。しかし、人間の言語的認識(彼は「概念的思考」と表現している)の創造性(積極的限定性─神や天国、文明を創るような)を、西洋的思考様式に阻まれて見逃すことになる。ローレンツは、認識論の革新を図ろうとした論文『鏡の背面』において、デカルトを含む観念論を批判する前提として次のように述べている。

 「人間が省察する生物として定義されることは間違ってはいない。人間そのものが現実を反映する鏡であるという認識は、当然にも人間の他のすべての認識機能に徹底的な遡及効果を及ぼした。これらの認識はことごとく、より高い統合水準の上に置かれた。すべての科学の一つの前提である客観化も、この認識によってこそ可能となるのである。」(ローレンツ,K.『鏡の背面』谷口茂訳 1974 思索社 p36)

 この引用において、彼は西洋において科学的認識が発展した認識論的背景を述べているが、人間の認識装置が「現実を反映する鏡」であるという西洋的認識論の限界を超えていない。人間にとっての対象(世界)は、単に現実世界を「反映」したものではなく、人間の欲求や関心にもとづいて主体的に判断・選択し、世界の中に自らを位置づけ合理化するべき対象なのである。従って、その「鏡の背面」考察したとしても、鏡自体の認識目的を考察しなければ、単なる自然科学的な認識と文明に対する警鐘しか見いだせないのである。 さらに付言するなら、彼はカントやチョムスキーと同じように、概念的思考と言葉の関係を統一することができなかった。概念的思考は、人間が言葉を獲得し、対象の直接的刺激(情報)を言葉と結合して、頭脳内で独立に操作できるようになって始めて可能になったのである。