8 現象学の誤りとは
現象学的方法の本領は,意識の直接与件をその与えられるがままに記述するところにあるが,現象学的方法の礼賛者は,「与えられるがままに記述すること」自体の意味を,現象学的に解明することができない。人間において記述されたあらゆる与件は,人間的言語的認識の区別・選択・判断の結果である。したがって,本来現象学は「記述すること」すなわち「認識そのもの」を現象学の「対象」にすべきであるにもかかわらず,人間的認識において重要な役割を果たす言語を対象化して,記述や認識と関連づけることができない。これこそ西洋的限界であり現象学を破綻へと導いたものである。現象学的方法のつまづきの石は,「言語」である。
現象学における事象(Sache)のありのままの「記述」とは,事象に対する疑問の解明であり特定の対象への問題意識を前提としている。つまり事象への問題意識(疑問)があってはじめてその対象への認識が成立し,記述が始まるのである。従って,事象をありのままに記述しようとする前に,まずもって記述することそのものの意味が究明されなければならない。つまり「記述すること」それ自体を事象として記述する必要がある。まず必要なのは,自己意識の中で自己を対象として記述するのではなく,「記述すること」それ自体,すなわち問題意識の解明の意味そのものを記述するのである。
またそれはフッサールのいう「生活世界(Lebenswelt)」でなく,未来に向かって生存し続ける「生命」そのものを対象とするものでなければならない。「生活」に「世界」を付けることは生命を認識の主体から隔離し,世界の対象化を忌避することにつながる。さしあたって,生命は主体であり,世界は生命にとっての客体すなわち環境である。ただこのことは人間の言語による認識と思考の能力を考察する場合のことであって,生命と環境を含む全体を「世界」と呼ぶことは一向に差し支えない。
フッサールにおいては2つの根本的誤りがある。1つは「判断中止(エポケー)」という判断を,人間の思考の産物と認識しないで,自己の「思考の結果」として絶対視していること,2つには自己の現象学的思考を個人的経験に基づくものでないと独断的に考えていることである。
前者については,人間の判断や思考がその生物学的起源においては生存のためにおこなわれており,いかに彼が「判断中止」と判断しても,人間は判断・思考から超越できるものではなく,それゆえにまず,思考すべきことは,生物にとっての思考,人間にとっての言語的思考を解明する必要があるということである。
後者については現象学の記述は,「経験的個人の体験または体験的部類に係わるものではない。なぜなら個人については・・・・・私や他人の体験については,現象学は何ら関知せず,何も憶測しないからである。」(『論理学研究』第二版の序言)としている。しかし,言語的思考や判断は,言語の意味・内容が究極において個人の経験に支配される以上,経験的個人(例えばフッサールその人)の体験に関係する。彼が現象学的思考をするとき,言語を使用しないなら話は別であるが,人間的思考とは言語的思考であるからそのようなことはありえない。
現象学の難解さは、自らは「事象そのものへ」と言いあるがままに事象を記述しようといいながら、実際には記述することの意味を解明せず(カントの認識論を越えることができない)、主観的な世界(「判断中止」といいながら主観的判断を行う)の中に閉じこもり、結論を回避するということにある。ハイデガーの言語論(解説はこちら)はその典型である。現象学の克服すなわち西洋哲学の限界の解明なくして時代の閉塞状況を打破することはできない。多様な文化や思想とそれを創造した様々の文明の共生共存は、人類的共通性の基盤のもとにのみ花開くのである。